医術の進歩
岸田國士
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榊 卯一郎 新案炊事手袋製造業
同 とま子 その妻
今田末子 親戚の女
津幡 直 医師
乙竹外雄 外交員
きぬ 女中
三木 小僧
松原延蔵 医師
榊卯一郎の住宅兼工場。──相当時代のついた二階建日本家。震災で傷んだまゝの貸家を、更に住み荒すだけ住み荒したといふ状態だが、普請は流石に大がかりで、床柱一つでも、なかなか堂々としたものだ。その階下の幾部屋かを工場に、階上の二間を主人夫婦の居室に充ててゐる。一方は十畳の座敷で、絨氈を敷き、テーブル、椅子など、すべて洋風客間の作り、但し、一隅に、ソファ兼用の寝台があつて、現に、榊卯一郎は、それに寝てゐるのである。隣りは、八畳の純日本間。箪笥、鏡台、長火鉢、その他、ひと通りの家具。不統一のなかに、何処か生活の余裕らしいものを見せてゐる。
舞台は、この二階だ。正面奥は障子を隔てて縁側。
冬のはじめ、午後二時頃、空は晴れてゐる。
卯一郎 あゝ、痛い、痛い。それ見ろ、誰も側にゐなくつたつて、痛い時は痛いんだ。病気を大袈裟に云ふなんて、おれの性分ぢやない。おい、奥さん、済まないが、また二分ばかり、さすつてくれ。奥さん、そこにゐないのか。(呼鈴を押す)
女中きぬが上つて来る。
きぬ なにか御用でございますか。
卯一郎 (鼻を鳴らし)生魚をいぢつて来たな。云つとくがね、おれはその臭ひが何よりも嫌ひなんだ。奥さんには、もう何度も云つた筈だが、お前はまだ来たてで、教はつてなけれや仕方がない。早く下へ降りてくれ。奥さんはなにしてる?
きぬ お洗濯をなすつてらつしやいます。
卯一郎 なに? 奥さんが洗濯? よろしい。それは後にして、大急ぎで来るやうに云つてくれ。(女中去る)おや、腰の痛みは大分退いたぞ。だが、心臓の方は、相変らず面白くない。ドキドキ……ドキ……ドキドキ……ドキ……ドキドキドキ。たしかに面白くない。
妻のとま子が現はれる。
とま子 おやすみになつてたんぢやないの?
卯一郎 兎に角、今は、この通り眼をさまして、お前の来るのを待つてるんだ。病気の時だけは、もうちつと傍についててくれ。洗濯なんか自分でしなくつてもいゝぢやないか。それに、手袋ははめたかい。(妻の手を握つてみる)
とま子 さうおつしやるけど、あの炊事手袋つて、どうしてもあたし、使ふ気になれないんですもの……。
卯一郎 ほかの品物ならわざわざ使ふ必要はないさ。おれが新案を取つて、あれだけ世間へも広めた完全無欠といふ品物ぢやないか。お前がそんなことを云ふと、第一、人聞きもよくない。「滑らず、破れず、外れず」この三大特長を備へた炊事手袋といふものは、今のところ外にないんだぜ。だからこそ、瀬沼商会からは、五万円で権利を買はうとまで云ひ出して来てる。売らんよ、それくらゐの金ぢや……。ぢつとしてても、毎年一万八千円以上の売上げがある。原料が知つての通り安く手にはひるから、利益はざつと六割といふぼろさ加減だ。今時の商売人で、二万六千といふ現金を銀行に遊ばせておくなんざ、夢のやうな話だぜ。あゝ、苦しい。心臓が止りさうだ。済まないが、そうつと、さすつてみてくれ。
とま子 (右手を毛布の下に差し込み)この辺ですか。あらいやだ、汗をかいてらつしやるわ。
卯一郎 暑いからぢやない。もつと軽く……。ねえ、おれはどうも、あのお医者、信用できんよ。ざつと見たぐらゐで、なんでもないなんて云ふのは、無責任極まる話さ。心臓だけは、もうちつとしつかりした医者に見せておきたい。
とま子 あんたのやうにお医者ばかり替へても、却つて為めにならないわ。体質つてもんは、同じ患者を普段手がけてないとわからないつて云ふぢやないの。
卯一郎 だから一人の医者にきめようと思ふんだが、これといふのに、まだぶつからないんだ。今まで診せたうちで、博士といふ奴が三人もゐたけれど、一人として、命を委せてもいゝと思ふやうなのはゐなかつた。第一、見立てがあやふやだ。一週間で直すと云ひながら、一月かゝつても直さない。初めのうちは、効かない薬を飲ましよるに違ひない。
とま子 さうぢやないのよ。あんたの病気ぢや、大概のお医者が困るのよ。だつて、病気つて云へるほどの病気は、ひとつもないんですもの。
卯一郎 それは、お前の口癖だ。非難とも取れるし、慰めとも取れる。どつちにしても、おれには必要でない。いゝかい、最後にもう一度云ふが、おれが病気だと云つたら、お前だけは、もう少し、同情してくれ。痛いと云つたら、どれくらゐ痛いか察してくれ。それでこそ夫婦ぢやないか。そこは腹だよ、もつと上だ、心臓は……。
とま子 (笑つて)こなひだうち、さんざお腹を揉まされたもんで、まだ癖がついてるんだわ。
卯一郎 笑ひごとぢやないよ。あゝ、苦しい。呼吸が苦しい。枕を低くしてくれ。下へ誰か来たやうだ。行かなくつてもいゝ。水をくれ、水を……。
女中がはひつて来る。
女中 今田さんつていふ方がいらつしやいました。
とま子 男の方、女の方?
女中 女の方でございます。
とま子 末子さんだわ、こつちへお通ししてもいゝでせう。
卯一郎 今頃見舞か。
とま子 ぢや、こゝでいゝわ。(女中去る)少し片づけませうね。
卯一郎 何時客が来てもいゝやうにしといてくれ。部屋つていふもんは、片づいてるのが常態だ。いざつていふ時だけ片づけるなんて、それや物置きか掃溜めのこつた。その書附けはこつちへくれ。なんだ、もう丸めたのか。
今田末子が上つて来る。とま子よりも二つ三つ年上かと思はれる女。手土産の菓子折を提げてゐる。
とま子 まあ、しばらく……。
末子 お加減はいかゞ……。でも、明日は明日はと思ひながら、そら、子供がゐるとね。(急に声をひそめ)あら、よつぽどおわるいの?
とま子 (片眼をつぶつてみせ)えゝ、なんですか、はつきりしないんですのよ。
末子 胃病は、あれでなかなか、あとが大変でね。
卯一郎 (咳払ひする)
とま子 胃の方は、すつかりよくなつたんですの。今度のは、神経痛ですけど……。
卯一郎 (また咳払ひ)
とま子 それに心臓が少し弱つてるんでせうね、時々、苦しがりますの。
卯一郎 (息苦しさうな声を出す)
末子 ほんとだわ。冷すかあつためるかしてらつしやるの?
卯一郎 末子さん……いらつしやい。なんでも……ないんですよ。(大きな溜息)たゞね、たゞ……ちよつと。……時に、お宅の方は、景気がいゝですか。(末子の方に笑ひかけ)小さいのは、風邪も引かずにゐますか。
末子 あんまりお話をなすつちやいけないんでせう。
とま子 さつきまで一人で喋つてましたの。
卯一郎 ほ、ほ、発作的に来るですよ。もう楽になりました。医者にはわからんと見える。これや、たしかに、弁膜症といふやつです。あんたのお父さんは、そいつでなくなられたんぢやなかつたかな。
末子 心臓は心臓でしたわ。
卯一郎 人間のからだで、心臓といふやつが一番大事らしい。さうして、一番脆いやうだ。生命といふやつは、心臓のすぐ近くにあるんだな。末子さん、うちの細君はね、わたしが病気になるのを、それや嫌つてね。
とま子 だつて、当り前だわ。
卯一郎 その当り前がさ、末子さんには想像もつかないほどだ。大体、病気つていふものを知らないんですね。あんたはそんなことはない。入院も二度三度されたし、どつちかと云ふと、旦那さんより弱いからな。茂七君は、しかし、なかなか、奥さん孝行だから、あんたは仕合せだ。会社の帰りに、必ず病院へ寄つたといふことも、わたしは聞いて知つてる。だからさ、今度は茂七君が床についたといふやうな場合、あんたなら、うちの細君のやうに、いやな顔はしないだらうと思ふんだ。
とま子 あら、何時あたしがいやな顔をしました。末子さんがほんとになさるわ。
卯一郎 さうでせう、わたしがからだを大事にするつていふのは、誰のためだと思ひます。子供は一人もなし、親はあつても何処にゐるかわからず、四十過ぎまで独身で来たこのわたしが……。
とま子 ちよつと、そんな大きな声をなすつていゝの……。
卯一郎 (得意と満足の微笑を末子の方におくり)あんたの顔を見たら、急に元気が出て来ましたよ。しかし、帰つたら、茂七君にもさう云つて下さい。「榊卯一郎も、近来めつきり疲れが出て、なんとなく心細い。親類らしい親類はほかにないんだから、忙しくもあらうが、時には、顔を出してせい〴〵陽気な笑ひ声を聞かしなさい」つて……。
末子 それをうちでも、さう云つてるんですよ。ほんとの兄弟みたいに思つてるんだから、ちよく〳〵行かなきや悪いんだけれどつて……。それが、あの億劫がりでせう。追ひ出すやうにしなきや、お風呂にだつて行かないんですもの……。それやさうと、ねえ、とま子さん、お願ひがあるの。ほら、こちらの手袋さ、一つ原価でわけて頂けないかしら……。うちで頂いたのは、まだ結構使へるんだけど、お隣りの奥さんが、そんなわけなら、特別に幾らか割引してつておつしやるんでせう、あたし、お安い御用だつて云つちやつたの……。
卯一郎 あゝ、いゝですとも……。たゞで上げたつてかまはないんだけど……。
末子 いゝえ、それや困りますわ。
卯一郎 こつちもさうでない方が都合がいゝから、それぢや、五割引、半額にしときませう。包んでおあげ。まだいゝでせう。
末子 一度どんな様子か見て来いつて云はれたんですの。今日はゆつくりしてられませんわ。ぢや、お大事に……。なんて云つときませうね。大したことはない……つて云ふと、また安心しちまふし……。
卯一郎 まだ今日明日つていふほどのことはないぐらゐなところでどうです。それでいゝですよ。や、どうも失敬……。(大きな溜息をつく)
末子ととま子は下に降りる。
やがて、卯一郎は、寝台の上に起き上る。
卯一郎 どんな様子か見て来いとはなんだ。死にかけてゐたら、自分で見舞に来ようつていふのか。心掛けの悪い奴だ。あ、また苦しくなつて来た。これやいかん……。(寝る)医者を呼ぶとしたら、どいつにするか。(呼鈴を鳴らしながら)おい、奥さん……奥さん……。
とま子がゆつくり上つて来る。
卯一郎 なにを愚図々々してるんだ。自動車で送つてやつたりなんかしやすまいな。おい、早く医者を……医者を呼べ……。
とま子 誰を呼びませう。この前の湯本さんぢやいけないんですの。
卯一郎 あんなの、いかん。あれを呼べ、あれを……四度目に呼んだ、背の高いの……そら、夜遅く来たのがゐるぢやないか。内科専門で……お前が電話をかけて……えらく横柄だなんて云つてた……。
とま子 津幡さんでせう。
卯一郎 それだよ。津幡、津幡、津幡医学士を呼べ。
とま子 あんなんでいゝんですか。頼りなささうなお医者さんぢやないの。
卯一郎 いや、お世辞のいゝ奴はいくらでもゐる。病気はお世辞ぢやなほらない。すぐ来て下さいつて……心臓だと云はんといかんよ。苦しい。非常に苦しい。
とま子去る。やがて、電話をかける声が聞える。
「もし〳〵津幡先生のお宅でいらつしやいますか。はあ、こちらは、先日御厄介になりました榊でございますが……はあ、榊卯一郎でございます……はあ、さやうでございます。先生、只今、いらつしやいますでせうか……あゝ、それでは……実は、もう一度、御診察を願ひたいんでございますが……はあ、少し、急ぎますんですけれど……いえ、それほどでもございません……さきほどまで元気で……いえ、そんなこともないらしうございます……は? あゝ、それでは、ひとつ、早速……お迎ひは……さうしていたゞいて結構でございます……では、どうか……」
とま子が上つて来る。
卯一郎 どうしたんだ。
とま子 電話をかけてる最中に、往診から帰つてらしつたの。丁度よかつたわ。
卯一郎 あんな頼み方ぢや、向うはゆつくり構へてるかも知れんぞ。それほどでもございませんと云つてたのはなんだい。
とま子 苦しがるかつて訊くからだわ。
卯一郎 それほどでもないつてことが、お前にわかるかい。好い加減なことを云ふもんぢやない。もう一度掛けて来い。大変苦しがつてるつて……。
とま子 あれくらゐに云つとけばよくつてよ。
卯一郎 よくないよ。その後で、そんなこともないらしうございますつて云つたね。なんだ、あれや……。
とま子 脈が途切れるやうなことはないかつて……看護婦よ、そんなこと訊くのは……。
卯一郎 訊くのが当然だ。そんなこともないらしいどころか、この通り、ドキ……ドキドキ……ドキ……立派に途切れてる。早くさう云つて来い。
とま子 いゝわよ、もう先生、お出掛けになつた頃だわ。そんなに心配なさらなくつて大丈夫よ。この前だつて、胃が破れさうだなんて、実際どうもなかつたぢやないの。
卯一郎 胃と心臓は違ふ。おい、もう少し、なんとか、病人のそばにゐるらしくしろよ。ぢつとそんなとこに立つてないで、椅子をこつちへ引寄せるなりなんなり、脈を取るなんて気の利いた真似が出来なけれや、せめて、はらはらした顔附でもしろ。額に手を当ててみるぐらゐのことは、他人だつてして差支へないことだ。おれがお前なら、医者の来る前に、酸素吸入の用意をするぜ。
とま子 戯談だわ。そんなに、はつきり物が云へるぢやないの。顔色だつてどうもないし……。
卯一郎 顔色? 顔色が好いのは、どうにもならんさ。十五年間南洋の日にさらしたお蔭だ。はつきり物を云ふから可笑しいと云ふのか。はつきり云はなけれや、お前にはわかるまい。二十八にもなつて、男の眼附が読めないぢやないか。
とま子 またはじまつた。えゝ、えゝ、あたしは馬鹿で、間抜けで、気が利かなくつて、ぼんやりで、低脳よ。
卯一郎 どれもみんなおんなじこつた。
とま子 さうよ、おんなじよ、あたしだつて、頭痛がするわ。寒気がするわ。足の先が冷たいわ。
卯一郎 ちえツ、またはじめやがつた。
とま子 なにをはじめたの。病気はあんたの専売特許だと思つてんの?(ぷいと部屋から出たと思ふと、隣室へ現はれて押入から夜具を取り出し、手早くそれを敷いて、今度は羽織を脱ぎ帯を解き、長襦袢のまゝ横になつてしまふ)
卯一郎 (調子を和らげ)おい、奥さん、おれが悪かつたよ。後生だから、その手は勘弁してくれ。不自由この上なしだ。おれが病気になると、お前がいやな顔をすると云ふのは、そこを云ふのだ。お前は、おれが病気になるたびに、自分も加減が悪いと称して寝てしまふ。これで幾度だ。平生は至つて健やかなお前が、一日や二日の看護に、疲れるといふわけがない。それも徹夜をして氷をわつたとでもいふなら格別、看護と名のつく看護を、一体全体何時したことがある。これは決して、お前の愛情に疑ひをもつといふ意味ぢやない。その証拠に、おれがどうもない時は、世にも稀れなる女房振りをみせてくれるぢやないか。さつきも云ひかけたことだが、四十幾つかになつて、はじめて貰つた若い細君を、さうはやばやと未亡人にできるかい。おれが病気を怖がる理由は、たゞそれだけだ。おれは、よく云ふやうに、二十の年に国を飛び出して、南洋の島から島を渡り歩いた。真珠採りになつて海の底へもぐつたり、ゴム林の中で土人と一緒に寝起きしたりしてゐた頃は、病気なんて実際、屁とも思はなかつた。それが、日本へ帰つて、偶然思ひついた仕事が、案外うまく行くし、こはごは持つた女房が、これまた大当りと来たもんだから、おれは、やたらに生命が惜しくなつた。聴いてるかい、奥さん。そこで、お前が、おれを大事にし序に、病気の時は、病人らしく扱つてくれさへしたら、却つて、おれは、なに糞といふ気になるんだ。痛いでせうと云はれゝば、多少痛いところも我慢をする。苦しくはないかと訊かれゝば苦しいなんてことも、三度云ふところを一度にするんだ。寝てゐろと云はれゝば、つい起きてみたくもなるし、医者を呼ぼうと云へば、いや大丈夫だと云ひたくなる。そこのところをひとつ考へてくれ。今だつて、お前の出方ひとつで、おれは註文を取りに出かける支度をしてみせるぜ。どうせお前が止めると思へばだ。来たぞ、医者が来たらしい。どれ、あゝ、苦しい、さつきよりまだ苦しい。だんだん苦しくなる。
女中が医師津幡直を案内してはひつて来る。
津幡 どんな工合ですか。
卯一郎 心臓がどうも……変なんですが……。
津幡 胃の方は……?(脈を取る)
卯一郎 あ、あの方は、その後ずつとよろしいやうです。二三日前から、神経痛が起つて寝てゐたんですが、昨夜から急に心臓が……。
津幡 以前に、さういふことは一度もなかつたですね。
卯一郎 ありません。心臓だけはしつかりしてるつもりでした。
津幡 拝見しませう。(聴診器をあてる)
隣室で、微かに呻き声が聞える。勿論、妻のとま子である。
津幡 (診察を終り)なんでもありませんね。
卯一郎 さうでせうか。
津幡 だつて、心臓は誰の心臓でもこんなもんですよ。
卯一郎 誰の心臓でも? なるほど、今は当り前に打つてるやうですな。呼吸も楽になりました。どうも発作的に来るやうです。
津幡 さうでせう。しかし、それなら心配はありません。──と、まあ、医者なら云ふところですな。尤も、さう云つてゐて、今夜にも急変がないとは保証できませんがね。それはしかし、われわれの力で、予測はできませんからな。
卯一郎 何か薬のやうなものは……。
津幡 必要ないでせう。是非欲しいとおつしやれば、なんか差上げてみませう。
卯一郎 では、仮に、また発作が来たやうな場合、どうしたらいゝでせう。
津幡 過ぎ去るのを待てばいゝでせう。
卯一郎 発作が起らないやうには出来ませんか。
津幡 原因を除くんですか? 原因なんかさう簡単にわかりませんよ。まあ、神経性のものなら、神経を鎮める方法もありますが、医者の顔を見て発作が治まるくらゐのもんなら、却つていぢくらない方がいゝでせう。元来、病気なんてものは、医者の手で幾割なほせますか。仮に病源を適確に探りあてて、理論通りの処置をしたとして、その結果は、百パーセント有効とは云へませんからね。悲観的に見れば、治療と称する何等かの刺激が、逆に患者の健康状態を悪化させる場合が十中の五まであると覚悟しなければなりません。
卯一郎 十中の五……それはまた意外なお話ですな。なるほど、医者によつては、技術の不足と云ひますか、ある病気を治療できないといふことはあるでせうが、医術そのものは、そんなに不完全なもんでせうか。
津幡 医術はどうか知りませんが、結局は、それを運用する人間──その人間といふものが、不完全に出来てゐるんだから、どうも仕方がありません。
卯一郎 つまり、なんですか、不熱心とか、不深切とか……。
津幡 それもあります。しかし、なにを不熱心、不深切といふんですか。呼びに行つて直ぐ来ない。これが不深切ですか。医者だつて疲れもしますし、遊びたくもある。そのうへ、商売の心得ぐらゐありますよ。わざわざ損になるやうなことはしやしません。実は、こなひだ、ある家から子供の容態が悪くなつたからすぐ来てくれと云つて来た。私は丁度、家内を連れて芝居に行つてたもんですから、電話がかゝつて来たあと、一幕だけ見て、駈けつけたわけです。子供は駄目でした。怒りましてね、親が……。二時間待つたといふんです。ところで、私に云はせると、二時間前に、もう、絶望状態であつたことは確かなんです。早く行つても間に合はなかつたわけです。手おくれは親の罪で、私の罪ではない。しかし、そこはデリケートなところで、もう一つ、こんな例があります。私が診てゐた女の患者ですが、もう六十五といふ年です。赤痢の疑ひで、たうとう菌がでないうちに、衰弱してしまひましてね。もう見込がない。そこで、無駄と知りながら、最後の食塩注射をして、身寄のものを呼ぶなら呼べと云つて帰りましたが、それがどうです。翌日からめきめきよくなつて、今でもぴんぴんしてます。
卯一郎 さういふのは、どういふんでせう。
津幡 寿命といふんでせう。その二つの実例から、私は、医者といふ商売がいやになりました。どんな病人でも、自分が責任を持つ以上、昼夜附きつきりでなければ、完全な治療を尽すといふわけに行かないんですからな。いつ時でも人委せには出来ない。肺病なんかだと、二年間は、その患者と寝起きを倶にする必要がある──といふのが私の意見です。そんなことが出来ますか。
卯一郎 出来ませんな。
津幡 出来ないなら、おんなじことです。医者といふのは名だけです。病人の気やすめです。そのことで、面白い話があるんです。
卯一郎 ちよつと、失礼ですが、隣りの部屋に家内もやすんでゐるんですが、さつきから頭痛がするとか寒気がするとか云つてるやうです。ひとつ、お序にどうか……。
津幡 あ、こちらですか。(隣室にはひり、とま子の寝てゐる傍に坐る)気分が悪いですか。
とま子 はあ、とても……。
津幡 (脈をみながら)嘔気なんかは……?
とま子 はあ、少し……。
津幡 ありますね。頭痛は、この辺ですか。
とま子 えゝ、そこと、この辺もずつと……。
津幡 ほかに変りはありませんね、舌を出してみて下さい。はい、結構。(聴診器をあてる)大きく呼吸をして……。よろしい。さうですね、たしかに何処か悪いやうです。しかし、私にも何処といふことははつきり云へません。ことによると、このまゝ直つてしまふかも知れません。お腹が空いたら、何でも上つてみてごらんなさい。御主人も同様です。(卯一郎の方へ帰つて来て)さう、面白い話があるんですよ。どうも、近頃は、医者の方も不景気でしてね。患者の数が、どこでも、めつきり減つてゐる。無論同業者の数が殖えたといふこともありますが、それどころの割合ぢやないんです。誰に訊いてみても、これぢや医者は立ち行かんといふ。有名な病院なんかでも、以前ほど経営が楽ぢやないといふ話です。してみると、医者にかゝる人間の数が減つたといふ理窟です。よござんすか。これは至極当り前なことで、不景気だから、成るべくなら医者に払ふ金を倹約しようといふことになる。ところで、それはいゝが、不景気でも、病気に罹らないといふわけはない。医者にかゝるところを、売薬ですますといふ手合が多くなつたんだらう。すると、薬屋がうまい汁を吸つてゐるわけに違ひない。かう思つて、私、実は、調べてみました。豈計らんや、薬屋諸君、みんなこぼしてゐます。近頃は不景気でといふんです。医者にもかゝらず、薬も飲まずでは、恐らく、直る病気も直らずに、死んでしまふ人間が多いに違ひない。儲かるのは葬儀屋だなと思ひました。これも念のため当つてみますと、なかなかどうして、此処にも不景気風が吹いてゐて、なるほど上等の棺桶を註文する代りに、中等、並製が殖えるといふならわかるが、全体の棺桶数がぐつと減つたといふんです。まさか、手製の棺桶でお葬ひもできますまい。どうも変だと思つて、早速、区役所で、最近二三年の死亡率を調べてみました。たしかに、減つてゐる。不景気と死亡率の関係をいろいろ考へてみると、どうもたゞ一つの理由しかないやうに思ふ。なるほど、景気がいゝと、暴飲暴食その他不摂生な行為から健康を害するやうになるといふのは一つの理窟ですが、不景気のため、粗衣粗食で栄養状態が低下し、過労心痛のため死を早めるといふ事実と比較すればどうでせう。先づ、これは相殺するものとして、真の理由は、その外にある。私の判断に従へば、不景気で死亡率が少くなるのは、無暗に薬を飲まず、殊に、医者にかゝらないからだといふ結論になるんです。どうです、面白い現象でせう。
卯一郎 面白いですな、そいつは……。殊に、お医者さんのあなたから伺ふのは面白い。(起き上る。呼鈴を押す)わたしも、実は、お医者といふものに、予々、疑ひをもつてゐた。何処まで信用ができるかといふことを考へてゐた。それで、すつかりわかりました。いや、面白い。あなたは愉快な方だ。(女中が上つて来る)あ、おい、何かないか。紅茶でも入れて来なさい。その菓子折をあけてこつちへ出してくれ。
津幡 (起ち上り)ぢや、まあ、さういふわけですから、これで失礼しませう。
卯一郎 今、お茶を入れます。
津幡 いや、少し急ぎますから、また何れ……。
津幡、去る。卯一郎、寝台より降り、送つて出ながら、
卯一郎 さうですか……それでは、お構ひもしないで……。あ、誰かゐるか、先生をお送りして……。では、御免……。(部屋に帰つて来ると、急に、また胸が苦しくなつたらしく、寝台の上に駈け上り、ぢつと眼を据ゑて、不安と戦ふ)おい、奥さん、ちよつと来てくれ……苦しい。苦しい。あゝ、正直なところ、苦しい……。なあ、奥さん、側にゐてくれ。たゞ、側に……ゐるだけでいゝ……。(その間に、とま子は、また、微かな呻き声を立てはじめる。卯一郎の声が大きくなるにつれて、その呻き声も大きくなる)なんだ、それや。何処が苦しいんだ。そんな声を出したつて、だあれもなんとも思やしないぞ。自分が草臥れるだけだ。あゝ、この部屋には空気があるのか。障子を開けてくれ。風をいれろ。寒いぐらゐ平気の平左だ。呼吸ができん。勘違ひをするな。誰も死にさうだと云つてやしない。まだまだ命は大丈夫だ。医者なんか呼ぶ必要はない。うつかり手当なんかされちや、それこそ迷惑だ。苦しいのがなほつても、殺されたらなんにもならん。
障子の外で、「はひつてもよろしいですか」「只今帰りました」「わたしです、乙竹です」といふ声。
卯一郎 なに? 乙竹? 今帰つたのか。はひつていゝとも……。ちやうど待つてたところだ。早く返事をきかしてくれ。首尾はどうだ。
外交員乙竹外雄、口髭を生やした男、慇懃に進み出る。
乙竹 早速ですが、宮内省の方は、まだはつきりしたことはわかりませんが、相当脈はありさうです。もうひと押しといふところです。それから、都築家政割烹学院の方は、先生方の評判が大体よろしいやうで、これは、纏つた註文が、来週あたり取れさうに思ひます。たゞ、ある先生がかういふ意見をもつておいででした。あの掌のところにボツボツをつけたのは、滑らないためにいゝ思ひつきだが、どうも、疣かなんかのやうで、見た目にも、感じがよくないから、あれは、横筋のやうなものにしてはどうかとおつしやるんです。
卯一郎 それやもう、試験済みだ。横筋にすると、なるほど縞馬のやうで見た目は綺麗だが、どうももちが悪い。凹んだ線に沿つて割目ができるんだ。そんな素人意見は、いちいち取上げる必要はない。ぢや、君、宮内省の方を、ひとつ、せいぜい、せついてみてくれ給へ。数は少くつても、こいつは、肩書みたいなもんだからね。多少運動費を出してもいゝ。それから……ちよつと待つて……。苦しい。もつと離れててくれ給へ。さう側ではあはあ息をされちや、どつちが呼吸をしてるんだかわからなくなる。
乙竹 お加減がよほど悪いとみえますね。
卯一郎 さう見えるかい。なるほど、こいつばかりは隠すわけに行かん。病気そのものはたいしたことはないんだが、発作が猛烈でね。なに、心配はないのさ。話はそれだけかい。あ、さうだ。君の手当のことだが、どうも成績が思はしくないから、この暮は、上げるのを見合せよう。歩合の方で、しつかり稼ぎ給へ。これからまだどつかへ廻るんだらう。日が短いぜ。
乙竹 (何か云はうとする)
卯一郎 わかつた。もう一年辛抱し給へ。
乙竹、会釈して去る。
卯一郎 奥さん、まだ苦しいかい。おれは、もう直つた。津幡医学士の云ふ通りだ。過ぎ去るのを待つなんて、普通の医者にや云へないことだ。現代の医学は、迷信と絶縁しなけれやいかん。自然に直るものを、医者が直したのだと思はせる時代があつた。子供の出世を、親が自慢した時代だ。おい、奥さん、何時までも拗ねてるもんぢやない。おれはこの通り、機嫌よく話しかけてるんぢやないか。ほんとに頭痛がするなら、ちよつと活動の看板を見て来てごらん。足の先が冷たけれや、相談でおれが温めてやつてもいい。さうやつて黙つてるが、お前が今何を考へてるか、おれにはほゞ見当がついてる。病気ばかりする亭主つていふものは、あつてもなくつてもおんなじわけだと思つてるんだらう。
とま子 おんなじなもんですか。ない方がましだと思つてるわ。
卯一郎 さうか。二万六千円の貯金は別としてね。だが、おれが死んでも、そいつはお前の手にはひらないよ。子供がないからだ。そいつは知らなかつたね。どうだ。法律つていふもんはうまく出来てる。子供を生まない細君は、亭主の財産を相続する権利がないんだよ。遺言でも書いとかない限り、おれの身代はそのまゝ、残らず唯一人の従弟今田茂七の手にころがり込むんだ。お前は絶対に子供を生まんといふ、そんな厄介なものは欲しくないといふ。おれの切なる願ひにも拘らず、四年間、頑張り通した。今だから教へてやるが、おれの夫としての心遣ひは、さういふところまで見越してゐたんだ。さあ、なんとか返事をしろ。
とま子 あたしを見違へないで頂戴。二万や三万のお金がどうだつていふの。そんなもの、欲しい人にやればいゝわ。あたしはまだ若いのよ。
卯一郎 さあ、二十八で若いかどうか、いろいろ意見もあるだらう。仮に若いとして、それがどうなんだ。四十六のおれと釣合がとれんとでも云ふのか。今になつて、そんなことを云ふなよ。(寝台から降り部屋の中を歩く)おれだけが二つづつ年を取つてくわけぢやない。今まで、一緒に外を歩いて、笑ふやつが一人でもゐたか。
とま子 父娘だと思ふから笑はないのよ。
卯一郎 さうかも知れん。さう思ふやつにはさう思はせておけ。事実は雄弁だ。この通り、おれは、一個の夫として、妻たるお前の利害を論じてゐるんだ。悪いこと云はないから、もう起きろ。起きて晩飯の支度でもしろ。どうも、足がふらふらする。今朝から何も腹へいれてないせゐだ。あゝ、物を云ふと、眼が眩むぜ。(寝台に腰をおろす)人間のからだといふのは微妙なもんだ。精がない時は、寝転ぶやうに出来てる。(また寝台にもぐり込む)これがあべこべだつたら不都合に違ひない。
とま子 用がない時は静かにしてて頂戴。お夕飯は六時ときまつてるでせう。
卯一郎 きめたのはおれだ。ぢや、昼食を食はせろ。
とま子 お昼はとつくに済みましたよ。あなたが勝手にあがらなかつたんぢやありませんか。
卯一郎 だから、今食ふと云つてる。
とま子 時間以外の食事は厳禁といふきまりぢやなかつたんですか。
卯一郎 平生はさうだ。だらしがなくなるからさ。御飯ていふもんは、間で食べる方が余計食べられるなんて、馬鹿な量見をもつてる奴がゐるからだ。
とま子 (むくむくと起き上り、そつと箪笥をあけて着物を出しはじめる)
卯一郎 熱もないのに、顔がほてるのは、どういふわけだらう。奥さん、家庭医学辞典はどこへ置いた。
とま子 (着物を着ながら)そこの枕もとにあるでせう。
卯一郎 (枕下から辞典を取上げて頁を繰る)心臓……心臓と……心臓麻痺……心臓弁……弁……はどこだ……。ふむ、これは違ふ……。ぢや、神経で引いてみよう……神……神……。
とま子 (その間に着物を着終り、化粧を手早く直す)
卯一郎 神経性……なんだ……はゝあ……。いや、これでもない……。
とま子 (化粧をすますと、ハンドバッグを取上げ、ショールを肩にひつかけて、部屋を出る)
卯一郎 充血のところかな。充血……充……。ふん、なるほど……。顔面紅潮を呈し……か。時に……鼻孔内の……(ハンケチで鼻をかんでみる)……出血を伴はないからして、先づ、これも疑問だ。おい、奥さん、お前のお父つつあんは、たしか脳溢血で死んだんだね。どんな容態だつたね、その少し前は……覚えちやゐまいな。よし。よし。好い加減なことを云はれても、却つて困る。(頭を前後左右に動かし)首の附け根が少し痛いのは、別段、関係はないか……。いやに、お静かですな。眠つた真似をしてますね。
この時、下から女中が膳を運んで来る。
女中 お粥もございますが、普通の御飯になさいますか。
卯一郎 おや、何時の間にか云ひつけたな。おい、奥さん、もう普通の御飯でもよからうね。第一、お菜がコンニャクぢやないか。さあ、そこへ置いた。(起き上る)なんかもうちつと、身になりさうなもんはないのか。
女中 奥さまがこれでいゝつておつしやいましたもんですから……。
卯一郎 奥さん、ほんとかい。ちよつとこゝへ来てごらん。なんか忘れてやしないかい。それとも、これから、卵焼でも作るのか。ねえ、奥さん……。
女中 (笑ひながら)奥さまは、さきほどお出かけになりました。
卯一郎 お出かけ? 馬鹿云つちやいかん、そこに寝てるよ。
女中 あら、ほんとに、たつた今お出かけになりましたんです。
卯一郎 (手を伸ばし唐紙を開けてみて、別段、驚きもせず)早く飯をつけろ。御給仕をする時は、坐つたまゝするもんだ。さういふ礼儀は覚えとくといゝ。(茶碗に箸をつけると同時に)いかん、やつぱりいかん……(茶碗と箸を下へ置く)下げてくれ。あとにする。(横になる)いざつていふ時は医者を呼べ。津幡を呼べ。大分苦しい。いや、まだまだ……。医者に電話をかける時は、かう云ふんだぞ──「先生にちよつと御意見を伺ひたい」つて……。なに、そいつはおれが云はう。たゞ「至急、お出でを願ふ」と、たゞ、それだけでいゝ。要するに、気休めだ。大丈夫なら大丈夫と、それだけ云つて貰へばいゝんだ。あとは、こつちのもんさ。うん、だんだん苦しくなつて来た。慌てることはない。今、電話はあいてるか。誰にも使はすな。奥さんは何処へ行つた。いや、探すには及ばん。こいつは……聊か……。さつきよりもひどいぞ……比較にならん。待て待て。過ぎ去ればよし……さうでなければ、それでもよし……。く……く……苦しい……。まだ、まだ……。おい、何処へ行くんだ。ぢつとして……あゝ、もう、我慢できん……。そら、行け! 早く……。電話だ! 医者を呼べ! 津幡医学士だ。(女中、あたふたと去る)ゐるかな、大将……。芝居なら二時間待てばいゝ。間に合はなかつたらそれまでだ。医者の罪ではない。おれの罪でも、猶更ない。
電話をかける声。──「は? はい、先生はいらつしやいませんか。はあ、それでは……ちよつとお待ち下さい」
卯一郎 よし、よし、ゐなければ、ほかの医者だ。誰でもいゝ。近いのを呼べ。手当の必要はない。気安めだ。顔を見ればいゝ。
女中が上つて来る。
卯一郎 わかつた。角の医者を呼べ。松原だ、誰かを走らせろ。津幡の方は、行先がわかつてたら、呼び返して貰へ。あいつでなけれや、話はわからん。(女中、去る)
電話の声。──「もし、もし、先生のお出まし先はおわかりでございませうか。……では、恐れ入りますが、すぐに、こちらへお寄り下さいますやうに……はい、榊でございます……さきほどの……はい、どうぞ……」
卯一郎 (呼鈴を押す)遅かつた。いや、遅くない。誰でもいゝ。側にゐてくれ。
小僧の三木が上つて来る。
卯一郎 あ、お前か、三木か、丁度いゝ。そこへ坐れ。配達は、もうすんだか。御苦労だつた。今に給金を上げてやるぞ。明日は、何処々々だ? 返事はしなくつていゝ。何をきよろきよろ見てるんだ。もつと落ちついて、おれの云ふことを聴け。いゝか、来年は工場をうんと拡張する。お前たちにも部屋をあてがつてやる。広いことはいらん。三人で四畳半なら沢山だ。女工の数も三倍に殖やす。気の利いた事務員を一人置く。女でも差支へない。手紙が書けさへしたら……。さうだ、中古のオートバイを一台、無論、配達用だ。お前、乗り方を稽古しろ。おや、足がしびれて来た。医者はまだか。起たなくつていゝ。足をつねつてみてくれ。こゝだよ、足は……。(小僧は毛布の下に手を差し込む)さうだ、そこを、ぎゆつと、……かまはん、かまはん、遠慮せんでいゝ。それで力いつぱいか。もうちつと痛くはできんか。
三木 こゝぢやいけませんか。
卯一郎 痛い。なにをする。
三木 (驚いて手を引込める)
卯一郎 (力なく)はゝゝゝ、痛くつてなによりだ。おれはな、お前ぐらゐの年に、何処で何をしてたと思ふ?
三木 (首をかしげ、知りませんといふ顔をする)
卯一郎 知らんだらう。人の畑から野菜を盗んぢや、町へ売りに行つたもんだ。昔だぞ、それや。今だつたらそんなことはせん。町には、優しいお神さんが二人ゐた。一人は物持ちのお神さんで、野菜を残らず買つた上に、これはお駄賃だと云つて、二銭玉をくれたもんだ。もう一人は、貧乏人のお神さんで、大根を一本、たゞおいてけと云つて、その代り、熱い甘酒を出してくれた。おれは今でも、その二人の顔を、はつきり覚えてる。おれのお袋は、おれが生れると間もなく、何処かへ姿をかくしたといふんだが、この二人のお神さんは、云はゞ、おれのお袋だ。お前は、おつ母さんの乳を飲んだことを覚えてるか。
小僧 (笑ひながら)へえ。
卯一郎 赤ん坊みたいな声を出すな。(間)眠くなつた。気が遠くなるのかな。しつかりしろ。あ、医者が来た。お前はゐなくつていゝ。
なるほど、医師松原延蔵が女中に案内されてはひつて来る。
卯一郎 いつぞやは……。
松原 やはり、いけませんか。
卯一郎 今度は、心臓らしいです。時々発作が来て、ひどく苦しいのですが……。
松原 (脈をみながら)何時からですか。
卯一郎 今朝から急に、息がつまるやうで……。
松原 はあ……。(聴診器を取り出し、胸にあてる)
卯一郎 大体のところは自分にもわかるんですが……。
松原 ちよつと……。
卯一郎 一応、先生の御見立を伺つた上で……。
松原 黙つて……。
卯一郎 別に、手当の……。(急いで口を噤む)
松原 さうですな。どなたか。お家の方は……。
卯一郎 わたくし、うちのもので……。
松原 いや、奥さんか、どなたか……。
卯一郎 先生、家内には、なんにもおつしやらないで下さい。危いですか。
松原 なに、決して、そんな御心配はありません。たゞ、手当について……。
卯一郎 手当と申しますと……。
松原 いろいろありますが、先づ、差当り、心臓を冷やしていたゞきませう。それから、足の方に湯タンポを入れて……。
卯一郎 なるほど、湯タンポぐらゐなら、かまひますまい……。
松原 注射はおいやですか。一本、念のためにやつときたいですな。
卯一郎 念のため……。はあ。念のためと……。まあ、そいつは、見合せていたゞきませう。どうも、わたしのからだに、注射は適せんやうですから……。
松原 そんなことありませんよ。普通の強心剤ですから……。
卯一郎 まあ、手当の方は、ゆつくりで結構です。心配はないと何へば、あとは、自分でどうにかやれるでせう。
松原 しかし……。
卯一郎 しかし、いよいよ、助からんものなら、これや、止むを得ませんが……。
松原 助かるとか助からんとかは、手当をしてから後の問題でせう。
卯一郎 おほきに……。手当をしたために助からなかつたといふ例もありますしな。
松原 そんなことを云つたら、医者の必要はなくなります。
卯一郎 お説は、大体わかりました。
松原 くどいやうですが、医者として……。
この時、また、医師津幡直が、案内なしにはひつて来る。医師二人は、顔を見合せて驚く。
津幡 いよう。
松原 いよう、失敬……君が診てたのか。
津幡 さういふわけでもないんだが……。
卯一郎 やあ、津幡先生……どうも、恐れ入りました。先ほど、電話をおかけしましたら……。
津幡 えゝ、ちよつと、往診に出かけてたもんですから。……ぢや、僕は、引き上げませう。
松原 いや、君にお委せしよう。
卯一郎 まあ、まあ、さうおつしやらずに、ひとつ、御相談の上、よろしく……。
松原 僕はもう済んだんだ。まあ、いゝから、プルスをみてみ給へ。
津幡 (卯一郎の脈を取り)ふむ……。こいつは弱つたな。(胸に聴診器をあて)ふむ……これや、いかん……。(急いで鞄をあける)
卯一郎 (恐る恐る、しかも、強ひて微笑を浮べながら)いけませんか。
津幡 手遅れです。お気の毒ですが、もう見込はありません。
卯一郎 (なほも、否定的な微笑を続け)手遅れ? 見込がない……? (甚だ不自然な笑ひ声をたてる)戯談でなく、先生……。
津幡 よくもつて、明日の朝まででせう。ことによると今夜……。
卯一郎 今夜? はゝあ、誰がですか。他所の患者ですか。さうなると、もう口も利けますまい。人の顔も見分けられんでせう。
津幡 無駄でも、とにかく、手当だけはしておきませう。(鞄から注射器を取り出す)
卯一郎 手当?
津幡 奥さんはお留守ですか。
卯一郎 いや、奥さんはゐなくつてよろしい。手当の必要はない。薬は一切禁物です。
津幡 しかし、一応は……。(毛布をまくる)
卯一郎 一応も二応もない。注射は大嫌ひです。(拒む)
津幡 どうしてもいやですか。強心剤です。
卯一郎 断然、いやです。
津幡 医者の責任だけ尽さして下さい。
卯一郎 患者の自由意志にお任せなさい。
津幡 万一の奇蹟といふこともあります。
卯一郎 奇蹟なら、あんたにお願ひはせん。第一、医者の口から、奇蹟とは何事です。あやふやな診断は御免蒙りませう。
津幡 あやふやかどうか、明日の朝までにはわかります。
卯一郎 おほきに。明日の朝、もう一度お目にかゝるとしませう。
津幡 結構です。死亡証書を作りに参ります。
卯一郎 姓名と月日のところは、余白にしといて下さい。また、何時か何処かで役に立つでせう。やれ、やれ、これが現代の医学か。人間の命を、さう軽々しく取扱つて貰ひますまい。君達は、何を知つてるといふんだ。本に書いてあることは、生きものに通用しないんだ。いゝか、わかつたか。この通り、おれは生きてるんだぞ。一人の医者は、大丈夫だと云ひ、もう一人の医者は、駄目だといふ。どつちも、気休めだ。そんなことが、君たちにわかるか。その証拠に、両方とも、おんなじ注射だ。命取りの注射だ。帰つてくれ、帰つてくれ。金は後から払ふ。
医師二人は、顔を見合せて、何か合図をして、そのまゝ、出て行かうとする。
卯一郎 ちよつと、先生……津幡先生……その注射を、うんとやつてみたらどうです。効くまでやつてみたら……。
津幡 あゝ、ぢや、やつてみますか。
卯一郎 奇蹟でなく、希望はないですか。
津幡 さあ、希望は、まづ、ありません。あると云つては、譃になります。
卯一郎 譃になる? 譃でもいゝといふことになれば……?
津幡 それは、御勝手……。さあ、どうしますか。次の患者を待たしてあるんですが……。
卯一郎 やめときませう。医者の尊厳のために、無駄な手当はよしませう。但し、わたしの命が明日の朝までだなんて一切、誰にも云はないで下さい。あゝ、実に、いゝ気分だ。さよなら、皆さん……。
医者二人、去る。
卯一郎 (起ち上らうとするが、すぐに倒れる。呼鈴を押さうとしても、手が届かない。そして、その手が、ぐつたりと下に垂れる)おれの……足は……何処へ行つた……。お……お……奥さん……奥さん……。い……い……息が……。
長い沈黙。
卯一郎 あゝ、夢をみてゐた……。おや、手……手……手がないぞ、手が……。
女中のきぬが、そうつとはひつて来る。医者から、すべてを聞いたらしい。
きぬ 旦那さま……。
卯一郎 (その声が聞えぬらしく、切りに藻掻いてゐる)
きぬ (のぞき込み)旦那さま……。
卯一郎 誰だ……あゝ、お前か……大丈夫だ……。心配するな……。さ……さ……さすつてくれ……胸だ……。(きぬが卯一郎の胸をさすりはじめる)
その時、妻のとま子が帰つて来る。
とま子 (自分の部屋から、この様子をみて)お前、こゝにゐたの。さ、もういゝよ、あたしが代るから……。それより、干物がどうなつてるかみといで。みんな風で飛んぢまつてるから……。(女中、そつととま子の耳元で何か囁かうとする)いゝよ、いゝよ。わかつてるよ。いゝつたら、なにさ、そんな大仰な顔つきをして……旦那さまのことだらう、ちやんと知つてるよ……。(女中、しかたがなしに去る)どら、またはじまつたの。今、すぐね。ちよつと着物を着替へてからね。それくらゐ我慢できるでせう。あたし、何処へ行つたか、あてて御覧なさい。(着物を着替へはじめる)いゝこと……。お土産を買つて来たわよ。それも当てるのよ。途中のお話だけ、先へするわね。今日はタクシイを奮発したの。怒つちやいやよ。素晴しい車だつたわ。定紋つきよ。それが、里の紋なの。丁度……。上り藤よ。その運転手がまた、ちよつと、あんたに似てるのよ。
卯一郎は、頭をひよこりと上げ、このまゝ、再びあを向けになつてしまふ。
とま子 変な気がしたわ、あたし……。聴いてる、あんた……? つまんない、こんな話……? ぢや、よすわ。それから、あゝさうだわ。あたし、こまかいお金がなかつたの……。困つちやつて、その運転手に、おつりがあるかつて訊いたのよ。さうしたら、どうでせう……。「百円ぐらゐなら、あるでせう」ですつて……。(着物を着替へ終り、卯一郎のそばへ近寄る)あら、いやなひと、そんな顔して聴いてたの。よう、およしなさいつたら、そんな気味の悪い眼附……。なに、それ、死んだ真似? ナンマンダブツ、ナンマンダブツだわ、それこそ……。もう、痛くないんでせう。(顔をのぞき込み)戯談ぢやないわ、呼吸をしてるの、それで……? まあ、驚いた。ほんとに、死んだ真似をしてるわ。上手ねえ、あんた……感心しちやふわ。でも、いろんなことを、よくさう覚えられたわねえ……。やつぱり、普段、お医者の本ばかり読んでるからでせう。さ、もう沢山よ。生き返つて頂戴。ねえ、生き返る時は、どうするの? どういふ風に息を吹き返すの? ほんとみたいにやつてごらんなさい。さあ、早くつてば……。(からだをゆすぶる)いやねえ、あたし、なんだか悲しくなるぢやないの。よくつて、大きな声出して泣くわよ。
そこで、彼女は、わざとらしく、その実、眼にいつぱい涙をためて、わあわあ、泣き真似をする。
底本:「岸田國士全集5」岩波書店
1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「職業」改造社
1934(昭和9)年5月17日発行
初出:「中央公論 第四十八年第一号」
1933(昭和8)年1月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2008年3月19日作成
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