キド効果
海野十三





「うふふん。──」

 と咳払せきばらいをなされた木戸博士は、ご自分の計算机からお立ちになり、ズカズカと助手の丘数夫おかかずおの席までお出でになった。

「こういう事になったよ。──」

 と仰有おっしゃると、丘助手の前へ、三枚の曲線図をバサリと投げだされた。

「……」

 丘助手は、突然の博士のお出でに、思わずえりただして立上った──というより、飛上ったという方が当っているかも知れない。何しろ丘数夫は、この研究所では新参者しんざんものなのであるから。

「この第一図、第二図、第三図の三つを見給え。すべては明瞭めいりょうすぎるほど明瞭じゃ」

 博士は Fig. 1 Fig. 2 Fig. 3 と、英語で図番号をうってある三つの曲線図を、一列にキチンと並べられた。

「はア──」

 丘助手はとみに返辞もなりかねて、図面の上に視線のいなずまを降らせた。

(測定者・木戸とあるからには、これは先生の測定されたものに違いない。なんだか山の形をした曲線が出ているが、第一図のと第二図のとは富士山のような形だ。第三図のだけは、二見浦ふたみがうらの夫婦岩を大きくしたように、二つのこぶがある。これは一体なんのことだ)

 と丘助手は三つの図案を見較べ、ちょっと小首をかたむけた。

「実に明瞭じゃろうが……」

 と木戸博士は、おひとりで感にえながってられた。

「はア、はア──」

(で、これは早く三曲線の意味を呑みこまないと、先生に対して申訳ない──申訳ないらしい)と丘助手は一生懸命に理解しようと、三曲線をその網膜もうまくに送りこんでいる。(容疑者の烏山からすやま磯谷いそたに犬塚いぬつか──すると、これは三人の容疑者に関するものらしい。三人の容疑者と……ハテナ……)

「ウン」と思わず口走って、

(そうだ。あの事件の容疑者のことかも知れないぞ)と彼は、ようやくのことで思いだした。

 あの事件──とは?

 それについて筆者わたくしは、次に短い紹介しょうかいをして置きたいと思う。





 満洲まんしゅうの、ずっと北の方の話である。

 地図を開いてごらんになると判るが、東支とうし鉄道が黒竜江省こくりゅうこうしょうを横断している。

 なおよく御覧になると、この東支鉄道は大興安嶺たいこうあんれいをプツリと横断しているのだ。場所は博克図ブヘド駅と興安駅との間においてである。そしてもっとくわしく云うと、この両駅の中間に「興安嶺隧道こうあんれいトンネル」と名付けられた長さ三キロメートルつまり三十ちょうちかくもある大トンネルがあって、これが興安嶺をプツリと横断しているのだ。あの事件というのは、実にこの隧道内に於て起ったものなのである。

 さて事件のあった朝というのが、ことやや旧聞きゅうぶんに属するが去年の夏八月の某日のことだった。午前七時丁度ちょうどという時刻にこの博克図ブヘド駅を問題の列車は興安駅の方へ向って進発したのだった。長時間の夜汽車だったもので、室内は煙草のひどい煙と、悪食あくじき乗客の口臭と、もう随分永く女なしでいる若い旅行者たちの何というかオトコ臭い匂いとで、ムッとせかえるような実にえがたい一夜だった。それが間違いなくやってきた黎明れいめいと共に、ガタンと落とした窓からスースーけていってしまって、代りに新鮮な空気が、新鮮な朝という容器に盛られてみなみなにすすめられ、ホッと蘇生そせいしたような気持になった。殊に列車が博克図ブヘドを出てからは、窓外にスクスクと伸びた白樺しらかばの美林が眺められ、乗客も乗務員ももう何事も忘れて、むさぼるように朝の空気を肺臓へ送りこんでいた。

「あの白い白樺の幹と、女の股とは、どっちが色が白いだろうなア」

「ウン。うわッはッはッ」

「うわッはッはッ」

 神をも恐れぬというべきであろうか、何といっても此処は奥地を走る列車内のことである。こんなあられもない言葉を吐き出す一団が、ひと車輛全部を貸切りにしていても、あえて驚くにはあたらない。

 この一団というのは、開発移住団と称して一行四十名かたまりとなってくりこんできた連中なのであるが、開発の美名に隠れて何をするつもりか判ったものではないギャング一味だった。それも、銀行を襲ってケチな金を奪い、後ですぐ検挙されるような青いギャングとは少しギャングが違うので、非常に統制と訓練とに富んだ云わば本格的暴力団ともいうべき種類のものであった。一行は赤でもなく白でもなく、親分「岩」に率いられてその胸三寸次第で如何様いかようにも突入していったのだった。

 ただしの「岩」こと岩丘いわおか岩九郎はその物凄ものすごい腕前をもって、単なる風来ふうらいギャングとしてでなく、或る有力者を脅迫し相当大ぴらに行動していた。それは、このしからぬ一味が、当局の厳しい取締の網目あみめをすりぬけて満洲を堂々と貸切列車で押し進んでいっているということから考えても、それとうなずけるだろうと思う。──筆者わたくしは簡単にしゃべると断って置きながら、「岩」一味の説明に大変手間どってしまった。

 さて此の一団の乗った列車は、白樺の美林びりんをめぐる二十七曲りをどうやら切り抜けた末、

「ぽーッ」

 と警笛一声、例の長さ三十町もあるといわれる興安嶺隧道こうあんれいトンネルのなかへもぐりこんだ。

 たちまち轟々ごうごうとひどい隧道内の反響だった。明るい室内の光線が急に曇り、黒インキがどッと流れだしたように暗闇が押しよせてきた。

「ああ」

 誰かが低い声で叫んだ。

「ああ、電灯がかない……」

 別の声が呻吟うめいた。

 矢のように走り去る光線だった。僅かに残光ざんこう窓枠まどわくの四角な形を切り出していたが、それも取紙とりがみで吸い取られるように薄れていった。そして遂に黒インキのような絶対暗黒がやって来た。その絶対暗黒という魔物は、なおも恐ろしい力で室内の空間をし拡げていった。

 レールの上に狂奔乱舞する車輪の殷々いんいんたる響が耳底を流れてゆく──それだけのことの感覚で、乗客たちは自分が生きているということをかろうじて認識した。

 しかし正確にいえば、この間自分の生きていることを既に認識し得ない乗客が一人あったのだ。

「ウーム」

 という低いうなり声を耳にした者は、かなりにあった。

 はッ──。

 と思う間もなく、ガーンと厚い鉄板を一つ叩きつけたような音がして、それに引続き遠くの彼方へ地震が動いてゆくようなとでも云うより外に云いあらわし方のない気持の悪い振動が、ゴトゴトゴトと向うの方へ遠のいていった。

 ふたたび列車が、パッと明るい隧道の向うへ脱けいでたときには、四十人の団員が、いつの間にか三十九人になっていた。

 ガン、ガン、ガン。

 機関車に近い方の扉が自暴やけに鳴って、やっとそれがガラリと開くと、真赤な顔をした車掌がピストル片手に飛びこんで来た。

「だッだッ誰です。扉を内側からさえていたのは……。けッけッ怪しからん」

 六尺豊かな、まるで角力取すもうとりのような専務車掌は、湯気ゆげのたつような怒り方だった。

 ギャング一団は、鬼がお姫様に化けたように取り澄まし、そっぽを向いて知らぬ顔をしていた。

「いま隧道トンネルの中で、何か変事があったと後部車掌が報せてきたのに、これじゃ駈けつけることが出来ないじゃないですかッ。もしも重大なる変事だったら……」

「おおい、此処だア」と其の時、一輛後車室の窓から後部車掌が声をかけた。

 前部車掌は車室を縦走じゅうそうして、後部車掌のところへ飛んでいった。

「あれを見ろッ」

 後部車掌は真青まっさおな顔をして、握ったピストルのふるえる銃口じゅうこうで指し示した。

「うわッ。──やったナ!」

 前部車掌の顔面も、たちまち真蒼まっさおに変っていった。

 車輛と車輛との間が、鋼鉄車体こうてつしゃたいのところといわず、連結器のところと云わず、真赤な血飛沫ちしぶきがベットリ附着し、下の方へしずくがポタポタとちていた。墜ちた真赤な斑点はんてんは、レールとともに飛ぶように後へ走った。

 過失? 故意?

 二人の武装車掌は、ツと寄って耳打ちをすると強くうなずき合った。そして両方に別れると何喰わぬ顔をして、貸切車室の両出口に立ちふさがった。

 本部からは既に此の列車へ、例の一味を警戒すべしという電報がきていたし、隧道トンネルに入って不思議に電灯が点かなかったこと、そこへ今の惨事さんじが発生したこと、これだけあれば車掌たちのるべき手段は至極しごく明瞭めいりょうだった。

 果然かぜん、列車が興安駅にくか著かないうちに、早くも警備軍の一隊がドヤドヤと車内に乱入すると、矢庭やにわに全員の自由を拘束こうそくしてしまった。





 興安嶺こうあんれいトンネル殺人事件!

 丘助手は改めて第一図、第二図、第三図を見直したのだった。

「うふふん。──」

 と咳払せきばらいをなされた木戸博士は、乾枯ひからびた色艶のわるい指頭ゆびさきを Fig. 1 に近づけられて仰有おっしゃった。

「興奮曲線──と名付けるわしの研究じゃ。どうしてこの曲線をえがくか。それはZ・F・P誌ツァイトシュリフト・フュール・フィジーク一九三〇年九月号第三〇ページに出して置いたところで明らかじゃ。要するにそこの隅にある自記じき装置でこれだけのものが画けるんじゃ。およそ人間というやつは、興奮の振動体のようなもので、いつも二十四時間、なにかかにかの興奮に神経をがしている。腹が減ってくると、食慾が起り、牛肉のスキ焼がべたいとか天丼をムシャムシャやりたいとか興奮してくる。夜となれば昼間の精神的刺戟がおりの如く析出せきしゅつしてきてこれが夢という興奮をもたらす。興奮のない人間というのは殆んどまれじゃ。

 興奮は神経的なものじゃから、電気現象の一種と考えることができる。そして電気現象であるによって其の強さを測定することが出来る。強い興奮はメートルの針を大きく振らせ、弱い興奮はメートルの針を少しばかり動かす。ところでじゃ。わしさきZ・F・Pツェー・エフ・ペー誌に発表したとおり、わしは興奮を其の種類によって分析することに成功したのじゃ。これは何しろと通りやた通りの苦心ではなかった。……」

 そこで木戸博士は、研究当時の苦心をしのぶかのようにジッと瞑目めいもくし、しばし手を額の上に置かれたのだった。

「実に骨を折ったものじゃ。しかし結果をいえば至極簡単である。興奮の種類を分けることは、丁度ちょうどラジオ受信機の目盛盤めもりばんを廻すと、その目盛に応じて各所の放送局が出てくるのと同じことじゃ。東京の第一放送が出ているのを、すこし廻すと広島FKの放送が出る。もっと廻すと札幌のIK、名古屋のCK、新潟のQK、熊本のGK、静岡のPK、仙台のHKなどという具合に、二十七ヶ所の違った放送が目盛盤のひねりよう一つで出てくる。

 それと似た仕掛けを、例の装置の中にもうけてさえ置くと、興奮の種類を分けることが出来るばかりか、さまざまの興奮の強さを知ることが出来る。ラジオの目盛盤をひねって各局を聴いてみると、東京の第一放送は強いが、広島の放送は大変弱いとか、札幌のは全然感じないとか、次の名古屋のは東京第一ほどではないが相当に強いとか……そんな風に強さを比較することが出来るのと同じじゃ。つまりAの興奮は強さが2で、Bの興奮は強さが5で、Cの興奮は強さが10、Dの興奮は強さが7などという風に、強さがメートルの上にあらわれる。それを図に画くと、Fig. 1 のような曲線になる。よいか──」

 木戸博士は鉛筆を手品師のように何処からともなく取出されて図面の端にスラスラと数字を書き並べられたことである。

「まずAが2じゃ。すると横の軸に『興奮の種類』がとってあって、そのの上に、強さを示す縦の軸の数字2の高さに一つの点をXと記す。次に隣りのの上に、興奮の強さをあらわすの高さをとりX印をつける。それからの上には、一番強い10の高さのところにX印を書きこむ。──こうして求めた点はもっと多いのじゃが、その点で線を横につなぐとこの Fig. 1 のような曲線になる。この曲線を一と目見れば、其の人間に宿っている興奮が手にとるようにアリアリと判る。そこで次の Fig. 2 Fig. 3 も、同じ手段で興奮曲線をとることが出来たのじゃ」

 測定者・木戸──とサインされてあるの貴重な三つの曲線の意味は、ようやく助手の丘数夫の頭脳に朧気おぼろげながら理解されるに至った。しかしAとかBとかCとかいう興奮の種類は、じたい如何なる興奮を示すのであるか、容疑者の烏山からすやまとは誰か、磯谷いそたにとは、犬塚いぬつかとは?





「先生」と丘助手が呼びかけた。

「うふふん。──」と博士は咳払せきばらいをもって答えられたが、講義の腰を折られたことを腹立たしく感じていられることは、その咳払いの調子からソレと察せられるのだった。

「先生。これは例の興安嶺殺人事件と関係のある問題なのでございますか」

「……」博士は無言で、しばしは口をモゾモゾせられたが、これは変者かわりものをもって鳴る博士の性状せいじょうとして「しかり」を意味するものにほかならぬ。「それで三十九人の同車していた連中について、この興奮曲線をとったのじゃが……」博士の話はイキナリ実験の話へ飛んだのである。

 博士としては無理もないことである。理学博士木戸信之きどのぶゆき氏は真面目なる学徒以外の何者でもない、したがってシャーロック・ホームズでもファイロ・ヴァンスでも、また帆村荘六ほむらそうろくでもないから、事件の続き具合などを話す気持はない。これは筆者が鳥渡ちょっと解説をして置こう。

 40-1=39で、三十九人の残りの人々の上に、殺人の嫌疑けんぎが落ちた。殺人であって自殺ではないことは、のちに隧道の中から探し出された轢断屍体れきだんしたい咽喉部いんこうぶに残る紫色の斑紋はんもんから明らかなことだった。扼殺やくさつ──つまり喉を締めたのだ。そして屍体を窓の外へ突き落としたのだった。屍体といってもまだ生暖なまあたたかいやつが、車輛と車輛の間からレールの上に落ちるが早いか、ザクリとやってしまったのだった。パッと飛び散る血潮が車輪から車体の下部から周囲一面を真赤に染めた。

 さてこれは本来ならば、大した問題にもならず、通り一遍いっぺんの刑事問題として扱われ、適当な人間が犯人と名乗り出て処刑されれば済む筈だった。だが本件に限り甚だ面倒な事情があった。殺されたのは、「松」こと椎名咲松しいなさきまつという男であって、これは団員となっているが、実は其の筋の密偵みっていをつとめていた人物だった。椎名咲松の殺されたことはおおやけに対しての挑戦と見られた。そこで事件は俄然がぜん複雑な雲行きとなって、其の筋では其処に立ち現れたにせのロボット犯人をオイソレと受取って処刑するのでは、一味への威厳上いげんじょうどうしても好ましからぬことであった。どうしても真犯人を見出して処刑し、永年のがんであった彼等一味の、のさばり加減かげんたわめる必要があった。

 ところで犯跡を調べるということになると係官はハタと当惑しないわけにゆかなくなった。それというのが、なにしろ同車していた三十九名は皆一味のもので、親分の岩の命令でたがいに連絡をとり、決して都合の悪い真実をしゃべろうとはしなかった。そればかりではない。なにしろ真暗な隧道内の出来ごとだ。調べるにして調べるべき問題がない。犯行のあった時刻の前後五分間というものは、全く暗黒だったのだから。今から内地の優秀な係官を派してもこれも駄目だった。証拠とすべきものが非常にすくない上に、悪にけた三十九名が気を合わせて証拠湮滅しょうこいんめつをはかるのだから、これは探し出そうという方が無理である。

 遂に万策ばんさくつきて、むなく木戸博士の出馬しゅつばわねばならぬこととなったわけだった。博士も自信は大してあるわけではなかったが、考えの末自分の研究装置に多少の改良を加えて、これに臨むこととなった。そこで三十九人の生き残った一味に対して、「興奮曲線」がとられたのだった。三十九枚の曲線から、博士が最後に摘出てきしゅつしたものは三枚で、これが烏山からすやま栄二郎、磯谷狂助いそたにきょうすけ犬塚豹吉いぬつかひょうきちという人間から得たものだった。三人は未だに、博士の研究室に監禁せられている。他の三十六人は釈放せられ、或者は再び満洲に赴き、或者はもう断念して他へ足を向けた。

「……その中でわしの注意を集めたのは、この烏山、磯谷、犬塚の三人の容疑者のものじゃ」

 と博士は語られる。

「一体この興奮曲線の種類に、ABC云々うんぬんと区別することは出来ているのじゃが、Aは何の興奮、Bは何の興奮という風に、全部がハッキリ判っているわけではない。目下わしは研究中なのだが、まだ完全でない。しかし今度の問題を解くには充分間に合う。というのが、此のという興奮は憎悪ぞうおとか嫉妬しっととかいう種類のもので、このようにいちじるしいのは三人に限る。殺人の動機としては、充分に憎悪なり嫉妬の興奮がないと、手を下せないものじゃ。この三人のみに、このC興奮があることがわかった。過去現在将来に人殺しをするとすればこの三人の内じゃ。

 ところで Fig. 1 と Fig. 2 の烏山からすやま磯谷いそたにの両名のものは先ずよい。注目すべきは Fig. 3 の容疑者犬塚いぬつかのものじゃ。これにはF興奮と名付けるべきものが、極めて著しく出ているではないか。このF興奮とは何ものかというに、これはわしの研究結果によると、実に殺人興奮を現わすものなのじゃ!」

「するとの犬塚という人が、殺人者なのでございますか」

 丘助手は、あまりに明瞭な結果に舌を捲いて叫んだ。

「そうじゃ、犬塚豹吉が椎名咲松を締め殺して、列車から突き落したのじゃ」

「ああ、それにしても……」丘助手は、博士の門に入ることの出来た喜びを沁々しみじみと感じたことだった。「この憎々にくにくしくそびえ立つ殺人興奮の曲線?」

「これさえ見れば如何なる悪漢あっかんといえども犯行はんこうかくしきれるものではない」

「先生。では此の装置を早速さっそく大量に製作して全国の法廷と警察に送られては如何でしょうか。無駄な取調べを廃して、直ぐ事実が判明するわけですから、司法上の一大改革だと思います」

「だがしかし……。うふふん」と木戸博士は首を左右に振った。「この興奮曲線を取るには非常な熟練が要るのじゃ。大学院を出てきた君にすら、こうはうまく取れない筈じゃ」





 理学士の称号を貰い、三年の大学院の研究を終えて来た丘助手にとって、博士の仰有った一言は、いくら木戸博士とあおぐにしても、てになり兼ねた。そこで彼は博士に熱心にうて、例の装置をつかって、例の犯人から興奮曲線を測ることを許して貰いたいと頼んだ。

「じゃ、やって見給え」

 博士は遂に折れて、丘助手の望みをかなえて呉れた。

 丘助手は、監禁室から犬塚を引張り出すと、実験室の台上に引据えた。そして其の身体の直ぐ近くに装置をはこぶと、複雑なスウィッチや抵抗器やダイヤルを操って、興奮曲線を出すために数値データを観測したのだった。

 そしていよいよ書き上げた曲線というのが、第四図に示すようなものであった。測定者という項目には、「丘」と肉太のサインを入れることを忘れなかった。

「ほほう──」と博士は提出された Fig. 4 を、博士が前に同じ犬塚についてとった Fig. 3 と並べてみて、妙な声をあげられた。

 笑われているのか喜ばれているのか、丘助手にはしばしが程は全く不明だった。

「これは相当なもんじゃ」と博士は鼻眼鏡をはずしながら仰有った。「C興奮とF興奮とが明瞭に出ているね」

「ははア──」丘助手は先ず安心をした。

「だがじゃネ」と博士は鼻眼鏡で丘の作った曲線図を叩きながら仰有おっしゃった。「まだまだ実戦にのぞむのには青いじゃよ。これ見給え、例えばC興奮じゃ。わしの結果でも三人の内で此の犬塚が一番低いけれどかくも8を越えている。しかるに君のは 5.5 ぐらいだ。肝心のF興奮はまた莫迦ばかにひどく出ている。見たところ曲線の形も僕のとは大分変っているじゃないか。これが熟練と不熟練との相違じゃ」

仰有おっしゃる通りです」と丘助手は恐縮きょうしゅくした。

「それからもう一つ此処を見給え」と博士は第三図のK興奮のところを指した。「ここのところにいちじるしくないが、K興奮が出ている。君のはまるで男の胸のように扁平フラットで、何も出ていないじゃないか」

 なるほど博士の測定した分には、第一図から第三図まで、ここのところに少し高いところが出ているのに、丘助手のには無かった。可也かなりやったつもりだったが、どうしても出なかったのだった。

「どうも有難とう存じました」恐縮しきった丘は、そこでヒョコリと頭を下げた。





 それから二ヶ月の月日が流れた。

 其の日、丘助手は午前中大学に出勤するばんに当っていた。彼は例のとおり第二十八番教室に出て、十四五人の理科の学生のために、「脳組織に於ける電気振動論」を講義していた。

 そのとき入口のドアがパクリと開いて、一度も笑っている顔を見たことが無いといわれる用務員・喜見田きみだが入ってきた。彼は無言のまま教壇に近づくと、一枚の紙片をその上にせ、まるで何事もなかったような顔をして、又前の入口から出ていった。

(何ごとだろう?)

 丘先生──すくなくとも唯今の時間、この教室に於ては──黒板に書きつらねている数式を途中でやめて、机の上の紙片を見た。そこには次のような鉛筆の走り書がしてあった。

「木戸博士から再三再四電話がかかってくるので、時間中ながら鳥渡ちょっとお伝えする。いわく、大学の講義なんかいい加減にして早くこっちへ帰って来ないと首にするぞ、とさ。松下生まつしたせい

 松下というのは、丘よりも一年前に卒業した助教授の名だった。

 これで見ると、何か急用が出来たらしい。真逆まさか学生たちに「講義なんかいい加減にしろといわれたから」と云って退場するわけには行かないから、急用だといって講義を打切った。

 自動車を拾い、あわてて木戸博士のところへ帰って来た丘助手は、室に入るなり、博士の様子がお違いになっているのにおどろいた。あの沈着な博士が、まるで檻の中に入れられたライオンのように、室内を歩き廻っていられるのだった。無論、丘助手が入って来たことなどには気のつかれぬ模様だった。

「先生。唯今帰りました」と丘は声をかけた。

「おお、丘君」博士は興奮にギラギラ輝く眼を助手の方に向けて叫んだ。「いや、大変なことを発見したのだ。わしはそれに「キド現象」という名称をつけたよ。それでただちにわが学界へ発表すると同時に、英米独仏の四ヶ国の学術協会へ原稿を急送したいのだ。君、直ぐに翻訳にかかってくれ給え」

 丘助手は、博士が錯乱せられたのかと一時は考えた程だった。しかし事情は段々と判った。

「……そういうわけで、わしは興奮曲線の中から、さらにK曲線を摘出することに成功したのだ。これ見給え」

 そういって博士は、Fig. 5 と書いてある第五図をご自分の机の上からもぎとるようにして丘助手の前に置かれた。その図を見ると、これは今までの曲線図とはまるで違っていた。K興奮にあたるところに、僅かの隆起りゅうきのある曲線で、わざわざ「木戸現象きどげんしょう導出どうしゅつするに至りたる根拠の曲線」と書き込まれていた。

「これがK興奮曲線といいたいものだ。これは前から疑問に思っていたのだが、例の三人の容疑者烏山、磯谷、それに真犯人の犬塚の三人の興奮曲線の中にも、それぞれ認められる隆起なのだ。強さは殆んど一様だ。他のいちじるしい興奮を消してみると、結局この Fig. 5 になるのだ。この三人に共通なK興奮なるものは、一体何を意味するものだと思う。答え給え」

 博士は正面からズッと丘助手をにらみつけるようにして云われた。

「さあ、私には判りませんですが」

「判らん? じゃ教えてやろう。これは異常興奮なんだ。精神異常者としての素質のあるのを物語る興奮なんだ。そして此の異常性興奮のあるのは例の三人だけではないのだよ。興安嶺隧道こうあんれいトンネル殺人事件に関係のあった残りの三十六人について測定した曲線にも、少しずつ現れているのだ。わしが其の他に測定したものにも大抵たいていK興奮の隆起がでている。つまり結論はこうだ。『人間は誰人だれに限らず、精神異常の素質を有す』ということになる。素敵な発見じゃないか」

「例外はないのですか。つまり、ソノK興奮のない人間は……」

「有るには有る。しかし最近わしの測定した分には全てK興奮がある。無いという例外は、古い昔に測定したものの中にチラホラするだけで、それは問題は無いと思う。かく、人間は誰でも精神に異常を来す素質があるんだ! なんとこわいことではないか。丘君」

「イヤ恐ろしいことです」

 いい気持のしない第五図から眼をはずすと、丘はツと立って、翻訳に使うため、辞書の並んでいる書棚の方へ歩を運んだ。





 キド現象げんしょう

 それを発見した木戸博士の名声は、世界の学界を照す太陽の如く、赫々かくかくとしてうち昇った。さもあるべきことで、一年前には、興奮曲線を一人一人の人間の身体について取ることに成功した博士が、短日月の間に更に興奮曲線の分解に成功し、異常興奮曲線を摘出てきしゅつしたばかりか、人間にあまねく異常性素質の潜在していることを指摘し、これをキド現象と名付けたのだから、誰しもおどろくのも無理はなかった。今や博士の心理物理学とでもいうべき学問は、世界開発の将来の鍵を握るものだとして、にわかに学界の注目の標的ひょうてきとなった。

 ところが突然、全く突然に、キド現象の発見者木戸博士が失踪しっそうせられた。

『木戸博士の行方不明に世界学界は大恐慌だいきょうこう!』

『ドクター・キドは失踪後五日をるも、何等消息発見されず!』

『木戸博士は何者の手に誘拐されたか。キド現象と興奮曲線にまつわる因縁いんねん!』

『懸賞金一百万円。木戸博士を無事に自邸じていへ返したものに送る!』

 などと、新聞やラジオは博士の失踪のことで持切りだった。

 だがどうしたものか、博士の消息はようとして聞えなかった。

 そして或る日、警視庁の捜査課長が、博士の研究室に、留守居るすいの丘助手を訪ねた。丘数夫は折りふし、として机の上に拡げた学位論文にペンを走らせていたが、課長の姿を認めると、ペンを留めて元気よく声をかけたのだった。

「やあ、ようこそ、大江山さん」

 大江山は捜査課長の苗字みょうじだった。

「また御邪魔に参りましたよ」課長は照れくさそうに云った。「今日は御約束の十三日でもありまするし……」

「僕も忘れやしません。ですが警視庁のお見込はどうなったんですか」

「そいつを聞かれると、大いに憂欝ゆううつになるのですがねエ」と大江山課長は禿かかった前額まえびたいをツルリと撫であげた。「いつかのギャング一味が邪魔になる木戸博士をやっつけたものと考えて方針をてたのです」

「すると──」

「ところが、どんなにやってみても、一向に駄目なんです。調べれば調べるほど、彼等ギャング一味に関係のない証拠が上ってきて、実際困りましたよ。今度という今度はネ」

「それで……」

「それで──とは痛い御言葉ですな。こうなれば、貴方の御説を拝聴するより外に、みちがなくなったんです」

「そうですか」と丘助手は大きく肯いた。「では今までのがかりを忘れて、僕の説をお話しいたしましょう」

 そういうと丘は机の上から、沢山の曲線図を抱えてきた。

「また曲線図ですか」

 課長はが笑いをした。

「徹頭徹尾、この曲線図ですよ」と丘助手はニヤニヤ笑った。「さあ御覧なさい。これが有名なる木戸博士のキド現象の曲線図です」

 そう云って既に知られている第五図を課長の前に置くと、別に第六図というのを取出して、この両図を並べた。後の方には明らかに、「測定者・丘」という署名があった。

「横に並べた Fig. 6 というのは、実は僕の研究の結論なのです。キド現象を現す Fig. 5 の方を抹殺まっさつして、代りに此の方を皆さんにおすすめしたいのです」

「なんですって?」課長は目を見張っておどろいたのだった。

「こっちには曲線がないじゃないですか」

「あるには有るのです。ほら──」といって丘は図の横軸のく近くにある、まるで平坦な、力としても有るか無いか判らぬ位の曲線を指した。「この有るか無いかの曲線──つまりこれはラジオで云うと、放送ではなくて、雑音と同じようなもので、本当はなんにも無いものなのです」

「ほほう──」課長は狐につままれたような形だ。

「言葉をかえていうと、『人間には誰にでも必ず精神異常の素質がある』というのがキド現象です。僕のは『人間には誰にでも精神異常の素質があるとは云えない』という反対の結論なんです」

「精神異常の素質がないというのですか。そいつは一応有難いことだ。しかし博士のには確かにK興奮が多数の人からとった曲線に出ていますよ。失礼ながら、貴方の測定の誤りではないのですか」

「お疑いは御尤ごもっともです」と丘はニコニコ笑って云った。「しかしこれには根拠があるのです。実は僕は木戸博士の御測定に或る疑問をもって、く最近のことですが、大学の理科主任教授里見さとみ先生立会たちあいの上、例の容疑者三名について興奮曲線を取り直してみたのです」

「ああ、有名なる里見謙先生ですか」

「そうです。里見謙先生です。ところが結果は予想通りに木戸博士のとは違って出ました。これです。第七、八、九図の三つです。木戸博士の測定せられた第一、二、三図を並べて見ましょう。どうです。博士の方のには同じ形のK興奮が、どの曲線にも現れているのに、僕の測定した分には一つも出ていないのです。どれもこれも男の胸のように──博士はいつだかも、そんな風に云われましたが──興奮のところは、たいらなんです。これが本当の曲線なんです。こうもあろうかということは、ずっと以前、僕の入所当時ですが、恰好の悪いながら、第四図というのを取ったときに、この扁平なのが出たので、鳥渡ちょっと疑いをもったのです。其の後いろいろ研究の結果、一層確信するに至りました」

「すると博士のキド現象に現れているK興奮は一体どうなるのです。またそれが博士の失踪しっそうとなにか関係があるのですか」

「実にお気の毒なことですがね」と丘は顔をくもらせて云った。「博士には精神異常の素質が潜在していたのです。博士は多分それにお気がつかれなかったらしい。測定者木戸博士のその異常興奮が、博士の測定されるあらゆる実験結果の中に混入していたのです。あたかも測定される方の人間に精神異常の素質があるように誤解されていたのです。これは外にも似たようなことがないでもないのです。「身体効果ボデー・エフェクト」というのも其の一つですが、測定者が身体を装置に近づけ過ぎると今まで地球の方へ逃げていた電気が、今度はその身体を通って逃げてゆくため誤解を生ずる──という効果をいうのです。木戸博士の身体に隠れていた異常素質が、興奮曲線に誤りを混入こんにゅうさせたんです。『キド現象』というおそろしい発見は要するに間違いだったんです。此の誤差ごさ混入の効果を、われわれは『キド現象』と呼ぶ代りに、これから『キド効果エフェクト』と呼ぶことにしたいと思います。第五図のあのK興奮の曲線は博士が、不識ふしきのうちにみずからこの『キド効果』を摘出てきしゅつされたのに過ぎません」

 そういって丘数夫は口をつぐんだ。

「すると今、木戸博士は……」

 大江山課長が口に出した。

「そうです。先生は悲しい運命のゆびさすままに到頭とうとう発病せられたのでしょう。その動機というのは、『キド効果エフェクト』つまり昔のキド現象を発見されたという、その大きな興奮に刺戟しげきされてかくれていた異常素質がドッと爆発したのだと思います」

 丘数夫はもうそれ以上に、気の毒な木戸博士のことを口にする勇気はなかった。

底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房

   1991(平成3)年228日第1版第1刷発行

底本の親本:「新青年」

   1933(昭和8)年1月号

初出:「新青年」

   1933(昭和8)年1月号

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の箇所を除いて大振りにつくっています。

「二十七ヶ所の違った」

「英米独仏の四ヶ国」

※図版は初出からとりました。

入力:門田裕志

校正:宮城高志

2010年99日作成

2011年111日修正

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