親鸞
三木清



人間性の自覚


 親鸞の思想は深い体験によって滲透されている。これは彼のすべての著作について、『正信偈』や『和讃』のごとき一種の韻文、また仮名で書かれたもろもろの散文のみでなく、特に彼の主著『教行信証』についても言われ得ることである。『教行信証』はまことに不思議な書である。それはおもに経典や論釈の引用から成っている。しかもこれらの章句があたかも親鸞自身の文章であるかのごとく響いてくるのである。いわゆる自釈の文のみでなく、引用の文もまたそのまま彼の体験を語っている。『教行信証』全篇の大部分を占めるこれらの引文は、単に自己の教えの典拠を明らかにするために挙げられたのではなく、むしろ自己の思想と体験とを表現するために借りてこられたのであるとすれば、その引文の読み方、文字の加減などが原典の意味に拘泥こうでいすることなく、親鸞独自のものを示しているのは当然のことであろう。『教行信証』は思索と体験とが渾然として一体をなした稀有の書である。それはその根柢に深く抒情を湛えた芸術作品でさえある。実に親鸞のどの著述に接しても我々をまず打つものはその抒情の不思議な魅力であり、そしてこれは彼の豊かな体験の深みから溢れ出たものにほかならない。

 かようにしてしばしばなされるように、彼の教えを体験の宗教として特色づけることは正しいであろう。しかしその意味は厳密に規定されることが必要である。宗教を単に体験と解することは宗教から本質的に宗教的なものを除いて「美的なもの」にしてしまう危険を有している。実際、親鸞の教えにおいて体験の意義を強調することからそれを単に「美的なもの」にしてしまっている例は決してすくなくはないのである。親鸞はすぐれて宗教的人間であった、彼の体験もまたもとより本質的に宗教的である、ところで宗教的体験の特色は「内面性」にある。親鸞の体験の深さはその内面性の深さである。彼の抒情の深さというものもかくのごとき内面性の深さにほかならない。


人間 愚禿の心


 親鸞の思想の特色は、仏教を人間的にしたところにあるというようにしばしば考えられている。この見方は正しいであろう、しかしその意味は十分に明確に規定されることを要するのである。

 親鸞の文章を読んで深い感銘を受けることは、人間的な情味の極めて豊かなことである。そこには人格的な体験が満ち溢れている。経典や論釈からの引用の一々に至るまで、ことごとく自己の体験によって裏打ちされているのである。親鸞はつねに生の現実の上に立ち、体験を重んじた。そこには知的なものよりも情的なものが深く湛えられている。彼の思想を人間的といい得るのは、これによるであろう。生への接近、かかる現実性、肉体性とさえいい得るものが彼の思想の著しい特色をなしている。しかしながら、このことから親鸞の宗教を単に「体験の宗教」と考えることは誤りである。宗教を単に体験のことと考えることは、宗教を主観化してしまうことである。宗教は単なる体験の問題ではなく、真理の問題である。〔欄外 Emil Brunner, Erlebnis, Erkenntnis und Glaube, 1923.〕真理は単に人間的なもの、主観的なもの、心理的なものでなく、あくまでも客観的なもの、超越的なもの、論理的なものでなければならぬ。もし宗教が単に体験に属するならば、それは単なる感情、いな単なる感傷に属することになるであろう。かくして宗教は真に宗教的なものを失って、単に美的なもの、文芸的なものと同じになる。親鸞の教えがともすればかくのごとき方向に誤解され易いことに対して我々は厳に警戒しなければならない。もとより親鸞の思想の特色が体験的であること、人間的であること、現実的であることに存することは争われない。そこに我々は彼の宗教における極めて深い「内面性」を見出すのである。しかし内面性とは何であるか。超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的であるところに、真の内面性は存するのである。内面性とは空虚な主観性ではなく、かえって最も客観的な肉体的ともいい得る充実である。

五濁悪世の衆生の

選択本願信ずれば

不可称不可説不可思議の

功徳は行者の身にみてり

あるいは、

弥陀のちかひのゆへなれば

不可称不可説不可思議の

功徳はわきてしらねども

信ずるわがみにみちみてり

という二種の和讃はこの趣を現わすであろう。

 親鸞の文章には到るところ懺悔さんげがある。同時にそこには到るところ讃歎がある。懺悔と讃歎と、讃歎と懺悔と、つねに相応じている。自己の告白、懺悔は内面性のしるしである。しかしながら単なる懺悔、讃歎の伴わない懺悔は真の懺悔ではない。懺悔は讃歎に移り、讃歎は懺悔に移る、そこに宗教的内面性がある。親鸞はすぐれて宗教的な人間であった。懺悔と讃歎とは宗教の両面の表現である。〔欄外 Augustinus〕親鸞の文章からただ懺悔に属するもののみを取り出して、彼の宗教の人間的であることを論ずる者は、彼の思想を単に美的なもの、文芸的なものにしてしまうことであって、いまだ宗教的人間のいかなるものであるかを知らざるものといわねばならぬ。親鸞における人間の問題はどこまでも宗教的人間の問題、宗教的人間の存在の仕方の問題でなければならぬ。懺悔は単なる反省から生ずるものではない。自己の反省から生ずるものは、それが極めて真面目な道徳的反省であっても、後悔というものに過ぎず、後悔と懺悔とは別のものである。〔欄外「後悔はそれぞれの行為、懺悔は全存在にかかわる。」〕後悔はわれの立場においてなされるものであり、後悔する者にはなおわれの力に対する信頼がある。懺悔はかくのごときわれを去るところに成立する。われはわれを去って、絶対的なものに任せきる。そこに発せられる言葉はもはやわれが発するのではない。自己は語る者ではなくてむしろ聞く者である。聞き得るためには己れを空しくしなければならぬ。かくして語られる言葉はまことを得る。およそ懺悔はまことの心の流露であるべきはずである。しかるにまことの心になるということはいかに困難であるか。自己を懺悔する言葉のうちにいかに容易に他に対してかえって自己を誇示する心が忍び込み、またいかに容易に罪に対してかえって自己を甘やかす心が潜み入ることであるか。

浄土真宗に帰すれども

真実の心はありがたし

虚仮こけ不実のわが身にて

清浄の心もさらになし

と親鸞は悲歎述懐するである。煩悩の具わらざることのない自己がいかにして自己の真実を語り得るのであるか。自己が自己を語ろうとすることそのことがすでに一つの煩悩ではないか。親鸞が全生命を投げ込んで求めたものは実にこのただ一つの極めて単純なこと、すなわち真実心を得るということ、まごころに徹するということであった。信仰というものもこれ以外にないのである。煩悩において欠くることのない自己が真実の心になるということは、他者の真実の心が自己に届くからでなければならぬ。そのとき自己の真実は顕わになる。われが自己の現実を語るのではなく、現実そのものが自己を語るのである。ここに知られる真実は冷い、単に客観的な真理ではない。この真実にはまごころが通っている。まごころは理性ではなくむしろ情のことである。我々は人間的真理を二と二との和は四であるという数学的真理を知ると同じように知ろうとするのではなく、またそれはそのように知られるものでもない。

 親鸞の文章を読んでむしろ奇異に感じられることは、無常について述べることが少ないということである。これはとかく感傷的な宗教のように考えられている彼の思想においてむしろ奇異の感を懐かせることであるが、しかしこれが事実であり、また真実である。そしてそこに彼の思想の特殊な現実主義の特色が見出されるのである。

 もとより諸行無常は現実である。そしてそれは仏教の出発点である。この世における何物も常住のものはない。すべては生成し消滅し変化する。かくして我々の頼みとすべき何物もないのである。生老病死は無常なる人生における現実である。かかる無常の体験が釈迦の出世間の動機であった。無常はさしあたり仏教の説ではなくて世界の現実である。常ないものを常あるもののごとく思い、頼むべからざるものを頼みとするところに、人生における種々の苦悩は生ずる。無常は現実であると知りながら、その認識を徹底させることのできないところに人間の迷いがあり、苦しみがあるのである。かくして仏教は諸行無常の自然的な感覚を諸行無常の徹底した智慧にまで徹底自覚せしめようとするのである。かくして諸行無常はいわば前仏教的な体験から仏教的な思想にまで高められる。人間の現実を深く見詰め、仏教の思想を深く味わった親鸞に無常感がなかったとは考えられない。しかも彼はこの無常感にとどまることができなかったのである。何故であるか。

 無常感はそのものとしては宗教的であるよりも美的である。はかないものは美しい。美には何かはかなさというべきものがある。「あだし野の露きゆる時なく、鳥部山のけむり立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ」と『徒然草』の著者は書いている(第七段)。いつまでも生きてこの世に住んでいるということが人間のならいであったら、実に無趣味なものであろう。老少不定、我々の命がいつ終わるという規定の全くない世であるが、そこが非常に面白いのである、というのである。無常は美的な観照に融け込む。仏教は特に平安朝時代の文学においてその唯美主義と結びつき、かつこれに影響を与えたのである。かくして無常感は唯美主義と結びついて出世間的な非現実主義となった。『方丈記』の著者のごときもその著しい例である。

 これに対して親鸞はどこまでも宗教的であった。宗教的であった彼は美的な無常思想にとどまることができなかった。次に彼の現実主義は何よりも出家仏教に満足しなかった。無常思想は出世間の思想と結びつく、これに対して彼の思想の特色は在家仏教にある。無常の思想はもとより単に美的な観照にとどまるものではない。それはしかしより高い段階においても観想に結びつく。芸術的観照から哲学的観想に進む。仏教における無常の思想は我々をここまでつれてくる。しかし美的な観照も哲学的な観想も観想として非実践的である。これに対して親鸞の思想はむしろ倫理的であり、実践的である。浄土真宗を非倫理的なもののごとく考えるのは全くの誤解である。親鸞には無常の思想がない。その限りにおいても彼の思想を厭世主義と考えることはできない。

 親鸞においては無常感は罪悪感に変っている。自己は単に無常であるのではない、煩悩の具わらざることのない凡夫、あらゆる罪を作りつつある悪人である。親鸞は自己を愚禿ぐとくと号した。「すでに僧にあらず俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓とす」といっている。承元元年、彼の三十五歳のとき、法然ならびにその門下は流罪の難にあった。親鸞もその一人として僧侶の資格を奪われて越後の国府に流された。かくして、すでに僧にあらず、しかしまた世の生業につかぬゆえ俗にあらず、かくして禿の字をもって姓とする親鸞である。しかも彼はこれに愚の字を加えて自己の号としたのである。愚は愚癡ぐちである。すでに禿の字はもと破戒を意味している。かくして彼が非僧非俗破戒の親鸞と称したことは、彼の信仰の深い体験に基づくのであって、単に謙遜のごときものではない。それは人間性の深い自覚を打ち割って示したものである。

賢者の信をききて、愚禿が心をあらはす。

賢者の信は、内に賢にして外は愚なり。

愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。

と『愚禿鈔』に記している。外には悟りすましたように見えても、内には煩悩の絶えることがない。それが人間なのである。すべては無常と感じつつも、これに執着して尽きることがない。それが人間なのである。弥陀の本願はかかる罪深き人間の救済であることを聞信している。しかも現実の人間はいかなるものであるか。

「まことに知んぬ、かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまざることを、はづべし、いたむべし。」


 罪悪の意識はいかなる意味を有するか。機の自覚を意味するのである。機とは何であるか。機とは自覚された人間存在である。かかる自覚的存在を実存と呼ぶならば、機とは人間の実存にほかならない。自覚とは単にわれがわれを知るということではない。われはいかにしてわれを知ることができるか。われがわれを知るというとき、われはわれを全体として知ることがない。なぜなら、われがわれを知るという場合、知るわれと知られるわれとの分裂がなければならず、かように分裂したわれは、その知られるわれとして全体的でなくかえって部分的でなければならぬ。したがってその場合、自覚的なわれよりもむしろ主客未分の、したがって無意識的な、無自覚的なわれが、したがって知的な、人間的なわれよりも、実践的な、動物的なわれがかえって全体的なわれであるともいい得るであろう。


 機という字は普通に天台大師の『法華玄義』に記すところにしたがって、微・関・宜の三つの意味を有するとされている。それはまず第一に機微という熟字に見られるごとく微の意味を有する。いしゆみに発すべき機がある故に、射る者これを発すれば直ちにが動く。未だ発現しないで可能性としてかすかに存するすがたが微であり、機である。可能的なものはいまだ顕わではなく含蓄的にかすかに存するのである。しかし可能的なものがひとりでに現実的になるのではない。弩が機発するのは射る者があってこれを発するからである。〔欄外「弩に可発の機がなければ、いかにこれを発しようとしても発し得ないであろう。衆生しゅじょうにまさに生ぜんとする善がある故に仏が来たりて応ずればすなわち善生ず。応は赴の義。」〕しかしこの可能性は単に静的に含蓄的であるということではない。機は動の微、きざしである。まさに動こうとして、まさに生ぜんとして、機である。〔欄外「教法化益によりて発生さるべき可能性あるもの。」〕第二に、機は機関という熟字に見られるごとく関の意味を有する。関とは関わる、関係するということであって、一と他とが相対して相関わり、相関係することである。衆生に善あり悪あり、共に仏の慈悲に関する故に、機は関の意味を有するのであり、すなわち教法化益に関係し得るもの、その対者たり得るものの意である。もし衆生がなければ、仏の慈悲も用いるに由なく、衆生ありてまさに慈悲の徳も活くことができる。応は対の義。一人は売ろうとし、一人は買おうとし、二人相対して貿易のことがととのうごとく、〔欄外「主客相合うて売買が成立つ。」〕衆生はけようとし、仏は与えようとし、相会うところで摂化済度のことが成るのである。これが食い違うと摂化のことはととのわない。〔欄外「須宜」〕そこで第三に機は機宜という熟字に見られるごとく、宜の意味を有している。関係するものの間にちょうど相応した関係があることをいう。例えば函と蓋とが、方なれば方、円ければ円、恰好相応して少しもくいちがいのないように、無明の苦を抜かんと欲せば、正しく悲に宜しく、法性さとりの楽を与えんと欲せば、正しく慈に宜し。衆生に苦あり、あたかも仏の抜苦の悲に宜しく、衆生に楽なし、あたかも仏の与楽の慈に宜しく、仏の慈悲はよく衆生に相応しているのである。機は教法化益を施すに便宜あるものの意。かくして機と教、機と法とは相対する、両者の関係は動的歴史的。

 その機は何らかの根性を有する故に根機と称せられる。いっさいの衆生、過去・現在の因縁宿習を異にし、その面貌の異なるごとく、その根性別なり、〔欄外「善悪智愚の別」〕したがって教法をこうむるべき機として千差万別なり、しかるに教法化益もし機にそむけば、その益あることなし、故に仏は千差の方便を尽し、万別の教法を施せり。性得の機。機は可発の義で、衆生の心に法をうくべききざしあること。

 時機──機の歴史性、

『大無量寿経』は「時機純熟の真教」なり。末代に生まれた機根の衰えた衆生にとってまことにふさわしい教えである。時機相応。聖道自力の教えは機に合わずして教果を収めることができぬ。浄土他力の一法のみ時節と機根に適している。

 機と性との区別 動的と静的。


○時機相応

「まことに知んぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、またく像末法滅の時機にあらず、すでに時をうしなひ、機にそむけるなり、浄土真宗は在世正法、像末法滅、濁悪の群萌、ひとしく悲引したまふをや。」

「もし機と教と時とそむけば、修しがたく、入りがたし。」『安楽集』による。

「当今は末法にし、これ五濁悪世たり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり。」『安楽集』による。

「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。」

○悪人正機

「これも悪凡夫を本として善凡夫を傍に兼ねたり。かるが故に傍機たる善凡夫なを往生せば、まはら正機たる悪凡夫いかでか往生せざらん。しかれば善人なをもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべしとおほせごとありき。」『口伝鈔』第十九章。

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。」『歎異鈔』三章。


歴史の自覚


 人間性の自覚は親鸞において歴史の自覚と密接に結びついている。彼の歴史的自覚はいわゆる末法思想を基礎としている。末法思想は言うまでもなく仏教の歴史観である正像末三時の思想に属している。我々はまずこの歴史観がいかなるものであるかを見よう。

 正像末三時の思想は、仏滅後の歴史を正法、像法、末法の三つの時代に区分する歴史観である。この三時の際限に関しては、末法は正像の後一万年とすることは諸説の一致するところであるが、正像の二時については、あるいは正法五百年像法千年といい、あるいは正法千年像法五百年といい、あるいは正法五百年像法五百年といい、あるいは正法千年像法千年といって、一定しないが、親鸞は正法五百年像法一千年末法一万年の説を採った。『教行信証』化身土巻には道綽の『安楽集』を引いて次のごとく記されている。「経の住滅を弁ぜば、いはく釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には衆生減じつき、諸経ことごとく滅せん。如来、痛焼の衆生を悲哀して、ことにこの経をとどめて、止住せんこと百年ならん。」ここでは経にき、三時を通じて残るものと滅びるものとが弁別される。末法一万年において、諸経ことごとく滅びるであろうが、かかる法滅の後においても、特にこの経、すなわち『大無量寿経』は、この世に留まること百歳、かくてまた無量歳に至るであろう。経は教を伝えるものである。正像末の三時はまさに教と行と証とに関して区分されているのである。この歴史観はもと時を隔てるにつれて釈迦如来の感化力が次第に衰えてゆくことを示すものであろうが、この過程は教行証の三法を原理とする時代区分として理論化された。仏滅後の初めの時代には教と行と証とがともに存在する。教法は世にあり、教をうける者はよく修行し、修行するものはよく証果を得る。これを正法と名づける。正とはなお証のごとしといわれ、証があるということが第一の時代の特色である。次に像法というのは、像とは似なりといわれ、この時代には教があり、行があって、正法の時に似ている。教法は世にとどまり、教をうける者は能く修行するが、しかし多くは証果を得ることができない。教行は存するが、証は存しない。これを像法と名づける。第三の末法の時においては、教法は世に垂れ、教をうける者が存しても、よく修行することができず、証果を得ることができない。ただ教のみあって、行も証もともになくなる。末とは微なりといわれ、教があってもないごとくであるから、末法と称せられるのである。これら三時を過ぎて教法すらない時期は「法滅」と呼ばれている。かくのごとく正像末の思想は教行証の三法を根拠として時代の推移を考える歴史観であることが知られる。

 ところで親鸞は『教行信証』の同じ箇所でまた『安楽集』によって、仏滅後の時代を五百年ずつに区分する『大集月蔵経』の説を採り上げている。「大集月蔵経にのたまはく、仏滅度ののちの第一の五百年には、わがもろもろの弟子、慧を学すること堅固なることをえん。第二の五百年には、定を学すること堅固なることをえん。第三の五百年には、多聞読誦を学すること堅固なることをえん。第四の五百年には、塔寺を造立し、福を修し、懺悔すること堅固なることをえん。第五の五百年には、白法隠滞して、おほく諍訟あらん。すこしき善法ありて堅固なることをえん、と。」わが伝教大師の作と考えられた『末法燈明記』もこの説を採っており、『教信行証』に引用されているところである。ここでは、最初の五百年は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固、次の五百年は多聞堅固、次の五百年は造寺堅固、後の五百年は闘諍堅固にして白法隠没するの時として、特色づけられる。すなわち、初めの三期の五百年は、次第して、戒と定と慧の三学が堅固にとどまる時であり、なかに第一の五百年は正法、次の二期の五百年は像法一千年に当たり、これら三期の五百年の後には戒定慧は存しなくなる。第四の造寺堅固の五百年以下は末法に属し、中でも第五の五百年の闘諍堅固というのは、多くの人々がたたかい、あらそい、堅くこれを執って捨てることなく、あらそいやたたかいが盛んなことを意味するのである。

 ところで正像末史観の有する意義は、『安楽集』の著者にとっても、『末法燈明記』の著者にとっても、この史観、この教、すなわち三時教を根拠として、自己の属する時代、この現在がいかなるものであるかを、いな、この現在がまさに末法に属することを理解するに存した。かくて道綽は、右に記したごとく五期の五百年を区分した後、「今の時の衆生をはかるに、すなはち仏、世を去りてのちの第四の五百年にあたれり」といって、その時代がまさに末法に入っていることを記している。また『末法燈明記』の著者は、正法五百年像法一千年の後は末法に属すると述べた後、「問ふ、もししからば今の世はまさしくいづれの時にかあたれるや。答ふ、滅後の年代おほくの説ありといへども、しばらく両説をあぐ。一には法上師等、周異記によりていはく、仏、第五の主、穆王満五十三年壬申にあたりて入滅したまふ。もしこの説によらば、その壬申よりわが延暦二十年辛巳にいたるまで、一千七百五十歳なり。二には費長房等、魯の春秋によらば、仏、周の第二十の主、匡王班四年壬子にあたりて入滅したまふ。もしこの説によらば、その壬子よりわが延暦二十年辛巳にいたるまで一千四百十歳なり。かるがゆへに今の時のごときはこれ最末の時なり。かの時の行事すでに末法に同ぜり。」と論じている。そして親鸞は第一の説によって現在(元仁元年)を算定していう、「三時教を按ずれば、如来般涅槃の時代をかんがふるに、周の第五の主穆王五十三年壬申にあたれり。その壬申よりわが元仁元年甲申にいたるまで、二千一百八十三歳なり。また賢劫経、仁王経、涅槃経等の説によるに、すでにもて末法にいりて六百八十三歳なり。」仏滅の年については今日においても種々の異説がある。右の年代計算が正確であるか否かは、いま我々にとって重要ではない。正像末史観は親鸞において歴史の単に客観的に見られた時代区分として把握されたのではなく、主体的に把握されたのである。したがって問題は本来どこまでも自己の現在であったのである。現在が問題になることからして我々は過去の歴史がいかにあったかを知ろうとする。しかも現在が真に問題になるのは、何を為すべきかが、したがって未来が問題になってくることによってである。現在の意識は現在が末法であるという意識である。死を現在に自覚し、いかにこれに処すべきかという自覚が人生の全体を自覚する可能性を与えるごとく、現在は末法であるという自覚が歴史の全体を自覚する可能性を与えるのである。


 現在が末法の時であるという意識は親鸞にとって正像末三時の教説によって、単に超越的に与えられたものではない。それは彼の時代の歴史の現実そのものの中から生じたものである。彼の時代は政治的動揺の激しく、戦乱の打ち続いた時代であった。宗教界もまた決して平穏ではなかった。承元の法難には親鸞も連累した。この事件において彼の師法然は土佐に流され、彼自身は越後に流された。いわゆる「闘諍堅固」は彼にとって切実な体験であった。彼の心を何よりも痛めたのは高潔であるべきはずの僧侶の蔽いがたい倫理的頽廃であった。時代の歴史的現実わけても宗教界の状態は、まじめな求道者をしてもはや世は末であるということを感じさせずにはおかなかったであろう。末法思想は鎌倉時代の仏教の著しい特色をなしている。それはこの時代における宗教改革の運動、新宗教の誕生にとって共通の思想的背景となっている。法然や親鸞、日蓮は言うまでもなく、栄西や道元のごときも何らか末法思想をいだいていた。法然上人の反対者であった明恵上人や解脱上人ごときですら末法思想を持っていた。ただ、末法時をいかに見るか、またいかにこれに処すべきかについては、これらの人々の見解は一様ではなかった。

 正像末史観の重心は末法にある。それは末法史観にほかならない。親鸞の『正像末法和讃』を見るに、その五十八首のことごとくが末法に関係して、正法像法をそれ自身として歌ったものは一つもない。末法は未来に属するのではなく、まさに現在である。この現在の関心において過去の正法時および像法時も初めて関心の中に入ってくるのである。現在がまさに末法時であるというところから浄土は未来に考えられることになる。

 彼はどこまでも深く現在の現実の自覚の上に立った。いたずらに過去の理想的時代を追うことは彼のことではなかった。

釈迦如来かくれましまして

二千余年になりたまふ

正像の二時はおはりにき

如来の遺弟悲泣せよ

釈尊はすでに入滅した、現在の我々はもはや釈尊に遺され捨てられてしまったのであると彼は嘆き悲しむのである。いたずらに過去を追うべきではない。またいたずらに未来を憧れるべきではない。遠い未来に出現すべしと伝えられた弥勒に頼ることもやめねばならぬ。

五十六億七千万

弥勒菩薩はとしをへん

まことの信心うるひとは

このたびさとりをひらくべし

現在のこの現実が問題である。釈迦はすでに死し、弥勒はいまだ現われない。今の時はいわば無仏の時である。過去の理想も未来の理想も現在において自証されないかぎり意味を有しない。現在の現実の自覚における唯一の真実は現在がまさに末法の時であるということである。

 時代の歴史的現実の深い体験は親鸞に自己の現在が救い難い悪世であることを意識させた。しかも彼のこの体験を最もよく説明してくれるものは正像末の歴史観である。正像末三時の教説は歴史の現在の現実においてその真理性の証明を与えられている。この歴史観は歴史の過程をいかに描いているか。『末法燈明記』には次のごとく記してある。「問ふ、もししからば、千五百年のうちの行事いかんぞや。答ふ、大術経によるに、仏涅槃ののち、はじめの五百年には、大迦葉らの七賢聖僧、次第に正法をたもちて滅せず、五百年ののち、正法滅尽せんと。六百年にいたりて、九十五種の外道きほひおこらん。馬鳴、世にいでて、もろもろの外道を伏せん。七百年のうちに、竜樹、世にいでて、邪見のはたをくだかん。八百年において、比丘縦逸にして、わづかに一二、道果をうるものあらん。九百年にいたりて、奴を比丘とし、婢を尼とせん。一千年のうちに、不浄観を聞〔欄外「開?」〕かん、瞋恚しんいして欲せじ。千一百年に、僧尼嫁娶せん、僧毘尼びに毀謗きぼうせん。千二百年に、諸僧尼らともに子息あらん。千三百年に、袈裟変じて白からん。千四百年に、四部の弟子みな猟師のごとし、三宝物を売らん。ここにいはく、千五百年に拘睒弥コーシャンビー国にふたりの僧ありてたがひに是非を起してつゐに相殺害せん。よりて教法竜宮におさまる。涅槃の十八および仁王らにまたこの文あり。これらの経文に准ずるに、千五百年ののち戒定慧あることなし。」諸種の経文は、釈迦の死後、やがて正法が滅び、戒を持する者がなくなるであろうと言っている。かくて「たとへば猟師の身に法衣をきるがごとし」といい、あるいは「妻を蓄へ子を挾む」といい、またあるいは「おのれが手に児のひぢをひき、しかもともに遊行して酒家より酒家にいたらん。」といっている。これらの言葉において親鸞は彼の時代、その宗教界の現実に合わせて、これに対する厳しい批判を認めざるを得なかった。経典の言葉は末法時を告げて予言的な真理性を有している。彼は自己の体験を顧みて、この真理性に驚き、かつこの真理性をおそれずにはいられなかったであろう。正直に現実を見るとき、「たとひ末法のなかに持戒のものあらば、すでにこれ怪異なり。市に虎あらんがごとし。これたれか信ずべきや。」といわざるを得ないであろう。

 正法五百年は大迦葉らの七賢僧の時代であり、それは小乗教の時代である。馬鳴および竜樹によって代表される次の像法時代は大乗教特に自力教の時代である。八百年以後の記述に大乗教が次第に衰えて、やがて末法の時代に至ることを述べている。

 もとより親鸞は末法の教説において時代に対する単に客観的な批判を見出したのではない。彼は決して単なる理論家、傍観者ではなかった。末法思想は彼においてあくまでも主体的に把握された。歴史を単に客観的に見てゆくことからは、そもそも末法思想のごときものは生まれないであろう。ただ客観的に見てゆけば、歴史における進歩といい退歩といっても、要するに相対的であり、進歩と退歩とは単に程度上のことで、進歩の反面には退歩があり、また退歩の反面には進歩があるということができる。末法思想は死の思想のごときものである。それは歴史に関する死の思想である。死は主体的に捉えられるとき初めてその問題性を残りなく現わすごとく、末法思想も主体的に捉えられるとき初めてその固有の性格を顕わにするのである。正像末の歴史観は親鸞にとって客観的な歴史叙述の基礎として取り上げられたのではない。「釈迦如来かくれましまして、二千余年になりたまふ 正像の二時はおはりにき 如来の遺弟悲泣せよ。」と親鸞は『正像末和讃』にいっている。単なる批判ではなくて悲泣である。救い難い現実が身にしみて歎き悲しまれるのである。

 次に親鸞にとって正像末の教説は、単に時代に対する批判であるのみではなく、むしろ何よりも自己自身に対する厳しい批判を意味した。批判されているのは自己の外部、自己の周囲ではなく、かえって自己自身である。「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし。」と彼はかなしみなげくのである。自己を「底下の凡愚」と自覚した彼は十六首からなる『愚禿悲歎述懐』を作ったが、我々はこれが『正像末和讃』の一部分であることに注意しなければならぬ。すなわち彼は時代において自己を自覚し、自己において時代を自覚したのである。

 ところで自己を時代において自覚するということは、自己の罪を時代の責任に転嫁することによって自己の罪を弁解することではない。時代はまさに末法である。このことはまた時代の悪に対する弁解ではない。時代を末法として把握することは、歴史的現象を教法の根拠から理解することであり、そしてこのことは時代の悪を超越的な根拠から理解することであり、そしてこのことは時代の悪をいよいよ深く自覚することである。かくてまた自己を時代において自覚することは、自己の罪を末法の教説から、したがってまたその超越的根拠から理解することであり、かくして自己の罪をいよいよ深く自覚することである。いかにしても罪の離れ難いことを考えれば考えるほど、その罪が決してかりそめのものでなく、何か超越的な根拠を有することを思わずにはいられない。この超越的根拠を示すものが末法の思想である。

 諸種の経文は末世においては正法が滅んで戒を持するものがないことを述べている。すでに正法が滅び、戒法がなくなっている以上、この時代にはもはや「破戒」ということすらない。なぜなら戒法があって破戒ということがあるのであって、破るべき戒法がなければ破戒のあろうはずはないのである。したがってこの時代の特徴は破戒ではなく、まして持戒ではなく、かえって「無戒」である。『末法燈明記』には次のごとくいわれている。「しかればすなはち末法のなかにおいては、ただ言教のみありて、しかも行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破るによりてか、しかも破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持戒をや。かるがゆへに大集にいはく、仏涅槃ののち無戒くににみたんと。」像法の季、末法の時代は無戒の時代である、持戒の比丘はなくなり、いわゆる無戒名字の比丘、すなわち鬚をり髪を剃って身に袈裟を着けてはいるが戒を持することのない名ばかりの僧侶になる。僧侶であって肉食妻帯するものが現われるであろう。しかしこれを単純に破戒と見て非難攻撃することは時代のいかなるものであるかを知らないものである。破戒と無戒とは同じでないことを考えなければならぬ。

 一方無戒は破戒以下である。破戒者は戒法の存在することを知っており、戒法の畏敬すべきことを知っておりさえするであろう。かくして彼は時には懺悔することもあるであろう。しかるに無戒者は戒法の存在すら意識しない。彼は平然として無慚無愧むざんむきの生活をしている。無戒者は無自覚者である。「非僧非俗」と称した親鸞は自己の身において無戒名字の比丘びくを見た。そして非僧非俗の親鸞はみずから「愚禿」と名乗ったのである。彼は「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、低下の最澄」といった伝教大師の言葉に深い共鳴を感じた。無戒は破戒以下である。このことがまず自覚されねばならぬ。親鸞は例えば肉食妻帯を時代の故に当然であるとして弁護しようとはしなかったであろう。むしろ彼はこれを慚愧に堪えぬことと考えたに相違ない。しかるに無戒は無戒としては無自覚である。かかる無自覚の状態は自覚的にならなければならぬ。無戒が無自覚である場合、無戒は破戒でないという理由でこれを弁護することは、禽獣きんじゅうの生活を人間の生活よりも上であるとすることに等しいであろう。無戒はいかにして自覚的になるのであるか。無戒の根拠を自覚することによってである。しかるにこの根拠は正像末の歴史観にほかならない。無戒という状態の成立の根拠は末法時であるということである。しかるに末法の自覚は必然的に正法時の自覚を喚び起す。これによって正像末の歴史観が成立する。そして正法時の回想は自己が末法に属する悲しさをいよいよ深く自覚させるのである。無戒は破戒以下であるということ、破戒の極限であるということが自覚される。しかも正法時を回想するにしてもそしていかにこれに合致しようとするにしても、自己が末法に属することはいかにもなし難い。「正法の時機とおもへども 底下の凡愚となれる身は 清浄真実のこころなし 発菩提心いかがせん」という和讃は、この意を詠じたものであるであろう。無戒が破戒以下であることが自覚されねばならぬ。

「しかれば穢悪濁世の群生、末代の旨際をしらず、僧尼の威儀をそしる。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ。」と親鸞はいっている。

 末代の道俗

 しかし他面、無戒は破戒と同じではない。末法時の特徴は破戒でなくて無戒であり、破戒はむしろ像法時の特徴である。正法、像法、末法は、順を追うて、持戒、破戒、無戒としてその特徴を規定することができるであろう。無戒は持戒とともに破戒でないということにおいて、末法時は正法時に類似している。このことは末法時においては、持戒および破戒の時期である正法像法とは全く異なる他の教法がなければならぬことを意味する。このとき教法と考えられるものは正法時、したがってまた像法時とは全く別の、むしろ逆のものでなければならぬ。末法が無戒であるということは、この時代においてかくのごとき他の教法が現われねばならぬことを意味する。無戒の末法は教法のかくのごとき転換を要求する。無戒の時はまさに無戒として従来の教法がその歴史的意義を喪失してしまったことを意味するのである。かくして自力教から他力教への、聖道教から浄土教への転換は、無戒時というものによって歴史的に必然である。もし単に持戒と破戒とのみであるならば、かかる転換の必然性は考えられない。そのときは破戒はただ持戒へ、従来の正法への復帰であるべきのみであろう。聖道門の自力教から絶対他力の浄土教への転換は親鸞において末法の歴史的自覚に基づいて行なわれ、これによってこの転換は徹底され純化されたのである。『教行信証』化身土巻における三願転入の自督に続いて正像末の歴史観が叙述されているということは、この歴史観に基づく自覚が三願転入の根拠であることを示すものと考えなければならぬ。三願転入にいう三願において、第十九願すなわち修諸功徳の願は自力の諸善万行によって往生せんとするものとして持戒の時である正法時に、第二十願は念仏という他力で、しかし自力の念仏によって往生せんとするものとして正法と末法との中間にある像法時に、また第十八願は絶対他力として末法時に相応するということができるであろう。

 三願転入については次の章において論じたいと思う。ここではまず末法時の特徴である無戒ということに関連して親鸞の思想のひとつの特色を明らかにしておかねばならぬ。無戒ということは固有の意味においては僧侶についていわれ、元来持戒者であるべき僧侶であって戒を持することがないということを意味している。もし僧侶が無戒であるならば、彼らはいわゆる「名字の比丘」であり、本質的には在俗者と同じでなければならぬ。かくして浄土門の教は僧俗一致の教法である。この教法の前においては僧侶と在俗者とは本来平等である。単に僧俗の差別のみではない、老少の差別、男女の差別はもとより、賢者と愚者との差別も、善人と悪人との差別も、すべて意義を有しなくなる。宗教の前においてはあらゆる者が平等である。あたかも死に対しては貴賤貧富を論ぜず、すべての人間が平等であるように。この平等はもとより宗教的な平等であって、外面的な社会的平等ではない。宗教の前においては社会的差別はもとより道徳的差別も意義を失うところに宗教の絶対性がある。無戒ということの本質はかくのごとき平等性に存している。かくのごとき平等性は人間を「群衆」にしてしまうものではない。念仏は各人のしのぎといわれるように(「往生は一人一人のしのぎなり。」蓮如上人『御一代記聞書』)、宗教はめいめいの問題である。この平等性は各人の罪の意識において成立するのである。自己の真実の姿を深く見つめた者にとって誰が自己は他よりも善人であるといい得るであろう。かく考えることはまだ自覚が足りないためである。自己の罪の自覚において超越的なもの、すなわち末法の教法に触れないためである。「末代の旨際を知り」、「おのれが分を思量せよ」と親鸞はいう。末代のいわれを知り、自己の分限を思いはかる者は、自己を極重の悪人として自覚せざるを得ないであろう。末代の旨際を知るというのは、客観的に現代が末法の時であることを知るということではない。正像末の歴史観は歴史的知識の要約でもなく、また歴史を体系化するための原理でもない。末法の自覚は自己の罪の自覚において主体的に超越的なものに触れることを意味している。このときには何人も自己を底下の凡愚として自覚せざるを得ないであろう。弥陀の本願はかくのごとき我々の救済を約束している。如来の救済の対象はまさにかくのごとき悪人である。これを「悪人正機」と称している。悪人正機の説の根拠は末法思想である。

 しからば何故に教は行なわれないのであるか。「まことに知んぬ、聖道の諸教は在世正法のためにして、またく像末法滅の時機にあらず、すでに時をうしなひ機にそむけるなり。」と親鸞はいっている。従来の教は聖道自力の教であり、これは釈迦牟尼仏の在世およびその感化力の存した正法時のためのものであって、今日末法の時代においては、この教はこの時代とこの時代における衆生の根機とにもはや相応せず、かくして時を失い機にそむく故にこの教は衰微せざるを得ないのである。これに反して浄土他力の教はまさに「時機相応の法」である。それは末法という時機とこの時代における衆生の根機とに相応する教である。この時代と人間とのために仏は限りない愛をもって弥陀の本願の教を留めおいたのである。「当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲哀愍をもって特にこの経を留めて止住すること百歳ならしめん。それ衆生ありてこの経にあふものは、こころの所願にしたがひてみな得度すべし。」といわれている。道綽は『安楽集』に「当今は末法にして、これ五濁悪世なり、ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり。」といっている。もし機と教と時とが一致しないならば、修め難く、入り難い。「末法のなかにおいてはただ言教のみありてしかも行証なけん。」というのは、その法が時機不相応の聖道の教であるためであり、かかる時こそ浄土の教のいよいよ盛んになるべきときである。「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証ひさしくすたれ、浄土の真宗は証道いま盛なり」と親鸞は記している。

 道綽によれば、聖道の修業は、第一に大聖を去ること遙遠なるが故に、第二には理深く解微なるが故に、成就しがたいのである。『安楽集』上三十八丁。

 ところで浄土他力の教が末法時に相応する教であるとすれば、そのことはまさにこの教を相対的なものにすることになりはしないであろうか。実際、聖道の諸教は、それが単に在世正法の時にのみ相応して、像末法滅の時には相応しないという故をもって、単に相対的なものと見られ、方便の教に過ぎないと考えられたのである。親鸞は教の歴史性を強調した。これは歴史主義であり、歴史主義は一個の相対主義ではないか。他力の教がもし相対的なものであるとすれば、それはもはや真実の教であることができぬ。真理は、真実の教は絶対性を有するのでなければならぬ。他力教の絶対性はいかに示されているのであるか。そしてその絶対性はその歴史性といかにして矛盾することなく、かえって一致するのであろうか。

像末五濁の世となりて

釈迦の遺教かくれしむ

弥陀の悲願ひろまりて

念仏往生さかりなり

『正像末和讃』のはじめには次の讃歌が掲げられてある。

弥陀の本願信ずべし

本願信ずるひとはみな

摂取不捨の利益にて

無上覚をさとるなり

この一首は康元二年二月九日夜、夢告に成るものである、と親鸞はみずから記している。時に彼は八十五歳であったが、夢にこの和讃を感得したことが『正像末和讃』一帖の製作の縁由となったのである。このことは末法の自覚と浄土教の信仰とが彼においていかに密接に結びついていたかを示すものであろう。末法の自覚は罪の自覚であり、罪の自覚は弥陀の本願力による救済の自覚であった。

無明長夜の燈炬なり

智眼くらしとかなしむな

生死大海の船筏なり

罪障おもしとなげかざれ

と彼は讃詠するのである。

末法意識と浄土における未来主義

 親鸞は他力教の絶対性をまず、それが釈迦の本懐教「出世の本懐」であることを示すことによって明らかにしようとした。釈迦出世の本意を知れとは親鸞における内面の叫びであった。釈迦如来がこの世に現われたのは、『法華経』の「方便品」の中にいうごとく「一大事因縁」によるのでなければならぬ。かくして『教行信証』教巻において親鸞は、「それ真実の教を顕はさば、すなはち大無量寿経これなり。」と掲げ、釈迦如来の出世の本懐は一に大無量寿経、すなわち弥陀の本願の法門を説くにあったことを述べている。「如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海をとかんとなり 五濁悪時の群生海 如来如実の言を信ずべし。」と『正信偈』に頌述している、釈迦一代の説法はその種類極めて多く、八万四千の法門があるといわれるが、これら多種多様の説法もついに『大無量寿経』を説くためであり、弥陀の本願の教にとって他のすべては仮のもの、方便のものに過ぎないのである。釈迦の「出世の大事」は限りない慈愛をもって衆生を救わんがために弥陀の慈悲の教を説くためであったのである。この教のみが真実の教である。「如来興世の正説」である。しかもこの絶対的真理の開示は我々において歴史的なものとして受取られなければならぬ。「如来、無蓋の大悲をもて三界を矜哀きょうあいしたまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡こうせんして群萌をすくひ、めぐむに真実の利をもてせんとおぼしてなり。無量億劫にもまうあひがたく、みたてまつりがたきこと、なをし霊瑞華のときありてときにいましいづるがごとし。」と『大量無寿経』にはいわれてある。親鸞は「如来興世の本意には 本願真実ひらきてぞ 難値難見とときたまひ猶霊瑞華としめしける」と讃詠した。弥陀の本願の教の絶対性は、それが無時間的であることを意味しない。この教は歴史的に釈迦によって開顕されたのであり、我々におけるこれが信受も歴史的に決定さるべきものである。人身を受けるということはあり難く、また仏法を聞くということはあい難い。いまこの受け難い人身を受け、この聞き難い法を聞いたとすれば、速かにこれを信受しなければならぬ。

 第二に、この教の絶対性はその永遠性によって知られる。「まことに知んぬ、聖道の諸教は在世正法のためにして、またく像末法滅の時機にあらず。すでに時をうしなひ機にそむけるなり。浄土真宗は在世正法像末法滅濁悪の群萌、ひとしく悲引したまふをや。」と親鸞はいっている。すなわち自力の教はただ釈迦在世および滅後五百年間の衆生の機根のすぐれた時代にのみ相応する教であって、像法、末法という機根の劣った時代には相応しない教であるのに反して、他力の教は在世正法、像法末法および法滅の時代に亙って、煩悩にけがされ悪業につながれる人々を一様に大慈悲をもって誘引し給う教である。前者がただ在世正法の時代に限られているのに反して、後者は在世正法像法末法法滅の時代に亙って、その故にすべての時代に通ずるのである。前者が一定の時代に局限されているのに反して、後者は時代にかかわることなく永遠に通用するのである。『大無量寿経』には、「当来の世に、経道滅尽せんに、われ慈悲哀愍をもつて特にこの経を留めて止住すること百歳ならしめん。」とあるが、百歳というのはいつまでもという意である。かようにして浄土門の教は永遠性を有するものとして絶対性を有する。しかしかような永遠性は非歴史的ではない。この教は特に末法時代に相応する教である。すなわち末法時代においては、聖道の教が「時を失ひ機に乖く」のに反して、浄土門の教はまさにこの時代においてこそ「時機純熟の真教」なのである。かくして一面において特殊的に末法の時代に相応すると同時に他面において普遍的にあらゆる時代に通ずるというところに、この教の真に具体的な絶対性が見られるのである。特殊的であると同時に普遍的であり、時間的であると同時に超時間的であるところに、真の絶対性があるのである。

 しかるに第三に、この教のかかる絶対性、すなわち歴史を離れるのではなくかえって歴史の中において歴史を貫く絶対性は、その伝統性において認められる。親鸞はこの伝統をインドの竜樹、天親、支那の曇鸞、道綽、善導、日本の源信、源空の七人の祖師において見た。彼は「高僧和讃」を作ってこれら七祖を讃詠したのである。釈迦の出世の本懐の教である弥陀の本願の教は処と時とを隔てたこれらの高僧によって次第に開顕されてきたのである。この伝統はこの法の絶対性を示すものである。親鸞はこの伝統の中に自己の生命を投げ込んだ。彼は一宗の開祖となったが、自身は何ら新しい宗派を立てる意図も自覚も有しなかった。「故聖人のおほせには、親鸞は弟子一人ももたずとこそおほせられ候ひつれ、そのゆへは、如来の教法を十分衆生にとききかしむるときは、ただ如来の御代官をまうしつるばかりなり、さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じひとにもをしへきかしむるばかりなり、そのほかはなにををしえて弟子といはんぞとおほせられつるなり。」と蓮如は書いている。親鸞にとってはただ伝統が問題であった。しかもこの伝統は彼にとって生死を賭けた絶対的なものである。『歎異鈔』には次のごとく記してある。「親鸞にをきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおほせをかうふりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつる業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が念仏をまうして、地獄におちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふか。詮ずるところ愚身が信心にをきてはかくのごとし。このうへは念仏をとりて信じたてまつらんともまたすてんとも、面々の御はからひなりと云々。」〔欄外「救済と伝統」「伝統と邂逅」〕

『正信偈』は、

「ただこの高僧の説を信ずべし」

 という句をもって結ばれている。〔欄外「伝統の尊重」〕


 私自身のうちにおいて一念即多念、多念即一念の真実の称名が相続せられるに先立ち、すでに歴史そのものが一つの念仏の主体であり、浄土教の祖師たちにおいて脱自的に念々(時代時代)不断の念仏を現実に行じて来ていることが知られる。したがって私の内に真実の一念多念の相即する念仏の大行が行じ得られるのも、実に私がこの歴史的伝承に生きることによる。

 親鸞の信楽はかかる浄土教の歴史的伝承において成就する。かかる歴史的伝承は本願力として捉えられる。本願力は他力の概念の核心。

 右のごとくにして、正像末の歴史観は浄土教史観とまさに表裏をなしていることが知られる。正像末史観は、仏滅後、時を経るにつれて時代が悪化してゆくことを述べたもので、上古に理想的状態をおき、降るにしたがって堕落してゆくと考えるものであり、形式的に見れば、これは仏教以外にもよくある思想で珍しいものではない。それは歴史は時とともに進歩すると見る歴史観とは相反する方向をとるものであり、前者が単純なオプティミズムであるのに対して後者は単純なペシミズムであると考えられるであろう。もとよりかかる単純なペシミズムは親鸞のものではない。彼にとっては正法像法末法と降るに従って時代が悪化してゆくということは、同時に、他の面から見れば、真実の教である浄土教が次第に開顕されることであった。

 しかしながら、歴史は浄土教の開顕の歴史であるとするこの史観は、もとより単なる進歩主義ないし進化主義ではない。なぜならまず第一に、この浄土教史観はその逆の面としてつねに正像末史観を含んでいる。両者は不可分の関係に立っている。親鸞は絶えず末法のあさましさを悲しみ、自己の罪の深さを歎いた。世の末であるという深刻な自覚が逆にいよいよ弥陀の救済を仰ぎ、その真実を信じたのである。この一点から見れば、他の諸点においては本質的な差異があるが、彼の歴史観はキリスト教における終末観に類似している。

 いわゆる『御本書』または『御本典』すなわち『教行信証』の行巻の終わり、信巻の前に付せられた『正信念仏偈』、あるいはいわゆる『略文類』または『略書』すなわち『浄土文類聚鈔』の中にある『念仏正信偈』は浄土史観を述べたものである。そこでは弥陀と釈迦、および浄土教の七高僧が経すなわち『大無量寿経』により、および七祖の著述である論釈によって讃述されている。

 浄土真実と浄土方便との対応

 第二に、それは単に未発展のものが次第に発展してゆくという進化の過程ではない。浄土教はもちろん歴史において次第に開顕されたのではあるが、この過程の初めにおいてそれはすでに開顕されていたのであり、したがって開顕の過程は自己から出て自己へ還ってくる運動である。それは教の歴史的な自己運動ともいうべく、この点においてヘーゲルにおける概念の発展と類似している。しかもこの運動はつねにその根柢において弥陀の本願という絶対的なものに接しているのである。

 第三に、しかしながら教のこの展開はヘーゲルにおける概念の自己運動とも本質的に異なっている。なぜなら教の展開は親鸞において同時に祖師たちの伝統の継承の問題であった。彼にとってそれは単に法の問題でなくて人の問題であった。浄土教史観は七祖史観とも呼ぶことができるであろう。浄土真宗では、竜樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、源空の七祖を正依の祖師とし、さらに菩提流支、懐感禅師、法照禅師、少康禅師の四師を傍依の祖師としている。菩提流支は『高僧和讃』曇鸞章に、懐感は同じく源信章に、法照、少康の二人は同じく善導章に出ている。これら四師を摂して、浄土教史観は七祖史観と名づけることができる。そこでは単に教法が問題でなく人間が問題であった。それは単なる哲学ではなく宗教であるからである。人は、ヘーゲルの歴史哲学においてのごとく、理念の展開の道具に過ぎぬのではない。人において法が見られると同時に法において人が見られるのである。なぜならこの法は人間の実存にかかわり、各人の救済が問題であるからである。右に引いた歎異鈔の文がこれを明らかにしている。法と人とは二つであって二つではない。親鸞にとって伝統は単に客観的なものでなく、これを深く自己のうちに体験し証すべきものであった。相承は己証と結びついて区別することができぬ。これによって彼はおのずから伝統のうちに新しいものを作り出し、みずから一宗の祖として新しい出発点となったのである。

 もとよりこの伝統の中心をなすものは弥陀である。しかもこの弥陀の本願の教えをこの世に示したのは釈迦であり、そこに釈迦出世の歴史的意義がある。釈迦なしには伝統はなく、弥陀なしには伝統はない。したがって本典および略書の両偈がまず弥陀および釈迦について述べ、ついで七高僧について述べているのは当然である。ここに人と法とは二つでない。

○七祖出現の使命は要するに

「インド西天の論家、中夏、日域の高僧、大聖興世の正意をあらはし、如来の本誓、機に応ぜることをあかす。」


三願転入


 親鸞は自己の宗教的生を回顧して次のように書いている。

「ここをもて愚禿釈の鸞、論主の解義をあふぎ、宗師の勧化によりて、ひさしく万行諸善の仮門をいでて、ながく双樹林下の往生をはなる。善本徳本の真門に廻入して、ひとへに難思往生の心をおこしき。しかるに今ことに方便の真門をいでて、選択の願海に転入せり、すみやかに難思往生の心をはなれて、難思議往生をとげんとおもふ。果遂の誓ひ、まことにゆへあるかな。」

 これは『教行信証』化巻に記された有名な三願転入の文である。

 この文が、率直に理解するかぎり、親鸞の信仰生活の歴程の告白であることは、明らかである。それは歴史的事実の叙述である。そしてこの歴史は、初め「万行諸善の仮門」、次に「善本徳本の真門」、ついに「選択の願海」という三つの過程を示している。ところでこの文を親鸞の信仰の歴史を語るものと見れば、かかる三つの転化、わけても「今ことに方便の真門をいでて」というその「今」が親鸞の生涯のいかなる年代に当るかが問題になるであろう。しかるにこれについては種々の異説がある。ある者はこの今、すなわち親鸞が「選択の願海に転入」した時をもって、彼が二十九歳で法然を師として吉水に入室した時であるとし、ある者は吉水入室以後にあるとし、ある者はそれ以前にあるとし、ある者は『教行信証』製作の当時にあるとする。しかしこの種の解釈にはいずれも無理があるところから、右のいわゆる三願転入の文を、歴史的事実とは関係なく純粋に法理的に解釈しようとする者がある。言い換えれば、右の三願転入の文を純粋に論理的に理解しようとするのである。

 三願転入に深い論理があること、それに永遠なる法理があることは、我々もまたやがて明らかにしようとするところである。しかしながらその故をもって、これを純粋に法理的に解釈することは誤りである。この文は率直に受取る者にとっては疑いもなく親鸞の宗教的生の歴程を記したものであり、歴史的事実の告白である。弥陀の本願は単なる理、抽象的な真理ではない。それは生ける真理として自己を証しするのである。この証しは、この真理が我々の生の現実に深く相応するということ、この現実を最もよく解き明かすということによって知られる。法と機、真理と現実、永遠なものと歴史的なものとの一致、この不思議な一致こそ我々をして弥陀の本願をいよいよ仰信せしめるものである。自己の信仰の径路を思い廻らすとき、親鸞はそれが不思議にも弥陀の三願によって言い当てられていることを驚きかつよろこぶのである。かようにして化身土巻において、第十九願と二十願とについて釈意しつつきた彼は、自己の宗教的生の歴程について告白するのである。三願転入は単なる論理ではない。この論理が深く現実の中にあることを自己において見出したものが右の文である。かくして超越的なる真理は内面化されて見出されるのである。

 しかしながらこの文はいわゆる客観的な歴史記述ではない。それはまさに宗教的告白である。宗教的告白は一面懺悔であるとともに讃歎である。このことは三願転入の文とのつながりにおいて、その前には、

「かなしきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた、助正間雑し、定散心雑するがゆへに、出離その期なし。みづから流転輪廻をはかるに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海にいりがたし。まことに傷嗟すべし、ふかく悲嘆すべし。」

と自督懺悔し、そして三願転入の文に直ちについで、

「ここにひさしく願海にいりて、ふかく仏恩をしれり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろふて、つねに不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。」

と自督信仰している。かくのごとき告白、自己の内面的生活の記述について機械的に年代の順序を決定しようとすることは、無意味であり、少なくとも無理である。それは年代的解釈を許さない。体験と論理との一つになった文において年代を詮さくすることは無意味である。それは「詩と真実」として一層深い歴史に属している。それは歴史的意味をもたないのではなく、単に論理的意味を有するに過ぎぬのでない。それはどこまでも歴史的意味をもっている。年代的ということと歴史的ということとは同じでない。三願転入は歴史的事実である故に、それは時間的秩序をもっている。しかしかかる歴史的時間は暦の上で決定される客観的な年代的順序とは次元を異にしている。親鸞は右の文において自己のたどりついた信仰の立場から、自己の経験してきた内面的生活を回顧してその歴史を叙述した。この回顧すなわち歴史叙述は、信仰の最も高い立場からより低い立場に対する反省であり、したがって同時にこれに対する批判である。しかしこの批判は単なる否定ではなくて同時に摂取であることが明らかになるであろう。そして回顧として歴史的であり、批判として論理的である。現実の歴史は本願の法理において客観性、単なる年代記的歴史以上の客観性を与えられ、本願の法理は歴史のなかにおいて、単なる論理を超えた現実性を示されたのである。かかる客観性の故に自己の歴史は告白するに値するのであって、いわゆる三願転入の自督は感傷とは全く性質を異にしている。またかかる現実性の故に本願の法理は仰信せらるべきものであるのである。

 さて三願とは何をいうのであるか。右の文によれば「万行諸善の仮門」、これが第一の段階である。これは『大無量寿経』における第十九願に当る。その文にいう、

「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、菩提心をおこし、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、わが国に生ぜんとおもはん、寿終のときにのぞんで、たとひ大衆と囲遶して、その人のまへに現ぜずば、正覚をとらじ。」

この文によってこの第十九願は「修諸功徳の願」と名づけられており、「万行諸善」というはこれを指している。弥陀の本願は生の現実に徹入する。この願、詳しく言えば、道心をおこし、これを成就させるためにもろもろの善行を修め、かくして至心をもって発願し、その修めるところの善行をもってわが浄土に往生しようとする衆生があるとき、その人の臨終にもし観音勢至らの大衆とともにその人の前に現われて来迎しないならば、──そこでこの願は臨終現前の願、現前導生の願、来迎引接の願ともなづけられる──われは正覚を聞かないであろうという、弥陀の誓いは、現実にかくのごとき人間の存在することを現わしている。本願はつねに歴史的現実(機)に相応するところの衆生済度の愛の願いである。ひとは邪道を離れて仏門に入る。そのとき彼がまず為そうとすることは何であるか。もろもろの善を行ない、もろもろの功徳を積むことである。かように善を行ない、功徳を積むのでなければ浄土往生は不可能であると考える故である。彼は自己の修めた万善万行によって、それが原因となり、その結果として浄土往生が遂げられると考える。これは理義明白である。これよりも明白な理義はない。これ以外に理義はあり得ないもののごとくである。彼の発願はきわめて真面目である。彼は自己の力のあらんかぎり善行を修め、功徳を積もうとする。彼の努力はきわめて真面目である。しかし彼が真面目であればあるだけ、彼が努力すれば努力するだけ、彼は自己の虚しさ、自己の偽りを感ぜざるを得ない。外から見れば一点の非の打ちどころのない生活にも、内に省みるとき虚偽が潜んでいることが自覚せられる。他人の不幸を憐んで物施しをする者に、自己の優越を誇り、他人の不幸を喜ぶ心が裏にないか。心において一度も窃盗をしたことのない者、姦淫をしたことのない者がない。道徳を守ることが、単に名利のために過ぎないということはないか。外においてどれほど善を行なおうとしても、悪心は絶えず裏から潜んでくる。かくして、

「しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道をいでて、半満権実の法門にいるといへども、真なるものは、はなはだもてかたく、実なるものは、はなはだもてまれなり。偽なるものは、はなはだもておほく、虚なるものは、はなはだもてしげし。」

と批判せられるのである。

 もとよりかくのごとき種類の人間にも弥陀は手をのべる。「すでにして悲願います、修諸功徳の願となづく。」これが第十九願である。ここに得られる往生は「双樹林下往生」と呼ばれている。双樹は沙羅双樹であって、釈迦は拘尸那クシナ城外の沙羅双樹の下で涅槃に入ったと伝えられる。双樹林下往生というのは自力修善の人々の往生をいうのである。しかしこの願の本旨は臨終現前とか来迎引接とかにあるのであろうか。そこにさらに何かより深い意味があるのであろうか。我々の思惟し得る限りにおいては、みずからあらゆる善行を励み、これを差し向けて浄土に往生しようとすることは、理の当然であって、それが究極のものである。これ以外に往生の道はないはずである。しかしながら、もしそうであるとすれば、はたして我々は実際に善を修めているのであるか。深く省みれば省みるほど自己の無力を歎ぜざるを得ないであろう。もとよりある者は自己が何ら背徳の行為のないことを考えて満足しているであろう。この自己満足は、しかるに、真に往生をおもう心がないことから来ている。それはあさはかな現実肯定にもとづいている。そこに超越的なものない。そしてこれは現実についての認識の不足にもとづいている。これに対して、外からは一点非の打ちどころのないように見える生活をしながら、しかも絶えず不安に襲われ、絶望せざるを得ないのは、浄土往生のねがいの切なることによるのである。したがって修諸功徳の願は、自力の観念を放棄せしめんがためのものである。自己の無力に対する自覚は往生浄土のねがいが真面目であればあるほど強い。それ故に真実なるものはこのねがいのみである。それ故に親鸞は第十九願を「至心発願の願となづくべきなり」というのである。この願の真意はまさにここに存するというべきである。第十九願の趣旨が至心発願にあるかぎり、これは究極的なものでなくなり、次のより高い段階に廻入せざるを得ない。


 自分の行なう善によって往生を求めて絶望した者はいかにすべきであるか。ここに弥陀は手をさしのべ給う、「すでにして悲願います、植諸徳本の願となづく。」ここに願がある。第二十願がそれである。いわく、

「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、わが名号をききて、念をわが国にかけて、もろもろの徳本を植ゑて、心を至し廻向して、わが国に生ぜんとおもはん、果遂せずば、正覚をとらじ。」(一四〇二)

先の三願転入の文において「善本徳本の真門に廻入し」とあるのは、この願に相応する。この願の文に従って、それは「係念定生の願」とも「不果遂者の願」ともなづけられる。


宗教的真理


 親鸞がこころをつくして求めたのは「真実」であった。彼の著作をひもとく者はいたるところにおいてこの注目すべき言葉に出会う。『教行信証』という外題で知られる彼の主著の内題は『顕浄土真実教行証文類』と掲げられている。そしてその前四巻は「顕浄土真実教文類」「顕浄土真実行文類」「顕浄土真実信文類」「顕浄土真実証文類」というように、一々真実という言葉が付けられている。すなわち真実の教、真実の行、真実の信、真実の証を顕わすことが彼の生涯の活動の目的であった。まことに真実という言葉は親鸞の人間、彼の体験、彼の思想の態度、その内容と方法を最もよく現わすものである。彼が明らかにした真実の教と行と信と証とがいかなるものであり、また相互にいかなる関係にあるかについては、私の研究の全体を通じて次第に述べられるであろう。ここではまず一般に真実というものが何を意味するかについて、その一般的性格を論じておかねばならぬ。

 宗教は真実でなければならない。それは単なる空想であったり迷信であったりしてはならぬ。宗教においても、科学や哲学においてと同じく、真理が問題である。ただ宗教的真理は科学的真理や哲学的真理とその性質、その次元を異にするのである。もとより宗教の真理も真理として客観的でなければならぬ、客観性はあらゆる真理の基本的な徴表である。親鸞の宗教はしばしば体験の宗教と称せられている。かく見ることはある意味においては正しい。宗教的体験の本質は内面性であり、親鸞の宗教は仏教のうち恐らく最も内面的であることを特徴としている。しかし体験はそれ自身としては主観的なもの、心理的なものを意味している。したがって体験の宗教ということは主観主義、心理主義に陥ることになり、宗教は真理であるという根本的な認識を失わせることになり易いのである。真理は決して単に体験的なもの、心理的なもの、主観的なものであり得ない。もとより宗教的真理の客観性は物理的客観性ではない。その客観性はにおいて与えられている。経は仏説の言葉である。信仰というものは単に主観的なもの、心理的なものではなく、経の言葉という超越的なものに関係している。「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり。」と親鸞はいっている。経は釈尊の説いた言葉であり、その真実性は釈尊の自証に基づくのである。しかし釈尊は歴史的人物であるとすれば、その言葉はいかにして真の客観性、真の超越性を有するであろうか。釈尊の自証といっても、それはいかにして真の客観性、真の超越性を有するであろうか。仏教における聖道門は釈尊を理想とする。それは釈尊によって自証された法を自己自身において自証しようと努力する。経の言葉とはそれ自身として絶対性を有しない。かくしてそれは宗教であるよりも道徳ないし哲学であることに傾くのである。聖道門は釈尊を理想とする自力自証の宗教として、そこに真の超越性は存しない。しかるに浄土門は釈尊を超越した教である。親鸞は真実の教である『大無量寿経』について、「如来の本願をとくを経の宗致とす。すなはち仏の名号をもて経の体とするなり。」といっている。弥陀如来の本願や名号は釈尊を超越するものである。真に超越的なものとしての言葉は釈尊の言葉ではなくて名号である。名号は最も純なる言葉、いわば言葉の言葉である。この言葉こそ真に超越的なものである。念仏は言葉、称名でなければならぬ。これによって念仏は如来から授けられたものであることを証し、その超越性を顕わすのである。本願と名号とは一つのものである。経は本願を説くことを宗致とし、仏の名号を体とする故をもって真に超越的な言葉であるのである。かくのごとき教として『大無量寿経』は真実の教である。

 しかしこの超越的真理は単に超越的なものとしてとどまる限り真実の教であり得ない。真理は現実の中において現実的に働くものとして真理なのである。宗教的真理は、哲学者のいうがごとき、あらゆる現実を超越してそれ自身のうちに安らう普遍妥当性のごときものであることができぬ。それはそれ自身のうちに現実への関係を含まなければならぬ。弥陀の本願はかくのごとき現実への関係において普遍性を含んでいる。それは「十方衆生」の普遍性である。すなわち第十八、十九、二十の三つの重要な願はいずれも「十方衆生」という語を含んでいる。十方衆生という現実の普遍性への関係は、本願において、後天的に付け加わってくるのではなく、かえってもともと本願のうちに内在するのである。したがって本願の普遍性は単に経験的普遍性ではなく、先天的な超越的な普遍性である。普遍性は真理の基本的な徴表であるが、単に経験的な普遍性は真の普遍性であることができぬ。しかしまた単に超越的な普遍性は現実との関係を欠いて真の普遍性の意義を有しない。本願の普遍性はかくのごとき抽象的な普遍性ではなく、十方衆生の普遍性をそれ自身のうちに含んで、現実的普遍性への傾動をそれ自身のうちに含んでいる。

 しかしながら十方衆生の普遍性もなお抽象的である。宗教においてはどこまでも自己が救われるということが問題である。理論の幽玄も論理の透徹も、その教法が自己を救うものであるか否かという切実な問の前には、何らの権威も有しない。自己は十方衆生のうちに含まれると考えられる。しかし単にかく考えられる自己は類概念のひとつの例としての自己に過ぎず、生きた真に現実的な自己ではない。十方衆生はそれ自身としては類概念である。宗教的真理は実存的真理、言い換えると、生ける、この現実の自己を救う真理でなければならぬ。親鸞が求めた教法はまさにかくのごとき実存的真理であったのである。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」と『歎異鈔』にいわれている。彼は教を単にその普遍性において見たのではない──それは単に理論的な態度に過ぎない──彼はこれを絶えず自己の身にあてて考えたのである。『教行信証』において種々の経論を引いて諄々として教法を説き去り説き来る親鸞は、諸所において突如として転換していわゆる自督の文を記している。この劇的な転換の意味は重要である。この自督の文は電撃のごとく我々の心を打つ。今や彼は自己にかえって客観的普遍的な教法を自己自身の身にあてて考えるのである。自督とは自己の領解するところをいう。教法の真理性は自己において自証されるのでなければならぬ。教は誰のためでもない、自己一人のためである。かくして「十方の衆生」のための教は実は「親鸞一人」のための教である。普遍性は特殊性に転換する。かかる転換をなしおわることによって普遍性もまた真の普遍性になるのである。今や特殊性に転換した普遍性は現実的に普遍性を獲得してゆく。教をみずから信じた自己は人を教えて信じさせる。いわゆる自信教人信の過程において十方衆生の普遍性が実現されてゆく。このとき十方衆生はもはや類概念のごとき抽象的な普遍ではなく、自己のうちに特殊性をそのままに含む具体的な普遍となる。それは同朋同行によって地上に建設されてゆく仏国にほかならない。

『末燈鈔』に収められた慶信の師親鸞への消息の中には、「摂取不捨も信も念仏も、人のためとおぼえられず候」とある。


「我が歳きはまりて安養浄土に還帰すといふとも、和歌の浦曲の片雄波よせかけよせかけ帰らんに同じ。一人居て喜ばば二人と思ふべし。二人居て喜ばば三人と思ふべし。その一人は親鸞なり。

 われなくも法は尽きまじ和歌の浦

   あをくさ人のあらんかぎりは。」

といわゆる『御臨末御書』の中には親鸞の遺言として伝えられている。「親鸞一人」のためのものと思われた救済の教は、救済の成立すると同時にそれがもともと「十方衆生」のためのものであることが理解されるのである。

 ところで本願は言うまでもなく弥陀の本願である。経によれば、この仏は仏と成る前には法蔵菩薩といい、世自在王仏のもとにおいて無上殊勝の四十八の願を建て、それに相応する行をかぎりなく長い間修め、願が成就して仏と成って阿弥陀仏と称した。本願は弥陀の本願として特殊のものである。しかしながらこの仏は単に自己のみが成仏することを志願したのではなく、弘く世とともに救われんことを誓ったのである。弥陀の本願はこの仏〔以下欠〕


社会的生活


 浄土真宗における真俗二諦論は異説の多い教義である。いま親鸞の著作に出典を求めると『教行信証』化巻に『末法燈明記』から次のごとく引かれている。「それ一如に範衛してもて化をながすは法王、四海に光宅してもて風に乗ずるは仁王なり。しかればすなはち仁王法王たがひに顕はれて物を開し、真諦俗諦はたがひによりて教をひろむ。」法王すなわち大法の王と仁王すなわち仁徳のある帝王とは相対し、真諦と俗諦との区別に相応するものである。故に真諦は仏法を、俗諦は王法をいうのであり、王法は世法であり、故にまた世間の法が俗諦であり、出世間の法が真諦である。右の文は真諦俗諦相依の意義を顕わしたものと解される。

 真諦俗諦の語がかくのごとく『教行信証』化巻において時代を勘決して正像末法の旨際を開示するにあたって、『末法燈明記』の文によって現われていることは、注目を要するであろう。すなわち真俗二諦の教義はその根源において末法思想に関係して、それ故に時代の自覚に従い、歴史的意識に基づいて理解さるべきものなのである。

 すでに述べたごとく、末法時の特徴は無戒ということである。そこには道俗の本質的な区別はなくなる。賢愚、善悪、凡聖、老少、男女の区別も意義をなくする。それは聖道自力の教とは異なる絶対的な教が出現すべきことを意味している。この教は信心を根本とする教である。「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」と『歎異鈔』にはいわれている。すなわち真理あるいは仏法、出世間の法は「信心為本」である。往生のためには他の善は要なく、念仏で足りるとすれば、すべての念仏者は、僧俗を分たず、貴賤貧富を論ぜず、平等でなければならぬ。末法時における無戒は諸善万行を廃してただ念仏のみが真実であるということの徴表である*。無戒ということは諸善万行の力を奪うものであり、そして積極的には念仏一行の絶対性、念仏の同一性、平等性を現わすものである。念仏はあらゆる人において同一であり平等である。念仏の行者はたがいに「御同朋御同行」である。かかる御同朋御同行主義は浄土真宗の本質的な特徴であり、そして、そこに信者の社会的生活における態度の根本がなければならぬ。かかる兄弟主義の根柢は全く「同一念仏無別道故」である**。しかも念仏がすべての人において平等であり、同一であるのは、この念仏が自力の念仏ではなくて他力の念仏であるがためである。もしも念仏が自力の念仏であるならば、各人の念仏に勝劣があり、平等ではないであろう。すべての念仏は弥陀廻向の念仏であるが故に、同一であるのである。そこにはもはや師弟の差別さえもあり得ないのである。「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」という。「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへはわがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて、念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり。」と『歎異鈔』は記している。同朋同行主義は念仏は弥陀廻向のものであるというところにその超越的根拠をもっている。そこには我はなくわが弟子もなく、ただ教法のみが人を尊厳ならしめるのであって、互いに「御同朋御同行」として相敬うのである。かかる同朋思想は、念仏の行者は同じ縁につながるものであるという意識によって深められるであろう。「ああ弘誓の強縁、多生にもまうあひがたく、真実の浄信、億劫にもえがたし、たまたま行信をえば、とほく宿縁をよろこべ。」と『教行信証』総序にはいわれている。弥陀の法を聞くということは重縁によるのであり、如来の方から我々に結ばれた強縁によるのである。たまたま信心を得たものはかかる宿縁をよろこぶべきであり、念仏の行者はかかる宿縁においてつながるものとして原始歴史的自覚において、同朋の意識を深めるのである。〔欄外「『たまたま』原始歴史」〕『大無量寿経』には、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大によろこばば、すなはち、わが善き親友なり。」と仏は述べている。

*「問ていはく、聖人の申す念仏と、在家のものの申す念仏と、勝劣いかむ。答へていはく、聖人の念仏と、世間者の念仏と、功徳ひとしくして、またまたかはりあるべからず。」と法然は書いている。

**曇鸞の『往生論註』下には「同一に念仏して別の道無きが故に、遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり」と示されている。

 ところで無戒という時代の特徴は、単に出世間の法のみではなく、同時に世間の法が重んじられねばならぬことを意味する。世間の生活から遊離することなくして仏法を行ずるということに無戒ということの積極的意義がある。浄土門の教が易行道であるということは、それが出世間の法として行ない易いことを意味するのみではなく、かえって生活と信仰とが分離することなく、生活が念仏であり、念仏が生活であるべきことを意味するのである。法然はいう。

「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろづをいとひすてて、これをとどむべし。いはく、ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家に居て申すべし。自力の衣食にて申されずば、他人にたすけられて申すべし。他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。一人して申されずば、同朋とともに申すべし。共同して申されずば、一人籠り居て申すべし。」

 さて世間の法すなわち俗諦は、浄土真宗の宗乗学者によれば、「信心為本」に対して「王法為本」である。あるいは信心正因、称名報恩に対して、「王法為本」、「仁義為先」といわれている。この語は宗祖の法孫蓮如上人の『御文章』に、「ことにまづ王法をもて本とし、仁義をさきとして世間通途の儀に順じて」という言葉に出づるものである。同じく『御文章』には「ことにほかには王法をもておもてとし、内心には他方の信心をふかくたくはへて、世間の仁義をもて本とすべし。これすなはち当流にさだむるところのおきてのおもむきなりとこころうべきものなり。」といい、また「それ国にあらば守護方、ところにあらば地頭方にをひて、われは仏法をあがめ信心をえたる身なりといひて、疎略の儀ゆめゆめあるべからず。いよいよ公事をもはらにすべきものなり。かくのごとくこころえたる人をさして、信心発得して後生をねがう念仏行者のふるまひの本とぞいふべし。これすなはち仏法王法をむねとまもれる人となづくべきものなり。」といい、また『御一代記聞書』には「王法は額にあてよ、仏法は内心に深く蓄えよ」ともいっている。宗祖親鸞においてはかような定式は見出されない。『御消息集』には次のごとく書かれている。「念仏まふさん人々は、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため、国民のために、念仏をまふしあはせたまひさふらはば、めでたふさふらふべし。往生を不定におぼしめさん人は、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏さふらふべし。わが御身の往生一定とおぼしめさん人は、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれてまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞおぼえさふらふ。」この言葉は普通に解釈されているごとく王法為本の思想を現わすものと見ることができるであろう。しからば仁義為先についてはいかがであるか。仁義の思想は言うまでもなく儒教に出づるものであって、わが国においても儒教の流伝とともに国民道徳の基本となったのである。しかるに『教行信証』化巻には『論語』が引用されている。『論語』は、幾多の書からの引用文から成っている観のある『教行信証』に引用されている唯一の外典である。このことは親鸞がいかに論語を重んじていたかを示すものであろう。したがって彼は世間の法については論語によるべきことを教えたと解することができる。

 さて論語からとられた文は、「季路問、事鬼神。子曰。不能事。人焉能事鬼神。」であり、「季路とわく、鬼神につかえんかと。子のいわく、つかうることあたわず、人いずくんぞよく鬼神につかえんやと。」と読ませている。しかるに『論語』「先進篇」(第十一)ではこの文は「季路問事鬼神。子曰。未能事人。焉能事鬼。」であり、「季路、鬼神につかうるを問う。子いわく、いまだ人につかうることあたわず、いずくんぞよく鬼につかえん。」と読ませ、まだ人間に対してさえつかえることのできない者がどうして鬼神につかえることができようかという意味に解せられる。しかるに親鸞は後の「鬼」とあるのを「鬼神」とし、「未能」の二字を「不能」と改めた上、「未能事人。焉能事鬼。」を「不能事。人焉能事鬼神」と読みかえさせている。これによって、季路が鬼神につかうべきであるかと尋ねたのに対し、孔子は、つかえることができない、人間は鬼神以上のものであるから、人間より低い鬼神につかえ得るはずのものではないと答えた、と解するのである。この引用に先立って彼は種々の文を挙げて鬼神をおとしめているのである。彼は当時の仏教がこの世の吉凶禍福に心を迷わし、卜占祭祀を事とし、迷信邪教に陥っていることに対して鋭い批判を向けた。『愚禿悲歎述懐』には「五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり」といい、また「かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに 仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す」といっている。そこで親鸞は諸経典を根拠として真実の教と虚偽の教とを分別し決著して外教邪偽の異執を教誡する。『涅槃経』には「仏に帰依せん者はつゐにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」といい、『般舟三昧経』には「みづから仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道につかふることをえざれ、天を拝することをえざれ、鬼神をまつることをえざれ、吉良日をみることをえざれ。」といって、仏教徒の帰依すべきはただ仏と法と僧との三宝であり、もっぱら仏道につかえて、天を拝したり、鬼神をまつったり、日の吉凶を卜したりするがごときことをしてはならぬと教えている。かかる迷信は仏教の否定するところである。念仏者は鬼神を畏れることを要しない。「念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障礙することなし。罪悪も業報も感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆへに、無礙の一道なりと云々」と『歎異鈔』には記されている。迷信は何によって生ずるのであるか。『華厳経』には「占相をはなれて、正見を修習せしめ、決定してふかく罪福の因縁を信ずべし。」とある。迷信の生ずるのは正見を欠き、罪福の因縁を信じない故である。罪福の因縁を信じない者は、自己の幸不幸を天や鬼神の星辰の力によるものと考え、かくして天を拝したり、鬼をまつったり、星を占ったりする。しかし彼らははたして真に超越的なものに帰依しているのであろうか。彼らが天や鬼神を畏れるのは自己のこの世における感性的な幸福を求めるためである。彼らは我愛、我慢のこころを離れず、我に執著している。『起信論』には「外道の所有の三昧は、みな見愛我慢の心をはなれず」といっている*。かくして迷信の根拠は我愛、我慢のこころであり、我を超越した天や鬼を拝している者は実は我を拝しているのである。それらの天神や鬼神が擬人的に表象されるのも当然である。

*『倶舎論』には、「衆人、所逼を怖れて多く諸仙の園苑、および叢林、孤樹、制多等に帰依す」とあるが、迷信の起原は我々の生の「所逼」、災害、無常等の生の窮迫を怖れて、現在の欲楽を求めるところから邪神淫祠が生ずるのである。

 偶像崇拝や庶物崇拝は人間が人間以下の邪神や自然物の奴隷となることであり、全くの邪道である。かような邪道が盛んになるということも末法時の悲しさである。『首楞厳経』にいう、「わが滅度ののち、末法のなかに、この魔民おほからん、この鬼神おほからん、この妖邪おほからん。世間に熾盛にして、善知識と称して、もろもろの衆生をして愛見の坑におとさしめん。菩提の路を失し、眩惑無識にして、おそらくは心を失せしめん。所過のところに、その家耗散して、愛見の魔となりて、如来の種を失せん。」

 ところで親鸞は拝天、祠鬼、占星等の迷信について論ずるに当り、特に『弁正論』を引いて、道家の思想を批判している。道家の思想は多く迷信を生ぜしめたからである。これに対して右の『論語』からの引用は鬼神につかえることの非なるを述べたものであり、親鸞が儒教のヒューマニズムを重んじたことが知られる。

 仏教と外教とはどこまでも区別されねばならぬ。道家のごときは虚無恬淡を説いて一見仏教の根本思想と等しいようであるが、これに対して親鸞は『弁正論』を引いて批判を加えている。儒教の説くところは正しいにしても、「ただこれ世間の善」に過ぎない。仏教は絶対的である。この絶対的真理に対してその余の教はすべて邪教である。『涅槃経』には道に九十六種があって、ただ仏の一道のみが正道であり、他の九十五種はみな外道であると述べている。「九十五種みな世を汚す、ただ仏の一道のみひとり清閑なり」と善導はいっている。仏教とその他の教との価値の差別は絶対的である。我々はまずこのことを知らねばならぬ。仏教は絶対的真理であり、他の教の真理は相対的価値を有するに過ぎぬ。しかも、相対的真理はその相対的価値においていかに高まるにしても、またそのすべてを加え合せても絶対的真理となることはできない。

 我々にとって何よりも必要なことはまずこの絶対的真理を把捉することである。しかもこれはただ超越によって捉えられることができる。信とはかくのごとき超越を意味している。相対的真理から絶対的真理へは非連続的である。これに反して絶対的真理から相対的真理へは連続的である。前者は後者の根拠としてこれを含むことができる。親鸞は信巻において『浄土論註』から次の文を引いている。「もし諸仏菩薩、世間出世間の善道を説きて、衆生を教化するひとましまさずば、あに仁義礼智信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。」すなわち世間の法たる仁義礼智信の五常もまた仏道におさまるのである。仏法があるによって世間の道も出てくるのである。

底本:「現代日本思想大系 33」筑摩書房

   1966(昭和41)年530日発行

初出:「展望」

   1946(昭和21)年1

入力:川山隆

校正:松永正敏

2007年1116日作成

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