頃日雑記
北條民雄
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朝、起き上るたびに私は一種不可解な気持をもつてあたりを見廻さずにはゐられない。夜が明けるたびに起き上つてはごそごそと動き始める日々といふものを、もう二十年あまりも続けてゐるのであるが、しかしこの単調さにも腐敗しない人間の心理といふものはなんといふ不思議さであらう。況や起き上るたびにもう動き出さうとむづむづしてゐる肉体を感ずる時、いつたい人間を何と解いたら良いのであらうか。睡眠という空白の時間をこの場合に持ち出すのは人間に対する侮辱である。切実にベルグソンの哲学を読みたいと思ふのもかういふ時である。
フロオベルの全集が届いて以来、私は毎日驚いてばかりゐる。峻厳胸を刺す驚きである
私は癩文学などいふものがあらうとは思はれぬが、しかし、よし癩文学といふものがあるものとしても、決してそのやうなものを書きたいとは思はない。今までにも書いたことのないのは勿論、また今後も決して書くまいと思つてゐる。我々の書くものを癩文学と呼ばうが、療養所文学と呼ばうが、それは人々の勝手だ。私はただ人間を書きたいと思つてゐるのだ。癩など、単に、人間を書く上に於ける一つの「場合」に過ぎぬ。
癩者を救ふ第一の道は、癩者のもつ屈辱感を除去するにある。この点を些かも考慮せぬ癩運動といふものは、よし現在までは意義あるものとするも、以後はあまりに意味がないであらう。と、まあ、私も一応は言つてみたが、諸君よ、癩運動が癩者のためのみのものであるなどとは、夢あまたれる勿れ。
作家は批評、文学論など、一切発表してはならぬ。何故なら、自分の発表した議論によつて自分を束縛し、或は意見を述べることによつて自己弁護するからである。私は一切意見を公表せぬことに定めた。凡ては作品にある。
人々はどうしてああも虚偽が好き好きなのか。私には誠に不可解である。
しかし我々はどうしてかうも真実を求めるのであらうか。これもまた不可解である。
そして解つてゐることは、幸福は虚偽の中においてのみ存在するといふことである。真実を求めるのが不幸だといふのではない。勿論ここに幸福があるというふのでも断じてない。ただ真実を求める精神においては、幸不幸といふ言葉は既に消失してゐるのだ。だから不幸といふことも亦虚偽の中にのみ存在する一つの心理状態である。
実際家と現実家とを混同する勿れ。
「僕はね、癩者の最も正しい行為は自殺だと思ふんだよ。癩は国辱なりつて言ふだらう、あれは真実だと思ふ。そして癩は国辱といふよりも人類の恥辱、人類の汚点だと思ふのだ。社会に対し、人類に対して、真摯な愛情をもち、その発展や進歩を信ずるなら、我々は一日も早く自殺すべきなのだ。」
「うん。君の言ふことは僕は別段否定しないよ。しかしだね、いいか、君の言ふ人類といふ奴にだね、癩者が犠牲になるほどの価値があるかどうか、先づ疑問だよ。癩者だつて人間なんだらう、つまり人間を犠牲にして人間が発達するといふことが正しいかどうか、判らんね。片方が発展するために片方が死なねばならんなんていふんだつたら、僕はそんな発展には参加しないね。」
詩人にとつて第一に主要なものは、才に非ず、すなはち精神の純粋さのみ。
私にとつて最も不快なものは、あきらめである。あきらめ切れぬ、といふ言葉は、あきらめを肯定してそれに到達し得ぬ場合にのみ用ふべきものである。が、私はあきらめを敵とする。私の日々の努力は、実にこのあきらめと戦ふことである。あきらめるくらゐなら自殺した方がよほどましである。といふよりも、あきらめと戦ふためには私は決して自殺をも否定しない。死んで勝つといふことは絶対にないが、しかし死んで敗北から逃れるといふことはあるのである。
深夜、壁に鼻ぶちつけて虻が血を流してゐる。
フロオベルの書簡集を読むのが、このごろの私の第一の楽しみだ。友人たちから離れてもう大分になるが、この書簡集が一冊あれば私はさほどに孤独を感じなくて済むやうになつた。孤独な者にとつて、その孤独から逃れる道は、孤独な者を考へるより他にないのかも知れない。
下弦の月の表情が、ひどく情慾的であるのを知つたのは、つい昨日のことだつた。道を歩きながら、私は思はず、いやらしいやつ、と呟いてしまつた。濁つた血のやうな、あの赤さを見るがいい。
深夜、石道を歩いてゐると、下駄の音がカーン、カーンと響いた。がよく耳を澄ませてみると、それは空気の音であることが判つた。が更に耳を澄ませると、やはり下駄の音であつた。それでゐて、私はいまだにその音が下駄から出てゐるのか、空気の中からおこつて来るものか判断がつかないのだ。下駄から触発してゐるやうに思へるのは下駄を意識した時だけで、あとは空間から下駄の裏へ逃げ込んで来る音としか思はれないのである。
粗い壁
壁に鼻ぶちつけて
──深夜
虻が羽ばたいてゐる
私は、私が一匹の虻であることを悲しみはしない。けれど、私は私の血が壁の中に吸ひ取られてしまふに違ひないことを意識してゐることを悲しむ。
壁、壁、ああ、深夜私は……
言ふな! 毎日一度づつ朝はあるのだ。
「嫌悪、絶望、疲労にもう頭は動顛せんばかり! 四時間といふもの一つの成句すら得ずに空費しました。今日は一行も書けません。といふより百枚以上書いては削りました! 何といふ無残な仕事! 何たる倦怠! 嗚呼! 芸術! 芸術! 狂犬の如く我々の心に噛みつくこの幻想とは果して何ものでせう、そして何が故でせう? 我と我が身をかくまでに苛むとは何たる狂気の沙汰! 「ボヴァリー」の奴、やがては目にもの見せてやります! 今のところは爪の間にナイフの切先を刺し込まれたかのやうな気持、もう歯軋りしたくなります。何といふ馬鹿げたことでせう! 文学の愉しい慰め、攪きまぜたこのクリームの行きつく処がこの始末。」
これはギュスタフ・フロオベルの書簡。一千八百五十三年九月十二日、ところはクロワッセ、生涯のうちただ一人の愛人、ルイズ・コレ宛の書簡である。深夜、零時半の執筆である。「すべては長い間の夢です。大切なのはただそれだけです。」とジョルジュ・サンドへ後年年老いて書き送つたフロオベルである。
「爐のそばに咳入り、唾を吐きながら、私は自分の青春を反芻してゐます。すべての死んで行つた人々の身を思ひ、暗黒の中を転げまはつてゐます。」
咳入り、唾を吐き、暗黒の中を転げまはつてゐる老人! 思つても見るがいい、これが十一歳にして戯曲を書き、自ら上演したといふ天才の成れの果だ。だが忘れるなかれ、フロオベルは青春を反芻してゐるのだ。
「何といふ惨憺たる老年であることか! しかもこれが四十年に亙つて『魂と肉体とを苛んだ』精進の結果である。青春とは、文学とは、これ程人を欺くものなのか。だが、さうではないのだ。世の中にはかうした『老いない心』をもつて生れて来る人がゐるのだ。そして彼等にとつて最大の悲惨は、文学すら、彼等にとつて唯一の強ひられた救ひであることなのだ。しかも、あらゆる天才の生涯は、自己に強ひられた悲惨をそのまま光栄と化することに費やされるほかはないのだ。」──中村光夫氏『フロオベルの生活』──
深夜、私はフロオベルに黙祷を捧げる。
「ドストエフスキー。」
千八百二十一年生る。医者の子。病院に誕生。癲癇。千八百八十一年一月二十八日永眠。
「フロオベル。」
千八百二十一年生る。医者の子。病院に誕生。癲癇。千八百八十年五月八日永眠。
片やロシヤ。片やフランス。しかも作品は両極に位置す。
暗いとか明るいとかいふことを、人々は何時まで言ひ続けるつもりなのであらうか。もはやわれわれはかかる言葉を忘れてよい時なのではないのか。
幸福だとか不幸だとかいふことを、人々は何時まで言ひ続けるつもりなのであらうか。もはやわれわれはかかる言葉を忘れてよい時なのではないのか。
新しい人間はもうこのやうな言葉は吐かないのである。
底本:「定本 北條民雄全集 下巻」東京創元社
1980(昭和55)年12月20日初版
初出:「科学ペン」
1938(昭和13)年
入力:Nana Ohbe
校正:伊藤時也
2010年9月12日作成
2011年4月15日修正
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