続癩院記録
北條民雄
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十個の重病室があり、各室五名づつの附添夫が重病人の世話をしてゐることはさきに記したが、これらの附添夫も勿論病人であり、何時どのやうな病勢の変化があるか解らない。そこでこれらの附添夫──附添本官と呼ぶ──が神経痛をおこしたり肋膜炎にやられたりすると、健康舎から臨時附添に出なければならない。これは二三ある義務作業のうちの一つであるが、この場合も作業賃は十銭が支給される。隔離病室、男女不自由舎等これと同一で、これらの臨時附添はイロハ順に廻つて来るので一ヶ年一回は誰でも番があたる。勿論体に故障の生じてゐる場合や、その他のつぴきならぬ事情のある場合はその限りでないが、さうでない限り誰でも自分の仕事を捨てて出なければならない。臨時附添は十五日を限度とし、本人の希望でない限りそれ以上続ける必要はない。
五人の付添夫は順番に当直を務め、非番のものは配給所へ飯その他を取りに出かけたり、病人──附添夫たちはベッドに就いてゐる人々を病人と呼んでゐる──の頼みによつて売店へ買物に出かけたり、色んなこまごました仕事を各自担当してゐる。なほ、当直には一名の助手がつき、これを「助」と呼んでゐる。当直者はその翌日一日休みになつてゐて、昼寝をしようが他の舎へ遊びに行かうが自由である。
私はここへ来てから附添夫になつたのはまだ三回臨時に出かけただけであるが、その時の日記を少し抄出してみよう。
一九三四年九月三日。
今日の当直。朝から大変忙しい。今は夜の十一時十五分。初めて当直のこととて何かと迷ひ、気疲れにぐつたりしてゐるが、書いて置けばまた何かの役に立つこともあらう。
起床五時半。雨。昼頃になつてやみ、薄い雲を透して太陽がさし始める。夕方になつて再び降り出したが、夜になつてやむ。
六時十五分。配給所へ味噌汁をとりに出かける。本日の献立──昼(豆腐)。夜(馬鈴薯煮付)。帰つて黒板に記す。
六時半。朝食。
七時。昨日の当直人と代り、室を自分に渡される。「北條さんお願ひします。」とM氏。ちよつと儀式的な感あり。氏の顔は緊張してゐる。
七時半。室内の掃除。初めて使ふ掃布に汗をかく。
八時。盲目数名に煙草を吸はせる。うち一名に葉書の代書。
九時。お茶の時間なり。病人たちに注いでやる。煙草を吸はせてやる。
九時半。外科出張あり。病人たちの繃帯を解いてやるのが当直の仕事。「助」氏も手伝つてくれる。室内は膿汁に汚れたガーゼと繃帯でいつぱい。悪臭甚し。マスクをかけよと自分に奨めるものあり。マスクなど面倒なり。
十時。室内の掃除。汗。
十時半。昼食。ただし病人たちのこと。煙草を吸はせてやる。
十一時ちよつと過ぎ。附添夫たち昼食。
十一時半。病人たちの滋養品「卵」「牛乳」来る。お茶の時間なり。各病人に湯ざましを造つてやる。
十二時。掃除。ただし箒のみ。
二時。ニンニクの皮をむかされる。臭い上に眼が痛い。他に煮物二三あり。これは甚だ苦手なり。
三時半。夕食。
六時。病人S氏の咽喉管(カニューレ)を引き抜き、吸入をかけてやる。カニューレの掃除。初めてのこととて、T氏に教はる。見るに堪へなし。これを称して「ノド掃除」と言ふ。
七時。医局の用ありや否や病人たちに訊いて廻る。神経痛の連中「注射をたのみます。」「よしよし。」と自分。
七時半。病人たちに便器を与へ終り。ほつとす。
八時。病室廻りの看護婦、注射器を持ち来る。「御苦労さん。」そしてベッドにもぐり込んだ。が、なかなか眠れない。
九月四日。
五時。病人に起される。カーテンをあけ放ち、呼吸。室内掃除。便器の始末。臭い臭い。 七時。朝食を終へ次の当番に室を任す。
右は殆ど毎日繰りかへされる定つた仕事で、死にかかつた病人でもゐると別だが、さうでなければだいたい当直人の昼間の仕事は以上のやうなものである。もつとも書き洩らしてゐる点も二三あり、その日その日によつて変化があるのは勿論、また各室によつてそれぞれの違ひはあるが、まあ似たりよつたりのところである。
私がやつた時には三度共運良く死人にぶつからなかつたが、それでも夜中に起されたことは珍しくなかつた。
×
一日の疲れでとろとろと眠つてゐると、「当直さん、当直さあん。」と嗄れた声で呼ばれる。はつとして飛び起きると──もつとも長年やつてゐる本官連中になると悠々と起きるが、──不眠に悩まされてゐる病人が、
「山田さんが呼んでるよ」
と教へてくれる。呼んでゐる本人は大きな声を出す元気など勿論なく、喘ぎ喘ぎ歯を食ひしばつてゐるのである。
「注射を……。」
と病人は言つて、あとはちちいッと痛みを訴へる。言ふまでもなく神経痛にやられてゐるのである。すると附添夫は寝衣のまま医局まで駈けつけ、当直の看護手を呼び出さなければならない。草も木も寝静まつた深夜、しんとした廊下を自分の跫音を聴きながら駈けて行く時の気持といふものは、ちよつと表現など出来るものではない。医局は病院の西端にあり、各病棟をつなぐ長い廊下は仄暗くかげり、硝子越しに覗かれる各室には半ば腐りかかつた連中がずらりと並んでゐる。それが駈けてゐる横眼にちらちら映つて来ると、今更のやうに自分が癩病院にゐることを意識させられるのである。医局から帰つて来ると看護手の出て来るまでの間じつと病室に立つて、汗をだらだらと流してる病人を眺めながら待つてゐる。附添夫が一番困るのはこの時であらう。汗を流してゐようがどうしようが唯ぼんやり眺めてゐるよりなんとも致方がないのであるから──。
「見るがいい。この病室の状を。──一体この中に一人でも息の通つてゐる生きた人間がゐるのだらうか。誰も彼も死んでゐる──凡てが灰色で死の色だ。ここには流動するたくましさも、希望の息吹きの音もない。いやそれどころか、ここには一匹の人間だつてゐないのだ。人間ではない。もつと別のもの、確かに今まで自分の見て来た人間とは異なつたものが断末魔の呻きを発してゐるのだ。自分もその中の一個なのだ。俺は死んだ、死んだ──。」
結核病室の附添をやつたときの印象として私の日記の中にはこんなことを書いた一節がある。私は今でもこれを書いた時の気持をはつきり思ひ出すことが出来るが、それもやはり真夜中のことであつた。
呼ばれたのに眼をさますと、隣りのベッドにゐる男が、山田さんが苦しがつてゐるやうだぜと教へてくれた。私はひどく眠かつたので幾らかよろよろしながらその男の所まで行くと、彼はうつぶせになつて、枕の上にのり出し、片手には赤黒く血の浸んだガーゼを掴んで喘いでゐるのである。
「どうした?」
と私は、夜中に起されたのでちよつと腹が立つてゐた。
「がづげづじましだ。」
「え?」
「が、が、が、が、……」
と彼は吃つて声が出なかつたが、そのうち私は、ハッとして気がついた。迂闊な話であるが、私はやうやく、彼が喀血したのであることを悟つたのだ。
「喀血か、そいつあいけねえ。」
私は急にあわてて食塩水を飲ませてやり、血のついた彼の口辺を拭つてやつてから医局へ駈け出した。まだここへ来て間もない頃だつたので私はど肝を抜かれたのである。医局から帰つて来ると、私は早速彼の枕許を掃除してやり、啖壺を洗浄してやつて看護手の出て来るのを待つた。仄暗い室内に浮き上つてゐる数々の寝台、二列に並んでゐる白い蒲団とその中から覗いてゐる絆創膏を貼りつけた頭の行列を眺め廻してゐると、私はふと奇妙な憤怒と、孤独とを覚えた。やがて看護手が来、注射をうち、そして帰つてしまふと、私は寝台にもぐり込んで、右の日記を認めたのであつた。
この喀血した男は、なんでもブラジルへ移民してゐて癩の発病に遇つたのださうであるが、年は四十五六であつた。彼は今年の春さきになつて死んだが、癩の方はそんなに重症ではなかつたのを記憶してゐる。
×
重病室には、健康者では全然想像も出来ないやうな病人がゐる。また凡そこの地球上どこを探しても見当らないやうな奇抜なものがある。
ここへ来て一番最初吃驚させられたのは、いのちの初夜といふ小説の中にも書いて置いたが、喉頭癩にやられノドに穴をあけた男を見た時である。が、その次になんとも奇妙な感じがしたのは、眼球はどろどろになり果て、頭髪は抜け落ちた盲目の女が、陥没しかかつた鼻の穴に黒いゴム管を通して呼吸してゐるさまであつた。そしてそのゴム管の端が二本、並んで二分ほども外部へ出てゐるので、余計怪しく見えるのである。
ところが今年の春附添をやつた時更に奇妙な、と言ふより奇抜なのを見せられた。
やはり女で、年は三十七八歳、或は四十歳くらゐであらうか、かなり重症の、勿論結節型で高度の潰瘍に顔面は糜爛し、盲目であつた。当直にあたつてゐた夕方、彼女は私を呼んで、けんどんの中にバットの吸口があるからそれを出してくれと言ふ。寝台にはみな一つづつけんどんがくつついてゐるので、戸をあけて見ると彼女の言ふ通り、その蝋引になつた吸口が長い棒になつて幾つも転がつてゐる。どうするのだと訊くと、彼女は、その一つを鼻の中へ押し込んでくれと言ふのである。はあん、と私は思はず声を出したが、彼女はゴム管よりもこの方がよいと言つて、これだと毎日取りかへることが出来て手軽であると説明するのであつた。そして彼女はつぶれかかつた鼻の先に吸口の端を覗かせながら、二三度息を吸ひ込んでみて、
「ふ、ふふん。とても工合がいいのよ。」
バットの吸口といへば、煙草を吸ふ時以外に使用したことのなかつた私は、何さま奇抜なものを見た気になつたが、しかしそのうち私もまた彼女のやうに使用する時が来ないとも限らない。私は笑ひながら慄然としたのであつた。
六号病室にもう数年の間病室を転々と移つて来たY氏がゐる。
氏のことに就いては私は委しく書くだけの元気がなかなか出て来ないのであるが、と言ふのは氏のことを書かうとするとなんとなく私自身息づまるやうな気がして来るのである。
人の年齢といふものは、顔の形や表情や体のそぶりなどによつてだいたい推察されるし、またさうしたヂェスチュアや表情などがあつてこそ年齢といふ言葉もぴつたりと板についた感じで使用出来るのである。ところがさうしたものが一切なくなつてしまつた人間になると、年齢といふことを考へるさへなんとなくちぐはぐなものである。Y氏は今年まだ四十七か八くらゐであるが、しかし氏の姿を見るともう年齢などといふ人間なみの習俗の外に出てしまつてゐるのを感じさせられる。たとへば骸骨を見て、こいつはもう幾つになるかな、などは考古学者ででもない限り誰でも考へないであらうやうに、Y氏を見ても年齢を考へるのは不可能なばかりでなくそんな興味がおこつて来ないのである。氏は文字通り「生ける骸骨」であるからだ。
眼球が脱却して洞穴になつた二つの眼窩、頬が凹んでその上に突起した顴骨、毛の一本も生えてゐない頭と、それに這入つてゐる皸のやうな條、これが氏の首である。ちよつと見ても耳のついてゐるのが不思議と思はれるくらゐである。その上腕は両方とも手首から先は切断されてしまつてをり、しかも肘の関節は全然用をなさず、恰も二本の丸た棒が肩にくつついてぶらぶらしてゐるのと同然である。かてて加へて足は両方共膝小僧までしかない。それから下部は切り飛ばしてしまつてゐるのである。つまり一言にして言へば首と胴体だけしかないのである。こんなになつてまでよく生きてゐられるものだと思ふが、しかし首を縊るにも手足は必要なのであつてみれば、氏にはもう自殺するだけの動作すら不可能、それどころか、背中をごそごそ這ひ廻る蚤に腹が立つてもそれを追払ふことすら困難なのである。
飯時になると、氏はそれでも起きてけんどんを前にして坐る。附添夫がどんぶりに粥を盛つてやると、犬のやうに舌をぺろりと出してそのあたりを探り、どんぶりを探し当てると首をその中に突つこむやうにしてぴちやぴちやと食ひ始める。少しも形容ではなく犬か猫の姿である。食ひ終つた時には潰れた鼻にも額にも、頬つぺたにも粥がべたべたとくつつき、味噌汁はなすりつけたやうに方々に飛び散つてくつついてゐる。それを拭はねばならないのであるが、勿論手拭を持つて拭ふといふ風な人間並の芸当は出来ない。それにはちやんと用意がしてあつて、蒲団の横の方に幾枚も重ねたガーゼが拡げてある。氏はころりと横になると、うつぶせになつてそのガーゼに顔をこすりつけて拭ふのである。既に幾度も拭つたガーゼは黄色くなつてをり──勿論附添夫が時々取りかへてやるが──それは拭ふといふよりも、一個所にくつついてゐるのをただあちこちとよけいくつつけるばかりであるが、そんなことに一向気のつかない氏は、顔はたしかに綺麗になつたに違ひないと思つて蒲団の中へもぐり込んでしまふ。
私は昨夜もこの男のゐる病室へ用があつて出かけて見たが、氏は相変らず生きてゐた。しかし大変力の失せたのが目立つてゐて、近いうちに死ぬのぢやないかと思つた。
だが、驚くべきことは、かういふ姿になりながら彼は実に明るい気持を持つてをり、便所へ行くのも附添さんの世話になるのだからと湯水を飲むのも注意して必要以上に決して飲まないといふその精神である。そして煙草を吸はせてやつたり便をとつてやつたりすると、非常にはつきりした調子で「ありがたうさん。」と一言礼をのべるのである。また彼は俳句などにもかなり明るく、読んで聴かせると、時にはびつくりするくらゐ正しい批評をして見せる。私は彼を見るときつと思ふのであるが、それは堪へ得ぬばかりに苛酷に虐げられ、現実といふものの最悪の場合のみにぶつかつて来た一人の人間が、必死になつていのちを守り続けてゐる姿である。これを貴いと見るも、浅ましいと見るも、それは人々の勝手だ。しかしいのちを守つて戦ひ続ける人間が生きてゐるといふ事実だけは、誰が何と言はうと断じて動かし難いのである。
×
癩院にはどこの療養所でも親子、或は兄弟が揃つて入院してゐるのが少くない。と言ふよりも半数以上は親兄弟を持つてをり、これによつても如何に家族間の伝染が激しいかを思はせられる。一体癩菌が結核その他の慢性病に較べてずつと伝染力が弱いといふことは医学でも言はれてゐることであるし、また患者数の激増等のない点から考へても頷けるが、やはり家族間では長い間の接触や、幼年期の最も伝染し易い時期に於ける病父母との接触等によつて伝染がたやすく可能なのであらう。
『(前略)お正月の五日頃、愛生園(註・国立長島愛生園)のお父さんから、年始状が届きました。お母さんが封をお切りになると、陽子さん清彦さんと書いた手紙も入つてゐました。お母さんは、其の手紙を私に渡して下さつたので、すぐその手紙を読みました。
陽子ちやん清ちやんお目出度う。皆んな無事でお正月をしましたか。お父さんはお前たちと分れ分れのお正月で何となく淋しい心持のお正月でした。早く此の父も病気をなほして、家へ帰り、一家揃ろつた楽しいお正月をしようね。今頃、そちらは雪が沢山積つて居る事でせうね。けれどこちらは大変暖く、梅の花が咲いてゐます。(中略)
それからは、お父さんのお手紙が待遠しくてなりませんでした。郵便屋さんが通ると、手紙が来ないかしらといつも表へ出て見たりして居ました。
私は其の中に病気になつてしまひました。病気になる前はどうしてか、私は眠くて仕方がありませんでした。学校の授業時間にもこくりこくりと居睡りばかりして居ました。
(中略)
其の中にお父さんも帰つて来ました。其の日、私はお母さんの後について、畠へ行つて居ました。妹の悦ちやんも、弟の清ちやんも学校へ行つて居りました。さうして、「お母さん姉さんただ今」と言つて帰つて来ましたが、ざしきにお父さんが居るのを見て、不思議さうにじつと見つめるのです。私たちが「だれか分る」つて言ふと「ううん知らない」と言つて頭をふつてゐました。するとお父さんは「忘れたらう、もう長い事会はなかつたからな」と言つて笑つて居ました。
其の夜は一家そろつて楽しい、嬉しい夕ごはんをいただきました。それからお父さんはおいしや様のやうに私たちの体を見ました。さうすると、私の外に、お母さんと弟が病気でした。そして「姉さんも兄さんも妹も病気と言ふ所はないやうだが、体が弱かつたから一度あちらで見てもらはなければいけないだらう」とお父さんは言はれました。私はこちらへ来ると言ふ事をとなりの光ちやんだけに知らせました。(後略)』──第六巻第六号『愛生児童文芸』所載。尋六、陽子作──
これは一例であるが、これに類した事実は実に多いのである。
私の病院には今百名あまりの児童がゐるが、これらの子供たちも殆どが親か兄、或は姉などと一緒に入院してをり、中にはまだ十歳に足らぬ幼児の姉弟などもゐる。その姉弟は姉が十歳、弟は八歳で今年学園へ入学したが、それでも病気の点からいふと私などよりもずつと先輩で、入院してからでももう五六年にはなるのである。弟の方などは珍しいくらゐの早期発病で、三つくらゐのうちからはや病者となつて入院してゐたのである。
まだ寒い風の吹く三月初めの頃十一二歳の少年が入院した。病気は軽く、眉毛は太く、くりくりとした大きな眼は田舎の児らしく野性的な激しさが輝いてゐた。が、右足を冒されてゐて関節が駄目になつてをり、歩くと足を曳きずつて跛をひいた。この子は叔父に連れられて来たのであるが、別れる時になると医局の柱にしがみついて大声で泣き、その夜も一晩泣き通した。実の父親とは八年前に生別したまま、叔父に育てられて来たのださうである。
ところが、この少年にとつては全然想像することも不可能になつてゐたであらうその父親は、やはりこの病院に入院してをり、病み重つて重病室に呻吟してゐたのである。勿論間もなく少年も父のゐることを教へられたが、しかし、これがお前のお父さんだ、と重症の父親を示された時、この少年の神経はどんなにふるへたであらう。父親は高度の浸潤にどす黒く脹れ上つて、腎臓病者のやうに全身ぶよぶよになつてをり、あまつさへ喉頭癩にやられた咽喉には穴があき、カニューレでからうじて呼吸をし、声は嗄れて一声出すたびに三四度もその穴で咳する有様である。──実は私がこの親子を初めて知つたのは、この父親の這入つてゐる病室の附添を頼まれた時のことで、それ以前からその少年が入院したことは知つてゐたが、父親がゐようとは夢にも思つてゐなかつたのである。少年は毎夜父親の許へ来、何かと世話するのであつた。当直をやつてゐる夜など、ちよろちよろと廊下を伝つて現はれ、当直寝台の上で本など読んでゐる私を見ると、ぺこんと一つ頭を下げてニコッと笑ひ、父親の枕許へ寄る。また私がT氏に教はりながらカニューレの掃除をしてやつてゐるところへやつて来たりすると、少年は恐怖と好奇心との入り乱れた表情で父親の咽喉にあいてゐる直径二分くらゐの穴と、その穴から抜き出したカニューレの管に細長く切つてガーゼを押し込んだり抜いたりしてゐる私の手許とを見較べるのであつた。
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ここで私はカニューレ及び喉頭癩に就いてちよつと説明して置く必要を感ずる。
喉頭癩と言ふと何か特別の病型、つまり喉頭ばかりを冒す病型があるやうに思はれさうである。が、さうではなく、普通の結節型の癩が病勢が進み、やうやく喉頭を冒すに至つた場合を言ふのである。主に喉頭の病状は、癩性浸潤、結節で、随つて腫脹、潰瘍等を気道に生じ、呼吸困難に陥るのである。勿論かういう慢性病のことであるから、昨日まで平然と呼吸の出来たのが今日になつて突如として呼吸困難に陥るといふやうなことはなく、病勢の進行と共に徐々に腫脹し潰瘍を生じて、やがて十分に肺を活動させるだけの呼吸量がなくなるのである。
だから喉頭癩にやられたからといつても全然気道が閉塞されてしまふ訳ではない。無論ほつたらかして置けば終ひには全く閉塞されてしまふであらうけれども、それまでに苦痛を訴へて穴をあけてしまふから、穴をあけてからでもまだ口腔から呼吸することは出来、嗄れた声を出すくらゐは出来るのである。もつとも、それから更に病勢が進めば勿論声など出なくなつてしまふし、更にその穴からすら呼吸が困難になるが、しかし他の場合には穴をあけてから進行が停止し浸潤や潰瘍が癒えて、あけた穴が不用になつてしまふといふこともある。こんなのは珍しいが、しかし現に私の舎から二つばかり離れた舎にかういふのが居り、この男はもう穴が不用になつたので首に繃帯を巻いてしまつてゐる。断つて置くがこの繃帯は穴をふさぐために医療をほどこしてゐるのではなく、そのままでゐると穴から空気が洩れてしまふのでそれを蓋してゐるに過ぎないのである。
穴をあけるのは気管の第一輪から二輪であり、声帯よりもはるかに下部であるため、穴をあけてしまつた者が物をいつたり念仏をとなへたりするのは一見不思議な現象であると思はれるが、右の説明でだいたい事情は明かであらうと思ふ。もつとも物をいふ時にはこれらの穴あき共は巧みに手をあげ、ちよつと穴を押へて口腔に空気を流すことを怠らない。この点私の以前の文章には説明が不足してをり甚だ残念であるが、未熟のせゐと御勘弁が願ひたい。
カニューレは私の病院では、気管複管、ナンバーは5・6・7・8を使用してゐる。即ち口径7⅔──8½──9──9⅔mmのものである。(いわしや医療機械目録参照)
以上は『文学界』短評欄へのお応へであるが、他にもさういふ疑問をもつてゐる人があるかも知れないので、ここに記して置く。
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また時とすると親子が揃つて入院することもある。
前記少年から半年ばかり遅れた頃、ハルちやんといふ女の子が父親と二人で這入つて来た。年はまだ九つであるが、大柄で世間ずれがしてゐるせゐか十二三には見え、それに非常に綺麗な顔をしてゐて、この子が来ると暫くの間院内中がこの噂でいつぱいになつたくらゐである。病気は軽症であるに加へて神経型のため、外面どこといつて病人らしいところがない。黒く鮮かな眉毛と澄み切つた大きな眼とが西洋の子のやうに接近してゐて、頬が痩せてさへゐなかつたら、シャリイ・テムプルを思はせるくらゐである。もつとも、かういふ世界に長年暮し、見るものと言へば腐りかかつた肉体と陥没した鼻、どす黒く変色した皮膚などで、患者達は美しい少女や少年に無限に執拗な飢えを感じてゐるため、余計綺麗に見えたといふところもないではない。ところがこの子の父親はひどい重症で、おまけに結核か何かを患つてをり、収容病室から舎へ移ることも出来ないで重病室に入り、その後間もなく死んでしまつた。この親子は良く馴れた力の強さうな大犬を一頭連れてゐて、暫くの間収容病室内で奇妙な一家族を形成して人々を怪しませたものであつた。
私はこの親子のことを考へると、典型的な癩の悲劇とはこんなものであらうと思はせられるのであるが、実は彼等はここへ来るまで世の人々の言ふ癩病乞食であつたのである。つまり歩行の自由を奪はれた父親を、車のついた箱に載せ、その力の強い犬に曳かせて、この九つになつたばかりのミス・レバースは物乞ひして歩いたのである。そして彼女の母親もやはり病気で、その頃は既に立つ力もなく、家に寝て彼等の帰りを待つてゐたといふ、文字通りの人情悲劇である。母親は彼等が入院するちよつとさきに死んだ。
だから彼等が入院した時は全身しらみだらけで、附添夫たちもちよつと近寄れなかつたさうである。頭髪はぼうぼうと乱れ、手も足も垢が厚ぼつたくくつついていて悪臭を発散してゐたのは勿論である。が、風呂からあがり、床場へ行つて髪をオカッパに切つて来ると、忽ち見違へるほどであつた、と附添夫たちは言つた。
「この児の母親も実に美しかつた。この児はその母親そつくりだ。」
とは病める父親の述懐である。
ところが、ある朝、私が例のやうに畑の中を歩き廻つてゐると、焼場の中から数人の人の群がつて出て来るのに出合つた。見ると一番先頭に立つてその児が骨壺を抱いて歩いて来るのである。
「どうしたの? 誰が死んだんだい。」と私が言ふと、彼女は「父ちやん。」と言つて笑ふのであつた。別段悲しさうにも見えず、かへつて一見愉快さうに壺を抱へてゐるのである。
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まだ明け切らない朝まだき、或はやうやく暮れかかつた夕方などに、カアン、カアンと鐘の音が院内に響き亙ることがある。すると舎の人々は、
「死んだな。誰だらう。」
「九号の斉藤さんだらう、もう十年も前から、補助看護がついてゐたから。昨夜行つて見たらもう死にさうだつた。」
そしてその死人の入信してゐた宗教と同宗の者、または近しく交渉のあつた者などはぞろぞろとその病室へ集つて行く。つまり死人があると附添夫は室の前へ出て鐘を叩いて、院全体への死亡通知をするのである。
院内には、真言宗、真宗、日蓮、キリスト新・旧等々の宗教団体があつて、死亡者はそれらの団体によつて葬られるのである。補助看護といふのは、病人が重態になり、附添夫だけでは手が廻りかねるやうになると、それらの団体の中から各々交替で附添夫の補助をするものである。勿論病人の近親者、友人なども替り合つて看護に出る仕組になつてゐる。
ところがかうした宗教団体のどれにも入らない者などが往々あり、補助看護は友達などがやるからよいとして、死亡した場合には、全く葬り手がなかつたりする。それではいけないとあつて、このやうなつむじ曲りのために、各宗が順番で当番を務めることになつてゐる。もつともこんなのは全く少く、千二百幾名かの患者中を探して十名あまりのものであらうし、また、いざ死期が近づくと心細くなると見えて、急に殊勝な心持になつてどれかに泣きついてしまふので、かういふのはごく稀である。私なども殆ど体質的と思はれるほど宗教の信用出来ない人間の一人であるが、息が切れさうになつたら信仰心が急に出て来るかも知れない。この疑問に対して私は今からひどく興味を持つてゐるが、兎に角死に対する人間の心理は弱点ばかりを露出するものとみえる。
死体は担架に乗せられて、附添夫がかついで解剖室に運ばれる。解剖室と並んでもうひとつ小さな部屋があり、人々はその部屋に来て念仏をとなへ、或はいのりが始められる。その部屋には花などがまつられてあつて、ちよつと寺のバラックといふ感じであるが、突きあたりの破目板がはづされるやうになつてをり、そこから解剖室の廊下の台の上に乗つかつてゐる死体が眺められる仕掛けになつてゐる。酷暑の折や、厳寒の冬には死人が多く、どうかすると相次いで死んだ屍体が、その台の上に三つも四つも積み重なつてゐたりする。
解剖が終り、必要な部分が標本として取られると、また患者達はぞろぞろとそこへ集まつて行つて、やがて野辺送りとなる。屍体は白木の箱に入れられ、それを載せたリヤカーを引きながら、焼場まで奇怪な行列が続いて行く。頭の毛の一本もない男、口の歪んだ女、どす黒く脹れ上つて顔・手、松葉杖をついた老人、義足の少年、そんな風な怪しげな連中が群がり、中央にリヤカーを挾んで列をなして畑の中を通つて行く様はちよつと地上の風景とは思はれない。遠くに納骨堂の白い丸屋根が見える。
焼場につくとそこでまた念仏がとなへられ、キリスト信者は感傷的に声を顫はせながら讃美歌を唄ふ。細い小さな煙突からは煙が吹き出し、屍臭が院内中に流れわたる。かうして苦悩に満ちた生涯は終り、湯呑のやうな恰好をした病院製──患者が造つてゐる──の骨壺に骨の切れ端が二三個納まつて、ハルちやんが抱へて行つたやうに、納骨堂の棚の上に並べられる。
「あの人も死んでほつとしとるこつちやろ。」
「ほんまにまあこれが浮世かいな。」
念仏の終つた老婆たちはそんなことを話合つてそこを離れる。そしてまた病苦の世界へ帰つて行くのである。
底本:「定本 北條民雄全集 下巻」東京創元社
1980(昭和55)年12月20日初版
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana Ohbe
校正:伊藤時也
2010年9月19日作成
2011年4月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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