間木老人
北條民雄
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この病院に入院してから三ヶ月程過ぎたある日、宇津は、この病院が実験用に飼育してゐる動物達の番人になつてはくれまいかと頼まれた。病院とはいへ、千五百名に近い患者を収容し、彼等同志の結婚すら許されてゐるここは、完全に一つの特殊部落で、院内には土方もゐるし、女工もゐるし、若芽のやうな子供達も飛び廻つてゐて、その子供達のためには、学校さへも設けられてあつた。患者達も朽ち果てて行く自分の体を、毎日ぼんやり見て暮す苦しさから逃れたいためでもあらうが、作業には熱心で、軽症者は激しい労働をも続けてゐた。彼等の日常の小使銭は、いふまでもなくこの作業から生れてくるもので、夜が明けると彼等はそれぞれの部署へ出かけて行くのだった。かうした中にあつて、宇津はまだどの職業にも属してゐなかつたので、番人になつてくれといふ頼みを承知したのだつた。勿論これも作業の一つで、一日五銭が支給された。宇津は元来内向的な男で、それに入院間もないため、自分の病気にまだ十分に馴れ切ることが出来ず、何時でも深い苦悶の表情を浮べて、思ひ悩んでゐることが多かつた。その上凡てが共同生活で、十二畳半といふ広い部屋に、六名づつが思ひ思ひの生活をする雑然さには、実際閉口してゐたのだつた。さういふ彼にとつて、動物の番人はこの上ない適役であり、一つの部屋が与へられるといふことが、彼にとつて大変好都合だつたのである。
動物小屋は、L字形に建てられた三号と四号の、二つの病棟の裏側で、終日じめじめと空気の湿つた、薄暗い所であつた。どうかすると、洞穴の中へ這入つたやうな感じがし、地面には蒼く苔が食んでゐた。もともとこの病院が、武蔵野特有の雑木林の中に、新しく墾かれて建てられたものであるため、人里離れた広漠たる面影が、まだ取り残されてゐた。患者の逃走を防ぐために、院全体が柊の高い垣根で囲まれてゐて、一歩外へ出ると、もうそこは武蔵野の平坦な山である。小屋の周囲にも、松、栗、檜、それから種々な雑木が、苔を割つて生えてゐた。その中、小屋のすぐ背後にある夫婦松といはれる二本は、づぬけて太く、三抱もあるだらうか、それが天に冲する勢で傘状に枝を張つて、小屋を抱きかかへるやうに屋根を覆つてゐた。屋根には落葉が積つて、重さうに厚く脹れて、家の中へは、太陽の光線も時たま糸を引くやうにさすくらゐのものであつた。宇津の部屋も、この動物小屋の内部にあつて、動物の糞尿から発する悪臭が、絶えず澱んでゐた。殆ど動物達と枕を並べて眠るやうなもので、初めの間彼も大変閉口したが、重病室の患者が出す強烈な膿の臭ひよりは耐へ易く思つた。
動物は、猿、山羊、モルモット、白ねずみ、兎──特殊なものとしては、鼠癩に患つた白ねずみが、三匹、特別の箱に這入つてゐた。これ等に食物を与へたり、月に二三度も下の掃除をしてやるのが、彼の仕事だつた。従つて暇も多かつたが、別段友人があるといふ訳でもないので、大てい読書で一日を暮すか、病気のために腫れぼつたくむくんだ貌に深い苦悩を沈めて、飯粒を一つ一つ掴んで食ふ白ねずみの小さな体を眺めてゐるのだつた。日が暮れ初めてあたりの林が黝ずんで来だすと、彼は散歩に出かけて、林の中を、長い間歩き廻つた。さういふ時、動物達のことはすつかり忘れてゐた。彼は熱心に動物を観察して、そこにいろいろのことを発見したが、それに対して親しみやよろこびを感ずるといふことは一度もなかつた。
小屋を裏手に廻つて、ちよつと行くと、そこに監房がある。赤い煉瓦造りの建物で、小さな箱のやうであつた。陶器でも焼く竈のやうで、初めて見た時は、何であらうかとひどく怪しんだものであつた。
「どんな世界へ行つても、人間と獄とは、切り離されないのか。」
彼はそれが監房だと判つた時、さう呟いた。この小さな異常な社会の監房ではなく、一般社会の律法下の監獄に服役中の友人を思ひ出したからだつた。
院内は平和で、取るに足るやうな罪もなかつた。随つて監房も休業が多く、時たま、宇津が散歩の折に房内からひいひい女の泣声が聞えても、それは大てい、逃走し損つた者か、他人の亭主を失敬した姦婦の片割れくらゐのものらしかつた。宇津も、間木といふ不思議な老人に出会すまでは、感情に波をうたせるやうな変つたこともなかつた。L字型をした二つの病棟の有様も、彼にはもう慣れてゐた。夜など、病棟から流れ出る光りが、小屋の内部まであかくさし込んで、畳の上に木の葉が映つたりすると、美しいと思つて長い間見続けたりした。病棟の内には重病者が一杯うようよと集まつてゐて、そこは完全な天刑病の世界である。光りを伝つて眺めると、硝子窓を通して彼等の上半身が見えた。頭をぐるぐる白い繃帯で巻いたのや、すつかり頭髪の抜けたくりくり坊主の盲人が、あやしく空間を探りながら歩くのが、手に取るやうに見えるが、入院当時のやうな恐怖は感じなかつた。入院当時の数日は、絶海の孤島にある土人の部落か、もつと醜悪な化物屋敷へ投げ込まれたやうな感じだつた。そして、これが人間の世界であるといふことはどうしても信ずることが出来なかつた。右を向いても左を見ても、毀れかかつた泥人形に等しい人々ばかりで、自分だけが深い孤独に落ち込んで行くやうで、足掻きながら懸命に正常な人間を探したものだつた。ぶらぶら院内を歩いてゐる時など、向うから誰かやつて来ると、激しい興奮を覚えながら、熱心にその者を眺めた。そしてだんだん近づくにつれて、足に巻いた繃帯が見え出したり、腐つた梨のやうにぶくぶくと脹らんだ顔面がじろりと彼を睨んでゐることに気づいたりすると、一度にぐつたりと力が抜け、げつそりしてしまふのであつた。その反対に、ひよつこり看護婦の白い影でも、木立の間にちらりと見えると、ほつと安心し、もうその方へ向つて二三歩足を踏み出してゐる自分に気づいたりするのだつた。宇津は、自分が癩病に患つてゐることを肯定しながら、自らを患者一般として取り扱ふことの出来ぬ心の矛盾に、長い間苦しめられた。
彼が間木老人と会つたのは、動物小屋に来てから十日ばかりすぎた或る夜中だつた。その日動物達に夕食を与へてしまふと、すぐ床の中へ這入つて眠つたが、悪い夢に脅かされて眼が覚めてしまつた。そしていくら眠らうとしても、眼は益々冴え返つて来るので、仕方なく起き上ると、小屋を出て、果樹園の方へぶらぶら歩いて行つた。運良く月が出てゐたので足許も明るく、眼を遠くに注ぐと、茫漠とした武蔵野の煙つたやうな美しさも望まれた。桃の林は黝ずんで、額を地に押しつけるやうにして蹲つて見え、月は、その下で丸く大きく風船玉のやうに、空中に浮んで、そこから流れて来る弱い光りが、宇津の影を作つてゐた。宇津が歩くと、影も追つて地を這つた。自分の影に気がつくと宇津は、それが余りぴつたり地に密着してゐるので、だんだん自分の体が浮き上つて行くやうに思はれて来てならなかつた。すると奇怪な不安を激しく感じて、もう一歩も歩くことが出来なくなつてしまつた。また来たな、と呟くと一つ大きく呼吸した。かうした不安は幾度も経験してゐるので、さほどに驚かなかつた。がこれが、何時何処で不意に表はれて来るか皆目見当がつかず、その上一旦突き上つて来ると、どうにも動きが取れなくなつてしまふので、それにはひどく弱つた。これは病気に対する恐怖が、死に感応して起るものであらうと、彼は自分で解釈してゐた。不安は執拗な魔物のやうで、その都度自分がだんだん気狂ひになつて行くやうな、また新しい不安をも同時に感ずるのだつた。かういふ時彼は、ぐうつと胸一杯に空気を吸ひ込んで、もう息が切れる、という間髪に鋭くハッハッと叫んで一度に息を抜くことにしてゐた。そこで大きく息を入れ、胸が張り切ると、ハッと鋭く抜かうとした途端に、
「枯野さん。」
といふ呼声が、突然すぐ間近でしたので、吃驚して呼吸が声の出ないうちに抜けてしまつた。
「枯野さんではありませんか。」
二三間しか離れてゐない近くで、今度はさう言つた。宇津は初めて、こんな自分の近くに人が居り、しかも自分に呼びかけてゐることを識つて驚いた。
「いいえ。」
と彼は取敢へず返事をした。その男は月影をすかして探るやうに宇津に近寄つて来ると、
「これはどうも失礼しました。」
と静かに言ふと、
「どなたですか。」
と訊いた。何処か沈んだやうな調子の声で、何気ない気品といつたものが感ぜられた。宇津はすぐ老人だなと感じた。月の蒼い光りの底を、闇が黝々と流れて、どんな男かはつきり見極めることは出来なかつたが、宇津はすぐさう感じた。しかし宇津は、こんな深く品を沈めた、余情を有つた言葉を、まだ一度も聞いたことがなかつたので、激しく心を打たれながら、何者であらうかと怪しんだ。
「僕、宇津といふ者です。」
ちよつとの間を置いて、さう答へると、
「宇津?」
と鸚鵡がへしに言ふと、また、
「さうですか。宇津? 宇津?」
ひどく何かを考へる様子で、さう繰り返した。これはをかしい奴だと、宇津は思ひながら、
「御存じなんですか。」
と訊いて見た。
「いえ、いえ。」
と狼狽しながら強く否定して、
「わたしは間木といふ者ですが──。」
「はあ。」
と応へながら宇津は、老人の過去に、宇津といふ固有名詞に関する何かあつて、それから来る連想が心に浮んでゐるのであらうと察した。
「何時、入院されたのですか。」
「まだ入院後三ヶ月ばかりです。どうぞよろしく。」
「ほう、さうですか。」
さう言ひながら老人がぽつぽつ歩き出したので宇津も追つて歩いて行つた。宇津は注意深く老人を観察しながら、どうしてこんな夜中に歩きまはつてゐるのか、それが不思議でならなかつた。
老人は病気の程度を訊いたり、懸命に治療に心掛ければ退院することも出来るであらうから心配しないがいいと元気づけたりした。
「全治する人もあるのですか。」
と訊ねて見ると、老人は暫く何ごとかを考へる風だつたが、
「さあ、さう訊ねられると、ちよつと答へに困るのですが……この病院の者は、落ちつく、といふ言葉を使つてゐますが、つまり病菌を全滅させることは出来ませんが、活動不能の状態に陥れることは出来るのです。」
と言つて、癩菌は肺結核菌に類する桿状菌で、大楓子油の注射によつてそれが切れ切れになつて亡びて行くものだといふことを、この病院の医者に聞いたし、顕微鏡下にもそのことが表はれてゐると説明して、無論あなたなど軽症だから今の間にしつかり治療に心掛けることが何よりで、養生法としては凡てのものに節制をすること、これだけだと強く言つて、これさへ守れば癩病恐るに足らぬと教へた。
入院以来宇津はもう幾度もこれと同じやうな言葉で慰められたり、力づけられたりして来たので、この言葉にもさほどの喜びを感じないのみか、老人の口から出る語気の鋭さに、一体この老人の過去は如何なるものであつたのだらうかと、それが気になつて彼は、全神経を澄み亙らせて対象を掴まうとしてゐた。老人は所謂新患者に対して心使ひをする楽しさを感じてか、それからも宇津に、病院の制度のことや患者一般の気質などを話して、最後に、今何か作業をやつてゐるかと訊いた。
「動物小屋の番人をやつてゐます。」
と答へると、
「さうですか、あそこは空気の悪い所ですから胸に気をつけなさい。この上に肺病まで背負ひ込んではたまりませんよ。この病院に癩肺二つに苦しんでゐる者がかなり居りますが、そりや悲惨なものです。先日もあんたの小屋の裏にある監房へ入れられて──女と一緒にここを逃走しようとして捕まつた男なのですが、房内が真赤に染まる程ひどい喀血をして死にました。」
宇津は老人の言葉を聞きながら、竈のやうな監房を心に描いて、この病院には、人間の為し得ないやうな恐しいことが、まだまだ埋つてゐるに違ひないと思つて、深い不安と恐怖を感じたのだつた。
今まで宇津以外に誰もゐない動物小屋の、薄暗い部屋へ、時々間木老人が訪ねて来るやうになつた。宇津が豆腐殻に残飯を混ぜて、動物達の食餌を造つてゐると、老人はこつこつとやつて来て、宇津の仕事振りを眺めたり、時には手伝つてくれたりした。今まで見たことのない老人の姿に、猿が鉄の網に縋つてキヤッキヤッと鋭く叫んで、初めの間騒いで困つたが、だんだん馴れて来ると、老人は、甘い干菓子を懐に忍ばせて来て、猿に握らせてやつた。が老人が一番可愛がるのは、小さな白鼠で、赤い珊瑚のやうな前足で一つびとつ飯粒を掴んで食ふ有様を見ると、素晴しい発見のやうに喜んだ。鼠癩に罹つたのを見る時は、大てい貌をしかめて、余りその方へは行かなかつた。
宇津は注意深く老人を眺めながら、何の気もなく行ふ一つびとつの動作の中にも、言葉の端々にも、過去の生活が決して卑俗なものでなかつたに違ひないと思はれる、品位といつたものを発見した。貌の形は勿論病のために変つてゐようが、しかしそこにも犯し難いものが感ぜられた。老人の話では、入院してからもう十年にもなり、入院当時は貌ぢゆう結節が出てゐ、その上醜くふくらんでゐたが、今ではすつかり結節も無くなつて、以前の健康な頃のやうに、すつきりとふくらみも去つたといふことであつた。無論湿性であるから眉毛は全部抜けてゐたが、かなり慣れてゐる宇津には、決して奇怪な感じを抱かせはしなかつた。
仕事が終ると、二人は、暗い部屋で向ひ合つて、ゆつくりお茶を飲んだ。
「わたしは生れつきお茶が大の好物でねえ、実際疲れた時に味ふ一杯は捨てられませんよ。」
と、あるかなしの微笑を浮べながら老人はさう言つて、本式のお茶の点て方を宇津に教へたりした。
交はるにつれて宇津はこの老人にだんだん深い興味を覚えると同時に、次第に深く尊敬するやうになつた。そして夕暮近く、静かな足どりで帰つて行く老人の後姿を眺めながら、一体何者であらうかと考へるのだつた。彼はまだ老人が何処の病舎にゐるのか識らなかつたので、ある日それを訊ねて見た。するとその答へが余り意外であつたので驚いてしまつた。
「わたしは、十号に居ります。」
老人はさう細い声で言つて、暗い顔をしたのだつた。十号はこの病院の特殊病棟で、白痴と、瘋癲病者の病棟である。
宇津はかなり注意深く老人を観察するのであるが、何処にも狂人らしいところは見えなかつた。それかといつて白痴であらうとは、尚更思へなかつた。その重々しい口調といひ、行為の柔かさといひ、到底さういふことは想像することすら不可能であつた。それではきつと附添をしてゐるのであらうと思つた。附添もこの院内の作業の一つで、一日十銭が支給されて、軽症者の手で行はれてゐた。しかし老人は附添ではなく、やつぱし精神病者の一人であつた。宇津が試みに、附添さんもなかなか大変でせう、と訊いて見ると、老人は、こつこつと自分の頭を叩いて、
「やつぱり、これなんです。」
と言つて、寂しさうに貌を曇らせて、黙々と帰つて行つたのだつた。ではあれでもやはり狂人なのだらうかと、今更のやうに、その沈んだやうに落着いた言葉や行為の中に、或る無気味さを感じたのだつた。そして初めて老人に会つた時の状を想ひ浮べて、あんな真夜中にああした所を歩き廻つてゐることにも、何か異常なものを思ひ当つたのだつた。
この老人が陸軍大尉であることを宇津が識つたのは、一ヶ月程過ぎた或る夕暮だつた。その日彼は初めて間木老人の部屋を訪ねたのである。
十号は他の病棟とかなり離れてゐて、この病院の最も北寄りで、すぐ近くに小さな池があつた。池といふと清らかな水を連想するが、これはどろんと濁つた泥沼で、その周囲には八番線程の太さの針金で、頑丈に編まれた金網が張り巡らされてあつた。勿論自殺防禦のためで、以前にはこの泥沼に首を突込んで死んだ者も、かなりの数に上るといふことである。
他の病棟は一棟に二室で、一室に二十のベッドが並んでゐるが、十号は中央に長い廊下が貫いてゐて、両側に五つ宛、十個の部屋があつて、ここだけは日本式な畳であつた。部屋は六畳で、各二人宛が這入つてゐるが、狂ひ出すと監禁室に入れられた。狂人といつても大ていは強度の恐迫症患者で、他は被害妄想に悩まされてゐる者が多かつた。その他にも白痴やてんかん持ちや、極度なヒステリー女など、色々ゐた。
附添の手によつて綺麗に光つてゐる廊下を、初めて宇津は歩きながら、想像以上に森と静かな空気に不思議な感を抱いたが、何か無気味なものが底に沈んでゐるやうな恐しさをも同時に感じた。だんだん夕暮れて行くあたりの陰影が忍び込んで、そこの空気はぼんやり翳り、長い廊下の彼方に、細まつて円錐形に見え、黝く浸んで物の輪郭もぼやけてゐた。歩く度に空気が、ゆらりと揺れるやうに思はれ、自分の背後から不意に、手負ひ猪のやうに狂人がうわつと飛びついて来るのではあるまいかと、彼は心配でならなかつた。老人の部屋が幾番目にあるのか聞いてゐなかつたので、うろうろと廊下に立つて、細目にあいてゐる部屋を、横目でちらりと覗いて見たり、誰か早く出て来れば訊ねて見るのだがと、二三歩行つたり来たりしてゐると、すぐ右手の部屋から、美しい女の唄声がもれ聞えて来た。宇津は立停つて唄声の美しさに耳を澄ませて、ふうむふうむと感心しながら、ひよつとすると朝鮮女かも知れぬと思つた。唄はアリランで、原語のまま巧みに歌つて行つた。その唄声が病棟内を一ぱいに拡がつて行くと、突然廊下の突き当つてゐる向う端の部屋の障子があいて、そこから男が一人ふらりと浮き出て来た。誰もゐない家へ初めて来て、うろうろする時の間の悪さを感じてゐた宇津は、ほつと安心すると同時に、白痴か狂人かと神経を緊張させて、その男を眺めた。この病院で制定された棒縞の筒袖を着て繩のやうに綯ひよれた帯をしめてゐた。体重が二十四貫もありさうにぶくぶくと太つた男で、丸で空気に流されるやうにふらふらと宇津の方へ近寄つて来て、間近まで来ると、ひよいと立停つてぼんやり彼を眺めた。白痴だな、と直覚したが、兎に角一応訊ねてみようと思つて、
「今日は。」
と先づ挨拶をしてみた。すると、対手は、はあと言つたまま、宇津の頭の上のあたりを眺めてゐる。
「間木さんの部屋は何処でせうか。」
と訊くと、
「はあ。」
と言つて、やつぱり同じ所を眺めてゐるのだつた。宇津は苦笑しながら、これは困つたことになつたものだと思つてゐると、対手は小さな、太い体とは正反対の細い女のやうな声で流行歌の一節を口吟み始めた。宇津は思はず微笑してじつと聞いてゐると、急に歌をやめて、ぶつぶつ口の中で何か呟きながら外へ出て行つてしまつた。そこへ附添人が来たので、それに訊いてやうやく老人の部屋へ這入つた。老人は不在だつたが、すぐ帰つて来るだらうといふ附添人の言葉だつたので、彼は帰りを待つことにした。
部屋は六畳で、間木老人の他に、もう一人居るとのことであつたが、その男もゐなかつた。畳はかなり新しく、まだほのかに青みを有つてゐたが、処々に破れ目や、赤黒く血の浸んだ跡等があつた。壁は白塗りであつたが、割れ目や、激しく拳固で撲りつけたらしい跡があつた。その他爪で引掻いた跡や、ものを叩きつけて一部分壁土の脱落した所などもあつて、狂人の部屋らしい色彩が感取された。あの温和な老人がかうしたことをやるのだらうかと怪しんでみたが、老人と一緒にゐる他の男がやつたものであらうと思つた。それでは一体どんな男が住んでゐるのであらうかと考へると、ちよつと気味が悪くなつて来だした。
南側には硝子窓があつて、その下に小さな机が一つ置いてあつた。机の上には巻紙が一本と、黒みがかつて底光りのする立派な硯箱が載せられてあつて、しつとりと落着いた感じが宇津の心を捕へた。が、何よりも心を惹いたのは、巻紙と並んで横になつてゐる一葉の写真で、この院内では見られない軍人が、指揮刀を前にして椅子に腰をおろしてゐた。宇津は激しく好奇心を動かせながら、それを眺めた。肩章によつて大尉であることは直ぐに判つた。無論老人の若い時のものに相違なかつた。きりつとした太い眉毛や、逞しい髯の立派さや、この写真で見る間木氏と、今の老人との隔りは甚しかつたが、それでも、幼な心の想ひ出をたどるやうな、ほのかな面輪の類似があつた。
「ふうむ。」
と言ひながら、宇津は熱心に視つめた。その時彼はふと父を想ひ出した。彼の父もやはり軍人で、しかも老人と同じ大尉だからで、小さい頃その父に幾度も日露戦争の実戦談を聞かされたことがあつた。そしてひよつとすると間木老人も父と一緒に北満の荒野で戦つた勇士ではあるまいかと思はれて来た。すると間木老人が宇津といふ名前を聞いた時、宇津、宇津? と言つて考へ込んだりした様子なども、また新しく心に浮んで来て、これは大変なことになつて来たと、宇津は心の中で呟いた。そして自分が今何か大きな運命的なものの前で、ぽつんと立つてゐるやうな不安と、新しいことに出会すに違ひないといふ興味とを覚えた。
宇津が次々に心に浮んで来る想念に我を忘れてゐると、突然、鈍く激しい物音がどんと響いて、続いてばたばたと廊下を駈け出す足音と共に、
「又やりやがつた!」
といふ叫声が聞えて来た。すると部屋部屋の硝子戸が、がたがたと開いて四辺が騒然としはじめた。どうしたのかと、宇津は怪しみながら入口を細目にあけて廊下を覗いて見た。彼がここへ這入つて初めて会つた太い白痴が、仰向けに倒れて、口から夥しいあぶくを吹いて眼を宙に引きつつてゐた。それを先刻廊下を駈け出した男であらう、上からかがまつて懸命に押へつけてゐる。勿論一眼でてんかんだと解つた。部屋部屋から飛び出して来た人々は、白痴を取り巻いて口々に何か喋り出した。女が二人と男が五人であつたが、どれもこれも形相は奇怪に歪んで、それが狂的な雰囲気のためか身の毛の立つやうな怪しい一団を造り上げてゐた。しかもこれが何時どのやうに狂ひ出すか判らない連中ばかりだと思ふと、気色が悪くなつて来て、これは足許の明るい中に帰つた方がよいやうに思はれ出し、立上つて一歩廊下へ踏み出した。するとその時又先刻の美しいアリランの唄声が聞えて来た。唄声はさう高くはないが、それでも人々の騒音に消されもしないで、あたり一ぱいに流れていつた。この腐爛した世界を少しづつ清めて行くやうで、宇津は立止つてじつとそれを聞いた。その時急に表が騒々しくなると、狂人であらう、一人の男が底抜けに大きな声で歌のやうなものを呶鳴りながら入口に現はれた。頭の中央が禿げ上つて周囲だけにちよびちよびと毛が生えてゐた。その周囲の毛が頬を伝つて顎まで下りて来ると、そこには見事な、八寸もありさうな鬚が波を打つて垂れてゐた。貌全体が全で毛だらけであつたが、その癖眉毛がまるつきり無いので、ひどく怪しげであつた。彼はその禿げ亙つた頭を光らせながら、物凄い勢で廊下を突き進んで来ると、白痴を取り巻いてゐる人々を押し退けて中央に割り込み、突然胆を潰すやうな太い声で、
「桜井のてんかん奴!」
と呶鳴つた。すると、今度は嗄れた声で、ひどく可笑しさうに笑ひ出した。一度笑ひ出すと、止めようとしても止まらないらしく、彼は長い間最初と同じ音程で笑ひ続けた。が暫くすると、綱でもぷつッと切断するやうに、ぴたりと笑ひ止んで、眸を鋭く空間に注ぐと、貌を嶮しく硬直させて、何か考へる風だつたが、やがてがつくりと首を落し、ひどく神妙さうに黙々として宇津のゐる部屋へ這入つて来た。
「君は誰だ。間木君に用かね!」
神妙な貌つきに似ず鋭い口調でさう言ふと、考へ深さうに鬚をしごきながら、どかりと坐つた。心臓にうすら寒いものを覚えながら宇津が、
「はあ、待つてゐるのですが。」
と答へてその男を見た。もう六十二三にはなるであらう。間木老人と同年、或は三つ四つ下であらう。しかし一本も白髪の混つてゐない漆黒の顎鬚は実際見事なものであつた。頭の光つてゐる部分はかなり峻しく尖つてゐて、そこに一銭銅貨大の結節の痕があつた。そこだけ暗紫色に黒ずんでゐて、墨か何かを塗つたやうだつた。男は暫く宇津を眺めてゐたが、
「何時、この病院へ来たのかね!」
と訊いた。
「五ヶ月、近くになります。」
と言ふと、
「ふうむ。」
と深く何事かを考へてゐたが、
「形有るものは必ず破る、生有るものは必ず滅す、生者必滅は天地大自然の業だ。」
と息をつめて鋭く言ふと、激しい眸ざしで宇津を視つめてゐたが、急に又以前と同じ嗄声で爆笑し出した。が、すぐ又真面目くさつた貌になつて、
「抑々癩病と称する病は、古来より天刑病と称されしもので、天の、刑罰だ! 癒らん、絶対に癒らん!」
小気味がよいといふ風にきつぱり言ひ切ると、又しても笑ひ出した。
「現代の医学では癒らんといふのだ。だが俺は癒す。現に癒りつつあるのだから仕方があるまい。」
眸を光らせながら、宇津を覗き込んでさう言つた。
「どうすれば癒りませうか。」
宇津は、こいつ可哀さうに病気のためにひどく狂つてゐると思ひながら、それでも顎鬚の壮観に何者であらうと好奇心を起しながら試しに訊いてみた。
「先づ、信仰、の二字だ。仏法に帰依するのだ。」
微動だにしまいと思はれる程強い自信を籠めてさう言ひ切ると、それから長い間、驚くべき該博な知識を有つて仏教を説いて、君も是非宗教を有つやうにと勧めた。
「それでは、あなたに随つて僕もやつて見ませう。」
と言ふと、
「それが良い、それが良い。」
と幾度も言つて、茶器を運んで来ると、買つてから一週間以上も経つであらうと思はれる、固くこはばつた羊羹を押入から取り出して、遠慮なく食ひ給へと言つて宇津の前へ放り出した。そして自らその一つを口に入れてむしやむしやと食ひ始めた。食はぬのもどうかと思はれたので、一つ口に入れて見ると、固い羊羹はごりごりと音を立てた。男は満足さうに宇津を見てゐたが、急に何かを思ひついたやうに立上つて、押入から一封度程の金槌を取り出し、早口に経文の一節を唱へ出した。可笑しなことをやり出す男だと宇津は怪しみながら見てゐると、いそがしげに着物をぬぎ捨て、褌一つになつて宇津の前に坐ると、膝小僧を立ててそれをごつんごつんと叩き出した。膝小僧が痛さうにだんだん赤らんで来ると、男は益々槌に力を加へ一層高く経文を唱へて強く打ち続けた。かなり長い間叩いてゐたが、それを止めると、今度は両掌で打つた跡をうんうん唸りながらもみ始めた。全身にじつとり汗がにじんで来ると、ふうと大きな息を吐いて宇津の方を眺め、
「君も病気を癒したいであらうが、それなら俺のやうにやり給へ。」
と言つて、前よりも力を入れてもんでゐたが、現代の科学程あてにならんものはない、医学は癩を斑紋型、神経型、結節型の三つに分割して大楓子油の注射をやるが、俺はこの分類に賛成出来ない、況んや皮膚病として取り扱ふなどは噴飯ものだ、抑々癩菌は人体の何処にゐるか、医者は入院患者に対して先づ鼻汁と耳朶の血液を採る、成程そこにも一ぴきくらゐはゐるかもしれん、がほんとは骨の中にゐるんだ、骨の中には癩菌が巣を造つてゐる、だから俺はかうして膝小僧を叩くのだ、骨の中でもここが一番多く菌が蝟集してゐるのだ、ここには菌が、五つくらゐも巣を造つてゐるに相違ない、それが叩くと熱気と激しい震動で菌のやつが泡を食つて骨の外側に這ひ出して来るんだ、するとそこに結節が出来る、金槌で叩くのは結節を造るためだ、それならどうして自ら痛い目に会つてまで結節を造るか、無論それを直ちに除く方法があるが故だ。この病院では結節注射と称して大楓子油を結節にうつが、あれは愚の至りだ、注射をすると折角出てゐる菌を又候骨の中へ追ひ込んでしまふに過ぎんといふことを誰も気づかないんだ、結節を除くには注射など零だ、たはしでこするのが一番良い、こすり取つてしまふのだ、俺の頭を見給へ、結節の痕があるだらう、これは俺の発明したたはし療法でこすり取つた痕だ、と口から泡を飛ばしながら言ふと、禿げ上つた頭をつるりと撫でまはした。宇津は思はず噴き出しながら、しかし同時に心の底に何か不安なものを覚え、反撥して見たい欲求をさへ感じた。自分の中にある医学への信頼が脆くも破れて行きさうに思はれた。
「たはしでこするのでは痛くてたまらんでせう。」
心の中に複雑な葛藤を沈めたまま、微笑してさう言ふと、
「何、麻痺してゐるから一向感じがないんだ。」
と言つて、又例のやうにからからと笑ひ出した。宇津はその麻痺といふ言葉に突然ぞつと背筋が冷たくなつて、早く間木老人が帰つてくれればいいがと思案した。麻痺、と簡単に言つてしまへばそれまでのものであるが、生きた肉体の一部が枯木のやうに感覚を失ひ、だんだん腐つて行く恐しさは、考へれば考へる程奇妙な、気色の悪い無気味さである。それに人々の話を聞くと、今日は誰が足を一本切つたの、腕を片方外科場に置いて来たのと言ひ、しかも切られる本人は、医者が汗を流しながら鋭い鋸でごりごり足をひいてゐるのに、平然と鼻歌の一くさりも吟じて知らん顔をしてゐるといふのである。そしてそれが決して他人事ではなく、直接に自分自身に続いてゐる事実で、その間にあるものはただ時間だけである。この病院に来て以来、人に幾度も慰められたが、その言葉の中には定つて、
「まだまだあんたなんか軽いんですから。」
安心しろと言はれたが、このまだまだといふ言葉程げつそりするものは他になかつた。しかしこれが一等適切な正確な言葉なのである。
宇津が暗澹たる気持で相手の鬚を眺めてゐると、狂人は急に立上つて、褌一つのまま憑かれたやうに室内をぐるぐる廻り出した。どうしたのですかと訊くと、
「気が狂ひ出して来たんだ。」
と早口に言つて、その言葉が終らぬうちに、胆を潰すやうな大きな声で、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と呶鳴り出した。これはとんでもないことになつて来たと宇津が弱つてゐると、そこへ運良く間木老人が帰つて来たのでほつとした。
老人の話では、この鬚男はもと政党ごろか何かそのやうなことをやつてゐたらしく、入院当時はひどい沈黙を守つて毎日仏を拝むことを仕事にしてゐたが、五六ヶ月過ぎる頃から気分に異状を来したとのことであつた。そしてひどく暗い顔になりながら、
「わたしも実は強迫観念に悩まされてこの病室に来てゐるのですが、あの男も初めはやつぱりそんな風でした。」
そして鬚は幾度も監禁室に入れられたことや、癩菌が恰も蛆虫かなんぞのやうに指で触れ得るもののやうに思はれ、それが絶間なく肉体を腐らせて行くことに怒りと恐怖を覚え、監禁室の中でも一日に二三度は暴れ出して、壁に体を撲ちつけ、全身を掻きむしるのだとも言ひ、
「実際なんといふ惨らしいことでせう。敵は自分の体の内部に棲んでゐて、どこへでも跟いて来るのです。それを殺すためには自分も死なねばならぬのです。自分も死なねばならぬのです。」
私も時々硫酸を頭から浴びて病菌を全滅させたい欲求を覚えます、と宇津は自ら思ひ当るふしを言はうとしたが、その時はつと自分も褌一つの鬚と同じ心理を行つてゐることに気づいて、深い不安を覚えて口を緘んだ。
宇津が十号を訪ねてから、暫くの間、老人は小屋を訪れて来なかつた。宇津は例のやうに動物達の世話をしながら老人は一体どうしてゐるのであらうかと、暫く会はない老人を心配したり、こちらからもう一度訪ねてみようかと考へてみたりした。小屋の中はいつものやうに仄暗く、二三日前に腹を割かれ、生々しい患者の結節を植ゑつけられた小猿が、心臓を搾るやうな悲鳴を発して、それがあたりを益々陰鬱なものにしてゐた。そして老人が再びここへ来るまでの間に、一つ、宇津の心に残つたエピソードがあつた。
それは十二時近くの夜中のことで、宇津がふと眼をさますと、裏手の監房のあたりから、荒々しい男の怒声と切なげな女の悲鳴が聞えて来るのだつた。それと同時に、監房でもあけてゐるのか、扉の音なども響いて来た。宇津は怪しみながら草履を引つかけると、外へ出て見た。あたりは闇く、高い空を流れる風が、老松の梢にかかつて、ざわめく音だけが聞えた。監房の前には小さな常夜燈が一つ点いてゐて、そこだけが、塗り込められた闇の中にぼうつと明るく浮き出てゐた。その小さな円形の光りの中で、黒い着物を着て鷹のやうに全身保護色してゐる男が、二人がかりで若い女を、引きずるやうにして監房の中へ押し込んでゐた。黒い男は、この院内の患者を絶えず監視してゐる監督である。宇津は息をひそめながら、松の陰に身をしのばせて、幻想的な映画のスクリーンを見るやうに、津々たる興味をもつて熱心に眺めた。争つてゐるのであらう、女の華美な着物の縞目が、時々はたはたと翻つて、それが夜目にもはつきり見えた。が間もなく女は監房の内部へ消えて、厚い扉が、図太く入口を覆つてしまつた。黒い男は顔を見合はせて互ににやりと笑ふ風だったが、それもそのまま闇の中に消え去つて、もうあたりは以前の静寂に復つて、厚い扉だけが、暗い光りの下に肩を張つてゐた。宇津は松の横から出ると、監房の方へ近よつて行つた。女が、ひいひい泣く声が、低く強く流れ出て来た。彼は扉の前に立つて、暫く内部の泣声を聞いてゐたが、だんだん女に声をかけて見たくなつて来だした。どうせ駈落し損つた片割れだらうと思つたが、この場合何と言つたらいいのか、適当な言葉がなかなか浮んで来なかつたので、帰らうと思つてそろそろ歩き出すと、
「おい!」
といふ男の声が房内から飛び出て来たのでひどく吃驚して立止つた。さては男の方はもう先に這入つてゐたのかと思ひながら、何か自分に言伝てでもあるのかと鋭く神経を沈めて、危く返事をしようとすると、急に女の泣声がぱつたりと止んで、それから細々と語り合つてゐるらしい男女の声が洩れて来た。その時人の足音がこつりこつりと聞えて来たので、さては監督があたりを警戒してゐるのだなと、感づいたので、彼は急いで小屋へ帰つた。
この一組の逃走未遂者の中、男の方はすぐその翌日退院処分を食つて追放されたが、女は五日間監房の中で暮して出された。が数日過ぎると、女の体は松の枝にぶら下つて死んでゐた。恐らくは胎内に子供でも宿つてゐたのであらう。
この小さな事件は、宇津の心に、悪夢のやうな印象を残した。彼は相変らず動物達と暮しながら、時々あの小さな光りの円形の中で行はれたことが、はつきり心に蘇つて、苦しめられた。その度に、不安とも恐怖ともつかない真暗いものだが、ひたひたと心を襲つて来るのを感じた。彼はあの時、自分でも驚くほど冷静だつたのに、どうしてかう後になつて強く心を脅すのか不思議に思はれてならなかつた。これはもはや一生涯心の斑点となつて残るのではあるまいかと思つたりすると、自然心が鬱いで行つた。
モルモットは一箱に一匹づつ這入つてゐて、兎の箱と向ひ合つて積み重ねられてあつた。その間はちよつと谷間のやうに細まり、幅は三尺くらゐしかなかつた。宇津はその仄暗い間を、幾度も行つたり来たりして、彼等に食餌を与へていつた。動物達は待ちかねたやうに飛びついて食つた。宇津はその旺盛な食慾にもさほどの興味も覚えなかつた。赤い兎の眼が光線の工合で時々鋭くキラリと光つた。モルモットの眼は、僅かな光りの変化にも、眺める角度の些細な動きによつても、激しい色彩の変化を示した。実際モルモットの眼の色の変化の複雑さには宇津も、もう以前から驚かされてゐた。透きとほるやうな空色にも、水々しいブダウ色にも、無気味な暗紫色にも、その他一切の色彩に変化して眼に映つた。しかしそれが生物のためか、自然色の美しさではなく、どこか底気味の悪い鋭さがあつた。宇津は時々その眼色に全身を射竦められてしまふやうな深い恐怖を覚え、自分の全身が獰悪な猛獣に取り巻かれてゐるやうな気がしだして、息をつめて急いで外へ出ることがあつた。彼にはどうしても動物達と馴れ親しむといふことが出来なかつた。先日も子猿が、宇津の知らぬ間に誰かが投げ込んだものであらう細い繩切れを、足首に巻きつけてキヤッキヤッと騒ぐので、取つてやらうと箱の前にしやがむと、猿は不意に金網の間から腕を出して、宇津の長い頭髪をぐいと掴んだ。彼は危く悲鳴を発する程驚いて飛び退いたが、心臓が永い間激しく鼓動した。今日も幾度も行つたり来たりしてゐるうちに、又恐怖が全身に満ちて来だして、ずつと前に見た猛獣映画の光景などが心に浮び上つて来るので、急いで外へ出た。が又すぐ中へ這入つて行つた。自分はもう何時死んでもいい人間なんだと強く思つたからだつた。それならいつそ今死んだらどうだらう、何気なくさう思つて上を仰ぐと、綱を掛けるに手頃の梁が見えるので、彼は兎の箱の上へ這ひ上つて手を伸ばして見た。心が変に楽しみに脹らんで来て、彼はにやりにやりと笑つた。それからそろそろ帯を解くと、梁に掛けた。二三度試しに引いて見たが、十人が一度に首をくくつても大丈夫確かなものだつた。これに首を結はへて飛び下りさへすれば……ふうむ、死なんて案外訳なくやれるものなんだな、それではそんなに命を持て余さなくてもいいんだ、ここまで来て自分は平気なのだからもう何時でも死ねるに違ひない、と思つて安心すると、それならそんなに急いで死ぬ必要もないと思つたので、彼は又帯を締めると、下へ降りた。その途端に、
「宇津さん。」
と呼ぶ間木老人の声が聞えたので、急いで外へ出ると、
「ほんとにやるのかと思ひましたよ。」
と老人は軽い微笑を浮べながら言ふので、ではすつかり見られたな、と思ひながら、
「いや、ちよつと試しにやつて見たんです。」
「ははは、さうですか試しにね。どうです、行けさうですか。」
「案外たやすく行けるんぢやないか、といふ気がします。」
「ふうむ。」
と深く頷くと、何かに考へ耽つてゐたが、
「あなたはどうして生きて行かうと思つてゐますか。」
と不意に鋭く、宇津の貌を視つめながら言つた。かういふ時、老人の過去の軍人的な面影がちらりと見えた。宇津はそれを素早く感じながら、どう答へたらいいのかに迷つた。もうかなり以前から、考へ続けてゐる問題だつた。彼は自分の感覚の鋭敏さは、対象の中からこの問題を解決する何ものかを見つけ出さうとする結果で、そして感覚が鋭敏になればなる程、対象と自分との間は切迫して、緊張し、恰も両端を結んで張り渡された一本の線の上に止つてゐる物体のやうに、ちよつとゆるめればどうと墜落する間髪に危く身を支へてゐるのだと思つた。
「もう長い間探してゐるのですが、僕には生きる態度といふものが見つかりません。」
老人は深く頷いて、又長い間考へ込んでゐたが、やがてそろそろ宇津の部屋に這入つて行き、
「お茶でも味はして下さい。」
と静かな、幾分淋しげな声で言つて、坐つた。ひどく疲れてゐるやうであつた。
勿論ここでは本式のお茶など点てらるべくもなかつたが、それでも宇津は、湯加減や濃度によく気をつけて老人に奨めた。老人はちよつと舌の先にお茶をつけて、何か考へ耽りながら味つてゐたが、
「桜井が死にましたよ。」
と言つた。
「へええ、あのてんかん持ちの人ですか。」
「わたしの部屋にゐる鬚を知つてゐるでせう。あれと喧嘩をしましてね。腹立ちまぎれに井戸へ飛び込んだのです。」
何時の時も二人の話は途切れ勝ちで、無言の儘互に別々のことを考へながら向ひ合つて坐つてゐることが多かつたが、今日もそこまで言ふと、途切れてしまつて、老人は窓外に眼をやつて、林の中をちよこちよこ歩いたり急に駈け出したりして戯れてゐる仔犬を眺めてゐた。が暫くすると、宇津の額をじつと視つめながら、
「変なことを訊くやうですが、お父さんは御健在ですか。」
「はあ。」
と答へると、
「何時か一度お訊ねしたいと思つてゐたのですが、もしかしたらあなたのお父さんは日露戦争においでになられた方で、お名前は、彦三郎さんと言はれはしませんか。」
「はあ、さうです。どうして御存じですか。」
「ふうむ。」
老人は唸るやうにさう言ふと、宇津の貌を熱心に視つめ出した。
「そつくりだ。その額が、そつくりです。」
宇津は何か運命的な深いものに激しく心を打たれながら、まだ額だけは病気に浸潤されてゐないことを思ふと、急に額がかゆくなつて来て、手を挙げると、老人は益々ふうむふうむと感嘆して、
「その手つき、その手つき。もう何もかも、そつくりだ。」
「父を御存じなんですか。」
「知つてゐるどころか、日露戦争の時には、同じ乃木軍に属してゐた、親友でしたよ。」
老人は遠い過去を思ひ浮べてゐるらしかつた。宇津はもうどう言つていいのか、言葉が出なかつた。
「あの頃は、わたしも元気でしたよ。元気一ぱいで、御国の為に働きました。ちやうど奉天の激戦の時で、物凄い旋風が吹きまくつてゐました。その中を、風のために呼吸を奪はれながら、昼夜の別なく最左翼へわたし達の旅団は強行軍を行つたのです。敵軍の本国との連絡を断つ為でした。その行軍の眼にも止まらぬ早業が、あの戦の勝因だつたのです。けれどクロパトキンといふ敵の将軍も偉いやつでしたよ。あのクロパトキンの逆襲の激しさには実際弱らされましたよ。わたしはそのために、たうとう、情ない話ですが、俘虜になつてしまつたんです。その時俘虜になつた日本人が、千二百名もゐました。少佐大佐なども数人やられました。」
老人はお茶を啜つて、輝かせた瞳を曇らせながら、
「それからの八ヶ月間といふものは、ロシヤの本国で俘虜生活を続けました。勿論そんなに苦しい生活ではありませんでしたが、本国へ送られるまでの長い間の生活は、実際例へやうもない程、苦しいものでした。自殺をする者もかなりゐました。それから重傷を受けた者、片手を奪はれたもの、あの野戦病院から鉄嶺に送られた時は、地獄でしたよ。その時は夢中でよく覚えがありませんが、今から考へて見ると、地面に掘つた深い洞窟のやうな所へわたし達は入れられたのですが、そこで重傷者は大部分死に、本国まで行つた時は、もう半分くらゐの人数でした。」
老人は長い間、ロシヤでの俘虜生活を語つて、宇津には背中の砲弾の痕を見せたりした。疵痕は三寸くらゐの長さで、幅は一寸内外であらう、勿論普通一般の疵と変りはなかつたが、宇津は興味深くそれを眺めた。かなり深い負傷であつたらしく、そこだけが五分程も低まつてゐた。
「どんな色をしてゐますか。」
と老人は背後の宇津に訊いた。
「さうですね、色は健康な人の皮膚の色と大差ありませんが、皺が寄つてゐます。」
と言ふと、
「さうですか。」
と老人は、癩の疵でないことを示し得たことに幾分の喜びを感じたのであらう、満足さうに貌を晴れ晴れさせて、
「この病気の発病後に出来た疵は、どんなに治つても暗紫色をしてゐるものなのです。」
と言つて、老人は冷たくなつたお茶をごくりと飲み、宇津が熱いのを再び注ぐと、老人はそれをちよつと舌の先につけて下に置き、深く何ごとかを考へる風だつたが、深い溜息を吐くと、
「ほんたうに、わたしは人間の運命といふものを考へると、生きてゐることが恐しくなつて来ます。」
と弱々しく言つて、
「みんな夢でした。それも、悪い夢ばかりでしたよ。」
と続けて言つて、かすかな微笑を浮べた。そして何時になくそこへ横はると、長々と足を伸ばして、
「あなたは人を信ずる、といふことが出来ますか。わたしはもう誰も信ずることが出来ません。いやほんたうに信じ合ふことが出来たとしても、きつと運命はそれを毀してしまひますよ。不敵な運命がねえ。あなたのお父さんとの場合もさうでした。生涯交はらうと約束したのでしたが、私の方から遂にその誓ひを破らねばならなかつたのです。わたしは苦しみましたよ。けれどわたしは、俘虜になつたり、遂には癩病にまでなつてしまつたのですからねえ。たうとうわたしはここへ一人きりで隠れてしまつたのです。ところが又しても運命です。わたしの娘がこの病気になつて、この病院へ来たのです。それからは、この娘だけを信じて、わたしのすべてはこの娘と共にするといふ覚悟で暮して来たのです。娘は今年で三十に余るのですが、それも生涯独身で暮す覚悟だとわたしに誓ひました。だのに、その娘にも裏切られてしまつたのです。」
宇津は悪夢のやうに思はれる先日の光景を鮮明に心に描いて、運命に打ち砕かれた老人の切なげな声を聞いた。いふまでもなく老人の娘は二三日前に自殺した女である。この病院へは、親子兄妹で来てゐるものがかなりあることは宇津も知つてゐたが、今目のあたり老人を見て、その苦悶が一様のものでないことを、強く感じた。途端に、大きな運命の力の前に弱々しくうなだれて行かうとしてゐる自分の姿を感じて、ぐつと胸を拡げて反抗しようとしたが、宇津は自分に足場のないことを、この時切実に感じた。
その翌日老人は娘の死んだ松の枝で、同じやうに首をくくつて死んだ。宇津は老人の死体を眺めながら、この時こそ安心し切つてゐる老人の貌形に、死だけが老人にとつて幸福だつたのだらうと考へて、苦悶を浮べてゐない死貌に何か美しいものを感じたりしたが、自分の貌がだんだん蒼ざめて行つて、今自分が大きな危機の前に立つてゐることを自覚しつつ深い溜息を吐いた。
底本:「定本 北條民雄全集 上巻」東京創元社
1980(昭和55)年10月20日初版
初出:「文学界」
1935(昭和10)年11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の署名は「十條號一」です。
入力:Nana ohbe
校正:富田晶子
2017年1月12日作成
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