世帯休業
岸田國士



人物


夫 渋谷八十一

詩人 鳥羽

妻の母

君い女 かも子

夫の友人 茶木

八百や


第一場


舞台は、すべて戸締りをした家の内部。正面やゝ高きところに鉄格子をはめたスリ硝子ガラスの小窓。外の光がその小窓から射し込んで、茶の間の一部をかすかに浮き出させてゐる。

表で戸をたゝく音。


声  留守ですか、僕です。おい、僕ですよ、奥さん、鳥羽とばですつたら……。


やがて、正面の小窓が開く。長髪の男が家の中をのぞき込む。


男  今頃うちをあけるなんて、しやうがないなあ。僕はまあ仕方がないとして、御亭主が帰つて来たら、問題だぜ、これや……。それとも、僕が国へ帰つたのを幸ひ、今日は夫婦連れで浅草へでも出掛けたかな。さうだとすると、僕は鍵をもつてないから、家ん中へはひることができない。どれ、鞄を縁の下へでも放り込んどいて、ひとつ、鴨子かもこ嬢のところへ遊びに行つて来よう。(硝子戸を締め、立ち去る)


この時、勝手の方から、洋服姿で折鞄を抱へた男が、のつそり部屋の中に現はれ、茶の間を横ぎつて座敷の方へ行く。しばらくして、またインバネスに手提鞄を提げた男が、同じく勝手の方からはひつて来る。後から来た男は、そこへ立ち止つて、奥の方をすかしてみる。


男  (半ば恐る恐る)誰だ、そこにゐるのは?

奥の声  さういふ君こそ誰だ。

男  名前を言つても、恐らくは知るまい。

奥の声  なんの用があつて、はひつて来た?

男  それは、こつちからきゝたいくらゐだ。

奥の声  僕は、このの主人だ。

男  戯談言ふな。おれはこのの下宿人だ。

奥の声  鳥羽さんなら国へ帰つてる筈だ。

男  おや、おれの名前を知つてやがるな。君はおれの詩を読んだことがあるか?

奥の声  無理に読まされたことはあるが、面白くないから、読んだふりだけしておいたんだ。

男  ところが、そんなふりをしたつて、なんにもならないんだ。こつちは、どうせ、書き損ひしか読ませないんだ。それはそれとして、奥さんはどうしたんです。

奥の声  しばらくうちにゐないんです。あんたは予定変更ですか。


雨戸を繰りはじめる。家の中が急に明るくなる。


詩人  やあ、たゞ今。いよ〳〵親爺おやぢとは絶交しました。但し、おふくろが今まで通り内証で仕送りをしてくれる筈ですから、別に慌てることもないわけです。奥さんが留守のせゐか、いやにうちなかが散らかつてますね。僕の部屋なんか、誰か掃除するんですか。

夫  無論、誰もしません。(洋服を脱いでドテラに着替へる)しかし、あなたが帰るまでには、家内も帰つて来ることになつてます。

詩人  僕は一週間の予定だつたんだから……すると、もうあと幾日いくんちです。

夫  あれが十六ン(指を折り)明日あす明後日あさつて、……しあさつていつぱいには帰る筈です。

詩人  それまで僕は、どうするんですか、飯なんかどうしてくれます?

夫  なんとかしませう。電報で呼び戻してもかまひません。

詩人  遠方ですか。

夫  えゝ、里の方へちよつと……。

詩人  お里つて言へば、四谷よつやか、どつかぢやありませんか。

夫  さうです。

詩人  いやに落ちついてるんだなあ。まさか、奥さんに逃げられたんぢやないでせう。

夫  逃げるくらゐな奥さんなら、わたしだつてもうちつと、別の方法を考へますよ。

詩人  すると、それ以上重大な問題が起つたわけですね。

夫  まあ、その話はそれ以上きかないで下さい。わたしたち二人だけの問題なんだから……。

詩人  それやさうだ。僕は、たゞ、下宿人として、自分のことを心配してゐるだけです。なんならほかへ移りませうか。

夫  とに角、家内が帰つてからのことにして下さい。早速、電報を打つて見ますから……。


夫は、蟇口を懐へねぢこんで外へ出る。詩人は、そのまゝ二階へ上るが、やがて、


詩人の声  (朗唱する)夫婦、繋がれた一つゐの男女、朝は夫の仏頂面ぶつちやうづら、夜は妻の溜息、十年一日の如く、これも自業自得、互に見あきた顔と顔。


玄関の方から風呂敷包みを抱へて、妻がはひつて来る。いぶかしげに家の中を見廻す。ふと、二階の声を聞きつける。


妻  (階段の中途までかけ上り)鳥羽さん、もう帰つてらしつたんですか?

詩人の声  早く飯を食はして下さい。

妻  何時いつお帰りになつたの。

詩人の声  もうさつき……(現れる)飯を食ひそこなつて、腹がぺこ〳〵だ。汽車で弁当を買ふつもりでゐたら、つい寝込んぢまつて……眼が覚めてる時は、生憎あいにく汽車が動いてる時なんです。

妻  うちの人は? どうしたでせう。

詩人  今、電報を打ちに出かけました。

妻  電報を? 何処へ?

詩人  郵便局へ。

妻  さうぢやないのよ。誰んとこでせうつていふのよ。

詩人  あなたんとこだつて言ひましたよ。そいぢや、電報を見て帰つて来たんぢやないんですか。

妻  出掛けて、もうそんなになりますの。

詩人  なるかも知れませんよ。喧嘩でもしたんですか。

妻  あの人、何か言つてました?

詩人  僕の想像では、あなたがいよ〳〵先生に愛想をつかしてお里へ帰られたんぢやないかと思つてました。

妻  さういふ意味もないことはないんですの。あなただから御話しますわ。まあ、かういふわけなのよ。聴いて頂戴。

詩人  坐つて聴いてもいゝでせう。(二人、長火鉢のそばへ坐る)

妻  あなた方にはおわかりになるかどうか知らないけれど、あたし達夫婦は、今、倦怠期なの。

詩人  倦怠期……ふうん、結婚後何年目です?

妻  七年目ですわ。

詩人  ぢや、おそい方だ。倦怠期そいつの来かたが……。

妻  でも、これが四度目ですもの、やりきれないつていふ時期がよ。

詩人  四度目……約一年おきにやつて来ますね。

妻  それで、たうとう、二人で相談したんですの、お互に呼吸抜いきぬきをしようつて……。

詩人  僕のゐない間だけ。

妻  さう、一週間だけ、つまり、世帯休業しよたいきうげふよ。夫婦生活の休暇ですわ。


この時、夫が帰つて来る。妻の姿を見て、別に驚きもせず、かるく会釈をする。


詩人  奥さんからすつかり聞きましたよ。今、休業中なんですつてね。

夫  だが、あなたに関係はありませんよ。

妻  さうよ、あなたは平気でいらつしやつていゝのよ。

詩人  すると、どういふことになるのかなあ。僕のいろんなことは誰がしてくれるんです。それは世帯以外と認めるんですか。

夫  無論です。

妻  でも、あたしは、なんにもしませんよ。第一、けふ帰つて来たのは、全く偶然なんですもの。

夫  偶然でもなんでも、鳥羽さんの世話だけは、お前の役目だ。

妻  戯談じようだんおつしやい。下宿人をおいてるつていふのは、誰のためなんです。あたしのためばかりぢやありませんよ。

夫  おれのためばかりでもない。

詩人  世帯のためだなう

妻  さうです。ですから、その方も休ましてもらひます。

夫  おい、おい、そんな無茶をいふやつがあるか。

妻  なんです。それは誰に向つておつしやる言葉です。あたしは約束の期間中、あなたから妻といふ取扱ひをうけないはずでしたわね。

夫  それと、これとは問題が違ふ。

妻  いゝえ、違ひません。約束の条文を変更しない限り、あたしには、なんの義務もありません。

夫  さういふならそれでいゝ。お気の毒だが鳥羽さんには、もうしばらく国へ帰つてゐて頂かう。

詩人  僕は国へ帰るのは困りますよ。そんなわけなら、どこかほかへ、下宿を探しませう。しかし、一体、その約束の条文つていふのは、どういふんです。差支なかつたら、僕に聞かしてくれませんか。或ひは、解釈の仕方で、奥さんが言はれるほどの面倒な結果にはならないかも知れませんよ。

夫  いや、実は、かういふわけなんです。われ〳〵夫婦は、一見ほかの夫婦と変つたところは、ないやうなんですが、よくその関係並に現在の状態を突つ込んで考へてみると、世の中にはまたとない不思議な夫婦なんです。(間)われ〳〵は、もと〳〵恋愛から出発した結婚をしてゐる。

詩人  僕が聞きたいつていふのは、その成立ちでなく、あなた方今日こんにち現在の関係、つまりその、世帯休業といふものに関する規約の条文です。

夫  それはつまり……(と言ひながら、机の抽斗ひきだしを開け、紙片を出す)

妻  第一に、我々夫婦は……。

夫  ちよつと待て、読んでみます。

 我々夫婦は左の規約に基き、一週間の間、夫婦関係より生ずる一切の精神的物質的負担を排除す。

一、夫婦は互に相手の存在を無視し、行動の自由を保ち得べきこと

一、夫婦はいづれも、現在の住所に起居する場合、談話応対等、全く従来の習慣を破毀し、総て別人としての待遇をうくべきこと

一、夫婦は、双方の自由意志又は家政一般に関する問題につき、如何なる場合といへども、助力、干渉、命令、相談、注文等をなさゞること

一、夫婦の一方が、一家共同の名誉利益に反する行為をなし、又はことさら相手に苦痛を与へんとする言動を犯したる時は、将来永久に夫又は妻としての権利を放擲したるものと認む

一、夫婦の一方が、疾病しつぺいかゝりたるときは、隣人として看護の労をとること、たゞし、体温三十八度以下の風邪、又は単に頭痛腰痛み等にありては、必要に応じ、薬を調達するのみをもつて足れりとす

一、休業中といへども、金銭の支出は、毎月の予算を超過せざること、但し、炊事停止による丼物どんぶりものの勘定は、この限りにあらず

以上

詩人  なるほど、可なり厳重ですね。しかし、僕がゐないものとして作られた規約なんだから、そこを少し改正して、なんとかならんこともありますまい。

夫  改正するとすれば、第二項に但し書を入れるんだが、双方異議はないかな。

妻  あたしの方は大いにあります。但し書によつて、この条項は全く死んでしまひます。行動の自由が全く保たれなくなります。

夫  それは止むを得んさ。われ〳〵は家庭以外に、束縛をいくらもうけてゐる。一方が下宿人の世話をすれば、一方が会社へ勤めなけれやならん。その点むしろ、現行規約は不公平なくらゐだ。

妻  一旦決めたもんを、そのくらゐの理由で、変更するのは不賛成です。

詩人  よろしい、僕一人のために、折角あなた方が、非常な期待をもつて実行されつゝある革命的試みを中断させるといふのは甚だ不本意ですから、この際僕の方で譲歩しませう。その代り僕にも一つ、その試みを成功させる上での、適当な役割を振り当てゝ下さい。そこで若し、許していたゞければ、僕がこんな提議をしたいと思ふんです。

夫  どういふことかよく判りませんが、まあ、言つてみて下さい。

詩人  現に、その規約についても、御二人の間に解釈の相違が生じてゐるやうなわけですから、あと三日間、もし一緒に住はれるといふ段になると、いろ〳〵不便なことが生じて来て、結局どつちからともなく規約を破つてしまふことになると思ふんです。さういふ場合に、僕がそばから公平な判断を下して、一々裁決をするといふことにしたらどうでせう。一方が誤つて規約に触れた場合も、僕が直ぐに注意をするといふわけです。これはうるさいかも知れませんが、一番実績を挙げ得る方法ぢやないかと思ふんです。

妻  あたくしは、さうしていたゞければ、結構だと思ひますわ。でも、お勝手はしたくないときにはしませんよ。

詩人  御心配は要りません。僕が台所は引うけます。


第二場


茶の間には寝床が敷いてあり、妻が夜着にくるまつて寝てゐる。

夫は座敷で洋服を着ながら、足で寝床を隅の方へ押しやり、朝食をする場所をこしらへてゐる。

詩人が台所から湯気のたつた釜をかゝへて来る。夫はシヤツ一枚で、急いで茶の間のチヤブ台をとりに行く。


夫  やア、どうもすみません。味噌汁の身はもういれてくれましたか。

詩人  いつ買つたんだか、豆腐が半分ばかり戸棚にはひつてましたから、そいつを入れました。

夫  いつんだらう。この前のだとすると、あれやあんたの立つた日ですぜ。もう五日にもなるが、大丈夫かな。(味噌汁の鍋をとりに行く。その間に、詩人は長火鉢に火をうつし、茶わんやはし箱を揃へる)

詩人  時間はいゝですか。(さう言ひながら、また台所へ行く)

夫  (食卓につき)ちよつと、おついでにしやもじをどうか……。

詩人  (しやもじを持つて来る。妻の寝床を飛び越える拍子に、妻の足をふむ)

妻  あ、痛た。

詩人  御免、失敬。

妻  あしたから、そつちへ寝ますからね。

夫  僕のそばへかい?

詩人  エヘン。

夫  (考へて)わたくしのそばへですか。

妻  馬鹿お言ひ、あたし一人でそつちへ寝るのよ。(起き上り)やかましくつて眠てられやしない。(夜具をたゝみ押入へしまふ)


その度毎に、風が埃をまくし上げて、男二人の食事を脅やかす。


夫  これは、たしかに規約違反だ。どうです、鳥羽さん。

詩人  第何項に該当しますか。

夫  「ことさら相手に苦痛を与へんとする言動を犯したる時云々」の項です。

詩人  さやう、まあ、これくらゐのことなら、苦痛とはいへますまい。


この間に、妻は着物を着終り、勝手の方へ行く。


夫  しかし、昨夜ゆうべ僕が、寝床へはひつてから講談を読んでゐたら、家内が「エヘン」と言つた。声を出して読んだことに対する抗議だらうと思ふが、これはどうですか。

詩人  奥さんは、もうやすんでをられましたね。

夫  眠つてはゐないはずです。

詩人  あとで調べませう。漬物がありませんね。

夫  ありません。


妻が顔を洗つて出て来る。鏡台に向ふ。


詩人  奥さん、昨夜ゆうべ伺つたところによると、御主人は来月から昇給ださうですよ。僕が代つて報告しておきます。

妻  それはお目出度う。また五円ですか。

夫  上らないよりやましだ。小遣がいくらか豊富になるし……。

詩人  エヘン。

夫  これもいけませんか。

妻  白粉おしろいがどうしてこんなに減つたんだらう。あたしの留守中、まさか使ふ人もないでせうにね。

夫  (詩人の顔を見る)

詩人  夜の化粧が女性の武器なら、朝の化粧は女性の勝どきだ。

妻  あたし、今日は活動が見たいの、一緒に行つて下さらない、鳥羽さん。

詩人  (夫の顔を見て)おともしませう。

妻  結婚してから、たつた三度きりよ、活動へれて行かれたのは。自分が嫌ひなものは人にも見せない方針らしいのよ。

詩人  エヘン。

妻  なにがエヘンなの。別に規約には……ないでせう、そんなこと。

詩人  ことさら相手に苦痛を与へんとする言動を犯したるとき……。

妻  誰が苦痛なの。どつちが苦痛なの。不公平よ、あなたは……。

詩人  審判官には苦情を云ひつこなしにしませう。納まりがつかないから。

妻  黙つてゐる方が得ね。

夫  そりや得だ。

詩人  エヘン。


勝手口で「今日は……八百屋ですが、何か御用は……」と云ふ声。誰も答へない。また「今日は、八百屋ですが、何か御用は」


妻  鳥羽さん、あなた要るもんがあつたら、註文して頂戴。

詩人  今日は間にあつてゐます。

夫  晩はいゝですか。

詩人  おい八百屋さん。何か野菜を少し持つて来てくれ。

八百屋の声  野菜は何にいたしませう。

詩人  何でもいゝよ、芋でも大根でも……。

八百屋の声  おいくらばかり……。

詩人  芋を五十銭に、大根を五十銭……。

妻  そんなに持つて来たつて仕様がないわ。

詩人  それぢや、ねえ、芋と大根を両方で五十銭……。

八百屋の声  毎度ありがたう……。

夫  その半分でよかつたですねえ。

妻  半分だつて多過ぎるわ。

詩人  エヘン〳〵。奥さん早く喰べないと、味噌汁がカスだけになりますよ。

妻  あら、あたしは自分でこさへてたべるからいゝんですよ。

詩人  へえ、僕が折角こさへたのに……。

妻  あなたは御自分のだけになさればいゝんですわ。めい〳〵勝手に好きなものを喰べればいゝでせう。

詩人  女はどうしてさう、偏狭なのかなあ。


この時玄関に御免なさいといふ女の声、妻たつて出て行く。


妻の声  まあ母さんなの。なんだつて、こんなに早く……あら〳〵、どうして……ちよつとお上んなさいよ。えゝ、今出かけるとこだわ。


妻が先に立ち、妻の母が入つて来る。


夫  (坐りなほし)いらつしやい。御無沙汰してゐます。

母  今ごはんですか。朝つぱらからどうも……実はね……。

妻  まあ、お敷きなさい、母さん。

母  お出かけで忙しいんだらうから、あたしには構はないで……お茶なんかあとでいゝから、お前お給仕をしておあげ。

妻  いゝのよ、勝手に食べさしておけば……あゝこの方ね、うちでそら、お世話してる方なの。鳥羽さんておつしやる詩人の方よ。これあたくしの母……。

母  はじめまして……どうぞ、さあ……。

妻  まあ、こつちへいらつしやい。何んのお話し一体、ゆつくりでいゝでせう。

母  あゝ、そりやもうなんだけど……実は門司の伯父さんね。今危いんだとさ。

妻  危いつて御病気だつたの。

母  それが急のことらしいよ。あたしも一度御見舞に行きたいと思ふんだけど、何しろこんな事情だしね……昨夜ゆうべお前が帰つてから、手紙が来たのさ。(帯の間から手紙を出して見せる)危いつていふもんの、かういふ事が云へるくらゐだから、お前まだ気はたしかなんだよ。とにかくそこに書いてある通り、一人も子供はないし……。

妻  (手紙を読みながら)一寸……いま読んでるんだから……まあ財産を分けて下さるつていふのね。(夫は急に顔をあげて、妻の方を見る)

母  をひや姪つて云つても、うちの兄弟三人きりだからね。姉さんとお前とあつしに、五万円づつつていふんだらう。

妻  なんだか嘘見たいだわ。

母  全く小説か芝居の筋にでもありさうな話さ。だけど、よくそんなに残したもんだよ。だが、それでゐて、お前不断をごらん。姉さんのときでもお前のときでも、お祝はたつた二円の為替かはせですよ。

妻  (誰れにともなく)五万円つて云つたら、百円の何倍になるの。

詩人  五千倍でせう。

妻  (夫の方を見て)さうなるかしら。

夫  (わざとそつぽを向き)計算してごらん。

母  どつちにしても、少いお金ぢやありませんね。このも果報者ですよ。

妻  (それとなく夫に)それだけあれば、もう少し陽気に暮せるわね。

詩人  (急いで)エヘン、渋谷さん、もう二十分前ですよ。

夫  それぢや、失礼ですが、僕はこれで……。

妻  でも、まだお話があるかも知れないわ。もう少しいゝでせう。

夫  (立ち上つてから)それもさうだね。今日は一時間ぐらゐ遅れても、いゝにはいゝんだ。

詩人  (これも立ち上り)エヘン〳〵。(さういひながら夫の背中をつく)

夫  (仕方がなしに歩き出しながら)しかしまあ、僕には関係の少い事だから、お前からよく……。

詩人  (相変らず夫を押しやり)エヘン……エヘン。


夫、挨拶もそこ〳〵に玄関に出る。妻の母が送つて出ようとするのを妻が裾をとらへて放さない。


第三場


その日の夜、夫と妻が座敷の隅で立話しをしてゐる。


妻  母さんを信用しない訳ぢやないけど、預つてやるつていふその目的が、あたしには分らないの。

夫  預つてやるつていふんなら、預けておいたらいゝぢやないか。僕がそんなこと口出しは出来ないよ。

妻  だから、それはあたしが云ふからいゝのよ。たゞ、一緒に行つて頂戴つていふの。女一人でそんな大金を受取るの、なんだか心配だし、どうせあたしが貰つたもんなら、あなたと二人のもんですもの。

夫  お前の気持はよく判るよ。だが、お母さんとしちや、僕に使はしたくないんだらう。赤の他人に、甘い汁を吸はせるやうな気がしてるんだよ。

妻  そんな法つてないわ。夫婦なら、どこまでも夫婦ですもの。


この時、階段を下りてくる足音がするので、二人は慌てゝ外の事をし出す。詩人があらはれる。


詩人  火種がなくなつちやつた。少し貰つて行きますよ。

妻  そこのを持つてつちやいやですよ。すぐおこるんだから、瓦斯ガスでおこしてらつしやい。


詩人渋々台所へ行く。


夫  (小説を声高に読みはじめる)「芳町よしちやうで幅の利く顔役、弥太やたらうげん七が出先から子分に持たせてよこした手紙を見た女房おげんの顔の色がさつと変り……」──それで、今の話しだが、心配なら送り迎へだけしてあげよう。

妻  ずつと門司までよ。

夫  (詩人の方に気を配り、読む)「すぐ近所にゐる主立つた子分数人を呼びよせた」──(妻に)それでもいゝよ。

妻  いつちませう。手紙には、すぐ来いつて書いてあるのよ。(低く)

夫  (読む)「みんな早速来てくれて有難うよ。実は出先から親分がこんなことを云つて来たのだ。さあ見てくれ」──(妻に)明日あしたでもいゝよ。

妻  着て行く着物は、どれにしようかしら……。

詩人  (台所から顔を出し)エヘン。(妻急いで、長火鉢の鉄瓶をおろす)

夫  (読む)「短い文句の手紙を、子分達は寄り合つて読んで見ると……」


その間に、詩人が十能を持つて現はれる。


詩人  奥さん、ねえ、友人の奥さんとしてお願ひするんです。蒲団の裏が段々ほころびて来て、綿がはみ出して来ましたよ。あいつを今晩は是非……。

妻  友人の奥さんなんて、あなたの友人つていふのは、誰なんですの。

詩人  この人さ。あなたの旦那さんさ。

妻  そんな人の存在は、あたし認めませんよ。

詩人  さうか、そいぢや奥さんが、直接僕の友人ならどうです。

妻  男の友人なんか真平まつぴらです。

詩人  御主人が聞いたら、さぞよろこばれるでせう。もつとも、そこで聞いてるから云ふんだらうが……。

夫  (また読み始める)「上州無宿者の名草なぐさ伊太郎いたらうが暗きをつて、そつと歩いてゐる。右へ行けば九十六間の両国橋、左へ行つて、船蔵前ふなくらまへの川にかけられた百八間の新大橋」


詩人は、ぢつとそれを聴いてゐるが、ふと妻の方に近づき、やゝ小声で、


詩人  今日旅で作つた詩を一つ読んで下さい。あとで清書してもつて来ますから。(さういつて階上へ上る)

夫  (読みつゞける)「川面かはづらを撫でて吹きわたる風に、襟許のうすらつめたさを気にする人も絶えてない夜更よふけに、ぽつり〳〵と二つの人影が寄りそうて、ピツタリ一つになつて行く」(妻に)蒲団のほころびを直してやれよ。

妻  いゝんですよ。寝方が乱暴なんだから……。

夫  (読みながら)「そこは、星はあれど地上はくらい河岸かし通り、船蔵前から水戸家石置場と、二人が一つに相寄つた黒い影は、まさに男と女」……片道いくらかゝるかな。行きは三等として。

妻  (夫の傍へにじり寄り)ねえ貴方あなた。あなた、今度そのお金がはひつたら、もう少しどうかした家へ引越しませうよ。広くなくつてもいゝから、お風呂場ぐらゐあつてね。

夫  それもいゝが、第一理想的な世帯休業がして見たいな。お前だつて小遣ひが十分なら、三日や四日で、おれのそばへ舞戻つて来る気はしまいしね。

妻  お母さんとこも、せい〴〵二日ね、三日からはもうお客さんぢやなくなるんですもの。

夫  それがさ、実家さとがいやんなつたら、此所こゝへ帰つて来なけれやならんといふ法はあるまい。同じ家で顔をつき合はせてゐるんぢや。いくら規約を作つたつて、完全な世帯休業が出来ないよ。おれは、まあかうして居てもいゝが、お前は温泉へ行くなりさ、友達を誘つて毎日芝居や活動へ出かけるつて云ふんなら、一週間ぐらゐ夢のやうにたつだらう。

妻  一週間ぢや、物たりないくらゐだわ。

夫  さうさ、おれの方でも亦それなら自由行動のとり方もある。会社から直様すぐさまこゝへ帰つて来なくつても、いくらだつて寄り道は出来るからね。一時、二時まで外にゐるつてことは、こいつ懐中ふところ十分でないと相当骨が折れる。

妻  だつてお金があれば、何も世帯休業なんてする必要はないんだわ。お互に気まづい思ひをしなくてもすむんですもの。

夫  いや、さうはいかん。それとこれとは別だ。とにかく、しばらく夫婦といふ名分から放れるといふことが、永い夫婦生活の間の息ぬきとして、誰にでも必要なんだ。

妻  でも、お金があれば、変化のある生活が出来るぢやないの……楽しみだつて、ふえるし。

夫  お前の愚痴も減るし。

妻  さうだわ、お金が入つたら、真先にどつか海岸へ行きませうよ。あたし、ホテル生活がして見たいわ。

夫  お前は勝手にさうするさ。独りでさびしかつたら、適当な相手を連れて行くんだね。

妻  まあ、それで貴方あなたは貴方で、適当な相手を引張り込まうて言ふの。

夫  まあその辺は、まかせといてもらはう。

妻  いゝわね、だけど、お金が入るつてことは、何も彼も新らしくなるつて気がするわ。あなたさういふ気持なさらない?

夫  おれはまだ、なんにもいふ資格はない。まあよろしくやつてくれ。


また詩人が降りて来る。原稿紙をもつてゐる。


夫  (知らん顔をして)「もし、この女のびんを吹く風しもにゐたら、白粉おしろいのぷんとしたかをり、髪の油のなまめかしさで、まだ年の若いのが判断されたゞらう」

詩人  (妻のそばに坐り)これです。短いもんです。

夫  (それにかまはず)「が、そこにたゝずむものとてはほかにないから、男ごころをときめかす香りも、伊太郎以外には、たゞいたづらに暗きにたゞよひ、吹き消されるばかり」

詩人  ちよつと、しづかに……。

夫  (暫らく黙読を続けてゐたが、次第に大きな声を立て)……「女はこらへかねて、もしと低くいつて、涙にむせんだ。春ではあるが、月は今夜のやうに冴え返り……」

詩人  わざと邪魔をするんですね。

夫  女に詩なんか読ましたつて、しやうがないですよ。お前も亦わかるやうな風をするから、先生、益々……。

詩人  益々どうしたんです。第一、そいつはエヘンだ。

夫  なにがエヘンです。

詩人  エヘンでせう。あなた方二人のどつちかゞ規約を破つた場合には、僕が「エヘン」といふことになつてる。今のはあきらかに、あなたの規約違反です。「夫婦は、双方の自由意志または家政一般の問題に関し、如何なる場合といへども、助力、干渉、命令、相談、註文等をなさゞること」

夫  いまのは、そのうちのどれに該当しますか?

詩人  干渉、命令、註文の三つも含みます。

夫  むしろ、助力だと思ひます。

妻  賛成!

詩人  え?

妻  賛成つて言ひましたわ。

詩人  誰にですか?

夫  僕にです。

詩人  あなたは黙つて……(妻に)誰にです。

妻  あの人に。

詩人  あの人とは誰です。

妻  そこに眼鏡をかけて本を読んでる人よ。

詩人  本を読んでる人、誰です、あれは。

妻  (面白がつて)渋谷八十一よ。

詩人  (しつつこく)渋谷八十一君とは、あなたのなんです。

妻  明後日あさつてからまた、あたしの夫になる人よ。

詩人  よろしい、僕の詩、早く読んで見て下さい。何処まで読みました?

妻  おしまひまで読みましたわ。

詩人  おしまひまで……? うそでせう。あなたも読む風をするだけだな。


この時、玄関の格子を開き「御免下さい」といふ女の声。


詩人  あ、鴨子かもこ嬢だ。僕の天使だ。僕の詩の唯一の読者フアンだ。上り給へ。(出て行つて、若い女の手を引張つて来る)

若い女  (手をついて)今晩は……。

妻  (愛想よく)今晩は、ようこそ……。さ、どうぞ、お二階へ。

若い女  あの、けふは奥様に少しおねがひがあつて、伺ひましたの。

詩人  僕は居たつてかまはないでせう。

若い女  いゝえ、貴方あなたがいらしつちやこまるの、秘密のお話だから。

詩人  それぢやあとで、二階へおいでなさい。(詩人二階へ上る)

妻  何んのお話、いつたい?

若い女  あのね、奥様にこんなことお願ひするの、変ですけど、あたしもう困つちやつて……。(あたりに気を配り)聞えやしないかしら……。

妻  大丈夫。ぢや、もつとこつちへいらつしやい。

若い女  (妻の方へにじりより)あたしね、はじめ、鳥羽さんつていふ方、もつと偉い詩人だと思つてましたのよ。ですから、少し崇拝しちやつてたの。お笑ひになつちやいやよ。でも、この頃やつとほんとのことが判つて来たの。それに、あの方時々うちへなんか入らつしやるでせう。なんどそれは困るつていつても、お判りにならないのよ。父がそのたんびにいやな顔をするんですもの。「ありや何処の乞食だ」なんてあとで言ふのよ。あたし困つちやふの。でも、かう言つちや悪いけど、随分ひどい下駄をはいてらつしやるのよ。

妻  あの下駄でせう。あれしかないんですもの。

若い女  それだけならよござんすけど、うちなんかで、あんまりなれ〳〵しい口のきやうをなさるものだから、母でさへ怒つてますわ。

妻  で、つまりあなたのお宅へ伺はないやうに、あたしから言つて呉れつて仰つしやるのね。

若い女  えゝ。それと、あたしも当分伺へないからつて、直接ぢや又、うるさうござんすから、これも奥様から……。

妻  やれ〳〵、大変な役目ね。


詩人階段の上から半身をあらはし、


詩人  まだですか。

妻  まだよ。

詩人  かもちやん。いゝかげんに話を切りあげて、こつちへいらつしやい。

妻  そんなとこから顔を出すもんぢやありませんよ。(詩人引込む)

若い女  あたし、あの方の顔を見るのも、なんだかこはくなつて来たわ。

妻  (夫の方に行き)ねえ、貴方あなた、お聞きになつて……鴨子さんのお話。

夫  あらまし聞いたよ。

妻  どうしたもんでせう?

夫  相談かい、相談なら規約によつて、御免蒙るよ。

妻  そんな戯談は兎に角として、あたし達がそんなこと言つたら却つて怒りやしないかしら。

夫  さあ、お前に出来ると思つたらやつて見るがいゝ。(詩人の、「エヘンエヘン」といふ声)

妻  (平気で)うるさいのね。人が話をしてゐるのに、せきばらひなんかして。


この時又玄関の格子が開き、


声  渋谷君居ますか、僕です。茶木ちやきです。

夫  (勢よく立上り)居るよ、上り給へ。


客はもうづか〳〵と上つて来る。


茶木  (両手で麻雀マージヤンをやる真似をしながら)どうだい一番。

夫  よからう。

妻  久しぶりですわ。鴨子さんも如何どう


一同はテーブルを囲み、賑やかに麻雀マージヤンをはじめる。わけても主人夫婦のはしやぎ様は一と通りでなく、妻は夫の腕をつねり、夫は「痛い、こん畜生」などと他愛もない和合ぶりを見せる。二階からはしきりに「エヘン、エヘン。鴨子さん、エヘン。鴨子さん」で、遂に綿のはみ出したかけ蒲団が麻雀卓マージヤンテーブルのそばへころがり落ちて来る。

一同はやゝ驚いた風をするが、後は何事もなかつたやうに、夢中で牌をわけはじめる。やがて、帽子をかぶり、鞄をさげた詩人が下りて来て、玄関の方へ行かうとする。


妻  鳥羽さん、どつかへいらつしやるの。

詩人  えゝ。

妻  いつてらつしやい。

詩人  (急にその方をふり返り)何処へ行くか知つてますか。

妻  お引越になるの?

夫  あ、本当ですか、鳥羽さん、それや残念ですな。

詩人  はゝゝゝ。なる程、引越しとまでは僕も気がつかなかつた。いや、さう仰つしやれば、実はその引越しをするつもりです。鴨子さん、あなたも何か仰つしやい。

鴨子  あら、本当ですの。ぢや御機嫌よう。先生。

詩人  それだけ? よろしい。僕は詩人だ。人がわすれてゐるものを思ひ出しさへすれば、それで役目がすんだのだ。荷物はいづれ宿がきまり次第とりに来ます。

夫  確かにお預りしておきます。僕たち夫婦で、今度は責任をもちます。

妻  お蒲団の綻びも、それまでに縫つておきますわ。

鴨子  あたしの差上げたしをりだけ、お持ちになつてね。

鳥羽  いゝな、その言葉は。しかし、滅多に使ふのはよし給へよ。ぢや皆さん、ながらく御厄介になりました。いや〳〵、どうかそのまゝ。(誰も送つて出ようともしない。詩人は玄関の方に去る)

鴨子  本当に引越すの、あの方。

妻  あれで心はいゝ人ね、すこしうるさいだけよ。

夫  だが、呑込のみこみだけは早いな。察しのつくこと驚くべしだ。

茶木  簡単に出て行くね。どうだい、代りに僕が来ようか。

夫  (顔を見合せ同時に)もう人をおくのは、コリ〳〵だ。

妻  もう人をおくのはコリ〳〵よ。

鴨子  あたしなんだか、気の毒になつて来たわ。


不意に鳥羽があらはれ、手紙を放り出す。


鳥羽  郵便が来てましたよ。(よごれた二足の下駄をすかして見る)


玄関が暗くてよく見えない。


妻  (封筒の宛名を見て)あたしんとこだわ。

茶木  (鳥羽の方を見て)あ、それ、片方は僕んです。

妻  (封筒を裏返し)おや、門司のをばさんからだわ。たうとう駄目だつたのかしら。(開封して黙読す)


鳥羽と茶木とは、下駄を代る代るにとりかへて見比べる。


妻  (突然)人を馬鹿にしてるわ。(一同驚く)

妻  (夫に)これ御覧なさい。をぢさんは気が違つてゐるんですつて──だから何を言つても本気にするなつていふのよ。

夫  (読みながら)なんだ、これで見ると金持どころの騒ぎぢやないぢやないか。

妻  人さへ見れば、五万円づつやるつていふらしいわね。なるほど、それぢや病気だわ。


鳥羽、茶木、鴨子何れも唖然としてこの話を聞いてゐる。


鳥羽  (にや〳〵しながら)さういふ病気は苦しくないだけいゝよ。

妻  まつたくだわ。

鳥羽  そこで我らは又逆戻りだ。(二階へ上りかける)

夫  (てれくささうに)ぢや鳥羽さん、御覧の通り世帯はまた開業ですから、どうかよろしく。

鳥羽  いやなに、どうぞ御遠慮なく。(さういひすてゝ、サツサと二階へ上る)

──幕──

底本:「岸田國士全集5」岩波書店

   1991(平成3)年19日発行

底本の親本:「花問答」春陽堂

   1940(昭和15)年1222日発行

初出:「朝日 第四巻第一号」

   1932(昭和7)年11日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2008年319日作成

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