月日
北條民雄



 一歩一歩注意深く足を踏みしめて、野村は歩いた。もう二年間も埃芥にまみれて下駄箱の底に埋もれてゐた靴であつたが、街路を踏みつける度に立てる音は、以前と変りのないものであつた。電車、自動車、馬車、その他凡ての都会の音響が、盛り上り、空間を包んで野村にぶつかつて来たが、靴音はやはり足の裏で小さく呟いて、彼の体を伝つて耳許まで這上つて来た。野村は今かうして自由に街を歩き廻つてゐる自分を考へると、解き放たれた、広々としたよろこびを覚え、大きな呼吸を幾度も続けざまにやつて見た。

 夕暮だつた。四季のない街ではあるが、それでも店々には秋の飾りつけがしてあつた。太陽の落ちたばかりの街路は、まだ電光に荒されないで、薄闇が路地から忍び出て来た。

 野村はふと立停つた。巨きなビルディングの横だつた。細い小路が建物の間を暗い裏町に抜けてゐる、その角に、彼は立つて、

「かういふ所でも蟋蟀がゐるだらうか?」

 つまらないことだと思ひながら、やはり彼はさういふことを考へた。黒い芥箱が一つ立つてゐて、紙屑や破れた草履が箱の周囲に散らばつてゐた。

「ひよつとすると一匹くらゐは住んでゐるかも知れない。」

 しかしすぐそれが馬鹿げた考へであることに彼は気づいた。そして淋しく思つた。蟋蟀がゐないといふそのためではなかつた。街の真中に立つて、こんなことしか考へなくなつた自分が、完全に社会の動きから遊離してしまつたのに気づいたからだつた。

 彼は三年間の生活を考へて見た。癩にかかつて以来、草深い療養所で送つたその月日は余りにも彼自身には深刻な、そして社会にとつては無意味な苦しみの日々であつた。そこには日毎に朽ち果てて行く不治の病者が、なほ残された個我の生命力に引きずられて、陰惨極まりない生活を描いてゐる。そこに投げ込まれた野村にとつては、それまで持ち続けた思想的支柱も意慾も、濁流に呑まれた木片程に無力であつた。勿論激しい苦悶であつた。苦闘であつた。けれど結局は、流されたうきぐさがその漂着した池に落ちつき、白い根をおろすやうに、彼もやはりこの灰色の病者の世界に根をおろし、日々を生きて行かねばならなかつた。

「廃兵。」

 そしてこれに満足しようがすまいが、それは問題でなかつた。さうなつた事実はもうどうしやうもない。

 彼は急ぎ足に歩き出した。今夜の十時までには療養所に帰らなければならない。家事の整理、といふ名目で一週間だけ療養所から解放された、その最後の日であつた。

 彼は病気のことを考へた。この執拗な業病は勿論不治に定つてゐる。けれどまだそんなに重病者ではない。まだ三年や五年この社会で暮しても誰も怪しみはしない。そして今自分は街の真中に立つてゐる。療養所へ帰るか帰らぬか、これは自らの意志の自由である。逃走するならば絶好の機会である。

「兎に角Hの家を訪ねてみよう。」

 さう思つてS駅へ這入つて行つた。Hは古くからの友人である。野村が病気になる前に獄に下つた。それ以来音信が絶え、僅かに新聞で消息を窺ふよりなかつた。Hの家には若い妻君がHの出獄を待つてゐる筈である。

 電車は大崎警察署のすぐ真上を走つた。野村は窓から首を出して眺めた。留置所が見え、鉄格子の這入つた小さな窓が眼に止ると、一瞬で後方に退いて行つた。Hの妻君はこの留置所で半月程暮したことがあつた。その時はまだHの妻君にはなつてゐない恋愛時代だつた。野村とHはすぐ近くの無線会社で潜行運動を続けた。彼女はこの会社の女工であつた。そしていよいよ火蓋が切られようとする時Hは捕へられた。野村は逸走した。女工達は二十名近く珠数つなぎにされた。

「あたし達毎日寝そべつてばかりゐたのよ。一度みんなで三・一五を歌つたら、廊下に引き出されて、そこの板間で五時間坐らされたつけ。女の房は畳敷きだからよ。それで肚が立つてハンスト始めたけど、三日でやめたわ。だつてお肚が空いてしようがないんだもの。」

「ふん、情けないクララ・ツェトキンだなあ。」

「小さな窓があるのよ。そこから見ると、すぐ真上を高架線が走つてるの。青い空が四角に見えるけれど、電車が通る度にふさがれて、部屋の中がちよつとの間暗くなるの。電車の胴体が、こつちへぶつかつて来るやうで、胆が冷々したわ。」

 Hが出て来るのは遅かつたが、その後三人が会ふと、彼女はよくかういふ冗談を言つた。間もなくHと彼女は結婚した。二人の新しい家は、野村等の地区のアジテーション・ポイントとなつた。一週一回づつ研究会が持たれるやうになつて、文章家の彼女は、その記事を機関紙に載せた。機関紙からは鮮人の北が来て、その研究会をリードした。鋭い男、として今でも野村は北を思ひ浮べることが出来る。北は何時でも黒い学生服を着て風のやうにやつて来た。もう三十四五にはなつてゐるらしかつたが、誰の眼にも二十六七にしか見えなかつた。少年のやうに若い闘志に満ちた眼が、みなにさう思はせるのだつた。がそのうち、北はふつつり姿を消してしまつた。やられた、と誰も信じた。勿論新聞などに出よう筈もない。その後来た男も北のことについては一語も語らなかつた。みんな北の事を気遣ひながら、黙々と研究会を続けた。

 さうした過去のことを思ひ浮べながら、野村は、電車を降りると、明るい通りを横切つて行つた。Hの家までは四五丁も歩かねばならなかつた。或る肉屋の前まで来て、野村は思はず立停つた。こま切れか何かの小さな包みを抱いた若い女が、店から出ると、すぐ野村の前を通つて行つたからだつた。つつましく白い前掛に体をつつんで、安月給取りの妻君らしく、夕暮の街をちよこちよこと暗い小路に消えて行つたが、それが、Hの妻君にそつくりだつた。おや、と野村は半ば自分を疑ひながら、しかしやはり彼女に違ひなく思はれた。野村は急いで小路を彼女の後を追つて這入つた。がらりと硝子戸の開く音がして、彼女は長屋の一つに消えた。野村は注意深くその家まで来ると、標札をすかして見た。街燈に照された文字は、彼の記憶にない新しい名前だつた。彼はもう一度肉屋の前で見た女の姿を入念に思ひ浮べて見たが、彼女のやうに思はれる半面に、さうでないやうにも思はれた。

「やつぱり彼女ではない。そんな筈があるものでない。あの聰明な女が、あんな平凡な姿になる訳はない。」

 彼はそこを離れると、何にしても早くHの家まで行かねばならぬと考へた。

 しかしそこでも彼は失望した。特にアジトとして選ばれたHの家は、曲り曲つた袋小路の奥で、しかも平屋の一戸建だつた。その前に彼は立つたが、斜に貼りつけられた貸家札が、黒く風雨ににじんでゐた。彼は裏へ廻つて見た。水道の来ない時からあつた井戸が、そのままあつた。その井戸でよく面を洗つたものだつた。Hの妻君が白い両腕に力を入れながら、重いポンプを押したものだつた。水は何時も赤いおりを沈めてゐたが、指の切れるやうに冷たかつた。裏口の戸を二三度押して見たが、堅く釘づけにされてゐた。横の小さな庭を覗いて見ると、枯れかかつた柿の木が葉をふるつてゐた。まるで冬のやうだつた。

「ふうむ。」

 と感慨深く吐息をしながら、ではやつぱりさつきの女は彼女だつたのだらうか、と又疑はしくなつて来た。だがHはどうしてゐるのであらう、まだ獄中にゐるのだらうか。彼は不安になつて来た。夫を獄に送つた後で妻君が他の男に走つたり、或は闘志をなくして姿を消したりすることは、もう常識的な程幾度もくり返された事実である。

 取りつく島を失つた思ひで、野村はことこととそこを出た。

「あの、ちよつとお伺ひしますが──。」

 その時不意に彼にさう声をかける男があつた。その男は急ぎ足で近よつて来ると、

「Hさんは、どちらへ引越しなさつたでせうか?」

 さう言つて野村を覗き込んだ男は、北だつた。

「北、さんぢやないですか、僕、野村です。」

 幾分声をはづませながら、野村は言つた。北はひどく驚いたやうだつた。二人は暫く言葉もなく向ひ合つてゐたが、やがて肩を並べてそこを出た。明るい通りに出て北を見ると、乞食のやうに薄汚れてゐた。鬚が顔中に生えて、やはり以前と同じ学生服を着てゐたが、袖口はもう破れてゐた。あの美しかつた眼も、今は濁つて、唯嶮しい鋭さが残つてゐた。

 二人は小さなバアに這入ると、向ひ合つて坐つた。北は二三日前出獄したばかりだと言つた。彼は勿論Hやその妻君の行動は何一つとして識らなかつた。野村はさつき会つた女のことを話した。

「或はさうかもしれない。」

 と北は言つて、口をつぐんだ。北は痩せて以前よりずつと骨ばつてゐた。二人は黙つたまま時を過した。渦のやうに言ふべきことが頭の中にありながら、親しく語り合ふことが出来なかつた。もう今では、手を握り合つて同志と呼ぶことがなんとなく憚られた。野村は自分のことを何一つ語らなかつた。北も又さうだつた。お互に顔をつき合はしてゐながら、別々のことを考へた。お互に無関係な三年間の月日に受けた苦悶の痕が、まだうづいてゐた。二人共、以前と違つた貌になつてゐた。

「僕は、戦ひますよ。どこまでも、戦ひますよ。」

 と北は言つて立上ると、そのまま、暮れた街の中へ消えて行つた。野村はじつと見送りながら、それもはや自分から遠い世界の人に思へた。その鋭い言葉も、何処かヒステリカルな痙攣に聞えた。野村は静かに勘定を済ますと、街へ出た。ことことと呟く靴音が、やはり親しい唯一つのものに思へた。

──一九三五・九・一五──

底本:「定本 北條民雄全集 上巻」東京創元社

   1980(昭和55)年1020日初版

初出:「北條民雄全集 上巻」創元社

   1938(昭和13)年425日発行

入力:Nana ohbe

校正:富田晶子

2016年725日作成

2016年816日修正

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