市街を散歩する人の心持
木下杢太郎
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東京の市街を、土曜日の午後あたり、明日は日曜だといふ安心で、と見かうみ、ぶらぶら歩るくほど楽しみなものはない。たとへば神田の五軒町あたりは、広い道の両側に柳の並木、日にきらめける鉄条の上をけたたましい電車の嵐、と思つて一寸道傍の店先を覗くと赤く汚れた温い硝子戸を越してお七、吉三の古い錦絵、その隣を乳房をあらはに髪を梳る女、銘は何れも歌麿筆としてある。
全体が青い調子の横に長い方形の景色絵がある。広重といふ落款で鳴海の景とある。代赭の色の、はた白に浅葱の縞模様、特産の鳴海綾は並び立つ太物屋の軒に吊り下つてゐる。その前の街道をば荷を付けた馬が通る。旅人めく一群の人が通る。
古い錦絵の包蔵した情調は音楽の如く散歩する人の心を襲ふ。一種の譬へ難き哀愁が胸の底に涌く。その絶ち難い愛着を捨てて猶も歩を進めてゆくと、思ひがけなくも一列の赤い郵便馬車の駆け来るのに出遇ふ。今得たまどかな気分は忽ち破壊せられたので、不安の眸を放つて、市街ををちこちと見廻はしてゐると、斜日に照らされて、夢の如く浮び出てゐるニコライの銀灰の壁が目に入る……神田の古風な大時計がぢん、ぢん……と四時をうつ。
──かう云ふ平坦な記述が他の人人にも興味があるかどうだかは知らない。併し自分には東京の景物ほど心を引くものはない。それも単に視覚と、聴覚と、或は空気の圧迫に感ずる触覚と、偶は又、日本橋、殊に本町、大伝馬町にきく酢酸、塩素瓦斯、ヨオドフオルム乃至漢法方剤の怪しい臭ひ、九月の頃にはまた通一丁目、二丁目辺、長谷川町の辺にきく、問屋に出始めた冬物の裏地のにほひ──是等のいろいろの匂ひに感応する嗅覚といふやうなものの方面から見てである。
かくして市街の散歩者は二時間、三時間の漫歩の間に官能の雑り織る音楽を味ふ事が出来る。──
自分は今心が惑ふ。九月の朝の日比谷公園の印象を語らうか。或はそこの八月の夜を描き出さうか。或は更に興味ある秋の夜の銀座裏町の生活を語らうか。それとも春雨頃の、沈んだ三味線の音のやうに淡く寂しい深川の河岸の情緒を語らうか。
嘗つて自分が永井氏の「深川の唄」を読んだ時、このさとの哀れ深い生活が氏の豊麗な才筆に取り入れらるるといふ事を如何に喜ばしくも亦妬ましくも感じたつたらう。かの同盟罷工の一揆のやうに獰くむくつけき文明の侵略軍の、その尖兵にもたとへつ可き電車さへも、この里には、高橋より奥には寄せて来なんだ。だからあの不動様にも、昔のままに奇しい蝋燭の火が点つてゐる。ここの娘たちは冬にも足袋をはかぬ。まだ広い黒繻子の襟をかけて居る。濃い紫の半襟をかけてゐる。赤い手がらをかけてゐる。昔の芝居によく出たやうな深川の質屋も、材木屋も、石材問屋も、醤油屋の低く長い蔵の壁も昔のままに沈黙してゐる。さうして考へて居る。悲しんで居る。縁日にはまだ覗き機関が哀れな節を歌つてゐる。阿呆陀羅経が人を笑はしてゐる。──
ある午後、自分は云ひ難き憂愁に襲はれて、独り寂しく深川の小溝の縁に立つた。不動様の裏手に当つて居る所であつた。
春の日の午後三時は油の如く静かであつた。細い雨もしばし途切れて、空の一部には雲の色が黄色になつた。向ふ岸の家の軒には、一面の材木、中にも新しい檜はかの甘い匂ひを春の重い空気のうちへ流すかの如く見えた。黙つて水の面を眺め乍ら、自分は向ふ岸の新しい二階から漏れる長唄の三味線の音を聴き澄んだ。単調な絃のリズムが流れまた淀む。子供にでも教へて居るのかしらん、時々同じ節を繰り返す。蒸すやうに温い──また柔かな頸に圧されるやうに重い春の午後の空気のうちに、自分は夢みるやうに、一種の軽い疲労を感じながら、耳に来る節々に少さき時への聯想、まだ残つてゐる昔の空想を一々結びつけてゐた。
忽ち自分の後ろから女の人が来た。(こゝはまた渡し場であつた。)黒い襟に、赤つぽい唐桟の袢纏を着た若い女が渡し場の桟橋の端に立つた。女は軽く両手を挙げる。さうして人を招くやうな手付きをして、かの三味線の方角に呼びかけた。
「ちよいと、ちよいと、もし。」
女は宛もない人を呼ぶ。
「ちよいと、ちよいと、あのね、敷島を一つ。」
自分が──宛もない──と思つたのは間違であつた。三味線の二階の下の店からは(そこは渡し舟の賃を取る所だつた。)急に人も見えないのに返事が聞こえた。
「二つですか?」
「一つ!」
「お釣りぢやあ無いんですか?」
「二銭!」
と高く答へた。まだ敷島が八銭の時であつた。
少時らくして年老いた男が客を一人載せて渡し舟を突いて居た。釣と煙草を女に渡して、それからまた、もうそこに集つてゐた二三の客をまた舟に載せて岸を離れた。その時自分も、昔の浄瑠理に出さうな舟にのつて、眠むたい三味線の音律をきき乍ら老人に竿を突かして、薄きカアマイン色に曇つた春の空気を岸のあなたに渡つた……
人は屹度こんな筋もない話を笑ふであらう。然し鋭敏な官能で、且近代の芸術に慣れた人の空想力はよく自分の不十分な描写を補つて呉れるのであらう。自分は安んじて更にまた話を続ける。
ああ自分はどうかして、せめてはかの日比谷公園の九月下旬の曇つた朝の枯草の匂ひを形容して見たい。柵で囲まれたやや広い方形の園の中には、秋のやや黄ばんだ雑草が思ひ思ひの空想に耽つてゐるやうに匂つて居た。昔の黒田清輝先生のスケツチに屡く見られたやうな、光線の為にコバルト色に輝いて居る一群の草刈女が、絵の中でのやうに草を刈つてゐる。刈られた草は山に積まれる。日は司法省の屋根の上に出てゐるのだから、柵に立つてゐる人には、枯草の、日を受けない陰の一面が見える。枯草の山の周囲の縁は黄金色に輝いて居る。陰になつた部は、言葉では到底形容の出来ない色に曇つてゐる。せめてあの色調──あの枯草の束だけでも、心ゆく許りに、日本の油絵の上に見たいと望まずには居られなかつた。
司法省、裁判所が日かげになつて漠々と紫色に煙つて居るのも美しい。その下の一列のポプラスの梢の蛍のやうな緑金色の輝きも心を引く。殊に目の前に、柵に沿うて横はつてゐる木は、漆に似て更に細かい対生葉を有つてゐたが、黄いろい枯葉を雑へた枝ぶりは絵画的に非常に心地がいい。丁度中から出て来た園丁に其名を尋ねたら「しんじの木つてえです。」と答へた。
草の中に子供が遊んでゐる。白い蓋をした揺籃車の中に嬰児が眠つてゐる。遠い小丘の下に盛装した一群が現はれた。──凡ては秋の朝の公園の印象を語るに適当な材料であつた。自分は油絵かきにならなかつたのを悔んだ。
唯出来る丈長く此印象を銘じて置く為めに、自分は友人を拉してその近くの料理屋の二階に登つた。さうして重い緑色のペパミントと濃い珈琲とを併せ飲んだ。欄千の日差はやがて正午に近いといふ事を知らした。
「では皆さんに申上げますが、之は私の長男です……」階段に下りかかる時、葦簾の襖を隔てた隣室からかう云ふ言葉を聞いた。そこには本郷座的に礼装した一群が卓を囲んでゐた。高い島田を結つた女の後姿も見えた。年とつた男の人が今立ち上つて若い人を紹介する所だつたらしい。そんな声を聞きながら、自分等は再び外へ出た。
人は沈黙してゐる。足の爪先に病でもあるやうに、じつと物うれはしげに地の面を眺めてゐる。そこには海底のやうに緑い弧灯の波をうけて、白と紅との芙蓉の花が神経的に顫へて居た。
星のない八月の夜は暗かつた。どことなしに、然し、なつかしい夏の夜の光がおぼめいて居た。
噴水の夜の音楽。
暗く、陰鬱に、しかも懐しく悲しい水の曲節は、たとへば、西洋楽を聴くに熟せざる吾等若き東洋人がチヤイコウスキイの夜の曲のロマンチツクな仏蘭西的魯西亞的旋律をきく時に、どこかの国が、はたその国、その国民の烈しき情緒生活が音楽の後ろにかくれて居るとは感じながら、遂に其本体を摸索する事の出来ないやうな覚束ない心持を、池を囲む人に、女に、また青きポプラスの並木に、柔らかき夜の空気に起させて居るのであつた。
調和を失せる痛ましい日本が、一方に勤倹尚武を鼓吹しながら、同時また恁んな近代的情調を日比谷公園裏に蔵して居るといふ矛盾を笑はずには居られなかつた。
共同ベンチに腰を掛けた一群の人はどういふ感じを持つてゐるか、自分は切に知りたかつた。ここは義太夫のさはりに、新内に、宇治は茶に習ひ得た美的需要を満すに適する所ではなかつた。
高く昇る水は夢の如く白く、滾り飛ぶ水滴は叙情詩の砕けたる霊魂のやうに紫の街灯の影を宿して、さやさやと悲しく池の面を滑つてゐた。
その前に、美的趣味に於て亡国の民は黙々として、足の指先の病を憂へるやうに、俛首れて不可思議の音楽を聞いてゐた。
自分は八月の或夜日比谷公園を歩るいて、恁う云ふ光景に出遇つた事を覚えてゐる。
数寄屋橋を渡つて銀座の通りに出ると、そこはもう夏の夜の、涌くが如き歓楽の叫びにふるへて居た。
自分は銀座の通りの雑踏を思ふごとに、その横町で或秋の夜偶然出遇つた一事を思ひ出さずには居られない。──
其夜も、自分は古い妄想に沈みながら路上を漫歩してゐた。その妄想といふのは、どうしたら今の日本に於て、自分等の一生のうちに、心から満足するやうな趣味の調和に会する事が出来るだらうかといふ疑である。自分はもう雲舟や、芭蕉や、寒林枯木や、寒山拾得で満足する事は出来ない。それかといつて西洋風の芸術はどうしても他人がましい。中村不折氏、橋本邦助氏等が新芸術、綱島梁川氏海老名弾正氏等が新宗教でもまだまだ満足は出来ぬ。して見ると今の世は渾然たる調和を望む事は到底不可能の時世である。フイヂアス、パラヂオ、ゲエテエ等が時では無い。サン・ペトロ・ジヨオルジヨオ、フアウスト等の生る可き世では無い。──結局自然主義の世だ。印象主義の世だ。成程自分等に、黒衣の男子と、白裸体の女子とを配する「草上の朝餉」(Maneţ Le Déjeuner sur Íherbe)の趣味が興味のあるのも無理は
無いのだ。
調和せざる事象に、時代錯誤に、溝渠の上なる帆を張りたる軍艦に、洋館の側に起る納曾利の古曲に、煉瓦の壁の隣りなる格子戸の御神灯に、孔子の尊像の前に額づくフロツクコオトの博士等に──是等の不可思議なる光景に吾等の脳髄が感ずる驚駭を以て自分等の趣味を満足して置かねばならぬ。
かう云ふ粗い対照なら東京の市街にいくらでも転つてゐる。現に此、銀座街頭の散策の間にも自分は出遇つたのであつた。そこは丁度地蔵さんの縁日だつた。道の両側には、折柄の菊の花売がカンテラの陰で白い花に水を灌いでゐた。盲目の三味線弾は自分の足場を一所懸命で捜して居た。ふと気付くと月の良い晩だ。而かも沛然たる一雨のあとで、煙草製造工場の屋根が銀碧の色に輝いて居た。工場の屋背にはまた半球形の円頂があつた。それが月の陰になつて暗い紫灰銀色の空気に沈んでゐる。この珍らしい光景をみると、自分は、一体どこの国へ来たんだい! と怒号つてやりたくなつた。
街道の舗石の上に一団の黒い人群が居る。街頭の謳者を行人が取り囲んだのであつた。
〽高等女学校のスチユデント、
腰にはバンドの輝きて、
右手に持つはテキストブツク、
左手にシルクアンブレラア、
髪にはバツタアフライ、ホワイトリボン……」
自分は亦此処にも日本らしいからぬメロデイを聞いておやおやと思つたのある。若し自分が威尼西亜のカナアルの縁をでも歩いてゐるのなら、そこに恁んな節を聞かうとも、乃至はアリオストオ、タツソオ等が古き朗詠を聞かうとも、此時のやうな不可思議な感じは抱かなかつたらう。併し自分は今東京を歩るいて居るのだ。河岸縁には鍋焼饂飩がぱたぱたやつてるではないか。煉瓦の壁の側の瓦斯灯には松葉の輪に「歌沢」とちやんと書いてあるではないか。こんな「髪結新三」的情調へあんなべらぼうなバツタアフライ、ホワイトリボンが這入つて来てたまるものか。然し、事実は、嘘のやうだが、事実だから仕方が無い。恁ういふ風にいふと、全く誇張した修辞法と思ふかも知れないが、知の外の、感情の上には確かに不思議だ。
それから……自分はぶらぶらと京橋まで歩いて来た。「金沢」といふ寄席の隣の、何とかいふ小さいしる粉屋でしる粉をのんで、その家を立ち出でると、三味線の音は手に取るやうに聞えて居た。
外は、夜が寒い。月は見えなくなつて暗かつた。唯金沢の二階は、ばつと明るく、灯の光が一面の障子を照らして居た。そこから三味線の音が聞かれるのであつた。軒行灯に「金之助」といふ名が見えたから、多分今のも、あのもう年増の女の三味線弾の長唄であつたらう。一挺ではあつたが、曲は何か賑かなものだつたと見えて、彼の長唄に特有な、短調な、強くリズミカルな節を幾度か繰り返しては、また次の撥音ばかりの荒い節に移つて行つてゐた。三四人の人が立つてたから自分も立ち止まつて聴いた。一寸と思ふ内につい釣り込まれて立つて居ると、そこに立つた人々は急に高声に罵り乍ら立ち去る処だつた。下の木戸番が、そこに立つ位なら内に入つた方が寒くないぜといふやうな皮肉を云つたのだと見える。
「べらぼうめ、天下の往還だ。立ちてえから立つたんだい。」といひながら印半纏の男が丁度歩きかけた。もう立つ人もなくなつた。ただ、まだをかしな女がまごまごしてゐる位なものだつた。前に縁日の通りでも、無理に、謳者の廻に立つ人の中へ割り込むやうには入つたりした、若い、吾妻コオトを着た妙な女だつた。そいつも然し行つてしまつた。で、自分もまた歩き出さうと思つて一足踏む時、まだ何だか後ろの方で人が呟くやうだと気が付いた。実際、矢張人が居たのだつた。頭の禿げた、ずぶよぼよぼな爺さんが、向ひの家の瓦の壁の前に積み上げられた石の下に跼んでゐた。さうして何かぶつぶつ口小言を云つて居るのであつた。
「ああ、爺さん、お前か?」
と驚いて自分は叫んだ。同時にこの老爺の事について、かつて聞いた事を思ひ出して急に可笑しくなつた。
もと自分が日本橋の裏通りの居酒屋へは入つた事があつたが、その時、親子づれの浪花節語が門口で国定忠次を語つて行つたあとで、居酒屋の内でもてんでんに調子づいて、いろいろの歌を歌ひ出したのに遭遇した。その時此老爺もその席に居た。さうして歯の抜けた口で以て、自分も仲間に加はつて、ぼけたやうな「我ものと思へば軽し」を歌ひ出した時には、みんな笑わずには居られなつた。
その時聞いた話があるが、この老爺はもと東京の士族で、さらぬだに零落しやすかつた維新後の士族の中に、更に酒と女とで到頭この年まで河岸の軽子にまで落ちぶれたのださうだ。それでも殆ど毎晩欠かさずに此酒場にくる。だが、歌を自分が歌つて笑はれたのは其晩初めてだと云ふ。自分こそ歌はないが、歌は本当の好きで、この酒場を出れば屹度どこかの寄席の近くへ往くんださうだ。金沢はすぐ高座の下が往来だから、よくそこでその地びたの上に寝てゐるのださうだ。
「ぢいさん、また来たな」と、さういふ話を知つて居たから、自分は話しかけた。今迄独言をいつて居た老爺は急に相手が出来たものだから、
「本当さ。なあ、天下の往還でえ、ぺらんめえ、何つてやがるだ」とやや声高に自分に云つた。
……それから、自分はぢき歩きだした。京橋の通りに出ても、実際だつたのか、それとも耳鳴りだつたのか、まだかすかに長唄の三味線が聞こえて居た。
底本:「日本の名随筆 別巻95 明治」作品社
1999(平成11)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「木下杢太郎全集 第七巻」岩波書店
1981(昭和56)年6月
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2007年8月10日作成
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