癩院記録
北條民雄
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入院すると、子供を除いて他は誰でも一週間乃至二週間ぐらゐを収容病室で暮さなければならない。そこで病歴が調べられたり、余病の有無などを検査されたりした後、初めて普通の病舎に移り住むのであるが、この収容病室の日々が、入院後最も暗鬱な退屈な時であらう。舎へ移つてしまふと、いよいよこれから病院生活が始まるのだといふ意識に、或る落着きと覚悟とが自ずと出来、心の置きどころも自然と定つて来るのであるが、病室にゐる間は、まだ慣れない病院の異様な光景に心は落着きを失ひ、これからどのやうな生活が待つてゐるのかといふ不安が、重苦しくのしかかつて来る。それに仕事とても無く、気のまぎらしやうもないまま寝台の上に横はつてゐなければならないので、陰気な不安のままに退屈してしまふのである。
舎へ移る前日になると附添夫がやつて来て、舎へ移つてからのことを大体教へてくれ「売店で四五十銭何か買つて行くやうに。」と注意される。その四五十銭がまあいはば入舎披露の費用となるのであつて、たいていが菓子を買つて行つてお茶の飲むのである。
その日になると附添夫が三人くらゐで手伝つてくれ、或る者は蒲団をかつぎ、或る者は茶碗や湯呑やその他の日用品を入れた目笊をかかえてぞろぞろ歩いて行くのである。さうしていよいよ癩院生活が始まるのである。
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病舎は今のところ全部で四十六舎、枕木を並べたやうに建てられてゐる。だいたい不自由舎と健康舎とに大別され、不自由舎には病勢が進行して盲目になつたり義足になつたり、十本の指が全部無くなつたりすると入れられ、それまでは健康舎で生活する。ここで健康といふ言葉を使ふと、ちよつと奇異に感ぜられるが、しかし院内は癩者ばかりの世界であるから癩そのものは病気のうちに這入らない。ここへ来た初めの頃、「あんたはどこが悪いのですか。」といふ質問を幾度も受けたが、それはつまり外部へ表はれた疾患部をさしてゐるのであつて、その時うつかり、「いや癩でね、それで入院したんですよ。」とでも答へたら大笑ひになるであらう。それは治療の方面についても言はれることであつて、癩そのものに対する加療といへば目下のところ大楓子油の注射だけで、あとはみな対症的で、毀れかかつた自動車か何かを絶えず修繕しながら動かせてゐるのに似てゐる。
だから、不自由舎へ這入らない程度の病状で、よし外科的病状や神経症状があつても、作業に出たり、女とふざけたり、野球をやつたり出来るうちは、健康者で、健康舎の生活をするのである。
不自由舎には一室一名づつの附添夫がついてゐて、配給所(これは院の中央にあつて飯やおかずはここで配給される。食ひ終つた食器はここへ入れて置かれる。)へ飯を取りに行つたり、食事の世話をしたり、床をのべてやつたりする。これは作業の一つで、作業賃は一日十銭から十二銭までが支給される。
舎は各四室に区分されてゐて、一室十二畳半が原則的であるといへよう。他に三十二畳などといふのもあるが、これはこの病院が開院当時に建てられたままのもので、今はただ一舎が残つてゐる切りで、あとは六畳の舎が少しある。一室につきだいたい六人から八人くらゐの共同生活が営まれ、この部屋が患者の寝室となり食堂となり書斎となり、また棋を遊ぶ娯楽室ともなるのである。
男舎には、松栗檜柿などといふ樹木から取られた舎名がつけられ、女舎には、あやめ、ゆり、すみれといふ風に花の名が舎名としてつけられてゐる。舎の前には一つづつ小さな築山が造られ、その下には池が掘られて金魚などが泳ぎ、また舎の裏手には葡萄棚などが拵へられて、患者達は少しでも自分達の住む世界を豊かにしようと骨を折る。ここを第二の故郷とし、死の場所と覚悟してゐるので、まだ小さな苗木のうちから植ゑつけて大きくしようとする。
このあたりは土質が火山灰から出来てゐるせゐであらう、常にぼこぼことしまりのない土地で、冬が来ると三寸四寸といふ氷柱が立ち、春になつて激しい北西風が吹くと眼界も定かならぬほど砂ぼこりが立つと空間が柿色になつてしまふ。だから雨など降るとひどいぬかるみが出来て、足に巻いた繃帯はどろどろに汚れ、盲人は道路に立つたまま動きやうもなく行きなやまなければならない。そこで院内の幹線道路には石が敷かれて歩行を助けるやうに出来てゐる。まあこれが病院のメーンストリートで、病舎はこの石道に沿つて建てられてゐる。
そしてこれらの石道は、病院の西端にある医局に向つて集中し、医局の周囲には十個の重病室が建ち並んでゐる。重病室からちよつと離れて収容病室があり、更に離れて丹毒、チブス、赤痢等の病人が這入る隔離病室が三棟ぱらぱらと散らばつてゐる。その向うは広々とした農園と果樹園になつてゐ、青々と繁つた菜園の彼方に納骨堂の丸屋根が白く見え、近くには焼場の煙突が黄色い煙を吐いてゐる。
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病院とはいふが、ここは殆ど一つの部落で、事務所の人も医者も、また患者達も「我が村」と呼ぶのが普通である。子供は午後から学校へ通ひ(午前中は各科の治療を受けねばならない)大人達は朝早くからぞれぞれの職場へ働きに出かけて行く。
仕事も一村に必要なだけの職業は殆ど網羅されてゐて、大工、左官、土方、鉄工、洗濯屋、印刷所、教員、百姓、植木屋、掃除夫等々、その上にここのみに必要な仕事としては、女達の繃帯巻き、不自由舎の人のガーゼのばし(一度使用された繃帯やガーゼは洗濯場で洗はれる。それを巻いたり広げたりする仕事をいふ)その他医局各科の手伝ひ、不自由舎・病室の附添など、失業といふことはまづないやうである。
作業賃はだいたい十銭が原則であるが、仕事によつてはやはりまちまちである。勿論強制的に就業しなければならないといふことはなく、それぞれの好みに従つて仕事を選んで良いのである。義務作業といはれるものも二三あるが、これは交替で行はれる。例へば重病室や不自由舎の附添夫が神経痛や急性結節で寝込んだりすると健康舎から臨時附添夫が出なければならない。この場合も作業賃は十銭が支給される。
小遣ひは一ヶ月七円と定められてゐるが、それは自宅から送金されたものを使ふ場合であつて、院内で稼いだ金はいくら使つても差支へない。だから働いてゐさへすれば小遣ひに困るといふことはないやうである。また不自由になつて不自由舎の人となり、或は三年五年と重病室で寝て暮したりする場合には、毎月いくばくかの補助金が下がる。
女達の仕事としては前にも言つた繃帯巻きがその主なるものであるが、その他には医局各科の手伝ひ、女不自由舎の附添などがある。また男達の着物を縫つたり、ジャケツを編んでやつたり、洗濯物を洗つてやつたりする仕事もある。
そのうち、良い金になると評判されてゐるのは洗濯と、女の盲人のあんまである。
あんまは上下三銭、洗濯は掛蒲団の包布が二銭、敷布が一銭、着物・シャツその他は凡て一銭といふのが不文律になつてゐる。しかしやはり数多くやり、いはば薄利多売的傾向をもつてゐるので案外の金になるさうである。
もつとも洗濯屋は、誰でもすぐ思ひ通りに開業するといふ訳にはゆかない。やはり永年ここにゐた者でないと信用がないので、得意をもつことが出来ない。得意先が出来ると毎日御用聴きに廻るところは、院外の商売と似てゐる。
男達は仕事から帰つて来ると、すぐ長い着物を着て女舎などへ遊びに行くのが多いが、しかし働き者はそれから農園に出て大根を作り馬鈴薯を作る。中に女房と二人で暗くなるまで土を返すのもあつて、ちよつと平和な風景である。
かうして作られた農産物は、炊事場に買ひ取られる。得た賃銀は女達の半襟になり腰紐に化ける。また独身者は農産物を炊事場に出すのを忘れてこつそり女舎に貢いだり、将を射んとせば先づ馬を射よで、相手の娘の兄のところへ提供して敵本主義をやる。女の方が男より癩に対して抵抗力が強いといふことは医学でも言はれてゐて、病院には女が非常に少い。だいたいのところ女は男数の三分の一で、だから癩者の世界では女は王様のやうなものである。
「ちえつ、女なんか。」男たちは一様に軽蔑したやうな口を利くが、実は内心女の顔色を窺つてゐるのが多いやうである。
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「ちゆうしやだよう──注射だよう。」
農園や印刷所や豚舎などで働いてゐると、遠くの方からさういふ声が微かにに聴えて来る。「ああ注射が始まつたな。」と彼等は、鍬を捨て文選箱を投げて注射場へ集まつて行く。大楓子油の注射である。
注射は医局と、風呂場にくつついてゐる外科の出張所と二ヶ所で行はれる。遠くで働いてゐる患者達に報せるためにメガホンでどなるのである。早く来た者から順にずらりと列を作つて、自分の番の来るのを待つてゐる。或る者は腕をまくり或る者は臀をまくつてゐる。看護婦がぶすぶすと針をさして行く。五瓦の注射器であるから、針は太く、ここへ来たばかりの者はちよつとびつくりしてしまふが、患者達は平気である。自分の腕や股に、畳針よりちよつと細いくらゐの針がぶすりと突きさされるのを平然と眺めてゐる。顔をしかめ、息をつめて「ああ痛い。」と大げさな表情を作つて見せると、看護婦は笑ひながら、「眼が醒めたでせう。」
「ああ全く眼が醒めた、こら、こんなに汗をかいたぜ。」
が、その実は麻痺してゐてちつとも痛くなかつたりする。そして帰りにはしみじみとした気持になつて、
「一本注射をうつ度に一つづつ結節が無くなつて行くといいんだがな。」
「大して効かんのが判つてるんだからなあ、気休めだ気休めだ。」
「しかし大楓子は全然効かんのかなあ。」
「いや、確かに効目はあるさうだ。完全に治り切ることは出来んが。」
「しかし雑誌に書いてあつたよ、再発後は丸切り効かないつて。」
「そんなことあるもんか、ようく見てみろ、大楓子をやらん奴はみな早く重つて行くよ。やつてる奴は重るのが確かに遅い。それから重くなつても、大楓子やつてる者は膿があんまり臭くないさうだぜ。こりや効いてる証拠だい。」
大楓子が効くと力説することが自慰のやうにはかない夢であるにしろ、やはり唯一のこの治療薬を全然無価値のものとは思ひたくないのである。
しかし中には全くあきらめてゐる者もある。そして注射するのはただ永年の惰性であつたり、また全然注射場へ現はれないのもある。だが殆どが、大して効果のないものだといふことを知つてをり、まあやらんよりはましだらう、といふくらゐの気持である。
これはこの病院に二十年余り暮してゐる人から聴いた話であるが、なんでも昔は、患者達が注射といふと奇妙に恐怖したり嫌悪したりして逃げ廻つて注射されようとしない。そこで仕方なく医局から大楓子注射の懸賞が出されたといふ。つまり一ヶ年のうちの注射の数を記録して、最も多いものに賞品が与へられたのである。
それから較べると今の患者はずつと向上してをり、注射しない者は非常に少数である。一体に癩者は医学といふものを信用しない傾向がある。それは今まであまりに幾度も医学にだまされて来たせゐであらう。時々新聞で誇大に取扱はれる癩治療薬の発見なぞも、療養所内の患者はたいていが馬鹿にしてゐて喜ばない。「ふん治るもんか。」と彼等は呟く。しかも治療薬の出現を待つてゐないのではない。半ばあきらめながら、しかしひよつと意外な薬が、たとへば梅毒に於けるサルバルサンのやうな薬が、発見されるかもしれないと夢のやうな希望を有つてゐる。かういふ希望が夢のやうなものであることを意識しながら、やはり捨て切れないのだ。だから彼等は療養所で研究を続けてゐる医者の言葉となると非常に信用する。それはその医者が永年の間癩ばかりを見、癩を専門に研究してゐることを知つてゐると同時に、他の医者のやうに誇大で断定的でないからである。
たとへば、この前「金オルノゾル」が発表された時も、患者は丸で相手にもしなかつた。ところが一日院長が全患者を礼拝堂に集めて、この薬の内容を説明し、効目があると思はれるから試験的にやつて見たい、希望者は申し込んで欲しい、と述べると、忽ち信用して、申込みは文字通り医局へ殺到した。が、残念なことにこの薬は効果がなかつた。
「結局、どんな薬をやつたつて効きやしない。」とみな苦々しく呟く。
さういふ訳で、彼等は学説よりも自分の体験を重んじ、先輩の言葉を信用する。大楓子油にしても、たとへ今もし医学が、これは全然癩に対して無効果であると発表したりしても、決して注射するのをやめはしないであらう。たいした効目はないが、しかしやつた方が良い、いくらかの効目はある、といふことを経験の上で知つてゐるからである。かういふ常識的な経験に信を置く結果、意外な失敗をやることがあると共に、また癩者独特の治療法を発見することもある。
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その一つに「ぶち抜き」といふのがある。誰がこれを考へ出したのか私は知らない。しかし長い間のうちに何時とはなしに患者間で行はれるやうになつたのだらう。
それは両足に穴をぶち抜くのである。と言ふと誰でも吃驚するに違ひない。そこで説明を要するが、手取り早く言へば両足に一つづつ穴をあけて、そこから全身に溜つてゐる膿汁を排泄しようといふ仕掛なのである。足といつても、勿論どこへでもあけるのではない。やはり決まつた場所がある。長い間の経験で自然とそこに定められるやうになつたのであらう。それは、内踝の上部三寸くらゐのところで、比目魚筋の上に団子くらゐの大きな灸をすゑるのだ。間違つても脛骨の上にすゑてはならないさうである。先日私の友人の一人がそれをやつたから、一見して置くに限ると思つて見に行つたが、何しろ団子ほどもあるもぐさ(決して誇張してゐない)がぶすぶす燃え出すのだから物凄い。
「おい熱かないか。」
と言ふと、
「麻痺してゐるからな。」
と彼は笑ひながら、横から団扇で煽る。じりじりと燃えて行くと、皮膚がぶちぶちといふやうな音を立てて焼ける。
もぐさが全部燃えてしまふと、その焼痕は真黒の水膨れになつてぶくぶくしてゐる。その水疱を彼は無造作に引き破つてしまふと、真赤にただれた肉が覗いてゐる上に、消毒した新聞紙をぺたりと貼りつけてぐるぐると繃帯を巻いて知らん顔してゐるのである。
続いてもう一方の足を焼いたが、今度は少し焼け過ぎて、水疱をはがして見ると赤い水蜜桃に腐りが這入つたやうに真中に心が黒く出来て、更にその中に白いすぢのやうなものがべろべろと覗いてゐた。これにもまた同じく新聞紙を貼りつけるのであつたが、誠に危険千万である。しかし彼は平気なものでそのまま翌日になると風呂へも這入り、出て来ると新聞紙を新しいのと取りかへる。新聞には血膿がべつとりくつついてゐる。
かうして四五日過ぎると彼は、非常に足が軽くなつた、夜もよく寝まれるやうになつたと言ふ。これは嘘ではないと思ふ。ぶち抜きをやるくらゐの足はかなりひどく病勢の進んだ足で、勿論潰瘍や潰裂はないが(潰瘍や潰裂があればぶち抜く必要がない)完全に麻痺してをり、また汗も膏も出ないで常に鈍重な感じがし、夏などは発汗がないから焼けた空気が足の中に一ぱいつまつてゐるやうな感じで実際堪へられないのである。夜など床の中に這入ると、足の置場に困り、どこへどう置いてみてもだるく重く、まるで百貫目の石が足の先にぶら下つてゐるやうな感じで、安眠が出来ないのである。だからぶち抜きは、なんと言ふか、通風口のやうなもので、効果は確かにあるさうだ。
かうしてぶち抜くと、出来た疵が治らぬやうに注意すると共に、またこれが動機で内部へ深く腐り込んで行き足を一本切断したりするやうなことがないやうに気をつけながら、一ヶ月から二ヶ月くらゐ新聞紙を毎日取りかへる。この貼紙は新聞紙よりも油紙の方が良く、傘に貼られた紙を破つて来て利用するのが普通であるが、新聞でも悪いといふことはない。勿論消毒は十分に行はれねばならない。そして一ヶ月なり二ヶ月なり経つて、もう十分膿も出たし、足も軽くなつたと思はれると、今度はリバーノオルなり何なりをつけて疵を治してしまへばよいのである。医者はかういふことを余り好まないので、やたらにぶち抜くことは許されないが、それは丹毒その他に対して甚だ危険だからであらう。癩者は皮膚その他の抵抗力が弱つてゐるから丹毒などはすぐ伝染してしまふのである。
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癩患者にも趣味といふものはある。いや、どこよりも癩院は趣味の尊ばれる所かも知れない。一番多くの人がやるのは投書趣味であらう。彼等はこれを「文芸」と称してゐるが、俳句などは文字通り猫も杓子もといふ有様で、不自由舎などでは朝から晩まで、字を一字も知らない盲人が「睡蓮や……睡蓮や……」と考へ込んでゐたりする。それから新聞紙上に表はれる募集物に片端から応募するのを商売のやうにしてゐるのもゐる。俳句・短歌は勿論、仁丹、ライオン歯磨、レートクレーム等々の懸賞、ものは附から標語に至るまで、なんでもかでも応募する。たいてい用紙は官製はがきだから、一種に対して一銭五厘だけ投資すればすむ。そして投函した次の日からもう胸をわくわくさせてゐる。なんとなく当るやうな気がしたりするのである。当らなかつたつて一銭五厘の損だ。もし一等にでも当ればこりや大したものぢやないか、と彼等は言ふ。
そしてまた時には素敵な大ものを当てることがある。立派な座蒲団を三枚か五枚当てたのもゐるし、東京市の人口調査の時に出た朝日だつたかの懸賞に、二等を当てて金二拾円の副賞と東京市長の銀盃を貰つたのもゐる。
その男は銀盃が送られて来ると、もううれしくてたまらないので、その箱を抱いたまま各舎をぐるぐる巡つて、息を切らせながら、
「昨日新聞記者が来たよ。あなたは東京市の人口をどういふ方法で知りましたかつて訊ねるんだ。だから俺、子供の頃から統計学が非常に好きでした、と答へてやつたさ。」
そして彼は汗をふきふき次の舎へ駈け出すのだつた。
かういふのがあると他の投書家達は無念の歯がみをしながら、よし今度こそは、と投書熱を上げるのである。
その他、趣味らしい趣味に、小鳥飼、花造り、盆栽、碁将棋など色々ある。花造りはかなり熱心なのが多く、毎年秋が来ると菊大会が催される。私の舎から二つばかり向うの舎にも菊造りに熱心な人がゐるが、何時行つて見ても三十くらゐもある鉢の中でうづくまつて世話してゐる。その人のゐる舎は狂人病棟の派出所みたやうな舎で(つまり狂病棟が満員になるとこの舎へ這入る)彼はその附添をやつてゐる。菊にうづもれて手入れしてゐる彼の横で、何時も狂人がにやにや笑つたり独言を呟いたりしてゐる。
「小さな鉢に良いのが咲きましたら上げますよ。机の上に置いて下さい。」
と彼は先日も私に言つてくれた。
また、不自由舎などには、義足趣味、繃帯趣味などといふのもあつて、まあいはば生活派と言つていいのがある。
繃帯は
白い 小ぢんまりした丸顔で
チョコンと坐つて居る
丈夫なとき
働いてゐるとき
すつかり忘れられて繃帯よ
お前は戸棚の隅に転げて居る
ああ しかし
俺が傷つき痛んだとき
繃帯よお前はぐるぐる伸びて
疼く患部を優しく包み温める
俺の唯一の保護者である
繃帯の長さは誰でも計れるだらう
だが俺は現在
計れぬ深い繃帯の愛情を
感謝してゐる 浸つてゐる
これは昭和九年の冬、長島愛生園で死んだ新井新一君の遺稿詩集『残照』の中の一篇である。
乾性即ち神経癩の患者にはたいてい一つは蹠疵といふのが出来てゐる。主として踵に出来るのであるが、麻痺のため痛みを感じない。それで歩行の不便を感ぜず歩き廻るので何時まで経つても治らないのである。これは一生疵と言はれてゐるほどで、だから繃帯なども毎日毎日幾年も続けて巻いたり解いたりしなければならない。かうして続けてゐるうちには何時しか繃帯を巻くことに趣味を覚えるやうになるのである。
指が曲つて、肉が落ち、他目にはいかにも巻くのに骨が折れてゐるやうであるが、本人は楽しさうですらある。だから見るに見かねて「巻いて上げませう。」と言つても、決して他人に巻かせない。念入りに、こつこつと自分で巻く。
次に義足であるが、これは院外の人達が用ゐるやうに三十円も五十円もする法外なものではなく、簡単に言つてしまへばトタンの筒つぽである。先の方が細まつてゐて、先端に小さな足型がくつついてゐる。中には全然くつついてゐないのもある。足型は単に体裁で、小さいほど歩行に便であるさうだ。友人の一人はこれを十銭の義足と称してゐるが、これは足を切断すると同時に医局から交付される。
が、義足に趣味を持ち出すと医局からくれる不格好なのでは承知出来ないので、義足造りの所へ行つて足にあはせて造つて貰ふ。義足造りは今院内に一人しかゐないが、なんでも馬糞紙で造るのださうだ。ふくらはぎはふくらませ、向うずねはそれらしく細くし、馬糞紙を幾枚も幾枚も貼り合せて板のやうにして立派な義足が出来上る。
趣味が強くなつて来るともう一本では間に合はない。四本も五本も造つて、外出用、部屋用、式場用等々、みな別になつてゐる。その男の押入れを開くとずらりと義足が並んでゐる。外出用のには足袋をはかせ、靴下をはかせる。式場用はその場にふさはしく飾る。作業の時に使用するのはたいてい医局から交付された頑丈なのを用ゐ、この義足で水桶もかつげば鍬もとる。
彼等のいひ草がふるつてゐる。
「義足くらゐ便利なものはないぜ。ちよつと休みたかつたら腰かけになる。横になりたかつたら枕になる。神経痛もしなければ蹠疵も出来ない。普通の足をもつてる奴の気が知れない。」
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病院の中央に大きな礼拝堂がある。そこで毎月死者の慰霊祭が行はれる。またそこは活動小屋になることもあれば音楽会の会場にもなる。何か事件があると院長が患者達に何か説諭する。その時もこのお堂が利用される。所謂名士が参観に来るとここで一席弁じて行く。ちよつと患者会館と呼ぶにふさはしい所である。
名士たちはよくやつて来る。主として宗教家であるが、時には大学教授も来れば大臣も来る。患者達がぞろぞろと集まつて来るのを見ると、名士達は誰も同じ恰好に顔をしかめる。驚きと恐れと同情とがごつちやになつた表情で、しかし平然としようとして視線を真直ぐにしてゐる。が、やはり気になるのでちらちらと坊主頭や陥没した鼻を眺めては、また急いで視線を外らせる。
そして演壇に立つと込み上つて来る同情の念に、たまらなくなつたやうな声で口を開く。中には一時間も二時間も喋つて行く人もあり、またほんの四五分喋つて行く人もある。患者達はみな熱心に聴く。そして話が終ると同時に忘れてしまふ。しかしほんの四五分しか喋らなかつた人の言葉はよく覚えてゐ、尊敬してゐるやうだ。
高浜虚子が来院されたことがあつた。氏は、この院内から出てゐる俳句雑誌『芽生』の同人達を主に訪問されたのであるが、患者達は殆ど総動員で集まつた。氏はゆつくりと、誰にも判つてゐる事を誰にも判るやうにほんの五六分間話して帰られた。患者達はあつけないといふ顔で散つたが、しかしその五六分間の印象は強く心に跡づけられた。そして今もなほ時々その時の感銘が語られてゐる。
患者達は決して言葉を聴かない。人間のひびきだけを聴く。これは意識的にさうするのではない、虐げられ、辱しめられた過去に於て体得した本能的な嗅覚がさうさせるのだ。
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じめじめと湿つたむし熱い日が続いたり、急に寒くなつたりして、気温の高低が激しく変転すると、定つて腕や脚がしくしくと痛み始める。癩性神経痛が始まつたのである。
気温の変転は病体を木片のやうに翻弄する。神経痛の来ないものには急性結節(熱癩と患者間に呼ばれてゐ、顔面、手、足などに赤く高まつたぐりぐりが出来る。押すとびいんと痛み、化膿するのもあるがたいていは化膿しない。大いさはまちまちであるが、最も大きいもので団子くらゐもある。外部からはちよつと高まつてゐる程度にしか見えないが、触つて見ると飴玉を含んでゐるやうに固くぐりぐり動くのが内部にある。たとへてみれば頭だけをちよいと海面に覗かせてゐる氷山みたいなものだ)が盛り上つて来て発熱する。四十度を越える高熱も珍しくない。
腕も顔も繃帯で包み、手袋をはめて頭から蒲団を被つて寝てゐなければならない。
神経痛は定つて夜が激しい。凄いのにやられると痛む腕、足を切り飛ばしてしまひたくなる。義足だつたらいいなあと思ふのもこんな時である。痛みの堪へられるうちはアスピリンを服用して我慢する。ぽかぽかと体が温まつて来ると痛みは大分鎮まり、時には睡眠することも出来るが、烈しくなつて来れば鼻血の出るほど服用してもアスピリンなど効きはしない。
そこで診察を受け、初め重病室に入室して加療する。これは急性結節の場合も同じである。
重病室には五人の付添夫がついてゐて、かうして入室した者の世話をする。神経痛、熱瘤に限らず、舎にゐては世話の出来ない場合、治療に困難な場合等には重病室に這入るのである。だからここには結核、肋膜炎、関節炎、胃病、心臓、腎臓等々あらゆる病気が集つてゐる。一室につき十六七から二十くらゐの寝台が二列に並んでゐ、その上に怪しく口の曲つたのや、坊主頭や、鼻のない盲人などが、一人づつ横はつてゐる。
入室することが定ると、収容病室から舎へ移つた時のやうに、同室の人達が、蒲団、食器その他をもつて、入室者を中央に挾み、或はリヤカーに乗せて送つて行く。
もし誰か、この地上で地獄を見たいと欲する者があるならば、夜の一時か二時頃の重病室を見られるやうすすめる。鬼と生命との格闘に散る火花が視覚をかすめるかも知れない。
底本:「定本 北條民雄全集 下巻」東京創元社
1980(昭和55)年12月20日初版
初出:「改造」
1936(昭和11)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana Ohbe
校正:伊藤時也
2010年9月12日作成
2011年4月15日修正
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