序文
岸田國士



マルセル・プルウスト   四十六

アンリ・モルビエ     三十四

ジャック・グランジュ   五十二

看護婦          二十五

下男           四十


巴里──プルウストの病室


プルウストは、寝台の上に半身を起し、看護婦に脈を取らせてゐる。


モルビエ  (黙つて、傍らの新仏蘭西評論エヌ・エル・エフを取り上げ、バラバラと頁を繰る。看護婦が出て行くのを見送つた後)兎に角、この間の編輯会議でも、そのことはかなり問題になりました。みんな、その序文を早く見たいもんだつて云つてゐました。なにしろ、アナトオル・フランスが「ラ・ギヤルソンヌ」の序文を書いたのと、丸で訳が違ひますからね。

プルウスト  …………。

モルビエ  われわれの仲間は、ジャック・グランジュといふ男を、文人としてもですが、殊に、画家としてはまるで認めてはゐないんですからね。社交界に顔の売れた男としてなら、誰でも識つてゐます。なるほど、大家の肖像を可なり描いてゐるといふ話ですが、それだけで、芸術家の仲間入りは出来ませんからね。バレス、ハアディイ、ジイド、ジャム、それから、プルウスト…………。

プルウスト  (眉を寄せる)

モルビエ  誰が、その肖像を真面目に批評しました。彼がさういふ得難い機会を捕へたといふのは、畢竟、彼が子供の時、偶然、ドガのモデルになつたといふ事実と同じです。おまけに、彼の小説といふやつをお読みになりましたか。「天使がなんとか」つて題の…………。僕も読んではゐませんが、愚劣なもんださうですね。

プルウスト  (また顔をしかめる)

モルビエ  (それにかまはず)今度出るつていふ「文字による肖像」ですか、内容は、断片的に知つてるんですが、彼にセザンヌの何処がわかるんです。ファンタン・ラトゥウルをどう見てるんです。

プルウスト  批評とは云へないさ。

モルビエ  なほさうです。彼は、例の饒舌で、楽屋噺をして聴かせる。それが、彼の見栄です。あなたの序文を貰ひたかつたのも、その見栄の延長ですよ。あなたのやうな人から、モン・ナミ・ジャックとかなんとか云つて欲しいからなんです。

プルウスト  さう呼んでもいゝんだから、しかたがない。

モルビエ  幼馴染としてゞすか。しかし、あなたの芸術的地位が、今は、もう、それを許しません。あなたの書かれたものは、一言一句、新時代に芸術的影響を及ぼすものと思つて下さらなければ困ります。あなたが、序文を引受けられたといふ話だけで、既に彼の才能は不当に高く評価されようとしてゐるんです。無論、一部での話ですが…………。

プルウスト  それならいゝさ。

モルビエ  実は、この間も、その話を開いて、是非それだけは止めて貰はうなんて、こゝへ押しかけて来さうにした連中がゐました。僕が、今は面会謝絶で駄目だつて云ひますと、そんなら、電話で話さうといふわけです。電話をお引きにならないのが、とんだ役に立ちましたよ。

プルウスト  (苦笑する)


この時、下男がはひつて来る。


下男  ムッシウ・ジャック・グランジュが、お見えになりました。

プルウスト  モルビエ、君は、また話に来てくれ給へ。

モルビエ  お大事に…………。なにか、社へお言伝はありませんか。

プルウスト  今、別にない。ジイドに、あんまり勉強するなつて云つてくれ給へ。


モルビエ、去る。

下男が、ジャック・グランジュを案内して来る。


グランジュ  モン・シェエル・マルセル! 思つたほど窶れてもゐないね。

プルウスト  本が出来ましたね。

グランジュ  (手にもつた新刊の自著を相手の手に渡し)これを見せたいのでやつて来たんだ。いろいろ、心配をかけて、どうも…………。

プルウスト  (頁を切つてない本を、そのまゝ開いたり閉ぢたりしてみる)

グランジュ  珍しく誤植の多い本でね。君は誤植は嫌ひだらうな。

プルウスト  …………。

グランジュ  実は、こいつを見せたくもあるのだが、その序文のことで、我輩、少し、云ひたいことが、こゝへ(胸をおさへ)つかへてるんだ。

プルウスト  やつぱり気に入らないつていふのか。

グランジュ  いや、いや、それどころぢやない。しばらくお喋舌をしてもいゝかい。

プルウスト  いゝとも…………。

グランジュ  最初の手紙にも書いておいた通り、我輩が君に頼んだのは、たゞ、あのオオトイユ時代の思出を書いてもらひたいといふことだつたんだ。我輩の提灯持ちを頼んだ覚えはない。

プルウスト  …………。

グランジュ  我輩が親爺にせがんで、あの菩提樹のあつた芝生へ、アトリエを建てさせた時代さ。君が、親爺の診察室から出て来るのをつかまへて、無理に、カンヷァスの前へ坐らせた、あの時代の、お互に今日あることを知らなかつた、あの時代の思ひ出を書いて欲しかつたんだ。

プルウスト  それを書いたつもりだが…………。

グランジュ  それも書いてくれた。しかし、君は、書かないでもいゝことまで書いた。我輩は、君が云つてくれるやうに、今日、名を成した画家かどうか? 君の友人たちは、ジャック・グランジュといふ画家を知つてゐるかね。少くとも、君たちの新仏蘭西評論エヌ・エル・エフは、我輩にルノアールの印象を書けと註文はしたが、我輩の展覧会は、見事に黙殺してゐる。それは当り前のことだ。君が、この序文の中に書いてゐるやうに、我輩の描いた絵は、何処の家でも、一番暗い部屋の、一番目立たないところに掛けてある。それも、どうかすると、我輩を招待した日だけ、そこへ出したやうな掛け方をしてある。君は、それを、流行以外に目のない社交婦人の計ひに帰してゐるが、すぐその後で、我輩の絵は、今日一つの流行を作つたなどと、君に似合はないとぼけ方をしてゐる。君は、なぜさういふ事が云ひ度いのだ。

プルウスト  …………。

グランジュ  我輩が、君に序文を求めたのは、云ふまでもなく、君のやうな傑物を、幼馴染にもつた光栄を、天下に誇りたいからだ。さうだ、それだ。君の文章で、ラルウスも忘れてゐるやうなヘツポコ絵かきが、一躍、巴里の画壇に重きをなさうなどゝ、露ほども考へてはをらんよ。我輩の年で、芸術家名鑑に一行の閲歴も載つてゐないやうな画家がほかにあるかね? 君が、この文章の中で、暗に苦心をしたところがよくわかる。何処を苦心したかと云へば、我輩を如何にして、「一人前の」芸術家として取扱はうかといふことだ。

プルウスト  …………。

グランジュ  いや、君からの手紙でも、その苦心は察しられた。君の周囲が、この序文問題で、どういふ風に動いたかといふことも、薄々知つてゐる。君には、非常な勇気が必要だつたのだ。我輩は、殆んど後悔したくらゐだ。だからこそ、君の再三の手紙に、我輩は再三答へたのだ──率直に書いてくれ。決して我輩に花を持たせる必要はない。…………待ち給へ。批評的でなくては書けないといふなら、何処をどう突いてくれてもいゝ。君が序文を引受けてくれたことだけで、君の友情は信じることができる。かう答へた。だが、君は、まさか、我輩が、その友情に縋つて、君から何ものかを求めようとしてゐたのだとは、考へてくれまいね。

プルウスト  …………。

グランジュ  我輩が君のところへ押しかけない日は、君が我輩のところへやつて来た、あの頃から、もう三十年近くになる。その間にお互偶然に顔を合はせたことが、忘れもしない、たつた三度だ。同じ巴里に住んでゐてだよ。君が、ゴンクウル賞以来、我輩がニニイとの馴れ初め以来だ。その間に、ドレフュス事件がきつぱり二人を引裂いてしまつた。君は、その当時、いや、今でもかも知らんが、ドレフュス党であることを大変自慢にしてゐた。しかし、そんなことはどうでもいゝ。我輩は君の消息を、一から十まで知つてゐたのだ。君の家の夜会に、今度は誰々が呼ばれてゐるといふことや、君の「スワン」が、最近スカンヂナヴヤ語に訳されるといふことや、そんなことまで残らず知つてゐた。

プルウスト  …………。

グランジュ  そればかりではない。我輩は、到る所で、会ふ人毎に、君のことを喋舌り過ぎると思ふくらゐ喋舌つた。喋舌らずにはゐられないんだ。君の話をする時ほど、人が我輩の言葉に耳を傾けてくれる時はないんだ。そのためではない。そのためではないが、我輩は君の書くものは、全部、悉く読んでゐる。愛読…………そんなけちな読み方ぢやない。なあ、おい、マルセル、我輩は、血眼になつて読んだんだ。

プルウスト  …………。

グランジュ  あの筆で、いや、あの素晴らしい感覚で、あの頃の二人のことを書いて欲しかつたんだ。君の名前だけで、この本を飾るつもりはなかつたんだ。君が送つてくれた序文の原稿を受け取つて、我輩は、胸を躍らした。読みはじめると涙が出た。殊にあそこだ…………(本を取り上げて読む)

すべて、見える世界から見えない世界へ還つたもの、すべて思ひ出に変つたもの、今はもう、跡形もないあかしでの並樹が、われわれの心に、今もなほ影を落とす…………

プルウスト  読むのはよしてくれ。

グランジュ  どうしてだ。しかし、その先へ行くと、急に酔ひが覚めたやうな気がした。

プルウスト  もういゝ。

グランジュ  いや、我輩もそこは読みたくない。君は、真実であらうとして、気の毒なほど骨を折つてゐる。君は、誰にも気づかれぬやうに、我輩をやつゝけてゐる。──我輩の親爺が生きてゐたら、さぞ驚くだらう、息子のジャックが──その絵をみんな冗談扱ひにしてゐた息子のジャックが、今は、その当時のアカデミシヤン以上に偉くなつてゐるのだ──と、まあ、かういふ調子でやつゝけてゐる。

プルウスト  (悲痛な面持で)ジャック!

グランジュ  が、しかし、それはまあ、君の心尽しとして、公には、有りがたく思つてゐよう。ところで、もう一つ、君の誤解を解いておきたいことがある。それは、やつぱり、この序文の中で、君が婉曲に、我輩の態度を戒めてくれてゐる、そのことでだ。君は、サント・ブウヴの「月曜閑談」を例に取つて、彼が、その中で、モレ伯爵や、サンド夫人や、メリメその他を大作家の如く許してゐることが、後世、文学に疎く、十九世紀を知らない人々を如何に誤らせるかを説き、そのサント・ブウヴが、例へば、スタンダアルといふ変挺子な筆名を考へ出したベイルのことを、「あれや、小説家ぢやない」と云つたら、どうだと問うてゐるね。ところが、それは、サント・ブウヴが、メリメやサンド夫人と同じやうに、ベイルと一緒に飯を食つてゐる時の話だと云ふんだね。その筆法を、我輩がこの本の中で真似たと、君は考へてゐる。

プルウスト  真似たとは云はない。

グランジュ  学んだか、どつちでもいゝ。それから、かう附け加へてゐる。ジャック・グランジュは、好んで大芸術家の偉大ならざる半面を語つて自ら快しとする風がある。例へば、マネエの如き、この革命家が、勲章を欲しがり、サロンを目当てにのみ仕事をしてゐたと伝へるのは、甚だ怪しからんと云ふのだ。ジャック・グランジュは、かのサント・ブウヴのなしたるが如く、往々芸術の観点から人を見ずして、歴史の領域に足を踏み込んでゐる。

プルウスト  だから…………。

グランジュ  うん、だから、そこがこの本の興味だと、君は云つてゐる。しかも、その程度は、サント・ブウヴ程極端ではないとも云つてゐる。が、そこだ。我輩が忠実な印象を私心なく書き止めたところを、君は、この本の中で、最も、気にかゝる部分だと指摘してゐる。恐らく、君のことを書いた頁の中にも、さういふところがあつたに違ひない。

プルウスト  …………。

グランジュ  あ、この本には、君のことは書かなかつた。これは、我輩の礼儀だ。しかし、恐らく、我輩が何時か君のことを書くだらうと思つて、一層、その点に神経が働いたのだ。

プルウスト  (はじめて微笑する)

グランジュ  それなら、安心し給へ。君が中学時代に、よく仲間を集めて演説みたいなことをやつてゐた、その時の口調やよく使ふ形容詞を我輩は覚えてゐるのだが、そんなことを書くと、君は怒るかね。それから、君が一番仲よしだつた、あの女の子、…………あゝ、あのことは、君がもう小説に書いたつけな。(間)うん、さうだ。サント・ブウヴの話が、まだ残つてゐた。なるほど、彼が、同時代の作家に対して、公平な評価を下し得なかつたことは、返す返すも遺憾なことに違ひないが、「月曜閑談」は依然として仏蘭西文学の珍宝だ。それがために、われわれは却つて、十九世紀を識り得るのだ。我輩如きが、如何に、モネエをこき卸しても、君がこの序文の中で、一言、おれはジャックの意見に反対だ、モネエの中には、マネエの傑作に匹敵するものがあると云へば、後世は、それを信じるのだ。だがね、マルセル、我輩は、美術評なんていふものを信じてはゐないよ。我輩はたゞ、自分の眼で見たものを、そのまゝ描かうとする肖像画家だ。ねえ、こいつはどうだらう、かういふ事実は、三十年後の人間に多少興味はないだらうか。──大家アンリ・マチスがだよ、千九百二十年の二月二日に、オペラの舞台の上で、背広に金縁眼鏡といふ恰好で、多勢の踊子と舞踊教師に手を引かれ正体もなく肩をゆすぶつてゐたことだ。自分自身恃むところのある人間といふものは、誰が見ても美しいものだ。君には、それがわからんのだらう。

プルウスト  …………。

グランジュ  我輩の眼には、君が、たゞ美しいのだ。偉大なのだ。君が、何を書いてくれても、我輩には、たゞうれしい筈なのだ。事実、この通り感謝してゐる。今度のことで思ひ出すのは、君が我輩のモデルになつてくれ、昼になると、我輩の家の食堂で、よく一緒に飯を食つた事だ。飯を食ひながら、二人は議論を闘はした。君が声を張り上げると、我輩は、それの二倍ほどの声で応戦した。そばから、親爺がかう云つたもんだ。──おい、ジャッコ、マルセルを興奮さしちやいかん、奴さん、本気で悪口を云つてるんぢやない。お前をからかつてるんぢやないか。まあ、冷たい水でも一杯飲め。ゆつくり、一口づゝ飲むんだ。百云ふ間に飲め!

プルウスト  (微笑する)

グランジュ  笑つてるが、それはほんとだ。君の恐ろしい分析の力で、僕の心の底を掘り下げてみてくれ。そして、同時に、君の感情の網を引裂いてみせてくれ。サント・ブウヴの轍を踏んだのは、我輩でなくて、寧ろ君ぢやないか。「今や、一つの流行を作つた」と称せられる我輩の肖像画は、いまだに、何処の家でも明るい場所へ掛け替へられたといふ話を聞かないのだ。マルセル・プルウストは、一九二〇年代の美術界を、どの孔からのぞいてゐたのだと、後世の批評家は疑ふだらうよ。いや、もう、こんなことを云ふつもりはなかつたのだ。我輩は、たゞ最後に、凡そ趣味を解する人間が、自分の名を傍らに、別の名が並んでゐることを至極気にするものだといふこと、その点、我輩は、甚だ君のために心を痛めてゐることを告白する。しかし、それは、もう取り返しがつかない。また、取返しをつけたくない。この序文が出来上るまで、君が度々くれた手紙に、僕が度々返事を書いた、あれだけで、僕の気持はわかつてくれると思ふ。辞退すべきものを辞退しなかつた理由も、君の友情を信じ、我輩の過を二重にしたくない、たゞそれだけだ。しかし、全世界のプルウスト党は、この我輩の難題によつて、少くとも二つの「文字で書かれた見事な肖像」を君の頁の中に加へることが出来たのだ。一つは君のお父さんの肖像、一つは我輩の親爺のそれだ。たゞ、我輩に罪がありとすれば、それこそ、君の嫌ひな皮肉──その皮肉に満ちた自画像を君に描かせたことだ。

プルウスト  (苦笑する)

グランジュ  どういふわけだか、そこで我輩の名を故ら書いてないが、あの話は、全く思ひ出しても可笑しいね。アルマ行の乗合馬車で一緒になつた話さ。君はしかも、燕尾服だぞ。君の家には立派な馬車があつて、何処へ行くのにも大概それに乗つて出たものだ。それが、あの服装で、乗合だ。我輩、不思議に思つて、何処へ行くと訊ねたら、君は、妙に照れた顔をして、舞踏会だといふ。益々可笑しいと思つて、何処のつて訊くと、君は、ワグラムの舞踏会だつていふぢやないか。当時ワグラムの舞踏会つて云へば、大家の下男下女が、月一度の休みに開くワグラム軒のあれぢやないか。我輩は、驚いたが、また君のことだから、そんな酔狂をやるんだなと思つて、そんなら、もつと威張つて行け、招待されたやうな神妙な顔附は止したらいゝだらうなんて揶揄つた。すると、後で知れたんだが、ワグラム公爵夫人の夜会に行くところだつたんだつてね。家の馬車が、満員で、君一人乗合でやらされた、それを君は、大いに悄気てゐたわけだつた。我輩は、それをまた手柄顔に吹聴して歩いたもんだ。ハヽヽヽヽ。君は、そのことを、人事のやうに突つ放して書いてる。

プルウスト  今書けば、どうせ人事さ。

グランジュ  だが、実際、君には、うつかりしたことは云へないよ。あれはどうだ、あれはもう人事かね。君が、あの処女作の沸きかへるやうな評判の中で、毎日、ヨカナアンのやうに憂鬱な顔をしてゐた頃だ。我輩の顔をみると、いきなり、かう云つたもんだ。──ねえ、君、僕のところへ、もう何通、いろんな奴から手紙が来たと思ふ。八百七十通だよ。それから、ポオル・モオランといふ男が、讃歌を作つて寄越したよ。新聞や雑誌の批評は碌に見ないが、目についたやつは腹の立つことばかり書いてある…………。我輩が、それや、味方もあれば敵もあるさ、かういふと、なに、みんな味方面はしてるんだ。ところが、その味方面が癪にさはるんだ。そこで、我輩は、なんて云つたか覚えてるかい?

プルウスト  (笑つてゐる)

グランジュ  ──まあ、さう怒るなよ。また親爺が、当分絶対安静を宣告するぜつてだ。君は、昔から、正しいといふことに対して、百合の花のやうに無垢な考へ方をしてゐた。そんなことは、片眼鏡式外交官的心理小説家などに解る筈はない。ねえ、おい、マルセル、我輩は、君に、毎日でも会ひたかつたんだ。みんなが君に会ひたがつてゐるやうに、我輩も会ひたかつた。今だから云ふが、もう十年も前のこと、一度、こんなことがあつたよ。君を例のオッスマン通りの家へ訪ねたんだ。門番の奴が──プルウストさんは、今、ストラウス夫人のお邸へおいでになつてゐます。そこで、また、イエナの広場へ引返した。今度は、──たつた今、レジャンヌ夫人の楽屋へいらつしやいました。その足で巴里座の楽屋さ。はひらうとすると、ポルト・リシュとエルヴュが廊下にはみ出してゐる。ミルボオの声だけが部屋の中から聞えるんだ。我輩は、諦めて、君が、恐らく帰り途に寄るだらうと思つたセレスト嬢のサロンへ腰を据ゑたんだ。待てど暮せど君の姿は見えない。その時のセレスト嬢は、我輩の失望を、どう云つて慰めてくれたと思ふ。

プルウスト  …………。

グランジュ  かう云つて慰めてくれた。──あの人は、レジャンヌ夫人と二人きりになるまで帰りはしませんよ。そして、取つて置きのフィイヌを一本あけてくれたよ。

プルウスト  (目の前の書物を取り上げ、また、頁を繰りはじめる)君、済まないが、そこに紙切ナイフがあるから取つてくれ給へ。

グランジュ  (ナイフを渡す)

プルウスト  ありがたう。

グランジュ  かうして本にしてみると、やつぱり、その序文はあつた方がいゝ。書き直して貰ふくらゐなら、止すつもりでゐたんだ。しかし、君が最後に手を入れたところは、その通りになほつてゐる筈だ。

プルウスト  君の剛情には全く弱るよ。今度ぐらゐ自分の書いたものに不安をもつたことはない。

グランジュ  かうして、会つて話をしてからでも、まだ書き直したいか。

プルウスト  …………(読みつゞける)

グランジュ  君の仲間にも偉い奴はゐるだらうが、元来、新仏蘭西評論エヌ・エル・エフといふ雑誌は、君がゴンクウル賞を受けるまで、君の書くものを受け附けなかつたんだぜ。その理由は、君が社交界を題材にした小説しか書かないからといふのだ。そのことについて、我輩は「マタン」で、何時か手ひどくあの雑誌を攻撃してやつた。その時の、君の礼状みたいなものを、我輩はまだしまつてある。

プルウスト  なるほど、こゝのところは、少しひどすぎたな。

グランジュ  (のぞき込み)何処、え、何処…………。

プルウスト  (ある個所を示し)言葉が足りないんだな。

グランジュ  なに、かまわんさ。我輩は、この次の本で、その序文に対する返答を巻頭につけようと思つてゐる。今日、こゝで云つたやうなことを、みんな書くつもりだ。

プルウスト  それはよした方がいゝ。

グランジュ  いや、さうするよ。これは君の友情に酬いるたゞ一つの方法だ。君の立場を明かにして、君の周囲のものを安心させてやるよ。

プルウスト  そんなことをする必要が何処にある。今、読み返してみて、多少云ひ足りないところはあると思ふが、全体を通じて、僕の考へは明白に出てゐる。取り消さなければならないところはない。

グランジュ  それや、ほんとかい。

プルウスト  ほんたうだ。

グランジュ  よし。ありがたう…………。


長い沈黙。


グランジュ  君の健康も、だん〳〵恢復するやうだし、これからまた、どし〳〵傑作を書いてくれ。君が、サラ・ベルナアルの年まで生きられるんだと思ふと、我輩は実に愉快だ。そのうちに、アカデミイ・フランセユズで、君は、ジャック・リヴィエエルやアンドレ・ジイドと椅子を並べるだらう。ポオル・モオランも、その次ぐらゐにはひるかな。その頃は、ポオル・クロオデルが君たちの仲間に加つて、仏蘭西大統領に納まるだらう。さうすると、我輩の絵も、お蔭で、肖像博物館に陳列されて、──おや、これは、家にあるジャック・グランジュつていふ三文画家の絵みたいだ、なんて、臆面もなく立止つて見る見物人も出て来るわけだ。

プルウスト  (ひそかに眉を寄せる)

グランジュ  してみると、やつぱり、君の、あの志願兵の軍服姿を、一枚描いとくんだつたな。アツシリヤの王子みたいな奴をさ。

プルウスト  (笑はうとしない)

グランジュ  だが、我輩の絵は兎に角、モデルの選択については、大に自慢してもいゝことがあるんだぜ。

プルウスト  それは、この序文に、僕が書いたことだ。

グランジュ  あゝ、さう〳〵。──但し自分を除いてはと、君は書いた。それを除かれてたまるもんか。君の肖像を描いたのも、君のゴンクウル賞以前だ。ジイドにしろ、バレスにしろ…………。

プルウスト  (やゝ荒々しく)もうわかつてる。

グランジュ  大家になつてからの肖像なら、誰でも描く。その最も甚しいのは、ヴェロニだ。君のところへはまだ来ないかい。

プルウスト  …………。

グランジュ  もうぢきやつて来るから、見てゐ給へ。(間)怒つたのかい、マルセル…………。

プルウスト  …………。

グランジュ  我輩のお喋舌は、つまらんだらう。

プルウスト  …………。

グランジュ  さうだらう。実際、それでなければ、三十年近く、訪ね合はないといふ理屈はないさ。しかし、お互、随分、いろんな意味で距りが出来てしまつたな。我輩は、つくづくさう思ふよ。君の住んでゐる世界は、もう、外からでなければ覘けなくなつてしまつた。それも、どうかすると、眩しくつて、よく見えないことがある。この間の手紙に、君は、我輩にだけは、なんでも云へると書いて寄越した。我輩もまた、君にだけは、何処を見られてもいゝやうな気がしてゐるんだ。君は、昔、人真似のうまい男だつた。教師の声色なんか、手に入つたものだつた。よく、それでみんなを笑はせたぢやないか。今、こゝで、ジャック・グランジュがジャック・グランジュの真似をしてゐるんだ。可笑しければ笑つてくれ。我輩は…………我輩は…………君の笑つた顔を見て帰りたい。その記憶を、最後の記憶として、大事にしまつて置きたいんだ…………(涙ぐむ)


長い沈黙。


プルウスト  (静かに)ジャック…………モン・シェエル・ジャック…………赦してくれ。僕は、今、ほかのことを考へてゐたんだ。いや、外のことではない。昔のジャックのことを考へてゐたんだ。あの頃、よく、頭髪あたまに花をさした美しい娘が、君のアトリエの前で馬車を止めさせて、君が絵を描くのを見てゐた。さも、君の描いてゐる絵が、よくわかるやうな顔をして見てゐた。その眼附には、しかし、ある不思議を感じる色が浮んでゐた。こんな立派な服装をした男の指から、しかも昨夜、食卓で、あんな面白い、あんな憎らしい話をした男の指から、どうしてこんな見事な絵が生れるのか、さういふ疑ひを、僕はその眼の中に読んだのだ。ジャック! このことを、僕は、この序文の中に書くのを忘れてゐた。さ、手を出し給へ。今日は、ひどく疲れたから、少し眠ることにする。案内はさせないから、いゝ時に帰り給へ。


二人は、長い握手を交す。

プルウストが、横になつて眼をつぶるのを待ち、グランジュは、足音を立てないやうに部屋を出る。ベットの上にあつた例の書物が、パサリと床に落ちる。

底本:「岸田國士全集5」岩波書店

   1991(平成3)年19日発行

底本の親本:「浅間山」白水社

   1932(昭和7)年420日発行

初出:「中央公論 第四十六年第二号」

   1931(昭和6)年21日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2008年319日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。