運を主義にまかす男
岸田國士



底野(又はカマボコ)

飛田(又はトンビ)

こよ  以前の下宿の娘

口髭を生やした行商人

癈兵と称する押売

鶯を飼ふ老人

宇部家の小間使


     一


底野そこの飛田とびたの両人が共同で借りてゐる郊外の小住宅。座敷と茶の間の外に玄関。

男ばかりの暮しが、家の中全体を殺風景にしてゐるが、それだけ伸々とした空気が、何処かに漂つてゐる。

底野(二十八)が、薄つぺらな座蒲団を二枚並べ、その上に寝転んで古雑誌かなにかを読んでゐる。これは、ある大学を中途で止め、郷里にはそれを黙つてゐて送金だけを受けてゐたが、学校を卒業する筈の年が容赦なく来てしまひ、もう一年落第したことにしようと思つたのに、親父の方が先手を打つて、今年限り学費は出さぬ、その代り就職口がみつかるまで、月々二十円づゝ生活費のたしを送るから、あとはどうかしてそつちで都合をしろと宣告して来たのである。それでも、ぶらぶらしてゐて月々二十円貰へば、無理をして仕事の口を見つけ、朝から晩までからだを縛られてゐるよりはましだと考へ、こゝ二年間、世間一般の就職難を口実として、毎日、かうして寝転んでゐるのである。

相棒の飛田(二十七)とは学校の同窓で、しかも、以前、同じ下宿にゐたといふ関係から、自然、肝胆相照す間柄となり、飛田が卒業後或会社に傭はれる幸運を得た機会に、最も経済的にして且つ衛生的と称する郊外の自炊生活を始めたのであるが、飛田も亦、僅か数ヶ月にして、会社から爾後出社に及ばざる旨の通知に接し、百方運動を試みた甲斐もなく、之に代る椅子を贏ち得ずして今日に及んでゐる。しかしながら、彼飛田は底野と違ひ、生れつきの苦労性で、これまた情を訴へれば二人の兄と二人の姉から月にそれぞれ五円や三円づゝ小遣はせびれる身分でありながら、それだけでは決して満足せず、ひたすら好機会を外に求めて、毎日西東と駈け廻つてゐる。

さて、今日も、昨日の如く、底野は『果報は寝て待て』主義を、飛田は『犬も歩けば棒に当る』主義を実行してゐる。

玄関の戸があき、大きな手提鞄を提げた紳士風の男がはひつて来る。


男  御免。

底野  (寝転んだまゝ)どなた?

男  奥さんはいらつしやいますか。

底野  まだをりません。

男  では、失礼ですが、御主人にちよつと……。

底野  どうぞお上り下さい。

男  いや、こゝで結構です。

底野  どういふ御用ですか。

男  実は、わたくしは、かういふものでございますが……。(名刺を出す)

底野  口で云つて下さい。

男  はい。名前を申上げても、無論、御存じないわけでございますが、実は、わたくし、もと満鉄に勤めてをりましたもので、故あつて最近職を退きましたにつきましては……。

底野  就職のことなら、ちよつと心当りはありませんがね。

男  いえ、さういふわけではございませんのですが、その、突然のことでもあり、家に蓄へはございませず、子供は五人、これがまた至つて幼少でございまして、前途甚だ不安を感じますやうな次第で……。

底野  僕のところでは、誰にも一切寄附はしない、満洲軍にさへ町内の慰問資金を断つたくらゐですから……。

男  いやいや、決して寄附施しのたぐひをお願ひしに参つたのではございません。実は、さういふ次第で、わたくしもまだ老齢と申すには間がございますのを幸ひ、大いに勇を鼓して、断然、街頭に進出する決心をいたしました。それにつきましては、何か他人の気附かない職業、またその職業の種類は同じでも、何処か一点特色のある内容を選ぼうと思ひまして、いろいろ苦心いたしました結果……。

底野  名案がありましたか。

男  と申しますのは、世間普通に行はれてをります行商にいたしましても、やれ文房具であるとか、売薬の類であるとか、これは一向珍しくございません。わたくしが伺ひます一時間前に、他のものが伺つてゐるかもわかりません。これでは労して益のない道理でございます。

底野  僕のところは、かう見えて、なんでも揃つてますから、今、差し当り欲しいものはないんですがね。

男  ちよつとお待ち願ひます。そこで、わたくしは考へましたんでございます。これはひとつ、他の行商人が持つて歩かないもの、殊に、皆様が御近所では容易にお手にはひらないもの、或はまた、形は同じでも質の違ふもの、値段がお安くて品がよいもの、かういふ按配に目先を変へて一軒一軒をお邪魔して歩きましたら、また、その宅次第ではお目に止るものがありはしまいか、なるほど、かういふものは買つておいて損はない、これは珍しいから誰それさんにも分けてあげよう……。

底野  もしもし、それでわかりましたがね、生憎、僕の家にゐる男が、やはり君のやうな思ひつきを、今実行してゐるんですよ。こいつが、大概のものを持つてますからね、わざわざほかから買ふ必要がないんだ。

男  お言葉でございますが、人それぞれの頭は、働き方が違ひまして……。

底野  ところが、そいつと来たら、言ふことが君と同じでしてね。頭の働きもよく似てるんだ。

男  はゝゝゝゝ御戯談でせう。わたくしは、元来、生ひ立ちから申しまして、多少人様と違つたところがございますし、決して、人様の真似や、人様から真似られるやうなことは……。

底野  それさ、君、その男といふのが、実にまた人と違つたとこがあつてね。

男  それはさうでございませう。ですが、甚だ勝手をお許し願へれば、ひとつ、そのお方のお持ちになる品と、わたくしの持参いたしました品とをお比べ下さいまし。恐らくどれひとつ同じものはございますまい。

底野  さあ、そんなら、君は何と何を持つてゐるの。

男  有りがたうございます。恐れ入りますが、これをちよいと御覧願ひまして……。

底野  見なくつても、品物の名前だけを云つて見給へ。

男  畏こまりました。えゝ、これが、その、当節問題になつてをります『まむしの丸薬』……。

底野  あゝ、それはあつたよ。

男  しかし、この品は、信州伊那の里から直接取り寄せました純粋混ぜものなしの……。

底野  ところで、そいつは、何にくの。

男  老若男女、これを用ひまして、精力の衰ふるを知らず……。

底野  あ、それや、駄目だ。そんなものを飲んでこの上精力なんかつかれちや堪らないよ。なんとかしてそいつを散じようと心掛けてるくらゐだ。

男  では、その方は御用がないとして、この胚芽から取りました消化薬……。ヂヤスターゼなどより遥かに……。

底野  おい、おい、馬鹿云つちや困るよ、君。たゞでさへ食つたものが腹へ溜らなくて始末に悪いんだ。よしてくれ、そんなもの……。話を聞くだけで胃がキユウキユウ鳴りだした。

男  それでは、この完全燃焼を特長とする小粒煉炭……。

底野  火の気は一切禁物だ。

男  では、この、毛織物に特効ある虫よけ香錠……。

底野  そいつは、質屋の方へ持つてつといてくれ。

男  最後に、卸値段の精選脱脂綿、薬局でお求めになるより四割方お徳用……。

底野  折角だが、女が一人もゐないんでね。

男  (荷物を片づけ)どうもお邪魔いたしました。またどうぞ、御用の節は……。

底野  寝たまゝ失敬。(さう云つて、また雑誌を読み続ける)


やがて、また、今度は勝手口から、若い女の声で『御免下さい、御免なさいまし』


底野  (元気よく起き上り)おはひんなさい。どなた?

女の声  あたしよ。

底野  あたしつて誰だい。あたしぢや多勢ゐてわからねえや。まあ、どのあたしでもいゝからおあがりよ。


若い下町風の娘がはひつてくる。前の下宿の娘こよ(十九)である。


こよ  (軽く手をついて)こんちは……今日はお一人?

底野  一人だつていゝぢやないか。奇麗になつたね。

こよ  奇麗になつたつていゝぢやないの。

底野  それや無論、悪いた云はないさ。どうだい、家は相変らずかい。

こよ  えゝ。あんたんとこは?(あたりを見廻し)この前より落ちついて来たわね。

底野  (これもその辺を見廻し)どの辺が? 板津や神谷はまだゐるかい。

こよ  えゝ、神谷さんは、この春奥さんを貰ふんですつて。今、家を探してるわ。

底野  板津は、やつぱり下宿代を溜めてるかい。

こよ  ふゝん、どうだか……。人のことなんかなんだつていゝから、あんた、どうかしなさいよ。あたし、いやだわ、こんなこと、しよつちゆう云ひに来るの。母さん、怒つてゝよ。それや嘘だけど、ほんとに少しづゝでもいゝからつて云つてるわよ。家から来るんでせう。

底野  二十円づゝ来るには来るよ。そのうちをどうかしろつていふのかい。虫がよすぎるぜ。

こよ  あら、そつちこそだわ。二十円がさ、こんな風にしてゝ何にかゝるの。

底野  おい、失敬なこと云ふない。斬髪だつてチツプを含めれや一円はかゝるぜ。

こよ  その頭、何時刈つたのさ。

底野  忘れるくらゐ度々刈つてらあ。時に片岡千恵蔵は見に行くかい。

こよ  えゝ、ついこなひだ、あれ見たわ、なんだつけ……。

底野  そいぢや、この秋のリーグ戦は、誰かに切符貰つた?

こよ  何処だつて、大抵手にはひるわ。二枚はむづかしいけど……。

底野  おれも、この夏から月給取りだぜ。いま人にや云へないが、ある三井系の会社だ。七十円だけど、初めにしちやいゝだらう。

こよ  ほんと、それ? 出鱈目でせう。

底野  いゝよ、さう思ふなら……。君さへよけれや、おれや、一生、貧乏してゝやる。

こよ  ちよいと、あたし、喉が渇いちやつたわ。

底野  井戸の水は、自慢なんだがなあ、尤もそいつあ大家の話なんだけど……。

こよ  家賃ちやんと払つてる?

底野  ちやんと払つたら、かうして生きちやゐられんね。

こよ  そんなこつたらうと思つた。(起つて水を飲みに行く)

底野  おれにも一杯頼むぜ。茶碗がそこにあるだらう。君の飲んだあと、洗はなくていゝや。だが、いゝなあ、かうしてたまに君と話をするなあ……。なあ、おい、こよちやん、時々、なんべんも来てくれよ。誰かの煙草を買ひに行く時、ちよつと電車へ乗つちまへばいゝんじやないか。


こよ現れる。茶碗に水をいれて来る。


底野  ありがたう。なるほどうまい水だ。これで少し砂糖でもはひつてると申分はないんだが……。あゝ、さうだ、こよちやん、こんど来たとき返すから、朝日一つ買つて来てくれよ。君だつて、もう一二本は喫つてもいゝ年頃だぜ。君のその口元でさ、歯の間にちよつぴり煙草のやにをくつゝけてるなんて、絵にだつてありやしないぜ。よう、買つて来てくれつてば……。

こよ  だつて、あたし、今日は往復の電車賃きり貰つて来ないんですもの。ちよいと、火鉢に火もないの。

底野  ぢや、帰りの分は落したつて、歩いてけばいゝぢやないか。

こよ  こつから神田まで……? 一体、どれくらゐあるの、十里ぐらゐあつて……?

底野  馬鹿云つてらあ。電車で市内とも三十分ぢやないか。三十分つて云や、普通の足で一里足らずだ。

こよ  さうを。そんなゝの? でも、一里歩くのいやだわ。あたし、近頃、少し歩くと(左の胸をおさへ)こゝがどきどきして、なかなかとまんないのよ。

底野  年頃になれば誰だつてさうだよ。おれだつて、もう五六年前までは、さういふ風だつたよ。何処か外へ出ると、帰つて来るまで呼吸いきが苦しいんだ。帰つて来てからでも、暫くは、誰とも口を利くのがいやだ。一人でぢつと空を見たり、空が暗ければ、畳の上の焼こげを見つめて、大きな溜息をいたもんだ。あれや、しかし、苦しいもんだけど、また、なんとなく、楽しいもんだ。

こよ  あら、そんなのとは、また違ふのよ。

底野  男と女とでは多少容態が違ふさ。こよちやんは、今年十九だらう。おれが二十八だ。悪いことは云はないから、貧乏な奴んとこへお嫁に行くなよ。貧乏でもいゝから、何時でも少しづゝ現金を持つてる奴んとこへ行け。いざつていふ場合に困るからな。それから、なんでも、途中で止めたつて奴のところへ行つちやいかん。行商でも初めから行商をしてる奴ならいゝ。それもなるべくひと品だけを売るつていふ主義でないといかん。

こよ  いゝわよ、そんなお説教聞かなくつたつて……。そいぢや、今日は駄目ね。

底野  駄目でもないよ、どうせ暇なんだから……。ゆつくりしてき給へ。

こよ  さうぢやないのよ。お金のことよ。

底野  金のことなら、飛田が帰つたら相談しとかう。出る時に持つてなくつても、帰りには持つてかへるといふことが、間々あるもんだ。尤も、あいつは、拾ひでもしなけれや、十円とまとまつた金を持つて帰る筈はない。まあ、この夏まで辛棒し給へ、お互にね。

こよ  (諦めて)ぢや、帰るわ、あたし。

底野  あつさりしてるね。まあ、茶碗でも片づけてけ。

こよ  (茶碗をもつて勝手に行き、そのまゝ)さよなら……。


底野はまたひつくり返る。今度は、雑誌も読まうとせず、毛布を腰に巻きつけ、両腕を上下して体操みたいなことをする、煖を取るためであらう。

そこへ、表から、飛田が帰つて来る。洋服を着てゐる。


底野  おい、トンビ、今、そこで誰かに会つたらう。

飛田  うん、会つた。

底野  どうだい。おれのこと、なんか云つてたか。

飛田  いゝや、別に……。これから現金でなけれや、一切配達はしないつて断りやがつた。

底野  なんの配達?

飛田  米でも炭でもさ。

底野  米? 炭? なんだ、それや。相模屋の御用聞か。

飛田  さうさ。例のエヘヽヽつて調子ぢやなかつたぜ。

底野  それだけか。他には誰も会はなかつたか。

飛田  それを今、話さうと思つてるとこだ。

底野  おつと、それなら、こつちが先だ。なあ、おい、たつた今迄、そこに坐つてさ、今日は、ひとしほ晴れやかに、また馴れ馴れしくおれと語つて行つたぜ。髪は何時もの髪だが、まだ結ひたてゞ油も腐らず、前掛けは余所行の、例の緋の裏さ。今年は大して霜焼も目立たず、足袋をはいてゐるから光つた足の裏も見えない。

飛田  それより、おれは、今日、あいつに会つたよ。誰だか当てゝ見ろ。

底野  だから云つてるぢやないか、なるほどこゝへ来たことを黙つてゐたと見える。いきなり、その辺を見廻してさ、『あんたも、近頃貫目がついたわね』つていやがる。

飛田  そんなことより、こつちはどうだ。おれの顔を見ると、あの眼にもう涙を溜めて……。

底野  嘘つきやがれ。トンビでも、何時の間にか洒落たことを覚えやがつた。

飛田  断じて嘘ぢやない。──かういふんだ、まあ聴け、『実に懐しい。近頃はどうしてゐる。こんなところで立話もなんだから、その辺のカフエーへでもはひらう。』

底野  (躍起になり)馬鹿、馬鹿。おれは、外のことは云ひたくないんだ。日頃、貴様が、おれの主義を軽蔑し、果報は寝て待つべきものではない、よろしく……。

飛田  さうさ。よろしく、外へ出て、方々を探し廻れと云つた。犬も歩けば棒に当る、それが真理だ。その証拠に……。

底野  いや、黙れ。果報は寝て待て、その証拠がこれだ。いゝか、それからどうしたと思ふ。下宿代なんか何時でもいゝ。あなたが成功したら、それくらゐ御祝ひに熨斗をつけてもいゝと云つたぞ。それからだ……。

飛田  それからだ。カフエーなんとかの一隅だ。テーブルの上で優しくふるへてゐる桜草を挟んで、二人は、しみじみと積る話をした。

底野  なにが、積る話だい。こつちはな、いゝか、驚くな。同じ茶碗で、水を飲んだぞ。その甘さは、丸で砂糖水だ。レモンエキスでも入れてみろ、酒石酸を少しと。丸でラムネだ。

飛田  ラムネがなんだ。われわれはカクテルだ。

底野  誰が払つた?

飛田  向うだ。向うは、今度、親爺の遺産がころげこんだ上に、会社は先輩三人を飛び越して支店長……。月給は少くとも三百円だ。

底野  なんの話だい、それや。

飛田  そら、ゐたらう、おれと同郷の蜂谷さ。おれは、うれしかつた。カクテルに酔つた以上に、おれは、友人の成功に酔つた。幸福な話に酔つた。幸福そのものに酔つた。自分の現在に酔つたんだ。

底野  つまらんものまでに酔ふなよ。それで、そいつが、貴様の云ふ、果報は外を歩いて拾へか。

飛田  犬も歩けば棒に当るだ。

底野  犬の当る棒だから知れたもんだ。

飛田  貴様の話はなんだい。

底野  聴いてなかつたのか?

飛田  よく聴いてなかつた。誰が来たんだい。

底野  おこよさ、池中館ちちうくわんの娘さ。

飛田  なんだ、借金取か。

底野  借金は第二だ。

飛田  おこよが来たからどうだつて云ふんだい。それが、貴様の主義とどう関係がある。不良学生に取巻かれて、精神的処女性をとつくに失つてゐる娘から、何を得たといふんだ。貴様の果報つていふのはそんなことか。

底野  なにを。精神的処女性なるものを、貴様、云々する資格があるか。昔の友人が金持になり、支店長になり、それが、貴様の現在とどう関係がある。カクテル一杯で、頭が変になりやしまいな。公平に比べてみろ。たとへ誰のものでもいゝ。たとへ何を失つてゐてもいゝ。この殺風景な、この家賃も碌に払つてないやうな家の中で、一つ二つは隠してゐるとしても当年取つて十九歳と称せられる十人並以上の美少女とたゞ二人、火のない火鉢を挟んで相対坐し得たといふことは、これこそ、おれが日頃……。

飛田  さうだ、それを云ふなら、こつちでも云はう。人口三百万の大東京を中心にして、誰がよく、友人の中で一番出世をした男に廻り会へるか。違つた電車、違つたバスに乗つてゐる二人の人間は、永久に相会することは出来ないのだ。一人が家の中にをり、一人が外を歩いてをれば、これまた、悲しい哉、顔を会はす機会を恵まれ得ないのだ。外は、今日も冬空だ。路は到るところ氷の鍍金だ。男も女も、襟巻に頤を埋め、擦れ違ふ人の横顔さへ振り向いてみようとはしないのだ。然るにだ……。

底野  わかつた。

飛田  然るにだ。

底野  もうわかつたよ。

飛田  いや、しまひまで言はせろ。然るに、偶然と云はうか、神の配剤と云はうか、二人の心が相通じたと云はうか……。

底野  犬が歩いて棒に当つた。

飛田  犬? 犬とはなんだ。誰が犬だ。

底野  貴様ぢやないか。

飛田  さうか。やつぱり、犬でいゝのか。


     二


底野が、また前場と同じやうに寝転んで雑誌を読んでゐる。夕方である。

玄関の格子が開いて、癈兵帽をかぶつた男がはひつて来る。


男  御免。

底野  どなた?

男  かういふものですが、義務として、ひとつなにか……。

底野  なにをひとつですか。

男  絆創膏、又は征露丸……。

底野  薬ですか。薬は、一向、用がないんでね、家では……。

男  ですから、国家のため犠牲を払つた同胞への慰問と考へられて……。

底野  何処にゐるんですか、その同胞つていふ人は……。

男  われわれがその一人です。

底野  (起き上り)あゝ、さうでしたか。これは失礼しました。(玄関へ出て、丁寧に膝をつき)あなたがなんですか。それはそれは……。(考へて)まあ、どうぞ、お上り下さい。少し散らかしてますけど……。

男  いや、こゝで結構です。

底野  いや、そこぢやいけません。絶対にいけません。いやしくも国家のために犠牲を払はれた同胞の一人に対して、そんな待遇はできません。さあ、どうか……。それとも、おからだに、どこか御不自由なところがおありですか。靴をお脱がせしませうか。

男  いや、それには及びません。ぢや、ちよつと、こゝへ掛けさして貰ひます。えゝ、この証明書にもあります通り……。

底野  (それをさつきから読んでゐる)はあ、僕、これくらゐのものなら読めますから……。なるほど、間違ひはないやうですな。

男  はゝゝゝゝ。どうも、近頃、偽物が横行して、われわれは迷惑しとるです。

底野  本物はやりきれませんな。

男  何しろ、戦争当時乃至直後に於ては、世間も出征軍人とか、名誉の負傷者とか云つて、ちやほやしてくれますが、だんだん時日が経つにつれて、熱が冷め、忘れ勝ちになり、たうとう、振り向いてもくれないといふ有様です。

底野  よくしたもんですな。人間のやゝかさは、恋愛の末期にだけ現れるんぢやありませんね。

男  所謂、癈兵、今日では別の名前がついてをりますが、その方が通りがよくて重宝です。この癈兵などに対する社会一般の態度は、日に日に、無関心を通り越して、一種の軽蔑反感にまで達してゐる。これは、われわれ一同の甚だ心外とするところで、かの戦場で、生命の一つ手前までを捧げた勇士の末路として、かくあらねばならぬかといふ疑ひをもつんです。

底野  御尤もです。失礼ですが、日清ですか、日露ですか。

男  わたしは日露です。得利寺の激戦で、この通り、片腕をもぎ取られました。わたしなどはまだ仕合せな方で、今、この向ひ側を廻つてゐる男などは、両腕と片足を奇麗に浚はれちまひました。これは奉天です。

底野  悲惨ですな。今度の事件などでも、大分、あなた方のやうな人ができたでせうな。

男  できたでせう。しかも、みんな、われわれと同じ運命に陥るわけですが、本人たちは、今は、これを知らずにゐるでせう。病院で次ぎ次ぎに来る慰問者の花束に囲まれてゐる間は、そんなことに気がつかないんです。三年、五年、十年彼のひもじさ、恥しさ、無念さは、夢にも想像してゐないでせう。

底野  国家は何をしてゐるんでせう。新聞は眠つてゐるんですか。富豪は何処へ金を撒いてゐるんです。

男  あなたのやうに云つて下さる方は、まつたくめづらしいです。

底野  稀しいことを、僕は悦びません。僕は、日本でたゞ一人、あなた方への義務を怠つた人間として、激しく非難されることをすら望みます。あなたは、この得利寺の激戦で、何隊に属してをられましたか。

男  野戦砲兵第三連隊第二大隊第四中隊第一小隊第二砲車照準手です。

底野  長いですな。そして、その激戦の模様、並に、あなたの御活動振りは? 照準手だとすると、さぞ猛烈に覘ひを定められたでせうな。

男  定めましたとも……。かういふ境遇で、自分の手柄話などするのは、あまり感心しませんが、わたしの中隊長粟屋大尉は……。


この時、表から呼ぶ声。『おい、早くしろ。来るぞ、来るぞ』

男は慌てゝ薬をしまひかける。


男  何れまたこの話は、この次の機会に……。どうです、この絆創膏を一つ……二十銭です。

底野  いや、折角ですが、絆創膏はあんまり……。注射は自分でやらないもんですから……。

男  傷をされた時には如何です。

底野  傷をするくらゐなら、針で縫ふぐらゐのやつをやるですからなあ。

男  早くして下さい。征露丸を一袋、それぢや……。

底野  征露丸つてやつは、僕の知つてる車屋が買つたつていふんですが、あんまり効かんらしいですな。熱なんか、なほ高くなるつていふぢやありませんか。

男  そんなことはありません。さあ、早く願ひます。連れが待つてますから……。これが三十銭……。

底野  もうなにか、ほかに変つたものは……?

男  これだけです。さあ、どつちでも……。(頻りに後ろを振り返り、不安な様子を見せる)いらないんですか。

底野  もう少し考へませう。

男  勝手にしやがれ。(さう捨白を残して、逃げるやうに立ち去る)


底野、あつけに取られ、元の位置に帰り、ごろりと寝転がる。


底野  勝手にしやがれ。云はれなくてもさうするより外はないが、あゝいふ人間を作つたのも、かういふ人間を生んだのも、これ、もともと人間の罪だ。征露丸を押売りするのも、それが買へないで、つまらんお喋舌をするのも、国を思ふ同胞の浅ましい姿だ。おや、何時の間にか飛田の調子が出て来やがつた。寝起きをともにするつていふのは恐ろしいもんだ。


この時、飛田が、洋服を泥だらけにして帰つて来る。


飛田  やあ、今日は、ひどい目にあつたよ。

底野  どうしたんだい、その洋服の柄は?

飛田  危く貨物自動車に轢き殺されるところだつた。側にどぶがなかつたらおしまひさ。

底野  犬も歩けば溝に落ちるか。

飛田  癈兵は寝て待て! こん畜生。


     三


その翌朝、底野と飛田とは、何やら朝食らしいものを終つて、互に悄気きつた顔を見合つてゐる。


底野  瘠せたよ、トンビ、貴様も。

飛田  その眼玉の黄色いのは、やい、カマボコ、只事ぢやないぞ。栄養不良から来る黄痘だ。

底野  貴様はたまに外で何か食ふから、栄養佳良だとでも云ふのか。なんでもいゝ。せめて、たまに散歩ぐらゐはせんと、これで、下駄にだつて気まりが悪いや。

飛田  ほんとに、少しは外の空気を吸へよ。折角あんなにあるんだからさ。金のかゝらんもんていふのは、当節、めつたにありやせんぜ。第一、家の中にばかりゐちや、幸運はともかく、自然の恩恵を無にするも同然だ。場所は選ばれた郊外だ。季節は春秋と限つてはゐない。冬の武蔵野は、葉の落ちつくした榎の木立に、昔ながらの詩があるのだ。

底野  よせやい、詩を作るなあ。さうまでしなくつたつて、おれや、出掛けるよ。巻煙草の長い喫ひさしでも拾や、損得なしだ。

飛田  おれは、今日は休むよ。家にゐるよ。

底野  人聞きのいゝことを云つてやがらあ。何処を休むんだい。家にゐたつて誰も心配しやしないよ。変な棒つ杭にぶつからないだけでも安全だ。


かう云ひ捨てゝ、底野は表の方へ出て行く。

飛田は、昨日まで底野がやつてゐたやうに、座蒲団を二枚並べ、その上に寝ころがる。

やがて、彼は起き上る。どうも寝心地がよくないと見えて、いろいろ寝返りを打つてみる。また起き上る。部屋の中を歩きまはる。しかし、思ひ切つて、また寝ころんでみる。

この時、障子の間から、一羽の小鳥が部屋の中に飛び込んで来る。彼は、それを眼で追つてゐるが、やがて起ち上つて、一隅に追ひつめ、そつと両手で捕へる。


飛田  これや、鶯だ。何処から飛んで来たんだらう。


彼はさう云ひながら、勝手から目笊を持つて来て畳の上へふせる。


飛田  鳴いてみろ、こら。ホヽホヽホケキヨ。ホヽヽヽホケキヨ。かういふ風に鳴いてみな。駄目だ、こいつはまだ学校へ行つてねえや。


そこで、鶯のことは忘れたやうに、また寝ころがつてゐる。

しばらくすると、鴬は、巧みな声で、一と声鳴いてみせる。


飛田  おや、今頃鳴いたな。学校へ行かないつて云はれて、むつとしたな。よしよし、もうそれでいゝ。あんまり鳴くと、今度は、商売人上りだつて云はれるぞ。


鶯は、また、一と声、続いて二た声、三声、鳴き続ける。


飛田  よし、わかつた、わかつた。いゝ喉だよ、お前は。おれは、今、折角家の中にゐるんだ。梅林ん中を歩いてるやうな気持にさせてくれるな。


鶯は、なほ鳴き止まない。


飛田  よせつたら、よさないか。聴きたくないときは、ガリクルチでも聴きたくないんだ。ぢや、もう、出てつてくれ。帰つてくれ。伊太利へでも何処へでも飛んでつてくれ。


さう云ひつゝ、目笊を開けようとする途端、表に声がする。──『御免』


飛田  (目笊をそのまゝにして、玄関へ出る)どうぞ。


宗匠風の、又はそれを気取つた老人がはひつて来る。


老人  突然、誠に失礼ですが、お宅では、鶯を飼つておいでになりますでせうか。

飛田  (驚いて)はあ、いゝえ、実は、今、そこにゐましたら、外から部屋ん中へ飛び込んで来たもんですから、つかまへて目笊に伏せといたんです。

老人  それでは、ちよつと、そいつを拝見さしていたゞけませんでせうか。実は、只今、餌をやつてをりますと、何に驚いたのか、いきなり籠から飛び出しまして、なんでもこちらの方角へ飛んで参つたんです。不断、非常に手前には馴れてをりますし、そんなことは決してなかつたんですが、どうしたものですか、今日に限つて……。

飛田  あゝ、さうですか。それは御心配でしたらう。今、鳴いたのをお聴きになつたんですね。

老人  えゝ、それがもう鳴き声を聴きましたゞけで、それといふことはわかりはいたしますんですが、いきなりさう申上げるのも失礼と思ひまして……。

飛田  いや、もう僕の方は、そんなに遠慮をしていたゞかなくつても、どうせ誰かに持つてつて貰ひたいくらゐですから……。


老人と飛田とは協力して目笊から籠に鶯を移す。


老人  どうも、誠に有りがたう。これでどうして、その道の人にかゝつたら、この鶯、わたしの手には戻りません。これでも、人はなんと申しますか、わたしとして一番丹誠をしてこゝまでにした鳥ですから、今逃げられては浮ばれませんや。去年の品評会には、お蔭で一等を取りましてな。あなたのお人柄を見込んで申上げるんですが、これで時価三百円といふ代物です。やあ、どうも、ほんとに助かりました。何れ改めてお礼に何ひますが、わたしは、あの原の向うにをります宇部と申す隠居でございます。

飛田  (なんと返事のしやうもなく、たゞ、相手の一言々々に頭を下げてゐる)

老人  では、御免下さい。お宅には二つ表札が出てをりますやうですが、あなたは……。

飛田  僕、飛田の方です。

老人  はあ、トビタとお読ませになりますか。なるほど、や、それでは……。


老人去る。


飛田  (再び座に帰り)三百円か。えらい鶯もあればあるもんだなあ。あの鳥が紙幣さつかなんかなら、一寸悪心を起すところだ。やれやれ、紙幣さつに羽根が生えたとはこのことを云ふんぢやないかな。


そこへ底野がぶらりと帰つて来る。


底野  やつぱり外は、広すぎて落ちつかん。木ならば鉋をかけた木でなけれやおれの性に合はん。

飛田  カマボコの称ある所以だ。中学で羽目板の前に立たされたことが、抑も貴様の一生を決定したんだ。

底野  おい、トンビ、兄貴のどれかにさう云つてやつて、また五円ばかり送らせろよ。おれの方は、月末まで、まだ三週間以上間があるぜ。

飛田  惜しい話をしてやらうか。おれは、さつき三百円つていふ……ものをだよ、この手の中に握つたんだ。

底野  巫山戯ふざけるない。出してみろ。

飛田  それが、もうないんだ。人が持つてつた。

底野  なんだい、一体、そのものつていふのは……。

飛田  鳥だ。

底野  三百円の鳥? 手の中へ握つた? 夢かい。

飛田  夢でも幻でもない。なるほど、あの声を聴いた時、これは曲者だと思つたよ。日本一の名鶯めいあうだ。

底野  メイオー? オーは……。

飛田  鶯だ。

底野  それが?

飛田  そこから、かうだ。それで、これだ。(外から飛び込んで来て、それを捕へた有様を手つきで示す)

底野  それで、これとは?(指を三本出してみせる)

飛田  これが、かう、かう、かう、かうさ。(老人が来て、見て、受け取つて、帰つたといふ恰好をする)

底野  なんだい、わからん。

飛田  飼主が、声を聞きつけて、受け取りに来たんだ。

底野  無条件で渡したのか?

飛田  条件はつまり、その、糞なんかたれないうちに持つてつて貰ふといふだけさ。

底野  だから貴様は、外へ出てろだ。

飛田  そいぢや、カマボコだつたら、どんな条件をつける。

底野  三百円の代物なら、一割乃至二割は謝礼として要求するさ。

飛田  さういふものとは知らず、いきなり、さあさあお持ち帰りをと云つた場合は……?

底野  渡してからでも遅くない。

飛田  しかし、こつちからは、そんな態度を見せない方が奥床しいよ。堂々としてるよ。

底野  いくら言ふことが堂々としてゝも、そのりぢや人が信用しないよ。却つて、奇麗なことを云ふ方が、物欲しさうだよ。坊主にお経料を訊ねると、へゝお思召でといふやうなもんだ。

飛田  おれは、おれのやつたことを後悔してない。現に、なんにも云はないのに、何れお礼に伺ふと云つてた。

底野  そんなことが当てになるかい。温泉場で玉突の相手をした男だつて、東京へお帰りになつたら是非お遊びになんて云ふよ。


その時、表で、若い女の声。──『御免遊ばせ。』


底野  (飛び上るやうに)来たぞ。

飛田  (落ちついて)取次げ。

底野  (玄関に出る)どなた様で……。

女  (丁寧にお辞儀をして)わたくし、原の向うの宇部から使に参つたものでございますが。

底野  あ、あの、鶯の……?

女  さやうでございます。あの、飛田さまとおつしやる方は、只今……。先程、主人が伺ひました節、お目にかゝりましたさうでございますが……。

底野  あ、それならをります。(飛田の方に眼くばせをする)実は、わたくしです。先程は失礼しました。わざわざ、どうも御丁寧に……。

女  それにつきまして、主人が自分で出向きます筈でございますが、却つて業々しく思召すといけませんので、大変失礼でございますが、これを、ほんのお礼のしるしに差上げて参れといふ申附けでございます。どうかお納め下さいまして……。

底野  なんですか、どうも、そんなことをしていたゞくわけはないんですが……いや、折角のなんですから、なにいたしますが、このまゝ、なんですか、なにしてかまひませんか。

女  はあ、どうぞ……。ではごめん遊ばしませ。


女、去る。


底野  (奉書に包んだものを飛田の前で開く)

飛田  おれに開けさせろ。

底野  (そばから紙幣を数へ)一、二、三、四、五……。もう一枚ないか。

飛田  ない。

底野  五十円か。相当だな。

飛田  どうだい。やつぱり、おれが不断云ふ通りだ。

底野  うむ、これや成功だ。

飛田  降参したか。おれの主義をもう一度聴かしてやる。犬も歩けば……。

底野  え?

飛田  む?

底野  可笑しいな、少し。

飛田  なるほど、変だ。犬も寝て待てば……か。さうでもないな。

底野  (思ひつき)やあ、どうだい、こいつは、やつぱり、おれの勝ちだ。その金は、おれが手に入れたも同然だ。どら、貸してみろ。

飛田  (むきになり)待て。果報は寝て待て。お前は寝てたか。

底野  (ぐつとつまり)む?

飛田  かういふのは、どういふことになるんだ。金を得たのはたしかにおれだ。おれの運だ。

底野  しかし、その金を得させたのは、おれだ。おれの主義だ。貴様は、おれの方針を守つて寝てゐたんだ。

飛田  それぢや、犬は、歩かずに寝てゐても棒に当るんだ。万歳、万歳。

底野  果報は歩きながら待てだ。万歳。さあ、出掛けよう。


両人、勢よく起ち上る。

底本:「岸田國士全集5」岩波書店

   1991(平成3)年19日発行

底本の親本:「浅間山」白水社

   1932(昭和7)年420日発行

初出:「現代 第十三巻第三号」

   1932(昭和7)年31日発行

※初出時の題名は「運を主義に委す男」。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

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校正:門田裕志

2008年319日作成

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