柊の垣のうちから
北條民雄




 心の中に色々な苦しいことや悩しいことが生じた場合、人は誰でもその苦しみや懊悩を他人に打明け、理解されたいといふ激しい慾望を覚えるのではないだらうか? そして内心の苦しみが激しければ激しいほど、深ければ深いほど、その慾望はひとしほ熾烈なものとなり、時としてはもはや自分の気持は絶対に他人に伝へることは不可能だと思はれ、そのために苛立ち焦燥し、遂には眼に見える樹木や草花やその他一切のものに向つてどなり泣き喚いてみたくすらなるのではあるまいか? 少くとも私の経験ではさうであつた。

 或はまた、かうした苦悩の場合のみではなく、反対に心の中が満ち溢れ、幸福と平和とに浮き立つ時も、やはりその喜悦を人に語り共感されたい慾望を覚えるであらう。そしてその喜悦を語り得る相手を自己の周囲に有たぬ場合、それは往々かへつて悲しみと変じ、孤独の意識となつて自らを虐げさへもするのではあるまいか。多分あなたにもその経験はおありのことであらう、もしあなたが真実の苦しみに出合つた方であるならば……。そして私がこのやうなものを書かねばゐられぬ気持を解いて下さるであらう。

 とは言ひながら、私は自分の私生活を語るに際して、多くの努力と勇気とを必要とする。先づ第一にかやうな手紙を書くことの嫌悪、それから自己侮蔑の感情、即ちこのやうなつまらぬ私生活を社会に投げ出してそれが何になる、お前個人のくだらぬ苦悩や喜悦が社会にとつて問題たり得るのか、お前は単に一匹の二十日鼠、或は毛の生えた虱にすぎないではないか、社会が個人にとつて問題であるならば個人は社会にとつて問題だと信じるのか? しかしさやうな信念は十八世紀の夢に過ぎないのだ──等々と戦はねばならないのである。この場合私の武器とする唯一つのものは愛情、もし愛情といふ言葉がてれ臭いならば共感でもよい、私は私の中にある、誰かに共感されたい、といふ慾求を信じる。

 一例をあげれば、われわれはフロオベルがジョルジュ・サンドに与へた書簡を持つてゐる。われわれにとつて重要なことは、自己の生活を亡ぼし、人間とは何ものでもない、作品が凡てなのだと信じたフロオベルが、かかる書簡を書かねばゐられなかつたといふその点にある。

(未完?)


柊の垣にかこまれて


 駅を出ると、私は荷物が二つばかりあつたので、どうしても車に乗らねばならなかつた。父と二人で、一つづつ持てば持てないこともなかつたけれども、小一里も歩かねばならないと言はれると、私はもうそれを聴くだけでもひどい疲れを覚えた。

 駅前に三十四年型のシボレーが二三台並んでゐるので、

「お前ここにゐなさい。」

 と父は私に言つて、交渉に行つた。私は立つたまま、遠くの雑木林や、近くの家並や、その家の裏にくつついてゐる鶏舎などを眺めてゐた。淋しいやうな悲しいやうな、それかと思ふと案外平然としてゐるやうな、自分でもよく判らぬ気持であつた。

 間もなく帰つて来た父は、顔を曇らせながら、

「荷物だけなら運んでもよいさうだ。」

 とそれだけを言つた。私は激しく自分の病気が頭をかき廻すのを覚えた。私は病気だつたが、まだ軽症だつたし、他人ひとの嫌ふ癩病と、私の癩病とは、なんとなく別のもののやうに思へてならなかつた時だつたので、この自動車運転手の態度は、不意に頭上に墜ちてきた棒のやうな感じであつた。が、考へてみるとそれは当然のことと思はれるので、

「では荷物だけでも頼みませう。」

 と父に言つた。

 自動車が走つて行つてしまふと、私と父とは、汗を流しながら、白い街道を歩き出した。父は前に一度、私の入院のことに就いて病院を訪ねてゐたので、

「道は知つてゐる」

 と言つて平然と歩いてゐるが、私は初めての道だつたので、ひどく遠く思へて仕方がなかつた。

「お父さん、道は大丈夫でせう?」

 と聴くと、

「うん間違ひない。」

 それで私も安心してゐたのだが、やがて父が首をひねり出した。

「しかし道は一本しかないからなあ。」

 と父は言つて、二人はどこまでもずんずん歩いた。

「お前、年、いくつだつた?」

 と父が聴いたので、「知つてるでせう。」と言ふと、

「二十一か、二十一だつたなあ。ええと、まあ二年は辛抱するのだよ。二十三には家へかへられる。」

 そして一つ二つと指を折つたりしてゐるのだつた。

 一九三四年五月十八日のひるさがりである。空は晴れ亙つて、太陽はさんさんと降り注いでゐた。防風林の欅の林を幾つも抜け、桑畑や麦畑の中を一文字に走つてゐる道を歩いてゐる私等の姿を、私は今も時々思ひ描くが、なにか空しく切ない思ひである。

 やがて父が、

「困つたよ。困つた。」

 と言ひ出したので、

「道を間違へたのでせう。」

 と訊くと、

「いや、この辺は野雪隠といふのは無いんだなあ。田舎にはあるもんだが──。」

 父は便を催したのである。私は苦笑したが、急に父がなつかしまれて来た。父はばさばさと麦の中へ隠れた。街道に立つてゐると、青い穂と穂の間に、白髪混りの頭が覗いてゐた。私は急に悲しくなつた。

 出て来ると、父は、しきりに考へ込んでゐたが、

「道に迷つたらしい。」

 と言つた。

 腰をおろすところもないので、二人はぽつんと杭のやうに立つたまま、途方に暮れて、汗を拭つた。人影もなかつた。遠くの雑木林の上を、真白な雲が湧いてゐた。

 そのうち、電気工夫らしいのが自転車で駈けて来たので、それを呼びとめて訊いた。父は病院の名を出すのが、嫌らしかつたが、なんとも仕方がなかつた。

 私達は引返し始めた。

 それからまた十五六分も歩いたであらうか、私達の着いたところは病院のちやうど横腹にあたるところだつた。真先に柊の垣が眼に這入つた。私は異常な好奇心と不安とを感じながら、正門までぐるりと垣を巡る間、院内を覗き続けた。

 以来二年、私はこの病院に暮した。柊の垣にかこまれて、吐口のない、息苦しい日々ではあつたが、しかし二十三になつた。私はこの中で何年生き続けて行くことだらう。今日私は、この生垣に沿つて造られた散歩道を、ぐるりと院内一周を試みた。そしてふと『死の家の記録』の冒頭の一節を思ひ出した。

「──これがつまり監獄の外囲ひだ。この外囲ひの一方のところに、がつしりした門がとりつけてある。その門はいつも閉めきつてあつて夜昼ぶつとほしで番兵がまもつてゐる。ただ仕事にでかけるときだけ、上官の命令によつてひらかれるのであつた。この門の外には、明るい、自由な世界があつて、みんなと同じ人々が住んでゐた。けれど檣壁のこちらがはでは、その世界のことを、なにか夢のやうなお話みたいにかんがへてゐる。ここには、まつたく何にたとへやうのない、特別の世界があつた。これは生きながらの死の家であつた。」

 だが、この世界といへども、私等の世界と較べれば、まだ軽い。そこには上官といふ敵がある。だが私の世界には敵がゐない。みな同情してくれるのである。そして真の敵は、実に自分自身の体内にゐるのである。自分の外部にゐる敵ならば、戦ふことそれ自体が一つの救ひともならう。だが、自己の体内にゐる敵と、一体、どう戦つたらよいのだらう。

 柊の垣に囲まれて、だが、私は二年を生きた。私はもつと生きねばならないのだ。



 花といふものを、しみじみ、美しいなあ、と感じたのは、この病院へ入院した次の日であつた。今は収容病室といふのが新しく建つたので、入院者がすぐ重病室へ入れられるといふことはないけれども、私が来た当時はまだそれが出来てゐなかつたので、私は入院するなり直ちに重病室へ入れられた。

 私がそこでどんなものを見、どんなことを感じたか、言語に絶してゐてたうてい表現など出来るものではない。日光を見ぬうちは結構と言ふな、といふことがあるが、ここではちやうどその反対のことが言へる。たとへばあなたが、あなたのあらん限りの想像力を使つて醜悪なもの、不快なもの、恐るべきものを思ひ描かれても、一歩この中へ足を入れられるや、忽ち、如何に自分の想像力が貧しいものであるか、といふことを知られるであらうと思ふ。私もそれを感じた。ここへ来るまで色々とここのことを想像したり描いたりしたのだつたが、来て見て予想以上なのに吃驚してしまつた。膿臭を浴びたことのなかつた私の神経は、昏乱し、悲鳴を発し、文字通りささらのやうになつてしまつたのである。私は、泣いていいのか、笑つていいのか、また、無気味だと感じていいのか、滑稽だと感じていいのか、さつぱり判らなかつた。

 そこは、色彩において全くゼロであり、音響においてはコンマ以下であり、香りにおいては更にその以下であつた。私の感覚はおびえて、石のやうに竦んでしまふばかりだつた。持つて来た書物が消毒室から帰つて来るまでの間、私は全く死人のやうになつてゐた。私はせめて活字を、文字を、思想の通つた、人間の雰囲気の感ぜられる言葉を、見たかつたのだつた。今でも忘れないのは、その時私の隣のベッドにゐた婦人患者が、キングだつたか、表紙の切れた雑誌を貸して呉れた時のうれしさである。私は実際、噛みつくやうにして今まで見向きもしなかつたこの娯楽雑誌の頁をくつたものである。

 しかしなんといつても、自分の書物が、自分の体臭や手垢のしみついた本が帰つて来た時のよろこびは、それ以上だつた。私は涙を流さんばかりにして、その本を一冊一冊抱きかかへて見たり撫でまはしたりした後、ベッドに取りついてゐるけんどんの上に積んで置いた。それを眺めてゐる間、私はなんとなくほつとした思ひになつてゐた。

 私がさういふ思ひをしてゐる所へ、誰だつたか忘れたが、花を持つて来てくれたのである。なんといふ花か、迂闊な私は名前を知らないが、小さな花弁を持つた、真紅な花であつたのを覚えてゐる。はなびらの裏側は幾分白みがかつてゐて、薄桃色だつた。華かではなかつたが、どことなく品の良いととのつた感じのする花で、私はもう夢中になつて眺めたものである。

 それまで、私は花など眺めたことは丸切りなかつたのであるが、それからといふものはすつかり花が好きになつてしまつた。

 この間、ある事情で四国の故郷までまことに苦しい旅をしたが、帰つて来ると私はまだ花の咲かないコスモスを鉢に活けた。舎の前に生えてゐたもので、私は指先に力を入れながら注意深く掘り返した。そこへ看護婦の一人が来て言ふことには、

「北條さんが花をいぢるなんて、ちよつとをかしいみたいね。」

 なるほど、さう言はれて見ると私は野蛮人に違ひない。しかし、私は言つたのである。「平和に暮したいんだよ。何時でも死神が僕につきまとふからね。」

 彼女は可哀想なといふ風な表情で私を見てゐた。


表情


 表情を失つて行くことは真実淋しいものである。

 眼は心の窓であるといふが、表情は個性の象徴であらう。どんなまづい面であつても、またどんなに人好きのしない表情を持つてゐても、しかし自分の表情、自己の個性的な表情をもつてゐることはよろこばしいことであり、誇つてよいことであると思ふ。

「自分らしい表情やヂェスチュアを毀されて行くのは、ほんとに寂しいね。」

 と、先日も友人の一人は私に言つた。彼はまだ軽症な患者で、僅かに眉毛が幾分うすくなつてゐる程度であるが、さう言つた彼の眼には無限の悲しみが宿つてゐた。彼はX大の哲学に席を置いてゐるうち発病したのであるが、しかしむしろ女性的と思はれるほどこまかい神経と、美しい貌を持つてゐて、詩を書くのが上手である。さういふ彼が、病魔に蝕まれ尽した多くの病友達を眺め、やがては自分もさうなつて行くべき運命にあるのを知つたとすれば、彼はその語調以上に寂寥を覚えてゐたであらうことは、私にも察せられた。

「しかし僕はね、どんなに崩れかかつたひどい人にも、なほ個性的な表情は残つてゐると思ふ。或は、病気のために貌が変化して行くのにつれて、その変化に伴つて今までなかつた個性的なものが浮き上つて来るやうにも思ふ。これを発見するのは大切だし、発見したいと思ふ。」

 その時私はそんなことを答へたのであつたが、これは私のやせ我慢に過ぎなかつた。

 どす黒く皮膚の色が変色し、また赤黒い斑紋が盛り上つてやがて結節がぶつぶつと生えて、それが崩れ腐り、鼻梁が落ち、その昔美しかつた頭髪はまばらに抜け、眼は死んだ魚のそれのやうに白く爛れてしまふ。ごく控へ目に、ちよつと書いてすらこれである。ここにどんな表情が発見出来るだらうか。どんな美しい精神に生きてゐたとて、外面はけものにも劣るのである。況や神経型にやられたならば、口は歪んで、笑ふことも怒ることも、また感動することも出来ないのである。時々、マスクを除つた看護婦たちが嬉々として戯れるさまを、私はじつと見惚れることがある。そこには生き生きとした「人間」の表情があるからだ。若々しい表情があるからだ。

 怒ることも笑ふことも出来ない。勿論心中では怒り、或は笑つてゐるのである。しかしその表情は白ばくれてゐるやうに歪んだままよだれを垂らしてゐるのだ。考へるほど、妙な、おそろしいやうな思ひがする。

 四五日前のことだつた。

 子供達が秋の運動会の練習をやつてゐるのを見て行つた。子供達は子供らしく、元気に無邪気に飛びまはつてゐた。これは私にすくなからぬ明るいものを見せてくれた。飛び廻ることも出来るほどの子供であるから、みな病気の軽い、一見しただけでは病者とは思はれない児ばかりであつた。

 私は幅跳の線を引いてやつたり、踏切を見てやつたりした。


 その時、裸にズボン一つで私の横に来た子供があつた。彼は腕を組み、肩を怒らせて、

「しつかり跳べ!」

 と叫んだ。

 背の高さは四尺五六寸しかなく、うしろから見るとまだほんの子供であつたが、その声はもう大人であつた。それもそのはずで、この少年は、少年とは言へぬ、二十一歳であつたのだ。が、前へ廻つてその貌を見ると更に驚いたことには、そこには二十一といふ青年らしさは全然なく、さながら七十歳に近い老人を思はせたのである。貌全体が皺だらけで、皮膚はたるみ、眼はしよぼしよぼと小さく、見るからに虐げられた老人であつた。けれども、自分では二十一歳といふ年齢を意識してゐるばかりでなく、よし蝕まれ腐つたものにせよ、若い血も流れてゐるのであらう、頭には薄くなつた毛をモダン気取りでオカッパに伸ばし、度も這入つてゐない眼鏡をちよこんとかけてゐるのである。

「ちえつ、だらしがねえ、三メーターぢやないか。」

 小さな体で、だが兄貴らしく呶鳴るのであつた。

 彼は幼年期から既に病気であつた。そのために肉体的にも精神的にも完全な発育が出来なかつたのである。そして少年期からずつと療養所で育ち、大きくなり、文字通り蝕まれた青春を迎へたのである。

 私はかつてこの男の作文を読んだことがある。『呼子鳥』といふこの病院から出てゐる子供の雑誌に載せられてゐたのであるが、それは誠に老人染みた稚拙さに満たされてゐた。子供の作文には子供らしい、素朴な稚拙さがあり、それが大人の心を打つのであるが、ここにはにがにがしい老人の稚拙さだけしかなかつたのを覚えてゐる。

 笑ふと、老人とも子供ともつかない表情が浮ぶが、その文もやはりさういふ表情であつたのである。

 私はこびとのやうな彼の笑顔を見、嗄れた呶鳴り声を聴いてゐるうち、限りないあはれさを覚えて見るに堪へなくなり急いで帰つた。その虐げられたやうな笑顔が何時までも頭に残つてゐて憂鬱であつた。

 表情のない世界、そしてある表情はこのやうに奇妙なものばかりである。友人のなげきも決して無理ではない。

 けれどかういふことを言へば、重症者たちは一笑にふしてしまふであらう。

「甘たれるな。」

 と。

 それは私も知つてゐる。かうしたことに悲しんだり嘆いたりしてゐられるうちは、まだまだめでたい軽症者であること! 時々じつと鏡を眺めながら、

「軽症者、甘たれやがつて!」

 と侮蔑の念をもつて私は自分に向つて言ふ。けれどやつぱり侘しいのだ。美しい顔になりたいとは思ひはせぬ。ただ自分らしい表情を、自分以外には誰も持つてゐない私の表情を失ふのが堪らないのだ。

 何時も眺める自分の顔であつてみれば、さほどに変化も感ぜられず、怪しい癩病面になりつつあることをなかなかすぐには感じられないが、しかしふと往年の、まだ健康だつた頃を思ひ出したり、その当時交はつてゐた友達などにばつたり会つたら彼はどんな気持で自分を見るであらう、などと考へると、私はその場で息をするのもやめてしまひたくなる。

 だがそれはまだよい。真に恐るべきは、かうした外面と共に徐々に萎えしぼんで行く心の表情である。よし十万坪といふ限られた世界に侏儒のやうな生活を営むとはいへ、せめて精神だけは大空をあまかけるとりでありたいのだ。だが、それも、あたりの鈍重な空気と、希望のない生活、緊張と刺激を失つた倦怠な日々の中に埋められてしまふ。毎日見る風景は貧弱な雑木林と死にかかつた病人の群である。膿汁を浴びて感覚は鉛のやうに艶を失ひ、やがて精神はたがのゆるんだ桶のやうにしまりを失ふのである。

 この病院へ来てから私はもう二年と三ヶ月になるが、この「精神のゆるみ」とどんなに戦つたことだらう。しかしどんなに戦つても結局敗北して行くやうに思はれてならぬ。勿論、最後まで戦つて見る覚悟は有つてゐるが、しかし、戦ふといふこの意志それ自体、その意志を築き上げてゐる肉体的要素からして力を失つて行くのだ。これに対して一体どんんな武器があるだらうか。

 宗教!

 この時私の心に無限の力を与へてくれさうに思へるのは、宗教だけである。更にクリストの精神である。しかし、それも結局さう思ふだけである。宗教! と思ふせつぱつまつた自分の心の表情が見えなければ、私は夢中になつて信仰生活に飛び込んで行けるであらう。信ずるためには夢中になる必要があると思ふ。夢にも自分の表情を見てはならぬのである。

 歪んだ表情。

 生硬な表情。

 苦しげな表情。

 浅ましい表情。

 餓えた猿が結飯に飛びつくやうな表情。

 これが宗教に頼らうとする時の自分の表情である。

 苦しくなつた。書いてはならぬことを書いてしまつたやうな気がする。


絶望


 十日に一度は、定つて激しい絶望感に襲はれるやうになつた。頭は濁つた水の底へでも沈んで行くやうで、どうにももがかずにはゐられない。たいていは一日乃至二日でまた以前の気持に復することが出来るが、ひどい時には五日も六日も続くことがある。食欲は半減し、脈搏が上り、呼吸をするさへが苦しくなる。四五日も続いた後では、病人のやうに力が失せてしまふ。しかし、私は一体何に絶望してゐるのであらうか。自分の才能にか、それとも病気が不治であるといふことにか、社会から追ひ出されたといふことにか、或はまた蝕まれ行く青春にか。いやいや、私は──。

 ぼんやりそんないいかげんなことを考へてゐるともう夕食になつてしまつた。


又か、といふこと


 近頃人に会ふと、もうそろそろ癩を切り上げて健康な小説を書いてはどうかとすすめてくれることが多い。そのたびに私は、ああそのうちに書きますよ、と答へて置くのであるが、しかし本当のところを言ふと、まだなかなか癩から抜け出ることなど出来さうにもない。いや、抜け出ることが出来ないといふよりも、反対に、もつともつと癩小説を書くぞ、とひそかに肩をいからせるのだ。それは私自身が癩であり、毎日癩のみを眺め、癩者のみと生活を共にしてゐるため、では決してない。私の眼には二千年の癩者の苦痛が映つてゐるのだ。この長い間の歴史的存在を、僅か三つや四つのヘッポコ小説でけりにしてしまつて、それでいいのか、と私の頭は考へねばゐられないのだ。さう考へたが最後、又か、と言はれようが、ジャアナリズムからロックアウトされようが、読者が一人も無くならうが、歯を喰ひしばつてもここからさう簡単に逃げ出してはならぬと新しい覚悟が湧き出して来るのだ。

      ×

 無論私も健康な小説が書きたい。こんな腐つた、醜悪な、絶えず膿の悪臭が漂つてゐる世界など描きたくはない。また、こんな世界を描いて健康な人々に示すことが、果してどれだけ有益なのか。少くとも社会は忙しいんだ、いはゆる内外多事、ヨーロッパでは文化の危機が叫ばれ、戦争は最早臨月に近い。さういふ社会へこんな小説を持ち出してそれがなんだといふのだ。──かういふ疑問は絶え間なく私の思考につきまとつて来る。

 実際私にとつて、最も苛立たしいことは、われわれの苦痛が病気から始まつてゐるといふことである。それは何等の社会性をも有たず、それ自体個人的であり、社会的にはわれわれが苦しむといふことが全然無意味だといふことだ。猛烈な神経痛に襲はれ、或は生死の境で悶へる病者の姿を描きながら、私は幾度筆を折らうとし、紙を引き裂いたことであらう。自分の書いた二三の記録や小説も、嫌悪を覚えることなく書いたものは一つとしてないのである。

      ×

 そしてこれはものを書く場合のみではない。自分の生の態度に直接ぶつかつて来るところのものである。

 生きること自体意味ない、自分の姿を眺めながら、真実さう思はねばならない時の気持といふものは、決してさう楽しいものではないのである。

 私は時々重病室の廊下をぐるぐる巡りながら散歩する。そして硝子越しに眼に映つて来る重病人の群を眺めては、かうなつてまでなほ生きる人々に対して、一体私は頭を下げることが正しいのか、それとも軽蔑することが正しいのかと自問するのだ。成程、これらの人々は苦しんでゐる。人生のどん底でうめいてゐる。しかしそれが何だといふのだ。これらの人々が苦しまうが苦しむまいが、少くも社会にとつては無関係であり、ばかばかしいことなのだ。

 私は今、これらの人々、といふ言葉を使用した。しかし勿論この言葉の中には私自身をも含めてゐるのである。私もやがてはさうなつて行く。小説など勿論書けなくなるのだらう。幾年か後には、自分もまた呻きながら苦しみもだへることであらう。私にはちやんとそれが判つてゐるのだ。しかも私は、さうなつた時の自分の姿を頭の中に描き、視つめながら、なんと笑つてゐなければならないのだ。さういふ姿を自分の中に描いた時の自分のとるべき心の態度は、ただ一つその苦痛する自分の未来の姿に向つて冷笑を浴せながら、じつと苦痛に身を任せてゐるより他にないのである。

「兄弟よ、汝は軽蔑といふことを知つてゐるか。汝を軽蔑する者に対しても公正であれといふ、公正さの苦痛を知つてゐるか。」

 ニイチェはかつてこんなことを言つたさうであるが、私には公正さの苦痛といふものがよく判る。

      ×

 成程、生きるといふことは愚劣だ。人生はどう考へても醜悪であさましい。この愚劣さ、醜さ、あさましさにあいそをつかして首を縊つたり海に飛び込んだりした者は決して少くない。しかし、私はここで呟かずにはゐられない。愚劣な人生にあいそをつかして自殺した人々の死にざまのなんと愚劣なことか! と。

 全くそれは愚劣なものだ。私はもう何度も縊死体といふものを見たことがあるが、実際見られたものぢやない。主要なことは人生の愚劣さを知ることではなく、自殺の愚劣さを知ることである。

 例へば、私が首を縊つたとしても、癩者はやつぱし生きてゐるのだ。もし私が死ぬと同時に、彼等もまた死んでしまふなら、私の自殺は立派である。が実は、私が死んでも人々は知らん顔して生きてゐるのだ。この故に私の死は愚劣になる。デカルトは「我思ふ故に我在り」と言つたが、実は「他人思ふ故に我在り」の方が本当なのだ。

 それならもうどうしても死んではならぬ。生きることがどんなに愚劣でも、自殺よりはいくらかましなのだ。じつと耐へてゐるより致方はない。生き抜くなどと偉さうなことは言つてはならない。ただ、じつと我慢することだ。そこには愛情といふ意外な御馳走があるかも知れぬ。

      ×

 だから私はもう少し癩を書きたい。社会にとつて無意味であつても、人間にとつては必要であるかも知れぬ。


二つの死


 秋になつたせゐだらう、この頃どうも死んで行つた友人を思ひ出していけない。それも彼が生前元気にやつてゐた頃の思出ならまだ救はれるところもあるのだが、浮んで来るのは彼の死状ばかりで、まるで取り憑かれてでもゐるかのやうな工合である。夜など、床に就いて眼をつぶつてゐると、幻影のやうに、呼吸のきれかかつた彼の顔が浮き上る。眉毛のない顔がどす黒く、といふよりもむしろどす蒼く変色して、おまけに骨と皮ばかりに痩せこけて、さながら骸骨、生ける屍とはこれだ、と思はせられるやうなのが、眼の前でもがくやうにうごめき始めるのだ。それから湯灌してやつた時に触れた、まだなまぬくい屍体の手触り、呼吸の切れるちよつと前に二三度ギロリとひんむいた巨大な目玉、呻き、そんなのばかりがごちやごちやと思ひ出されて来るのだから全く堪らない。昨夜の如きは遂に一睡もしないでその幻影に悩まされて明かしてしまつた。そのため今日は頭がふらふらし、雑文でも綴るより仕方がない。が、おかげで詩のやうな文句を考へ出した。

粗い壁。

壁に鼻ぶちつけて

深夜──

あぶが羽ばたいてゐる。

 友人に見せたら、ふうむ、詩みたいだ、と言つた。題は、「虻」とするよりも私はむしろ「壁」にしたい。まあこれが詩になつてるかどうかはこの場合どうでもよいとして、昨夜一晩私は壁を突き抜ける方法を考へたのだ。しかし突き抜けることが不可能としても、虻は死ぬまで羽ばたくより他、なんともしやうはないのである。

(未完)

底本:「定本 北條民雄全集 下巻」東京創元社

   1980(昭和55)年1220日初版

初出:「新女苑」

   1938(昭和13)年3

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:Nana Ohbe

校正:伊藤時也

2010年912日作成

2011年415日修正

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