愛國百人一首評釋
齋藤茂吉
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この歌は長忌寸奧麻呂(傳記未詳)が文武天皇三年正月、難波宮に行幸あそばした時に供奉して、詔を奉じて詠んだものである。(大體さういふ學説になつてゐる)。
一首の意味は、魚の澤山にとれた網を今引かうとして、漁師が網を引く者ども(網子)を大勢集めて準備指導するその聲が、離宮の御殿の中まで、ようく聞えてまゐります。(まことに盛んでおめでたいことでございます、といふ意が言外にこもつてゐる)。
大漁があつて、漁師を中心に網引く群衆がさかんな聲をあげてゐるのを御聞きあそばされ、興深く思召たまうたときの詔であると拜察し奉るのである。字面は佳境讚美であるが、歌調の大きく堂々として居り、應詔歌の體を以て謹直眞率である。海國日本漁業發展を祝福し、同勢協和の聲としてもまた愛誦し得るものである。
聖武天皇の天平十八年正月、奈良の都に春雪さかんに降つて積ること數寸に及んだ。その時大臣參議並に諸王諸臣を召され、酒を賜うて宴を肆べ、『汝諸王卿等、聊か此の雪を賦して各其の歌を奏せよ』とおほせられたまうた時、葛井諸會(續日本紀に出づ)が詔に應じて作つた歌である。
一首の意は、年のはじめに當りまして、かやうに大雪の降りましたことは、豐年の瑞兆でございませう。慶賀至極に存じたてまつりますといふので、シルシは前兆、徴象・瑞象を意味してゐる。此處のシルスは動詞に用ゐた。新年はアラタシキトシと讀む。
調べゆたかに伸々として正に聖代豐年の瑞象を讚へるのにふさはしい歌である。この時、左大臣橘諸兄も感激して、『降る雪の白髮までに大皇に仕へまつれば貴くもあるか』の歌を奏上し、やはりこの百人一首に選ばれた紀清人の『天の下すでにおほひて』の歌も此時作られたものである。
作者の尾張濱主は、本邦管絃舞樂の名家巨匠の隨一で、聖武・孝謙・淳仁・稱徳・光仁・桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明の十代の朝に奉仕し、百十五六歳の高齡で歿した。この歌は、仁明天皇の承和十二年正月十日、天皇濱主を清涼殿前に召され、和風長壽樂を舞はせ給うたとき、舞了つて濱主の奏し奉つた歌である。事は續日本後記に見えて居る。
一首の意。既に老いさらぼうた翁のわたくしとても、天地萬物の盡く榮える大御代に逢ひたてまつる忝けなさをおもへば、どうしてくすぶり蟄居して居られませう。いざ出でて慶賀の長壽樂を舞ひ奉りませう。第二句の『わびやは居らむ』は『わび居らむやは』と解すれば解りよい。
この時濱主は百十三歳であつた。この月の八日にも大極殿で舞つたが、よぼよぼして起居も不自由な濱主が、いよいよ舞にかかると妙技を發揮し、『宛も少年の如し』と記されて居る。今や一億一心全力をあげて戰ふ時、誰かこの一首に感奮せざるものがあらうか。
歌は金槐集に見え、『太上天皇御書下預時』といふ詞書ある、『大君の勅をかしこみちちわくに心はわくとも人に云はめやも』、『ひんがしの國に我をれば朝日さす藐姑射の山のかげとなりにき』二首と共に奏し奉つたもので、詞書の太上天皇は後鳥羽上皇にあらせられる。なほ此歌は新勅撰集に『ひとり懷を述べ侍りける歌』として載り、また増鏡にも載つた。
歌の意味は、たとひ山嶽が裂け大海が涸れるやうな時に際しましても、大君(ここは太上天皇)に對し奉り一心精忠の誠をつくしたてまつります、といふ誓言であつて、『二心あらめやも』といふのは、一心盡忠といふことを一層強めて反語の技法を用ゐたものである。古來、『一つ心』といふのを強めて、『二心なき』『二つなき心』等と用ゐるのは日本語の慣用の一つである。そしてこの強調法は、心の最も眞率不二の場合、即ち天地神明に對しまつる神祇歌、天皇に對しまつる賀の歌の場合に多く用ゐられて居る。
賀茂眞淵この歌を評して、『ををしさ、まことに大人の誓ごとぞ』と云つたが、この評は永遠に動搖はせまい。
津守國貴は攝津住吉社の神主で、津守國夏の子である。國夏は後醍醐天皇に忠誠をまうしあげた人であるから、國貴もやはり父と志を同じうしたものであつた。父國夏は歌人であるから、國貴も歌を詠み新葉集に二首、新後拾遺集に三首收録せられてゐる。この歌は新葉集卷九、神祇部にあり、もう一つの歌は卷十七、雜の部所載の『遁れても又世は經なむみ山べの嵐に庵の荒れまくもをし』といふのである。
天皇の御安靖を神社に祈願しようとして、夜をこめて山道を急ぎ行くと、神社の神垣にはもう曉を告げる鷄のこゑが聞えだした、といふ意味で神社にゐる鷄たちも同じ心に共鳴するといふ意も含まつてゐるだらう。
作者は神に奉仕する神官で特に南朝に對する忠誠をつくした人だから、その敬神の眞心がおのづから曉の神の社の光景に融けこんで清く嚴かな一首の歌となつた。『君を祈る道にいそげば』の句はまことに感ふかいものである。
林子平は字は友直、仙臺藩に仕へ、寛政三奇士として、幕末志士として世に有名である。夙に海外の事情に心をそそぎ、海防を唱へ、三國通覽圖説、海國兵談等を著して世の覺醒をうながした。
世の中の群書は、千年間の數々の群書といへども毫も國家海防の事は論じてない。この海國日本を護る大切な道理方法を論じたものは予一人であり、この海國兵談ひとつである。といふのであつて、海國といふことをワダツクニと大和言葉にして伸べ、またマモリノミチと伸べた。そこに技法上の工夫がある。
この一首は、自著海國兵談の自讚歌、自慢歌のやうにも取れるけれども、その信念、その熱意が大切なのであつて、『我ひとり見き』といふ自信が、取りも直さず愛國の熱情にほかならぬのである。また、私等は、大東亞戰爭において皇國海軍の無敵大捷を感謝すると共に、子平の『外冦を防ぐは水戰にあり』といふ文を想起すべきである。
香川景樹は、すなはち桂園派の元祖で、天保十四年七十六歳で歿した有名な歌人である。生涯古今集を手本とし、貫之を目標として勉強した。多くの門下を養成し、著書に桂園一枝、同拾遺、古今集正義、新學異見、土佐日記創見等がある。この歌は、桂園一枝、秋歌に、「薄隨風」といふ題で載つてゐる。
歌の意味は、一陣の秋風が吹いてくれば、穗の出そろつた薄が、風に順つて一方に靡く、それを見てゐると、風の吹いて來るときに、一樣に靡き揃つて、不思議にも亂雜になるといふやうなことはない、といふのである。
作者は、かういふ光景に目を留めて、感動したことは一首の歌調によつてうかがふことが出來る。作者は專門歌人だから、あらはに寓意を出すといふやうなことはせぬが、この一首は、大事に當つて心みだれず、動搖せず、同心一體となるべき自然の道理を暗示し象徴するものとして、このたび百首の一つ選ばれたのであつた。
佐久良東雄は常陸の人、はじめ佛道を修め、ついで國學に轉じ、東雄といつた。後大阪に惟神舍を開いて國學を講じた。萬延元年櫻田の變に關聯し、江戸に送られ、獄中で死んだ。年五十。東雄は多くの歌を作つて、家集に薑園歌集がある。嘗て佐佐木博士東雄の歌を紹介したが、近時志士の歌としてさかんに研究せられてゐる。
母上が自分を生まれたのは、何のためでもない、ただ天皇に仕へたてまつれといつて生まれたのである。それをおもへば自分の母上は何といふ貴いかたであらう、といふのである。
幕末志士の尊王、盡忠の思想を歌にしたのは實に多く、東雄の歌にも澤山あるけれども、かういふことを端的にあらはしたものはない。生みの母に感謝し讚歎するのは、直接天皇に直流し奉るところにこの歌の特色がある。皇國日本の母。その母に對する子の態度は、かくの如くにして萬邦に比類が無いのである。
佐久間象山は信濃の人、名は啓、字は子明。西洋に通じ、開國論、海防論に意をそそぎ、その方の先覺であつた。安政三年京都に於て、浪士のために殺された。年五十四。近時、信濃教育會から象山全集が發行せられた。
この一首は、やはり海防思想に關係があるのであつて、陸奧よりももつと先きの蝦夷(北海道)の、またその先きの遠い海を漕いで居る舟を思ふが、その遠いところよりも、またもつと遠く思を馳せ、遠く深く國を思うて止むときがない、といふぐらゐに解していい。上の句から序歌のやうな形式で來て不即不離に結んで居るのもおもしろい。
象山も子平もさうであるが當時の志士は開國家といはず、攘夷家といはず、心の底から國をおもうた。私等はカルタに遊ぶの時、心を潛めてこの一首をも味ふべきである。
底本:「齋藤茂吉全集 第十四卷」岩波書店
1975(昭和50)年7月18日発行
初出:「東京日日新聞」
1942(昭和17)年11月22日、25日、27日、12月1日、4日、6日、10日、11日、12日夕刊
入力:しだひろし
校正:染川隆俊
2010年9月4日作成
2011年4月22日修正
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