かんしやく玉
岸田國士



彼女

隣の女

多田

小森

阿部


アパアトとは名ばかりの、粗末な貸室。左の隅にダブルベツド。右に炊事場に通ずるドア。正面に旧式のシンガアミシン。

三月のなかば。午後四時ごろ。

彼女は、ミシンの手をやめ、縫ひかけのローブを両手で胸にあてがひ、鏡の前に立つ。


彼女  (独り)なかなかいゝぢやないの。カーテンのお古だなんて見えやしないわ。


ドアをノツクする音。彼女は、黙つてドアを開けに行く。隣の女がバナナをたべながらはひつて来る。


隣の女  このいゝお天気にお留守番なの?

彼女  あなたこそ珍らしいわね、今ごろ、家にゐるなんて……。

隣の女  だつて、まだ早いぢやないの。さつき起きたばかりよ。これからお湯へはいつて、足の爪でも剪つてると、あの人が迎ひに来てくれるの。今日は、ことによると、鎌倉へドライヴだわ。

彼女  そんなの、羨ましかないや。あたしは、これから八百屋へ行つてトマトを買つて来るの。ちよつと、これ、似合はないこと?

隣の女  不断着ならそれで沢山よ。

彼女  (ローブをベツドの上に放り出し、テーブルの上の丸い鑵の中へ手を突込み、なにかを床の上へ叩きつける。爆音。)

隣の女  あゝ、びつくりした。なに、それは……。

彼女  疳癪玉……。

隣の女  こなひだうちから、パンパンいはせてるの、それね。どら、あたしにも一つ、やらして……。

彼女  駄目よ、あなたなんか……。これはあたしと、うちとの、二人つきりの玩具よ。持つて行き場のない不平が、これでけし飛んぢまふの。それや、清々せいせいするわよ。

隣の女  簡単ね。あたしは、何か気に入らないことがあると蒲団を被つて寝ちまふの。眼が覚めると、忘れてるわ。ちよつと、あんた、すまないけど、またヘチマコロン貸してくれない?

彼女  そこにあるから持つてらつしやい。(化粧テーブルの上を頤で指す)

隣の女  あら、もう一度分きりないわ。


隣の女が、ヘチマコロンの瓶をもつて出て行くと、彼女は、炊事場にはひる。やがて、両手にナイフを持ち、「守るも攻むるも」の節に合せて、刃を砥ぎながら現れる、何か探し物をするらしく、部屋中を一と廻りするが、そのまゝ、また炊事場にはひる。ドアをノツクする音。


彼女の声  どなた?

外の声  僕……。

彼女の声  僕ぢやわからない。

外の声  僕ですよ。わからないかなあ。

彼女の声  多田さんね。なんべん来たつておんなじよ。まだ帰つてやしないわ。


ドアが開く。多田現れる。


多田  奴さん、用がある時に限つてゐないんだから、始末にいけないなあ。

彼女  (現れ)ゐさうもない時に来るからわるいのよ。朝出て晩帰つて来るぐらゐのことはわかつてるでせう。

多田  不断はさうさ。だけど今先生仕事がないんだもの。

彼女  ないから探しに行くんぢやないの。

多田  (椅子に腰かけテーブルの上の新聞を取り上げ)今日は何処へ行つたの?

彼女  その、しるしのつけてあるとこでせう。

多田  なるほど、これやよささうだ。志操堅固なる青年紳士を求むか。

彼女  なに笑つてるの?

多田  僕にも一つ、心当りがあるんだけれど、まあ、こつちがうまく行かなかつた時のことにしよう。

彼女  あんたの心当りつていふのは、新聞広告より、もつと当てにならないわ。

多田  こなひだのは、あれや、失敗だ。独身つていふ条件があつたのを、つい、先生にいつとくのを忘れたんだ。

彼女  嘘をけば、後で困るぢやないの。第一、人を使ふのに独身を条件にするなんて、間違つてるわ。

多田  家を貸すのに、子供がない夫婦つて注文を出すやうなもんでね。つまり気休めさ。

彼女  お茶、飲む? 飲まない?

多田  飲む。

彼女  冷たい紅茶よ。お砂糖いる? いらない?

多田  いるさ。

彼女  そんなもの、あつたか知ら……。


彼女は炊事場から茶の道具をもつて出て来る。注ぐ。


多田  これで世の中は思ふやうにならんもんさ。あんたが働くつていへばすぐにでも雇ひ手があるんだがなあ。

彼女  あたし、ちよつと、買物に行つて来るから、そこに、さうしてゝね。

多田  その間、ベツドを借りてもいゝでせう。今朝から歩きづめで、どうにもやりきれない。

彼女  馬鹿なこといひつこなしよ。そんなに草臥れたなら、さつさと家へお帰んなさい。

多田  よろしい。意地悪をいふなら、たつて借りようとはいひません。あんなベツドがなんだい。貸間備附のピヤレツスが、そんなに神聖なのか。

彼女  面倒臭いなあ、靴下を穿くのは……。

多田  僕で出来る買物ならして来てあげますよ。

彼女  ほんと……? ぢや、お願ひするわ。晩のおかずよ。

多田  え?

彼女  フイレの厚切れ三枚……それとトマトの中ぐらゐのを、五つ……。それから、あんた、パンがよかつたら、パンを買つてらつしやい。

多田  しかたがない。(起ち上る)金は……?

彼女  どうぞよろしいやうに……。(もう炊事場に姿を消す)肉屋は、停車場の前の方が勉強するのよ。


多田は、しぶしぶ外に出て行く。

やがて、彼女は、フライパンを紙で拭きながら現れる、さつきの鑵の中から、また疳癪玉を取り出し、床に叩きつける。

爆音。

彼女はそのまゝ、窓の外を見てゐる。

涙がこみ上げて来る。

長い間。

ドアが開く。彼が帰つて来る。


彼女  (後ろを振り向かずに)あら、どうしたの。帽子でも忘れたの?

彼  そんなとこで、なにしてるんだい。

彼女  (その声で、ハツと気づき)お帰んなさい。(さういひながら、フライパンを持つたまゝ、いきなり、夫の頸に抱きつく)

彼  どうしたんだい。泣いたのか。

彼女  うん、泣いたの。

彼  なにが悲しかつた?

彼女  ムニヤムニヤムニヤ……。(笑はうとする)

被  さ、どけ。飯はまだか?.

彼女  (離れて)駄目だつたの?

彼  そんなことはいゝから、早く飯を食はせろ。

彼女  いますぐよ。そら、瓦斯の音が聞えるでせう。あつたかい御飯でビフテキが食べたいつて、あんた、さういつてたぢやないの。さ、外套脱がしてあげませう。


彼は、彼女に外套を脱がして貰ふとテーブルの方へ手を伸ばす。鑵の中から疳癪玉をつかみ出し、続けざまに、三つ、それを床の上に叩きつける。爆音、爆音、爆音。彼は、それから、椅子に腰をおろす。

彼女は、彼の肩に手をかけ、そつと、耳もとで囁く。そして笑ふ。


彼  そんなことをさせるから、あいつ、つけ上つて、用もないのに、しよつちゆうやつて来るんだ。

彼女  だつてそれでなけれや、今晩はトマトだけのはずよ。

彼  こつちで利用したつもりでゐると、そのうちにこつちが利用されるんだ。ビフテキの返報に、何を要求されるかわからんぞ。

彼女  それほど図々しい人でもないわ。

彼  それがいけないんだよ。君には、どこか、危なつかしいところがある。どの辺で踏み止るかつていふ見当が、僕にはつかないんだ。

彼女  でも、はじめ、あたしが買物に出るから、留守番をしてゐて貰はうと思つたら、その間、ベツドを借りてもいゝかつて訊くのよ。

彼  それで……?

彼女  そんなこと、あたしいやだから、断つたわ。

彼  なんて?

彼女  馬鹿いふのもいゝ加減になさいつて……。

彼  (いまいましさうに舌打ちをする)


彼女は、それと見て、すぐに鑵の中から疳癪玉を取り出し、彼に渡す。彼、それを叩きつける。爆音。


彼  君は、あいつに好意をつてやしまいね。

彼女  好意つて……? あんたのお友達としてだけよ。

彼  それにしてもさ。

彼女  どつちかつていへば、虫が好かないわ。

彼  どういふところが……。

彼女  さういふことをいふところや、あたしを見る時、変な眼附をするところや……。

彼  どんな眼附……?

彼女  口ではいへないやうな眼附だわ。

彼  よし。(険しい顔附になる、彼女は、また、疳癪玉を渡さうとするがその手を押しのける)それぢや、僕のところへ来る奴の中で、誰が一番、君は好きだ? 好きつていふとわるいが、誰が一番感じが好い?

彼女  感じの好いのなんかゐない。

彼  小森はどうだい?

彼女  あんなのいや。

彼  なぜ?

彼女  つまんないところで、熱情家ぶる男、あたし嫌ひさ。

彼  そんなら、阿部は?

彼女  あれも、なつちやゐない。

彼  どうして?

彼女  誰かのいつたことを、すぐそばから、もう一度いふだけぢやないの。

彼  ハヽヽヽ愉快々々……どら、一つ貸せ。

彼女  あたしがしたげる。(疳癪玉を叩きつける。爆音。)


ドアをノツクする昔。


彼女  おはひんなさい。


小森と阿部互に顔を見合せながらはひつて来る。


小森  もう帰つてたのか。

阿部  まだ帰つてないかと思つた。

彼  なにか用か?

小森  君の仕事のことで、一寸風変りな口を見つけて来たんだ。

阿部  全く風変りなんだ。

彼  まあ、かけろよ。

彼女  もう、御飯お済みになつて?

小森  えゝ、すみました。

阿部  今、そこで、やつて来たところです。

彼  どんな話だい?

小森  僕も、いろいろの方面を当つてみたんだがねえ。なにしろ、君の性質だつて知つてるし、何処でもいゝといふわけに行かんからねえ。実は、こいつとも相談して、ある金持の息子をおだてゝみたんだ。

阿部  おだてたといふと可笑しいが、まあ、おだてたんだなあ。

小森  つまり、こゝで二千円ばかりの資本を出させて、君と細君とに喫茶店かバアのやうなものを開かせようつていふんだ。それも、極くハイカラなね。つまり、奥さんの感じで行けばいゝんだ。

阿部  さうだ、奥さんの感じだ。明るくつて脆い感じだ。

小森  そこで君も、少し陽気な顔をして、ひとつ、カクテルの調合でも覚えるんだなあ。

阿部  こいつは、なんでもないよ。君にやる気さへあれあ……。

小森  利益は勿論、店の経営と君たちの生活費に充てるわけなんだが、最初、奥さんの衣裳ぐらゐ、特別に作らしてもいゝんだ。

阿部  さうだ、衣裳は大事だからなあ。洋装がいゝね、やつぱり……。

小森  どうだい、これなら不服はないだらう。是非奮発しろよ、われわれも大に声援するぜ。

阿部  その方なら引受けるな。奥さんはどうです。さういふ仕事に興味は……。

小森  大勢女なんか置くよりも、少し忙しいかも知れないが、奥さん一人で、フアミリアルなサアヴイスをして貰つた方が、人気は出ると思ふんだ。

阿部  その方が、第一、落ち着いた、物静かなといふ特色が出せるよ。


ドアが開く。多田が、牛肉の包みと、トマトの袋を提げて帰つて来る。


彼女  どうもありがたう。それぢや、そのお話は後で伺ふわ。


(炊事場にはひる)


多田  何の話だい?

阿部  ちよつと秘密の談合だ。

小森  秘密といふほどでもないが、今、発表したくないんだ。いづれ君にも後援は頼むよ。

多田  こいつの仕事かい?

小森  うむ、まあ、そんなことだ。頼むから、今日は帰つてくれ。君がゐちや、話がしにくいんだ。

多田  そんなら、おれの方を先へ話さう。実は、そのことでやつて来たんだが、君たちがゐれば、君たちの意見も聞きたい。かういふ話があるんだがどうだらう。おれが前に世話になつたことのある老教授なんだがね。今、隠退して著述に没頭してゐるんだが、助手の外に、もう一人、ほんの雑用だけをする若い人を探してゐるんだ。条件は、専門の学問はいらないから、快活で、気転の利いたなるべく生活の苦労を知つてゐる人といふんだ。午前九時から、午後四時まで、昼食は向うで食つて、月給三十円といふんだから、まあ、オフイス並だ。

小森  男でね……。

多田  無論女さ。

彼  なんだ、女か、その話は……。

多田  だからさ、君の口は後からみつけるとして、こいつ、奥さんにどうかと思つてさ。

彼  ワイフのことを何時頼んだ?

多田  頼まれなくつたつてそれくらゐの心配はするさ。

彼  余計な心配だ。


彼女フライパンを持つたまゝ現れる。


彼女  今のお話、よく聴いてなかつたわ。あたしがどうしたつていふの?

多田  (振り返り)いや、それがねえ……。

彼  (怒気を含み)おい、そんな眼でみるのはよせツ!

多田  え?

彼  そんな話は聞きたくない。早く帰つてくれ。

多田  しかし……。

彼  帰れつたら、帰れ。

多田  案外開けない奴だなあ。なあ、おい、君たち、どう思ふ? 外の場合と違ふぢやないか。いつまでもかうしてれば、食へなくなるのは眼に見えてゐる……。奥さんだつて、その方がどんなにいゝか……。

彼  やかましい。奥さん奥さんつて、貴様がそんなことに立入る必要はない。

小森  話が後先になつたんだ。

阿部  先に、さういへばよかつたんだ。

多田  そんなに怒るなら、帰るよ。冗談ぢやない。自分を知れ、自分を……。


多田すごすご部屋を出る。


小森  さう、まあ、腹を立てるなよ。あいつも親切でいつて来たんだ。しかし、人間は感情の動物だ。あの切出し方は、たしかに不味かつた。だからさ、おれの方の話を聴け。男らしく、うんといへ。

阿部  おれたちの話は、同じ親切でも、君の感情を尊重してかゝつてゐる。悪いことはいはない。うんといへ。

彼  いやだ。


長い沈黙。

彼女は、テーブルの上を片づけ始める。


小森  君には、おれたちの真心が通じないのか。


彼女は、食器を運んで来る。


阿部  君たち二人によろこんで貰へると思つて来たんだぜ。


彼女は彼の向ひに腰をおろし、焼きたてのビフテキを、めいめいの皿につけ、飯をスープ皿によそふ。


彼女  ぢや、失礼して、御飯にしませう。


彼の友二人は、適当に椅子をずらす。


彼女  こつちのナイフがよく切れるわ。いゝの、あんた二た切れたべていゝのよ。

小森  さういふとこを見てると、僕はつくづく、二人を幸福にしたい。そのために一生を捧げてもいゝやうな気がするんだ。

彼  熱情家ぶるのはよせ。

阿部  この二人を幸福にするといふことは、友達として甲斐のある仕事だ。

彼  人のいつたことを、すぐあとからいふな。

小森  こいつ、どうかしてるな、今日は……。

阿部  たしかに、どうかしてる。


彼女は、肉を頬張つたまゝ、笑ひたいのをこらへてゐる。


小森  こんな時、何を話しても無駄だ。帰らう。

阿部  また機嫌のいゝ時に出直して来よう。


二人は彼女に会釈して退場。

彼、ナイフとフオークを投げ出して不愉快さうにその後を見送る。

彼女、素早く、疳癪玉の鑵を持つて来て、彼の方に差出す。

彼はその中から、一つを取り上げ床の上へ叩きつける。爆音。また叩きつける。爆音。


彼  あんな話をされて、君はなぜ黙つてるんだ。(また叩きつける。爆音。)

彼女  どんな話……?

彼  バアを開けなんていふ話さ。

彼女  あたし、面白いと思つて聴いてたわ。

彼  (また叩きつけ)なにが面白い!

彼女  (これも、すぐに鑵の中に手を入れ)面白いぢやないの!(叩きつける、爆音。)

彼  世間の奴らは、おれを馬鹿にしてる!(叩きつける、爆音。)

彼女  あんたのひがみよ。あたしが働いちや、どうしていけないの? こなひだうちから、さういつてるでせう。一緒に外へ出て働きませうつて……。それを、あんたが許してくれなかつたんだわ。どうしてなの? 女に稼がせちや、男の顔にかゝはるとでも思つてんの。そんな馬鹿なことつてないわ。

被  おれは、君に働いてなんぞ貰ひたくない。貧乏をするのも辛いが、君に食はして貰ふのはなほ辛い。

彼女  誰も、あんたを食べさせるつていやしないわ。めいめいが、自分で食べるだけだわ。それもいやなら、あたし、あんたに食べさせて貰つた上、自分で稼いだお金は自分で贅沢をするわ。

彼  その贅沢も、おれがさせてやるんでなけれやいやだ。

彼女  あたしも、その方が結構だわ。なによ、そんな眩しさうな顔して。そこは夕日があたるからよ。もつと、こつちをお向きなさいよ。(彼女は彼の両肩をもつて自分の方へ捻ぢ向ける)

彼  おれには友達なんぞ一人もない。あれや、みんな、君の友達だ。

彼女  おや、また、別の話になつたの?

彼  あいつらは、君にだけ親切が見せたいんだ。

彼女  (疳癪玉を渡す)はい。

彼  絶交だ。(叩きつける。爆音)

彼女  (それに応じるやうに、叩きつける)むろんよ(爆音)

彼  酔ひどれの膝に、しなだれかゝる気か、君は……。そんな、そんなことがさせられるか。(叩きつける。爆音)

彼女  あゝ、さういふ意味なの? 衣裳を作つてやるつてさういふ意味なの? そんなこと、誰がするもんか!(叩きつける。爆音)

彼  もうひと息だ、我慢してくれ。おれの愛し方には欠点もあるだらう。君が、その欠点に堪へられなくなつた時は、おれは、もう、君にとつて用のない人間だ。

彼女  (彼の後から抱きつく様にして)大丈夫よ。大丈夫よ。

彼  大丈夫か? ほんとに大丈夫だね。


この時、隣の女が、そつとドアを開ける。


隣の女  あら、御免なさい。これ、みんな使つちやつたけど、とにかくお返しするわ。

彼女  (ヘチマコロンの空瓶を受け取り、ドアを閉める)

彼  あの女、いやにおめかしをしてるぢやないか。

彼女  そんなの、見ないだつていゝことよ。

彼  見るわけぢやないさ。たゞ、君の前では、もつと遠慮をするといゝんだ。

彼女  そんな下らない心配はおよしなさい。あたし、かうするから……。(疳癪玉を叩きつける。爆音)

彼  ほんとだ。おれは、どうして、かうケチな量見しかもてないんだらう。われながら腹が立つよ。どら、貸せ。もうないのか。なんだ、空つぽぢやないか。えゝツ、くそ、どうして、もうないんだ……。

彼女  もつといるの? もつと欲しいの。疳癪玉……? だつてだつて、もうおしまひよ。そんなら、そんなら……(あたりを見廻し)待つて頂戴……。これは?(ヘチマコロンの空瓶を差出し)え、これは?……これぢや、いけなくつて……。

彼  (ヘチマコロンの瓶を受け取り、そいつを振り上げるが急にぐつたりと椅子に倚りかゝり)こんなもの、ぶつけたつて、しようがないや……。


彼女はいきなり彼の胸に顔を埋め声を忍んで泣く。


──幕──

底本:「岸田國士全集5」岩波書店

   1991(平成3)年19日発行

底本の親本:「浅間山」白水社

   1932(昭和7)年420日発行

初出:「週刊朝日 第二十巻第二号」

   1931(昭和6)年75日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2008年319日作成

青空文庫作成ファイル:

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