クロニック・モノロゲ
岸田國士



海岸の小さな貸別荘。


舞台は八畳と六畳の二間続きで、八畳には籐椅子、テーブルの他に本箱、寝台、六畳には、同じく寝台を中央に、箪笥、屏風、鏡台、衣桁、長椅子。

奥は一間の張出窓、硝子戸が締めてある。


長椅子に、女がりかゝつてゐる。女は毛糸の襟巻をし、腰から下を毛布で包み、紙人形をこしらへてゐる。

時々、歌を口吟くちずさむのだが、すぐに息切れがするので、そのたびに、大きく溜息をつく。

ほゞ形の出来上つた人形を、明りに照してみながら、


女  どうして、今日けふはかう遅いんだらう。また悪友に引張られて、銀座をうろつき廻つてるんだわ。終列車に乗り遅れたつて、知らないから……。四円四円つて馬鹿にならないのよ。はゝゝゝ、なるほど、肩が怒りすぎてるわ……。どうも、ピエロの感じが出ないと思つた……。こらこら、もつと肩をおさげ……。今、眼のふちを青く塗つたげるからね。そうら、うまい工合に月が出て来たぢやないの……。明日籾山先生がいらつしやるまでに、ちやんと出来てないといけないわ。あの先生は、何かしら、あたしにお世辞が云ひたくつてしやうがないのよ。そろそろたねがなくなつて困つてるに違ひないわ。(歌を唱ふ。やがてまた、溜息をつく)あゝ、苦しい。いやんなつちやふなあ、歌も唱へないなんて……。思ひきり大きな声を出して、また……(急に口をつぐむ)よさう、まだ生きてれば、なんかしらいゝことがあるわ。あと一月ひとつきの辛抱だつて、先生もおつしやつた。さうすると、いよいよ東京へも帰れるし、お友達にも会へるし、……さあ、これでよしと、ズボンがちつと細かつたかな……。まあいゝや。(また歌を唱ひはじめる。が、長くは続かない)どれ。お化粧にかゝるとして、動くのは寒いな。(ゆつくり起き上らうとする)


電燈が突然消える。


女  あら、随分だわ。今頃停電なんて、どうかしてるわ。


その時、窓の外へ覆面の男が忍び寄り、そつと硝子戸を開けていきなり躍り込み、女の後からきつく。女は悲鳴をあげてその場に倒れる、覆面の男は、素早く窓から飛び出し、姿を消す。

長い間。波の音、時計が十二時を打つ、やがて、玄関の格子が開き、人の上つて来る気配。次いで、部屋の中へづかづかとはひつて来た男、外套と帽子を着たまゝ、片手に買物の包みをさげてゐる。


男  どうしたんだ。明りをみんな消して……、もうたのかい。(手探りで、電燈のスヰッチをひねつてみるが……)おや駄目ぢやないか。をかしいな。隣りはいてたぜ。シイ坊、ちよつと起きろよ。何時いつから消えたんだい。おい、シイ坊……戯談じやうだんぢやないぜ……。(寝台に近づかうとして、そこに倒れてゐる女のからだにつまづく)あツ! ど、ど、どうした、シイ坊。しつかりしろ、おれだよ、こら、おれだつてば……。あゝ、なんだつて、こんなに急に……。おれがわるかつた……遅くなつてすまなかつた……。おい、シイ坊、勘弁してくれ……。待つてろよ、すぐ医者を呼んで来るから……。あツ……この血は……これや傷ぢやないか。傷だ! 刃物の傷だ……。心臓をやられたな。畜生! 馬鹿な真似まねをしやがる……。(さう云つたかと思ふと、声をあげて泣き出す)誰がこんな……こんなむごたらしいことをしたんだ。シイ坊、お前は、そいつの顔を見たか。覚えてゐるか? いや、きつと、暗闇くらやみで、わからなかつたらう。だが、そいつは、お前に遺恨でもあつたのか。それとも、ほかに目的があつて、こんな手荒てあらなことをしたのか? さうだ、愚図愚図ぐづぐづしてないで、とにかく警察へ届けよう……いや、あわてちやいかんぞ。おれとお前との間には、何ひとつ秘密はない筈だが、万一さういふことがあるんだつたら、他人が知る前に、おれが、知つておかなけれやならん。(女のそばから離れ、蝋燭を出して火をける。それから、先づ第一に枕の下、箪笥と鏡台の抽斗ひきだし、ハンドバッグの中、その他あちこちを引つかきまはす。最後に手紙の一束を取り出し、それを、順々に読む。がこれはと思ふものは、遂に見当らない)おれがこんなことをするのを、お前は、さぞ不愉快に思ふだらう。しかし、お前の不幸な最期を、他人のいまはしい推測で汚したくないのだ。ぢや、いゝかい、もうしばらくさうしておいで、今、警察へ電話をかけて来るから。(静かに、部屋を出ようとして、不意に立ち止り)ところで、問題が一つ残つてゐるぞ。警官が来る。よろしい。検死が済む。それもいゝ。さて、犯人の目星をつける段になつて、一応、このおれに嫌疑をかけないだらうか! いやそいつはわからない。少くとも厳しい訊問を受けるにきまつてゐる。(椅子に腰をおろしてしまふ)ところで、その訊問は、どういふ風に行はれるか。万一、つまらん言葉尻を押へられて、動きがつかなくなるやうなことはないだらうか? さういう例もなくはないぞ。それにはあらかじめかう訊かれゝばかう答へるといふ風に、相当準備をしておいた方がよくはないだらうか。ある事実を、うつかり忘れてゐたといふだけでも、それを隠してゐたと誤解されないもんでもない。思ひ違ひ、言ひ違ひ、曖昧な返答、下手へたな口籠り、云ひ方一つで善くもわるくも取れるやうなことは、余程注意しないとあぶないぞ。勿論、証拠がなければ、それまでのことだが、証拠ぐらゐ、どうかすれば、作ることだつて出来るんだからな。偶然が偶然と取られなければ、またそれまでだ。よし、さあ、なんとでも訊ねてくれ。すべてをありのまゝに答へるだけだ。この愕き、この悲しみの前に、一切の言葉は、たゞ真実を語るのだ。神も聴け、シイ坊も聴け、そして、世の中の妻をもつすべての男は聴け!(いきなり起ち上り、部屋の中を歩きながら、低く厳かに)──君の姓名は? 秀島辰夫……。──年は? 三十六歳……。──これはあなたの奥さんに相違ありませんね? 相違ありません。──名は? 静枝です。──年? 二十四。──何時いつ結婚しました? 昭和二年十月……。──籍は、はひつてますか? はひつてゐません。今年中にいれるつもりでした。──あなたの職業は? 現在無職です。以前、学校の教員をしてゐました。──現在の収入は? (長い沈黙)非常に不定ですが……家庭教師の口が時々……大方は友達から借りたり……それと、たまに勝負事で儲けることがあります。──勝負事つていふのは、どういふことだ? 公然とは云へないことですが……麻雀とか、花とか……。──何処で? それは云へません。──この婦人、つまり君の細君は君と結婚する前に、どういふことをしてゐた? どういふことと云ひますと……? 家庭にゐたのか、職業をもつてゐたのか? 家庭にゐました。たゞ母親が一時麻雀倶楽部をやつてゐました。従つて、その方の手伝ひは……。──よろしい。その場所は? 大森山王……番地は覚えません。浅見といふ家です。──一緒になる前に、別に異性との関係といふやうなものはなかつたかね? さあ、そいつは、保証できません──噂でもあつたのか? さあ、僕の口からはなんとも云へません。


長い沈黙。

やがて、また問答が続けられるのだが、今度は、問ひかける声が、男自身の口から発せられるのか、それとも、別に何者かが事実問ひを発してゐるのか、その区別がつかなくなり、遂に、それは明らかに、男彼自身の声でないことがわかる。即ち、何処からともなくある訊問者の厳かな、しかも職業的な声が漏れて来るのである。男は、極めて自然にその声に答へる。


声──君は、今朝けさ家を出たんだね。

男──さうです。今朝九時に出ました。

声──何処へ行つた?

男──東京へ行きました。友達の家を二三軒廻つて、銀座で夕食を食つて……。

声──よし、それは後でたづねる。帰りは何時の電車へ乗つた? こつちへ着いた時間でもいゝ。

男──十二時何分かでした、駅へ着いたのが……。それから歩いて帰つて来ました。

声──何時いつも歩くんだね。

男──いゝえ、バスへ乗ることもあります。東京からタクシイを飛ばすこともあります。

声──家へはひる時、何か異常な予感といふやうなものはなかつたか?

男──ありません。

声──電気が消えてゐてもか?

男──遅くなると電燈は消してあることがありますから……。

声──しかし、玄関の電燈は、すぐけてみたんだらう?

男──…………。

声──真暗まつくらでは帽子を掛けることもできないだらう。

男──帽子はかぶつたまゝ、部屋へはひりました。それに、月が出てゐて、真暗まつくらといふほどでもありませんでした。

声──死体に躓いた時、すぐ死んでゐると気がついたか?

男──抱き上げてみてわかりました。無論、病人でしたから、急に容態が悪化して、そのまゝ……。

声──それほど重態だつたのか?

男──いえ、可なり元気になつてはゐましたが、病気が病気ですから、突発的に……。

声──そんな病人に一人で留守をさせるといふ法はないぢやないか。

男──それはさうですが、医者の云ふところでは、乱暴なことをしさへしなければ、絶対に危険はないさうです。それだけの心得は病人にも十分云ひ含めてあります。

声──こゝへ来てどれくらゐになる?

男──一年余りです。わづらつてからは、もう三年になります。

声──病人の看護をするのが、そろそろ大儀になつてゐやしなかつたか?

男──いゝえ、決してそんなことはありません。妻は、僕の変らない愛情と心遣ひに感謝してゐました。僕も、どうかして早く癒してやりたいと、そのためにあらゆる努力を惜みませんでした。

声──たゞ、病人をかゝへて、生活の不安と闘ふことは、君にとつて、負担がおもすぎやしないか?

男──おもすぎます。しかし、それを軽くするのには、第一に、病人を健康なからだにしなければなりません。方法はそれ一つです。

声──だが、病人は、君の苦労を察して、自分さへゐなければ、などと時には口に出して云ふこともあつたらう?

男──…………。

声──君の方でも亦、病人に、このまゝ長くかういふ状態を続けさせるよりも、いつそ、不幸な生涯を終らせた方が……。

男──いやいや、絶対に、そんなことは……そんな考へは、夢にも起したことはありません。その証拠に、医者の方で、一月ひとつきに一度ぐらゐ来ればいゝといふところを、一週に一度づつ来て貰つてゐます。僕は自分の食を節しても、こいつに滋養分を取らしてゐました。見て下さい。(買物の包みをひらき)これも、家内のために買つて来た肉汁のエキスと、葡萄入りのパンです。

声──現在、ほかの女と恋愛関係はないかね?

男──恋愛関係といふほどのものはありません。道楽もなるたけつゝしんでゐます。余裕がないからです。ともかく、僕は家内以外の女を愛してゐないことを明言します。

声──細君の方はどうだね、君の知つてゐる範囲で、特別に懇意にしてる男とか、内証で文通してる男とかいふのは……。

男──僕の知つてる範囲にはありません。仮令、さういふことがあつたとしても、ある程度までそれを許すことが、僕にはできたらうと思ふんです。家内かないが求めるものを悉く与へる力が、僕にはなかつたんですから……。

声──それなら、君は嫉妬といふものを感じたことはないか?

男──…………。

声──あるのか、ないのか?

男──それや、ないとは云へません。しかし、さういふ場合に、自分をわらつてしまへばそれまでです。僕は女を信じないで、それをさほど苦痛とは思ひませんでした。家内かないも、さういふ点では僕に対して、これといふ隙を見せず、自然言ひがかりをつけやうにも、つけるたねがなかつたんです。

声──たゞなんとなく怪しいといふやうな素振りがあつたんだね。

男──あゝ、さういふ風に取れましたか。僕はそんなことを言つた覚えはありません。女を信じないのは家内かないと限つてはゐないんです。いや家内かないのことにしてもです。信じないといふ意味は疑ふ必要がないといふことです。瞞されても、瞞されたことにならないからです。さつき、嫉妬を感じたことがあるといふ風に云ひましたが、それは、例の愚にもつかない妄想のたぐひで、女を愛したものなら、必ず一度は経験しなければならない情熱の小さな波紋です。

声──嫉妬の説明はそれくらゐでいゝ。それで君はこれまでさういふ感情を細君の前で、どんな風に現はしたか? 一例を挙げてみ給へ。

男──…………。

声──どんな場合でも、そいつを顔に出さなかつたとは云へないだらう。

男──待つて下さい。さういふき方をされると、僕は、なんて返事をしていゝかわからなくなります。自分の醜さを、正直に語れと云はれるなら、それはなんでもないことです。しかし、そのあとはどうなります。僕は今、罪の嫌疑から逃れなければならない人間です。そこをどうか、十分頭にお置き下すつて、自分に不利だと思はれることを包まず申上げる勇気をお買ひ下さい。僕は司直の明察に信頼します。真実はどんなにみにくくつても、罪がそこからだけ生れるとは限りません。

声──前置が長すぎる。事実を聴けばいゝのだ。

男──さうです。えゝと、もう一度問ひを云つて下さい。

声──だからさ、君が細君に対してなぜ嫉妬を感じたか、さういふ時、君はどんな態度を取つたか、それをいてゐるのだ。

男──わかりました。実を云ふと、家内かないてもらつてゐる医者が、最近どうも家内に対して、特別に好意を寄せてゐるらしいんです。こちらの内情を知つてからではありますが、診察料も一切取りませんし、来れば必要以上に長話をして行きます。そのうへ、僕の留守中に来て、庭にダリヤの球根を植ゑて行つたり、他所よそから貰つたのだと云つて、香袋のやうなものを家内の枕の下へ突つ込んで行つたりします。それを知つた時、僕はたゞ笑つてゐてやりました。が、その後ある時かういふことがありました。僕が東京から帰つて来て、玄関の格子を開けようとすると、中から錠をおろしてある。それだけなら不思議はないんですが、庭へ廻つてみると、障子がめきつてあります。声をかけると家内より先に「お帰りなさい」といふその医者の返事が、部屋の中から聞えるんです。「はてな」と思ひましたが、それきりです。僕は平気な顔をして上つて行きました。家内かないは寝台に寝ころんで、今診察が終つたところでした。医者は聴心器をしまひながら「大分いゝやうです。もう大丈夫でせう」と云ひますから、僕は笑つて「や、お蔭さまで」と、自分ながら不思議なくらゐなんのわだかまりもなくいつてのけました。医者が帰つてから、家内は玄関の戸締りのことについて、なにやら弁解がましいことを云ひました。僕はそんなことは気にかけてもゐないやうに、今日は招魂祭だのに、国旗を出し忘れたといふやうなことをしやべつたと思ひます。かう申上げると、すぐに、それは不自然だとお考へになるだらう。全くその通りです。僕等としては、修養でそこに至つたなどと云へば、それは真赤な譃だといふことがわかります。そこが先程も云ひましたやうに、真実の醜さです。僕にさういふ真似まねをさせたのは、露骨に云へば打算です。勘定です。つまり、家内の病気が、あの医者の手で直るものなら、自分は一切眼をつぶつてゐよう──さう決心をしたんです。

声──で、二人の関係が何処まで進んでゐるか、それを君は知つてゐるんだね。

男──いや、知りません。知る必要もありません。医者は家内に対する特殊な興味から、商売を離れて治療に全力を尽してくれればよし、家内は、僕に気兼なく医者の指図に従つてくれゝばいゝんです。それが恋愛であらうとなからうと、結果は同じです。いや、寧ろ、ほんたうの恋愛であることが、一番好い結果を生むわけです。

声──君は真面目まじめで、そんなことを云つてるのか。

男──え? どうしてですか。それで、この僕はどうなるとおつしやるんですか。

声──細君の病気が直つて、その医者との関係が続いてゐる場合を考へてみ給へ。それでも君は一さい眼をつぶつてゐられるか。

男──(急にらして)なんですか? さういふ場合、僕がどうするかとおつしやるんですか? それは考へてゐません。そんな先のことは、まるで考へてゐません。そん時は、そん時で、何か方法があると思ひます。家内は僕を棄てる筈はありません。

声──落ちついて物を言ひ給へ。君はしかし、細君がもう可なり元気になつてゐたと云つたぢやないか。

男──…………。

声──その医者が、最近来たのは何日いつだ?

男──先週の金曜です。毎週金曜に来ることになつてゐます。

声──その医者は何処の医者だ。なんといふ医者だ?

男──…………。

声──どうせわかることだから、早く云ひ給へ。

男──…………。

声──念の為めにくが、その医者は君の考へてゐるやうな事実を否認するかもわからない。恐らく否認するだらう。君は、それに対して何か証拠を挙げられるか?

男──証拠と云つて、別に、確かなものはありません。第一、そんなことはどうでもいゝんです。今度の事件となんにも関係はないんですから……。

声──それはどういふんだね。君にどうしてそれがわかる?

男──いや、僕の云ふのは……その医者が犯人……つまり、家内かないを殺したのではなからうと云ふんです。さういふ理由がどうしても成り立たないんです。

声──余計なことを云はなくつてよろしい。この部屋は君がはひつて来た時のまゝになつてるね。

男──家内のからだは、多少位置が変つてゐます。

声──この辺が散らかつてるのは……。

男──あ、それは僕が……。

声──何を探したんだ?

男──くなつてゐるものはないかどうか、それを先づ調べました。窃盗の目的ではひつたとすると……。(突然調子を変へ)あゝ駄目、駄目、なつちやゐない。しどろもどろだ。(静かに妻の死骸に近づき)シイ坊、やつぱりおれは、生きてゐようといふのが間違ひだつた。お前を失ふ悲しみは二つはない筈だ。おれは二度、三度、お前の死を間近に控へて、心に祈つたものだ──「この女の命を救つてくれ。おれはどうなつてもいゝ……。」が、お前の命を救つた男は、おれの手からお前を奪はうとした。事実、奪つたのだ。近頃のお前は、日増しに、美しさと明るさを取戻して来た。しかも、それはあの男によつて、あの男の為めにだ。だが、それはそれでよかつた。おれはたゞ、来るべきものが来るのを待つてゐたのだ。それが、遂に来た。明日は、いや、今日は、また金曜日だ。籾山は、こなひだのやうに、お前を海岸へ連れ出すだらう。散歩の附添は、おれにでも出来る。しかし、お前の心はもう、おれの行くところへいては来ないんだ。そんなら、そんなら、どうしようもないぢやないか。


長い沈黙。その間に、男は、女のからだを抱き上げ、寝台の上に寝かせ、それを、敷布で覆ふ。


男──(長椅子にからだを横へ)おれは、しばらくかうしてゐよう。あいつがどんな顔をするか見てゐてやるぞ。おれは、誰がなにを訊ねても、決して返事をすまい。おれは悲しくもなければ怖ろしくもない。たゞ、あの時におれもひと思ひに死ねなかつたことが残念なだけだ。(ポケットから短刀を取り出し、鞘を私ふ)あゝいふ風にしなくつても、おれと一緒に死ねと云へば、存外なんでもなく、その気にならなかつただらうか?(半身を起し)さうだ。シイ坊……お前はさういふところのある女だつたな。すつかり忘れてゐた。おれが学校を馘になる間もなく、お前が恐ろしい病気の宣告を受けた。すると、そん時、お前は、何んと云つた。「あんた、死んぢまひたくない?」たしか、さう云ひながら、おれの膝へ泣き崩れた。今と、その当時とは、お前の気持にも変化はあるだらうが、二人を死に誘ふ動機と云へば、あの時よりも、今度の方が重大だとは思はないか。シイ坊! それがわかつてくれゝば、おれは、今、お前にあらためて云ふぞ。──死んでくれ。おれと一緒に死んでくれ。(寝台に近づき)さあ、もうくらがりの必要はない。おれの顔をこの通りみせてやる。お前は素直におれの手にかゝつて死んだのだ。おれは、すぐにも、お前の後を追ふべきだが、シイ坊、少し待つてくれ。おれには、まだ一つ仕事が残つてゐる。籾山のうろたへる顔がちよつと見たいのだ。復讐なんて、けちな真似まねをするつもりはない。悪戯いたづらのしをさめだ。お前は、さうして、静かに眠つてゐるがいゝ、この世の花々しい譃を、遠くから、笑つて見ておいで。(部屋の中を、また歩き廻る)──やあ、先生、長々お世話になりました。お蔭で、家内も、お医者さんの必要がなくなりました。──はゝあ、もうこちらをお引上げですか?──こちらもこちらですが、われわれは、今日限り、人生を引上げます。さあ、家内が御挨拶を申上げるさうです。

声──あツ! これはどうしたといふんです。え? 一体、どうしたんです。

男──御覧の通りです。こいつは、ある男の誘惑を逃れるために、いや、その誘惑に打克つために、死を択ばなければなりませんでした。僕のためにです。おわかりですか。われわれ夫婦は、さういふ間柄になつてゐたのです。死ぬ以外に二人は結びついてゐられないといふ事実、その事実の前に、何の躊躇がいりませう。僕は、先づ、こいつの心臓を突きました。

声──わかりません。わたしには、さつぱりわかりません。

男──いゝえ、あなたに御迷惑はかけないつもりです。それどころか、こいつにしばらくの希望と幸福とを与へて下すつたことでは、僕から幾重にもお礼を申上げます。

声──わたしは、医者として、出来るだけのことをしました。

男──さうです。信じたいものは、さう信じるでせう、僕は……(よろめく)あゝ、誰を……何を信じればいゝのだ。(急に女の寝てゐる寝台の前にひざまづき)おい、シイ坊……おれは、ほんたうのことを云ふと、なんにも知らんのだ。お前は、何をしたといふのだ。え? なんでもなかつたのか? なにもなかつたのか? うん、それは無論、さうだらう。だが、これから、先は? 来週の金曜は? 再来週は? いや、さうぢやない、もつと先の先は? わかるまい? おれには、それがわかつてゐるのだ。わかつてゐたのだ。お前は健康だ。お前は美しい。お前は若い。お前は明るく、賑やかだ。お前は何処へ行く? 誰がお前を幸福にし、お前に感謝されるのだ! あゝ、おれはどうすればいゝんだ。(手に持つた短刀を胸にあて、ぐいと力を入れて、そのまゝ女の死体の上に突つ伏す)


底本:「岸田國士全集5」岩波書店

   1991(平成3)年19日発行

底本の親本:「職業」改造社

   1934(昭和9)年517日発行

初出:「文芸春秋 第十一年第一号」

   1933(昭和8)年11日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2008年319日作成

青空文庫作成ファイル:

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