モノロオグ
岸田國士



花茣蓙を敷きつめた八畳の日本間、寝台、鏡戸棚、テーブル、椅子等、すべて安物の西洋家具。寝台には、掛蒲団がなく、マトラスだけになつてゐるところ、テーブルの上に椅子が一脚、さかさまに載せてあるところ、この部屋が、今誰にも使はれてゐないことを示してゐる。

装飾と云へば、壁に、新聞の新年附録らしい美人画が、鋲で留めてあるきりで、そのほか、何か「歴史的な」ものを求めれば、柱の一本に、四月十七日の日附が出たカレンダアがぶらさがつてゐる。

正面は障子。左手は、一間のとこと一間の押入。


曇つた日の午後四時過ぎ。


廊下で、ばたばたと跫音がする。

障子があく。女が現はれる。

派手なセル。流行遅れのショール。よごれた足袋。

部屋ぢうをひと通り見廻した後、彼女は呟く。


──ほんとだ。……やつぱし、ほんとだわ……。


部屋の中を、あつちこつち歩きまはる。寝台に腰をおろす。


──何処かへ越したんなら、この道具だつて持つてく筈だわ……。だつて、これみんな、るものばかりぢやないの、お神さんが、いくらで買ひ取つたか知らないけど、あたしに云へば、掛合ひ方だつてあるわ……。


急に起ち上り


──だけど、随分ひどい人ね、あたしに黙つて、帰つちまふなんて……。いくらなんでも、そんなことつてないわ……。


椅子にもたれかゝり、涙ぐむ。


──それや、一月ひとつきつていふのは、少し長すぎたけど、どうしても手の放されない患者だつたんですもの……。一晩ひとばん、代りを頼んでと思つたこともあるわ。でも、やつぱり、気がとがめて……。あゝいふ時、手紙のやりとりが出来ないつていふのは、一番つらいのね。会つてゐれば、話が通じないぐらゐ、なんでもないわ。西洋の男つて、みんなあゝかしら……。こつちの思つてることを、すぐ察してくれるし、口をかずにゐて、ちつともきまりがわるくない……。向うは向うで、独言ひとりごとみたいなことを云つてるんだけど、あたしは、そんなこと別に気に留めずに、可笑をかしければ、勝手に笑つたり、どうせわからないと思ふから、時々は、「馬鹿」だの「間抜け」だのつて、からかつてやつたわ。さうすると、しまひに、その意味がわかつたらしいの。「ワタシ、バカデス」つて云ひながら───あゝ、よさう……あんなにいぢめられたことないわ……。


突然、寝台の上に突つ伏し、涙声で


──なぜ、そんなに急に行つちまつたの。あたし、今日も、うんとうんと、いぢめて欲しかつたのよ……。


からだを起し、腰をかけたまゝ


──変なもんね。あたしたち、あれから幾度会つたかしら……。去年の三月からだわ。一週に一度、十日に一度、長い時で二十日はつかも会はずにゐたかしら……。病院の附添を、一つ済ますたんびに、きつと来ることにしてたんだけれど、あの人は、何時いつでも、愛想よく、あたしの肩に手をかけて、「ヨクキマシタ」つて云ふの。それだけで、あたしは、もう、うれしかつたんだわ。


起ち上り、鏡戸棚の前に行つて、自分の姿に見入りながら


──はじめつから、こんなことになるなんて知つてたら……。さうだわ、あん時のことを考へると、まつたく不思議なくらゐだわ。先生からぢかに、「君、今度の附添は、少し勝手が違ふかも知れないが、特別に気をつけてくれ」つて、さう云はれて、あたし、なんだらうと思つたの。さうしたら、あの人だつたんだわ。病室へはひると、いきなりそばにゐた男が、「あなた、英語はできますか」つてくぢやないの、誰かが、好い加減なことを云つたのよ、きつと……。あたし、黙つて、笑つててやつたわ。病院でも、西洋人の入院患者は初めてだつていふし、あたしも、西洋人なんかに附くのは初めてなんですもの……。なるほど、勝手が違ふのなんのつて、いちいち先生のところへ訊きに行つちや、叱られたもんだわ。


椅子を引き寄せ、脚をがたがたさせながら


──その晩、体温を計ると、四十度二分……。苦しさうに呼吸いきをしてるの。あたしがそばへ行くと、眼をあけて、何か云ひたさうにするんだわ。よく見ると、そんなにこはい顔ぢやないんだけど、なんて云つたらいゝのかしら……やつぱり、気味がわるいんだわ。鼻なんかでも、鳥の嘴みたいで、赤い筋がいつぱい見えるし、眼は、黒眼んところが妙に銀色をしてるし、髪の毛は、そんなに縮れてないけど、それは、おほかた禿げてるからなの。


そこで、吹き出すやうに笑ふ。


──あゝ、そのことで、可笑をかしかつたわ。頭を見て、好い加減お爺さんだと思つたら、体温表に二十九歳つて書いたるぢやないの。間違ひかつて云へば、さうぢやないの。なるほど、さう思つてみると、若いやうなところもあるつて、婦長さんと大笑ひをしたわ。日本の風俗とかを調べに来た学者なんだつていふけれど、学者みたいなとこは、ちつともなかつたわ。それに、まだ日本へ来たてだつていふんだけど、誰に教はつたか、片言かたことの日本語を時々使ふの。だから、なほ、悧巧には見えないわ。


急に、真面目まじめな調子で


──気管支炎なの、病気は……。だから、毎日、湿布を取替へなけやならない。妙でね、はじめは……胸をひろげると、毛がもじやもじやでせう。そのくせ、皮膚の色は、それや真つ白で、艶々つや〳〵してゐて、女だつたらつて思うくらゐよ。妙なもんよ、それや……。


だんだん、しんみりと


──熱は、一週間ぐらゐで、ずつと引いてしまつたわ。食慾もつくし、元気も出て来たわ。牛乳を欲しがるつたら、ないの。でも、食べものは、なんでも珍しがつて食べるの。特別に洋食を取るなんてこともなかつたわ。あぶなつかしい手つきで、お箸を持つてみたりするの。あたしが教へたのよ。見てると、面白いより、気の毒になるの。遠い、違つた国へ来て、かうして病気なんかになつて……そんなことを思ひながら、そばでお給仕をしてると、つい、親身しんみに世話をしてやりたくなるわ。


何時いつの間にか、椅子にかけてゐる。


──それに……さうだわ……。丁度、あの頃は、あたしにも、云ふに云はれない苦労があつたんだわ……。三年も一緒に暮した男と、あんないきさつから、別れたばかりだつたし、これから、一人で食べて行くんだつていふ気持の張りから、仕事にもうんと熱を入れ出した時分だわ……。夜中にでも、ちよつとせきが聞えると、どんなに眠くつても、すぐに飛び起きて、シロップを一匙ひとさじ飲ませる……。あの人は、「アリガタウ」つて、そのたんびに、お礼を云ふの。そんな患者つて、滅多にないわ。それが、その云ひ方よ。言葉だけでは足りないつて思ふのか、顔つきで、それや上手に、さういふ心持をみせるの。だんだん馴れて来たせゐもあるんだけど、そん時の眼なんか、あたしたち女にさへ真似まねのできないやうな、優しいつていふのか、じやうの籠つたつていふのか、まあ、そんな眼だわね。それと、あの溜息……さうだわ、さもうれしいつていふ溜息のつき方、それなのよ。西洋人つて、あゝいふこと、ちやんと知つてるんだわ。


起ち上り、今度は、また寝台の上に腰をおろす。


──もう、二三日したら、退院できるつていふ日の朝だわ。あの人は、まだ眠つてるんだとばかり思つて、そつと掛蒲団の下へ手をやつたの。脈を見ようとしてよ。あの人は、両手を胸の上に組んでたわ。この左の手首を、そのまゝの位置で、あたしは、時計の針を見ながら、脈を数へてゐたの。七十四……。そこで、手を引かうとすると、あの人の右手が、いきなり、あたしの手をぎゆつと握つて、どうしても放さうとしないぢやないの。なんの意味か、ちよつとわからなかつたわ。いゝえ、とぼけてるわけぢやないの。実際、相手が男だつていふことを忘れてたのよ。笑はれても仕方がないわ……。でも、そん時、あの人の眼を見なかつたら、あたしは、まだ、戯談じやうだんぐらゐに思つたでせう。そら、やつぱり、あの眼なのよ。あたしは、ハッとして、力まかせに、手を振り放したの。さうして、部屋を逃げ出したわ。


つと、また起ち上つて、鏡戸棚の前に行く。からだは正面を向いたまゝ、顔だけ鏡の方へ近寄せ


──その晩も、また、おんなじやうなことがあつたの。あたしも、今度は、平気で、笑つててやつたわ。ところが、その翌朝、どうしたつていふんでせう、あたしは、たうとう、あの人の手を握り返してしまつたの……。半分、悪戯いたづらのつもりで……。


さう云ひながら、髪に手をやり、ほつれを直す。で、今度は、正面を向いて、笑ひを含みながら


──そこで、いよいよ退院つていふことになつたんだわ。今夜一晩きりで、もう、この人は、何処かへ行つてしまふんだ……。さう思つてみると、なんだか、このまゝ別れるのが……つらいつていふと変だけど、まあ、名残惜しいやうな気がしたのね。向うは、無論、それ以上だわ……。


急に、その辺を歩き出しながら


──えゝツ、かまふもんか……。誰にも知れつこはないんだ。


やがて、ぐつたりと、寝台の上に寝ころがり


──あゝ、あの晩のことは、夢のやうだわ。翌朝は、綺麗さつぱり忘れちまふつもりでゐたことが、あの人のゐなくなつた後で、却つて、あたしを苦しめるたねになつたんだわ。


急に、頭をもち上げ


──十日とは待てないで、八日目だかに、あの人の泊つてゐる神田のホテルへ、のこのこと出かけて行つたもんよ……。どんな顔をされるかつてことも考へずに……。でも、よかつたわ……。あの人は、にこにこ笑ひながら、「ヨクキマシタ」つて、背骨が折れるくらゐ抱き締めてくれたの……。


起ち上り、歩き出す。


──それから間もなくだわ、あの人が、こゝへ引越して来たのは……。ホテルは不経済だからつていふんで、わざわざ、こんな素人下宿を借りたんだと思ふわ。あれで、なかなかガッチリ屋なのよ。この道具類を買ふんだつて、あたしを一緒に連れてつたのは、安い品物を買ふ手なんだわ。この寝台が三十八円、戸棚が十九円、椅子テーブルで二十二円だつたかな……。西洋人で、あんなの珍しいわ、きつと……。あたしは、もちろん、お金目当めあてにあの人とこんな関係になつたんぢやないからいゝけど、人から、たんまりお小遣でも貰つてると思はれるのが癪なくらゐだわ。さう云へば、附添料の外に二円の心附を受け取つたきり、最後まで、電車賃ひとつ出させたことないんだから……。その点は、大威張りだわ。あゝ、品物……? それは別だわ。去年の夏、京都へ行つたお土産みやげだつて、人形をひとつくれたつけ……。それから、この正月、どつかの店で、メリンスの端ぎれを六尺ばかり買つて来て、勿体らしく差出されたのには、少し間誤まごついたわ。さうさう、御馳走では、竹葉の鰻を食べにはひつたことが一度、あとは、この家で、おそばか丼を取るのがせいぜいだつたわ。だけど、そんなことは、どうだつていゝの。どうせ会ふ日はめられないんだし、不意に来て、一日か二日、そばにゐられるつていふだけで、あたしは満足だつたんだから……。今から考へると、よく、あんな風で、これまで続いたと思ふわ。お互に、名前のほかはなんにも織らず、先々のことも、てんで問題にしないで、たゞ、会ひさへすれば、あんなに……あんなに、愛し合へるなんて、誰も想像できないにちがひないわ……。


鏡戸棚を開けてみる。


──おや、まだ掃除もしてないらしいわ……。


ボール箱を引き出す。


──ある、ある、いろんなものが……。


中から、オー・ド・コローニュの空瓶あきびんをつまみ出し、それを嗅いでみる。


──あゝ、この香ひ……。


今度は、歯ブラシの古いの。


──こんなになるまで使つたんだわ……。


それを、ハンド・バッグにしまひ、次に、釦一つ。


──何の釦だらう……。あゝ、あの外套だわ、きつと……。


これも、ハンド・バッグへ。そして、次に、折れたペン軸。


──あの人の手紙でも読めるなら、これもいゝ記念だけど……。


さう云ひながら、ハンド・バッグへ入れかけて、ふと、それを思ひとまる。それから、ボロボロのスリッパ、安全剃刀の刃、煙草の銀紙等を、ひとつひとつ、つまみ上げ


──どれもこれも、捨てていゝやうなものばかりだわ……。


ボール箱の中へ、再びそれらを入れて、戸棚にしまふ。そして、今度は、汚点しみだらけの藁稈帽を取り出し


──まあ、この色……。


それを、ちよつと、頭にのせて、鏡を見る。


──あの人が帽子をかぶると、それや、若くなるのよ。


急に、椅子にからだを投げかけ、肘で顔を蔽ひ、泣きながら


──あんまりだわ、あんまりだわ……。そんな……そんな法つてないわ……。なんとか、前に云つてくれたつていゝ筈だわ。それならそれで、ちやんと、覚悟するのに……。いくらだつて、諦めやうがあるわ。これぢや、どうしたつて、諦められないぢやないの。この次ぎ来れば、また会へるやうな気がするんですもの……。なんべんも、会へるまで来てよ、あたし……。


顔をあげ、あたりを見廻す。


──だけど、あたしたちは、どんな約束をしたんだらう。お互ひに、どれだけ気持がわかつてたんだらう……。あの人の、云つたりしたりしたことで、あたしの心に、深く残つてゐることと云へば、いつたい、なにがあるだらう……。あゝして、時々会つてゐながら、今日は前よりも別れにくいなんてことがあつたかしら……。またこの次ぎは何時いつになるか、あの人はそれをきもせず、あたしは、それを訊かれたくなかつた……。別れるたんびに、また会へるかどうかわからないつていふことが、あたしには、却つて気楽だつたし、そのために、随分大胆にもなれたんだわ……。


起ち上り


──さうだとすれば、かういふ日が、もつと早く来てゐてもしかたがないんだのに、どうして、今更……今更こんなに……こんなにぢたばたするんだらう。


壁に貼りつけた大美人画の前に立ち


──あの人は、この絵があたしに似てるつて云つたわ……。この絵と、あたしを見較べて、「コレアナタデス」とかなんとか云つたわ。さう見えるのかしら……。それや、日本の男がさう云ふんなら、あたし、いくらなんでも、信用しやしないわ。そんな、見えすいたお世辞、馬鹿馬鹿しくつて、きつと腹が立つわ……。でも、それを、あの人が云ふと、まんざら、お世辞ばかりでもなささうだつて気がするの。自惚うぬぼれなんか起すんぢやないわ。西洋人の眼には、そんな風に見えるのかも知れないし、そこがまた、面白いぢやないの。だからさ、今仮に、おかめの面を持つて来て見せれば、「や、この方があんたに似てる」なんて云ひ出すかも知れないわ。罪がないぢやないの。つまり、さういふところよ。


鏡の方に向ひ


──やつぱり、好きになつてたんだわ……。それや、心からつて云へないやうなところもあるにはあるけれど、浮気うはきなら浮気で、もつと相手がありさうなもんだわ。あたしのやうな女が、あと先の考へもなく、男にからだを許すつてことが、どうして出来たか、自分でも第一わからないし、人から見れば、譃のやうな話だわ。だつて、今までに、さういふ機会はいくらもあつたくせに、あんなに立派に、切り抜けて来たんですもの……。あたしは、女でも、どつちかつて云へば、つめたい方の女よ。それは、前の男との関係でもわかるわ。あの三年間の、踏みつけにされた生活を、黙つて忍んで来たあたしですからね。おんなじ家へ、へんな娘つ子を引張り込まれて、朝晩、寝床のあげおろしまでさされた経験を、いくたりの女がもつてるでせう……。でも、あたしを、意気地なしだと思つたら間違ひよ。あの男を捨ててしまふ気なら、何時いつでも捨てられたんだわ。たゞ、さうなると、意地よ、ほんとに……。何時いつか男の眼が覚めるだらうつて思ふ一方、その女との根気こんきくらべみたいな形にもなつたんだわ。で、たうとう、あたしが負けるには負けたけれど、三年間の辛抱は、褒めてもらつてもいゝわ……。


椅子に腰をおろす。そして、すぐにまた起ち上る。


──二十五の年、つまり去年まで、自由な身でゐて、男つていふものを、振り向いても見なかつたわ。憎らしいとか、こはいとかぢやないの。なんか、かう、すかすかした、興醒めな気持しか起らないのね。どういふんでせう、それが、かうなつたんだわ……。いゝえ、それも、ほかの、どんな男にでもつていふんぢやないわ。あの人だけよ。あの人だけによ……。会はずにゐれば、せつないし、会へば、わけなく、ぽうツとしてしまふの。


両手で頬をおさへ、甘えるやうにしなを作る。


──あら、どつかで笑つてるわ。まさか、あたしのことぢやないだらうな。


寝台の上へどかりと腰をおろし、スプリングでからだをはずませながら


──かうしてると、あの人が国へ帰つたなんて、どうしても思へないわ。どつか、そのへんに、戸棚の後ろかなんかに隠れてさうな気がするわ。だつて、さういふこともあつたのよ。そんな巫山戯方ふざけかたをする人だつたわ。何時いつかも、あたしが、奥へ誂へ物を頼みに行つてる間に、こつそり寝台の下へ潜つて、しばらくあたしに気を揉ましたわ。だつて、それが三十分からよ。出て来るところを、あたし、いやつていふほど、スリッパでぶつてやつたわ。さう云へば、あたしが乱暴すんの、とてもよろこぶの。あんなの、変態かしら……。


両手で顔をおほひ


──なんでもいゝわ。もう一度、たつた一度でいゝから会ひたい……。もう、これつきり会へないつていふ、ほんとの決心をしたところで、しみじみ会つてみたい……。今までは、どうしたつて、それほどの気持にはなれなかつたわ。はつきりさうとわからないうちは、まだまだ先があるやうな、うつかり構へてるところがあつたわ。それが口惜くやしいの、あたし……。


今度は、片手で頬杖をして


──あの人が若し、あたしをフランスへ連れてくつて云つたら、あたし、なんて返事をしたらう……? それや、いやだなんて云はないわ。でも、これまで、一度もそんなこと考へてみなかつたわ。それや、あたしには、ちやんと、あの人つてものがわかつてたんだわ。どうせ、そんな真面目まじめな気持ぢやないにきまつてるわ。殊に、はじめは、向うも気紛れ、こつちも気紛れだわ。たゞ、あたしを、玩具おもちやにしたつていふのと、少し違ふところがある。それだけ、あたしも、本気になれたんだわ。釣るとか、だますとか、そんな腹は、どつちにもない。恩も義理もない代り、秘密も見栄みえもない。お互ひに縛られず、お互ひに、飽きもしなかつたんだわ……。だから、あの人が、日本にゐさへすれば、いくらでも長く続いた筈よ、何時いつまでも、どんなことがあつても……。


急に、からだを捻ぢ向け


──あツ……。あの人には、奥さんがあつたのかしら……。それも、かう訊かうと思つて、たうとう云ひ出すのを忘れちやつたわ……。ゐたつて、別にかまはないけど……。いや、たしかゐない筈だわ。西洋人つていふもんは、旅に出る時、奥さんの写真はきつと肌につけてるつて話だわ……。それに、指環は、はめてたかしら……? 何かはめてたやうだけど、エンゲーヂだかどうだか、気がつかなかつた……。会ふと、もう、そんなこと気にしてる暇はないんだもの……。さうさう、あたしの名前を書いてみせろつていふから、書いてやつたんだけど、あの字を覚えるつて云つてたわ。独りで書けるやうになつたかしら……? 藤岡八重子なんて、割にむづかしいわ。


起ち上り


──ラ……ウ……ル……リ……シュ……テン……メッ……ケル。これがまた、云ひにくい名つたら、ありやしないわ。面倒臭いから、ラウちやんつて呼んでたの。羅宇屋さんみたいで覚えいゝから……。「あたし、親子、ラウちやんは……?」すると、「ワタシ、ウドン」つていふにきまつてたわ。


柱にもたれ


──戯談じやうだんは別として、ラウちやんは、ほんとに行つてしまつたのかなあ……。あの、お得意の鼻唄が、まだ耳に残つてるわ。


それを、調子や声まで真似まね


──フン、フン、フン、フウン……フン、フン、フン、フウン……フウン、フン、フン、フン、フン、フウン……。


また、次第に、涙がこみあげて来る。


──あたしが、これほどに想つてるのに、あの人は、平気だつたのかしら……? 平気でてたのかしら……。あたしのことなんか、てんで、思ひ出してもくれなかつたのかしら……? そんな筈ないわ。かうして、つた後へ、あたしが訪ねて来ることも、一度は考へてくれた筈だわ……。お神さんには、たゞの一と言も、あたしのことを云ひ置いて行かなかつたつていふんだけど、「来たら、よろしく」なんて云ふ方が、却つて空々そら〴〵しいかしら……。かうなると、相手が日本人でないだけに、見当がつかないわ。兎に角、あつちには、かういふやり方もあるんだわ。


ふと、柱にかゝつてゐるカレンダアを見つけ、それをはづしてみる。


──四月十七日……あたしが、この前来たのが……四月六日の晩……。十七日までは、たしかにゐたんだわ……。さうだわ、十八日につたつて、お神さんから、今聞いたんだわ……。それで、今日が、五月九日……。さうか、あん時、来てても駄目なんだわ、あれが、先月の二十日はつかだから……。もう、よさう、こんなこと考へるのは……。


カレンダアを一枚一枚引きちぎり


──人はなんと思つたつてかまはない……。あたしたちは、かういふ別れ方をしても、ちつとも不自然ぢやないんだわ。何時いつの間にか、一方が姿を消す……予めそんなことは云はないでゐて……どつちか一方が、それを先にするつていふだけだわ。あの人のところへ、あたしが来なくなればそれまで……あの人だつて、それくらゐのことはわかつてたんだわ。二人は、ちつとも変つてないんだわ。たゞ、時が経つたつていふだけなの……。


ちぎつたカレンダアの一枚一枚を、無意識に丸めながら


──なにひとつ、いやな思ひ出も残さず、こんなに綺麗に、一人の人間から離れて行けるつてことは、一生に一度だつてないことだわ。それに……それに……どうして、あたしは……あたしは、こんなに泣きたいんだらう……。


椅子の上に崩れかゝり、声をあげて泣く。やがて、涙を拭きながら


──あゝ、さつぱりした。これで、もう、いゝの……。何時いつまでかうしててもきりがないわ。どら、お神さんがのぞきに来ないうちに帰らう。もう何処かから口がかゝつて来てるかも知れない……


起ち上つて、もう一度、部屋の中を見廻す。


──あたしも、なにか、通ひの仕事をみつけて、この部屋を借りようかしら……。家具つきで、このまゝ貸すつもりなんだわ。せめて、さうでもできたら、またなにか……なにか待つ気になれさうだけれど……。


力なく椅子に倚り


──このまゝ、またあんなところへ帰るんだと思ふと……どうなるつていふてもなく、毎日検温器を振つててみてもはじまらないぢやないの。


長い沈黙。


──おや……なんだつて、こんなに、この部屋に未練があるんだらう……。あの人にだつて、いざ別れようと思へば、もつと思ひきりよく別れられるわ。さうよ、今、此処に、あの人がゐてくれさへすれや、あたしは、平気で出て行かれるんだわ。もう、これで会へないと思へば、なほ威勢よく出てつてやるわ……。それが、あの人のゐなくなつた、このからつぽの部屋から、どうしても動けない……足が云ふことをきかないの……。気持がき立てても、からだが承知しないんだわ……。だるくつて、だるくつて、しようがない……。


静かに起ち上り、寝台の上に、うつ伏せになる。


──あゝ、苦しい……。


激しく、肩をゆすぶり


──さうぢやないのよ。会ひたくつてぢやないわよ……。もう、なにもかもおしまひでいゝのよ……。たゞ……。


急に、顔をあげ


──え? たゞ、どうしたの……?


また、涙声になり


──たゞ……云ひたいことが、いつぱいあるのよ……あの人に、云ひたかつたことが、今になつて、はつきり、わかつて来たのよ……。どうせ、何を云つても言葉が通じないんだと思つて、今までは、諦めてたんだわ……。いゝえ、それより、云ひたいことを、考へてもみなかつたんだわ……。つまり、云ひたいことがなかつたんだわ……。


だんだん空想の世界に引きずり込まれるやうに


──ねえ、わかつてくれる、あんた……? 聴いててくれる? 眼の前で、声が聞えれば、なにを云つてるんだかわからなくても、かうして、離れてゐて、あたしのことを、少しでも思ひ出しててくれゝば、きつと……きつと、あたしの云ふことがわかる筈だわ……。先づ、第一に……あたし、あんたに心からお礼を云ふわ……。なんて云つても、あたしは、仕合しあはせだつたんですもの。女としての、重荷を負はない幸福が、あんなに易々やす〳〵と得られたことは、あんたが、何処かほかの男と違つてゐたからだわ。でも、その代り、あたしを、少しばかり褒めて頂戴……。どういふとこか、云つてみませうか。あんたの邪魔にならなかつたところ……。


起ち上り、やゝ朗らかに


──あたしは、もう二度と、あんたのやうな男に出くはすことはないと思ふわ。それはそれでいゝの。たゞ、どんな男とでも、次の日の約束だけはしないつもりよ……。


ゆつくり歩き出しながら、ふと鏡の前に立つて、着物の皺を直す。それから、障子に手をかけ、やつとからだが通るだけ開けて、もう一度、後を振り返る。


──ラウちやん、さよなら……、また、何時いつ来るかわからないわよ。

底本:「岸田國士全集5」岩波書店

   1991(平成3)年19日発行

底本の親本:「職業」改造社

   1934(昭和9)年517日発行

初出:「文芸春秋 第十年第六号」

   1932(昭和7)年61日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2008年319日作成

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