浅間山
岸田國士
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浅間山の麓
萱の密生した広漠たる原野の中に、白樺、落葉松などの疎林が点在し、土地を区劃するための道路が、焼石の地肌をみせて縦横に延びてゐる。
緩やかな斜面に沿つて、粗末な小舎が一棟。斜面の尽きるあたりに、水量の乏しい渓流。温泉鑿掘のための櫓が、その岸に立つてゐる。
この物語の中に現れる人物
丹羽州太
同 二葉 その娘
時田思文 郵便局長
同 則子 その娘
小瀬川とね 州太の同棲してゐる女
新井 務 州太の助手
菰原献作 人夫頭
青木利元 二葉の婚約者
郵便配達夫
その他人夫大勢
一
五月の末──昼すぎ。
小舎の入口。
正面のテラスに、籐椅子が一脚出してあり、窓越しに事務所風の部屋の内部が見える。
郵便局長時田思文(五十三)が自転車を押しながら現れる。テラスに上り、窓から部屋の中をのぞきこむ。
時田 なんだ、だあれもゐないのか。(入口の戸を開け)おとねさん、みんな留守かい。(返事がないので、一つ時躊躇してゐるが、やがて、テラスの上を歩きまはる。急に女の声色を真似て)おや、お珍しい。昨夜もあんたのお噂をしてたところですよ。(椅子にかけ、調子を変へ)わしの噂をかね。(苦りきつて)ちえツ! それがお世辞かい。(窓の中に、さも誰かゐて、それに話しかけるやうに)時に、大将、温泉の方はどうです。ちつとは、熱い湯が出ますかい。出る。よろしい。わしも、五百坪ばかり、土地を分けといて貰はうかな。坪弐円として、十円づゝの月賦ならよからう。
入口の窓が開く。小瀬川とね(三十二)が顔を出す。
とね おや、お珍しい。何時いらしつたの。
時田 わしが来る時は、みんなどつかへ隠れてるのかね。
とね あんた、お一人……? 変だね。今、話声が聞えたと思つたけれど、耳のせいか知ら……。こゝへ来てから、よくそんなことがあるんですよ。静かすぎるからでせうね。
時田 静かすぎる、それやほんとだ。山鳩の声にでも返事をするつていふのがこの土地の笑ひ話だ。お前さんも、よく辛棒をするぢやないか。
とね 決心ひとつですね。まあ、中へはひつて一服お喫ひなさいまし。
時田 今日はまた忙しいだらう。二葉さんは、やつぱり二時の下りかね。
とね よく御存じですね。
時田 郵便局をやつとつて、そんなことがわからんでどうする。おい、変な顔色するもんぢやない。中は見ないだつて、手紙の来かたでわかるよ。からだの具合でも悪いのかな。
とね さあ、どうですか。
時田 かう云つちやなんだが、お前さんからすれや、ちつと具合が悪いな。娘さんの手前、万事、今迄通りつていふわけにも行くまい。大将はどうするつもりか知ら……。
とね あたしや、どうだつていゝんですよ。ゐてわるけれや、帰るとこぐらゐあるんですから……。
時田 それやさうさ。待つてる人だつてあらうさ。小諸のおとねさんつて云や、わしや、子供の時から名前を聞かされてゐたよ。
とね (笑つて)さうですか。(しんみり)今の若い人には、丸つきり、かういふ苦労はわからないでせうからね。(間)旦那は、この間うちから、二葉二葉つて、それや大変なんですよ。(間)その娘さんつていふ人が、家ん中をやつてくれさへすれや、あたしは、まあ、用のないからだですもの。
時田 (わざと素気なく)そこんところは、わしどもにやわからん。
とね なんか急ぎの御用ぢやないんですか。
時田 ゐどころはわかつてるのかい。
とね 川下に、また新しく湯の出るところがみつかつたらしいんですよ。今日は、そこでせうと思ひます。
時田 今掘つてるところは駄目かね。
とね その日その日で、わからないんですよ。雲をつかむやうな話ですわ。
時田 この夏までにや、なんとかしたいもんだがなあ。
とね 二葉さんつていふのは、随分、しつかりした娘さんらしいですね。
時田 らしいね。
とね 写真でみると器量もいゝし……。
時田 うちの娘も会ひたがつてるつて、さう云つておくれよ。なにしろ、こんなところで、友達はなし、お互、話相手にはなるだらう。
とね ほんとに、お宅のお嬢さんもお気の毒ですわね。
時田 なに、あれはあれでいゝのさ。子供がゐれば、亭主に死なれても、存外平気なもんだね。たゞ東京へだけは、もう一度出てみたいつて云つてるよ。どうにもならん話だがね。
この時、丹羽州太(五十)が、四五人の男を従へて帰つて来る。
州太 時田さん、今度こそ掘り当てたよ。
時田 はあ。
州太 地下三尺で、もう三十八度といふ温度です。その辺の砂は、硫黄の結晶で真黄色だ。川の水からは湯気が立つて、魚があふ向けになつて浮いてるですよ。
時田 この前もさうだつたね。
州太 いや。この前のところなんか、硫黄の分量だけでも比較にならない。(男の一人に)おい、新井、こゝへ砂を出してみせろ。
新井務(三十)は、空壜につめた砂を紙の上にひろげる。
州太 あ、さうさう。(時計を出してみて)献作、お前、早く荷馬車の支度をして、駅へ行つてくれ。急がんと間に合はんぞ。
菰原献作(四十五)は、麦藁帽を脱いで頭を下げる。それから、とねの方に近づき、
献作 そいぢや、車に敷く座蒲団をお貸しなすつて……。
とね 痛いといけないから、二三枚持つてくといゝわ。(奥へはひる)
州太 (時田に)どうです。見事でせう。
時田 見事には見事だが、問題は、湯が出るか出ないかだ。まあ、しかし、希望はもてるね。
州太 希望どころぢやない。これこそ事実といふやつです。(急に思ひ出して)おい、新井、昨日の杭打ちを続けてやれ。道路に添つたところを、みんな片づけろ。三人も連れて行けばいゝだらう。
新井は、そこにゐる男たちを連れて去る。とねが座蒲団をもつて出て来る。献作、それを受け取る。
献作 旦那はおいでになりませんか。
州太 そんな暇はない。お前一人で大概わかるだらう。若い娘が、さう幾人もこんなところへ降りる筈がないよ。
献作去る。とねが、その後を見送る。
州太 おい、そんなところに立つてないで、早く、ビールでも出したらどうだ。
とね ビールはもうみんなになりましたけれど……サイダアぢやいけませんか?
時田 わしはなんでも結構。(間)だが、どつちみち、この夏の間には合はないね。
州太 (とねに)わしには水をいつぱい……。(とね去る)この夏は、まあ、土地を見せるだけにして置くんです。かういふ仕事は、あせつちやいかんです。なにしろ、もうちつと景気が出なけれや……。
時田 おほきに……。だが、こいつは当てにならないしね。
州太 それがですよ。温泉が出ると出ないとでは、大変な違ひですからね。なに、いよいよ温泉が出るつていふことになれや、これこそ、軽井沢と草津とを一と所に集めたやうなもんでせう。
時田 軽井沢はとにかく、草津の湯つてものは、さう何処からでも出るもんぢやなしね。
州太 さうですとも。これで、いろいろ計画をしてゐるんですが、日本で初めての試みとして、あの山のスロープを利用して、グライダアをやつてみようと思ふんです。
時田 なんだね、それは……。
州太 発動機無しの飛行機ですよ。夏のスポーツとしては絶好のもんです。
時田 それもいゝが、先づ土地を売るんだね。そして、金持ちをうんと吸収しなさい。金持ちといふもんは、何かつていふと、手紙だ、電報だ。今の調子だと、切手代の上りが、県の三等局をひつくるめて、びりから二番目だよ。
州太 どうも、困るのは、いろいろ逆宣伝をする奴がゐることです。浅間の爆発なんて、新聞も大袈裟に書きますからね。
時田 それもさうだが、あんたと日疋さんとの間が面白くなくなつて、向うぢや、この土地へ金を注ぎ込むことに、そろそろ厭気がさし出してるつていふやうな噂を聞いたが、そんなことはあるまいね。
州太 まあ、わたしからは、なんにも云はずに置きませう(暗い顔をする)人の金で仕事をする人間の苦労も察して下さい。
とねがサイダアを盆にのせて来る。
とね どうです、中におはひりになつちや……。
州太 出資者の日疋君にも、よくこの話はしてあるんですが、わたしも、これが自分の最後の仕事だと思つてゐますし、これから先十年、いくら金を儲けてみたところで知れてゐますからね。それより、幾分でも、特色のある事業として、世間にも認められるやうなことがしたいんです。
時田 (とねに)そこへ置いといて下さい。勝手にいたゞくから……。(とね、窓の上に盆を置いて去る)金といふもんは儲けられるだけ儲けようとしなけりや、結局、損をすることになる。あんたの云ふことはよくわかるが、棄てる金があるんでなけりや、人のための仕事なんて、まあ、できつこないね。
州太 それも理屈です。わたしは、これまで、いろんな仕事に手を出して、一つも、満足な結果を得てゐない。あせればあせるほど蹉跌だらけです。一生、金の後を追ひまはしてゐるやうなもんでした。これで、娘の将来さへ安心ができるやうにしておけば、あとは、世間の老人並に、花いぢりかなんかしてゐればいゝんです。
時田 いやに悟つたやうなことを云ひなさるが、あんたの顔には、まだ、野心勃々と書いてある。山で云へば火山さ。油断はならないよ。
州太 さうでせうか。(笑ひながら)まあしかし、さう見えても一向差支へはありませんがね。
時田 雪平の上には、今年もまた五十軒から別荘が殖えるつてね。
州太 法経大学村でせう、あそこのシステムもいゝにはいゝが、わたしはわたしのシステムでやりますよ。あれの真似をしたと思はれるのがいやですからね。
時田 あ、さうさう、序だから、郵便を持つて来た。日疋さんからもなんかあつたつけ。(郵便物を渡す)
州太 (いちいち裏返してみて、そのうちの一通を開封する)
時田 日疋さんもしばらく見えないが、どうしてゐなさるか知ら……。
州太 (それには答へず、黙読を続ける)
時田 (手持ち無沙汰さうに立ち上り)おや、今日は、煙が丸で出てない。またひと暴れするんぢやないかな。
州太 ……。
時田 今年の山開きには、わしも久し振りで登つてみようと思つとるんだが……。
州太 ……。
時田 時に、この前頼んどいた石楠花は、まだ手にはひらんかね。
州太 電報を一つ打ちたいんだが、帰りに頼みます。
時田 日疋さんへかね。よろしい。文句だけ云ひなさい。住所はわかつとる。
州太 ちよつと書きませう。
時田 簡単なことなら覚えてるよ。「オンセンデタスグコイ」かね。
州太 (黙つて部屋にはひり、頼信紙に文句を書きつけて、出て来る)
時田 (受けとつて読む)──「キカイウツスヒトヨコセ」ツイデニ……ツイデニ……これやなんだね。あゝ、さうか、わかつた。なるほど、はたでみてるよりは、経費が大きいわけだね。(サイダアをコツプに注いで飲む)今日はね、丹羽さん、実は、あんたに少し頼みたいことがあつて来たんですがね。
州太 わたしに……? はあ……。伺つてみませう。
時田 なに、つまらんことなんだが、わしんとこの娘さ。御承知のやうな事情で、今、手許に置いてあるんだが、何時までもあのまゝぢや可哀想だし、なんとかせにやならんと思つとる。そこで、ひとつ、あんたは顔も広いし、そのうちに、心当りがあつたらどんなところでもいゝ、是非世話をしてやつていたゞけたらと、昨夜も婆さんと話し合つた次第だ。どうでせう、おやぢの口から云ふのも可笑しいが、誰がみても、二十八とはみえない若作りではあるし、子供さへこつちへ引取ることにすれば、初婚だと云つても疑ふものはなからうと思ふ。それはまあ、よろしいやうにお委せするとして、早い話が、日疋さんのやうな方でもだね、万一、奥さんを探してらつしやるなんていふ話があつたら、無駄でもいゝから、あんた、そばから、ひと言、耳打ちをして下さらんか。──うん、さうか、それや、却つて、さういふ女の方が面白い、なんていふことにならんとも限らんからね。あの方は、まだ独身だつたね。
州太 独身になつたといふ話は聞きませんよ。
時田 すると、もうなにかね。奥様がおいでかね。
州太 まあ、さうのやうですね。
時田 そいつは、しまつた。
州太 自分の娘を片づけなけれやならん男が、余所の娘さんをお世話するなんていふことは、無論覚束ない芸当だとは思ひますが、しかしまた、伺つておいて、何かのお役に立つかも知れません。
時田 いや、おほきに。こちらは別に、望みが高いといふわけでもないんだから、まあいゝが、あんたんとこの二葉さんは、そこへ行くと、大分、あゝでもなし、かうでもなしだらうな。
州太 (黙つて時計を出して見る)
時田 ──お父さん、今日は是非、二葉さんつていふ方を見て来て頂戴ねつて、わしんとこの娘、余程楽しみにしてると見えて、出かけにさう云ふんでね。もう少し、お邪魔をさして貰はう。おほかた、着いた時分だね。
州太 (耳を澄まし)あの音がさうでせう。少し遅れましたね。
時田 あんた、忙しけれや、どうぞわしにかまはずに……。
州太 それぢや、ちよつと、失礼します。(部屋にはひり、卓子に向ふ)
時田 (しばらくぢつとしてゐるが)わしも途中まで迎ひに行つてこう。(さう云ひながら自転車を引つ張つて去る)
やがて、とねがテラスに現れる。
とね (窓の上の盆を片づけながら)局長さんは、もう帰つたんですか。
州太 ……。
とね 遅いやうですね。
州太 ……。
とね もう、あたしに、返事もして下さらないんですか。
州太 お前のさういふ気持が、おれには、やり切れないんだ。なにもかもわかつてる。黙つてゝくれ。
とね あんたは、無理な人ね。かういふとき、あたしは、どうすればいゝのか教へておくんなさいよ。昨夜からそれを訊いてるんぢやありませんか。──お前がいゝと思ふやうにしろ、こんなことぢやわかりませんよ、あたしには……。二葉さんの前で、あたしは、一体、なんなんです。おつ母さんでもないでせう。そんなら、女中ですか。それならそれでかまひませんよ。あたしは、なににでもなります。
州太 だから、事実ありのまゝでいゝぢやないか。
とね ほんとに、いゝんですか。でも、あんたは、そのことを一番心配してるんぢやありませんか。あたしに隠したつて駄目ですよ。この二三日、そんなら、どうして、あたしに対する態度を、がらつと変へちまつたんです。娘さんの方に気を取られてつて云へばそれまでかも知れないけれど、あたしにや、もつとあんたの深い気持がわかるつもりですよ。
州太 ひがむのはよせ。
とね いゝえ、ひがみなんかぢやありません。あたしは、たゞ、幾度も云ふやうに、二葉さんに会つて、中途半端な口の利き方をするのがいやですからね。娘なら娘、お嬢さんならお嬢さん、さういふところをはつきりさせたいんです。
州太 その、どつちでもなければ仕方がない。
とね ぢや、お友達でいゝんですか。それとも姉妹……?
州太 まあ、そんなところさ。
とね さういふ関係で、二葉さんは承知しますか。
州太 承知するもしないもなからう。
とね あんたは、それで、どうもないんですね。
州太 どうもないよ。
とね ほんとですね。
州太 うるさいな。
とね 余計な苦労をして、損しちまつた。
州太 何がだい。
とね あんたが、二葉さんに気兼ねだらうと思つてよ。
州太 気兼でなくもないがね。
とね それ御覧なさい。
州太 だからと云つて、今更、お前を女中扱ひにも出来まいぢやないか。
とね うれしいわ。
州太 その代り、しつかり頼むよ。つまらんところで、おれに恥をかゝせないでくれ。
とね どういふところ……?
州太 考へたらわかるだらう。
とね わからない。
州太 娘の眼に、おれが道楽者に見えても困るからな。
とね はつきり云つて頂戴よ。
州太 もう、その話はよせ。おれは今、非常に六ヶ敷い問題を考へてるんだ。子供を裁くのは、なぜ親でなければならんかといふ問題だ。おれは、今、親でありながら、子供になつてみてゐる。さうすると、娘の二葉が、実は、娘のやうな気がしないんだ。丸で母親のやうな気がする。この気持は、ちよつとお前にはわかるまいが、それやしみじみとした、嬉しいとも悲しいともつかん気持だ。もうぢき、あいつが此処へ帰つて来て、われわれ二人を不審らしく見くらべるだらう。その時、おれたちは、なにも云ふまい。あいつは、きつと、万事を察しるだらう。おれたちは、そつと、あいつの顔色を見よう。おれは、あいつの眼から、すべての色を読むことができる。若しそれが、憤りか蔑みの色だつたら、おれは、手をついて、あいつに赦しを乞ふつもりだ。
とね ……。
州太 お前には、おれの過去といふものを、まだ話したことがない。あいつの母親は、あいつが生れるとすぐに、おれたちを捨てゝ行衛を晦ましたのだ。いや、晦ましたわけではない。おれには、今、その女が、何処で何をしてゐるかさへわかつてゐるんだ。
とね ……。
州太 おれが今、なぜこんな話をして聞かせるかと云へば、あいつが今日、この家の中へはひつて来るまでに、それだけのことはお前に知つておいて貰ひたいからだ。あいつが女学校を卒業すると間もなく、おれは、裸一貫に借金を背負ふからだになつた。あいつは、自分で、食ふ道を探し出した。おれがこの仕事をはじめるまで、丸三年、あいつは、親から一銭の小遣も貰つてゐない。
とね ……。
州太 去年の春、おれは、久々で、あいつに晴着を買ふ金を送つた。それと一緒に、おれも、二十五年振りに、お前といふきまつた女を手に入れたわけだ。
とね 手に入れたはひどいでせう。
州太 手に入れたはひどいか。そんなら取消さう。
とね 取消さなくつてもいゝわよ。
州太 ぢや、どうしよう。
州太は晴れやかに笑ひながら、テラスに姿を現す。山鳩がしきりに鳴く。
とね (突然、前の方を指さし)あれ、さうでせう。
州太 ほう。自転車の護衛がついてるぜ。
とね お姫様のお成りですもの。
州太 荷馬車の上でパラソルは洒落てるね。(間)
とね 献さんが大真面目で馬をぶつてるわ。(間)
州太 笑つてやがる。
とね なんとか合図をしておあげなさいよ。(間)
州太 (聞えないふりをして)なんだ、あの黒い四角な箱は……。(間)
とね 丈が随分高いわね。ちよつと、断髪か知ら……。
遠くで、「たゞいまあ」といふ快活な女の声。州太は、機械的に走り出ようとするが、思ひ直して、そこに踏み止る。立つても坐つてもゐられないやうな気持を、強ひて抑へてゐる様子がありありと見える。
二
翌朝。
谿流に莅んだ温泉鑿掘の現場。──櫓、番小屋。
酒樽を水槽とし、その中に筧の水が落ち込んでゐる。
洗面所、洗濯場などの簡単な設備。
斜面の稜線から浅間の頂がのぞいてゐる。
新井務が顔を洗ひ終つて、その場を立去らうとすると、州太が、歯を磨きながらどてら姿で現れる。無言の会釈。
州太 (呼びとめて)おい、飯を食つたら、駅へ行つて、畳屋へ電話をかけてみてくれ。それから、序に、牛肉を二斤ばかり頼んで来い。
新井 承知しました。僕は、なんなら、番小屋へ寝てもいゝんですが…………。
州太 (口をすゝぎ)部屋はあるんだから、かまはないさ。
新井 あれはどうしませう、印刷屋の方は…………。今日中に区劃割の地図だけでも刷つとく方がいゝと思ふんですが……。
州太 あゝ、その方も急いでくれ。お前もちつと忙しすぎるな。(顔を洗ひながら)そのうちに、現場の方は、人を一人いれよう。
新井 それより……(声を落とし)今、こんなこと云つちやなんですけれど、水道の木管は、あいつ、どうにかならないでせうか。去年の代金を渡さなけれや、後を寄越さないつて云つて来てるんですが。
その時、番小屋の裏から、二葉(二十四)がひよつこり姿を現す。朝日を顔いつぱいに受けて、明るく笑つてゐる。
州太 (新井に)その話は、あとでしよう。(二葉に)よう、もう起きてるのか。どうだ、寒くはなかつたか。
二葉 いゝえ。今、その辺をずつと歩いて来たとこなの。いゝところね。
州太 気に入つたかい。
二葉 なんだか、想像と丸で違ふんですけれど、想像よりは、ずつと大きな、伸び伸びとした景色ね。
州太 これでも、やうやく、人間が住める場所にしたんだ。来年の夏は、あの上の方に、ずつと別荘が建つ。東京の銀座とまでは行くまいが……。自動車も二三台は置くつもりだ。
二葉 来年の夏つていふと、随分間があるわね。
州太 それや、お前、未開から文明へ遷るためには相当の年月がかゝるよ。その代り、それだけのことをやつてしまへば、わしらも、夏だけ此処にゐて、あとは東京でなりなんなり暮せるわけだ。見といで、お前にも好きなやうなことをさせてやるから……。もうひと辛棒だ。
二葉 好きなことつて、あたし、今のまゝで結構よ。それに、あたし……。(さう云ひかけて、番小屋の前のベンチに腰をおろす)
州太 どうした。
二葉 ある人と結婚する約束をしたの。
長い沈黙。
州太 それで……。もつと詳しい話を聴かうぢやないか。
二葉 その人、まだ学校へ行つてるのよ。家はちやんとしてるらしいの。市会議員にもなつたことがあるんですつて、お父さんは……。でも、学校を卒業しないうちは、結婚なんか許してくれないでせう。来年の三月までよ、それも……。家の方で変にとるといけないから、勤めなんかよして、しばらくお父さんのそばにゐてくれつて、その人、あたしに頼むもんだから、さうすることにしたの。随分、いろいろ考へたのよ。それや、愛してくれてることはたしかなの。家で許してくれなけれや、そん時は、断然、飛び出しちまふつて、それほど真剣なの。
州太 大丈夫かい、こんどは……。前のやうに、また、金持へ養子に行つちまふ男ぢやないのかい。
二葉 あん時こそ、あたし、どうかしてたのよ。まだ二十一だつたんですもの。
州太 専門はなんだ。
二葉 法科から文科に変つたんですつて……。社会学でせう。
州太 学校を出て、どうするつもりなんだ。
二葉 今時、自分の思ふやうな口があるもんですか。お父さんの関係してる会社へでも、使つて貰はうつて云つてるわ。それや、その方が悧巧よ。あたし、無闇に野心家ぶつてる男、嫌ひなの。(間)あの蓄音機ね、山ん中で退屈だらうからつて、あの人がくれたのよ。
長い間。
州太 ふむ、さうか。で、もう約束をしてしまつたんだね。
二葉 えゝ。
州太 そんなら、もう、なんにも云ふことはないさ。わしに相談をしなかつたのが、少し手落ちだが、何れにしても結果はおんなじだらう。わしの、たつた一つの楽しみは、お前に、すばらしいお婿さんを見つけてやることだつた。しかしまあ、お前が自分で見つけたのなら、それはそれでもいゝさ、すると、お前は、今、先々のことで、なんにも心配はないんだね。
二葉 自分だけのことなら、心配なんか、ちつともしてませんわ。
州太 すると、わしの方のことが、心配だつていふのかい。
二葉 ……。
州太 今度こそは大丈夫だよ。去年から、少しづゝでも、お前んところへ小遣を送つてゐるが、あれはちつとも無理をして送つてゐるわけぢやない。この調子なら、お前の嫁入の仕度ぐらゐなんでもないさ。恥かしくないだけのことはしてあげられるつもりだ。場合によつては、お前たち二人のために、手頃な別荘を建てゝやつてもいゝぜ。今から、その辺で、此処と思ふ場所を探しといたらどうだ。
二葉 話がよすぎるわ。
州太 さう思ふだらう。ところが、運の向いて来るつていふのは不思議なもんで、わしにも夢だとしか思はれないことがある。この機械だつて(櫓を指さし)十二万円も出して亜米利加から取り寄せたんだ。四十何万坪、ちよつと五十万坪ばかりの土地が、唯みたいな値で手にはひる。それが、今、どんなに安く売つても、坪二円……。温泉附なら、その十倍といふ相場だ。資金の方は、日疋君が、いるだけ出すと云つてくれる。今の暮しだつて、もつと派手にすれば出来ないこともないが、わしの趣味と良心が、それを許さないだけだ。
二葉 ほんとによかつたわね。かういふことが、何時かなくつちや嘘だわ。あたし、自分だけが幸福なんぢやないかと思つて、こゝへ来るまで、随分気が気ぢやなかつたのよ。こんな淋しい山の奥で、お父さんが汗だらけになつて働いてらつしやるんだと思ふと、それだけで涙が出さうだつたわ。しばらくでもお側にゐて、できるだけお手伝したり、元気をつけてあげたりしようと思つて来たの。
州太 それや無論、お前が側にゐてくれゝば、お父さんも元気が出るさ。
二葉 でも、あたし、ほんたうは、そんな孝行娘の真似なんかしなくつてすめば、その方がありがたいわ。自分だけで、空想を楽しんだり、お父さんを少し怒らしたりする方が好きなんですもの。
州太 お父さんは怒らないよ。
二葉 なにをしても……?
州太 うん。
二葉 なにを云つても……?
州太 うん。
二葉 珍しいお父さんね。
州太 何か云ひたいことがあるんだらう。
二葉 それや、おほありよ。
州太 云つて御覧。(娘の側に近寄り、その顔を見下ろす)
二葉 (無意識に立ち上り、父の視線を避けるやうにして)あのね……あの女の方、どういふ方……?
州太 おとねつていふ女か。(間)お前はなんだと思ふ?
二葉 あたしに云はせるの? ずるいわ……。
州太 おほかた察しがつくだらう。わしは、お前に、なんにも隠さない。(間)その通りだ。
二葉 結婚なさるおつもり?
州太 はじめは、そんなつもりぢやなかつた。今でも、そんなことは考へてない。しかし、お前が勧めるなら、結婚してもいゝ。
長い間。
二葉 それだけのことがわかれば、もういゝのよ。
州太 それだけのことが、どうして知りたかつたんだ?
二葉 さうね、好奇心よ、きつと。
州太 好奇心……? そんな風に誤魔化さなくつてもいゝ。わしは、お前の前で告白をするが、あの女とわしとの関係は、お前たちが想像もつかないやうな、俗つぽい、だらしのない関係だ。あれは小諸で芸者をしてゐた女だ。いろいろ苦労をした揚句、商売を止めたいといふから、わしも今、独り身ではあり、引取つて世話をすることにしたんだ。向うも、男なら、わしと限つたわけでもあるまいし、こつちでも、あれでなけれやならんといふほど、面倒な気持はない。こんなことを、お前が知つたつてなんにもならんが、世間には、さういふ例がいくらもある。わしも、この年で、しかも、お前の眼の前で、こんな生活を続けたくはないんだが、今更どうも、致し方がない。お前に不愉快な思ひをさせてすまんが、こゝはひとつ、大目にみてくれ。
二葉 あたしに、そんな気兼ねをなさらなくつていゝことよ。人間は、何時だつて自分に克てないことがありますわ。
州太 それがわかつてくれゝばありがたい。だから、お前は、飽くまでもこの家の女主人だ。誰にでも遠慮なく振舞ふがいゝ。
二葉 あの方にも、さう云つておあげになるといゝわ。あたしと、あの方と、どんな風に遠慮なく振舞ひ合ふか、お父さん、見てらつしやいね。女同志は、世間でいふほどうるさいもんぢやなくつてよ。
州太 お前にはかなはんよ。まあ、よろしくやつてくれ。もうぼつぼつ飯の支度ができてる時分だ。あつちへ行かないかい。(歩き出す)
二葉 もう少しかうしてたいの、あたし……。浅間がいゝ色ね、今朝は……。
州太 そのうちに、一度、登つてみるか。
二葉 賛成ね。その用意に、靴も持つて来てるのよ。
州太の姿が消える。
二葉は、そのまゝそこに腰をおろしてしまふ。今迄の晴れやかな瞳に、なんとなく憂鬱な色が浮ぶ。
鶯が啼いてゐる。
葱を入れた笊を持つて、とねが降りて来る。
二葉 早くお起ししてすみません。
とね とんでもない。今朝は、どうしてだか寝坊をしちまつて……。何時も、今頃は、とつくに朝御飯がすんでるんですよ。
二葉 (皮肉でなく)それぢや、お寝坊をさしてすみません。
とね (笑ひながら)あらまあ、こんだ、どう云つたらいゝんでせう。こゝは、水が不自由でしてね。(葱を洗ひはじめる)一日に何度も、下へ降りて来なくつちやならないことがあるんですよ。早く水道が引けるといゝんですけどね。
二葉 明日から、お勝手のお手伝ひをしますわ。今日一日、休暇を頂戴ね。
とね 休暇……? あゝ、お休みですか。えゝえゝ、いくらでもあげますとも……。今迄、水仕事なんかなすつたことはないんでせう。
二葉 どういたしまして……。父と二人つきりの時は、なんでもやりましたわ。胡瓜もみなんかさせて御覧なさい。手に入つたもんよ。
とね いやだ。今夜は、そのつもりでゐたのに……。
二葉 こんなところで、雪でも降つたら買物はどうなさるんですの。
とね 軽便は止つちまひますしね。仕方がないから、あるもんで我慢するんですよ。今年の冬なんか、お米がきれさうで、さんざ気を揉みましたよ。
二葉 お米がきれたら、どうするんでせう。
とね 荷馬車が通へばですけれど、さもなけりや、餓ゑ死ですわ。でも、それまでには、誰か、なんとかしてくれるでせう。
二葉 安心してらつしやるのね。
とね 男つて、さういふ時には、わりに役に立つもんですよ。
二葉 ほんとね。あなたつて、面白い方……。あたし、好きよ。
とね (更めて、相手の顔を見る)
二葉 失礼だつたら、御免なさいね。
とね 失礼なもんですか。さう云つて貰へば、これでも嬉しいんですからね。あたしみたいな女にでも、若い時があつて、好きなものは好き、嫌ひなものは嫌ひと、はつきり云つちまへた時代があつたんですもの。今は、何を云つても、人がそのまゝに取つてはくれませんけど、あんたゞけには、ほんとのことがわかつて貰へさうな気がしますわ。
二葉 大変なことになつたわね。あたしは、それほど物わかりがいゝんぢやないのよ。たゞ、人つていふものを、そんなに怖がらないだけ……。無遠慮だと思ふ人は、さう思へばいゝんだわ。その代り、おせつかいもしないことよ。
とね 姑さんにしてみたいね。
二葉 なつたげるわ。
とね そこにゐると、水が跳ねますよ。(間)あたしや、東京つていへば四ツ谷しきや知らないんだけど、あつちへいらしつたことあつて……。
二葉 四ツ谷の何処でせう。
とね もう、かれこれ十年以上になりますからね。それも、おほかた病院で暮しちまひましたよ。
二葉 おからだ、お弱いの?
とね ……。
二葉 よく肥つてらつしやるぢやないの。
とね あゝ、いやんなつちやふね。あたしが喋るつていや、みんな下らないことばかりなんだもの。
二葉 どうして? そんなことないわ。
とね あたしが以前、どんなことしてた女だか、あなた知らないんでせう。
二葉 以前のことなんか、どうだつていゝぢやないの。
とね どうせ知れるんだから、云つちまふわね。その方がさつぱりするから……。それとも、誰か話した?
二葉 お父さんから、あらまし聞いたわ。
とね さう、そんならいゝけど……(葱を洗ひ終つて、起ち上る)ちよつと、そんな風に見えて、あたし?
二葉 見えないこともないわ。
とね どういふとこ、例へば……?
二葉 むづかしいなあ、そいつは……。何処か、粋つていふのか知ら……。
とね 粋はよかつたね。はゝゝゝゝゝ。
二葉 (あつけに取られて、相手の顔をみる)
とね 大きな声を出すもんだから、びつくりしてなさるわ。此処にゐると、みんな声が大きくなるんですよ。近いと思つても、そら、周りが広いでせう。ちつとやそつと怒鳴つたぐらゐぢや、聞えないんですよ。
二葉 あたし、少し、あんたにお訊ねしたいことがあるの。今、お忙しい?
とね お鍋を掛けつ放しにして来てあるんだけど……かまはないわ。どんなこと?
二葉 あなた、お父さんのお嫁さんになる気なくつて?
とね なにかと思つたら、そんなこと……。こつちばかりさういふ気でゐても、しようがないぢやないの。
二葉 あなたがさういふ気でゐて下されば、あたし、骨を折つてよ。どつちでもいゝやうなことだけど、やつぱりさうと決まれば、万事に気持が違ふだらうと思ふの。あたしだつて、その方が、ずつと居心地がいゝわ。
とね さういふ話、こんなとこぢや、ゆつくり出来ませんよ。たゞね、舁ぐやうで変だけど、あたし、これまで、二度も人の世話になつて、二度とも、いざ正式につていふことになると、不思議によくないことがあるんですからね。
二葉 よくないことつて……?
とね 最初は、その男が急病で亡くなるし、二度目は、相手にほかの女ができて、こつちがゐたゝまらずに、出ちまふつて風でね。
二葉 ……。
とね だから、このまゝでゐた方がいゝつていふ気もするんです。
二葉 ……。
とね 気をわるくなすつちやいけませんよ。あんたの御親切はよくわかつてるんだから……。
二葉 さうでせうかね。あたしは、さういふこと信じないけど……。でも、兎に角、さういふお気持伺つて、あたし、うれしくなつたわ。(間)お父さんは、優しい人でせう。
とね さあ……、(笑つてゐる)
二葉 一緒にゐて、幸福だとお思ひになる?
とね (とぼけて)幸福つて、どんなことをいふんでしたつけ……。
二葉 あら……。
とね わかつてますよ、言葉の意味はね。でも、どんなことが仕合せかつて云はれたら、全く返事に困りますよ。うれしいと思つたことが、実は、不仕合せの種なんですもの。何時でもですよ、これは……。若い時分は、それや、違ひますよ。一度や二度は、あゝ仕合せだと思つたこともあつたでせう……。今ぢや、もう、男のそばにゐるつてことは、結局、障子に凭つかゝつてるやうなもんですよ。
二葉 それぢや、お父さんが可哀想だわ。
とね それで丁度いゝんですよ。あんたには、お父さんのさういふところが、わからないんでせう。また、その筈だわ。
二葉 あたしにわからないとこつて……どんな風なの。教へて頂戴よ。
とね それも、ひと口には云へませんけどね。つまりどつちかつて云へば、冷たいんでせうね。
二葉 そんなか知ら……。
とね ……。
二葉 それぢや、あんたは、不仕合せね。
とね さうとも限りませんよ。もつと不仕合せなことが、いくらだつてあるんですもの。云つてみれば、あたしに相当したところを、神様が探して下すつたんでせうよ。さう思つてますよ、あたしは……。まあ、この話は、これくらゐにしときませう。あとで、蓄音機、聴かせて下さいね。
上の方から、州太の声で「おい、なにをしてるんだ。早く飯にせんか」
とね (眼だけで二葉に笑ひかけ)はい、はい……。(大急ぎで去る)
二葉は、それを見送つた後、一つ時、ぼんやり立つてゐる。
州太が、再び現れる。
州太 あいつと何を話してたんだい。
二葉 いろんなこと……。
州太 お前なんかと、話は合ふまい。
二葉 ところが、なかなか合ふのよ。
州太 へえ、そいつはどうかしてるね。
二葉 どうもしてないわよ。お父さんこそ、あの方をさういふ眼で御覧になるからいけないのよ。
州太 それはそれとして、飯にしようぢやないか。
二人は、どつちからともなく歩き出す。
二葉 (独言のやうに)さうか知ら……ほんとに冷いのか知ら……。
州太 (後ろを振り返り)なにが冷いつて……?
二葉 (突嗟に)山の水よ。
州太 (平然と)それや、冷いさ。
やがて、二人の姿が消えると、菰原献作が人夫を三人連れて、番小屋の裏から出て来る。
献作 ぶつくさ云はずに、まあ仕事を始めろ。
三人の人夫は、鶴嘴とシヤベルで櫓の脚のまはりを掘りはじめる。
献作 手間は安くなつても、仕事がねえよりやましだ。その代り、一日んところを二日かけちまや、もともとだ。
人夫三人は、調子を合せて歌ひ出す。
歌──もう出る、もう出るで、一年暮した
宝掘る気で、温泉掘つたりや
いくら掘つても、温泉は出らずにや
出たと思つたは、熊の小便
献作 よからう。こんだ、そつちだ……。
歌──もう建つ、もう建つで、半年暮した
家を建てるにや、道からつけろか
道をつけるなら、家から建てろい
人の通らん間に、独活が生えた……。
三
八月の末の或る日。午後四時頃。
小舎の内部。事務所に充てた一室。
正面に二つの窓。遠く、浅間の全容。窓ぎはに製図用卓子。
左手は居室に通ずる扉。
右手、奥に大きな窓。そこに、事務卓子が二つ、向ひ合つて置かれてある。同じく右手、プロセニウムに近く、事務所の出入口。
壁には、地図、宣伝ポスタア、軽便の時間表など。その他、書類を入れた硝子戸棚。室の一隅に、測量用器具が雑然と立てかけてある。
二葉が事務卓子の一つに向ひ、ぼんやり頬杖をついてゐる。
右手の窓口に郵便配達夫の姿が現れる。
二葉 遅いのね、今日は……。
配達夫 数が多かつたからね。(郵便物を卓子の上に投げ出す)
二葉 (それを、一つ一つ撰り分け、そのうちの一通を手早く開封する)
配達夫 今日は、持つてく手紙はないかね。
二葉 待つてゝくれゝば書くわ。
配達夫 さういふわけにやいかねえよ。腹がすいちまつた。
二葉 食べるもんぐらゐあつてよ。
配達夫 明日は早く来るよ。(去る)
二葉は手紙を読み続ける。
右手の扉が開き、新井が飛び込んで来る。
新井 大将はまだ帰りませんか。
二葉 まだらしいわ。何か御用……?
新井 自動車一台ぢや、とても間に合ひませんね。今、一人駅で待つてるんですよ。
二葉 歩いて貰つたつていゝぢやないの、男の人なら……。
新井 印象が違ふでせう。一時間の軽便で、大概の人は、参つてますよ。
二葉 (手紙の上に眼をおとし)そんな人は、来なけれやいゝんだわ。
新井 しかし、大将も今日は有頂天ですよ。今年のうちに一人でも契約者が出来るなんて、考へてもゐなかつたでせう。なにしろ、まだ区劃割も……。
二葉 あんた、さうしてる暇に、お父さんを探してらつしやいよ。さつきの人達を案内してるうち、自動車を駅の方へ廻せばいゝぢやないの。
新井 さうしませう。あとでまた、蓄音機を借りてようござんすか。
二葉 いゝわよ。
新井が出て行くと、二葉は、また、手紙を読み耽る。
とねが、左手の扉から顔だけ出して、そつと、この様子を見てゐる。
とね (やゝあつて)二葉さん、お汁粉をこさへたけれど、あがらない?
二葉 さうね、今いたゞきたくないわ。
とね (はひつて来て)手紙が来たの?
二葉 (黙つてうなづく)
とね いゝお便り……?
二葉 (口を尖らしてみせる)
とね 手紙に書いてあることなんか、いちいち気にしちや駄目よ。会へばなんでもないことなんだから……。(間)それぢや、あんたの分はとつとくから、あとでおあがんなさいね、欲しいとき……。
二葉 えゝ、ありがたう。
とねの姿が奥に消えてから、二葉は手紙を懐にしまふ。
突然、外から、「二葉さん、また来たわよ」といふ女の声。
二葉、窓の外を見る。
やがて、扉が開いて、時田則子(二十八)が汗を拭きながらはひつて来る。
則子 近道をしようと思つたら、ひどい目にあつたわ。沢の中へ足を踏み込んで、こら、草履が台なしよ、このまゝでいゝか知ら……。
二葉 さうね。
則子 いゝわよ、どうせ泥靴のまんま上るところぢやないの。ちよつと、遠慮してみたゞけよ。それはさうと、お手紙が来たでせう。
二葉 えゝ。
則子 配達にさう云つといたのよ、こつちへイの一番に廻るやうにつて……。何時もより早かつたでせう。(間)あなたが待つてらつしやる手紙、あたしにちやんとわかるのよ。
二葉 感心ね。
則子 郵便局をやつてるから云ふわけぢやないけど、あたし、筆無精ぐらゐ癪にさわるもんないわ。青木利元さんも筆無精ね。
二葉 その話なら、もうよして頂戴よ。
則子 だつて、あたしも、手紙が来ないつていふことぢや、あなたとおんなじ苦労をしたことがあるのよ。
奥から、蓄音機の感傷的な曲が聞えて来る。多分、新井がかけてゐるのだらう。
則子 それが、ちよつと説明しないとわからないのよ。あたしの夫つていふのは、お話したかも知れないけど、ある製薬会社に勤めてゐた人なの、よくつて……。そこで、いよいよ赤ん坊ができたわけよ……。(間)すると、あたしにかういふの──自分の手許で産をさせるのは気がかりだから、一旦国へ帰つて、産をすましてから出て来いつて……。さういふもんだから。あたし、そのつもりで、こつちへ帰つて来たの。ところが、お産までは、一週に一度ぐらゐ手紙をくれたか知ら……。それつきり、あとは、ぷつつり便りが来ないの。どんな気持がしたでせう、そん時は……。あたしも、今のあなたとおんなじに、二日に一度づつ手紙を書いたわ。さうなると、もう、自棄ね。おんなじことを、何度も何度も……。それが、一と月目に、やつと手応へがあつたと思つたら、こつちの手紙に符箋がついて戻つて来たの。おきまりの居所不明よ。泣きたかつたわ。
二葉 ……。
則子 それから、大急ぎで、東京にゐる友達に頼んで、会社の方を調べてもらつたの──会社へ手紙を出すことは止められてゐたんですもの。さうしたら、会社には、ちやんと出てるんですつて……。
二葉 (だんだんその話に聴き入つて来る)
則子 さうなると、あの父が承知しないわ。あたしが止めるのも聴かず、独りでのこのこ東京へ出掛けてつたものよ。会つてからの云ひ草が図々しいぢやないの。──「僕も、妻子の手前、さう何時までもかゝり合つてはをられませんから……」ですつて……。
二葉 え! 妻子の手前つて……?
則子 (なにくはぬ顔で)妻子つて云へば、つまり、あたしたちのことだわね。それに、さういふんですつて……。それや、薄々は……。でも、そんなこと、今更……。どつちにしたつて……兎に角、問題は……。結局、向うの……つまり、こつちの……。あゝ、なんだか、わからなくなつちやつた……。
二葉 (がつかりしたやうに)いゝわよ、もうなんにも聞かなくつたつて……。
則子 蓄音機かけてるの、新井さんか知ら……。
二葉 さうでせう。
則子 あたしも、かけて来てよくつて……あれが聴きたいのよ、そら……この前、好きだつて云つた……。(さう云ひながら、奥にはひる)
二葉は、そのまゝ、卓子の上に突つ俯してしまふ。
とねが奥から顔を出し、この様子をみてゐる。
とね (やがて)どうしたの、二葉さん。
二葉 ……。
とね あたしに云へないこと?
二葉 ……。
とね あたし、だんだん、あんたのお母さんみたいな気がして来るのよ。可笑しいでせう。でも、ほんとなんだもの。大きな赤ん坊だ、これや……(二葉の肩へ手をかける)
二葉 (肩をゆすぶり)ほうつといて頂戴よ、なんでもないんだから……。
とね 駄々をこねてるわ。
二葉 いゝのよ、なんだつて……。あたし、一人で、少し考へたいことがあるのよ。あつちへ行つて、頂戴……。
とね そんなら、仕方がない……。このおつ母さんは落第だ……。
諦めて、彼女は、奥へはひらうとする。が、この時、二葉は、急に背中を波うたせて、啜り泣きはじめる。
途端に、左手から、州太がはひつて来る。
州太 (この様子を見て)なにをしてるんだ。お前たちは……。つまらん真似をするんぢやない。
とね (心外らしく)あら、そんなことぢやないんですよ。
州太 もういゝ。今日はどういふ日だと思つてる? 土地が始めて売れた日だ。みんなで、祝ひをせえ、祝ひを……。
二葉 (袖で顔を覆ひながら、奥へ走り去らうとする)
州太 待ちなさい、二葉。何処へ行くんだ。
二葉 (州太に背を向けたまゝ立ち去る)
州太 (とねに)おい、麦酒を持つて来い。
とね、奥にはひる。
州太 二葉、そんなことしてないで、こつちを向いて御覧。袖を下へおろしなさい。わしの顔をみて……。お前には、物の道理がわかつてる筈だ。あんな女、何を云つたつて放つとけ。(さう云ひながら、卓子の上の郵便物に一と通り眼を通す)
遠くで雷の音。
州太 此処へ来て坐りなさい。どうだ、山もそろそろ飽きて来たらう。少し涼しくなつたら、何処かの温泉へ行かう。お前が退屈してるのを見ると、わしは気が気ぢやない。たまには、軽井沢の町へでも遊びに行つて来るといゝ。
二葉 ……。
州太 近頃は、この通り忙しいんで、ゆつくりお前の相手にもなつてをれんが、なにか面白くないことでもあるんぢやないか。
とねが、麦酒を持つて来る。
とね (麦酒を注ぎながら)二葉さんも、一杯いかゞ?
二葉 (首をふる)
州太 (とねに)お前も一つやれ。おれが仲直りをさせてやる。一体、何を喧嘩したんだ。おれの留守に……。
とね いやだ、喧嘩なんかしやしませんよ。ねえ、二葉さん、あたしは、そんなつもりぢやないんですよ。たゞ、この人が、あんまり沈んでるやうだから、なにかわけがあるんぢやないかと思つて、訊いてあげたゞけなんですよ。
州太 さうか、二葉。
二葉 さういふ時、あたし、いろんなこと訊かれるの厭やなんですもの……。
とね だつて、あんた……。
州太 訊いてくれるなと云ふんなら、訊かずにおかうぢやないか。注げ。この奴さんも案外苦労性で、人のことつていふと躍起になるんだ。(二葉に)お前もまた、それくらゐのことで、泣かんでもいゝぢやないか。それとも、泣きたいほど悲しいことがあるのか。そんなことは、ありやせん。つまらんことを考へるひまに、わしの事業を見ろ、事業を……。七月この方、土地を見に来るものが、毎日平均三人……。これは素晴しい数字だ。その場で契約はできなくつてもいゝ。来年の夏までに、少くとも、このうちの二割は、申込んで来るとみて差支へない。そのほか、土地の条件だけ気に入れば、実際は見なくつても買つて置かうといふものもある。現に、今日手金を打つて行つた夫婦連れの紳士は、是非親戚や友人にも勧めてみると云つてゐた。この調子で行くと、事務所もこれぢや人手が足らんかも知れんぞ。(とねに)新井を此処へ呼んで来い。いゝ年をして唱歌ばかり歌つとる。
とね、奥へはひる。
州太 何が悲しいんだか、早く云つて御覧。東京から便りでもないのか。
二葉 今日、久し振りで手紙が来たの。
州太 そんならいゝぢやないか。嬉しくつて泣いたのか。
二葉 まさか……。あたし、一度、東京へ行つて来たいの、そのことで……。
州太 行きたけれや、行つて来るさ。急ぐのか。
二葉 えゝ、明日にでも……。
新井がはひつてくる。
州太 駅に待つてるつていふお客さんは、どうした。
新井 今、自動車が迎ひに行つてます……。案内は、先生がなさるんですか。
州太 どんな人だ。
新井 まだ二十六七ぐらゐの、若い男の人です。
州太 二十六七……三十六七だらう。
新井 いゝえ。だから僕、少し変だと思つたんですけれど、土地を御覧になりますかつて訊いたら、あゝ土地も土地だけど、それより先に、丹羽さんの事務所へ案内してくれつて云ふんです。
とねが、麦酒の代りをもつて出て来る。その後から、則子が続いて現れる。
州太 やあ、あんたも来てたのか。そいつあ賑やかでいゝ。さあ、お祝ひだ、一杯どうです。
則子 なんのお祝ひでせう。
とね さあ、なんかの前祝ひでせう。注ぎますよ……。(注ぐ)
州太 だが、実に愉快だ。誰にも想像がつかんだらう。このわしの頭の中は……。(則子に)あんたのお父さんなんか、眼前のことばかりしか見えんが、ちつとさう云つておやんなさい。人間は、自分のことを第一に考へちやいかんつて……。わしは、第一に、娘のことを考へてる。第二には、世の中のこと……。それから、第三に、自分だ……。
則子 それで、奥さんのことは……?
とね 第四よ。
州太 いゝや、それが間違つてる。二葉に訊いて御覧。こいつは、なんでも知つてゐるから……。おい、新井、なぜ、そんなところで黙つてるんだ。お前は、おれの片腕だ。もつと飲め。
新井 もう結構です。
州太 馬鹿云ふな。そんな風だから、人夫共に勝手な真似をされるんだ。
とね 余計なこと、およしなさいよ。
州太 今のは戯談だ。新井某は、これで豪傑だよ。足の裏へ釘をさしたま、平気で歩いて御座る。
表に、自動車の音。
新井が、表へ飛び出す。
やがて、彼は、一人の青年を案内して、戸口に現れる。
二葉 (その青年を見るなり、悶絶せんばかりに驚き)あら……どうして……?
青年は、鷹揚に帽子を脱ぎ、一同に会釈して部屋の中にはひる。二葉の婚約者、青木利元(二十七)である。
青木 (誰に云ふともなく)突然お邪魔して、どうかとも思ひましたが、急に是非(二葉の方を向き)お目にかゝつてお話したいことがあつたもんですから……。
州太 (それと察して二葉に)この方が、なにか……。
青木 始めまして……。僕、青木です。
州太 あゝさうですか。わたし、二葉の父です。
とね それぢや、(二葉に)あんたのお部屋がいゝでせう。ちよつと掃き出して来ますわ……。
とね奥に引つ込む
州太 よくおいで下すつた。あちらでは、また、二葉がいろいろ……。
青木 いゝえ……。前以て電報でもと思つたんですが、その暇に来てしまへるやうな気がして……。割合、便利なとこですね。
州太 いや、今年はまだ……。これでも来年は余程活気を呈するでせう。二葉とも話したことですが……。
二葉 それぢや、お父さん、あちらで……。
州太 うん、わしも、後から行く。
二葉 (青木に)どうぞ……。
彼女は、首をうなだれたまゝ、先に立つて、青木を奥へ案内する。
新井 なんだ、さうだつたのか。
則子 あたし、一と目みて、さうだらうと思つたわ。
州太 (満足げに)やあ、わしも気がつかなんだ。さうか。さういふわけか。(新井に)すると、お前は別に用はないから、もう一度駅まで行つて、何か珍しさうな鑵詰を、三つ四つ頼んで来い。それから鶏を一羽とな。序に則子さんを送つて行つてあげろ……。自動車を使つてもいゝから……。
則子 ありがたいツと……。ぢや、さよなら……みなさんによろしく……。
則子と新井とが出て行くと、州太は、独りで室内を歩きまはる。
長い間──
やがて、とねが、跫音を忍んで現れ、州太の耳もとへ口を寄せ、何か囁く。
州太 なに? そんなことはわかりやせんよ。第一、他人の話を盗聴きなんかするな。
とね (また、なにか囁く)
州太 そこがいゝとこぢやないか。几帳面な間柄つていふものは、久振りで会つたからつて、さう馴れ馴れしくはせんよ。
とね いくらなんでも、それや無愛想な口の利き方ですよ。二葉さんは、もう、半分泣いてるやうでしたわ。
州太 いゝから、あつちへ行つて、飯の支度でもしろ。今、新井を駅へやつたが、今夜の間には合ふまい。鶏ぐらゐ、手にはひるかも知れん。
とね ほんとに、いゝんですか。若いもの同志ですから、どんなことで……。
彼女はまた、跫音を忍んで、奥へ去る。
州太は、その後から、これも抜足差足で戸口に近づく。
州太 (声を潜めて)おい、おとね、もう一度、様子を見て来い。なにか、変つたことがあつたら、さう云へ。
さう云ひ終つて、彼は、戸口に佇んでゐる。
長い間──
やがて、また、とねの姿が現れる。
とね (低い声で)詳しい話は、よくわからないんですけどね、なんでも、二葉さんが、あの人に隠してたことがあるらしいんですよ。
州太 隠してたこと? なんだ、それや……。
とね (制して)駄目ですよ、大きな声をしちや……。二葉さんの方の云ふことがよく聞えないんですよ。男の方ぢや、かう云ふんです。──「それぢや、あなたは、さういふ事実を認めるんだね」つて……。
州太 それで、二葉の返事は……。
とね 黙つてるらしいんです。
州太 事実……どんな事実だらう……。あいつに罪があることかどうか……。
とね やつぱり、男との関係ぢやないんですか。
州太 そんなことが、どうしてわかる。
とね だつて、さういふ事実つていふからには……。それに、ほかのことなら、あんなに二葉さんを責めるわけはないぢやありませんか。
州太 そんなに責めてるか。
とね 可愛想なくらゐですよ。
州太 よし、わしが行つてやる。
とね およしなさい。それこそ見つともないから……。
州太 立ち聴きをするんぢやない。わしから話しをしてやるんだ。
とね 今は無駄ですよ。云ふだけのことを云はしてからの方がいゝでせう。こつちには事情もなにもわかつてないんですもの。なまじつか、あんたなんかゞ口を出すと、変にこぢれちまふわ。待つてらつしやい。もう少し、様子をみてみるから……。
彼女は、また、奥へ姿を消す。
州太は焦ら焦らしながら、その辺を行つたり来たりする。
その時、菰原献作が、右手からはひつて来る。
州太 なんの用だ。
献作 ちよつと、旦那にお話したいことがあるんですが……。
州太 後にしろ。
献作 少し、急ぎますんで……。
州太 いゝから、後にしろつたら……。
献作は、一旦、外へ出るが、また後へ引つ返して来る。
献作 何時頃が、よろしいんでせう。
州太 明日にせえ、明日に……。今日はもう帰つていゝ。
献作 ですが、さういふわけに行きませんので……。
州太 なに? なにがさういふわけに行かん。お前は、近頃、横着だぞ。
献作は、ぢろりと州太の方をみて、そのまゝ出て行つてしまふ。
とねが現れる。州太は、急いで、その方に近づく。
州太 なんだ?
とね 話が面倒になつて来たわ。いよいよ、別れるとか別れないとかつていふところへ来たらしいの。二葉さんは、わりに落ち着いてますよ。物の云ひ方だつて、しつかりしたもんだわ。でも、今のうち、なんとか縒りを戻せないか知ら……。
州太 その方が、二人のためにいゝか、どうかだ。いや、あいつのために、いゝか、わるいか……。もう、わしが出てもよからうか。
とね でも、二葉さんは、あの人に、こんなことも云つてましたよ。──「二人が今、こんな風になつたことは、当分父の耳にも入れずに置きますわ」つて……。
州太 なぜだ、それや……。
とね あんたが心配すると思つてゞせう。
州太 うむ……。では、知らん顔をしてゝやらうか。
とね その方がいゝかも知れませんね。諦めるつていふ点から云へば、自分一人の胸に畳んでおく方が、早く諦めがつくでせう。
州太 待て。それとなく出てつて見よう。
彼が、さう云つて奥へはひりかけると、事務所の外が、急に、ざわざわし始める。扉が開け放される。
見ると、数十人の人夫が、入口を塞いでゐる。その中から、献作が、一人前に進み出る。
州太は、無意識に、防禦の身構へをする。とねは、扉の陰にかくれる。
州太 お前たちは、何しに此処へ来たんだ。
献作 先月分の給料をいたゞきに参りました。
州太 (蒼ざめて)だから、さう云つてあるぢやないか、もう少し待つてろつて……。
献作 待てない奴がゐますんですよ。
州太 そんな奴は使ふな。
献作 旦那、それや、ちつと乱暴でせう。
声 やれ、やれ……。
州太 誰だ、今のは……?
声 大きなお世話だ。
献作 (こつちを向き)手前たちや、黙つてろ。待てない奴は使ふなと仰つしやつたところで、わしはじめ食へねえだから、困るだよ。それも、先の見込みがありや、山林を売つてゞも、こいつらを養つとくだけど、今んところ、温泉は出る見込がなし、土地も売れたつて話は聞かず……。
州太 そんなことはない。現に、今日も、買ひ手がついた。
声 その金はどうした。
州太 お前たちは、なんにも知らんのだから無理もないが、現金が手にはひるまでには、相当の手続がいる。
献作 そればかりでねえだ。噂によると、日疋の旦那からはもう、資本が下りねえつてこつた。
州太 誰がそんなことを云つた。
献作 悪いか知らねえが、郵便局の時田さんから聞いたゞ。
州太 あの狸め……。
笑声。
州太 (怒りを制して)みんな、よく聴け。わしは、決してお前たちを見殺しにはせん。
声 殺されてたまるけえ。
州太 無駄働きはさせんといふのだ。どんなことをしてゞも、報酬は払ふ。わしは裸になつても、お前たちが仕事をしたゞけの賃金は、完全に支払つてみせる。
声 そいつを早くしろ。
州太 たゞ、事業といふものは、事業が大きければ大きいほど、思惑通りには行かんものだ。そこを、みんなが辛棒して……。
声 そんな講釈は聴きたかねえ。
州太 さうか。よし。(黙つて、天井を見る)
献作 わしらも、無理なこたあ云はねえだよ。せめて、こゝ、十日分だけでもきちんとして貰へば、またあと十日ぐらゐは、待つてもえゝだ。なあ、おい(後ろを振り向く)
声 そんな腰の弱いこつちや駄目だ。
人夫達を掻き分けて新井がはひつて来る。はひつて来たが、彼は茫然と、この有様を見守つてゐるだけである。
州太 (新井に)わしには、もう、方法がない。お前、なんとか解決をつけてくれ。なにがどうなつてもかまはん。欲しいものは、みんな呉れてやれ。
新井は、州太と、人夫達の群とを見比べて、処置に窮してゐる。この時、静かに左手の扉が開いて、二葉の姿が現れる。彼女は、黙つて、父の傍に近づき、一言二言、何か囁いた後、人夫一同の方に向ひ、低いが、極めてはつきりと──
二葉 こゝに、あたしの貯金が三百円ばかりあります。あなた方、お父さんを信用なさらないなら、これを持つて行つて、お金を引出していらつしやい。此処の郵便局で手続きを教へてくれるでせう。判も一緒につけて置きます。
人夫達の私語が一つ時続いた後、
声 残りはどうしてくれるんだい。
州太 明日、どうにかする。今日は、これで引取つてくれ。
献作 ぢや、さうするか。
一同が、ぞろぞろ帰つて行くのを、州太は、ぢつと見送る。
二葉は、その父の顔を、悲痛な眼ざしで見守つてゐる。
新井は、首を垂れて、扉を閉めに行く。
二葉 (努めて平気を装ひながら)お父さん、あのね、青木さんは、この次の上りで、帰るんですつて……。
州太 ……(二葉の顔を見ない)
二葉 (新井に)だから、自動車をね……もう、すぐでもいゝわ……。
四ノ一
小舎の入口──「一」と同じ場面。
その日の真夜中。
テラスの上で、とねと新井とが話をしてゐる。
新井 僕、やつぱり行つてみよう。なんだか気がかりだ。わからないやうに、後をつけて行けばいゝでせう。
間
とね そんなことしたつておんなじよ、あたし、はじめつから、はゝあと思つたんだけれど、わざと止めなかつたのよ。一旦、さういふ気を起したら、何時、何処でだつて……。
新井 しかし、無理にでも思ひ止まらせるのがほんとぢやありませんか、こつちでさうと覚つたら……。
とね 駄目よ。あたしには、そんな力ないから……。人が死なうつていふものを、死なせないだけの力は、どう考へたつて、あたしなんかにない……。お芝居のやうに、泣いてみせるなら格別だけど……。
新井 しかし、あゝいふもんかなあ。大将は、不断とちつとも変りはなかつたし、お嬢さんは、何時もより快活なくらゐでしたね。
とね 二葉さんに、この決心があつたかどうか知らないけど……。あのお父つゝあんが一緒に死なうつて云へば、多分、その気になるわよ。誘はれるのには、いゝ時なんだもの。
新井 そのうちに浅間へ登るんだつてことは、前からも聞いてたし、そいつばかりは気がつかなかつたな。(間)さうすると、あんたは、もう仕方がないから、ほうつとかうつていふんだね。
とね ほうつとくもなにも、あたしには、手の出しやうがないぢやないの。そんなことはしないつて云はれゝばそれまでだもの。後からついてつてみたところで、不意に飛び込まれちまへばそれまでだし……。山登りをよさせるつていつたつて、何かうまい口実があつて……? あべこべに、向うが、是非今日でなけれやならないやうなことをいふんだから……。
新井 第一、僕を連れてかないつていふのが、不思議つて云へば不思議だよ。
とね 不思議ぢやない、当り前よ。ほかのものなんかゐちや、邪魔になるさ。
間
新井 そのほかに、確かに証拠になるやうなものはないんですか。
とね 書置き? そんなもの、ないやうね。探してもみないけど……。
新井 探して御覧なさいよ。いよいよさうときまつたら、僕、後を追つかけてつて、どんなことをしてゞも連れて帰ります。今から、警察や青年団へさう云つてやつても間に合ふからね。
とね さうして、連れて帰つて来て、どうすんの。
新井 ……。
とね どうせ死ぬ気でゐるものと、一緒に暮して、どうなるつていふの。馬鹿々々しい。
新井 大将は、そんな気の弱い人かなあ。
とね 娘のために、気が弱くなつてるのよ。今日来た男が帰る時だつて、なんのために駅まで送つてくの? 本当なら、挨拶だつてする必要ないんだわ。それに、どうでせう、あのお愛想のいゝことは……。あゝいふところをみると、可哀さうにもなるけど……。
新井 それやどういふ話なんです。お嬢さんのお婿さんになる人でせう。
とね その話が駄目になつたのよ。
新井 へえ。
とね あゝ見えて、二葉つていふ娘も、なかなか、初心ぢやないんだから……。
新井 東京にゐればさうなるでせう。郵便局の出戻りさんだつて、実に、人を喰つてるからなあ。でも、うちのお嬢さんは、あれとはまた違ふでせう。
とね しつかりはしてゝよ。可愛いゝところもあるわよ。
新井 僕はずつと好きだなあ(舌を出す)
とね 早く行つて、助けて来るといゝわ。今なら、物になるかも知れないわよ。
新井 戯談は兎に角、僕、ほんとに行つて来ますよ。だけど、証拠でもないと、大将にどやしつけられさうだなあ。
とね それやさうよ。だから、あんた、探して来て御覧よ。書置なら、大概、人の目につくところに置いたるから。
新井 呆れたなあ、こいつあ……。あんた、人を舁いでるんぢやないですか。
とね さう思ふなら、それでもいゝわよ。あたしや、なんにも、あんたに頼んでるわけぢやないんだから……。
新井 兎に角、あんたは、心配なんですか、心配ぢやないんですか。
とね あたしが……?
新井 たしかにさういふ気がするんですか、しないんですか。
とね さういふ気がするから、するつて云つたゞけよ。それ以上、別に、なんでもないのよ。
新井 益々わからん、僕にや……。それで、あんたは、先生が死んで、なんともないんですか。さうして、ぢつとしてゐられるんですか。
とね だから、どうにもしようがないつて、云つてるんぢやないの。わからない人ね。
新井 悲しくも、怖ろしくもないんですか。
とね そんなこと、あんたが聞いてどうすんの。あたしがどう思つたつて、勝手ぢやないの。
新井 まあ、騙されたと思つて行つてみよう。僕は、心配な時は、心配な顔しかできない人間なんだ。笑はれたつて、かまやしない。(向うへ行きかける)
とね 誰も笑つてやしないわよ。お待ちなさいつたら、ちよつと……。
新井 ……。
とね 今の話は、みんな出鱈目よ。だつて、死にゝ行く人間が、明日の朝、峯の茶屋まで自動車を迎ひに寄越せつていふわけはないでせう。
新井 全くですね。
とね それから、二葉さんは、二三日うちに、また東京へ出ることになつてるのよ。
新井 ほんとですか。
とね がつかりしたでせう。
新井 よして下さい、さういふ変な話は……。
とね あたしも、ことによると、小諸へ帰るわ。
新井 そいつも、嘘らしいな。
とね 見てればわかるわ。また芸者になるのよ。
新井 先生と別れてかね。
とね むろんよ。さうしたら、あんた、遊びに来てくれるわね。
新井 どういふもんかな、そいつは……。
とね どうもかうもないさ。さうなれや、あたしは、誰のもんでもないんだから……。
新井 第一、そんな余裕はないですよ。月二十円の小遣を貰つてるんぢや……。
とね そこは、あたしがうまくやつたげるわよ。知らない仲ぢやなし、安心してらつしやいよ。
新井 だけど、その話は、まだ早いや……。
とね 夜露がひどいから、家ん中へはひりませうよ……。
新井 ほんとに、大丈夫なんだらうな、先生たちは……。
とね まだ、そんなこと考へてんの。御覧よ、今頃は、二人で、六里ヶ原の月でも見ながら、いゝ気持で歌を唱つてるから……。(さういひながら、奥に姿を消す)
新井は、一つ時、思案に暮れて外に立つてゐるが、遂に、ふらふらと中へはひつて行く。
舞台しばらく空虚。
そのうちに、部屋の奥で、穏かであるが、何か云ひ争ふ声が聞え、やがて、新井が、扉を開けて出て来る。
新井 やつぱり行つてみないと、どうしても気が済まない。なんだか、落ちつかなくつて……。
とね (追ひ縋るやうに)だつて、後は、あたし一人よ。こんなところで、ほかにだあれもゐなくつちや、あたし……(新井の服の袖を捉へ)ねえ、新井さん……あたし、淋しいのよ……。後生だから、今夜だけ、……あたしの側にゐて……。ねえ、ほんとに、あたし……怖いんだつたら……。
彼女は、新井の腕に取り縋つたまゝ、頼むよりも、寧ろ、制する形で、テラスの端まで来る。
新井は、それを振り払ふ力がないやうに見える。
四ノ二
火口壁を形づくる山の頂上。──払暁前一つ時。
左下りに溶岩と焦石の急斜面。右手は、断崖になつた噴火口の一部、濛々たる噴煙。
山の嶺を掠めて、遥かに、地平線。
左手から、二葉が、登山の服装で、斜面を登つて来る。
二葉 (後ろを振り返り)なにしてらつしやるの、お父さん……。もう、そこが天辺よ……。
州太の声 ちよつと待て……。そのへんで少し休まう。
二葉 だつて、もう一と息よ。噴火口が見えてるわ。
州太 (追ひついて)だから、さう急ぐことはないさ。日の出には、まだしばらく間がある。この辺なら、煙が来なくつてよからう。(腰をおろす)
二葉 あたしたち、随分早く着いたのね。さつきの人達、まだあんなところにゐるわ。
州太 喉、渇かないかい。(水筒の水を飲む)
二葉 早く噴火口のなかゞ見たいわ。一人で行つちやいけない?
州太 お待ち。今一緒に行くから……。
二葉 (これも腰をおろし)この山、何時破裂するか知れないわね、かうして、……。
州太 東京にゐたつて、何時地震で潰されるか知れない、それとおんなじさ。お前たちは、まだ命が惜しいだらうな。
二葉 命が惜しいなんて、そんなこと、まだちやんと考へたことないわ。だつて、死にさうになつたことなんかないんですもの、一度も……。
州太 年を取ると、自分の身に迫つた危険といふものが、はつきり見える。その代りに、また、さういふ自分の眼を疑ひたくなるものだ。わしはこれまで、病気をしたことは滅多にないが、なにか面倒な事件が起ると、すぐに、自分の命といふことを考へる。しかし、わしにも、お前といふ娘がゐなかつたら、もう、とつくの昔……さういふ事件のために、命を取られてゐたのだ。昨日の、あの人夫どもの事件にしてもさうだ。あの時こそ、わしは、どうにでもなれと思つた。お前が貯金を投げ出してくれなかつたら、わしはあいつらの面へ、インキ壺を叩きつけてやるところだつた。
二葉 そんなことつてないわ。今、賃金の問題は何処でもやかましいんだから……。
州太 しかし、お前があゝいふことをしなくつても、あの時は、我慢をしたかも知れんよ。お前のところへ大事なお客さんが来てゐる時だ。
二葉 あたしたち、話がすんで、どつちも黙つてゐたのよ。さうしたら、表の方で急に、大きな声が聞えるでせう。あたし、そうつとのぞきに行つてみたの。すると、あゝいふわけなんですもの。びつくりしたわ。だつて、お父さんのお話と、丸で様子が違ふし……。
州太 わしも、実際、お前には面目ない。満更、嘘をついてゐたわけでもないのだが、事実よりも空想の方が話しいゝ場合もある。お前だつてさうだらう。例へば、あの青木といふ男が、昨日、わざわざやつて来た理由は、わしに黙つてるぢやないか。
二葉 ……。
州太 しかし、さういふことは、何れわかることだ。はつきり云つてしまはうぢやないか。実は、あのおとねが、お前たちの話を、すつかり立ち聴きしてしまつたのだ。
二葉 ……。
州太 それで、どういふんだ、あの男は……。
二葉 駅へ行く途中、さういふお話、なすつたんでせう。
州太 それも、聞くには聞いた。お前は、わしの耳に当分入れないといふ約束をしたさうだが、あの男は、すつかり喋つたよ。
二葉 そんなら、もう、いゝぢやないの。
州太 どうしてまた、以前のことを打ち明けて置かなかつたんだ。今更それを云つてもなんにもならんが……。
二葉 云はう云はうと思つてるうちに、云へなくなつちやつたの。だつて、あんなこと、云へば赦してくれるにきまつてると思つてたし、それくらゐなら、急いで云ふ必要なんかないんですもの。
州太 何処からそんなことがわかつたんだ。
二葉 調べたらわかつたつていふのよ。下宿のお神さんでせう。今度、あそこを引払ふ時でも、それや機嫌が悪いの。さういふお神さんよ。一度か、二度、遊びに来たことがあるのを、大袈裟に云つたんだわ、きつと……。
州太 お前も運の悪い女だ。
二葉 運が悪いんぢやないわ。あたしが悪るかつたのよ。でも、可笑しいもんね。一番自分に近い人間に、一番ほんとのことが云へないなんて……。
州太 ほんたうのことゝいふのは、一番聞きづらいことだからさ。だが、これから、わしは、お前になんでも本当のことを云ふからね。
二葉 あたしもさうするわ。
州太 あゝ、さうしてくれ。さうしてくれゝば、わしはもう、なんの苦労もない。
長い間。
州太 あの音を聴いて御覧……。
二葉 ……。
州太 なあ、おい、二葉……。
二葉 (慄然と、跳び退く様な身構へで)いやよ、そんな声して……、気味が悪いから……。
州太 なるほど、お前には、もうわしの云はうとしてることがわかると見える……。
二葉 お父さんつたら……。
州太 かういふ云ひ方をしては不味いな。しかし、今日、家を出る時、お前はどうしてあんなにはしやいでゐたんだ。わしも、出来るだけ平静を装つてゐた。だが、お前にも、わしにも、あゝいふ事件が起つた後で、この思ひ立ちは少し不自然すぎた。おとねが、よく黙つてわしたちを出したもんだ。なあ、お前は、さう思はんか。
二葉 人からみれば不自然でも、あたしたちには、それが自然ならいゝぢやないの。悲しみや、不愉快を紛らす方法は、人によつて違ふんだわ。もう、そんな話、よしませうよ。折角、あたし、忘れてたのに……。
州太 わしも、早く忘れたい。出来ることなら、永久に忘れてしまひたい。今更、愚痴も可笑しいが、わしは、自分の最後の事業が、脆くも失敗に帰したことを、お前にだけは隠しておきたかつた。隠しおほすために、あらゆる苦心をしたんだ。それが、あさましい今日の結果だ。わしは、もう起ち上る勇気がない。いや、勇気はあつても、力がないのだ。これは、五十年間生きて来た男の、自分を識りぬいた揚句の声だ。誰が何んと云はうと、わしの精根は尽き果てゝゐる。神が若し、これ以上この男に寿命を与へるなら、その神こそ、無慈悲な悪戯者だ……。
二葉 いやだわ、そんなこと云つちや……。(間)さうよ、お父さんが、あたしの眼を、明るい方にばかり向けさせようとして下すつた、そのお心持は、むろん、よくわかつてゝよ。(間)それから、この先々、今迄のやうな生活には、もう堪へられないつておつしやることも、なるほど、さうかも知れないつて気がしますわ。しかし、なんにもしないで、生きてだけいらつしやることが、どうしておいやなの? お父さんさへ我慢して下されば、あたしが働いて、お父さんお一人ぐらゐ、楽に養つてあげられるわ。それも、あたしたちに取つて、結構面白い生活だと思ふわ。
州太 わしは、お前に慰めて貰ふ必要はないよ。また、さういふ資格もないわけだ、だつて、お前にも、わし以上の……わしとはまた違つた、なんといふか、心の苦しみがあるだらう。さつきお前は、今それを忘れてゐるなんて云つたが、そんなことで、満足なのか。日が昇ると、山を降りなけれやならんぞ。悲しみは、この下で、あの家で、空から遠いあの地べたの到るところで、お前を待ち受けてゐるんだぞ。お前は、今日、あの青木といふ男に、癒りかゝつてゐる心の古傷を、またあばかれたと云つたね。その傷口が、今度癒りかける時分に、何れまた、誰かゞあばかずには置かないのだ。さうして、次ぎ次ぎと、お前の生涯は、苦しみの連続だ。わしが保証しておくよ。
二葉 さう云へば、あたしが死にたくなると思つてらつしやるんでせう。大変な間違ひよ、お父さん……。(無理に笑ふ)をかしいわ。あたし……(また笑ふ。が、今度は、その笑ひが自然と泣き声に変つて行く)やつと、わかつたわ。お父さんは、あたしを……あたしを……此処まで……。
州太 さうだ。お前を一緒に連れて行きたいんだ。わしは、お前を置いて、一人で死にたくないんだ。こいつは、多分、我儘な親の願ひかも知れん。しかし、また、同時にお前を不幸の数々から救ふ唯一つの手段に遠ひない。なるほど、お前にはまだ、若い時代の希望とか夢とかいふものが、少しは残つてゐて、たゞそれだけが、お前の決心を鈍らせるだらう。思ひ出して御覧、お前がまだ小さい時分、よくお菓子をねだつた、それをわしは、いちいち、そんならと云つて食べさせたか。ところが、今になつて、お前は、このわしが無理だつたと思ふか?
二葉 いゝえ、いゝえ、そんなことゝは比較にならないわ。お父さんに……今のお父さんに、そんな権利はないわ。いやよ、あたし、いやよ、まだ死ぬなんて……。
州太 さうか。そんなら、わし一人を死なせるつもりだね。お前は、黙つてそれを見てゐる気か。
二葉 あたしが死なゝいつて云へば、お父さんだつて死にたくないとお思ひになるわよ。ねえ、さうでせう(父に取り縋り)それがほんとだわ。あたしをほうつて、そんなことなされない筈よ。あたしのことが心配でせう。(急き込んで)ねえ、心配だつて云つて頂戴……。あたし、まだ、お父さんに、いろんなことで力になつていたゞきたいのよ。ほんとよ。さういふ力なら、お父さんにあつてよ。あるどころぢやないわ。お父さんにしかない力よ、それは……。それも、大きな、大きな、強い強い力よ。
州太 駄目だよ、お前がなんと云つたつて……。仕方がない……。お前がいやなら、わしは、一人で、飛び込む……。
二葉 (はじめて気がついたやうに、恐怖に満ちた眼で噴火口の方をみる)
州太 お前を誘つたのは、わしがわるかつた。お前には、まだ、お父さんの苦しみも、よくわかるまい、それだけに、まだ、世の中といふものが、わかつてゐないのだ。一人の人間の命を、わしは決して軽く見てゐるわけではなかつた。殊に、お前にとつて尊いものを、わしが奪ふといふ法はない。わしは、わし自身の選んだ道を取ることにしよう。そこで、くれぐれもお前に云つておくが、山を降りたら、まつすぐに東京へ帰りなさい。決して、あのおとねのゐる家へ足を向けるんぢやないよ。あの女は、お前を、どんな方向へ引つ張つて行くかもしれない。あの女の言ふことは、取るにも足らないほど馬鹿げたことだ。しかし、あの女のすることは恐ろしいよ。恐ろしいといふ意味は、相手にきつと、心の動揺、つまり、何等かの影響を与へるといふ意味だ。あの女の何処かに、見どころがあるとすれば、わしにだけさう見えるのかもしれんが、そいつはつまり、不純なものゝ美しさだ。わしは、どういふわけか、さういふところにだけ心を惹かれたのだ。だが、お前は、お前こそ少くとも、純潔を保つてゐて貰ひたい。お前の過去は、二つ傷をもつてはゐるが、決して、それは汚れたものではない。その点、わしは、お前を信じ、また、お前のために矜りを感じてゐる。初めの男は、たゞ、お前を裏切つたのだ。二番目の男には、これは、お前といふ女がわからなかつた。何れも、お前に罪はなく、お前は、お前の心のやうに清浄無垢だ。
二葉 …………。
州太 たゞ、わしが、どうにも気がゝりなのは、お前が、その総てを、どんな男の手に委ねるかといふことだ。その男が、果して、お前の総てを、わしと同じ眼で見てくれるかといふことだ。
二葉 (訝しげに父の顔を見守る)
州太 こんなことを云つてゐても仕方がない。お前は、お父さんにかまはず、これから、来た道を下へ降りるといゝ。迷ふ気づかひはない。それとも、やつぱり、日の出を見てからにするか。もう、そろそろ、夜が明けて来た。
二葉 かうして、お父さんのお話を聴いてゐると、今、眼の前に起らうとしてゐることが、なんだか、自分とは関係のないことみたいな気がしますわ。そんな筈はないのに、どうしてゞせう。やつぱり、そんなことは起らないにきまつてるからだわ。さうよ。さ、もう、あたし、なんにも見なくつていゝから、すぐに引つ返しませう(父の腕を取り、無理に起たせようとする)ようつたら……。こんなところに、何時までもゐちやいけないわ。
州太 (やつと起ち上り)さ、お前は、此処にゐない方がいゝ。それぢや、二葉、気をつけて帰りなさいよ。(噴火口の方に近づいて行く)
二葉 (驚いて)お父さん……何処へいらつしやるの。(追ひ縋り、その腕を捉へて)いけません。止して、ね、止して……後生だから止して……。あゝ、誰か来て頂戴……。
州太 二葉……。(哀願するやうに)どうか、お父さんのすることを赦してくれ。こんな意気地のない父親は、天下に二人とはゐまい。だが、いくら蔑まれても、憎まれても、わしは、どうすることもできんのだ。(殆ど狂はんばかりに)あゝ、誰か、今、わしを殺してくれるものはないか……。
二葉 お父さん……。そんなに生きてゐるのが苦しいの? あたしが……。あたしがゐるつていふことが、なんにもならないほど苦しいの? それぢや、いゝわ、あたし、一緒に死んであげるわ……。
州太 え? ほんとか?
二葉 ほんとよ。えゝ。あたし、決心してよ。どうしたつていふんでせう……。自分でもわからないの。死ぬなんて、いやだと思つてたのが可笑しいくらゐだわ。もう、なんともないわ。たゞ、怖いだけよ。怖いわ、死ぬの……。でも、お父さんと一緒なら、怖くないか知ら……。あそこまで行つてみませうよ。(歩き出す)
州太 怖くはない、怖いもんか。さ、しつかりお父さんにつかまつておいで……。あの崖の端まで行つたら眼をつぶりなさい。
二葉 あたし、今から眼をつぶつてゝよ。あら、よく歩けないわ。(間)まだなかなかね……。
州太 まだなかなかだ……。ちつとも苦しくはないよ。煙にさつと包まれたら、それでもういゝんだ。からだが、ふはりと、宙に浮くだけだ……。
二葉 もうぢきでせう……。あゝ、あたし、いゝ気持だわ……なんだか、楽しみだわ……どんなところへ行くんでせう……。
州太 ……。
二葉 ねえ、返事をして頂戴よ。黙つてちやいやだわ……一人ぽつちみたいで……。
州太 (声が出ない。もう断崖の頂に来てゐる)
二葉 どうしたの、え、お父さん……どうして停つてるの……。震へちや駄目よ……。
州太 顫えてなんかゐないさ。わしも歩きにくいだけだ。
二葉 硫黄の臭ひね。息がつまりさうだわ。
州太 (決然と)さ、いゝか……。そらツ……(グイと、娘の背を抱へた腕に力をいれ、共々、前に躍り出ようとする)
二葉 (この瞬間、ぱつと眼を見開くと同時に、狂ほしく)ちよつと、待つて……(かう叫んで、側らの岩にしがみつく)
州太 (娘の手を握つたまゝ、励ますやうに)どうした!
長い、息づまるやうな沈黙。
やがて二葉は、岩から、ぢりぢりとからだを離し、こんどは、父の手を振り放すやうに、自分で、噴火口めがけて飛び込まうとする。
州太 (無意識に彼女の肩に手をかけ、鋭く)おい、待てツ!
が、二葉の足は、もう地上を離れてゐる。州太は、彼女の肩に手をかけたまゝこれも、引摺られるやうに崖へ姿を消す。
地平線上の空は、次第に明色を帯び、やがて、高山より見下ろす独特の曙光を反射しつゝ、山頂は、今や、黄褐色の地肌を生々しく現しはじめる。
その時、崖の一端に突き出た熔岩の鉛色の蔭から、二葉の姿が──それは恰も、「自然の意志」が彼女を起らせたかのやうに──ほのぼのと浮び上つて来る。
彼女は、半ば眠つてゐるものゝ如く、ぐつたりと、からだを岩にもたせかけるが、そこで、極めて徐々に両眼を見開く。
それと同時に、遥か向うで、今頂上に辿りつかうとする登山者の一隊が、所謂「御来光」の壮観を前に、高々と、何やらの歌を合唱しはじめる。
底本:「岸田國士全集5」岩波書店
1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「浅間山」白水社
1932(昭和7)年4月20日発行
初出:「改造 第十三巻第七号」
1931(昭和6)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2008年3月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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