続重病室日誌
北條民雄



 九月二十四日。

 お天気は良いのだが、腹工合はどうも悪い。もう三ヶ月あまり続いてゐる下痢がどうしてもとまらぬのだ。

 午後女医のN先生が来診。明日九号病室へ入室なさい、と。これで重病室へ這入るのは三度目である。前は七号で神経痛だつたが、今度は胃腸病だ。胃腸病なぞばかばかしいと思つていい加減にあしらつてゐたのがいけなかつたのだ。

 何にしても今年はろくな事のない年だ。正月元旦から神経痛でうんうん唸つてゐたし、その後も起きてゐる時よりも寝てゐる方が多かつた。ひよつとしたら今年のうちに息を引きとつてしまふんではあるまいかと、女医の帰つたあとで、ふと不安になつたりする。


 九月二十五日。

 よいお天気、涼しい風が吹いてゐる。

 朝、友人たち見舞ひに来る。彼等は余程僕を食ひしんぼと思つてゐるらしく、来ると必ず「余り食ひ過ぎるからだ。」と言ふ。

 入室は夕方なので女の人に頼んで虫ぼしをやつて貰ふ。重病室へ行つてしまふと当分舎へ帰ることもないので、ちやんと持物の整理をして置く必要があるのだ。

 柳行李の中には赤茶けた虫が何十匹となくもそもそと這ひ廻つてゐた。

 この春ナフタリンを入れなかつたし、虫も五六匹眼に見えたのだが、面倒なのでほつたらかしてあつたら、セルにも毛のシャツにも穴が幾つもあいてしまつた。ここにも生物の世界があつたのだと、その虫をぼんやりした気持で眺める。別段着物を食はれて惜しいといふ感じも起らず、かういふ虫ぼしなどしなければならぬやうな厄介なものはどうでもよいと思ふ。それにかういふ着物を着て歩くことも、自分の今後には多くないであらう。立派な着物も他所行きの服も、もう自分には用はないのである。

 部屋いつぱいにぶら下つた着物の幕の下に寝ながら、そんなことを考へてみる。

 夕食後入室。

 舎の連中が例のやうに蒲団をかつぎ、食器を笟に入れて運んでくれた。久しく歩いてゐなかつたので、病室までの三四丁の道が体にこたへて、気が遠くなるやうな感じがする。病室に着いてベッドの上に仰向きになると、ぐつたりとして物も言ふ気がしなくなつた。

 寝たまま足許の窓越しに外を眺めてゐると、もう薄闇の降り始めた中を、蜻蛉が群をなして飛んでゐる。やうやく秋は深まつたのだ。自分が寝ついたのは六月、その時にはまだダリヤも百合も蕾であつたのに、今ははやコスモスが蕾をふくらませてゐる。蜻蛉をぼんやり眺めてそんなことを思つてゐると、不意に南天にすばらしい青い星が一つきらめき始めた。全く不意に輝き出したといふ感じで、おや、あの星は、と考へてみると、木星であるのに気がついた。金星は今は朝の星だ、それなら木星に違ひないと思ふ。木星が見えるなら今に土星も見え出すに違ひない。

 日が暮れて行くにつれて、木星の光りはますます鮮明になり、遊星らしく瞬きもせず依然と南空にかかつてゐる。


 九月二十六日。

 朝のうちは実に爽快な気持であつた。晴れわたつた空には綿毛のやうな雲が静かに流れてゐる。朝食までの何分かを、ベッドの上に坐つて外を眺める。

 澄明な外気が窓に流れ込んで来て肌寒いくらゐである。まだ太陽も首を出したばかりで窓下の青桐の梢だけが朝日にあからんで見える。大地は黒く湿つて快い朝の息吹きのやうに水蒸気を発散させてゐる。昨日はまだ蕾ばかりであつたコスモスが、今朝ははや一輪だけ咲かせてゐる。その真白な花弁を眺めてゐると、心身共に健康に満ち満ちてゐた少年時代など思ひ出されて、心の中が躍るやうに若やいで来る。いつそ一思ひに外へ駈け出して湿つた土の上を跣で歩き廻つたり、土にまみれて転がり廻つたりしてみたら、どんなによからうと思ふ。病気など一度にけし飛んでしまふかも知れない。

 しかしかういふ慾望の激しくおこつて来るのも、実は肉体が衰弱してゐるからなのだ。昨夜気持よく眠れたので頭は冴えかへつてゐるが、健康な状態とは言ひ難い。

 たつた一瞬間でいいから、心身共に全く健康な、自分の肉体にたつた一個所も病的な個所のない、日本晴のやうな気持になつてみたいと思ふ。全き健康! この気持を味ひ得るならば、その次の瞬間に息を引取つても決して悲しくない。勿論、絶えず病気のことを考へてゐる訳ではないけれども、また病気を忘れてゐることも多いのだが、しかし人間が空気から離れられぬやうに、病苦は無意識のうちにわれわれの神経を冒し、われわれの精神をつつんでゐる。これから逃れる方法は一つもない。逃れることは不可能だ。

 今日は日曜ゆゑ室内は一日静かであつた。あちこちのベッドでぼそぼそと話声が聴える程度である。

 体温は午前の検温は三十六度九分で平熱。午後になると朝の爽快さはどこへやら行つてしまつて、頭がづきづき痛み、気持が苛立たしくなつて来る。すると午後二時の検温には八度七分あつた。熱は大したこともないのであるが、腹の中に食つたものが消化されることもなく溜つてゐて、絶えず夕立のやうにごろごろと鳴つてゐる。それが実に気持が悪いのだ。立つと、腹の中に、いつぱい物の這入つた袋をぶら提げてゐるやうな感じがし、歩くとそれがぶらりと揺れてゐるやうな工合である。便所へ四度通つてがんばつたが遂に出ず、五度目になつてやけに息ばつてゐたらほんの小量、液状のやつが出た。小量でも出ると幾分気持が良い。

 夜、腹痛になやまされる。


 九月二十七日。

 朝食後寝床の中でうつらうつらとしてゐると急に花の香が匂つて来るので、眼をあけて見るとけんどんの上に秋花が持つて来てくれてあつた。百日草と、あと名前を知らない薄い花弁の花。

 それで坐つて暫く花を眺める。ふと気になつて窓の下を見ると、コスモスはもう幾つとなく群がり咲いてゐる。

 今日も昨日と同じやうに、朝は気持がよかつたが、午後になるとまた体温が昇り、頭痛がする。熱は大した熱ではないのだが、体の衰弱がひどいので余計こたへるのだ。頭はばかみたやうになつてゐて、不感無覚だ。だから夜はかなりよく眠れる。丁度、疲れ切つて昏睡するのに似てゐる。勿論熟睡ではない。夜中に何度となく眼をさましてはまたうつらうつらとまどろんでしまふ。

 夕方近く友人の妻君が反物を抱へてやつて来た。今日は病院へ呉服屋がやつて来るといふことだつたので、かねてから一枚買つて欲しいと頼んであつたのだ。不断着にするつもりであるが、裏も糸もみんな合せて三円六十四銭也。めつぽう安い着物である。

 彼女はわざわざ柄を見せに持つて来てくれたのであるが、見たところなかなか上等なものに見える。この病院へは三円以上の反物は来ないことになつてゐるのださうである。国家非常時の折故、贅沢をしてはいけないといふのである。もつとも、ここでは上等の着物を着るとかへつて不調和で滑稽である。

 朝から曇つてゐたと思つたら夕方になつて遂に降り出し、夜に入るにつれてますます激しく雨だれの音が聴え出した。雨のため見舞客も少く、病室内はもう真夜中のやうに静まつてゐる。肺病患者たちの重苦しい咳が、地下室のやうな感じをあたへてゐる。


 九月二十八日。

 蕾であつたコスモスが、はや今朝は満開である。雨に湿つた黒土から生え出してゐる青茎の不思議な生命力もさることながら、その青茎の梢にてんてんと咲き誇る花の美しさは、もはや言葉に絶した宇宙の心音が感ぜられる。たつた三日の間のこの鮮かな開花はどれほど驚嘆しても足りない。無論かうした自然の生命力や美しさは、既にあらゆる詩人が、芸術家がうたひ尽してゐることであるが、しかし今また自分が心から驚嘆したとていささかも不思議はないのだ。

 朝飯を終へたところへ病友光岡良二来る。鼻風邪をひいたといつて鼻を鳴らせてゐる。するとそこへ医者の日戸修一氏が遊びに来て三人で快談。日戸氏は先日市川の式場隆三郎先生を訪ねて来たといふ。そして学生の狂人が非常に多いとのことで、先生の病院は常に満員であるとのことである。それにしても学生の発狂する者が多いといふことはちよつと考へさせられる。現代では知識とか学問とかいふものが、人間を混乱させるためにのみ在るやうな気がする。

 昼食後『中央公論』で林房雄氏の「上海戦線」を読む。日支事変の記事は今まで数多く見たが、作家の書いたものはこれが最初である。やつぱり作家が出かけて行つただけのことはあつたのである。

「このとき、僕の胸を苦い墨汁のやうに曇らせた感情を、書かせていただきたいと思ひます。あとで人に話したら、戦地に来たものの一度は経験する感情だといふことです。」

「断つておきますが、僕はミルクに水を割つたやうな平和主義や、敗戦主義に通じて祖国の滅亡を願ふ非戦論に絶対に反対です。だが上陸第一日のこの瞬間に僕の胸をとざした感情は正直に告白したいと思ひます。」

 ここまで読んだ時、上海を全く知らぬ読者である自分の胸にも、その墨汁が流れ込んで来るやうな気がした。

 今日は病院の創立記念日ゆゑ、昼食は白飯(米飯のこと)と豚肉、夜はウドンの御馳走があつた。病人たちはみな有頂天になつて喜んでゐる。

 しかし胃腸病である自分はいささか閉口した。第一豚肉なぞ食へないし、それに白飯の時にはお粥が出ない。また夜はウドンが出るので飯も粥も出ないのである。仕方なく昼食は抜いて、夜は友人の妻君に昼の残り飯で粥を作つて貰つた。

 夜、左隣りの空ベッドへ、関節炎を起した女が入室して来た。歩くことも出来ないとみえて、男に負ぶさつて来た。男は女の亭主であるが、あれこれと親切に面倒を見てゐるさまが、傍目にも美しい。女は頭も腕も足も繃帯にうづまつてゐる。病変した顔面の一部分が繃帯の間から無気味に覗いてゐる。男の方は非常に病気が軽く、全く病人とは思はれない。


 九月二十九日。

 今日から三日間、院内大掃除である。最初の日は男舎、次の日は不自由舎と重病室、最後は女舎。三日間院内はお祭り騒ぎである。各舎とも屋外に葦簾その他で休憩所が作られ、しるこだんごふかし芋等の御馳走が並べられる。男舎の時には女たちが御馳走作りに出かけて来、女舎の時には男たちが出かけて行つて手伝つてやる。

 常の日はどろんと濁つたやうにぼんやりして見える女たちも、この日はどことなく生き生きとして、院内の至る所に姉さんかぶりが眺められる。男たちにとつてはかういふ姿も珍しく新鮮な魅力となつて、畳を叩く腕にも自づと力がはひるのである。掃除を一通り終へると、葦簾張りの中に集まつて、女たちの給仕で、男たちは幸福さうに病変した顔に笑ひを漂はせながらだんごにかぶりつくのである。愛すべき平和な姿ではある。

 今日は幸ひ晴天で、大掃除には持つて来いの日和であつた。ベッドに横はりながら、舎でやつてゐる有様が見えるやうである。

 昼過ぎ、ふと顔をあげてみると、向う側の寝台にゐる病人に面会人が来てゐる。病人は癩の方は乾性で、足をひきずつて歩くのと、口が曲つてゐるだけで、さほど重病とも思はれないが、つい最近ひどい喀血をし、今は絶対安静を余儀なくされて居る。多分喀血に吃驚して田舎くにの父母を呼んだのであらう。その面会人が病人の父母であることは一見しただけで明かである。

 年は二人とも、もう六十の方に近いであらう。二人共健康そのもののやうなあかがね色の顔をし、百姓らしい鈍重な眼差しではあるが、人の好ささうなおどおどした様子で這入つて来た。二人は息子の寝台を両側から挾んで、女親は危く涙を落しさうな顔つきで、息子の顔を覗き込んでぼそぼそと話し始めた。男親は小さな、瞼毛の深い眼を細めながら、松の枝のやうな両掌をひろげて、息子の顔面にたかる蠅を取りにかかつた。息子は両親の顔を見上げながら、少年のやうな微笑を歪んだ口辺に浮べてゐる。

 至極通俗な親子の情の発露ではあるが、しかしかういふ風景もこの世界では殊更に美しく感ぜられる。たとへ親子であつても、何の恐れも不安もなく重病室へ這入つて来る者は非常に少いのである。親子の感情も夫婦の愛情も、癩の前には他愛もなく打ち毀されてしまふ。さういふ例をわれわれはもう数知れず知つてゐる。それ故よしんば通俗なものにしろ、かうした情愛のある風景を見せられると、涙ぐんでしまふのである。

 恐らく、人間といふ動物の冷さを、誰よりも深く癩患者は心の中に浸み込ませてゐるであらう。しかしそのゆゑに、誰よりも癩者は人間の愛情に敏感であるであらう。ほんたうに人間と人間とが愛し合ふことの美しさを、その温かさを知つてゐる者は、多分癩者に違ひない。


 九月三十日。

 今日はこの病室も大掃除の筈であつたが、朝から雨ですつかりおじやんになつてしまつた。

 僕の左隣りのその隣りのベッドの女の子、朝から元気がなく、病み重つた体を布団の上に坐らせて放心したやうであつたと思つたら、何時の間にか丹毒にやられてゐるのであつた。左眼の瞼の下に団子大の赤い腫れものが出来てゐる。

 昼飯を終ると彼女はリヤカーに乗せられて、雨の中を隔離病室へ転室して行つた。

「なあにすぐ良くなるよ。」

「さうだ、さうだ。十日もすりやまた戻つて来られるさ。」

 と附添たちが慰めてやると、彼女は今にも泣き出しさうになりながら、うんうんと頷き、苦しいのであらう、肩で息をするのであつた。

 この女の子(十六七歳であらうと思ふ)は赤い朱塗りの小さな針箱を一つ持つてゐる。彼女は退屈するとその箱をけんどんの中から取り出して、這入つてゐる青や白の糸、まだ一度も使つたことのない真新しい針などを取り出しては、どこかうつとりした表情で眺めるのが楽しみであつた。指には疵がいつぱい出来て繃帯に巻かれてゐるため、針仕事はもとより出来ないのであるが、ただなんとなく本能的に針や糸を眼の前に展げてみたいのであらう。彼女の向う隣りに寝てゐる、五十くらゐの女と二人で、その針箱の上に額をくつつけ合ひながら、ぼそぼそと語り合ふことも少くなかつた。

 彼女の語るところによると、その針箱も、針も、その他の道具一切をつい一ヶ月ばかり前故郷の母から送られたとのことである。

「ちつとも使はないうちに、こんなになつて。」

 と言ひながら彼女は、繃帯につつまれた自分の掌を開いて相手の老女に見せるのであつた。

 夜。八号病室と一ヶ月交替になつてゐるラヂオが、今夜から取付けられることになつた。久しくラヂオを聴かなかつたし、事変ニュースなども聴かれると思ひ、楽しみであつたが、鳴り出すやいなやうんざりしてしまつた。演芸放送であるが、なんといふ愚劣さであらう。義太夫「日支事変」と浪花節。とりわけ義太夫の如きは嫌悪がおこるばかりでない、しまひには憤怒が湧いて来て押へ難いくらゐであつた。と、果して聴いてゐた病人連中も、劇がもつとも高潮に達し、涙をしぼらねばならぬ時になつて、期せずしてどつと噴き出してしまつた。

「なんぢやい、こりや。」

 と誰かが呟いた。それほど非芸術的であり不調和なのである。無論病人たちのうちには一人として不忠な者はゐないし、事変が始まると直ちに病院をあげて献金をするやら、祈願をするやらであつた。だからどんなものでも忠君愛国美談には文句なく感激するのだが、この義太夫だか新派だか判らぬものには、無論初めは感激させてくれるつもりで聴き出したのだが、遂に滑稽以外には何も感じられなかつたのである。

 明日からこんなラヂオに一ヶ月間悩まされるのかと思ふと、がつかりする。


 十月一日。

 今日もまた終日霧雨が降り続けた。濁つたやうな空は陰気に垂れさがつて、病室内は死んだやうに活気がない。

 別段病人気分になるわけではないが、やはり病床なぞにゐると、日々の空模様が強く心に影響する。

 心身共に疲れ果ててゐるので、ちよつと横になつてゐるとすぐうつらうつらと睡魔に引き入れられる。午後一時頃、眠つたでもなく覚めてゐるでもない状態でゐると、急に死亡通知の鐘が鳴り出した。五号病室で一人死んだとのことである。これで、この病室へ入室してから二人目、さきは二号病室であつた。

「よう死にますな。」

 と右隣りのばあさんが言ふ。でつぷりと肥えた品の良いばあさんで、生れは四国の香川県。四国言葉をそのまま使つてゐる。

 昼頃、この病院内で採れた大きな栗が各病室に配られた。一人に二個づつ。よく実の熟したのがけんどんの上に置かれた。初物だ、初物だと、病人たちは大喜びである。自分もまた嬉しかつたので、暫くは食べるのをやめて眺めた。今年もまた栗を食ふ──このことが何ものにもまさつた喜びとなつて心を温めてくれる。これが人生の幸福といふものである。何年か経つて、その時には多分盲目になつてゐるであらう自分が、杖をたよりに道を歩きながらふと今日の栗を思ひ出したとしたら、あああの時はまだ眼も見えた、あの栗の滑かな茶色の肌を眺めたものだ、と思はず杖をとめて懐旧の念にうたれることであらう。

 さういふ未来を浮べながら、まだうで立てでくまつてゐるその皮をむいた。

底本:「定本 北條民雄全集 下巻」東京創元社

   1980(昭和55)年1220日初版

初出:「文學界」

   1937(昭和12)年12月号

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:Nana Ohbe

校正:富田晶子

2016年610日作成

青空文庫作成ファイル:

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