或る秋の紫式部
岡本かの子
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時
寛弘年間の或る秋
処
京の片ほとり
人
紫式部 三十一二歳
老侍女
妙な美男
西向く聖
(舞台正面、質素な西の対屋の真向き、秋草の生い茂れる庭に臨んでいる。その庭を囲んで矩形に築地垣が廻らされているが、今は崩れてほんの土台の型だけ遺っているばかりなので観覧席より正面家屋の屋内の動静を見物するのに少しも差支えない。
上手、築地垣より通路一重を距てて半、紅葉した楓の木の下に、漸く人一人の膝を入れるだけの庵室。傍に古井。
正面、対屋の建築は、紫式部の父、藤原為時の邸宅の一部であって、為時は今、地方官として赴任中、留守であるが、式部はしばらく中宮より宿下りして実家の此の部屋に逗留しているところ。几帳、棚、厨子など程よく配置されてある中で式部は机に向って書きものをしている。老侍女は縁で髪を梳きかけている。隣の庵室には上手を向いて老いさらばった老僧が眼を瞑って端座している。虫の声。)
老侍女(髪を梳き終って道具を片付けながら)「ああ、やっとこれで気持ちよくなりました。なにしろ年をとりますと禿げますせいか、頭が始終、痒ゆうございまして、時ならないときに梳き度くなるのでございます。ほんとに我儘をさせて頂いて申訳ございません。(手をついて礼をして)お蔭さまで気がせいせい致しましてございます」
式部(筆を持ったまま)「なにも、そう一々、鹿爪らしく御叩頭には及ばないよ。御殿で勤め中と違って、私宅で休暇中なのだから、まだ外に、したい事は何なりと思いつくままにするがよろしいよ」
老侍女「有難うございます、いえもう、自由にはとっくにさせて頂いておりまして、この上、そうそうは余り勿体のうございます」
(妙な美男、上手より登場、急いで、在るか無きかの築地垣の陰に屈み込む)
式部「あれ、誰か、そこに人が来たようだね」
老侍女「そうでございますか、わたくしは一向気が付きませんでございましたが、どれどれ」(縁へ伸び上りあたりを見廻す。妙な美男、ちょっと屈み上り、老侍女に手招きをする)
老侍女「なるほど、どなたか、いらっしゃるようでございますねえ。あの、どなたでございます」
式部(つと立上り)「こんな様子を人に見られるのは嫌じゃ。わたしは隠れてしまうから、お前、よく用心しといてくれ」(式部、几帳の陰に隠れる)
老侍女「はいはい承知いたしました。それがおよろしゅうございましょう。しかし、おかしな人もあればあるもの、黙って外から人を手招きして。まさか昼日中、盗賊じゃあるまい。(履物を穿いて近づく)。もし、そこのお方、どなたでございます。どなたでございます」
(妙な美男、しきりに手招く。老侍女がそばに来たときに男、ぬっくと立上る)
妙な美男「今日は」
老侍女「ひえっ! びっくりしますわ。この人は急に人の眼の前に立ちふさがって」
妙な美男「いや、驚かせて済みません。驚かすつもりは、ちっとも無かったんですが」
老侍女「何か御用なんですか。御用なら早くおっしゃって下さいませんか」
妙な美男「では、お尋ねしますが、いま、あすこに筆を持って書いていられた女性は、紫式部さんでしょう。そうでしょう」
老侍女「そうでございます。世間で専ら評判の高い奥様でいらっしゃいます」
妙な美男「そして、いま書いていらっしゃるのは源氏物語の続きでしょう」
老侍女「どうでございますか、私どもなんかには判りませんです」
妙な美男「いや、それに違いありませんよ。(眼を瞑って想像するように)、奥様は今、きっとあの物語の中の死んだ夕顔の事を忘れ兼ねている源氏の君の心を思いやって、そうだ、そこから次の恋人の発見への物語に筆を進められていられるところに違いない。そうですよ、きっと、そうですよ」
老侍女「何とでも御想像になるのは御勝手ですが、一体、あなた様は何の御用でいらっしたのでございます」
妙な美男「御用と開き直られると困るんですが、若し伺えたら伺ってみたいのです。紫式部という方はどんな方ですか。世間の噂の通り、貞淑堅固の御婦人ですか、それとも内心には、ちっとは人の情熱に動かされ易い熱情的なところを持っていられますか。そのところを伺えると大変都合がいいんですけれど」
老侍女「どうでございますかわたくしには、……ただ、下々には思い遣りの深い良い奥様でございます」
妙な美男「それだけじゃ、何の足しにもなりませんね。もっと男女の愛情に対する性格を伺わなくっては」
老侍女「それほど御執心なら、あなたこそ直接に奥様にお会いを願って、ご自分でお見分けになったらいいじゃございませんか」
妙な美男(溜息をして)「とてもとても、そんな勇気が出ないのです。私には式部の作品を通して式部は相当、熱情的の方とは思われますが、しかし一方、ひどく鋭いところもあらるるようなので、実際臆病になっちまうのです。それでこんなにあの方をお慕い申していながら仲々お会いする勇気が出ませんのです。まあ今日は此の儘、帰りますから、あとでこの色紙を奥様に差し上げて下さい。さようなら」
(妙な美男、家を振り返り振り返り残り惜し気にとぼとぼと下手へ入る。老侍女、手に色紙を持ったまま、暫らく呆れたように見送っていたが、やがて気がつき、部屋へ戻る)
老侍女「奥様、奥様」
式部「なんですか」(式部、几帳から出て来る。黙って色紙を受取ろうと老侍女へ向って手を出す)
老侍女「奥様、ほんとに妙な人じゃございませんか。相当、いい男の癖に、何だか判らない事ばかり言って」(色紙を渡す)
式部「ああ、もう、話さなくっても、みんな陰で聴いていたよ。ありゃ、なんでもないんだよ。恋をするにも真正面に相手にぶつかって真心を打ち付ける気魄も無くなり、ただふわふわ恋の香りだけに慕い寄る蝶々のような当世男の一人さ。あっちの花で断られれば、こっちの花に舞い下ってみる。しかし、恋歌は流石に手に入ったものだね」(口の中で読んで、色紙を破って捨てる)
老侍女「蝶々としたらほんとにいやらしい、暇つぶしの蝶々でございますねえ」
式部「けども、また、いじらしいところもある蝶々さ、そうお憎みでないよ」
(式部再び机に向って筆を執る。老侍女は所在なさそうにまじまじ式部の様子を見入っている)
(夕暮に向う鐘、虫の音高くなる)
老侍女「ねえ、奥様」
式部「なんです」
老侍女「今朝ほどから随分とお根詰めじゃございませんか。それじゃあんまり、お身体にお毒でございますよ」
式部「これだけは放って置いておくれ、物を書くのは、言って見れば、まあ、わたしの虫のせいなのだからね」
老侍女「そうでございますか。何だか知りませんが、わたくしは、こちらへ参りましてから根のいい方をお二人お見受け申しました。一人は隣の庵室の聖さま、一人はうちの奥さま。恐らく世間にこれほど根のいい取組はございますまい。お一人は坐って西の方を睨みづめ、お一人は筆を握って書きづめ。やっぱり、お隣のも、虫のせいでございますか」
式部「ほ、ほ、ほ、お隣のは虫は虫でも、だいぶ、真剣な虫のせいのようだね」
老侍女「一たい、お隣の聖さまは、ああ昼も夜も坐ったきり西の方を睨んで何をしていらっしゃるんでしょう」
式部「そりゃ、行をしていらっしゃるのさ」
老侍女「行と申しますと」
式部「極楽へ行くお修行さ」
老侍女「へえ、ああやってると極楽へ行けますのでございますか」
式部「あのお方は行けるとお信じになっているのだよ。極楽は西の方に在るというから、その方へ身も心も向け切りにしていたら、いつか必ず極楽へ行けるとお信じになってるのだよ」
老侍女「本当でございましょうかしら」
式部「本当かも知れないし、本当でないかも知れない」
老侍女「嫌でございますわ、奥さま。それが若し本当でないとしたら、あの聖さまは一生無駄骨じゃございませんか」
式部「無駄骨であるか無いか、それは誰にも判らない」(式部はいつか筆を置いて、屈托気に頬を襟に埋めている)
老侍女(不勝手ながら胸の中で頻りに考え廻らしている様子あっての後)「ひょっとしたら骨折り甲斐が無いのかも知れませんでございますよ。何でもあの聖さまは毎日、陽が西の空に廻る時分から譫語を言うのでございます、半病人のようになって、わたくしは気味も悪いし、奥さまのお妨げになってもいけないと思ったので、申上げずにいましたが、頻りに焦慮る様子を見ると、どうも覚束ない様子でございますねえ」
式部「わたしも、薄々は気付いているが、声はよく聞き取れない」
老侍女(縁先へ首を出してみて)「あら、もう、陽が西に廻りましてございます。それそれ、聖さまがむずむず身体を動かし始めなされました。そら、始まりますですよ。奥様、お早くいらっしゃい」
式部「どれ」
(二人は縁先へ身体を乗出して聴く)
聖「筏を漕ぐ、浪の音が聞える……あれは聖衆の乗らるる迎えの舟だ。五濁深重の此岸を捨てて常楽我浄の彼岸へ渡りの舟。櫂を操る十六大士のお姿も、追々はっきり見えて来た。あな尊とや観世音菩薩、忝けなや勢至菩薩。筏の舳に立って、早や招いていらるるぞ。やっしっし、やっしっし、それ筏は着くぞ。あの妙なる響は極楽鳥の鳴き声じゃな。得ならぬ香りはおん浄土の蓮の花を吹き開く風の訪れだ。それもう聖衆方、ひと漕ぎでござりまするぞ……こちらへ着きまするか、はいはい。支度は出来とります……はいはい、……これはいかなこと、もう一櫂、掻き下されと申すに。したら着きまする。のうのう、それじゃ、こちらへ寄りはしまいで、沖へ遠のきますと申すに。はてさて、意地の悪い菩薩方じゃ。だんだん筏は離れてしまいまする。ええ、それでは人焦らしに漕いで来られたようなものじゃ……おーいおーい、その舟、その筏、影はだんだん薄れて行く。もうすっかり見えなくなった。拙ない宿世か、前世の悪業か、あーあ今日もまた、極楽への行き損じか。誰を恨まんようもない。身も根も疲れ果てた。悲しもうにも涙も尽き果てた」
(聖、がっくりする。式部と老侍女は顔を見合す)
老侍女「どうやら、聖さまは極楽行きのお船に乗り損なったようじゃございませんか」
式部「そうだよ。こういう時代の人間は、あれほどの骨折をしながら、人間の中に何か此の世に引き付けられるものが漉き込まれていて、解脱が手の届くところまで来ていても、どうしても掴めずに引戻されるらしい」
老侍女「何が、そんなに邪魔をするのでございましょう」
式部(縁にしゃがんで、たわわに咲き傾いている女郎花を一つ手折って老侍女に示しながら)「おまえには言っても判るまいがそれは美しいものに牽かれるという心だよ。この心が此の世に魅力を持たせて、捨てようにも捨てさせ切らせないのだよ。わたしのようにとっくに尼になってもいい未亡人でもさ」
老侍女「あら、奥さま、驚きました。それじゃ、何でございますか、お堅いお堅いとお見上げ申した、あなた様にも、その奥には、そんな浮々したお心がおありなのでございますか」
式部(女郎花を机の先のあか桶に挿し、それから再び机の前に坐って)「何でそんなに驚くの。今の世の中の人はみんな蝶々、さっきの妙な若い男も、お隣の聖も、未亡人のわたしも誰でも色香にひかれる気持ちは一つなのだよ」
老侍女「そう致しますと、わたくしは、これから奥様のお取締りに油断は出来ませんでございますねえ」
式部「ほ、ほ、ほ、ほ、それは大丈夫。わたしのあこがれは皆、この鎧を通して矢を射交わすのだからね。(筆と紙を指先でつまんでみせて)滅多に傷は受けないんだよ」
老侍女「つまり、お気持は全部、筆にこめて紙の上だけに射るのだからとおっしゃるのでございますか」
式部「ほ、ほ、ほ、ほ、そこがつまり虫のせいだろうか」
老侍女「でも、おかしゅうございますねえ、そんなに此の世の美しさに牽き付けられなさるあなた様が、始終、阿弥陀さまを拝んでいらっしゃいますとは」
式部(合掌して独言のように)「迎えの雲、この世の岸、たゆたう渚に、あわれにも懐しきわたしの浄土があるのだ。人の世の果敢無さ、久遠の涅槃、その架け橋に、わたしは奇しくも憩い度い……さあ、もう何も言わないでね。だいぶ暗くなったから、燈でもつけて、それからお斎でもお隣の聖におあげなさい」
老侍女「はい」(老侍女は何の事とも判らず阿弥陀仏に一礼し燈台を式部の机に備え、それから斎を用意し隣へ持って行く。日はとっぷり暮れ、鉦磬と虫の声、式部は静かに筆を走らす。)
底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「巴里祭」青木書房
1938(昭和13)年11月25日発行
初出:「むらさき」
1935(昭和10)年11月号
入力:門田裕志
校正:オサムラヒロ
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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