音の世界
岸田國士



男甲

男乙

其の他


舞台は、連絡なき三つの場所を同時に示し得るやう、その空間を利用して、それぞれ独立した装置を施す。

三つの情景は、大体次の如き関係に配置されてゐればよい。


Aは、ホテルのアパルトマンに属する贅沢なサロン。


Bは、別のホテルの一人用寝台附小室。


Cは、ある商店の電話室。


時刻は午後九時。


Aの部屋では、男甲がソフアに倚つて夕刊を読んでゐる。その妻らしき女が、隣室から出て来る。


女   ちよつと、大きい方のトランクを開けて頂戴な。

男甲  もう寝るんだから、明日にしたらどうだ。

女   今、いるもんがあるのよ。

男甲  なにがいるんだ。

女   いゝから開けて頂戴つたら……。


男甲、渋々起つて隣室にはひる。女、その後に続く。

この時、Bの部屋へ、男乙が、外から帰つて来る。帽子を被つたまゝ寝台の上に寝ころがる。が、すぐにまた起き上り、電話の受話器を外す。


男乙  もし、もし、都ホテルへ繋いでくれ給へ。あゝ、都ホテル……。もし、もし、そちら、都ホテルですか。楠見つていふ人ゐますね。えゝ、さうです、夫婦連れの……。今、ゐますね。僕の名前は云はなくつてもよろしい。すぐ繋いで下さい……。


Aの部屋の電話が鳴る。女が電話口に現れる。


女   もし、もし……えゝ、さうです。はい、どうぞ……。

男乙  ありがたう。あ、もし、もし……。

女   どなた様でいらつしやいますか。

男乙  今晩は……。僕だよ。

女   あゝ、さう……(ちよつと隣室の方に眼をやり)今、何処から……?

男乙  ステーシヨン・ホテルだ。さつきは失敬……。悪いと思つて黙つてたんだよ。そこにゐるの、大将……。

女   えゝ、ゐるわ。

男乙  僕の声聞えやしない?

女   さうね、あぶないわ。あなたも、旦那様と御一緒なの。まあ、ちつとも知らなかつたわ。お遊びにいらつしやいな。

男乙  どうだい、結果は……。あんまり新婚旅行らしくないぜ。

女   どうして……。


男甲、隣室より現れ、再びソフアに腰をおろす。夕刊を読み続ける。時々、上眼使ひに女の方を見る。


男乙  全く偶然なんだよ、今日、こんなところで、落ち合ふなんて……。僕、いよいよ出掛けることになつてね、明日の午後、神戸を発つんだよ。その前に、京都の友達に会つとかうと思つて、やつて来たのさ。

女   あたしたちが此処に泊つてること、よくおわかりになつたわね。

男乙  大概、見当がつくさ。電話なんかかけて悪かつたか知ら?

女   あんまりよくもないけど……。でも、うれしいわ。まだ赤ちやんはおできにならない? え? お嬢ちやんお一人……。ぢや、旦那様そつくりでせう。

男乙  やつぱり顔を見ると駄目だね。ちよつとでもいゝから声が聞きたくなるんだ。

女   あたしもよ、それは……。あのまゝだつたら、あたし……。さうよ、学校を出てから、ずつとですもの。だけど、ぢや、いよいよ、行つておしまひになるのね。

男乙  さうするより、しようがないもの。無論、僕たちの取つた道は、今でも正しいと思つてるよ。君が結婚の相手にさういふ人を選んだことは、第一賢明でもあるし、僕がまた、それを許したことは、自分自身を知るものだと、少しは自惚れてるくらゐなんだ。──話中……えゝ、どうぞ──だからさ、今、かうやつて、君と話しをしてゐても、君の現在に対して、露ほども不快な感情はもつてやしないし、これから外国へ行くことなんか、それほど悲壮に考へなくたつていゝんだよ。たゞね……。

女   それでなくつちや嘘だわ。あなたらしくないわ。旦那様がそんな風なら、あなたもしつかりなさらなくつちや……。でも、めいめいが自由だつていふことは、却つていゝぢやないの。あたしんとこなんか、どちらかつて云へば、縛られすぎてるくらゐだわ。

男乙  なんだい、その話は……。もう少しこつちに関係のある話をしてもらひたいなあ。今、君んとこの大将、何してるの。

女   うちの大将、今、新聞を読んでるわ。時々、あたしの方を、こはい眼で見てるわ。

男乙  ぢや、これくらゐで止さう。もう寝るんだらう。

女   まあ、そんなとこね。

男乙  ゆつくりおやすみ。

女   御機嫌よう。


女、受話器をかけ、そのまゝ、男甲の方に近づき、その後ろから無意味に新聞をのぞき込む。男乙は、しばらく受話器を耳に当てゝゐるが、思ひ切つて、その場を離れる。服を脱いでピジヤマと着替へる。


女   三年前に結婚した学校のお友達なのよ。今日、丸山公園であたしたちを見かけたんですつて……。あんなひと、すつかり忘れてたわ。

男甲  なんていふ人だい。

女   え? あのね……。お嫁に行つた先は、なんとか云つたつけ……。友石だつたか知ら、……なんでもそんな名前よ。画家だわ。

男甲  風呂はどうする?

女   もつとあとからにするわ。

男甲  そんなこと云つて何時いつまで起きてるつもりだい。

女   眠くなるまで……。


女、男甲の傍を離れ、隣室にはひる。Bの部屋で、男乙は寝台にはひらうとし、思ひ出したやうに、電話器に近づく。受話器に手をかけようとするが、思ひ直して、鞄から書物を一冊取り出し、寝台に寝そべつて、頁を繰りはじめる。しかし、それも、一分間とは続かない。すぐに起き上り、飛びつくやうに受話器を外す。


男乙  もし、もし、もう一度、都ホテル……。さうです。……都ホテルですか。済みませんが、もう一度、楠見君の部屋へ繋いで下さい。えゝ、呼び出して下さればわかります。


Aの部屋の電話が鳴る。女が慌てゝ、隣室から姿を現すのと、男甲が、急いで受話器を耳に当てるのと、殆んど同時である。


男甲  はい、はい。

男乙  もし、もし……はい……。


長い沈黙。二人の男は、先に相手の声を聴き分けようとして互に、耳を澄してゐるのである。


男甲  もし、もし、わたし、楠見です。どなたですか。

男乙  ……(受話器を耳より放し、途方に暮れる)

男甲  もし、もし、わたしに御用ですか、家内に御用ですか。


女、恐る恐る電話に近づく。


女   どら、あたしに貸して御覧なさい。この電話、よく聞えないのよ。(受話器を男甲より受取り)もし、もし、こちら、楠見でございますが……。もし、もし……。


この時、男乙、再び受話器を耳に当てる。男甲、元の席に帰り、また新聞を読む。


女   どうしたんだらう、ちつとも聞えないわ。間違ひか知ら……もし、もし、もし、もし……。

男乙  あゝ、やつと通じた。僕だよ……。大丈夫かい。もう一度だけね、これでおしまひだ。大将、なんにも気がついてやしまいね。

女   あ、さやうでいらつしやいますか。さあ、如何でございますか……。

男乙  話してもいゝね。もう、寝てたの?

女   どういたしまして……。

男乙  迷惑だつたら、かまはないよ。そつちから切つてくれ給へ。

女   まあ、迷惑だなんて、そんな御心配は、決して……でも……。

男乙  うん、それや無論、わかつてるよ。だから、こんなに急いでるんぢやないか。出来ることなら、一口で、なにもかも云つてしまひたいくらゐだ。僕は、君にとつて、邪魔な人間でありたくないんだ。どういふ意味でゝも、なるだけ遠くに離れてゐようと思ふんだ。しかし、僕たちの別れ方は、あんまり理想的すぎた。あんまり、美しい余韻がありすぎたんだ。眠つてゐる僕の腕から、そうつと抜け出して行つた君を、僕はまだ、夢の中で抱いてゐるんだ。可笑しい、こんな云ひ方をするのは……だが、ほんとに、さうなんだ。

女   それはもう、お察しいたしますわ。でも先程、奥様からお電話をいたゞきました時は、そんなお話は、ちつともなさいませんでしたけれど……。

男乙  我慢してたのさ。云つてもしようがないと思つたからさ。でも、僕は、難題を持ち出さうつていふんぢやないよ。それは安心し給ひ。君に是非、云つて置きたい、いや、寧ろ、知らして置きたいことつていふのは、つまり……。

男甲  なんの話だい……いつまでも……。

女   ちよつと、お待ちになつて……。お話がよくわかり兼ねますが、つまり、奥さまが、こちらへお見えになる筈なんでございますね。で、おいでになりましたら、どういたしませばよろしいんでございますか。あたくし一存では計らひ兼ねますけれど、主人とも何れ相談いたしまして……。はい、それはもう、よく心得てをります。

男乙  それでだね、今の話ね、僕はいろいろ考へた末、どうせ外国なんかへ行つたつて、僕の頭から君が去ることはないんだし、君の方でも、僕が何処かに生きてゐるつていふことは、なんとなく、気持を楽にさせないだらうし……。

女   え? なにをでございますの?

男乙  気持をだよ、気持を楽にさせないだらうつていふのさ。

女   それで……?

男乙  それでね、僕は、決心したんだよ。


男乙は、かう云ひながら、右手を伸ばし、椅子の上に脱ぎ捨てたズボンのカクシから、拳銃を取り出し、それを弄びはじめる。


女   御決心つて、それは、あたくし、想像がつき兼ねますが。

男乙  今、僕の手に握つてゐるものを見たら、すぐわかることなんだ。少し大きな音がするから、驚いちやいけないよ。

女   そんな、御冗談みたいなこと、おつしやるもんぢやございません。なんの必要があつてそんなことをなさるんですの。いゝえ、なんの必要があつて、あたくしの眼の前でそんなことをなさるんです? あなたは、卑怯な方ですわ。

男甲  おい、どうしたんだ。

男乙  さういふ風に取られちや困るよ。僕は、たゞ、自分だけの決心を、一番便利な、しかも、一番僕たちの好みに適つた方法で、君の耳に入れて置かうと云ふだけなんだ。勿論、結果だけなら、何時か、知れるにきまつてるさ。それぢや面白くないからね。しかし、ことはつとくが、君はどんな場合でも、平静を装つてゐなけれやいけないよ。無論駈けつけて来るには及ばない。僕たちの歴史は、この瞬間、最後の頁を閉ぢたのだから、君は、君の旦那さんのそばへ、笑つて帰り給へ。


男乙は、かう云ひ終つて、拳銃を空に向つて放つ。


女   (その瞬間、受話器を耳より離し、無意識に、片手で眼を押へる)

男甲  なにをしてるんだ。え、おい。今のはなんの音だ。

女   (静かに受話器をかけ、男甲のそばに近づき)大抵、わかつたでせう、どんなこつたか……。

男甲  おしまひのところが、よくわからん。

女   (拳銃で喉を撃つ手真似をして)たうとう、やつたのよ。

男甲  馬鹿な……。

女   ほんとよ。(椅子に腰をおろす)


Bの部屋では、男乙が、拳銃をテーブルの上に投げ出したまゝ、煙草を喫ひはじめる。

マネージヤーらしき男が、扉を開けてはひつて来る。数人のボーイが、後から続く。


男乙  なんでもないんだよ。電話で空砲の音を聞かしてやつたんだ。話の弾みでね。お騒せして済まなかつた。あ、それからね。もう少し経つて、若い女が訪ねて来るかも知れないが、僕の家内つていふことにして、こつちへ通してくれ給ひ。


一同、顔を見合はして出で去つた後、男乙は、寝台に寝転つて書物を読みはじめる。

Aの部屋では、男甲が、先づ、新聞を畳み、起ち上る。


男甲  京都では、まだお前に見せるものがあつたつけな。

女   なあに?

男甲  舞妓さ。

女   そんなもんどうだつていゝわ。

男甲  まあ、後学のために見ておけ。まだ睡くなけれや、今から出かけるか。こうつと……。何処がいゝかな。どれ、ひとつ、ナンバア・ワンつていふところをお目にかけよう。(電話の方に近づく。受話器を取り上げ)もしもし京極一六二九番……。


Cの電話室の呼鈴が鳴る。丁稚風の少年が現れる。


少年  あ、もし、もし……。

男甲  あ、もし、もし……。わしだよ。東京の楠見だよ。

少年  楠見はん、そんな人、知れへん。

男甲  君は、誰……。

少年  わてか。わて、米吉いふもんどす。

男甲  あゝ、米竜か。わしだよ。はゝゝゝ、わかつたか。うん、しばらく……。どうだね、その後は……。いや、なに大したこともないさ。実は今度は、家内を連れて、見物かたがたやつて来たんだがね。どうも見物も疲れるばかりでね。はゝゝゝ、さうはいかんさ。そいつは、一人で来た時にしよう。うん、さういふわけでね、序だから、舞妓の踊りでも見せてと思ふんだが、お前、ひとつ、人選をしてくれんか。あゝ、何時もの処でよろしい。十人ばかり……。もう二十分ほどして出掛けるから、お前先へ行つてゝくれ。よし、わかつた。


Cの電話室では、少年がぼんやり受話器を耳に当てゝゐるが、しまひにそのまゝ居眠りをしはじめる。

主人らしい男がはひつて来て、少年を突きのけ、受話器を耳に当てる。


主人  もし、もし、どなたさまでおまつしやろ?

男甲  え? わしに相談……? そいつは弱つたな。この次ぎぢやいかんか。それやさうさ。無論、承知はしてゐるが、今度は勘弁してくれ。

主人  阿呆らし、あんた、だれや。えらい混線や。

男甲  さう、さう。ぢや、兎に角、わしが一と足先へ出掛けることにしよう。なに、かまはんよ。ぢや、さよなら……。

主人  さいなら……。おやすみ……。


男甲、受話器をかける。

Cの電話室でも、主人が荒々しく受話器をかけて去る。


男甲  では、かうしよう。わしが先へ行つて、後から迎ひを寄越すから、お前は、用意が出来たら、すぐ来るといゝ。お客さんだから、そんなにおめかしをして来なくつてもいゝよ。

女   あたし、そんなとこへ行かなくつてよ。

男甲  どうして……。

女   どうしてゞも……。

男甲  困るなあ、今更、そんなことを云ひ出しちや……。

女   困らないでせう。その方がいゝつて、ちやんとおつしやいよ。

男甲  もう約束しちまつたんだぜ。

女   だから、あなた一人で、行つてらつしやればいゝわ。

男甲  淋しくないかい。

女   淋しいわよ。

男甲  それ見ろ。

女   でも、いゝわ。淋しいぐらゐ我慢するわ。その代り、十二時までには帰つて頂戴ね。あたし、寝てるから、そうつとドアを開けるのよ。さ、行つてらつしやい。

男甲  いやに聞き分けがいゝね。ぢや、ちよつと行つて来るよ。さうさう、お友達が来るかも知れないんだね。さうだと、却つて、わしがをらん方がよからう。


男甲、帽子を取つて出て行く。

男乙、書物を投げ出し、寝台にもぐり込む。スタンドの灯を細くする。

Cの電話室が暗くなる。

やがて、女は、隣室に駈け込み、外出の用意をして現れる。電話を掛けようとするが、やめて、そのまゝ、部屋の外に姿を消す。


Bの部屋のドアをノツクする音。

男乙、起き上り、扉を開けに行く。

女が現れる。男乙は、無言のまゝ、女を抱かうとするが、女は、からだを退く。


女   多分、そんなことだらうと思つた。

男乙  ぢや、どうしてやつて来たの。

女   そんな訊き方、ないでせう。来たかつたから、来たのよ。で、やつぱり、行くの。行かないの?

男乙  行くさ。

女   もう、行くの、およしなさい。

男乙  行かなけれや、どうなるんだい。

女   どうもならないわ。たゞ、あんたが、何処にゐたつて、あたしにやおんなじだつていふだけよ。

男乙  僕の方はさうは行かない。

女   あら、不思議ね。

男乙  現に、そばにゐればこそ、かうして君を引張り出すことになるぢやないか。

女   己惚れちや駄目よ。あんたの意志なんかもう問題ぢやないわ。

男乙  さういふことを云ひに来たの、わざわざ……。

女   ムキにならなくつたつていゝわ。おどかされたから怒つてるのよ。

男乙  さうか。まあ、どつちでもいゝや、来てくれさへしたら……。明り、このまゝにしとかうか。

女   明りのことなんか気にしないだつていゝわよ。

男乙  …………。

女   まだ怒つてるのよ。もつと御機嫌を取らなくつちや駄目よ。

男乙  さうか、失敬、失敬……。

女   (笑ひ出し)どら、どんな拳銃だか、見せて御覧なさい。

男乙  何処へ置いたつけ……。あゝそこだ、テーブルの上だ。

女   (拳銃を取り上げ、男をねらひ)これが、あんな音を出すの。撃つてもいゝ?

男乙  危い。また、マネージヤーが飛んで来ら。

女   (拳銃をテーブルの上に置き)あんた、うちの宿六さん、どう思つて?

男乙  なかなか肥つてゝ、立派ぢやないか。

女   それだけ?

男乙  いゝステツキを持つてるね。

女   それから?

男乙  毛深い質だね。胸なんか毛だらけだらう。

女   余計なこと云つてらあ。かういふ風ぢや、あんたと会つても駄目ね。しんみりした話なんか出来やしないわ。

男乙  君がわるいんだよ。初めから調子を外すんだもの。

女   あ、さうさう、いゝこと考へた。電話、借りるわよ。(受話器を外す)もし、もし、都ホテルへ、どうぞ……。

男乙  そんなことして、いゝの?

女   もし、もし、ホテルですか。二百五番の部屋へ繋いで下さい。えゝ、ゐる筈です。さうですか。あ、もし、もし、あなた? あたしよ。あ、た、し……。まだ起きてらつしやるの? えゝもうぢき帰るわ。え? さういふわけぢやないけど、どうしてらつしやるかと思つて……。うゝん、やつぱり、心配なのよ……。うそばつかり……。淋しいのは、あたしよ。一人で車に乗るでせう、さうすると、つひ、うつかり、あなたがそばにいらつしやるつもりで、話しかけさうになるのよ。自分でも可笑しいくらゐよ。……えゝ……え? 帰つたら、いくらでも……。あら、いやだ、それはあたしの云ふことよ。ぢや、さよなら。また、あとでね。(キツスの音をさせ、受話器をかける)

男乙  それだけの用事か。真面目でないな。

女   これで真面目なのよ。

男乙  結婚して、今日で、幾日目だつけ?

女   十七日目……。式を挙げて十七日目だけど、まだほんとに結婚はしてないのよ。

男乙  そんなこと訊いてやしない。

女   訊かれなくつたつて云ふのよ。相手が年寄りだと思ふ通りになるわ。

男乙  ふうん、そんなもんかね。

女   あたし、少しは変つたでせう……。

男乙  君もすつかり面倒臭い女になつたよ。早くどつちかにきめたらいゝぢやないか。帰るなら帰る。ゐるならゐる……。

女   おや、あんたこそ、いやに威猛高ね。そんなに云ふなら、ゐたげるわよ。その代り、一つ条件を出すわよ。あの人が此処へ迎へに来たら、文句を云はずに、あたしを連れて行かせるのよ。

男乙  大将が此処へ来るのかい?

女   今、来るやうにするのよ。

男乙  なんだつてそんなことをするんだい?

女   あの人が何処まで寛大だか、それを試してみるのよ。それから……。

男乙  それから、僕が何処までお人好しだか、それを知りたいんだらう。真つ平だよ、そんなことは……。いゝから、もう、帰つてくれよ。

女   帰らない。あんたが、さつき、電話口でしたことは、どんなことだか知つてゝ? あたしの何処かに、まだ少し残つてゐた「人を信じる心」が、あれですつかり吹つ飛んでしまつたのよ。


この時、Aの部屋の扉が明き、男甲が悄然とはひつて来る。部屋中を見廻し、隣室の中をのぞき、絶望的にソフアにもたれかゝる。


女   あん時まで、あたしは、嘘を吐くのがいやだつたし、ほんたうのことが云へたら、どんなに楽だらうと思つてゐたのよ。それが、今では、嘘とほんたうの区別がつかなくなつたのよ。今迄、ほんたうだと思つてゐたことは、みんな嘘なんだわ。きつと……。あの人が、今、あそこへ行つてることだつて、嘘かも知れないわ。さうよ、見てらつしやい。(電話に向ふ)もし、もし、都ホテル……え、すみません。……あ、もし、もし、二百五番へ願ひます……。


Aの部屋の電話が鳴る。男甲、受話器を耳にあてる。


女   もし、もし。

男甲  聞いてるよ。

女   帰つてらしつたのね。

男甲  あゝ、帰つて来た。お前、何処にゐるんだ。

女   当てゝ御覧なさい。

男甲  わかつてるよ。今晩は帰らないのかい。

女   帰りたくつても帰れないの。赦して下さる?

男甲  別段、悪いことでもないぢやないか。早く帰つておいで。

女   さうおつしやると、なほ帰れないわ。さつき、二人でゐる時ホテルへかゝつて来た電話ね、あれは、学校のお友達でも、その旦那さんでもないのよ。

男甲  知つてるよ、そんなことぐらゐ……。

女   さうでせう。あたし、今、その人のところへ来てるの。あなたに隠れてよ。でも、あたし、後悔してるの。取返しのつかないことをしたと思つてるの。

男甲  取返しはつくさ、なんでもないよ。

女   だから、あたし、あなたに済まないと思つて、決心したの。

男甲  ふうん、どんな決心……。

女   今、すぐわかるわ。(女はテーブルの上の拳銃を取り上げる)

男乙  (慌てゝ女の手を抑へ)よしてくれよ、それだけは……。弾丸たまがはひつてるんだぜ。

女   嘘よ、そんなこと……。(銃先を喉に当てる)

男乙  (もぎ取らうとして)空砲だつて、怪我をするよ。

女   (さう云はれて、今度は、急に銃先を男の方に向け、放す。爆音)


男乙は、そのまゝ、前にのめる。

女、驚いて、駈け寄る。


男甲  よし、よし、それでよし。早く帰つて来なさい。弾丸がはひつてるつもりだつたら空砲だつた。その云ひわけも、一緒に聴かう。お前の芝居は、見てゐて腹が立たないよ。これはよくよくのことだ……。

底本:「岸田國士全集5」岩波書店

   1991(平成3)年19日発行

底本の親本:「浅間山」白水社

   1932(昭和7)年420日発行

初出:「文芸春秋 第九年第十号」

   1931(昭和6)年101日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2008年319日作成

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