道化芝居
北條民雄
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どんよりと曇つた夕暮である。
省線の駅を出ると、みつ子はすぐ向ひの市場へ這入つて今夜のおかずを買つた。それを右手に抱いて、細い路地を幾つも曲つて、大きな工場と工場とに挟まれた谷間のやうな道を急ぎ足で歩いた。今日は会社で珍しく仕事が多かつたので、まだタイプに慣れない彼女の指先はひりひりと痛みを訴へたが、それでも何か浮き浮きと楽しい気持であつた。こんな気持を味ふのも、もう何年振りであらう、ふとそんな感慨が彼女の頭に浮ぶのである。これからは少しづつでも自分達の生活を良くしなくちやあ、ここ二三年の生活はあまりにみじめであつた──。しかし彼女はふと夫の山田の顔を思ひ出すと、瞬間何故ともなく不安な気持に襲はれた。またあんな苦しい生活が来るのではあるまいか、といふ暗い予感が自然と頭に流れて来るのだ。が彼女は急いでその不吉な考へをもみ消すと、夏までにはもつと上等なアパートへ引越さうか、いやそれよりも今はもつと辛抱して来年になつたら家を持たう、それまでは出来る限り切りつめてお金をためよう、などと考へ耽るのであつた。
彼女は足をとめた。没落者、ふとさういふ言葉を思ひ出したのである。彼女は口許に薄つすらと微笑を浮べると、わたしにはわたしの生活が一番大切、と強く頭の中で考へた。そして、何時までもそんな言葉が、意外なほどの執拗さで自分の中に潜んでゐるのに驚いた。
工場街を抜けると、ちよつと樹木などが生えた一郭があつて、そこに彼女のアパートはあつた。工場の職工などを相手に建てられた安つぽい木造で、このあたりにはさういふ家が二三軒あつた。彼女はさつき市場で買つた新聞の包みを習慣的に左手に持ち換へると、とんとんと階段を昇り始めた。すると階下から、
「お手紙ですよ。」
と呼ぶおかみさんの声が聴えた。急いでそれを貰ふと、また階段を昇りながら裏返して見た。一通は学校時代の友達の筆蹟であつた。この友達とはもう四年ほども交はりが跡絶えてゐたのであるが、彼女はこの頃この友達との交はりを復活させたいと願つて、二十日ばかり前に書いて出したことがあつた。恐らくはその返事であらう。彼女は他にもかういふ友達の二三にその時一緒に手紙を書いたが、返事は今まで一通もなかつた。だから彼女は自分の手紙から二十日も経つてゐたので、その遅いことにちよつと不満を感じたが、しかしやはりうれしくもあつた。
他の一通は全然未知の名前で、おまけに自分の住所も何も書いてなかつた。
「辻 一作。」
彼女はドアの鍵をがちやがちやと鳴らせて室に這入ると、立つたままその手紙の裏を見、表を見しながら呟いた。誰だらう? 勿論夫あてのものであるが、山田の友達ならたいてい彼女は知つてゐた。彼女は夫の友達を──もつとも今は全く友達もなくなつてゐるが、──次々と思ひ出して行つたが、さういふ固有名詞は探しあたらなかつた。すると何故ともなく不安になつて来た。
彼女はちらりと机の上の時計に眼を走らせた。もう夫の帰つて来るのは間もない時刻である。手紙をあけるのは後にして、彼女はそれを机に投げ、上衣を脱いでスカートだけで炊事場に降りた。ガスに火を点けて先づ炭をおこし、それからさつき買つた蓮根をこんこんと音立てて切り始めたが、その未知の男に対する不安はやはり去らなかった。理由はないが、その男はきつと夫のあの時代の友達に相違ないと思はれ、そこから自分の生活が脅かされるやうな気がしてならなかつた。彼女は前から、夫の以前の友達がひよつこり訪ねて来たりして、色々と面倒な問題が起りはせぬかと絶えず心配したりびくびくしたりしてゐたのである。
夕食の支度が出来ると、餉台にそれを拡げて白い布を被せ、また時計を眺めて見た。六時か、十分前くらゐには何時も山田は帰る。彼女はちよつと耳を澄ませて、窓下の通りに気を配つて見たが、夫の靴音はしなかつた。今夜も飲んでゐるのではあるまいか、と、ちらりと頭をかすめる予感があつたが、六時になつたら独りで先に食べようと考へてさつきの手紙を取つた。どんなことを書いてゐるかといくらか浮いた気持であつたが、開いて見て失望した。友達は書簡箋一枚に、久々で手紙を貰つてうれしかつたこと、返事の遅れてすまなかつたこと、あなたも無事でうれしいこと、自分もどうにか平和でゐることなどが、達筆に走り書されてある。それは殆ど事務的な紋切型の言葉使ひで、心のニュアンスも愛情も感ぜられないものだつた。彼女は何か相手の背中でも見てゐるやうな感じがした。その達者な文字までが、なんとなくつんと澄まし込んでゐるやうに見え出して、背負投げを食はされたやうな気持であつた。わたしなどとうつかり交際しては損でもすると思つてゐるに違ひない、と彼女は思はずひねくれた猜疑を起さねばゐられなかつた。彼女は受難時代──山田の三年間の下獄と、その後の失業生活とをかう呼ぶことにしてゐた──を思ひ出して、あの生活苦がわたしをこんなにひねくれさせてしまつた、と反省して情ない気持がした。しかしあの頃のことを考へると、これは猜疑ではなく的確な批評かも知れなかつた。
実際その頃には誰も彼も彼女等を敬遠したのだ。とりわけ夫の山田が転向者の極印を自ら額に貼つて出獄して以来は、更に激しい侮辱と冷眼を彼女等は忍ばねばならなかつたのである。学校時代の友人も教師も彼女から離れてしまつたのは勿論、田舎の村長である父さへも彼女を家に入れることを拒んだ。彼女が訪ねて行つた四谷の伯母の如きは、玄関口で彼女に向つて食塩を撒いた程だつた。その上に餓が追つて来た。山田は臨時仕事に出て十日働いては二十日休まねばならず、彼女は、日給三十銭のセルロイド工場へ通つた。ある正月には山田は年賀郵便の配達夫になつたりしたが、ゲートルを巻いて肘の裂けた外套を着て土間に立つた夫の姿は、今もなほ忘れることが出来なかつた。山田が今の会社へ通ふやうになつたのはつい半年ほど前で、さうした生活にせつぱつまつた果に伯父に泣きついて入れて貰つたのである。山田の伯父はその無線電信会社の重役で、山田にとつては殆ど仇敵にも等しい関係があつた。山田が捕へられたのはその会社の争議をリイダアしてゐる時だつたのである。そのために就職を頼みに行つた山田がどんな屈辱を忍ばねばならなかつたか、みつ子にもいくらかは判つてゐた。とは言へ、山田を伯父のところへ行かせたのは彼女で、彼女は一晩泣いて山田にそれを頼んだのである。夫が獄中にゐる頃には、社会の情勢が彼女の思想を支へ、思想が彼女の精神を支へてゐた。しかしさうした社会の情勢が押し流されると共に彼女の思想も押し流された。今になつて考へて見ると彼女の中には思想は全くなかつたのである。唯社会の波と、山田への愛情があつただけであつたやうに思はれた。しかしかうした反省はどうでもよかつた。生活状態を少しでも良くすることが、彼女にとつて第一の仕事になつた。どんなことがあつても今の生活を失つてはならない、そのためには堪へ難いやうな侮蔑をも彼女は忍んだ。
彼女がタイプを習つたのは山田が仕事を持つてからで、自分が仕事を持つてゐれば、もし山田が失職するやうなことがあつても直ちに餓に迫られるといふことはない。また山田が失業しなければ自分の働いた分だけは貯金することが出来る。これは将来の平和の基礎であり、さうすれば子供が欲しいといふ楽しい希望も持ち得るのだ。彼女は今まで子供が出来はしないかとそこに不安ばかり感じて来た。と言ふよりも自分の中にある子供への欲望を彼女は絶えず押し殺して来たのである。これは彼女にとつて淋しいことに違ひなかつた。今までの夫婦生活に子供の生れなかつたところを見ると、もう生涯子供は出来ないかも知れなかつたが、しかしそれでも子供が欲しいなあと考へ得るやうになればどれだけ楽しいことか、それは平和な生活であり、豊かな気持である。
彼女はそこの邦文を四ヶ月で卒業すると、丸の内のあるドイツ人の経営してゐる合資会社へ這入つた。そこへ這入つてからまだ二ヶ月にもならないのであるが、彼女はこれで永年の苦労も終つたやうな気持になつた。とは言へ、その会社へ就職した最初の日の印象は忘れることが出来なかつたし、また今も尚侮辱や屈辱はあつたが──。実は彼女はそこの就職試験に失敗したのだ。学校を出たての彼女はタイピストとしてはほんの素人も同然であつたし、それに二三人、永年同業で苦労したやうな人たちも就職を希望してゐて彼女は手もなく落されてしまつた。が、一室でそれを言ひ渡された時──それは日本人だつた──彼女は自分でもびつくりする程の声で突如として泣き出してしまつたのだ。言ふまでもなく山田も仕事を持つてゐたので、彼女が職を得なかつたとてさう心配するほどのことはなかつたのであるが、彼女は失敗したと言ひ渡されたとたん、以前の失業の記憶が突然まざまざと蘇つて眼先が真暗になつた。それは殆ど肉体的苦痛に等しかつた。胸がぐつとしめつけれれて、喉が急に痙攣つてしまつたのである。
「かはいさうでしゆ、かはいさうでしゆ。」といふドイツ人の声がその時聴えた。
彼女はかうして就職したのであるが、それは悪く言へば技術もない癖に泣きおとしの手で外国人の同情を買つたのに等しかつた。その後その会社の連中が彼女をどんな眼で見、どんな態度をとるかはその日にもう決定してしまつたのである。その上そこに欧文を受け持つてゐる年上のタイピストもゐたのである。
しかし彼女はどんな侮蔑にも屈辱にも耐へ忍んだ。時には便所へ這入つたとたんに涙がぼろぼろ出て来たりするのだつたが、しかし以前の生活よりはまだましだと思つてあきらめた。ばかりでなく、久々で鳴る踵の高い靴や、いそがしく電車を乗り降りする気持などに、なんとなく生き復つたやうな思ひもするのだつた。
彼女は友達の冷淡な手紙を読み終ると、まだ自分が以前と同じみじめな状態でゐると相手に思はれてゐることが口惜しかつた。そしてこの前自分の書いた手紙の文句を思ひ出して、自分がまだこの友達を女学校時代と同じやうな気持でゐるものと信じてゐたのが腹立たしかつた。彼女はもう一通を取り上げると、ちよつとためらつたが、さういふ腹立たしさもあつたので、思ひ切つて封を裂いた。
長い間お目にかかれませんでした。お元気ですか。こちらはどうにか無事にをります。久々で東京へ出て来ましたのでお目にかゝれればと願つてをります。もし御迷惑でありませんでしたら、××日の午後六時より三十分間×駅にてお待ちしてをります。
久しぶりのことですので、こちらは是非お目にかかりたく存じてゐます。
では他は拝眉の節に──さきのに較べるとこの手紙はひどく簡単であつたが、彼女には何か迫つて来るものがあつた。長い間お目にかかれませんでしたといふ文句のあるところを見ると、以前にはかなり親しい交はりがあつたのに違ひなかつた。文字は女のやうに優しく細く、一画一画がはつきりと楷書されてあつて美しかつたが、彼女には親しめない文字だと思はれた。それによく読んで見ると、この手紙にはどこか怪しいところがあつた。会ひたければやつて来るのが普通であり、呼び出すのなら大変忙しい場合でなければならぬ。ところがこれには文字が楷書でゆつくりと記されてあるやうに、どこにも忙しげなところはなかつた。ひどく簡単に、しかも悠々と書かれたものに違ひなかつた。無気味なものを感じ、彼女はこの手紙が、やうやく安定しかけた自分達の生活を、毀さないまでも罅を入れるもののやうに思へてならなかつた。
六時が過ぎても山田は帰つて来なかつたので、彼女は独りで夕食を食べ始めた。時々ぐぐと腹の中が鳴るほど空いてゐたので飯はうまかつたが、またぐでぐでに酔払つて来るのに違ひないと思ふと、次第に腹が立つて来た。これではどんなに自分が生活を守つても、片端から夫が大穴を穿けて行くやうなものだと、彼女は近頃の夫に苛立しいものを感じるのだつた。彼女にも、夫の苦痛が全然判らない訳ではなかつた。しかし右も左も厚い壁に囲まれたやうに、抜路の一本もないことが明瞭な社会の中にあつて、そしてそれは夫にも判り切つたことである筈だのに、どうして苦しむことを止めてしまはないのか、その点がどうしても理解出来なかつた。
「お前は誠実といふことを知つてゐるのか。」
先日もへべれけになつて帰つて来た夫に向つて彼女が抗議すると、山田は急にそんなことを言ふのであつた。
「誠実? 判らないわ、あなたのやうに、しよつちゆう酔つぱらつてゐることが誠実なの。妻を散々苦しめることが誠実なの。わたしにはそんな誠実はいらない。わたしは……。」
「生活が一番大切、つて言ひたいんだらう。ふん、お前の言ふことなぞ判り切つてゐる。お前は自分をあざむくことに少しの苦痛も感じないでゐられる、いはば幸福な人間だよ。」
「それぢやあなたは自分を偽つてゐないの。生活をぶち毀すことに幸福を感じてゐられるの? そりやあなたは幸福かも知れないわ、お酒を飲んでるんだもの。でも、わたしがたまんない。」
「生意気なこと言ふな。」
「言ふわ。」
「黙れ!」
そして山田は顔を歪めて苦痛な表情をすると、急ににやにやと気味悪い微笑を浮べて、
「お前の言ふことはみんな正しい。俺は一言もないよ。俺は何時でもお前に頭を下げる。しかしお前はさういふ正しさで俺をやつつける権利はないのだ。いいか、さういふ正しさは正しければ正しいほど愚劣なのだ。しかしもういい。睡い。」
そして大きなあくびをして、差し上げた両腕を彼女の肩に落すと、不意に乱暴な接吻をして、あとはむつつりと黙り込んで一言も口を利かないのであつた。
彼女はかつての夫を思ひ出した。その頃の山田は動作も言葉もきびきびとして、細い靱やかな体は鞭のやうに動いた。眼は鋭く冴えて強烈な精神と深い愛情を象徴してゐた。しかし今の夫にはさういふ面影は全くなかつた。眼は何時もどんよりと曇つて、言葉の中には一語一語皮肉なものが潜んで、彼女は何か言ふ度に嘲笑されてゐるやうな気がする。かつての夫には、どうかすると時々うつとりとさせられることがあつて、自分も処女のやうにこつそりと赧くなつたりしたことがあつたが、今は夫のことを思ふ度に、はがゆい苛立ちと、不満と、にがにがしいものばかりが湧き立つて来る。
廊下にかかつてゐる柱時計が十二時を報ずると、みつ子はもう床に就いてゐることが出来なくなつて、ネルの寝巻一枚のまま起き出した。十時になつても山田は帰つて来なかつたので、独りで先に床に這入つたのであつたが、勿論忿怒がいつぱいで眠られる訳はなかつた。それでも強ひて眠つてしまはうと考へて眼を閉ぢてゐると、怒りは次第に孤独な、淋しさに変つて行くのである。これは何時ものことであつた。彼女は山田の遅いことに、初めは噛みついてでもやりたいやうな怒気を覚えるが、夜が次第に更け渡るにつれて言ひやうもない孤独と、誰からも見捨てられてしまつたやうな胸に食ひ入る不安とを感ずるのである。これはあの失業時代の、さむざむとした気持、路地に投げ捨てられた野良猫のやうな行場のない気持が、彼女の心の中に黒い斑点となつて焼きついてゐるために違ひなかつた。そして山田と一緒に寝てゐる時でも、どうかするとその当時の夢に脅かされて、真夜中に突然むつくりと起き、布団の上に坐つて泣き出したりすることも珍しくなかつた。山田はさういふ時には驚くほどの優しさでいたはつてくれることがあつた。なんといつても山田の方は彼女の気持を隅から隅まで知り尽してゐるのに違ひなかつた。しかしさういふ時山田は決して一言も物を言はなかつた。彼女を愛撫する腕に表情が感ぜられるだけである。彼女は山田の腕の中に身を投げながら、ふと彼の険しい顔色に気がつくと、このまま彼の愛撫に飛び込んで行つて良いのか悪いのか判らぬ戸惑つた気持を感じた。
彼女は山田の机に顔を伏せると、胴を丸めて小娘のやうにしくしくと泣き始めた。日中は四月半ばの陽気で太陽の光線もじつとりと厚味を持つて重苦しいくらゐであつたが、夕方から曇り始めた空は夜になると何時しか雨になつてゐた。彼女は両股をしつかりと合せ身を縮めて泣き続けた。が暫くさうしてゐるうちに、昼間の疲れも出て来て、何時とはなしに気持良くうとうととなり始めた。彼女は何回か意識が覚めたりぼんやりとしたりしてゐるうちに、遂に夢路に引き入れられて行つた。彼女は会社の夢を見た。退け時だつた。ハンド・バッグを片手に持つてエレベーターに乗つた。がやがやと騒ぐ声が箱の外から聴えて来る。ドイツ語やフランス語が入り乱れた。彼女は山田には内密でこつそりフランス語の自習をしてゐたので、特に耳を澄ませてそれを理解しようと骨を折つた。エレベーターは止つたきり動かなかつた。少女がハンドルをがちやがちやさせてゐるが少しも動かなかつた。とそこへ巨大なドイツ人がやつて来ると恐しい形相をして彼女に迫つて来た。彼女は身を縮め、恐怖に呼吸もつまりさうであつた。そして何か一生懸命に叫ばうと身をもだえてゐると、何時の間にか眼を覚してゐる自分に気づいた。彼女は今日会社からの帰りに、ドイツ人と一緒にエレベーターを降りたのをちらりと思ひ出しながら、しかしまだ夢の中にゐるやうな気持で顔を上げた。と、そこに人が立つてゐるので思はずきやッといふやうな声を出して、ばね仕掛けのやうに一歩飛び退つた。顔が真蒼になり、胸がどきんどきんと鳴つた。
「まあ、あなただつたの。」
と彼女はやうやく声をひつつらせながら言つたが、何か夫の山田とは違ふやうな気がしてならなかつた。山田はぼんやりと放心したやうな表情で部屋の中に立つてゐる。顔が土のやうに蒼く、頭髪はぐしよぐしよに濡れ、彼女は狂人を見るやうな気がした
「俺だよ。」
と山田は細い、ささやくやうな声で言つたが、まだ坐らうともしなかつた。みつ子はなんと言つたらいいのか判らず、暫くぼんやりと夫の顔を眺めた。
山田は崩れるやうに坐つた。綿のやうに疲れ切つてゐるのがみつ子にも解つた。彼女はやうやく立つて火鉢の火をかき起し、
「どうしてたの。」
と訊いた。酒の匂ひは少しもなかつた。それぢや酒も飲まないで今までどこにゐたのだらう。彼女は夫の頭から、手、膝と順に眺めた。服もズボンも露が垂れるほど濡れてゐる。彼女は帰りの遅いのをなじるよりも、何故とも知れぬ痛ましい思ひがして来た。寒いのであらう、山田は小刻みに体をふるはせて、
「疲れた。」
と弱々しい声で言つた。
「どうしてたのよ、一体。」
と彼女はじれつたさうに言つて、山田の手を掴んだ。死人のやうに手は冷たかつた。
「歩いてた。」
山田は何か考へ込むやうな声で、ぽつんとそれだけ言つた。
「歩いてた?」
「うん。」
「どこを?」
「色んなところだ。」
「色んなところつて?」
「方々だ。」
「どうしたの。どうかしてるわ、この人。」
「疲れた。お茶を一杯飲ませろ。」
「だつて、もう遅いのよ。」
すると急に山田の顔に苛立たしげなものが浮んだと思つた間髪、みつ子の頬がぴしりと鳴つた。彼女は思はず頬を押へたが何故か声が立たなかつた。かつて一度も見たことのない恐しい激怒の形相で、山田はじつとみつ子を見つめてゐる。額の肉がぴくぴくと痙攣した。瞬間二人はひたと睨み合ふ形で視線を交へた。が間もなく山田の顔から、その苦痛な表情が消えると、彼は音もなくゆらりと立上つて、着物を脱いで寝巻を被ると黙つて布団の中へもぐり込んだ。みつ子は夫の脱ぎ捨てた着物を眺めると、今まで押へてゐた怒りが突然湧き立つて来て、そこに散らされた靴下を掴むと、力いつぱい夫の顔に叩きつけた。が靴下は彼女の指にもつれ、ふわりと山田の頭に落ちかかつただけであつた。すると更に激しい怒りが湧いて来て、手当り次第に夫に投げつけ始めた。しかし山田は身動きもしなかつた。彼女はわつと泣き出しながら山田の頭髪にしがみついた。と山田の手が彼女の手をぐつと握つた。
「よせ」
と鋭く山田は言つた。
「ひ、ひとをこんなに待たせて……ぶつて。」
「わかつた。」
「ぶたれてから解られてたまるもんか!」
が、彼女は造作もなく蒲団を被せられてしまつた。床の中で暴れてみようとしても無駄であつた。彼女は強引な気持で固く身をちぢめて、山田に尻を向けて押し黙つてゐた。
山田は深い溜息を吐くと、
「静かに寝かせてくれ、俺が悪かつた。」
細い声であつた。そしてそれきり身動きもしないのである。みつ子は身を固くしながらも、次第に気持が落着き出すと、時々そつと山田の方に気を配つて見た。
「お前は、俺が今夜どんなことをしてゐたか解るのか。」
と山田は不意にぽつんと言つた。
「そんなことわたしに解る訳ないぢやないの。」
彼女はまださつきの余憤があつたので、不機嫌に返事した。
「それぢや俺がどんなことをしてゐたか知りたくはないのか。」
「知りたくない。」
「さうか。」そして暫く考へ込んでゐたが「お前はこの頃俺をやつつけるのが非常に上手になつた。しかし一度として俺の胆を突き刺したことはない。お前は、お前の愚劣さでしか俺をやつつけることが出来ないのだ。しかし女といふ奴はなんといふ奇妙な動物だらう、俺はお前のその愚劣さにのみ魅力を感じてゐる。」
「そんなに愚劣愚劣つて言はないで頂戴。」
「お前マダムボバリーといふ小説を読んだことあるか。」
「遅いのよ。もう。」
「俺は明日は休む。今度の日曜には会社の花見だ。」
「花見?」
「さやう。蓄電機課の花見だよ。」
「休んだり花見をしたり……わたしは日曜にはお洗濯するわ。わたしは何時でもみじめよ。」
「ただし俺は花見には行かぬ。」
「もう遅いのよ。わたしは明日は勤めに出なければならないのよ。安眠の妨害をしないで頂戴。」
「妨害はしないが、俺は今夜は独りごとを喋るよ。朝まで喋るよ。俺も時々はお前が俺の気持を理解し得ると思ふ瞬間があるのだが、しかしそんなことはもういい。ただ俺は今夜黙つてゐては気が狂ふ。俺は今夜は人を一人殺したのだ。」
「人を?」
「ああさうだよ。その男、それはもう四十四五だつたかな、完全に死んだよ。大道の真中でだよ。心臓が裂けて、内出血して、口からもだらだら血を流しながら死んだ。街燈で見ると、血がアスファルトの上を流れてゐた。俺はそれをじろりと横眼で睨んで帰つた。明日は新聞に出るだらう……。」
「あんたが殺したの?」
「さやう、俺が殺したのだ。」
みつ子はくるりと夫の方に向き直つた。そしてどうした気持の変化か、やにはに山田の胸にしがみついた。
「ははは、心配するな、捕まりはしない。神は人間に過失といふ抜道を造つて置いたからね……。」
そして山田は今夜の出来事を順序も連絡もなく喋り出した。人間は誰でも自分の頭に溜つてゐる重苦しい記憶や事件を、どうかした瞬間になると、もうどうしても口から外へ吐き出してしまはねばゐられなくなるものである。それは殆ど発狂したやうであつた。山田は時々口を噤んで、俺はなんだつてこんな下らんことを喋つてゐるのだらう、と激しい自己嫌悪に襲はれながら、しかし口が自然と動くのである。そしてしまひには、もうこんな気持の状態になれば、無理に押し黙つて見たところでなんにもならぬに定つてゐる、それならいつそ自分の気持からブレーキを抜いて放任し、ひとつ思ひのままに喋らせてみようといふ気持にもなるのだつた。そして心のずつと奥の方で、例へば向ひ合つて立てられた二枚の反射鏡の無限に連らなる映像の最奥のポイントと思はれるあたりで、こつそりにやりと微笑し、どうせ乗りかかつた船だ、と呟くのであつた。
彼は今日会社を何時ものやうに終業して、別段変つたこともなく帰途についたのだつたが、ひどく気分が重苦しかつた。そしてなんとなく吐気を催して来るやうな不安がしてならなかつた。彼はずつと前から胃病だつたので時々道端で吐くことがあつたのである。彼は不快な、苛々した気持であつた。しかしさうした自分の気持にはなるべく知らん顔をするやうな気持で歩いてゐた。それはちやうどぶすぶすと燻つてゐる煙硝のやうなものを無理に蓋してゐるやうな工合だつた。悪臭の漂つてゐる河ッぷちを暫く歩いて橋を渡ると、もうアパートはすぐそこにあつた。
橋の上まで来ると、彼は一寸立停つて灰汁のやうに濁つた水面を見おろした。彼は家へ帰ることがひどく嫌だつた。働くやうになつてから急に浮き浮きとしだした妻や、下等なアパートの趣味などが、吐気を募らせるほど不愉快に思ひ出されて来るのである。とりわけみつ子の体を思ひ出すと、もう何か胸の中がむつと閊へるやうな気がするのだつた。女といふものは、美しいと見える時にはどこまでも美しく、むしやぶりつきたいやうな欲望を男に起させるが、しかし一たび不潔に見え始めると、もう胸が悪くなるほど不潔に見えて来るものである。彼は妻の一挙手一投足を不快な、腹立たしい気分で思ひ出した。平常はあどけないと見え、その稚拙な言動や思考形態も一種の魅力と映じてゐたものが、今日はその無知を軽蔑したくなるばかりであつた。彼は今までに何度も妻を不快の対象としたことはあつた。妻あるがためになんとなく自分の精神は下等になつて行き、自分の行動は蛆のやうに意気地のないものになつて行く、さう思つて直ちに離別しようと決意したこともあつたのである。しかしそれは単に決意しただけであった。よし一時、一瞬にしろ、彼はさう決意することによつて自分の気持を慰めたのだ。彼としても、かうした自慰の愚劣さには絶間なく自己嫌悪を感じてはゐたが、しかし、さうする以外に抜路はなかつた。とは言へ、これが抜路にならぬことも意識してゐたが、要するに彼は、その時々の自分の心理を一時ごまかしで処分したのである。詮じつめれば、自分が一番意気地なしであつたのだ。彼はこの断定を意識の表面に浮せることを避けた。それは意識的に避けたのではない、本能的な自己防禦、自分の前に突立つた巨大な敵、社会から自己を守らうとする本能的な自己欺瞞であつた。勿論彼は自分にかうした自己防禦を意識したが、この意識をも避ける本能があつた。そこに至つて彼の自己分析のメスは曇り、彼は分析の結果を意識の黒板に記述することをしなかつた。そしてここに浮き上つて来るものはと言へば、あはれな自嘲と、一見気まぐれに見える身振りであつた。この身振りは、しかし深刻といふのかも知れぬ。
暫く水面を眺めてゐたが、やがて彼はのろのろと、いかにも思ひ切り悪さうな足どりで足を動かし始めた。どこかへ行つて酒でも飲まう、さういふ考へが浮き上つて来て、橋を渡り終へると、アパートとは反対の駅のある大通りの方へ出て行つた。駅前に出、そこをちよつと裏町に廻ると、ごちやごちやと入り乱れてバアやカフエや茶房などが並んでゐる。しかしそこへ来ると、もう酒を飲むのも嫌になつてしまつた。彼はちよつと額に掌をあてて見て、さてどうしようか、と思ひ惑つた。彼は昼間の会社での不快な出来事を反芻しながら、自分が今こんなに腐つた気持でゐるのは、あれが尾を引いてゐるのだ、と気づいた。ただあれだけのことが、と彼は、そんな小さなことにまでこれほど気持を狂はせられる自分が腹立たしくなつた。それは昼飯の時だつた。彼のゐる課の連中で花見の相談が持ち上つた。彼はその時、もうかなりかかつてゐた整流器がやうやく出来上つたばかりだつたので、飯を食ふとすぐその製品の前に行つてゐた。いはば自分の作品であつたので、彼は久々に一つのものを完成した喜びを味つてゐたし、それに真から打解けて話し合ふやうな友達は一人もゐなかつたので、時間になつたらすぐ試験して見ようなどと思ひながらぼんやりとしてゐた。彼は会社でも孤独であつた。みな彼の前身を知つてゐて、人事係から注意でも廻つてゐるのか誰も彼を敬遠するのである。彼は仕事そのものに全身をぶち込まうと思つた。しかしそこにも、彼は何か気持にまつはりついて来る執拗い悪臭のやうなものを感じて、夢中になることが出来なかつた。彼は毎日何か目に見えぬ、しかし重要なものが自分の中から抜け去つてゐるやうな空虚さを感じた。仕事と自分との間に間隙が生じ、それが虚ろな穴になつて、電流や電線や金属類が生命を持たなかつた。夢中になることが出来れば、アンペアメーターの針の微動のやうな呼吸が、金属からも電流からも感じられるのである。
その時どつといふ喚声があがり、手を拍つて口々にはやし立てる女工等の声がふくれ上つて聴えて来た。それが静まると、彼は呼ばれて花見だがどうだ、と課長に持ちかけられた。彼が賛成するむねを答へ、
「場所は……。」
と訊きかけた途端であつた。突然女達の間から、へえ、と如何にも驚いたといふやうな声がもれ、
「左翼の闘志も……。」
としまひの濁つた言葉が聴えた。彼は思はずむつとして振り向くと、リイク部の佐山が、女たちの間に混つてにやにやと笑つてゐる。一瞬あたりがしんとなつた。と、課長が、
「佐山、君には当日の会計を命ず。」
と厳かに言つて、どつとみなを笑はせた。
かうしてその場は納つたものの、しかし山田の気持はなかなか納らなかつたのである。彼は今までにも佐山が彼をあてこすつたり、女工にこつそり何かを耳うちしたりしてゐるのを知つてゐた。どんなグループにも定つて一人は、絶えず他人のすきばかりを覗つたり蔭口ばかりを利いて、病的なほど自分の利害に狡猾な才能を持つてゐる者がゐるが、佐山もやはりさういつたタイプの人間であつた。勿論とるに足りぬ、と山田は今まで黙殺して来たのであつたが、しかしその時にはさすがにかつとせざるを得なかつた。それは相手の弱点をしつかり掴んだ上での嘲笑であつた。ざまあ見ろ、山田の内部の苦しみや懊悩を一蹴りしたのである。そして山田にとつて腹立たしいことには、かうした嘲笑を正しいと認めねばならなかつたのである。いや正しいとは言へぬにしろ、少くともこの嘲笑に対して弁解の余地は与へられてゐないのだ。もし弁解するならば、ますます自分が愚劣になるばかりであつた。どんなに腹立たしからうとも、ただ黙つて引き退るより他にないのである。彼は一日、陰鬱な不快な気持で働いた。言ふまでもなく佐山といふ個人は軽蔑すればよかつたが、しかしその言葉には軽蔑し切れぬものが響いてゐるのである。
「人から、お前はばかだと言はれて、しかもその言葉に賛成せねばならんとは、ふふふふ。」
彼はのろのろと歩きながら、さう呟いて歪んだやうな微笑をもらした。
街は夕暮だつた。
駅前の市場からは急しげに前垂をひらひらさせながら、女中やおかみさんが流れ出て来た。通りを歩いてゐる人々は、無数の木片が渦に巻かれたやうに駅の中に吸ひ入れられて行き、轟音を立てて走つて来る電車が停る度に、内部から泡のやうに人々が溢れ出て来た。彼は、どこもかしこも人間でうぢやうぢやしてゐる街といふものがひどく厭はしく思はれ、都会の空気の重さを両肩に感じた。彼はどこか人間のゐない、猿や犬や狼や熊や狐や、そんなものばかりのゐる世界を想像して見た。勿論そこには青い木の葉や、清冽な水流がある。彼は自分が少年のやうな空想をしてゐるのを意識したが、大人といふものは時々ふと少年の日に復り、その頃と全く同じい気持の瞬間を味ふことによつて意外に多くの休息を与へられてゐるのに気づいた。その時、彼の頭の中に突然すつと人の顔が映つて流れ去つた。彼は、はつと立停つて、はてあれは誰だつたかな、と考へて、それが大林清作であつたのを知ると、何故ともなく面白くなつて、街の真中に立つたままにやにやと笑ひ出した。彼はまだ田舎の小学校にゐた頃、一度大林清作の頭を金槌で打つたことがあつた。するとそこがぼこんと脹れ上つて、大林はぼろぼろ涙を流しながら頭をかかへて手工室の中をぐるりと一廻転した。彼は泣かせようと思つて撲つたのではなく、おい、と呼ぶ代りに槌でこつんとやつたのであつた。それは手工の時間の出来事である。大林清作は今は百姓をやつてゐ、三人も子供をもつてゐる。
ふふふふ、あいつどうしてるかな、頭の良い男だつたが、と考へながら、彼はまた歩き出したが、はたと当惑せざるを得なかつた。彼は行先が定つてゐなかつたのである。田舎へ行つてみよう、さういふ考へが不意にその時浮んで来た。今夜汽車に乗れば明朝は大阪に着く、すると明日の晩は四国へ着くわけだ。彼はびつくりしたやうに片手を挙げて車をとめ、
「東京駅。」
と言つた。みつ子の顔が浮んで来、こんな気まぐれも所詮は道化染みた大仰な身振りに過ぎぬといふ意識があつたが、反面には、もつと道化ろ、もつと道化ろと自分をけしかけるものがあつた。
東京駅に着くと、彼は広い構内をただあちこち歩き廻つた。ここも人でいつぱいだつた。彼は二等待合室に這入つて見た。若い女や太つた仏頂面をした老紳士などが、落着きのない様子で並んでゐた。彼は腰を下すと、煙草に火を点けた。しかしすぐ立上つて今度は三等待合室へ行つて見た。ここはひどく薄暗くて汚れてゐた。白い着物を着けた朝鮮の女が、紙袋のやうな恰好に体をふくらませて、栄養不良な子供を連れて立つてゐた。子供は日本の着物を着てゐるが、何か不安さうに、あたりの人々を見廻してゐる。この子供の眼には、これらの人々が敵と見えるだらうか、それとも味方と見えるだらうか、彼はそんなことを考へながら、じつと暫く眺めてゐた。母親はその子の手を引いて、何か朝鮮語でささやいた。彼女の片方の手には、もう一人の子供が抱かれてゐる。父親は便所か、買物か、大方そのあたりであらう。山田はふと大阪駅を思ひ出した。あそこは何時行つて見ても朝鮮人がうぢやうぢやしてゐる。大きな荷物を積み上げてそれに凭りかかつてゐる朝鮮女、腰をかける場所がなく地べたにしやがんでゐる女、飴玉か何かをしやぶつてゐる子供、紙のやうな顔と袋のやうな着物、さういつたものが次々と思ひ出された。黄色のジプシイ──彼はさう呟いて待合室を出ると、切符売場の方へ歩いて行つた。心の中を寒々としたものが流れて、自分自身がジプシイになつたやうな気持であつた。俺のやうなものを精神的ジプシイつて言ふんだらう、二等待合室へ這入つても、三等待合室へ這入つてもさほどに目立たないほど調和のある男だからな、しかし待てよ、俺はこれから本気に四国くんだりまで行く気なのかしら? 四国まで行つて、そして何があるのだらう。ばかばかしいぢやないか。──しかももう切符の売場の前まで来てゐた。ぢやらぢやらと金を数へる音が聴え、多度津、と窓から覗き込んで春のコートを片手に抱へた若い女が言ふのが聴えた。五六人がつめかけて自分の番の来るのを待つてゐる。山田はその列の最後に立停つた。しかしまだ切符を買ふ気にはなつてゐなかつた。やがて自分の番が来た。彼はしぶしぶと、まるでひどく損な物でも買はされるやうな様子でガマ口を取り出した。が、その途端に、不機嫌さうにむつつり黙り込んで煙管を咥へてゐる田舎の父の姿が浮んで来て、どうした工合か急に財布をまたポケットに蔵ひ込んで買ふのをやめてしまった。彼はふらふらと流されるやうに駅を出ると、銀座へでも出てみようといふ気になつて有楽町の方へ足を動かし出した。
しかし、間もなくそれも嫌気がさして来て、今度はしぶしぶと日比谷公園の方へ向ひ始めた。日はもうすつかり暮れてしまつて、高架線や市電の音が何か魔物めいて聴えて来た。彼は地下室を歩いてゐるやうな気持で、のろのろと足を動かすのだつたが、もういつそじつと立つてゐようかといふ気になつてならなかつた。空を仰いで見た。ただ真黒に塗り潰されてゐて、星でも見えないものかと尋ねて見たが、星も月も、一点の光りもなかつた。無気味な夜が底のない深さで垂れ下つてゐるのだ。その闇の空間のところどころに、花火のやうな広告燈が見える。彼は突然大きく口を開いて欠伸をした。疲れが少しづつ体を痺れさせ始めてゐた。それはひどく空虚な、もの悲しい気持の欠伸であつた。人通りは丸でなかつた。丸の内の通りの角まで来ると、彼は谷の奥でも覗くやうな工合に、丸ビル前の方を眺めてゐたが、またひとつ欠伸が出た。丸ビルの前では自動車の光りが交錯して、何十匹もの電気鰻が海底を泳ぎ廻つてゐる光景はこんなものかも知れぬと思はせられた。
しかし、と彼は立停つて呟いた。俺はこりやなんだらう、なんとなく少し気持が変だぞ、一体どうするつもりなんだらう、それに、俺は一体何を考へてるんだらう、どうも今日は頭が少し変になつてゐる、第一こんなことをやつたとて何の利益もありやしないぢやないか、俺が今歩いてゐるのは、ただ体をへとへとにするために歩いてゐるやうなものだ──。しかし彼はさう呟きながら、その自分の呟きをもう少しも聴いてゐなかつた。
その時、旦那、どちらまで? と車が徐行して来た。すると彼は急に、用のある人間のやうな声で、
「大島。」
と言つたが、自分でも驚くほど大きな声が飛び出た。それは殆どどなりつけるやうな調子であつた。大島? なんのために? と車が動き始めるとまた自問したが、もう自分の気持を調べるのが面倒くさかつた。ただ車は光りと光りとの間を矢のやうに走つてゐる。人間の思考なんかこの運動の前には無力なのだ。
夜の大川を渡ると、車は次第に圧し潰されたやうな家々の間に這入つて行つた。悪臭がぷんと鼻を衝いて来さうである。しかし細民街の近づくに従つて、気持がだんだん落着いて行つた。とは言へ、それは落着きなどといふ言葉では現はし切れぬものがあつた。もうどうともなりやがれ、と狂暴に自己を突き離した落着きであつたのである。
彼はある大きな製鋼所の裏で車を捨てた。
どこからともなく物の腐敗した臭ひが漂つて来た。彼は狭い路地から路地へとあてもなく歩き続けた。幾つも橋を渡つては、機械工場や硝子工場などの間をぐるぐると歩き廻つた。何のために歩くのか、といふ自問がひつきりなしに浮んだが、彼はなんとなくさうせずにはゐられなかつた。彼は何時の間にか亀戸に這入り込んで、電車通りを踏み切ると、吾妻町の方へ向つて行つた。あたりには、ひしやげたやうな家がいつぱい並んでゐた。彼は何年か前を思ひ出した。その頃も何度かこの路地を往来した。しかしそれはなんと張り切つた気持であつたことか。体全体が熱を帯びて、足の下には揺ぎのない大地があつた。しかし今はどうだらう、丸で足下の大地が潰れ、融け去つたやうではないか。このあたりは、かつて彼の活動したうちの最も記憶に残る地区であつたのである。彼はみじめな、うちのめされたやうな気持を味ひながら、しかし何かその時代の熱情が、再び体内に湧き上つて来るやうな気がした。そして彼は、長い間見失つてゐた自分といふものを、再び見つけたやうな気がした。
彼はどぶ川の土手の上を歩いて行つた。川には石炭を積んだ船が二つ三つ、沈みかかつてゐるやうに揺らいでゐる。悪臭のしみ込んだ風が吹いて来ると、水面が遠くの灯を映して光つた。あたりは殆ど真暗であつた。その頃のことが次々と思ひ出されて来た。それはちやうど予告映画のフイルムを見るやうに、仲間の誰彼の姿の一カットが廻転するのである。今もなほ行方不明の男、まだ獄中にゐる男、押上駅で捕はれた男、或はまた、男のやうにがむしやらな女、さういつた一人一人の姿が鮮明に蘇つて来た。彼は土手に積んだ煉瓦の上に腰をおろすと、なほも映像をくり拡げて行つた。彼は激しい孤独を感じた。あれらの連中は今どうしてゐるであらう、みな散り散りとなつてしまひ、みな生きる方向を見失つてしまつた。そしてこの俺はどうだらう、みつ子はどうだらう──。彼は自分が少年のやうに泣けるものなら、思ひ切つておいおいと慟哭したいと思つた。じつと煉瓦の山に身を凭せながら、彼は今の時代に生きる人間の苦痛を考へた。
がその時、彼の頭の中に今までまはつてゐたフイルムが突然ぴたりと停止した。そこにはまだ二十前の、林檎のやうな頬をした少年の顔が浮んでゐた。辻一作、とこの男は自分を呼んでゐるが、本名は大林一作で、清作の弟である。彼は今までこの少年をすつかり忘れてしまつてゐた自分を不思議に思つた。あれだけ自分に激しいものを教へたこの少年は、今どうしてゐるだらう、たしかもう二十四五にはなつた筈だが。彼はふと運命といふ暗い言葉が、自分にまで取り憑いて来るやうな、不安な、嫌なものを感じた。彼は丸切りこの男のことを忘れてゐたのではなかつた。ただこの男を思ひ出すことがたまらなかつたのだ。
彼は突然立上ると、狂暴な足どりで歩き始めた。が五六間も進むと、また以前と同じやうな、のろまな、疲れたやうな足どりになつてしまつた。ふん、俺はなんて愚劣な人間になつてしまつたのだ、と彼は呟いた。少年のやうに泣きたい、などと思つたことを考へると、彼はもう自分に唾を吐きかけたくなつて来た。ふふ、しかし辻一作がどうしたといふのだ、と彼はまた呟き出した。辻一作がどうしたといふのだ、俺は俺さ。彼は真暗な川ッぷちを五ノ橋通りの方へ出て行つた。そして走つて来た車をつかまへると、いきなり、売春婦のゐる街の名を叫んだ。
細いトンネルのやうな路地を、人々は肩をすり合せ、突きあたり、足をもつらせながらうごめいてゐる。その入口で車を捨てると、彼は一枚の木の葉のやうにその中にもぐり込んだ。動物園の檻を覗いて廻るやうな残虐な気持で、彼は人々の間を揺れて行つた。しかしここでも気持は満されなかつた。……………………といふ気持はもう全くなくなつてゐた。彼はむつつりと黙り込んで、横目でちらちら家の中を覗きながら、幾つも曲り角を曲つて歩いた。……呼ぶ声もただうるさいばかりであつた。彼はただ人々の動くにまかせて動いて行くだけである。
ある路地で、彼は突然上衣の裾を掴まれ、ぐいと引かれた。思はず体が浮いて軒下に引き込められた。座敷から半身を乗り出した女の腕がその時ぐいと伸びると、彼の帽子を頭から抜き取つてしまつた。
「お上んなさい、よ、さあ。」
と女が体をくねらせながら言つた。彼はもの憂ささうに顔をあげると、ひどくけだるさうな声で、
「帽子をくれ。」
と一言言つた。
「だつて、よ、お上んなさい。今夜暇なのよ。ほら、ね、ね。」
しかし山田はもう帽子を取り返す気もなくなつてゐた。面倒くさかつた。彼は急に身を飜すと人込みの中に混り込んだ。帽子は女の手に残したままであつた。彼は電車通りへ出た。もう歩くのも、動くのも嫌であつた。体は疲れ切つて、両方の足の腱が針金にでもなつたやうである。彼はそのままべつたりと地べたへ突き坐つてしまひたかつた。しかし坐つてしまふわけにもいかない。彼はまたのろのろと歩く以外にどうしやうもなかつた。おまけに腹はもうさつきから空き切つてゐた。それでも少しも食ひたいといふ気が起つて来なかつた。といふよりも彼は食ふことをすつかり忘れてしまつてゐた。頭の中は何か乾いたものでもいつぱいつまつてゐるやうな工合になつてゐた。
彼はふと空を仰いだ。頬に雨がぽつんとかかつたのである。空は勿論真黒であつたが、雨はもうさつきから降り始めてゐるらしかつた。ぽつぽつと頬や頸筋に当る程度ではあつたが。
「雨か。」
と彼は呟いた。そしてまた車を停めると、
「横浜。」
と言つた。車の中で時計を見ると、もう十一時をとつくに廻つてゐた。彼はまだ八時か九時のつもりでゐたのであつた。横浜へ行つて、そしてどうするのか、しかしもうそんなことはどうでもよかつた。彼は体を休めたかつたのである。
雨は次第に激しくなつて来た。窓へびちやびちやと降りかかつた。彼は眼を閉ぢると、ぐつたり体を凭りかけて、車が急カーブを描く度にぐにやりと揺らいでは、居眠りから覚めたやうに窓外を眺めた。頭には何の感想も浮ばなかつた。今日一日を振り返ることも、これから先のことも考へることが出来なかつた。それは多量の睡眠剤が効き始めて、神経が徐々に鈍くなり、全身に快い酔ひ心地が襲つて来た時のやうであつた。彼は大きくあくびを続けざまにした。しかしバックミラアに映る自分の顔は血の気がなかつた。もぢやもぢやと髪が乱れて、彼は死人でも見る気がして、ぞつとしたりしたが、しかし、それが自分の顔であるといふ点は考へても見なかつた。彼は白痴のやうに虚ろな気持であつたのである。
やがて車は川崎を過ぎると、国道を驀地に突き進んで行つた。すつかり寝静まつた両側の家は次第にまばらになり、ただ街燈だけが果もなく続いてゐた。彼は快い震動に身をまかせながら、しゆうんと鳴るアスファルトの音をうつらうつらと聴いた。運転手は不動の姿勢で、丸く照し出された前方を見つめて、ハンドルをゆるゆると左右に動かせてゐる。辷るやうな車の中で、山田は次第に夢見心地に這入つて行き、このまま明日まで走り続けてゐるといいだらう、などとぼんやりと考へるのであつた。が、鶴見あたりまで来た時であつた、突然がたんと車が上下すると、二三間辷つてきききと停つた。運転手が蒼白になつた顔を振り向くと、
「やつたらしいです。」
とささやくやうな声で言つて、ドアを開いて飛び下りて行つた。
「やつた?」
と山田はぼんやり眼を開いたが、その時にはもう運転手はゐなかつた。雨の音がびしよびしよと聴え、暗い外を眺めると街燈を映して濡れた街路樹が白く光つてゐる。あたりは人影もなく、ただ降り注ぐ雨足がコンクリートの舗道にはねてゐた。どうしたのかな、と山田は怪しんで見たが、それ以上考へて見るのも面倒であつた。
「どうもやつちまつたらしいです。すみません、車を更へて下さい。」
間もなく運転手が駈け帰つて来ると、興奮した声で車内の山田にさう投げつけて、再び雨の中に駈け出して行つた。山田は初めて人を轢殺したのであるのを悟つた。しかし何の感じも湧かないのみか、こんな所で車を降ろされるのかと思ふとうんざりした。彼はまた両眼を閉すと、さつきの夢心地を追うやうに体をクッションに凭せた。人を殺した、といふことが、なんとなくばかばかしいことのやうに思へるのであつた。と、この時車の背後で何か大声で叫んでゐる声が二三入り乱れて、靴音なども聴えて来た。彼はのそり立上ると、雨の降つてゐるのも忘れたやうに外へ降りた。女に帽子を取られてしまつてゐるので、雨はじやんじやん頭髪を濡らし、首すぢに流れ込んだ。
車から十二三間も後方に、四五人が集つて何か口々に喚いてゐる。街燈にぼんやりと照し出されたその黒い塊の横には、粉々にうち壊かれた荷車が転がつてゐる。山田はふらふらとそこまで足を運んで見た。人々に囲まれて、屍体は仰向けに寝て、着物も何もぐしよぐしよになつてゐる。首は横に歪んだままねぢ向けて、頬をべつたりとアスファルトにつけ、横向きの口からは血がだらだらと流れてゐた。雨が洗ふやうに降つてゐるのに、不思議とその血が山田にははつきりと見えた。一人の巡査がそれを抱き起しにかかつたが、どうしたのかまた置いた。人々は山田にはまだ気づいてゐなかつた。彼は二三分ぼんやりとその屍を眺めてゐたが、やがて風に流されるやうにとぼとぼと川崎の方に向つて歩き出した。雨に濡れることも、疲れてゐることも、もう深夜に近いといふことも、歩いてどうなるかといふことも、彼は考へて見る気がしなかつた。心が傷ついてゐる時、その外部の風景は奇怪な鮮明さで眼に映る。彼は今にもべたんと坐つてしまひさうな足どりで歩きながら、今見た屍体が夢魔のやうな鮮かさで何時までも瞼から離れなかつた。とは言へそれが、死、といふなまなましい悲痛な出来事として映るのでもなければ、だらだらと流れる血に恐怖し、人生の悲惨を目のあたり見た衝撃でもない。それは一枚の写真のやうに、鮮明な輪郭と、色と動きとがあるだけであつた。ふと顔をあげた。すると向ひ側に赤い交番の電燈が見え、何故ともなく彼は、はつと胸を突かれたやうな気になつた。
彼は二三丁もふらふらと歩いた。そして空車は来ないものかと暗い街路の遠方を眺めるのであつた。
山田はさつきから電車に揺られながら、落着きのない何分間かを過してゐた。かうして出かけて行くことに激しい嫌悪を覚えたり、どうしても会はねばならぬと強く思つたり、あれからあの男は一体どうなつてゐるであらうと好奇心とも恐怖ともつかないものを覚えたりするのだつた。そして遠い過去が思ひ出され、それからの、辻一作と山田との関係に於ける空白の幾年が、何か暗い谷間のやうに思へるのであつた。この幾年をあの少年はどう過し、どう生き抜いて来たのであらう。彼は人生といふもの、運命と言はれるもの、さういつたものの暗黒な一つの断層を眼前に突き出されたやうな気持であつた。
山田が辻と初めて会つたのは、彼が高等工業を卒業したばかりの年であつた。辻一作は薄汚いバスケットを一つ提げて、兄清作の依頼状を持つてはるばる四国から山田を頼つて出て来たのである。その頃、津波のやうに湧き興つた社会思想の飛沫を浴び、自己の内部に社会理想の火が燃え上つたばかりであつた山田は、必然この少年にそのはけ口を見出さざるを得なかつた。彼は、このどこか傲岸さうに眼を光らせた、小さな機関車のやうに意志的なものを持つた少年を愛し、これを彼の最初の弟子としたのである。山田は毎日勤めから帰つて来ると、唯物史観を、無産者政治教程を講義した。その頃辻は十六であつた。山田は何年か後になつて、その頃の辻と自分とを思ひ出すと、あんな小さな子供を掴へてどうしてああ熱心になれたのか不思議な気がしたが、しかしその頃から辻の内部に彼の影響に耐へ得る強靱な何物か、それは知性の萌芽とも言はるべきものがあつたために違ひなかつた。
辻と起臥を共にしたのは僅か一年あまりに過ぎなかつたが、白紙のやうな少年の頭脳にとつては、決して短い時間ではなかつた。少年はある日突然決意の色を現はしながら言つたのである。
「おれ、田舎に帰る。」
かうして辻の少年らしい空想や希望は、農民運動といふ全く違つた形として現はれ、二人は別れた。辻はただ社会思想の火を自己の内部に発火させるためにのみ上京したやうなものであつた。その後の辻の動勢については山田は殆ど知らなかつた。勿論初めの一二ヶ年は文通が行はれ、辻に必要な文書なども山田を通じて送られたが、しかしその後どうしたのか手紙もばつたり絶えてしまつた。そのうち山田はみつ子と結婚し、捕はれて下獄した。
山田は、暗い、陰鬱な監獄生活のうちにも時々辻を思ひ出しては、或は彼も自分と同じやうな所に日を送つてゐるのではあるまいかと不安な予感に襲はれたりした。そして黙々と手仕事を運ばせながら、ふと辻は今年で幾つになつたかな、などと指を折つて見たりした。彼は自分の弟か、甥を思ひ出すやうな、なつかしい気持であつた。ところが監獄生活の一年が終り、二年目の秋であつた。彼は突然辻の面会を受けた。
山田は電車の中で眼を閉ぢ、その面会の状況を思ひ浮べた。それはなんとなく奇妙な、そして驚くべき瞬間であつた。
彼は辻の変つた姿に先づ驚いた。彼は秋らしくセルを着流してゐたが、それはもう黄色く陽やけして、それに小柄な風采のあがらぬ体つきはひどく貧相で、かへつて山田の方があはれを覚えたほどであつた。その上以前のやうな赤い頬は消え、頭髪はぼうぼうと乱れ、ふと肺病にでもなつたのではないかと思はれるほど蒼く痩せてゐた。額にはまだ二十だといふのに深い横皺が二三本も刻み込まれて、なんとなく山田はぞつとした。そしてどうしたのか辻は、山田と向ひ合つても、むつつりと口を噤んだまま口を開かなかつた。仕方なく山田の方から、
「どうしたんだ。」
と言はずにはゐられなかつた。
「うん。」
と辻は、怒つてゐるやうに返事した。
「元気でゐたのか。」
「うん。君、元気か。」
山田は今まで辻から君と呼ばれたことがなかつたので、びつくりして辻の口許を眺めやつた。辻はそれきり黙つてしまひ、何かひどく考へ込んでゐるのである。
「ああ、俺はこの通り丈夫だ。しかし、君はどうしてゐたんだ。どうも少し変ぢやないか。外の情勢はどうかい、この頃。」
「うん。」
そして辻は何か憂はしげな眼つきであたりを見廻し、急に山田の顔を眺めて微笑しようとしては、また唇を固く閉してしまふのだつた。何かある、と山田は心中で思ひながらも、これではどちらが面会に来たのか判りやしないぢやないかと、腹立たしいものを感じたりした。長い沈黙が続き、二人は向ひ合つたままお互の顔を眺めたり、足で床をこつこつと打つたりした。辻はどこか落着きがなかつた。彼は絶えずあたりを見廻し、山田と視線が合ふとびつくりしたやうに眼を外した。やがて辻はふらりと立上つて、もう山田に背を向けて歩き出した。
「おい帰るのか。」
辻は背を向けたまま立停ると、
「ああ。」
と言つたが、くるりと振り返つて、山田の耳許に口を寄せると、ささやくやうな声で、
「俺、病気なんだよ。恐しい病気になつちまつたんだ。」
「病気?」
辻は瞬間思ひ惑つたやうに眼をつぶると、急に顔に血の気が上つて、上ずつた声で一息に、
「癩病だよ。」
と言つて、扉の外に出て行つた。山田はがんと頭をどやされたやうな気持であつた。瞬間辻を呼び返さうと思つたが、声が出なかつた。
あれから、もう四年に近い日が流れてゐる。彼は辻の顔を想像して見ることが出来なかつた。何か空恐しく、不安で、重苦しいのである。
その駅の改札口を出ると、山田は構内をあちこちと見廻し、早かつたかな、と思つて時計を眺めて見たりしながら、しかし一種の興奮状態に胸が弾んでゐた。辻らしい姿が見当らないので、彼はちよつと焦つたものを覚えながら、しかし心の底にはこのままいつそ辻が現はれなければいいといふ気持のあることはどうしやうもなかつた。
「お元気ですか、ご無沙汰ばかししてをりました、呼び出したりして……。」
さういふ声が不意に横から聴えた。しかし山田は自分に言はれたとも思へなかつたのでその方には注意もせず、なほ前方を見廻してゐると、
「あの、僕、辻ですが。」
山田はびつくりして振り返ると、
「ああ、いや、僕山田です。」
と、まごついた返事になつてしまつた。
「体、その後、お体はどうですか。心配してましたが、どこにゐられるか解りませんでしたので。ええ僕は元気でゐます。」
山田はこんな会見を想像してゐなかつた。相手がどう病変してゐても、よう、その後どうだつたい、と気さくに相手の肩をぽんと打つ、そんな光景を考へてゐたのでよけいまごついてしまつた。それに自分の口から、ました調の言葉など出ようとは全然予期してゐなかつたので、自分の言葉にびつくりした気持であつた。
二人は並んで駅を出たが、山田は自然と相手の顔手足などに注意が向いてならなかつた。彼はさういふ自分の注意を意識しては、あわてて視線をあらぬ方に向けるのだったが、しかし心の中では何かほつとした軽やかなものを覚えてゐた。辻は監獄で会つた時と同じやうに小さな体で、もぢやもぢやの頭髪が中折帽の間からはみ出して、その髪の間に痩せた、骨ばつた顔が覗いてゐた。あの時よりも痩せはひどくなつて見えるが、しかしかへつて健康さうであつた。彼は鼠色の背広を着て、外套を重ねてゐる。
「今どうしてゐるのかね。」
喫茶店などの並んだ細い路地に這入ると、山田はさう訊いて見た。出来るだけ以前のやうな親しさを取り戻さうとする気持の余裕が出来、言葉使ひも気軽にした。
「うん、療養所にゐる。」
「体は良いのかい。」
「まあ今のところは、どうにか……。」
「自由に出て来られるのか、何時でも。」
「自由つて訳にはゆかないけど。年に一回くらゐは……。」
辻は憂鬱さうな小さい声でぽつりぽつりと答へ、ともすれば沈黙に墜ち込みさうであつた。山田はどうした訳か沈黙に墜ち込むことが妙に恐しいやうに思はれ、頭の中で言葉を探すのであつたが、この場合どんなことを語ればいいのか見当がつかなかつた。お互に交はりの断ち切れてゐた何年かが、深い谷のやうに二人の間にあつた。ましてや病苦に傷ついてゐるであらう辻を考へると、うつかり言葉も出ないのである。
「東京はちつとも変つてゐない。」
と、辻はあたりを見廻すやうに首を動かして、突然そんなことを言ふのであつた。
「うん、もう一通り出来上つたからね、これからは案外変化が少いだらうよ。しかし、君は何年、そこにゐたのだね。」
「三年。足かけ四年になる。」
「しかしよく僕の住所が判つたね。随分あちこち動いたからね。」
「兄貴に訊いた。」
「ああさうか。元気だらう、兄貴。」
「うん。」
「病院は大きいのかい。」
「五百人ほどゐる。」
「面会なんか出来るの。」
「出来る。自由だ。」
「そのうち出かけて行つてもいいかい。」
「うん。来てくれ。癩病ばかりしかゐないところだ。」
山田は瞬間言葉が途切れた。辻が日常茶飯の調子で、癩病、と自分の病気を苦もなく言つてのけるのに驚いたのだ。変つた、と山田は強く思ひながら辻の横顔を眺めた。そして心の中がなんとなく緊張するのを覚え、一体この男は今どんな思想に、どんな信念に生きてゐるのであらうか、といふ激しい好奇心が湧き出し始めた。以前の思想は? そのままでゐるのか、それとも全然別な道を発見したのか。
「しかし君なんか、どこも病気のやうには見えないが。退院は出来ないのか。」
「退院? しようと思へば出来るが……してもつまらん。」
「しかし病気は軽いんだらう。」
山田はふと、こんなことを訊いていいのかな、と思ひ返したが、しかし口から出てしまつたので、どんな返事が来るかと待つた。辻はなんとも答へなかつた。そして頬に薄い微笑を浮べると、そのまま黙り込んでしまつた。山田は不安なものを覚え、ではやつぱり外面はなんとも見えなくても、内部ではもう相当やられてゐるのか、とあやぶむ気持であつた。
「病気は、軽くても重くても同じことだ。」
と辻は長い沈黙の後ぽつんと言つた。不治、この言葉がぴんと山田の心に来た。彼はぐつと胸を押されたやうな気持で、言葉がなかった。
「しかし治療はしてゐるのだらう。」
と山田は遠慮勝ちに訊いた。
「してゐるが……。」
と辻は言葉を濁し、また微笑した。
二人は茶房へ這入つた。人がいつぱい立て混み、レコードががちやがちやと鳴つてゐて、落着いて話など出来さうにもなく、山田はもつと良いところはないかと思案した。辻は腰を下すと、落着かぬげにあたりを見廻しては、じつと視線を一方に走らせたり、音楽に耳を澄ませようとするらしく、ちよつと眼を閉ぢて見たりする。しかしさうした小さな表情の一つ一つにも、どことなくぎごちない固さが感ぜられて、山田は何か気の毒のやうな気もするのであつた。田舎者、でないまでも、兎に角長い間人前に出なかつた者が急に表へ引き出された時のやうな工合であつた。落着けないことを意識して強ひて落着かうとする時の表情、さういつたものを山田は見て取つた。
紅茶と菓子が来ると、山田は砂糖を辻の茶碗に入れながら、
「お腹空いてないか。」
と訊いて見た。
「いや。いつぱいだ。」
「もつと静かなところへ行かうか。」
「うん。さうだね。しかし、」と言つて辻は時計を眺め、
「君、いいのかい。奥さん待つてやしない? 僕、ちよつと君に会へばよかつた。」
「そんなこといいよ。久しぶりぢやないか、君さへよければ僕はなんでもないよ。」
「うん、僕、いいけど……。」
と辻は言ひながらフォークを動かし、どうしたはずみかがちやんと音を立ててそれを落してしまつた。辻はあつと小さく叫んで、顔を真赤にすると、いきなりそれを拾ひにかかつたが、急にまた手を引込めた。滑稽なほど狼狽が見え、山田はとつさに、
「いいよ君、拾はせるよ。」
と小さく辻にささやいて、給仕女を呼んだ。人々の視線がさつとこちらに射られるのを山田は感じ、なんでもないといふ風に微笑をつくつて、
「これから出て来る時は必ず僕の所へ寄り給へよ。」
と言つてごまかさうとした。
「うん、寄るよ。寄るよ。だけど、僕。うんあの、僕来年も出て来るよ。毎年一回づつ出て来ることにしてゐるんだ。でも、君、嫌だらう。」
「そんなことないさ。そんな気兼ねはよし給へよ。」
「うん。娑婆のやつ等は病気に対して認識不足だから、僕だつて、さう簡単にあれするんだつたら出て来やしない。いや、出て来るよ。出て来るよ。社会だつて、我々に犠牲を要求し得るほど立派に出来てやしない。社会は我々より愚劣ぢやないか。しかし、いや……。」
そして辻はやうやく上気せがさがりかけてゐた顔を再びさつと赧くすると、突然口を噤んで上体を真直ぐにしたまま一方をじつと見つめ、また急に視線を外らしてあたりの人を窺ふやうにきらりと眼を光らせた。その眼には、今まで見えなかつた、鋭い、挑むやうな、焔が燃えてゐた。山田はさうした辻の表情を注意深く眺めながら、何か言ひやうのない陰惨な臭気とも言ふべきものを感じるのであつた。長い間の苦痛、屈辱と、堪へ得ぬばかりの運命に虐げられたであらうことを、彼はその眼に感じ、その挑戦するやうな唐突な言葉に感じた。
二人はそこを出るともう暗くなりかけた街を暫く歩いて、とある小さなそば屋の二階へ上つた。
「幾日くらゐ東京にゐるんだね。」
酒が出ると、山田は銚子を取り上げながら訊いて見た。
「二週間ほどゐたんだけど、もうあと三日で帰る日なんだ。」
「幾日つて、日も定められてゐる訳だね。」
「うん。」
「病院はひどいところかい。」
「さあ。」
と辻は考へるやうに独言して、
「説明出来ない。兎に角普通人の人間概念は通用しない。」
「いや、さういふ意味ぢやなく、いはば政治的な意味、つまりなんて言ふか、病院生活だね、病院の支配者と患者との関係とかいつた風な……。」
「平和だよ。」
「平和、か。しかし時々問題なんか起つて新聞に出たりするぢやないか。」
すると辻は急に可笑しさうに大声で笑つて、ぐつと酒を飲むと、
「退屈だからあんな問題が起るんだね。」と一言してから、独言のやうに下を向いたまま呟いた。
「社会の人間は病院をまるで陰惨な、人間の住んでゐるところぢやないやうに考へてゐる。嘘だ、そんな考へは。社会と較べりや余程病院の方が立派だ。少くともあそこでは人間が人間らしい精神で生きてゐる。ところが社会はなんだ、嘘偽と、欺瞞と、醜悪とに満ちてるぢやないか。病院だつて愚劣なこともあれば、醜悪でもある。しかし社会よりはまだましだ。それだのに、社会のやつらに会ふと定つて好奇心に眼を光らせて病院のことを訊きたがる。病院のことを訊いてどうするんだ。恐いもの見たさの心理だらう。或は病院を思ひ切り醜悪なものとして予想して、それが本当であるかどうか知りたい、むしろ本当であらせたいんだ。なんといふ愚劣さだ。醜悪なものを見たいなら、社会は社会自身の足下を見りやいいのだ。少くとも社会は癩院に対して恥ぢるべきだ。」
「いや、僕はそんな気持で訊きやしないよ。」
「うん、うん、そりや君の言ふことは判る。」
「なんて言ふか、僕は……。」
しかし辻は山田を押へるやうに言ひ出した。
「僕の病院にゐる五百人の患者が、どんな汚辱と、屈辱との中に生きて来たか。それは恐しい汚辱だ、屈辱だ。しかしそれに、彼等はじつと堪へて来たんだ。癩病を前にして黙つて頭を下げない奴は、ただそれだけでその男が愚劣な人間の証拠だ。それは恐しい屈辱だ。売春婦の屈辱なんぞ問題にならぬ。そしてその屈辱は今もなほ続いてゐるんだ。恐らく死ぬまで、死ぬまでだぜ、この言葉をよく考へて見てくれ、死ぬまで屈辱は絶えやしないんだ。しかしこんなこと君に言つたつて通じやしない。癩者の間で三日でも暮して見るがいい、それがどんなに恐るべき、胆の寒くなるやうな世界か解るだらうよ。それに彼等はじつと堪へ忍んでゐるんだ。人間が人間自身の内的な力で生き、人間の最奥の力で生きてゐるんだ。人間が人間として最も純粋な美しい状態はそれを措いて他に決してないんだ。癩者はそれを無意識のうちにやつてのけるんだ。」
山田は辻の言葉にじつと耳をかたむけながら、しかし何かちぐはぐな、ピントの合はないものを感じてならなかつた。辻が眼を光らせ、熱した口調で語つてゐる事柄も、彼には何か無関係な、辻の独りよがりの興奮のやうな気がするのである。それに山田にとつては、癩者の精神が美しからうと醜くからうと、どうでもいいことであつた。彼はただ辻のさうした言葉から、辻の興味の対象が何にあり、辻の思想が以前と較べてどのやうな変形を受けてゐるかを推察するのが楽しみであつた。この男、すつかりヒユマニストになつたぞ、と、そんなことを考へて彼はにやりと笑ふ気持であつた。するとふと、さつきからの自分の気持を振り返つて、自分が癩患者辻一作を前にしたため、なんとなく他所行きな気持になつてゐたのに気づいて、なんのことだ、といふやうな気持も湧いて来た。
辻はもうかなり酒がまはつたと見えて、眼を充血させ、興奮した面持で山田をじつと見つめたり、盃を急に口に持つて行つたりするのであつた。
「しかし君、遅くなりやしないのかい。」
と山田は訊いて見た。山田も、もうかなり酔がまはつて来てゐた。
「大丈夫。」
「しかし随分君も変つたね。」
と、山田は辻をしげしげと眺めながら言つた。
「変つた? うん、変つたよ、変つたよ、すつかり変つてしまつたかも知れない。しかし変らない部分だつてある。」
「ああそりやね、やつぱり、あの頃の、十六だつたね、あの時。あの時の君とちつとも変らないところもあるよ。君らしいところはやつぱり君らしいが、しかし考へ方なんか……。」
「考へ方ね、ああ、変つたよ、。社会主義なんて俺は捨てた。」と辻はきつぱり言ひ切ると、急に挑むやうな眼つきで山田を見、おそろしく興奮した調子で続けた、それは、社会主義を捨てたといふことによつて相手から冷笑を浴せられるに違ひないと信じてゐて、それを懸命に反駁しようとするかのやうであつた。彼は丸で堪らない嘲笑を受けたかのやうであつた。
「社会主義は、捨てたよ、完全に俺は捨ててしまつたんだ。笑ふ奴は勝手に笑つたらいいんだ。笑へる奴がそんなにゐるもんか。俺は俺自身でさういふ自分をさんざん笑つたんだ。もうさんざん自分で自分を笑つたんだ。しかし今ぢやもう笑ひやしない。いや、俺が、俺の方から思想を捨てたんぢやない。決してさうぢやないんだ。思想が、思想の方が俺を捨てたんだ。俺は思想に突つぱなされてしまつたんだ。俺も病気になつて初めのうちは、一生懸命思想や理論にしがみついてゐた。さうだ、………………………………………………………………、………………、…………………。唯、君、俺の場合に於ては………………なんにもならないだけのことなんだ。だから俺はあの理論が全然無意味だなんて考へてやしないよ。ただ俺にとつては無意味なんだ。俺には不要なんだ。あれは社会理論ぢやないか。ところが俺は社会から拒否されてしまつてるんだ。つまり理論に拒否されたんだ。さういふ俺が、大切さうに理論を頭の中で信じてゐたつてそれが何になる。…………………………………なんて全然無意味ぢやないか。それは靴みたいなものだ、穿いて歩いてこそ価値があるんだ、頭の上に乗せてゐたつてなんにもなりやしないんだ。(ここまで苛立たしげに語つて来て辻は突然言葉を切り、急に何事かに考へ込み、今度は低い声で下を向いたまま語り続けた。それは独言のやうであつた)俺はそのために苦しんだよ。夜だつてろくに眠りやしなかつた。病院へ這入つたはじめのうちは、それでも信じてゐたよ。しかしそれは病気を知らなかつたからに過ぎなかつた、俺はもう一度社会へ出て、社会人と同じやうにやつて行けると思つてゐた。だから俺は、その頃は自分を社会人として、少しも疑はなかつた。だから社会理論を頭の中に寝かせて置いても不思議ぢやなかつた。何時かは起きる時がある、何時かは起き上る、さう信じてゐたんだ。ところが日が経つにつれて病気が、どんな病気であるか知らされちまつた。それは知らされざるを得ないことだ。俺は、俺といふ人間が最早全く社会にとつて不要な人間であり、いはば一個の……に過ぎないことを知つた。俺はただ毎日毎日、俺の体が腐つて行くのを眺めて、死ぬる日を待つてゐなけりやならないんだ。いや、俺の体だけぢやない、俺個人の肉体だけぢや決してないんだ。俺は、俺の周囲にゐる連中の体が腐つて行くのを毎日見せつけられたんだ。来る日も来る日も鼻がかけたり、指が落ちたり、足が二本共無かつたり、全身疵だらけの連中ばかり眺めて暮して、そいつらの体の腐つて行く状を眺めてゐなけりやならなかつたんだ。昨日まで眼あきであつた者が今日は盲目になつてゐた。今日二本足を持つてゐた男が翌日は足が一本になつてゐるんだ。俺はそれを、じつと、黙つて眺めて暮して来た。今こそ俺は軽症だが、やがてああなる。あんな風になる。足がなくなる、指が落ちる、盲目になる。ああ、これが、こんな風なことを考へなけりやならない生活がどんなものか、君に判るかね。しかも生命は長いんだ。まだまだ長いんだ。しかし、俺はもうこんなこと言つたつて何にもなりやしない。俺の気持がどんなであつたか、語ることなんか出来やしない。それは語ることも出来ないくらゐなんだ。自分が全く無意味な、社会にとつて不要な人間に過ぎない、といふことをはつきり俺は意識したんだ。しかも生きてゐるんだ。今後、何年も、何年も生きて行かなくちやならないんだ。この気持を君が判つてくれたらなあ。しかし誰にも判りやしない、判るもんか。俺は独りぽつちになつた、全く孤独になつたんだ。社会にゐる連中なんかも、一人前に、やれ淋しいの、やれ孤独だのつて言ふ。そんな連中に孤独つてどんなものであるか判るもんか。決して判りやしない。それは恐しいもんだ。身を切り刻まれるやうなもんだ。体中の血液が凍つてしまふやうなものだ。しかしこんな形容ぢや伝はりやしない──俺は運命といふものを見たよ。現実といふものを見たよ。この孤独の中でどんな風に生きたらいいんだらう。俺は生きる方向も、態度も失つちまつたんだ。しかも俺の周囲にゐる人間は癩患ばかりだ。癩患の巣だからね。こんな風になつて、生きるといふことが正しいと思ふかね、正しいと思ふかね。ね、答へてくれ。」
辻は不意に言葉を切つて、激しい眼ざしでじつと山田を凝視めた。顔面の半分は覆つてしまふほどぼさぼさと垂れた髪の間に覗いてゐる辻の、小さな鋭い眼を山田は見返しながら、勿論辻が返事など望んでゐはしないのを知つてゐた。そして山田はふとあくびが出たくなつて、それをかくすためにちよつと体を動かせて坐り直したりするのであつた。辻が熱つぽく語つてゐるほど山田には切実に感ぜられないのである。すると辻は更に苛々しげに眉毛をぴくぴくと動かせて、語り始めた。
「答へなんか聴きたくないよ。勿論答へなんか聴かなくたつて構やしない。ただ俺が言ひたかつたのは、生きるとは何か、といふ新しい問題が俺の前に出て来たつてことを言へばよかつたんだ。俺は俺の周囲で死んで行く病人や、生きながら腐つて行く──いいか、生きながら腐るんだぜ!──そんな連中を眺めて、毎日毎日眺めて、この現実を、世界を、どう解釈し、どう説明したらいいのか、といふ問題が新しい俺の問題になつたのだ。いや、嘘だ、俺はこんなことを、こんな風に言ふつもりぢやなかつた。現実を解釈する、現実を分析する、それが何だ。それが何になるんだらう。どんなに分析したつて、どんなに解釈したつて、現実はそんなことに構つてやしない。現実は人間の知性がどうあらうと知らん顔して、現実は、ただ現実それ自身のために動き、それ自身の仕事を仕事としてゐる。これが運命といふものだ。人間は、ただ、この迫つて来る力を前にして、恐れ、戦慄き、泣き、叫び、涙を流すだけなんだ。現実の批判と言つたつて、解釈と言つたつて、所詮、この号泣、叫びの一変形に過ぎないんだ。人間はただ泣くだけなんだ、涙を流して慰め合ふだけなんだ。君は笑つてるね。君から見ればこんなことは、あはれな人間のくりごとだらうよ、弱者の泣言だらうよ。それからこんな考へは古い、つて君は言ひたいんだらう。そりや古いかも知れない。しかし俺は古くつたつて構やしない。古いとか新しいとかいふことは問題にならんのだ。俺の場合に於ては問題にならんのだ。俺は俺の世界のことを言つてるんだ。他人のことなんか知つたことか。いや、待てよ、俺は何を言ふつもりだつたんだらう。さうだ、俺は死なうと思つたんだ。自殺しようと考へたんだ。ところが死ねなかつた。何度もやつてみようとした。しかし駄目だつた。いや、さうぢやない、死ねないことが解つたんだ。死ねないことがだよ。死ねない、この意味を君が解つてくれたらなあ。しかし解りやしない、それは自殺する勇気がなくて死ねない、なんていふんぢやない、死んだつてなんにもならないつてことなんだ。死んでもなんにもならない、さうなんだ。しかし、なんて言つたらいいのかなあ。なんて言葉つて奴は不便なんだらう、言つたとたんにばかばかしくなつてしまふ。つまり、死んだつてなんにもならないつて言ふのは、俺が死んだつて人は生きてゐる、俺が死んだつて、癩病はやつぱり存在する、つてことなんだ。しかし、かう言つてもどうも本当ぢやないやうな気がする──。」
辻は口を噤んで、頭の中に適切な言葉を探さうとでもするかのやうに、じつと空間に眼を注いで考へ込んだ。しかし、山田はもうさつきから次第に退屈し始めてゐた。そして辻の眼がぎらぎらと光つたり、熱した額の汗がてらてらとしたりするのを見てゐるうちに、なんとも言へない、気持の悪い、嫌なものを感じてならなかつた。俺は今癩病患者と酒を飲んでゐる、さういふ考へがふと頭に浮んで来たりすると、彼は何か、無気味な、恐怖に似たものを感じた。そして辻が、人生の苦悩を一人で背負ひ込んだやうなことを言つてゐるのに対して、なんとなく不快を覚えてならなかつた。それに辻の語り振りはといへば、絶えず言ひ直したり、まごついたり、独りで合点したり、それはひどく独りよがりなお喋りに過ぎない、と山田には思はれるのである。
話が途切れ、沈黙が続いた。辻はさつきの続きを言はうと口をもぐもぐさせてゐたが、どうしたのか不意に、はじかれたやうにぴよこんと立上つた。そしてぐるりとあたりを見廻すと、黙つたまま坐つた。彼に顔にはなんとも言ひやうのない困惑とも恐怖ともつかないものが現はれては消えてゐた。
「どうしたのだ。」
と山田も訊いて見ずにはゐられなかつた。すると辻は、いや、ちよつと、と軽く微笑したが、どこかこはばるやうな微笑であつた。
「ちよつとね、ここが東京でないやうな気がしたんだよ。」
と辻は言つた。
「東京でないやうな?」
「なんだかね。夢見てるやうな、妙な気がしたんだ。俺のうしろに患者がいつぱい坐つてゐるやうな気がしたんだ。坐つてたつて構やしないよ、そりや勿論。だけど、なんだかぞつとしたんだ。足かけ四年病院から一歩も出なかつたのでね、錯覚が起るんだよ。」
さう言つて辻はまた微笑しようとしたが、それも途中から消えてしまつて、あとはおそろしく黙り込み、何ごとか深い物思ひの中に沈んで行つた。引揚げようか、と山田は言ひたくなつて来たが、辻のさうした姿を見てゐると、どうもその言葉が吐きにくく思はれた。山田も自然と考へ込み始めた。
山田はふと二日前の夜のことを思ひ出した。自動車が、がたんと揺れた時の動揺がはつきりと蘇つて、アスファルトに頬をべつたりとくつつけて死んでゐる男の姿が眼前に浮き上つて来た。あの男の家族は? 今どうしてゐることだらう、さういふ考へが浮んで来ると、彼は今まで感じなかつた罪悪感、自責の念にかられ始めた。成程あれは運転手の過失に相違ない、しかし俺は何の用もないのに、況やあんな愚劣な気持で車を走らせたのだ。さう思ふと、罪は凡て自分にあるやうな気がした。おまけに、あの運転手は免許証を取り上げられるか、休職を命ぜられるか、そのどつちかだ。
「しかしね、辻、君も随分そりや苦しんだらうけれども、僕たちだつて決して楽ぢやないよ。ひよつとしたら、さういふどん底までいつそ墜ちてしまつた方が、人間的には幸福であるかも知れないと思ふよ。」
山田はあの夜のことを一つ一つ思ひ出し、また日頃の自分の気持の行場のない、どうにもならない有様などを思ひ出しながら言つた。すると辻は急に顔を上げて山田の方を見たが、黙つてまた考へ込んだ。山田は、辻がまだ自分の転向を知らないのに気づいてゐたので、
「実はね、俺も転向してしまつたんだよ。」
と告白的な気持になりながら言つた。そしてこの時になると急に俺といふ言葉が出た。
「転向した?」
と辻はさつと顔を上げて、鸚鵡返しに言つた。がすぐ低い声になつて、
「俺も多分さうだらうと思つてゐた。」
と続けたが、その言葉の中には皮肉や冷笑は少しも響いてゐなかつた。そしてひどく重大さうにまた考へ込んだ。
「実際のところ、僕らにしたつて、自分の生きる方向も、態度も判らないんだよ。………………………全くつかないやうな情勢で、ただだんだん………………………つつあるといふことだけが判るんだ。転向したからといつて、このまま没落してしまひたいといふやうな気持はないし、出来得るならば自分の生を歴史の進歩に参加させたいのだ。転向して出獄したその頃などは、さういふ気持で随分あせりもしたし、絶望もした。しかし結局どうしやうもなかつたんだ。どんな風にどうしやうもなかつたかといふことは、なかなか説明出来ないことだけれども、しかし君も新聞や雑誌くらゐは見てゐたらう。小説なんかでも、どんな風にどうしやうもないかといふことばかり書かれてある始末なんだからね。」
言葉をちよつと切つてそこで山田は辻の方を眺めやつた。辻は下を向いたまま黙つて耳を傾けてゐた。しかし山田はもう語るのが嫌であつた。この男の前でこんなことを語つて、それが何になる、要するに俺は、俺の心の中の煩悶を誰かに知つて貰ひたい、そして知つて貰ふことによつて同情をかすめ取らうとしてゐるのだ、なんといふ愚劣なことだ──。しかし酒の酔もあつたであらう、自然と口が開いて、彼がくどくどと出獄後の自分の生活や気持を語るのであつた。そして現在ではもう……………を持つといふことは殆ど自虐に似てをり、といふよりも誠実さは自虐と自嘲とに変形せざるを得ないといふことや、さういふ自分たちがどんなにせつぱつまつた、……………………置かれてゐるかを長々と説明して、
「結局僕も癩院にゐるのとそんなに変つてやしない状態なんだ。そりや肉体は腐らないけどねえ、精神が腐るんだ、いや腐らされざるを得ないんだ。君が君の病院に於ける気持が僕に伝はらないつて残念がるやうに、僕もまた僕の気持は君にはなかなか判つて貰へないのぢやないかと思ふんだ。そりや精神まで腐らせるのはその者の意識の力が貧弱だからだ、つて言へばなるほど僕は一言もないが、しかし少くとも僕はこれもある意味では誠実に生きてゐるつもりなんだ。ところが……であるが故に……な、腐つた状態とならざるを得ないといふ奇妙な事情があるんだよ。そして時々どうかすると、馬鹿か白痴みたいな状態にならされたりするくらゐなんだ。二三日前もこんなことがあつたよ。それは夜なんだが、もつとも僕はこんな風な自分を決して正しい状態だとは思つてゐないよ。それどころぢやなく、僕はかういふ状態から抜け出なくちやならんと考へてゐるし、これを抜けなくちや人間としても全く意味ない愚劣極まるものになつてしまふことは意識してゐるよ。ただね、今は僕がどんな気持でゐるか君に解つて貰へりやいいんだ。もつとも解つて貰つたつてそれはどうにもならんことだけれど、しかしまあ聴いてくれ。」
彼はそんなことを喋りたくなつた自分を嘲笑したくなつた。まるでお互に自分の苦労を打ち明け合つて、お互に慰め合はうとしてゐる老人たちのやうではないか。ほんにまあお前様も随分苦労なさりましたねえ、でもねえわたしもそりや随分と苦労な目に会ひましただ、まあまあ浮世は苦しいことでござんすわいな、とでも言つてるやうなものぢやないか。山田は実際、その時ふとそんな光景を思ひ出して、なんとなくにやにやと笑つたのである。
彼は長いことかかつて、二日前の夜のことを自分の気持を説明しながら念入りに話した。もつとも初めのうちは時々激しい嫌悪に襲はれて話半ばに急に口を噤んだりした。しかしその度に、かまふものか、かまふものか、といふ考へが浮んで来てなほも話を続けてゐると、何時とはなしにその自分の物語にひそかに感心して聞き惚れてゐるもう一人の自分が彼の横に坐り始めるのであつた。勿論彼のこととて、そのもう一人の自分をも極力軽蔑し続けたが、しかしそれも結局は放任状態になつて、しまひには彼も興奮した口調となり、勢余つて少し誇張したやうな部分も出来るといふ始末であつた。無論誇張といつても大したことではなかつた。
「僕は実際、今考へて見ても、何故あんな、愚劣なことが出来たのか、自分でもよく判らないよ。況や土手の上でおいおい泣き出したくなつたりしたんだからね。さうだ、僕はたしかにあそこのところで君を思ひ出したよ。正直のところ僕は君を思ひ出すのは好きぢやなかつた。それはやつぱり、君の病気のせゐだと思ふんだ。かう言つても悪く取らないでくれ給へね。ただなんとなくだよ、なんとなく僕は君の病気が恐かつたんだ。正直に言つて、僕は君を思ひ出すのが何かいとはしい、暗い、運命みたいなものにぶつかるやうな気がしてならなかつたんだ。いやしかし、これだけぢやない、これだけぢやないよ、もう一つ重大なことは、僕の思ひ出す君の姿といふものが、あの監獄の場面を除くとあとはもうあの頃の、十六から七へかけての丸一ヶ年の君の姿ばかりなんだ。あの頃の僕と君との関係は、嘘のないところ師とその弟子といふあんばいだつたからね。だから僕は……以来といふものは君を思ひ出す度に自責の念にかられたんだ。もっともこんな自責は単に僕のセンチメンタリズムに過ぎないといふことは意識してゐるし、また僕が君の師となつたといふ事実は既に説明するまでもない大きな力の必然だつたんだらう。それにもかかはらず、僕はどうにも君に悪いことをしたやうな気がしてならなかつたんだ。それに君が病気になつてからはなほ更なんだ。何故だらう、僕の………させる業に相違ないんだ。…………………はどんなにそれを説明しても人間的にはたしかに汚点なんだから……。」
「待つてくれ、ちよ、ちよつと待つて呉れ。どうしてそれが汚点なんだい? 俺にや判らん。それを汚点とするかどうかは、その個人の精神によつて決定する問題ぢやないか。………………によつて更に高まる場合だつてあり得るのだからね。君はさきに定規を作つておいて、その上で人間を決定して行かうとしてゐるんだ。」
「うん、うん、そりや君の言ふ風にも考へられるかも知れない。しかし僕は、僕として信じてゐる方法を使ふ以外にないんだ。だからもうちよつと僕の言ふことを聴いてくれ。ね君、さういつた風な僕の気持は判つてくれるだらう。僕はどうも今夜君に僕の気持を判つて貰ひたい気がして来てゐるんだ。君はさつき社会の奴なんかに孤独が判るかつて言つてゐたが、しかし僕も孤独だよ。そりや女房もゐるし、会社にも勤めてゐるけれども、僕の気持を判つてくれる者なんか一人もゐやしないし、また話相手になる者だつて一人もゐないんだ。だから久しぶりで君なんかに会ふと、もつとも今の気持は千里を隔ててゐるかも知れないが、しかしやつぱり精神的に共通なものが残つてゐるやうな気がするんだ。これは以前のお互を取り戻さうとする僕の幻覚みたいなものかも知れないがね。しかし僕は君にだけでも僕の気持を打ち明けてしまひたかつたんだ。僕があんな愚劣な行為をして、おまけに人を一人殺してしまつたりしなければならなかつた僕の気持は、君なら判つて貰へるんぢやないかと思ふんだ。」
ここまで語つて来て山田は、突然、不快な苛々した嘔吐しさうな嫌悪が、激しい勢で盛り上つて来るのを感じた。彼はもう一言も口をきくのが嫌になつた。彼は急いで冷たくなつた盃を取り上げると一口に飲み、続けてまた二三回飲んだ。こんな小僧に、俺は何を打ち明けてるんだ、さういふ考へが頭に浮き上つて過ぎると、彼は苦々しい顔つきになりながら、しかし銚子を取り上げると辻の盃に流し込んだ。そして辻の顔を眺めたとたん、彼はなんとなくはつとし、どうした心のはずみか、しまつた、と頭の中で呟いてゐた。何がしまつたんだ、ふん、と彼は妙に不貞くされた気持になつて自分の心を静めたが、それが静まつたと思ふと今度は言ひやうのない羞恥が湧いて来始めた。何のための羞恥か、何のための羞恥か。
辻は冷然とした顔つきになつて山田を眺めてゐる。その顔には今までなかつた人を食つた、冷笑、明かに相手を軽蔑し切つた表情が流れてゐた。辻は物を言はなかつた。そしてやがてその冷笑が消えると、急に何か言ひたげに咽喉を動かしてゐたが、それも止してしまひ、突然ふらりと立上つた。
「帰るのか。」
「うん、もう遅いのでね。」
「待て、ちよつと待つてくれ。」
そして辻を坐らせると、山田は、微笑しながら、
「勝つたからつていきなり引揚げるのは卑怯だよ。」
辻は瞬間山田の言葉を理解しかねるやうな顔つきをしたが、どうしたのか憂はしげな、重苦しい物思ひに沈み始めた。
「僕はね、ちよつと君に今批評されたかつたんだよ。だつて君はさつきあんな表情をしたぢやないかね。」
と山田は辻の顔を覗き込んだ。辻はやつぱし黙つて考へ込んでゐる。そしてちよつと箸を動かせると、残り少くなつた酢のものをつまんだが、食はうともしないで箸を置いた。かなり長い沈黙が二人の間を流れた。と、急に辻は顔をあげてきつと山田を見、
「言ふよ、言ふよ。みんな言つてしまはう。いいね。」
いいとも、と山田が答へる間も与へないで辻はいきなり、
「嘘だ、君は嘘を言つてるんだ。君は芝居をうつたんぢやないか。」
と叫ぶやうに言ひ切ると、急にまた冷笑を頬に浮べて、毒々しい表情で山田をじつと眺めた。
「芝居?」
と山田は思はず聴き返したが、むつと怒気が衝き上つて来た。今まで大切に蔵つて置いたものを、足蹴にされたやうな気持である。
「さうだ。芝居だ。君はお芝居をうつてゐたんだ。君はお芝居をうつて、いい気持になりたかつたんぢやないか。人間といふ奴は非常に真剣な気持でお芝居をうつぜ。興奮し、泣き、涙を流しながらお芝居をうつんだ。それは嘘のない、自分でも気のつかぬ、のつぴきならない気持でお芝居をうつんだ。さういふのつぴきならないところへわざと自分の気持を落し込んで、その気持を自分の本心だと自分で信用してしまふんだ。素朴人ならそこらで芝居と本心とがごつちやになつてしまふんだ。ところで、ところで、君、君は自分でちやんと自分の芝居を承知してやつてるんぢやないか。何故なら君みたいな自意識をいつぱい頭につめ込んだ男に、自分のお芝居くらゐ気のつかない奴がゐるもんか。君の話振りで俺はちやんとそれに気がついた。君が何故そんな芝居をうたなくちやならないか、判るさ。そんなことは俺にだつて判る。社会意識といふ奴だらう。君がさつき言つた、歴史の進歩に参加するつて意識さ。しかしいきなり、直接に参加するのは危険だからね。だから君はどうにもしやうのない情勢つて言葉を発見して置いて、その上で君はその大切な意識を燃やしてゐるんだ。その方が芝居としては深刻だよ。しかもどうしやうもない情勢だから君の身には、たとへ人を車で轢き殺しても危険はないさ。自分の首が斬られるか、他人の首を斬るか、誰だつて他人の首を先に取らうとするんだ。君の本心は歴史なんか少しも進歩しなくつたつて構やしないんだ。ただただ君自身が平和でありさへすればいいのだ。」
「それぢや君は、凡ての思想は虚偽だつて言ふのか。そりや君の言ふ通り人間の本能といふものは醜悪で自我的で、他人を守るよりも先づ自己の武装を整へようとするだらう。しかし君は人間の醜悪が、さういつた悪が、何時までも地上に存続することを望んでゐるのか。僕は少くとも、我々の内部にさうした醜悪を認めて、それと戦ふことを正しいとしてゐるんだ。」
山田はむらむらと湧き上つて来る怒気を鎮めながら、しかし興奮した声で言ひ放つた。辻は、さつきの興奮状態とは似ても似つかぬほど落着いて、冷然と山田を眺めてゐる。それは意地悪な、毒気を含んだ表情であつた。
「そりや君の言ふ通りだ。いや君の言ふ通りかも知れない。しかし要するにそれは君の自己弁護さ。その証拠に、君はお芝居をうつてるぢやないか。いや、芝居だけとは言はん、俺は今夜はなんでも言ふぞ、何もかも言つてしまふぞ、臭いものの蓋を俺はあけてしまひたいんだ。いいか、君はお芝居をうつ前に既に…………ゐるぢやないか、何故…………………。それほど………………持つてゐながら、……………………。僕の眼には……………………が映つてゐる。どんな………でも、たとへ…………………………………はなければならない、そんな理屈もあるさ。しかし理屈に過ぎないんだ。自己欺瞞だ。君が監獄の中で見たものは、まさしく運命といふものであつたんだ。その運命に翻弄される君といふ個人であつたのだ。君は自分の本心にそれがないつて言ふか。いや言はさないぞ。さつき君自身さう言つたぢやないか。君はその時自分が、それまでは社会的なものであり、社会といふ地盤の上に立つてゐた自分が、社会から断ちきれ、地盤はゆらいで崩れて、君は全くの、全然独りぽつちになつてしまつたのを意識したんだ。いや、意識なんてものぢやない、もつと深い、根元的な、それは肉体で、全身で直かに感じたんだ。感じたが、しかし君はその時すぐ顔を外向けてしまつたのだ。恐しいからな。実際、孤独を意識することは恐しいことだからな。顔を外向けたんだ。君のお芝居はその時から始まつたのさ。だから現在の状態で君が孤独だとか、苦しいとか言つたつて、そんなのは嘘だ。もし幾らかでも苦しいことがあるなら、それは自分のお芝居に気がついてゐるからだ。ふん、そんなのは贅沢つていふんだ。顔を外向ける場所があつたのだからな。抜路だよ、それは。君の場合には抜路があつたんだ。しかし俺の場合には抜路が一本もなかつた。ほんとに、文字通り、抜路は一本もないんだ。それは真暗な、長い長い、どこまで行つても果てのない隧道のやうなものだつた。さうなんだ。隧道よりももつとひどい。死ぬまで、死ぬまで果はないのだ。この真暗な中で、泣いたり喚いたりしてゐるだけだ。」
辻は突然言葉を切つた。毒々しい表情は何時の間にか消えて、なんとなく悲しげな眼ざしで山田を見上げた。語りぶりも初めのうちは山田に毒づいてゐるやうであつたのが次第にモノローグ化して行き、俺はこんなことを喋りまくつてゐるが、しかしこの俺は今後どうして行つたらいいのだらう、とでも思ひ迷つてゐるかのやうであつた。が、山田は聴いてゐるうちに次第に不愉快さが募つて、嫌らしいものを辻のうちに感じ始め、顔を見合はすのさへもいとはしかつた。辻は人間を二つに分けて考へてゐる、それは健康者と病人とだ。そしてこの男は健康な人間に対して本能的な憎悪を持つてゐる。山田はさう思つて、辻と自分との間には最早絶対に近づくことの出来ない裂目が出来てゐるのを感じた。この男に向つて自分の気持を理解して貰はうと思ひ、いい気になつてお喋りをした自分を考へると、彼はゐたたまれないものを覚えた。彼はもう一時も早く別れてしまひたかつた。が、辻はまたしても独言とも、山田に聴かせようともつかない調子でぶつぶつと呟き続けるのであつた。
「しかし、俺は人間を信じる。人間性を信じるよ。俺はあの療養所へ這入つて初めて人間に出合つた。人間はどんなに虐げられても、どんな屈辱を浴びせられても、決して心を失ひはしないんだ。いやさうぢやない、どん底に落ち込んだ時、初めて人間はその人間性を獲得するんだ。社会の奴等はみな宙ぶらりんでゐる。色んな自由や、色んな幸福が許されてゐるから駄目なんだ。そんなものを、そんな幸福や自由を全部、失つてしまつた時になつて、初めて人間は人間になる。それは我々にまつはりついてゐる下らんものが全部洗ひ落されるんだ。社会の奴等は苦しんだこともないくせに苦しんだやうな恰好をする。孤独になつたこともないくせに独りぽつちになつたやうな真似をして見る。愚劣だ。みな自己満足だ。だから彼等が癩病院にやつて来ると、どんな偉さうな連中でも化けの皮をはがされてしまふ。俺はさういふ風景を何度も見た。さうだ。俺は病気になつたが、ちつとも不幸ぢやない。俺は人間を信じてゐるから、生きることが出来るに違ひないんだ。人間が信じられないでどうして生きられるんだ。俺も初めのうちは毎晩社会の夢を見た。社会を憧れたんだ。しかしもうそんな夢なんか見やしない。俺はなにもかにもみな捨てちまつたよ。しかしそれが惜しいなんて思やしない。思ふもんか。俺は今後何年でも、あの世界で暮すつもりだ。それでいいんだ。どんなに苦しかつたつて、独りぽつちになつたつて、構やしない。俺は黙つて、独りでそれに堪へて行く。しかし、随分苦しいことだらうなあ……。」
辻はちよつと山田の顔を眺め、それから下を向いて黙り込んだ。今自分の言つたことをじつと頭の中でくり返してゐるかのやうである。それは堪へられない痛苦を眼の前に置き眺めながら、懸命に自分に向つて説き聴かせてゐるやうな工合だつた。
「おい、もう行かうか。」
と山田は我慢出来ない気がしてさう言つた。
「え?」
と辻はどうしたのかきよとんとした顔つきになつて山田を見上げた。頭の中に次々に浮んで来る想念に辻は我を忘れてゐたのであらう、瞬間辻の顔は白痴のやうに無表情になつた。が、突然はじかれたやうに立上つた。
「行くよ、行くよ。や、君、遅くまで、すまなかつたね。ほんとに。俺、何を喋つてゐたんだらう、なんだか、俺今夜はどうかしてゐる。どうかしてるぞ。さうだ、会計、俺する。」
おそろしく狼狽した調子で言ふと、彼は不意に顔を真赤にして夢中になつて部屋の障子をあけて慌しげに女中を呼んだ。
二人は広い路を駅に向つて歩き出した。もう夜はかなり更けて、人通りは殆どまばらになつてゐた。長い時間の割には酒量は少かつたので、二人共酔つぱらつてはゐなかつた。辻はむつつりと黙り込んで、何か深く考へ耽つてゐる。山田も、もう物を言ふのが嫌であつた。腹立たしく不快で、そしてみじめな気持でいつぱいだつた。俺はこの男に今夜は完全にやられた。
間もなく駅に着き、二人は電車ホームに昇つた。サラリーマン風な男が四五人、あちこちに散つて、ホームをこつこつ行つたり来たりしてゐるきり、乗客の影もなかつた。
「ぢやあ君、まあ体は大切にしてくれよ。そのうち訪ねるからね。」
と山田は嫌々ながら別れの言葉を述べた。こんな言葉を吐くのも彼には面倒くさいばかりでなく、今夜は不愉快だつた。と、辻は不意に手を差し出して山田の手を掴んだ。山田はびつくりして慌てて手を引込めようとしたが、仕方なく辻の手を握つた。相手の病気がぴんと頭に来ると共に、彼はひどくてれ臭かつた。
「俺、今夜、随分無茶言つたなあ。怒らんでくれよ、怒らんでくれよ。」
と哀願するやうな眼つきで言つた。
「うん、いいんだよ、そんなの。俺も色んなことを考へさせられた。又、機会があつたら出て来てくれ。」
嘘つき、と山田は自分の言葉を聴きながら思つたが、しかし辻の哀願的な言葉を聴くと妙に哀れつぽい気もした。これから癩病院に帰つて行かうとしてゐる辻を見ると、やはりなんとなく人生の侘しいものに触れる思ひがするのである。辻の孤独な姿を、薄暗い夜の閑散な駅頭に彼は初めて見たやうな気がし出したのだ。と、辻は不意にぼろぼろと涙を流し始めた。そして痙攣つたやうな声で、途切れ途切れに、
「判らん、俺、は、何もかも、判らん、判らなくなつてしまつた。ああ、どうしたらいいんだらうなあ……。」
しかしその言葉の終らぬうちに電車が来た。山田は、左様なら、と言つて乗つた。ドアがしまつた。山田は硝子越しにホームの辻に向つてちよつと手をあげた。辻は微笑しようとしたが、急にやめてしまつて、反対側の方へ歩いて行くのが見えた。なんだかよろけて行くやうであつた。
山田の電車が動き始めた時、辻の乗る電車が轟音を立てながら辷り込んで来た。とたんに山田は思はず、はつとして窓に手をかけた。恰度突立つた杭が倒れるやうに、向う側の線路にゆらりと倒れかかつた辻の体が、瞬間はつきりと山田の眼に映つたのである。
次の駅に電車が停ると、山田は慌ててホームに飛び降りた。電車を乗り換へて引返さうと思つたのである。しかし降りたとたんに彼はもう引返す気持がなくなつてゐた。頭蓋骨をめちやめちやにされ、その上胴体のあたりから二つに轢断されてゐるかも知れない辻は、血液と肉と、脳味噌とでぐちやぐちやになつてゐるに違ひない。彼はさう思ふともうむつと嫌気がさして来た。しかもその肉にも血にも病菌がうぢやうぢやしてゐるのだ。彼はなんとなく、腐敗した屍体を思ひ浮かべてならなかつた。それにもう死んでしまつてゐるに定つてゐるのに、わざわざ引返したとて何にもならないぢやないか。彼は屍骸にかかはりたくなかつたのだ。彼の乗つて来た電車は、一度に幾つものドアをしめて出てしまつた。彼は取り残された形で、暫くぼんやりとホームに突立つてゐた。
彼は急に半泣きのやうな微笑をにやりと浮べると、階段の方へのろのろと歩き出した。彼は自分の芝居気に気づいたのだ。もしさつき辻にかうした芝居気を嘲笑されなかつたら、図々しく引返して見たかも知れなかつた。勿論芝居気に気づかぬ振りをして──。しかし今はもうさうするのも不快であつた。彼は電車から飛び降りぬ先から引返して見る気なぞてんでなかつたのである。しかし引返さうといふ気の起つて来ない自分に気がつくと、なんとなく悪いことをしてゐるやうな気がし、今はびつくりして慌しく引返すのが人間として本当だと思つたのだ。するとそのとたんに自づと気分が慌しくなり、びつくりしたやうな工合になつた。その気持の波に乗つて飛び降りたのであるが、降りると同時に辻の血だらけになつた屍が浮んで来たのである。
彼はどこかで、独りで飲みなほさうと考へながら駅を出た。しかしものの半丁と進まぬうちに、もう一時も早く家に帰つて体を休めたい気持になつて来て、また駅に引返した。乗客は二三人しかなかつた。彼はベンチに腰をおろすと、何故ともなくぐつたりとした気持になつて、溜息に似たものを一つ吐いた。なんとなく行場の失せた、孤独なものを感じてゐた。妻の顔が浮んで来ると、頬桁を一つぴしりと張倒してやりたいやうな愛情が湧き上つて来始めた。ところで、辻のことだけは奇怪にもこの時すつかり忘れてしまつて全く浮んで来なかつた。時々ちらりとかすめることがあつたが、彼は急いで、本能的に心を外らした。
やがて遠くで電車の音が聴え出した。彼は立上つて、ホームの端に立つて待つた。今飛び込んでは少し早過ぎる、彼はふとそんなことを考へた。電車は徐行しながら、しかしかなりの速力で突進して来た。今だ、と彼は心の中で強く叫んだ。瞬間、重々しく線路を押しつけながら車体は静かに通過し、やがて停つた。彼はその黒い箱の下で胴体を轢断されて転がつてゐる自分の体を頭に描きながら、明るい箱の中へ這入つた。間もなく車輪は動き始め、彼は、なんとなくほつとした。もう凡て済んでしまつた、といふ感じを味ひながら、何故ともなく速力を計つて見る気持になつた。物質の運動といふものがこの時ほど頼もしく心地よかつたことはない。
アパートへ帰つて見ると、みつ子はもう頭から蒲団を被つて寝てゐた。おい、と呼んで見る気になつたが、すぐ面倒臭く思はれ出したので、そのままどかんと火鉢の前に坐つてバットに火をつけた。ひどく体が疲れてゐた。彼は仰向けに転がると、足を火鉢の上に乗せて、鼻から煙を吹き出した。辻は、しかし俺に会ふ前から死ぬ気でゐたのだらうか、それともあの駅に来て突然死ぬ気になつたのだらうか。さういふ疑問が浮んで来ると、続いて彼の身振りや表情や、言葉つきなどが次々と浮んで来た。ここが東京でないやうな気がする、とぴよこんと立上つて言つた時の、あの恐怖の眼ざしが浮んで来ると、山田は何か薄気味悪いものを感じた。彼は癩病院がどんなところであるか皆目知らなかつたが、何か真暗な、太陽の光線もささない、陰惨なものを感じた。辻は恐らくは俺に会ふ前から死のことを考へてゐたのに違ひない、と山田は考へた。彼はふと、自分の芝居気を突かれた時のことを思ひ出して、あれは結局辻が辻自身を突いた言葉に過ぎないのだと気づいた。また山田の……対して言つた言葉も、あれは山田の……に辻の心理を映して見ただけのものに違ひなかつた。しかしそこまで考へると、彼はもう辻のことを考へて行く気がなくなつてしまつた。なんとなく嫌気がさして来てならないのである。
「おい。」
と山田はみつ子を呼んで見た。返事がなかつた。彼はもう一度呼んで見る気がしなかつたので、残り少くなつた煙草をじゆつと吸つて火鉢に投げ込み、天井を眺めた。するとまた辻の姿が浮んで来て、もう線路の人だかりもなくなり、血は洗はれ、屍体はどこかへ運ばれてしまつたに違ひないと思つた。彼は人影のない夜の駅と、杭のやうに倒れかかつた辻の体とを描き出して見た。しかしやはりあいつは不幸な男だつた、しかしああなればやつぱし死んだ方が良かつたのだ。
「早く寝なさいよ、何やつてるの。」
とみつ子が不機嫌さうに蒲団から顔を出して言つた。と、どうしたのかむつと山田は怒りを覚えた。それを押へると、また俺は人を一人殺した、と言ひたくなつて来たが、今夜はもうやめにした。さう言つて彼女の不機嫌を一撃する効果を感じてゐる自分を意識したためだ。彼は寝衣に更へると、また火鉢の前に坐って新聞を展げて見た。彼はこんな夜は一人で寝ることが出来たらどんなに良からうと思つて、誰か自分の横に人間のゐることがうるさくてならなかつた。
「何やつてるのよ。」
とみつ子はかん高くなりながら言つた。
「新聞読んでるんさ。」
「早く寝たらいいぢやないか。」
「…………」
「よう、今幾時だと思つてるの。」
「うるさいね。」
「寝なさいよ。早く。」
「静かにしろ。」
するとみつ子は不意にしくしくと泣き始めた。山田はふと今朝のことを思ひ出した。今朝彼女はしつこく山田に花見に行つてくれと奨めたのだつた。山田は花見なぞ行つても行かなくてもいいと思つてゐたのであるが、あまりしつこく言ふので腹も立ち、どんなことがあつてもあんな連中と酒なぞ飲まん、と断言したのだ。彼女は勿論夫が会社の連中と折合ひの悪くなることをひどく恐れてゐたのである。
「おい、もう泣落しの手なんぞ古いそ、ドイツ人には効目はあるかも知れんがね。」
と山田は笑ひながら言つた。が、言つてしまつてから、言ふのぢやなかつた、と思はれ出した。彼は今までも妻と口論する度にこの言葉を思ひ出してたが、これだけは口に出すのをやめてゐた。なんと言つても、この言葉は彼女の第一の急所であり、疵口であつたのだ。彼女の今の生活態度が如何に愚劣なものであるにしろ、その必死な気持だけは掬んでやらねばならぬものがあると山田は考へてゐた。もつとも山田は彼女の気持とは反対ばかりの行動をとり、ともすればその必死な気持をからかつて見たくなるのであつたが、その疵口だけはいたはつてやつてゐたのだ。
みつ子は突然がばとはね起き、激しく泣きじやくりながら言ひ出した。
「嘘つき! わたしと一緒になる時なんて言つたの、あんた、なんと言つたか思ひ出して見い。結婚することはお互に高まることを前提としなければいけない、そして、結婚することによつて共同に戦ふことだつて言つたぢやないか。何時お互に高まるやうなことをしてくれたんだ。何時共同になつて戦つてくれたんだ。何時だつてあんたは、わたしの気持を踏みにじつて来たぢやないか。わたしが一生懸命になつて生活を持ち直さうと考へてゐるのに、あんたはそれを毀すことばかりして来たぢやないか。少しはわたしの気持だつて判つてくれたらいいぢやないの。」
「へえ、そんなことを言つたことがあつたかね。」
と山田は苦笑しながら言つた。
「なに言つてるんだ、とぼけて。またからかつてるぢやないか。何時だつてあんたはそんな調子よ。」
「そりや勿論今だつてその言葉を信用するよ。しかしだ、いいか、まあさう腹ばかり立てないで聴け、いいか、そんならお前一度くらゐでも俺の気持を判らうとしたことがあるか。」
「そんならあんた一度でもわたしに自分の気持を教へてくれたことがあつたの。」
「大有りさ。二日前の晩だつてあの通りぢやないか。少々てれ臭いのを我慢して、しかも具体的に俺の行為と心理を平行させながら話したくらゐぢやないかね。それをお前は、理解出来なかつただけさ。或は理解しようとする気がてんでなかつたんだね。」
「あれはあんたが勝手に独言言つたんぢやないか。」
「さうか、そんならもういい。」
「駄目駄目。あんたがよかつたつてわたしがいけない。今夜はどんなにしたつて形をつけて頂戴。」
「かたを? ふん、ではお前はお別れになりたいのかね。はつきり言へ。」
山田は自然と声が鋭くなつた。みつ子は叫ぶやうに言ひ出した。
「何時、何時別れてくれつて言つた、何時別れてくれつて言つたんだ。あんたが、別れたいからそんなこと言ふんだ、そんなこと言ふんだ、そんなこと言ふんだ。わたしを、わたしをばかにしてるんだ。」
が、そこまで言ふと咽喉がつまつて、うううといふやうな声を出して眼からぼろぼろと涙を落した。彼女は無意識的に蒲団の端を両手でしつかり掴んで、手放しで泣いてゐた。山田には勿論女の気持なぞ判り切つてゐた。形をつけてくれとみつ子が叫んだのも、勢余つて辷つた言葉である。とは言へ、かういふ言葉を辷らせるからには、彼女の中にかういふ言葉を辷らせる動機、即ち別れたいといふ気持も時には起るのであらう。しかし別れた後をどうするか、これが彼女には不安なのだ。それに彼女は山田といふ男がなんとなく好きなのだ。彼女は以前のやうな山田、情熱的で、意志的で、どこから見ても頼もしく輪郭の鮮明な山田を眺めて、以前のやうにうつとりとした気持が味ひたいのだ。しかし山田はにやにやと笑ひながら、なほ意地悪く訊いて見た。
「しかしお前形をつけるつてことは、さう考へるより考へやうがないやうな気がするがね。」
「勝手にせえ、そんなに別れたかつたら別れてやる、別れてやる。あ、あ、今まで人をさんざん苦労させて、くやしい。別れたら首を縊つて死んでやる。わたしが、あんたがゐないあとでどんな気がして、どんなことしてゐたのか知つてゐるんか。」
「首を縊るより鉄道自殺の方がいいよ。」
と山田は何故ともなく言つた。
「鉄道なんかで死ぬもんか、どうしても首を縊るんだ。あんたがゐないあとで、わたしがどんなことしたか……。」
「そんなに首を縊りたけりやそれもいいさ、無論俺は、留守のうちにお前がしたことなんか知らんね。」
「死なうとしたんだぞ。」
「ほう、なるほど。しかしまだ生きてるぢやないか。」
「からかふない。本気に死んでやるつもりだつた。ああ、あの時死んどけばよかつた。」
とみつ子は身をもだえるやうにしながら涙を手の甲でこすつた。山田はもう面倒くさくなつたし、それにさつきからまた辻のことを思ひ出し始めてゐたので、黙り込んだ。なんといふ愚劣なこと、と彼は、今自分のみつ子と争つてゐる姿を横合から眺めるやうな気持で呟いた。彼は、彼を押し出さうとするみつ子の両手を片手に掴んで、無理に床に這入り蒲団を被つた。そして大きく一つあくびをすると、
「喧嘩はまた明日続きをやるとして、今夜はもう睡いよ。」
と言つて眼を閉ぢた。彼は実際ひどく睡気が襲つて来るのを感じた。
「睡るもんか、睡るもんか。」
と彼女は言ひながら、山田を蒲団の外へ押し出さうとした。しかし山田を力まかせに押すと、彼はちつとも動かず、反対に彼女の体が後ずさつてしまふのでよけい腹が立つた。それで山田の首に腕を巻きつけると、一生懸命に締めつけ始めた。山田はじつと眼を閉ぢたまま、次々に浮んで来る辻の姿を追つた。辻が倒れ込んだ駅の仄暗い閑散な風景を思ひ出すと、なんとなく侘しいものを感じた。辻は死んだ、しかし俺は生きてゐる、どつちがいいか判りはしない、そして生きてゐる俺は、こんな愚劣な生活を今後何年も何年も続けて行かなければならない、と彼は辻の口調を真似て考へた。しかしこれに堪へて行くより致方もないのだ、ただじつと堪へること、………………兎に角、じつと堪へること。ただそれだけでも並大抵ではない、そしてただ堪へて行くだけでも貴いことかも知れぬ。………………………………………のは愚劣だと辻は言つて死んだが(辻はそれをなんと言はうとも捨て切れなかつたのに違ひない)しかし今はじつと寝かせて……てゐるだけでも貴いのだ、自分の………………………であつた、辻の言つたやうに、たしかに自分は自分といふ個人の運命的な姿を見た、しかしそれだけが……の全部では決してない、がしかし……………なのだ、ただじつとあの…………………………、自分の個人の運命に堪へて行くことそれが最も正しかつたのだ、もしあの………………………、……………………しなかつたら、もつと今の…………は異つてゐたかも知れぬ、いやそれが異らないにしろ少くともあの…………………………………がもつと多いに違ひない、……………によつて社会はあの……………………なつたのはたしかだ、とは言へそれは凡て過去のことだ、……………………………それ以外に一つもない──。そこまで考へた時、頭のどこかにちらりと、妥協はないか、といふ言葉がひらめいたが、
「うるさいぢやないか!」
とみつ子に向つてどなりつけた。
「な、なにがうるさいんだ。」
「うるさい、ばか!」
激しい忿怒が湧き上つて来るのを山田は押へながら、
「静かに寝ろ。」
「寝るもんか、寝るもんか。」
とみつ子は一度横たへた体をまたはね起きて坐つた。
「なぐるぞ。」
と山田は思はず声が荒くなつた。
「なぐれ、なぐれ。ええ、くやしい。」
その時山田は突然辻の冷笑した顔を思ひ出し、胸の中が焼けるやうな気がして平手が飛んだ。みつ子はわつと泣声を立てながらむしやぶりついて来た。山田はむつくり起き上ると女の首にぐつと腕を巻いて引き寄せた。みつ子は足をばたばたさせながら身をもがいた。山田は怒りと愛情とのごつちやになつた気持で、首に巻いた腕に力を加へ、激しく締めつけた。瞬間みつ子は山田の顔を見上げるやうにして頬に微笑に似たものを浮ばせたが、急にさつと恐怖の色を浮べると、う、ううと息をつめてもがいた。山田の顔に浮んだ奇怪な憎悪と愛情とのもつれた表情に、彼女はぞつとした。彼女の眼からはもう涙も出てゐなかつた。彼女の表情は恐怖にこはばつてしまつたのだ。彼女は夢中になつて首に巻かれた男の腕をもぎ放さうとしたが、山田の腕は荒繩のやうにしまつて固かつた。彼女がやがてぐつたりと力が抜け始めた。
山田は、はつと電気にでもかけられたやうに腕を放すと、
「みつ子、みつ子。」
と叫んで肩をゆすぶつた。瞬間みつ子は放心したやうな表情でぼんやり山田を見つめてゐたが、突然はじかれたやうに一尺ばかり後へ辷り退ると、蒲団に顔をうづめ、声も立てずにしくしくと泣き始めた。山田は妻を眺めながら、今の自分の気持を彼女に説明し、納得させることは不可能だと思つた。なんとなく暗澹としたものを覚え、自分も泣いて見たかつた。彼は黙つたまま彼女を抱き寄せると、
「寝なさい。」
とささやくやうに言つて、自分も頭から蒲団を被つた。なんだか涙が出て来そうであつた。今泣かなければ、俺はもう生涯泣くことすら出来なくなる、さういふ考へが自然と頭に浮んで、彼は悲しみの高まつて来るのを待つやうな気持であつた。
底本:「定本 北條民雄全集 上巻」東京創元社
1980(昭和55)年10月20日初版
初出:「中央公論」
1938(昭和13)年4月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※促音「つ」と「っ」の混在は、底本通りです。
入力:Nana ohbe
校正:富田晶子
2016年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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