喧嘩上手
(トオキイ脚本)
岸田國士



人物(画面に現はれる順)

春日珠枝  更子の弟子

天城更子  映画女優

老婢よし

武部    日の出新報記者

横川    更子のパトロン

嬉野    弁護士

三堂微々  漫画家

加治わたる 同右

中根六遍  同右

新聞記者A

同B

同C

運転手

監督

高見    「トオケウトオキイ」支配人

社員

女優A

男優B

女優C

女優D

家庭倶楽部記者

客A┐

客B├雑誌記者

客C┘

宝石屋の番頭

女給A

同B

同C

その外、無言役多勢


     一


○天城更子の家の応接間。


弟子の春日珠枝が襷掛けで歌を唱ひながら掃除をしてゐる。午後十時。


○更子の寝室。


寝台で眠つてゐる彼女。

老婢よしが新聞の束を枕下に置いて去る。


○応接間。


珠枝  先生はまだ眠つてらしつて?

老婢  まさか狸寝ぢやありますまいね。こないだみたいに、胡瓜の尻尾を口へ入れてたらさ、あんた、「婆や何たべてたの」なんて、後で云はれるんだから、油断がなりませんよ。


○寝室。


更子が眼をさます。半身を起し、新聞を一つ一つ取上げて、演芸欄に日を通す。「ふん」とか、「ちえツ」とか、「へえ」とか、ひと通りの挨拶。さて、最後の一枚を取り上げ、

更子  どうしたつて云ふんだらう。近頃、さつぱり名前が出なくなつちやつたわ。そのくせ、何本も取つてるんだけど……。

が、彼女の眼は、急にある頁に吸ひ寄せられる。彼女の漫画が出てゐるのだ。険しい表情。新聞を荒々しく投げ出し、極度の不満を抑へてゐる様子である。やがて、また、それを取り上げ、しげ〳〵と見つめながら、「さう云へば、どつか似てるかしら……」と呟く。

笑ひたくもあり、泣きたくもあり、彼女は、手鏡を取り上げて自分の顔を映して見る。

それから、呼鈴を押す。

珠枝が現はれる。

更子  (件の漫画を、説明の部分だけ片手で押へながら、珠枝に見せ)これ、だれだかわかる?

珠枝  (むろん直ぐにわかり、笑ひだしさうになつたのを、相手の眼付で、それを察し)さあ……。

更子  わからない筈ないわ。

珠枝  わかりませんですねえ。どなたでせう。

更子  どなたなんて云はなくたつていゝよ。どうせ、へつぽこ画かきなんだもの。三堂微々なんて、だあれも知りやしないだろ。

珠枝  漫画家つて、何うしてかう、意地が悪いんでせう。こんな風に描かれて、愉快になるひとなんか、ないと思ひますわ。

更子  だからさ、ちやんと云つとくれよ、これがあたしだと見えるか何うか。

珠枝  (当惑して)あら、これが先生……いやですわ……先生がこんな……

更子  失敬ぢやないの第一。ねえ、さうだらう。これを見たら、だれだつて、あたしに愛想をつかしちやふわ。

珠枝  そんなこと、ありませんわ、先生。漫画なんてだれでも真面目に見やしませんし、それに、新聞はその日かぎりですもの。

更子  冗談云つちやいけないよ、あんたこれ読めないの。この絵がちやんと展覧会に出てゐるんだからね。まいにち、何千人だか何万人だか知らないけど、この絵の前に立ち止つてさ、やれ何のかんのつて、あたしの噂をするんだらう。これ位ひどい侮辱が、世の中にあるかしら。おまけに、この絵の下には、あたしの名前が麗々しく書いてあつてさ。「やあ、似てる〳〵」なんて、一人が云つて御覧よ。みんなが声を揃へて笑ふにきまつてるわ。今まで撮つた写真の中で、あたしが何んなにチヤーミングでも、そんなことは、みんな忘れちまつてるわ。この次の写真なんか、だあれも見に行きやしないわ。あたしは、もうこれでおしまひよ。いゝわ、いゝわ、あたしが何うするか見てゝ御覧。

珠枝  でも、そんなことおつしやつたつて、先生……。向ふでも、悪気があるわけぢやないと思ひますわ。

更子  (声を張り上げ)悪気がなくつて、こんな顔が描けるかい。何さ、この鼻は……何さ、この顎は……何さ、この髪の恰好は……。わざと可笑しなもんをくつ付けて、それで誰かに似せたつもりなら、失業者はみんな画かきになるといゝわ。

珠枝  何を見てかいたんでせう。先生のに、横向きのプロマイドがあつたかしら。

更子  いゝよ。何うだつて、そんなこと。それより、早く、電話をかけておくれ。

珠枝  どこへでございます。

更子  わかつてるぢやないの、あの方よ。

珠枝  横川さんでございますか。

更子  さうだよ。早く……。事務所の方だよ。


○電話室。


更子電話口にて──

「あたし……おわかりになつて……。お早う……。うふん、さうでもないわよ……それやさうと、今朝の日の出新報御覧になつた? え? 御覧になつたの? ぢや、御存じでせう? その事でね、ぜひ御相談があるの。えゝ、さうよ。とても……。だからよ……直ぐ来ていたゞきたいの。えゝゝ、まあそんなとこ。モチ宥さないわ……。可笑しいつて、何が? 兎に角、大急ぎで……お待ちしてゝよ」(受話機を一旦かけ、更に新しい番号を呼び出す)「……はい、もし、もし、そちら、日の出新報ですか……演芸欄の編輯へ繋いで下さい……。はい、こちらは天城です、天城更子……。え? はつきりつて、はつきり云つてるぢやありませんか……兎に角、繋いで下さい……。人を馬鹿にしてるわ。話中……はい、……あゝ、あなた演芸欄の方……さう、今朝ほどはどうも有りがたう。いゝえ、実はね、あの絵のことで、あたし、少し怒つてるのよ。三堂微々とかつて、どんな奴か御存じ? さうでせう、名前なんかちつとも聞かないわね……」


○日の出新報の編輯局。


記者武部が電話をかけてゐる。

「いや、さういふわけぢやないんですが、展覧会では、あの画が素晴らしく評判なんですよ。それで、なんですか、あなたから、何か抗議でも下さるおつもりですか」


○更子──


「さあ、どうするか、まだきめてませんけど、何れ、相談をしてから……」


○武部──


「今からすぐ伺つてもいゝですか。……午前中ですね、はい、わかりました。ぢや、さよなら……」記者達は、この「特種」を囲んで、策戦をめぐらし始める。


○更子の家の応接間。


彼女は横川と対ひ合つて話をしてゐる。傍らに弁護士嬉野が控えてゐる。

横川  君がそれほど憤慨するなら、まあ謝まらせるぐらゐのことはしてもいゝだらう。

嬉野  名誉毀損で訴へてもよろしいですな。

横川  慰藉料ぐらゐ取れるかい。

嬉野  取れますとも。

更子  そんなことはどうでも、懲りさせてやることが大事だわ。

嬉野  何か、あなたの場合に限つてといふやうな、特別な名目が立つといゝですがな。

更子  あたしの場合には、名目が立つと思ふわ。法律ではどうか知らないけど、人が一番大切にしてるものを、理由なく傷けたつていふ場合はどうなるの。

横川  傷けたことになるかね。

更子  なるぢやないの。女優は、美しいつてことが、第一の誇りでせう。それが財産、それが命だわ。さうでせう、それを、あんな風に世間へ伝へられてごらんなさい、これは致命的な損害ぢやありませんか。

嬉野  よろしい。つまり、損害賠償の訴へを起せばいゝです。問題は、その金額です。

春日珠枝が、名刺をもつてはひつて来る。更子と横川とがそれを見る。

「日の出新報記者 武部等」

更子  こつちへ通して、いゝわ。

横川  僕はゐない方がいゝだらう。(部屋を出ながら、嬉野に)君は、そばで助け太刀をしてやつてくれ。

武部がはひつて来る。

武部  先程は……それで、結局、どうなりましたか。(手帳を出す)

更子  (嬉野に)何でしたつけ?

嬉野  (名刺を出し武部に渡す)わたくし、かういふものです。実は今度の事件について、只今御相談を受けたのですが、御承知の通り、問題は非常にデリケートな感情の領域に亘つて居りますので、これは法律家として、理論で押して行く前に、先づ御本人の、何と云ひますか、極く特殊な心理状態を基礎として、先方へ要求を提出しなければならないと思ひます。従つて訴訟の名目は仮りに損害賠償といふことに致しますが、御本人のお心持から云へば、むしろ名誉毀損……

武部  名誉と云ひますと?

更子  女優は、美しいつていはれることが、何よりの名誉ですわ。

武部  成程……。

更子  そればかりぢやありません。あたしの本当の姿をまだ見たことのない人達が、たとへ漫画にもせよ、あの、滑稽な、憎々しい、馬鹿げた、気味の悪い、一口で云へば、グロテスクな、醜態極まる女の顔を、これが天城更子だと思ひ込んでくれたら、私はそれだけで、命の半分を失ふんです。私は、自分自身に対して、美しさを守る権利があり、何十万といふ私のフアンに対して、私の美しさを、飽くまでも類ひないものにする義務がございます。そればかりではありません。「美しい」と申すことは、一つの信仰です。自分でもそれを信じ、人様にも、それを信じていたゞかなければなりません。私は、たゞ、三堂微々といふ一人の漫画家と戦ふのではありません。美しいものを美しいと感じない不都合な野蛮人どもを、残らず日本の国土から追ひ出してしまふ決心です。

武部  すると、損害賠償の額は……?

嬉野  それが、その……。

更子  一万円……。

武部  は?

更子  一万円ですよ。安すぎますか。

武部  (書きつけながら)いえ。や、どうも御邪魔しました。


○武部は更子の家を出ると、すぐにタクシイをつかまへ、その足で、銀座資生堂へ駈けつける。


○銀座資生堂。二階新興漫画展覧会。


受附には、出品者たる漫画家が三人。三堂微々を初めとして、加治わたる、中根六遍、卓子を囲んで陽気に──

六遍  招待状が丸でいてないね。天気は良し……。

微々  野球はなし……。

わたる  絶好の漫画日和ぢやないか。

六遍  これで、幾人?

わたる  招待もいれて六人。

微々  一時間平均二人か。髪床屋なら、相当なもんだ。

六遍  新聞が案外冷淡だよ。

わたる  事大主義は遍く行き渡つとる。昨日「日の出」から写真を撮りに来たと思つたら、演芸欄さ。面白くもねえ。それも、こいつのが一枚。

微々  妬くなよ。もうちつとの辛棒だ。

六遍  さう云へば、映画女優の顔を、もつと描くんだつたな。文士や政治家の面よりや、たしかに受けるだらう。

わたる  尤も、女優の面なんて、どいつもこいつも、漫画的に見りや、平凡この上なしだからな。セシル・ソレル嬢みたいなのが、一人でもゐてくれゝば格別だが……。

入場者一人。

六遍  切符はこちらで差上げます。十銭……あ、招待券をお持ちですか。いけねえ、どうぞ、そちらへ……。

武部がはひつて来る。

わたる  招待券をお持ちですか。

武部  (名刺を出す)

わたる  いけねえ。どうぞ、御ゆつくり。

武部  いや、実は、今朝私の方の新聞へ乗せました漫画のことについてゞすがね。その女優さんにたつた今、会つて来たんです。大変なことになりましたよ。

微々  大変と云ふと……。

武部  ついては、あの作者にお目にかゝつて、是非、私からお伝へしたいことがあるんです。

微々  はゝあ。

武部  三堂さんとおつしやいましたよ。御住所はおわかりでせうか。

微々  わかつてます。僕、案内しませう。

微々は、仲間に目くばせをして、武部と共に出て行く。

六遍  ちえツ、うめえことをやりやがつた。

わたる  早速、注文だな。

六遍  正面からのをもう一枚つてところだらう。


○タクシイの中。


武部  高円寺はどの辺ですか。

微々  駅から北へ約十町。

武部  ぢや、私んちの近所だ。

微々  あの辺は、月収百円以下つてのが多いんだ。

武部  おほきに。あなたのお住居は……。

微々  やはり、その辺さ。

武部  三堂さんは、まだお一人ですか。

微々  一人でも半分みたいなもんだ。

武部  すると、お暮しは、あまり、お楽の方ぢやないですな。

微々  御察しの通り。しかし、そこは半分の有難さで、人並にかゝりもないからね。

武部  益々面白いな。天城更子嬢の要求を、彼氏、如何に受け流すか、これが見ものだ。

微々  なんか、要求をされるのかね、先生。

武部  そいつは、職業上の秘密でね、まあ、あとからお聞きなさい。夕刊には、何れ、大々的に書くつもりです。


○高円寺 三堂微々の住居。


微々は武部を案内して上る。

微々  やあ、御苦労でした。さあ、どうぞお楽に……。

武部  (あつけに取られて)三堂さんは……?

微々  僕です。

武部  さうですか。それや、失礼しました。

微々  いや、こちらこそ……。早速ですが、その話といふのを承りませう。


○展覧会場。


天城更子が横井と嬉野とを従へてはひつて来る。切符を買つてすぐに問題の絵を探す。

受附では、六遍とわたるとが顔を見合せて囁く。

六遍  来たぜ、実物が……

わたる  買ふな、きつと。

六遍  しまつた、定価札を書き替へとくんだつた。


○問題の絵の前。


更子  なに、色まで附けたるぢやないの。

横川  三円は、馬鹿に安いね。

嬉野  安いですよ。

更子  絵だけなら、高いくらゐだわ。

嬉野  モデルがあなたでなければですね。御尤もです。しかし、なかなか、目につきますな。

更子  それが困るのよ。

横川  かうしてみると、女の漫画つてものは、少いもんだね。あれや、誰だ。吉岡弥生女史か。それから……向うのは……。

嬉野  三宅やす子です。

更子  どうしたら、あたしがこんな風に見えるんでせう。考へちやふわ、全く。

横川  その苦心を見せるつもりなんだらう。

更子  さうだわ、なんでもないわ。この絵を買つちやへば、文句はないんだわ。

嬉野  すると、訴訟の方は……。

更子  それは別よ。今迄の分は取返しがつかないぢやないの。

嬉野  それはさうです。

更子  だから、それはそれで弁償させるとして、これから、この絵を人に見せなけやいゝのよ。ねえ、(横川に)あたしからぢや変だから、あなた、買つて下さらない。

横川  買つても、すぐは持つて帰るわけに行くまい。展覧会がすむまでかうしておくのが普通のやうだから……。

更子  そこをなんとか談判して下さらなくつちや。少しは高く買つてもいゝとかなんとか……。

六遍が、それとなく様子を見に来る。

六遍  如何です。御気に入りましたか。

更子  あなたがお描きになつたんですの。大変、結構ですわ。

六遍  いや、どうも、恐縮です。至つて、まだ未熟で……。

更子  そんなことございませんわ。何れ更めて御礼に伺はうと思つてるんですけれど、取敢へず、この絵を、あたくしに分けていたゞけませんか知ら……。

六遍  光栄です。

更子  今日、いたゞいてつてよろしうございませう……是非、さう願ひたいんですけど……。

六遍  はあ、それは一度、皆とも相談いたしませんと……なにしろ、展覧会の規則としては……。

嬉野  それは承知してをりますが、今回に限つて、特別の処置を取つていたゞきたい。理由は、追つて申上げるつもりです。

六遍  はあ、それは勿論、売ることは一つの目的ですが、それ以上に、私共には、自分たちの仕事を、成るべく広く世間に……。

更子  それぢや申上げますわ。私の方から申せば、この絵をこれ以上、広く世間になんか紹介していたゞきたくないんです。買ふ買はないは第二として、すぐに、これをこゝから外して欲しいんです。

六遍  と申しますと、つまり……。

嬉野  つまり、展覧の目的物とすることを中止して欲しいんです。徳義と法律の名に於て、それを、あなたに要求します。

六遍  私に?

嬉野  作者たるあなたの自由意志に、われわれは、まだ信頼してもいゝのです。あなたが同意をされなければ、己むを得ない。最後の手段に訴へるばかりです。

六遍  では、今夜までお待ち下さい。仲間と協議の上、多分、思召に叶ふやうに取計らへることゝ思ひます。

更子は、六遍を尻眼にかけて、悠然とその場を去る。横川と嬉野がその後に続く。


〇三堂微々の家。


武部  そこで、この間題に対するあなたの御感想を伺ひたいんですが……。

微々  感想ですか。感想は、もうありませんな。その話を聞くまでは、いろいろ、これでも感想を繞らしてゐたんですが、蔓は、悉く破れました。もう一度、云つて下さい。賠償金は、いくらでしたつけな。

武部  一万円。

微々  一万円……。(考へ込む)

武部  一万円が一文も欠けてはといふことでした。

微々  まからんのですな。(彼は、空ろな眼であたりを見廻す──金目の物でも物色するやうに。しかし、六畳の部屋には、屑屋に払ふほどのものもなく、破れ障子に、初夏の陽のみが豊かに当つてゐる)

武部  では、御感想は、適当にこちらで……。どれ、夕刊に間に合はないといけませんから……。

武部が去つた後で、微々は、ぼんやり、家の中を歩きまわる。(歌)


     二


〇場末のカフエー。その翌朝。


三人の漫画家は、ビールを飲みながら、額をあつめて、協議してゐる。

六遍  相手は、それや、気狂ひかも知れんよ。しかし、気狂の言ひ分が通らんとも限らんからな。おれの識つてる判事は、娘の恋人を、それが門の外から口笛で彼女を呼んだといふだけで、警察へ突き出した例がある。恋人たる男は、一週間の拘留だ。何処の国の法律に口笛を禁じてあるか。

わたる  管をまくのはよせ。それよりも、対策を講じようぢやないか。弁護士を依頼する必要があるかどうか。

六遍  あるね。漫画の精神を理解した奴をね。誰だらう、われわれの識つてる範囲で……。

わたる  それより、一万円はどうする。多少、準備をしとかんでもいゝか。

六遍  よろしい。その方は、おれが引受けた。楽天、一平、その他、先輩のところを廻つておくよ。漫画芸術のために、彼等、一肌脱ぐのは当然だ。しかし、それは、こつちが負けた時の話だぜ。

微々  勝ち負けは時の運だが、勝てば一体、どうなるんだい。もともとぢや情けないね。

わたる  だからさ。運動資金といふ名義で、今から、手分けをして……。

微々  待て。苟くも、新興派のわれわれが、大家に頭を下げて、そんなことが頼めるか。第一、こいつは、おれだけの問題だ。君たちに心配はかけないよ。

六遍  おれは、別に、大して心配もしとらんがね。

わたる  おれも、どつちかつて云へば安心しとる。

微々  それどころか、おれは、昨日の夕刊を見て、内心、雀躍をしたんだ。今日から展覧会は……。

六遍  それそれ、大入満員さ。それくらゐの見透しがつかずに、朝つぱらからビールが飲めるかい。

わたる  変なもんだなあ。さう云や、おれも、さつきから、相談に身がはいらなかつたよ。


○展覧会場。


延々長蛇の如き入場者の列。

六遍とわたるは、受附に忙殺され、微々は、何処からか、慈善箱のやうなものを持つて来て、それを「売約済」の札を貼つた問題の絵の下にぶらさげ、その傍らに、掲示を貼り出した。──

「親愛なる入場者諸君並に諸姉よ。昨夕刊の報ずる如く、三堂微々は、此の作品を描ける罪によつて、計らずも天城更子嬢と法廷に相争ふ不幸を招けり。希くば、家に財なく、嚢中亦常に空しき一漫画家をして、彼の仰慕せしスクリンの女王に対し、その要求する金一万円を投げ与へしめよ。三堂微々は、正義を愛す。たゞ、天城更子嬢と共に、彼女の「美しさ」を護らんがために、法の裁きを怖るゝのみ」

入場者の大部分は、問題の絵の前に立つて動かうとしない。中には、懐中を探り、慈善箱に金若干を投入するものもある。笑声。私語。(合唱)

やがて、群集が二つに割れて、その間を、静々と歩いて来る女がある。云ふまでもなく、天城更子である。伴には、弟子の春日珠枝。

私語は、喧騒に変る。

更子は、絵の下の掲示を読む。職業的な微笑。


更子  (珠枝に)受附へ行つて、三堂さんが来てらつしやるかどうか伺つておいで。若し来てらしつたら、恐れ入りますが、ちよつとお眼にかゝりたいつて、さう申上げて……。

私語。笑声。喧騒。

やがて、三堂微々が、思ひの外慇懃な物腰で現はれる。

微々  僕が三堂微々です。初めまして……。

更子  おや、あなたが三堂さんですか。ぢや、昨日の方は……? まあ、なんでもよござんす。弁護士から、直接お話することは禁じられてをりますけれど、昨日お願ひしたことが実行されてをりませんので、ちよつと、その理由を伺つておきたいんですの……。

微々  はあ、この絵を撤回することですか。それは、つまり理由としては、さうするのが惜しいからです。

更子  惜しいとおつしやいますと……。

微々  つまり、残念なんです。

更子  私がたつてと申上げてもですか。

微々  あなたがたつてとおつしやつても、僕が困ると云ふんですから、これはちよつと、やはり困ると思ふんです。

更子  では、そのことは、外の方法で解決をつけませう。

微々  どうか、さう願ひたいもので……。

更子  いゝえ、それより、これはなんです、この箱は……。

微々  いや、実は、もつと大きな奴と思つたんですが、取りあへず、郵便箱を、臨時にかう……。

更子  そんなことを伺つてやしません。この文句は、随分、可笑しな文句ぢやありませんか。

微々  悪文で、どうも……。

更子  それより、あなたは、これで、私をまたまた、侮辱なさるおつもりなんでせう。

微々  いや、決して……。

更子  さうです。この絵だけでは、まだ足りないんですか。

微々  僕は、此処にをられる満場の諸君に誓つてもよろしい。この絵は、芸術家の良心に恥ぢないものです。芸術家の魂は、醜いものにすら、美しさを与へます。芸術家にとつて、侮辱に値するものは、たゞ、退屈、これのみです。あなたは、僕に取つて、得難い霊感の泉だつた。それだけで、あなたは、尊い女性だといふ証拠になりませんか。

更子  そんな理窟は伺ひたくありません。たゞ、あたしは、あなたの筆で絵にされたことを、誠に遺憾に思つてゐますの。それだけがおわかりになればよろしいんです。

微々  それだけは、どうやらわかりました。

更子  それぢや、かうしますよ。(彼女は、掲示の貼紙を引き剥がし、慈善箱を足で蹴飛ばす)

微々  あツ、はひつてます。はひつてます。

更子  これも序に、かうです。

微々  は?

と、云ふ暇もなく、更子は、握り拳を固め、指環のダイヤに力を籠めて、件の絵を斜めに撫で下げる。彩色の中に、白く紙のめくれた跡がつく。

微々  あつ!

制しようとするが、もう遅い。更子は、勝ち誇つたやうに、その場から姿を消す。微々は、彼女の後を追ふことを忘れ、一心に絵の傷を手で押へてゐる。

群集のどよめき。(合唱)

六遍とわたるが駈けつけて来る。

新聞記者の一隊が微々を囲んで、切りに質問を浴せかける。武部もこの中に交つてゐる。

新聞記者A  この処置をどうしますか。

同B  告訴される決心ですか。

同C  損害賠償の金額は?

新聞記者A  これは、しかし、もう売約済ですね。彼女の所有物なんでせう……。

同B  だとすると、損害賠償は取れませんね。これや、問題にならんよ。

同C  そんなことはない。著作権には、作家の人格権も含んでゐるんだ。

その時、人波を掻きわけて、運転手風の男がはひつて来る。

男  ちよつと、みなさん、そこをどいて下さい。

六遍  なんです。どうしたんです。

男  天城さんが、今、指環のダイヤを、こゝでふつ飛ばしちまつたんです。その辺に落ちてる筈です。

武部  時価、いくらぐらゐのもんですか。

男  そいつはわかりませんが、拾つて届けて下すつた方には、千円のお礼をすると云つてをられます。

武部  (手帳を出し)なに? 千円……。よし有りがたい。

人々の間にこの時が伝はると、そこで、群集は雪崩の如く、右往左往しはじめる。何れも、中腰になつて、床の上を見廻す。(合唱)

その光景を前に、漫画家三人は、それ〴〵、スケツチブツクを取り出して、写生をする。


○「トオケウトオキイ」の撮影所。


ある映画のテストが行はれる。

場面は、多勢の若い女が、一人の青年紳士を取巻いて、盛んに何かをせがんでゐるところ。

監督が──「天城君はまだ来ないのか。どうしたんだ」


○同じ撮影所内。


支配人室。──高見計一郎が、社員の一人から報告を聴いてゐる。

社員  浅草の方はまだ様子がわかりませんが、牛込、神田、四谷、麻布、それから、殊に小石川が素晴しいやうです。開館前にもう満員札を出すといふ騒ぎだつたさうです。この分なら、今からでも間に合ひますから、夜の部へ、一本天城のを差し換へては如何ですか。封切ものは全部出払つてゐますが、「笑はぬ妻」が、倉庫にいくらか残つてる筈です。

高見  無論、さうし給へ。天城更子主演として、別に立看板をこしらへさせるんだね。奴さん、えらい智恵を出しをつた。スタアになつたからと云つて、会社にばかり宣伝を委しておくやうぢや、先がないからな。よし、君は早速その方へかゝるとして、天城をこゝへ招んでくれ。


○会社の直営常設館。


何れも客止の盛況を呈してゐる。


○撮影所。


監督が、いら〳〵しながら、天城更子を待つてゐる。

手もち無沙汰な俳優たち。時間潰しの余話。

女優A  あゝあ、誰かあたしを漫画に描いてくれないかなあ。

男優B  漫画の方が美人だつたりしてね。

女優C  いくら変に描かれても、それほど似てなきやいゝのよ。

女優A  ところで、更子さんのと来ちや、似すぎるほど似てたわ。人と違ふとこだけ描いたみたいね。

女優C  それより、第一、感じが出てるつたらないわ。

女優D  しかし、訴訟は、思ひつきね。向うもよろこんでるでせう。

女優A  ぐるだつて話もあるわ。


○支配人室。


高見が電話をかけてゐるところへ、天城更子が、扉をノツクする。

高見  はい。(更子の姿を見て)よう、お早う。まあ、そこへ掛けなさい。えらいことをやつたのう。

更子  でも、あんまり口惜しいんですもの。

高見  ふん、それにしてもさ。大成功ぢやないか。

更子  なにがですの。

高見  それそれ、その意気だから、世間が乗つて来る。照れちやいかん。悪どくてもいかん。さりげなく、無邪気に、そして実は、芝居気たつぷりにやらんといかん。ダイヤモンドの一件なんか、よく考へついたね。誰か黒幕がゐるんぢやないかい。まあまあ、それやどうでもいゝ。俸給も、いくらか増してあげたいと思ふんだが、ひとつ、結果を十分見届けてからにしよう。


○酔ひしれた三人の漫画家は、互に肩を組んで、郊外の宵の街をほつき歩いてゐる。


(合唱)

漫画なんぞ、売れんでもえゝ

展覧会に、人がはいれやえゝ

絵なんぞ、いくらでも呉れてやる

酒ならいくらでも持つて来い。


○三堂微々は、玄関の上り口に、正体なく寝込んでゐる。


訪問客。

微々は、欠伸をしながら起き上る。

客  三堂先生のお宅はこちらですか。

微々  三堂先生のお宅はと……えゝ、たしかこゝです。ちよつと待つて下さい。(上へあがり、部屋の様子を検べて)はあ、たしかにこゝです。何か御用ですか。

客  (名刺を出し)私、かういふものですが、ちよつと先生にお目にかゝれませうか。

微々  (名刺を読み)家庭倶楽部といひますと、雑誌ですな。漫画の御註文ですか。

客  御忙しいことゝ思ひますが、ひとつ、枉げて……是非……。えゝ、実は……毎月、人気女優の漫画を二つぐらゐづゝ載せて行きたいと存じますんですが……。


○展覧会場。


殆ど間断なく入場者があり、その列が静かに室から室を流れて行く。但し、「非売品」の札を貼つた問題の絵の前にはやゝ長く立ち止るので、そこだけは、相当の人数が一団となつて氾濫してゐる。

人々は、歩く時も、止る時も、半ば絵に、半ば床の上に眼を注いでゐることがわかる。中には、腰をかゞめて、板の隙間をのぞき込むものもある。(合唱)

受附には、六遍、わたるの両人が、得意然と控えてゐる。


○映画常設館のスクリンと鮨詰の見物席。


「天城更子主演」といふ字幕に満場の拍手。

スクリンに彼女の姿が現はれる。更に破れるやうな拍手。

「サラちやん、しつかり」とか「ダイヤモンド万歳」とか云ふ頓狂な掛声。陽気な笑声。

スクリンの天城更子は、「笑はぬ妻」に扮して、「ソルヴエージの歌」の節で、おどけた歌を唱ふ。


〇三堂微々の家。


座敷で、三人の客に向ひ、微々が畏まつてゐる。

客A  手前の方のお願ひは、先生のこれまでに御発表になつた漫画を、全部纏めて出したいのでございますが……。或は、三堂微々漫画傑作集といふやうな題で……。

微々  ちよつと待つて下さい。まだ、こつちのお話をしまひまで伺つてないんですから……。

客B  それで、つまり、東京毎朝の向うを張つてゞすな……。

微々  少し、そいつは考へさして下さい。お引受することはしますが、もつとよく御相談をしてからにしませう。そこで。(客Cに向ひ)あなたは、どういふんでしたつけな。

客C  はあ、さきほども申上げましたやうに、私の方は、何分、読者が花柳界に多いもんでございますから、なるべくは……。

この時、玄関で、「御免」といふ声。

微々  ぢや、皆さん、それでよくわかりました。追つて、金が必要な時、こちらからお願ひに上ります。


○銀座の夜。


大道肖像画家──それは中根六遍である。やつと一枚描き終つて、その絵を客に渡したところ。

相当の人だかりにも拘はらず、次ぎの注文者が現はれない。(合唱)

やがて、一人の男が前に進み出て、「ひとつ、やつてくれ」と云ふ。これが、三堂微々。

六遍は、真面目くさり、絵筆を嘗めて微々の顔を見つめてゐる。人々は、このからくりを知る筈がなく、変な奴が飛び出したといふやうに、薄笑ひを浮べて、ぢろ〳〵微々の顔をのぞき込む。

絵筆が紙の上を走る。瞬くうちに出来上る。そこへ、通りかゝつたのが、天城更子とその取巻きの男女数人である。

更子は、何気なく、立ち止る。

「おや、あの絵かきは、何処かで見たな」と思ふ。

次に、モデルになつてゐる男の顔をのぞき込む。「なんだ、あいつぢやないか」といふ表情。

二人の男を見比べてゐる間に、万事を呑み込んだ。微々は絵を受け取り、金を払ふ。

更子  (連れの女に)あれがさうよ。図々しいわ。

女  三堂微々つて、あんな男。

更子  描いてる方ぢやないのよ。描かせてる方よ。ほら、サクラよ。つまり……。

この声で、微々は、そつちを振り向く。更子と視線が合ふ。

更子  お生憎さまね。見破られたら、さつさと引き上げた方がいゝわ。(群集に向ひ)この二人は、仲間同志なのよ。

微々  (気抜けがしたやうに、にやりと笑ふ)

更子  そんなの、見てたつてつまんないわ。(かう云ひ捨てゝ、いきなりそこを立ち去らうとする)

微々  (更子の腕を捕へ)こら、営業妨害をしちやいかん。

更子  痛いツ! なにすんの、あんた。

微々  まだ、なにもしやせん。

更子  放して頂戴。人を呼ぶわよ。

微々  人は、此処に多勢をる。さ、放しました。この次ぎ、こんなことをしたら、只ではすましませんぞ。

更子  へえ、何ができるの、あんたに?

微々  また、漫画に描いてやる。(さう云つて、実にこだわりなく、相好を崩す)

更子  (これも釣り込まれて、朗かな微笑を浮べる。が、ふと、気がついたやうに、慌てゝ威厳を取戻し)ふん、もう免疫ですよだ。

群集の黒山をかきわけて、彼女と彼とは左右に別れる。

群集は、口々に「天城更子だ」「三堂微々だ」など喚き立てる。(合唱)


○更子の家。


更子は寝台の上で新開を読んでゐる。

新聞の三面には「天城更子嬢の暴行」といふ大見出しで、二段抜きの記事。

春日珠枝が、名刺を持つて来る。更子は、それを一瞥して、

更子  昨日から、さう云つてるだらう。新聞社の人には、当分、絶対に会はないつて……。

珠枝  でも、是非つて云ふんですの。

更子  向うの「是非」より、こつちの「絶対に」の方が強いんだからね。さう云つておやり。

珠枝  それが、この人、変なこと云ふもんですから……。

更子  変なことつて……?

珠枝  先生の御一身上について、何か重大な問題が起るかも知れないつて……。

更子  通してごらん。会つてみるから……。応接は片づいてるね。


○応接間に、珠枝の案内で、新聞記者Aがはひつて来る。


記者A  横川さんは来てますか。

珠枝  いゝえ。

記者A  毎晩来るんぢやないんですか。

珠枝  いゝえ。あたくし、存じません、そんなこと……。

記者A  世間でみんな知つてることを、あんたが知らんといふ法はない。

珠枝と入れ違ひに、更子がはひつて来る。

更子  なんのお話しですの。もう、あの問題なら、勘弁して頂戴ね。

記者A  いえ、実はその、今朝の記事でもちよつと触れといたんですが、あの横川氏ですな……横川洗身氏……あの方はあなたと、どういふ御関係なんですか。

更子  さあ……役者風に云へば、御贔負とでも云ふんでせうか。

記者A  つまり、パトロンですな。

更子  清潔な意味で、さうね、さう云つていゝわ。

記者A  すると、あの方は、なんですか、あなたの……ラヴアアといふんでもないんですか。

更子  その質問は、少し立入り過ぎてやしません?

記者A  その立入つたことが伺ひたいんです。世間では、もう、一般にさう信じてますが、今度のやうな事件を機会に、お二人の間が、表面的に、どう進展するかといふ興味を、われわれは持つてるんです。

更子  ぢや、そんな興味は、おもちにならない方がお悧巧ですわ。実は、あたしの立場としても、世間のさういふ誤解を解いておく方が便利なんですの。少し早すぎるかも知れませんけど、序だから、申上げますわ。あたし、近いうちに、恋愛をするかも知れません。

記者  (鉛筆を嘗め)はあ、相手の方は?

更子  名前はまだ、公表できません。

記者  何をしてる人ですか。

更子  さあ、それも、当分……。

記者  それぢやあ、しかし、記事になりませんなあ。


     三


〇漫画展覧会場。


会期が終り、今、出品の絵を片づけてゐるところ。

中根六遍と加治わたるの絵は大部分売れ残り、三堂微々のみは僅かに、問題の絵一枚を除いて悉く売約済。

微々は、問題の絵から、「非売品」の札をはがし、額縁から外して傷を埋めようとしてゐる。

六遍  自分の絵は、これで、手離すとなると惜しいもんでね。やつぱり、朝晩、眺めてゐたいよ。

わたる  幸ひ、気に入つた絵だけは、みんな売れずにすんだから有難い。

この時、微々は、傷ついた絵をそつとつまみ上げる。すると、額縁の中に、小さな光つたものを発見する。

微々  やツ、これは不思議……。

六遍  なんだ。

微々  (大粒のダイヤを拾ひ上げ)これを見ろ。

わたる  彼女が落したつてやつだ。何処にあつた?

微々  こん中だ。(額縁の隅を指す)

六遍  こん中とは云へ、貴公一人のもんではないぞ。

微々  なぜだ?

わたる  こゝは、われわれの展覧会場だ。

六遍  千円は、おれたち三人が取るんだ。

微々  見つけたのはおれ一人だ。

わたる  そばにゐたのは、おれたちだ。

六遍  騒ぐな、騒ぐな。話はわかつとる。早くしろ、おい、微々!


○銀座の鋪道。


三堂微々が、額の包みを小脇にかゝへ、ぶら〳〵歩いてゐる。ふと、宝石商の前に立ち止る。店の中にはひる。

微々  (件のダイヤを取り出し、番頭に)これは、いくらぐらゐのもんかね。

番頭  (受け取つて、仔細に点検した上、目方を計り)さやうですな、只今で、七百円ぐらゐもいたしませうか。

微々  これとよく似た格好で、うんと安いやつはないかね。勿論、硝子でもなんでもいゝ。

番頭  手前共にございますんでは、硝子ではございませんが、人造で、六七円からの品でございますよ。ちよつとお目にかけませう。

微々は、出された多くの石の中から、素人ならちよつと瞞されさうな人造ダイヤを取り上げ、元のやつと比べてみる。

番頭  さうやつて御覧になりますと、比較になりません。

微々  いや、これで結構。いくら?

番頭  その方は、七円でよろしうございます。

微々は、金を弘つて外へ出る。何がうれしいのか、にこ〳〵しながら、口笛など吹く。


○バア・クレオパトラ。


微々は、女給の案内で、その一隅に陣取る。ビールを飲みながら、ポケツトの蟇口から、さつきのダイヤを取り出し、女給共に見せる。

微々  どつちが高いと思ふ?

女給A  これ、本物か知ら?

女給B  怪しいわね。

微々  (別の一つを取り出し)ぢや、これは……?

女給A  どら、どら……この方が光るわね。

女給B  硝子を切つてみればわかるわ。

女給C  かういふのが、却つて瞞されるのよ。わたし、どつちかつて云へば、そつちの方が高いと思ふわ。

微々  (起ち上り)電話……。

女給A  (先に立ち)こちら……。


○電話口。


微々  (電話帳を繰り)えゝと、トオケウトオキイ株式会社撮影所と……。あつた。(番号を廻し)あ、もし、もし、トオケウトオキイの撮影所ですね。天城更子にちよつと出て貰ひたいんですがね……えゝ、アマギ……サラコ……さうです。僕は兄です。……はい……例の事件で、至急話があるつて云つて下さい。……はい……(口笛)……はい、はい……撮影中……はあ、すると、急用でも駄目ですか。それなら、あなた、そこに、紙と鉛筆ありますか。書いて下さい。「例の紛失物、小生、偶然に拾得……シウはヒロフ……拾得いたし、ついては、直接御手渡しいたしたきにつき、会見の場所、時日、御指定下されたし。」──それをね、本人に見せて、すぐ返事をして下さい。

そこで、微々は、受話機を耳にあてたまゝ、ぢつと返事を待つてゐる。


○天城更子の家。


応接間である。

更子と、横川と、弁護士嬉野とが卓子を囲んで話してゐる。

横川  さういふ席に立会ふのは、少し困るな。相手がどんな奴かわからないとすると、なほさらだ。

更子  わからないから、あたし一人ぢや心配なのよ。

嬉野  いゝところへ御気づきになりました。兎角、御婦人だけだと、かういふ問題では間違ひが起り易いです。

更子  あのダイヤが手にはひれば、千円は惜しくないわ。ねえ、あなた、用意しといて頂戴ね。

横川  千円は惜しいよ。そんなことも、僕に相談すれやよかつたんだ。

更子  だつて、三千円なくしちまふより、千円損した方がましでせう。

横川  今なら、三千円はしないよ。まあ、いゝさ、しかたがない。僕なら、拾つた奴にあれをやつちまつて、千円で新しい奴を買ふね。

更子  いゝわよ。あのダイヤ、あたし気に入つてるのよ。

この時、呼鈴の音。やがて、春日珠枝が「ダイヤを拾つた男」の来着を告げる。

緊張した一瞬間。

三堂微々が、粛然とはひつて来る。

更子  あツ!

微々  僕だと云つては、会つて下さらないと思ひまして、わざと、名前を云ひませんでした。

更子  それぢや、ダイヤのことも嘘なんでせう?

微々  嘘ぢやありません。こゝに持つてゐます。が、お話は二人きりでしたいもんですな。

更子  (横川に)どうしませう。

横川  どなたゞ、この方は?

微々  三堂微々、漫画を描いてゐます。

横川  あゝ。僕、横川といふもんです。

嬉野  わたくし、かういふもんです。(名刺を出す)

長い沈黙。

横川  (更子に)君一人で話をし給へ。大丈夫だらう。

微々  大丈夫です。

横川と嬉野は、次の間に去る。

微々  この間は失礼しました。これは、非売品にしたのですが(額の包みをほどき)特に、記念としてあなたに進呈します。(絵を差し出し、卓子の上に置く)

更子  (黙つてそれを見てゐるが、いきなり、手に取り上げて、傍らの長椅子の上に投げ出す)

微々  まだ怒つてらつしやるんですか。それでは、次にあの際お落しになつたダイヤですが、何処で拾つたとお思ひになります。

更子  ……。

微々  不思議ですね、あの絵の裏にはひつてました。絵には勿論穴があいてゐます。今朝、会場を片づける時に、そいつを発見したんです。ところで、誠に困つたことができたと云ふのは、僕、実は、少し前に、あるところで、やはり、ダイヤを一つ買つたんです。何時かそのうちに恋人でもできたら、贈物にでもしようと思つて、奮発をしたもんなんですが、そいつを、蟇口ん中へほうり込んで、そのまゝ忘れてゐました。で、今日、偶然、あなたのダイヤをまた、その蟇口ん中へしまつたんですが、さて、たつた今、気がついて出してみると、どつちがあなたので、どつちが僕のだかわからなくなつた。所が丸でおんなじなもんですから、僕たち素人には、ちよつと見分けがつかんです。ひとつ御面倒ですが鑑定をして下さい。

微々は、卓子の上に、二つのダイヤを並べる。

微々  どつちです、あなたのは?

更子  (二つを見比べてゐるが、やがて)むろん、こつちですわ。(一つを引寄せる)

微々  (残つた方を手に取り、それを見つめながら、にやにや笑ひながら)さうですかなあ……たしかでせうね。

更子  (急に自信がなくなり)ちよつと、拝見……。

微々  どうぞ。(渡す)

更子  さうおつしやれば、こつちのやうですわ。

微々  (前のやつを手に取り)さうでせう。うつかりすると、そつちの方が安手に見えますけれど……こつちは、少し光が強すぎますからね。しかし、間違ひはないでせうね。(蟇口の中へしまひかける)

更子  でも、これは少し……変ですわ。どう、もう一度。……すみません……。

微々  (渋々)困るなあ……さうなんべんも……。ぢや、これで、はつきり、どつちときめて下さい。あとから苦情をおつしやつても駄目ですよ。

更子  (二つを見比べ)なんだか、わからなくなつちやつたわ。さうねえ、まあ、どうしても、こつちね。ぢや、これつていふことにしときませう。

微々  (ゆつくり手をのばし)さうですか。あなたは、かういふ品物を、しよつちゆういぢつておいでになるんだから、僕よりはたしかでせう。(手に取つて石を見て)さうですかなあ……。いや、たしかに、こいつが僕んでせう。なにしろ、こいつは、金五円の人造ダイヤですし、懸賞千円附の品物と並べられたゞけでも仕合せな代物ですよ。(蟇口にしまふ)

更子  では、御礼のことですけれど、ちよつとお待ち下さい。(奥へはひる)

微々は計画の悪戯が、まんまと図に当つたので、頗る得意である。やがて更子が現はれる。

更子  (微々に)あの、あたくし、今の、間違つてましたわ。

微々  (腰を浮かし)今の、なんですか。

更子  これが、あなたのですわ。そちらがあたしのでしたわ。

微々  (腰を浮して)それが僕ので、こちらが、あなたの……それは、どういふ意味ですか。人のものは自分のもの、自分のものは人のもの……そんな法はないでせう。(起ち上つて、後すざりをする)

更子  (手に持つた人造ダイヤを相手の方に差出し)だつて、さつきは、あたしの眼がどうかしてたんですわ。

微々  あなたの眼は、あなたが責任をお持ちなさい。

更子  さあ、それ、返して頂戴……ようつたら……(追ひ縋る)

微々  (逃げ廻り)いや、断じて……。もう、解決はついてゐます。あとからの苦情は受けつけません。

更子  およこしなさいつてば、こつちへ……。(大声で)みんな来て頂戴……。

微々  (椅子を楯に取り)つかまへてごらんなさい。

横川と嬉野が飛び込んで来る。

更子  ねえ、ほんとに、承知しないわよ……。

微々  降参しますか。(笑ひながら、ポケツトから蟇口を出し、例のダイヤを彼女の方に差出す。更子が、一方のやつを渡さうとするのを拒み)いや、それも取つてお置きなさい。また、あとで、こつちだなんてことになると厄介ですから……。(椅子にかける)

横川  なにを騒いでるんだ。

更子  (横川に今受け取つたダイヤを示し)ねえ、これでせう。

横川  (検めて)うむ、これだ。

更子  さつきの……ねえ……今、駄目……?

横川  (鷹揚にポケツトから小切手を出して更子に渡す)

更子  ぢや、これ……御約束の御礼ですわ。

微々  (その小切手を、横川の方に突き返す)

更子  どうしてゞすの……(また、それを後ろの方に押しやる)

微々  (黙つてまた、押し返す)いりません、こんなもん……。

更子  それぢや、あたしが困りますわ。

微々  どうしても、御礼をなさりたいんですか?

更子  ……。

横川  まあ、受け取つてお置きなさい。

更子  ほんとに……。

微々  僕は、その代りに、ほかのことを要求します。

更子  なんですの?

微々  あなたの漫画を、もう一度描かせて下さい。(こだわりのない微笑)

更子は、微々の顔をぢつと見つめてゐるが、やがて、傍らの長椅子の上に、わツと泣き伏す。

微々  (慌てゝ)御免なさい、御免なさい。

更子  (急に顔をあげ、にツと笑ひかけるが、また、顔を両手でかくし)あたしも、御免なさい。

さう云つたかと思ふと、再び、突つ俯して、声をあげて泣きはじめる。


○広い庭園を前にしたレストランのテラス。


夜だ。

天城更子、三堂微々、横川洗身の三人が卓子を挟んで、食後のカフエーを飲んでゐる。

横川  これで、仲直りができたわけだな。この、世にも稀れな二人の喧嘩は、結局、二人の損にはならなかつたと思ふが、どつちも引つ込みがつかなくなると困るからな。まあ、好い加減のところで、媾和条約を結んだ方がよからう。何か飲みますか三堂君……?

三堂  更子さんは……?

横川  この人は、ミリヨン・ダラアだ。さうだらう。

更子  なんでも結構……。

横川  いやに神妙だね。

更子  飲まないつて云つてやしないわよ。

横川が、ボーイに、ウヰスキイを命じる。

微々  今、どんな映画を撮つてるんですか。

更子  つまんないんですわ。亜米利加もんの焼直しよ。

微々  「亜米利加もんの焼直し」……はあ、その題はちよつと面白いな。

横川  題ぢやないよ、君……。亜米利加の映画から筋を取つて、それを日本に直したものさ。今、なんだつけな、「君にひとくち」だつけかな。あれや、しかし、愉快な映画だなあ。

更子  主題歌は、新しい作曲よ。かういふの……(歌ふ)

はじめ怒つてはみたものゝ

これは度が過ぎ、今更に、

ひつこみつかず、あちこちと

あたりちらして、気がつけば、

なにがなにやら、世が変り

人さへ見れば、笑ひたい。

オホホ アハハ エヘヘ

ウフフ イヒヒ オホホ

微々  (真似て)

ハハハ エヘヘ イヒヒ

オホホ ウフフ アハハ……。


○無蓋自動車の上。


更子と微々とが並んで乗つてゐる。

微々  横川さんといふ人は、あなたの送り迎ひをするためにこの車を持つてるわけですね。

更子  使ひたい時は何時でも貸してくれるわ。

微々  特志家つていふもんは、やつぱりあるんだなあ。

長い沈黙。

微々  早いなあ、もう、そこですよ。

自動車が、更子の家の前に止る。

更子 ぢや、今度は、あたしが送つてくわ。何処、お宅は?

微々  市外高円寺……。

更子  (運転手に)高円寺へ廻つて頂戴。

車動き出す。

長い沈黙。

微々  随分ありますよ。

更子  結構……。

微々  風がありますね。(帽子を押へる)

更子  ほんとにね。


○郊外の暗い道。


微々  淋しくありませんか。こんなとこ?

更子  あなたは?

微々  あなたから先へおつしやい。

長い沈黙。

微々  おつと、その横町を左へ……。

微々  そこを右へ……。

微々  また右……。

微々  突き当つて、左へ……。もう少しだ、ストツプ!

二人は顔を見合せて。

微々  もう一度、送つて行きませう。(運転手に)おい、君、済まないが、引つ返してくれ。

更子  あたしん家よ。

車が動き出す。


○更子の家の前。


車が止る。

更子は微々の顔をぢつとみて、降りようとしない。

微々  ぢや、さよなら、おやすみなさい。

更子  いゝわ、もう一度、送つてつてあげるわ。

微々  僕、少し、喉が渇いたんですよ。

更子  ぢや、その辺で、何か飲みませう……。(運転手に、何か囁く)

車はまた動き出す。


○あるカフエーの前。


二人は車から降りる。


○カフエーの中。一隅のボツクスに陣取る。女給が来る。


更子  なに?

微々  プレンソーダ。

更子  ぢや、二つ。

女給が、ソーダ水を持つて来る。二人は、黙つて、ストロウを唇にはさむ。時々、上眼使ひに、お互の顔を見合つてゐるが、遂に視線が合ふ。

微笑。

コツプのソーダ水がだん〳〵減る。

二人は、飲み終ると、同時に、ストロウを咬いたまゝ、顔をあげる。そして、眼と眼とで、深い微笑を交しながら、次第にストロウの先を近づけ合ふ。それが、やがて、軽く触れる。すると一方はバス、一方はアルトに近い、麦稈を空のまゝ吸ふ剽軽な音が、まさしく、最初の接吻を意味するものとして、なんの不自然もなく聞き取れる。


──終り──


この脚本の映画化に際して、伴奏は勿論必要であるが、会話の部分は絶対に歌を用ひないことにする。

底本:「岸田國士全集5」岩波書店

   1991(平成3)年19日発行

初出:「日本国民 第一巻第四号」

   1932(昭和7)年81

※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。

入力:kompass

校正:門田裕志

2008年319日作成

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