秘密の代償
岸田國士



人物

生田 是則  四十九

妻  数子  四十六

息子 是守  二十五

小間使てる  二十一


七月の半ば過ぎである。某省の高級官吏生田是則は、休暇を取つて、家族と共に海岸の別荘へ来てゐる。家族と云つても、妻の数子と、長男の是守。次男の是高は、海が嫌ひだと称し、その代り、夏になると山登りの病気がはじまる。別荘には、番人夫婦がゐるから、本宅からは小間使のてる一人を伴に連れて来た。このてるといふ女は、まだ最近傭ひ入れたばかりであるが、行儀もよし、気転も利くといふので、多少朋輩を抜いて、奥さんのお気に入りだ。難を云へば、必要以上に眼鼻だちが整ひ、上眼使ひに人を見る時などの油断ならぬ艶かしさだ。



ある日の夕方、早く食事を済ました男二人は、退屈しのぎに、近所のホテルへ撞球をしに行つた。

数子は、居間で、次男からの山の便りを読み返し、いつぱし登山家気取りで、また向う見ずなことをしないやうに、もう一度たしなめてやらなければならぬと考へてゐる。


小間使のてるが、洗濯物を畳んで持つて来る。


てる  若旦那様のお襦袢に、なんですか、血のやうなものがついてをりましたんですが、よく取れませんのです。

数子  どら、見せて御覧……(襦袢を取り上げて)どこさ……。あゝ、これかい。これや、お前……。いやだね、びつくりしたぢやないか。蚊でもつぶしたんだよ。

てる  それから、この海水着、どちらが旦那様のでございましたか知ら……。

数子  まだ覚えられないの。毎日見てゝ……。あてゝ御覧。

てる  さあ、こちらでございませうか。

数子  え、どつち……さうだね、かうしてみると、ちよつとわからないね。召してらつしやれば、すぐわかるんだけど……。

てる  それや、あたくしでも……。


二人は笑ひながら、数子は、手紙の返事を書き、てるは、洗濯物を箪笥に入れようとする。この時、抽斗ひきだしを間違へたふりをして、一つの抽斗から、袱紗に包んだ紙幣束さつたばを取り出し、素早く帯の間に挟む。やがて、てるは、部屋を出ようとして、一つ時躊躇するが、思ひ切つて、そこへ膝をつく。


てる  あの、奥様……。あたくし、お願ひがあるんでございます……。

数子  なにさ、改まつて……。

てる  (云ひにくさうに)こんなこと申し上げてすまないんでございますけれど、今日限り、おひまをいたゞきたうございます。

数子  どうしたの、急に……。

てる  いゝえ、別に、どうつていふわけはございません。たゞ……あたくしなんか、こちらさまのやうなおやしきには向かないやうな気がいたしますんです。

数子  それや、また、をかしなことを云ひ出したもんだね。あたしが、これほど目をかけてるのが、お前にだつてわからない筈はないと思ふんだけれど……。

てる  はい、それはもう、いろいろ……ほんとに勿体ないくらゐでございます。

数子  それとも、何かあたしの気のつかないことで、この家に不満があるなら云つて御覧。大概のことなら聴いてあげるから……。

てる  ……。

数子  お給金をもう少しつていふんぢやないのかい。

てる  とんでもない……。そんな贅沢は夢にも考へてをりません。

数子  ぢや、朋輩との折合かい。それなら、こつちへ来てしまへばなんでもないだらう。

てる  はあ、そんなことは、ちつとも……。

数子  あゝ、さうか、こんな淋しいところへ連れて来られて、がつかりしたね。お前は賑やかなとこが好きなんだらう。

てる  いゝえ、淋しいぐらゐなんでもございません。

数子  無論、親許おやもとの事情つていふわけはないね。両親はないんだし……。

てる  はい、そんなことぢやございません。

数子  だからさ、ちやんと、理由を云つてみたらどう? 辛棒ができないつていふんなら、それはかういふところ──そりや、お前、主人の方でいゝつもりでゐても、それが却つてお前たちには辛いつていふやうなこともあらうし……。そんなことなら、改めて改められないこともないからね。兎に角、参考に聴かしてもらひたい。場合によつちや、云ひにくいこともあるだらうけれど、それだつて、あたしは、よその奥さんと少し違つてるつもりだからね。そのために、気を悪くしたりなんか、まあ、しないつもりだ。

てる  ……。

数子  さうして、黙つてるところをみると、よつぽど云ひ悪いことらしいが、なんだらう、一体……。あたし次第で、どうにでもなることかい。

てる  はあ、いゝえ、たゞ、少し、からだの具合が悪いもんでございますから……。

数子  だつて、見たところ、なんでもないぢやないか。だけど、まあ、何処かに病気があるつていふなら、養生ぐらゐさせてあげないことはない。それだけの理由かい……。

てる  いゝえ。実は、ほかにもまだ、申し上げられないわけがございますんです。

数子  あたしに云へないわけ……? なんだらう。そんな秘密があるの、お前には……?

てる  ……。

数子  あたしぢや、相談相手になれないかい。

てる  この上、奥様に御心配をかけては相すみません。

数子  でも、兎に角、云つてみたら……? どうしても暇を取る必要があれば、それやあげないとは云はないけど、そんなに急ぐのかい。代りがあるまで待てないの。

てる  なるべくなら、今夜にでも、帰らしていたゞきたうございます。

数子  ぢや、しかたがない。お前も奉公は初めてぢやなし、暇の取り方ぐらゐ知つてると思ふけれど、それを、代りも入れずにと云ふんぢや、よつぽどのことだらう。あたしにや、もう、見当がつかない。

てる  ほんとに、我儘だとは存じますけど、黙つて御暇をいたゞくのは、なんですか、後がいやでございますから……。

数子  黙つてつて、こゝから逃げ出すことを云ふの? をかしいね……。いゝから、支度をしといで……。

てる  いえ、それも、奥様には、こんなことを申上げられる義理ではないと思ふからでございます……。迷ひに迷つた揚句、そんなことも考へてみたといふまででございます。

数子  ぢやいづれ、東京へ荷物を取りに寄るだらうが、それや、まあ、あとでいゝ。終列車に間に合ふやうに、先へ食事をすましなさい。旦那様方は、お帰りが遅いかも知れないから……。

てる  ほんとに、相すみません……。


てるは、丁寧にお辞儀をして座を起たうとする。


数子  あ、ちよつと……。くどいやうだけど、もう一度いておくがね……。お前が、この家にゐられない事情つていふのが、あたしに関係なく、旦那様なり、是守これもりなりのことで、何か気に障つたことでもあるなら、たゞ、さうだとだけ云つておくれ……。

てる  ……。

数子  それも云へないかい?

てる  もう、どうぞ、なんにもお訊き下さいますな。お願ひでございます。

数子  するとやつぱり、さうなんだね。何か、無理なことでもおつしやつたのかい。

てる  ……。

数子  まさか、旦那さまに限つて、そんなことはないだらうと思ふけど、是守は、まだ、あの通り若いんだし、学生時分にはよくあることで、お前みたいな奇麗な女の子がそばにゐると……、なんていふか、ふと、そんな気を起さないもんでもない。あたしも、世間の母親たちから、さういふ話を聞かされてもゐたし、十分気をつけてはゐたんだけど、あたしの眼から見ると、あんなさつぱりした男の子はないからね。さういふことなら、ちやんと、知らしといて貰ふ必要もあるんだが、是守が、どんなことをしたの?

てる  ……。

数子  黙つてちやわからないよ。何時、どういふことがあつたのさ。

てる  ……。

数子  取返しのつかないやうなことぢやないんだらうね。

てる  いゝえ、そんな……そんな、奥さまがお心配遊ばすほどのことぢやないんでございます。

数子  それにしてもさ、あの子のことは、あたしも、母親として、なんでも知つてゐたいからね。しかしまあ、お前がそれほど、誰のためを思つてか、人に云ひたくないつていふなら、その気持は汲んであげよう。

てる  あたくしは、どうせ身分のないもんでございますから、どうなりましてもよろしいんでございます。たゞ、若しかのことがございますと、こちらさまの御迷惑になると存じまして……。それに、第一、これほど御親切にしていたゞく奥さまに、重ね重ね相済まないといふ気がいたします。いつそ、あたくしが、今のうちに、身を退いて……さう、考へただけでございます。どうか、おゆるし下さいませ。

数子  いゝえ、それを早く云つてくれさへすれば、あたしは、決して、お前の申し出を兎や角云ひはしなかつたんだ。それどころか、精いつぱい、お礼を云ふよ、あたしは……。ほんとにお前が、しつかりしてゐてくれて、あたしたちは、みんな助かつたんだ。それなら、それで、あたしにも、考へがあるから、まあ、さうかずに、先々のことも相談しようぢやないか。この家からは出るとしても、相当のことはしてあげたいからね……。

てる  いゝえ、奥様、そんなこと……そんな御心配をかけるくらゐなら、あたくし、内証で、お暇を頂けばよろしうございました。ほんとに、あたくし、困りますんです。今日のうちに、是非……。それに、この上、みな様のお顔は……。

数子  みな様つて……。あゝ、是守の顔を見るのがいやだつていふのかい。

てる  ……。

数子  旦那様は、なんにも御存じないんぢやないか。

てる  (一度、数子の方を見上げ、意味ありげに、また下を向く)

数子  (それを、眼敏く追ひながら)旦那様は、さうだらう、なんにも……御存じない筈だらう……。

てる  ……。

数子  まさか、お前から、もう旦那様のお耳に入れたんぢやあるまいね。(険しく)まさか……それとも……さういふことが、是守だけでなく……いゝえ、そんな筈はない……そんな馬鹿な……。それごらん、お前が、はつきり云つてくれないもんだから、あたしはこんなに、まごついちまふぢやないか。待つておくれ、今、落ちついて、もう一度訊くから……。

てる  奥様、後生のお願ひでございます。どうぞ、そればかりは、あたくしの口から……。それは、あんまりでございます、奥さま……。(泣き崩れる)

数子  いゝえ。外のことゝ違ひます。あたしは、ほんとのことを知るために、誰に、何んと云つて訊けばいゝんだい。お前が知らしてくれなければ、あたしは、一生、馬鹿な母親、愚かな妻で通るんです。頼むから云つておくれ。返事だけしておくれ。さつきの話は、是守のことなんだね。

てる  (かすかに首を振る)

数子  すると、旦那さまかい?

てる  (そつと数子の顔を見る)

数子  さうなんだね。

てる  いゝえ。違ひます、違ひます。どなたでもございません。

数子  さういふ意味は、つまり、どつちでもない……両方だ……二人ともだ……さういふことかい……。

てる  ……。

数子  あゝ、あたしは、なんて不仕合なんだらう……。なんて、恥しいんだらう。お前よりも、あたしがこの家を出て行きたいくらゐだ……。

てる  あたくしは、まだ、どなたとも、申上げはいたしません……。奥さまが、勝手に、さうおきめになつただけではございませんか……。

数子  だつて、お前……さつきからの話を、お前は、ちやんと、聴いてゐたぢやないか。こゝまで来て、曖昧な返事では済まされないよ。どうしても云はなけれや、あたしは、お前をかへす前に、旦那様と、是守とに、事実をたゞしてみるから……。

てる  いゝえ、奥さま……。そんなことを遊ばすなら、あたくし、死んでしまひます……。

数子  あたしは、事を荒立てようと云ふんぢやない。自分の心得として知つておきたいだけだ。お前が、はつきりしたことさへ云つてくれるなら、すべて、穏便に済ますつもりだ。それが、誰のためにも、一番いゝんだから……。

てる  ……。

数子  (恐る恐る)ぢや、なにかい、二人ともつていふわけぢやなかつたんだね。

てる  (うなづく)


長い沈黙。


数子  どつちつていふことは、お前からは云へないんだね。

てる  はい、それだけは、御勘弁を願ひます。


長い沈黙。


数子  ぢや、これ以上、なんにも訊くまい。たゞ、最後に、あたしの、たつた一つの頼みを聴いておくれ。なんでもないことだ。お前には、決して迷惑をかけないから……。


数子は、二枚の紙ぎれと、鉛筆をてるの前に差し出す。


数子  それへ、どんな字でもいゝから、かういふ文句を書いておくれ。一枚づつ別々にね……。

てる  あたくし、字は駄目なんでございますけど……。

数子  駄目だつてなんだつていゝよ。さ、かう書くんだよ。──『今晩、九時に、あづまやでお目にかゝりたうございます』


てるは、その通りに書く、時々、顔をあげて、ためらふ風をするが、数子は、それを頤でき立てる。


数子  それでいゝの。ところで、お前は、九時になつたら、亭へ出掛けて行きなさい。あたしが、こゝから見てゝあげるから……。二人のうち、どつちかゞ、来るわけだからね。お前は、そこで、はつきり、かう云ふといゝ。──『わたくしがおやしきにゐられなくなつたわけは、あなたにはおわかりでございませう。たゞ、それは、わたくしの胸にだけ納めて、奇麗に御暇をいたゞきたいと存じます。ついては、奥様が納得遊ばすやうな理由を、ひとつ、御教へ下さいませ』

てる  でも、さういふこと、あたくしには……。

数子  云へないといふのかい。なに、是非、云はなくつてもいゝさ。そこは、まあ、いゝやうにおし。筋道さへ立てばいゝんだから……。

てる  それで、お暇は何時いたゞけるんでございませう。

数子  さあ、その結果にもよるけれど、あたしの計画さへ図にあたれば、今夜でも、明日でも、それや、かまはないよ。

てる  あのう……それでは、若しか、どなたもおいでにならなかつたら、どうなるんでございませう。

数子  心配しなくつてもいゝよ。行かなければ行かないで、あたしには、ちやんと見当がつくやうになつてる。




その晩の九時近く。

浜を見下す松林の中の亭──人の顔が、かすかに見分けられるほどの暗さである。左手から、ヂヤケツに白ズボンを穿いた青年が、ゆつくり歩いて来る。ベンチに腰をおろす。あたりに気を配つてゐる様子である。ポケツトから、紙片を出して読む。が、その時、何処かで、砂を踏む足音が聞える。彼は、紙片をしまひ、樹陰に身をひそめる。

やがて、右手から、浴衣がけに、ステツキを持つた紳士風の男が現はれる。

云ふまでもなく、先の青年は、息子の是守、後の紳士は、父の是則だ。


是守  (人影をすかしてみて)お父さんですか。

是則  (やゝ驚いて)なんだ、お前か。

是守  (歩み寄り)今時分御散歩ですか。

是則  お前こそ、こんなところで、何してるんだ。

是守  なにしてるつて、こゝは、かうして、海の景色を眺めるところでせう。今日は、風がさつぱりないですね。

是則  さうでもないさ。浴衣一枚ぢや、寒いくらゐだ。

是守  風邪をお引きになるといけませんよ。

是則  わしは大丈夫さ。それより、お前はさつき、玉を突いて大分疲れたつて云つてたぢやないか。夜露は毒だぜ。腹をこはすのは、かういふ時だ。

是守  僕は少し下痢でもしないと、近頃、通じが遠いんです。頭がぼんやりしてんのは、そのせゐでせうね。

是則  そんなら、お前、ラキサトールを飲め、ラキサトールを……。一瓶持つて来て、まだ口を開けずにある……。早く行つて、飲んで来なさい。

是守  えゝ、寝しなに飲みます。ねえ、お父さん、僕、論文について、今、素晴しい案が浮んだところなんですよ。かうして、ぢつと夜の海を見てると、不思議ですね、哲学的な感興がいくらでも湧いて来るんです。少し独りで考へさして下さいよ。

是則  なんだ、今、頭がぼんやりしてるなんて云つたくせに……。

是守  それは、つまり、あんまり深いところへ行き過ぎたんでせう。やつぱり、僕等の頭は、まだもろくつて、大きな真理にぶつかると、もうそれだけで、一時、混乱する傾向があります。

是則  兎に角、頭は大事にせんといかん。わしなんか、学校にをる頃から、頭脳の節約といふことを第一に考へとつた。だから、糞勉強や、取越苦労は、決してせんといふ方針ぢやつた。だから見い、今になつても、役所の若い連中が、わしの記憶力には舌を捲きをる。

是守  あゝ、さう云へば、講談の放送は、もう始まつてやしませんか。久しぶりで、今夜、痴遊の『伊藤博文』だかを是非聴かうつておつしやつたぢやありませんか。

是則  あれや、八時三十分からだつたな、うむ、さうだつたな。まあ、いゝや。この次ぎにしよう。

是守  まだ、九時になるかならないかですよ。半分は聴けるでせう。

是則  いゝ、いゝ。どうせ、知つとる話だ……。


長い沈黙。


是則は、だしぬけに、妙な声でうたひをうたひ出す。


是守  いやだなあ……。

是則  よし、よし、それぢや、わしは向うへ行くよ。明日の朝は、やるかい、テニスは……。(起ち上る)

是守  やりますよ。おやすみなさい。

是則  あゝ、おやすみ。


是則は、ステツキを振りながら、渋々右手へ去る。

何処かの別荘で、ピヤノの音が聞える。やがて、左手から、てるの姿が現はれ、一つ時、亭の方をみつめてゐる。が、是守がそこにゐるのをたしかめると、今度は、急に、素知らぬ振りをして、その前を通り過ぎようとする。


是守  (低く)おい、何か用か。

てる  (静かに、しかし、十分の技巧をもつて、彼の方に向き直る)

是守  どういふ話だい。

てる  (うつむいてゐる)

是守  僕の立場から、あの手紙は、二た通りに解釈できる。どつちの意味だか、僕にはわからないんだ。

てる  ……。

是守  僕をわざわざ、こんなところへ引つぱり出したのは、お前だけの用事か、それとも、僕にも関係のあることか。先づ、それを訊かう。

てる  ……。

是守  どうして、黙つてるんだい。戯談じようだんぢやない。来いつていふから、来たんだぜ。此処で僕に会ひたいつていふわけがあるだらう。それを、早く云へよ。

てる  さうおつしやられると、わたくし、なんにも申し上げられませんわ……。ほんとに、相すみません。でも、若しかしたら、あたくしの気持がわかつていたゞけるかも知れないと思つたんでございます。

是守  あれだけの文句でかい? ふうん、さういふつもりなのか。で、僕にどうしろつていふの?(幾分、優しく)お前も、見かけによらず、大胆だね。こんなことが、誰にもわからずに済むと思ふかい。

てる  いゝえ、ですから、あたくし、今日限りお暇をいたゞかうと思つてをりますの……。

是守  弱つたなあ。なんて挨拶をしていゝか、わからないよ。だが、それだけのことを、僕に打ち明ければ、それで、気が済むんだね。

てる  ……。

是守  それとも、僕がおんなじ気持でゐるかどうかを知りたいつていふのかい。

てる  (やゝ、恥ぢらふやうなしなを作つて)もう、それは、伺はなくつても、わかつてをります……。(袖で顔を覆つて泣く)

是守  見つともないから、泣くのはよせよ。しかし、それや、真面目なんだらうね。さうだとすれば、こつちも、真面目に考へてみるよ。かういふ場合、一方が無関心でゐられるわけはないからね。殊に、お前が、それほどまでの決心をしてゐるんだとすると、僕だつて、男だからな。少しは、慰めてやりたい気もするよ。

てる  (泣きじやくりながら)いゝえ、そんなこと……あたくし……そんなつもりで……。どうしていゝんだか……わからなくなりましたわ……。

是守  だからさ、そんな声、出すのよせよ……。僕の云ひ方が悪かつた。つまり、なんだらう……僕のそばを離れようつていふのは、お互ひのためを考へるからだらう。一緒になれないと思ふからだらう。

てる  いゝえ、それより……そんな先のことは……そんな夢のやうなことは……ちつとも考へてをりません……たゞ、たゞ……。

是守  たゞ、なんだい。

てる  たゞ……一度だけ……しみじみと……若……若旦那様のお顔を……かうして……。

是守  あゝ、さうか……。わかつた。もうそれぢや、これくらゐでいいだらう……。さ、早く、あつちへ行け……。かうしてるうちに、僕が上気のぼせて来たらどうする。少しあぶなくなつて来たよ。

てる  (眼をあげて、是守の顔を見つめ、何かを訴へるやうに、両手を胸の上に組み合せる)若旦那さま……。

是守  え?(と云つて、相手の肩に手をかけようとするが、ふと、我に帰り、慌てゝ、首をふる。そして、一目散に、右手へ走り去る)




それから、三十分の後。

是則の居間である。彼は、机に向つて書見をしてゐる。

数子がはひつて来る。


数子  何か甘いものでも召上りませんか。

是則  うむ、別に欲しくもない。

数子  こんなことを、今お耳に入れてどうかと思ひますけど、是守のことで、ちよつと、気になることがございますの。

是則  う? うん……。是守がどうしたんだ。

数子  いゝえ、ね、あたくし、てるに暇を出さうと思ひますの。

是則  それもよからう。だが、代りはあるのかい。

数子  代りなんて云つてる場合ぢやございませんもの。

是則  どういふことになつてるんだ。

数子  さあ、それが、はつきりはわかりませんのですけれど……今しがた、二人が亭にゐるのを見かけましたの。どうも、様子が変ですわ。

是則  是守が亭にゐることは知つてゐたが、てるがまた、何の用があつてそんなところへ行くんだ?

数子  ですからさ、さう申上げてるぢやございませんか。前から打合せでもしてあつたんぢやないかと思ひますの。

是則  それや、変だね。あそこは、誰でも行くところだし、秘密の談合に適してゐるとは云へまい。おれも、ついさつき、あの辺を通つたんだ。たゞ、それについては、おれにも少し、腑に落ちんこともあるし、いづれ、あとから、それとなく調べてみようと思つてゐたんだ。

数子  どちらをですの?

是則  いや、どちらといふわけでもないが……。兎に角、あの二人は一緒に置いとかん方がいゝな。猫に鰹節どころぢやない。腹の減つた狼同志だ。あのてるといふ女も、なかなか油断がならんよ。

数子  さういふところもないとは云へませんけど、なんて云つても、そんなことは男次第ですから……。それに、あれで、相当考へてゐますわ。

是則  (大きくうなづいて)うむ、さうだな。だんだん、思ひ当ることもある。どうも、さつき、是守の奴め、おれを邪魔にしよつた。やつぱり、誰かを待つてゐたに違ひない、いや、あそこへ、てるを引張り出す魂胆でゐたんだ。九時になつたら、あそこへ来いと命じてあつたんだ。さうだ、てるの方には、そんな気はないんだ。出来れば、行かずにすましたかつた。たゞ、主人の云ひつけだからどうすることもできん。そこで、一策を案じ出した。おれを助け船に呼んだんだ。

数子  どういふんでございます。

是則  なるほど、お前の云ふ通り、相当考へてるよ、あの女……。こら、かういふものがおれの机の上に置いてあつた。(さつきの紙片を出してみせる)

数子  てるの字ですわ、たしかに……。

是則  さうだらう。無論、それはわかつてる。

数子  (やゝ険しい眼付をして)で、あなたも、九時にあそこへいらつしやいましたの?

是則  う? おれか? いや、わざわざ行つたわけぢやない。散歩のついでに通つてみたまでだ。

数子  その時は、この意味がおわかりにならなかつたでせう。

是則  う? この意味? 意味なんか考へやせんよ。

数子  それはをかしかございません? 相手は誰にせよ、女からの呼出し状なんか、どうして、あたくしにお見せにならなかつたんですの? 意味をお考へにならないつて、そんなことないと思ひますわ。これだけで、ちやんと意味がわかるぢやございませんか。

是則  それが、現にさういふ意味ぢやなかつたぢやないか。

数子  いゝえ、今だからさうおつしやるんです。いきなりこんなものを御覧になつて、けがらはしいとお思ひになりませんでしたの。たとへ、どんな話があらうと、あなたを一人、あの亭へおびき出すなんて、小間使としては、ちつとだいそれたことだとはお思ひになりません?

是則  だから、物事といふものは、当つてみないとわからん。おれは五十年の経験で、世の中の裏と表とを知りつくした。この手紙をみて、普通お前たちが考へる程度のことは、一応も二応も考へたさ。しかし、それだけでは解き尽せない謎がこの下手な字の間に潜んでゐるやうな気がしたんだ。

数子  そんなら、どうして、是守が頑張つてゐたぐらゐで、すごすご引返していらつしつたんですか?

是則  すごすごとはなんだ。お前は、おれを疑つてるのか。

数子  疑つてるつていふわけぢやございませんけど、なんですか、もつと公明正大ななさり方があつたんぢやないかと思ひますわ。

是則  はゝあ、なるほど……。あらかじめお前に相談すればよかつたといふわけだな。その不平は、てるのところへ持つて行きなさい。──『どうして、あたしより旦那さんにそんなことをお願ひしたんだ』つて。おれが、てるの代りに弁解をすれば、それはつまり、奥さんが、夜の九時に、一人で亭へ涼みに出るといふ法はないからだ。偶然を利用する為めには、最も必然といふことに頭を使はなけれやならん。

数子  いゝえ、そんなことを申してるんぢやございません。てるが何をしようと、それはあの女の勝手ぢやございませんか。ただ、あなたが……。

是則  もうわかつたよ。それがさ、おれは、問題を冷静に取扱はうと思つたんだ。誰の感情をも交へずに、事件を処理しようと思つたんだ。その証拠に、結果がわかつた暁には、この通り、何もかもお前に云つて聴かせるぢやないか。この手紙なんか、わざわざお前に見せなくてもいゝんだ。いや、見せなくてもいゝといふとをかしいが、若しおれに後暗いところがあればだぜ、黙つて、こんなもん、便所へでも捨てちまふよ。さうだらう。

数子  (説き伏せられて)あら、そんな風にお取りになつたんですか。いやですわ、まさか、あたくしが……小間使風情を相手に、やきもちを焼くなんて……考へて御覧になればわかりますわ。兎に角、そんなわけなら、是守のためになりませんから、早速、あの女は暇を出すことにいたしませう。

是則  しかし、さうとはつきり因縁をつけずに出した方がいゝね。なにか、理由をこしらへてさ。その方が穏やかだぜ。

数子  大抵察しるでせうけれど……。

是則  まあ、それはお前に委せよう。あゝ、今日は大分疲れた。すぐ床を敷かしてくれ。

数子  あなたからも、なんにもおつしやらない方がよろしうございますわ。

是則  おれは知らん顔をしとるよ。この手紙も、気がつかずに、そのまゝ置いてあつたことにしよう。この辺を片づけながら、そつと持つて帰るだらう。

数子  では、もう外に御用はございませんね。

是則  是守は、部屋にゐるか。

数子  いゝえ、まだ帰つて参りません。先ほど、あたくしが見てをりますと、亭へてるを残して、ひとりでさつさと浜の方へ駈け出して参りますんです。てるは、泣いてゐるやうでございました。なにか、云ひ争ひでもしたんでございませう。

是則  馬鹿な奴だ。どいつも、こいつも……。折角の休暇が、これで台なしだ。


数子が出て行く。やがて、てるが、現はれる。


てる  おとこをおのべいたします。

是則  (その方を見ずに)暑いから、上は毛布だけでいゝ。

てる  はい。


彼女は、押入から敷蒲団を出し、馴れた物腰で、それを部屋の真中にひろげる。

是則は、その様子を、眺めるともなしに眺めてゐる。


是則  お前には、許婚いひなづけかなにかあるのか。

てる  (驚いて顔をあげ、羞ぢらふやうに微笑んで、急に眼を反らす)いゝえ。

是則  よし、よし、早くしろ。


てるは、敷布の皺をゆつくりのばしてゐる。


是則  何処かゝら、お嫁に来てくれなんて云はれたこともないのかい。

てる  (うつむいたまゝ、かすかに)いゝえ、そんなこと……。

是則  おい、早くしろつたら……。


てるは、毛布を手早くその上にのせて、蚊帳かやを吊りはじめる。


是則  若しお嫁に行くとしたら、どんなところへ行きたい?

てる  (初々しくからだをくねらせて)あら、あたくしなんか……。

是則  馬鹿云へ。女がお嫁に行けなくつてどうする。

てる  (蚊帳を吊り終り、机の上を片づけかける)お煙草は、これだけでよろしうございますかしら……。

是則  あゝ、いゝよ。ついでに、その手紙はお前に返す。そんなもの、奥さんにみつかると厄介だよ。おれに話したいことゝいふのはなんだ。

てる  (そのまゝ、そこにぢつとしてゐる)

是則  まあ、こつちへ来い。声が大きくなるから、もつとそばへ寄れ。

てる  (是則の云ふ通りにする)

是則  おれがあそこへ行つてた方が、やつぱりよかつたか。

てる  ……。

是則  そんならさうで、もつとはつきり云つてくれなけれや、これぢやなんのことかわからんよ。是守がさういふ風なら、わしの方で、いくらもそれを防ぐ方法がある。お前の気持は、それやわかつとる。あからさまにそれとは云ひ悪いといふ点もあるだらう。しかし、それほど察しのいゝ人間ばかりはゐないからな。だが、あらまし、事情はわかつた。お前も、此処にはゐづらからう。

てる  ほんとに、御心配をかけて、申しわけございません。あたくし、旦那様のおそばでなら、どんな辛棒でもいたすつもりでをりましたんです……。奥様も御親切な方でいらつしやいますけど、なんですか、かう申しちや失礼でございますが、やはり、御気分次第で……。

是則  それやさうだ。お前も、よくそこへ気がついた。苦労をしとるな、なかなか……。

てる  あたくし……まるつきり、身寄りつていふものがございませんので……それを思ふと、変に悲しくなるんでございます……。(袖で顔をおさへる)

是則  さうだつてね。なに、自分さへしつかりしてれや、身寄りなんか、却つて邪魔になるくらゐのもんだ。さ、こゝぢやなんだから、いづれまた、ゆつくり話を聴かう。雨戸を締めてつてくれ。


てる、起ち上つて、是則のそばを通りぬけ、雨戸を締める。

是則は、ぢつと、その後ろ姿を見てゐる。


てる  (殆んど誘惑的な眼で相手を見つめ)では、おやすみ遊ばしませ。

是則  (椅子の上にふん反りかへり)おい、ちよつと、こゝへ来て御覧。

てる  (一度、男の視線を避けるやうに首を垂れて、それから、何かを待ち設ける如く、一歩一歩、彼の方に近づく)

是則  (いきなり起ち上り、彼女の肩を抱く)


下で、『てる』と呼ぶ、数子の声。

二人は、慌てゝ離れる。

てるは、そのまゝ、部屋から出て行く。




翌朝である。

是則、数子、是守の三人は、茶の間で、食卓を囲んでゐる。


数子  婆やが御飯を焚いてしまつても、まだ起きて来ないので、起しに行くと、もうゐないんださうでございます。

是則  昨夜ゆうべ、あれから、何か話したのか。

数子  (ちらと是守の方をみて)いゝえ、別にこれといふ話もいたしませんけれど、妙にそわそわしてたことはしてたやうでございます。

是守  僕には、わかつてますがね、逃げ出した理由は……。

数子  へえ、あんたに……。(是則と顔を見合せ、眼くばせをする)

是則  たかゞ女中一人、なんだ。さうみんなで大騒ぎをする必要はないぢやないか。

数子  ほんとですわ。たゞ、手がなくつちや困りますから、東京へ電話をかけて、誰か呼び寄せませう。

是守  これから小間使を傭ふなら、あんまりシヤンでないやつにして下さい。

数子  どうして……。(また是則と顔を見合せる)

是守  どうしてつて、僕は、そんなに、自信はもてませんよ。向うでなんともなけれや、まあ無事ですけど、ちよつと誘ひをかけられると、実際、踏ん張れるかどうかわかりませんからね。

是則  (緊張して)そんな生意地いくぢのないこつてどうする。

数子  そいぢや、なんだね、あのてるつていふ女は、その点、しつかりしてゝ、あんたには持つて来いだつたね。

是則  持つて来いてやつもないだらう。

是守  ところが、実を云ふと、あべこべなんだけど、まあ、そんなことは、どうだつていゝや。ゐなくなつた奴のことを、云つてみたつてはじまらんからなあ。

数子  男つていふものは、だから欺されるんだね。あんたなんか、これからも気をつけなくつちや駄目ですよ。女がちよつと自分の方を見たからつて、もう、それで本心を見届けたやうに思ふのは早過ぎるよ。失恋なんて、大概、さういふ感違ひから起るんだからね。

是則  よく聴いとけ、うん……。

是守  してもいゝこと、しなければならないこと、した方がいゝこと、してはならないこと、それだけの区別は、ちやんと知つてますよ。

数子  なんのこつたい、それや……。もう一度、云つておくれ。

是守  いゝですか。世の中には、してもいゝし、しなくつてもいゝし、どつちでもいゝつていふやうなことがあるでせう。

数子  あるね。

是守  それから、しなくつてもいゝが、する方がなほいゝつていふこともありますね。

数子  それやあるさ。

是守  してはならないこと、これはむろん、あるわけですね。

数子  あるとも……。

是寺  同様に、しなければならないこと、これがあります。この四つをちやんとわきまへてゐれば、大概の場合、間違ひつこありませんよ。

数子  ぢや、しない方がいゝことは、どれにはひるの。

是守  してもいゝことにはひりますよ。

数子  そんなことつて、あるか知ら……。しない方がいゝことなら、しない方がいゝぢやないの。

是守  えゝ、たゞ、世の中がつまらなくなるだけです。人間が型にはまるだけです。

是則  面白いことを云ひよるぞ。近頃は、学校で、さういふことを教へるのかい。

是守  学校でですつて……? 戯談でせう。これは、僕の哲学ですよ。お父さん、テニス、おやりになりますか、今朝は……。

是則  あゝ、やるとも……。

是守  僕、先へ行つてますよ。


是守が座を起つて行つた後で、老夫婦は、互に、笑ひたいのをこらへたまゝ、顔を見合つてゐる。


是則  やれやれ、大きな息子をもつと、余計な苦労があるわい。

数子  やつぱりよございましたわ、面倒が起らないうちに出てつてくれて……。あれでも、正式に暇を出すとなると、幾分でも形をつけなきやなりませんですからね、でも、考へやうによつちや、ほんとに、あの女も可哀さうでございますよ。

是則  が、兎に角、悧巧な女だ。先が見えるんだな。是守の理窟ぢやないが、してはならないことゝ、してもいゝことゝを、ちやんと心得とる。

数子  ほんとに、あれで、器量がもう少し悪けれや、申し分ございませんわ。


この時、電話がかゝつて来る。


数子  (受話器を耳にあて)はい、もし、もし、さやうでございます。生田いくたでございます。は? どちらさまで……え? 警察……(夫の方を振り向き)なんの用でせう……。もし、もし、はい、はい……へえ……只今、そちらに……? それで……? いえ、たしかにをりましたもんでございますけれど……。はあ、てると申しますんです……。さあ、気がつきませんでしたけれど……。ちよつと調べてみますです……。(急いで箪笥の抽斗をあける)

是則  どうしたんだ。

数子  てるが、今、警察に止められてるらしいんですわ……大金を持つてるが、そちらで渡した覚えがあるかつて、変なことを訊くんですよ……。あら、あら、やつぱり、なくなつてますよ、あなた……。こゝへ入れといた五百円の包みがからになつてますわ。昨日の夕方までは、たしかにあつたんですけどね……。

是則  そんなこと云つてゝもしやうがない。その通り返事したらいゝぢやないか。よし、おれが出よう……。(受話器を取り上げ)あ、もし、もし、わたし、生田です。やあ、どういふんですか、一体……。ふん、今朝……駅の出札口で……はあ……百円札を落した……はゝゝゝゝなるほど、職掌柄ね……おほきに……あ、さう、いや、別に逃亡したといふわけぢやないが……さうなんだ……ちよつと事情があつてね……え? ……うん、まあ、それはちよつと……。あゝ、さうかその金の出どころをね……どうしても云はない……貰つたといふのかね……主人に……え? 誰に……?

数子  なんて好い加減なことを云ふんでせう……。

是則  黙つて……。あ、もし、もし、それで、本人は、なにも別に……? いや、つまり、その……金のことだがね、それは、こちらで承知してゐるから……。

数子  あなた、なにおつしやるんです。

是則  あゝ、さうだ、それでかまひません……いや、どうも、お世話さん……さよなら……。(受話器をかけ)一家の体面を、五百円で救へば安いもんぢやないか。うつかり、その金は盗み出したもんだなんて訴へてみろ、あの女、どんなことを口走るかわかりやせん……。

数子  でも、あなた、あの五百円は昨日のうちにどうかしたもんでせうか。夜ちやんと鍵をかけてやすみましたんですもの。

是則  (意味ありげに)だからさ、すべて、辻褄が合ふぢやないか。

数子  (これも意味ありげに)辻褄だけ合つたつて、勘定は合ひませんわ。

是則  それや、合はん。勘定にかけちや、向うが上手うはてといふだけだ。ちやんと、先が見えるのさ。五百円のかたに、あいつは、まんまと秘密を残して行きをつた。

数子  それに、是守のことだつて、どつちが悪いんだか知れやしませんわ。ことによると、あの女の方から持ちかけたのかも知れませんわ。

是則  うん、それくらゐのことはやりかねまい……。現に、おれによこしたあの手紙が……、曲者だて。

数子  ほんとに。なんて口惜しいんでせう……まつたく……あの女ばかりは見損つてゐましたわ……。あたくしが馬鹿だつたんです。……なにもかも、あたくしのせゐですわ……。

是則  まあ、まあ、済んだことはしかたがない。これからお互に気をつけるさ。どら、ひとつ、テニスでもやつて来よう。近頃、息子とぢや、どうもちつとが悪い……。


是則は、応揚に起ち上つて出て行く。


      ×      ×      ×


こゝで、この芝居の幕は下りるのであるが、この不仕合せな夫婦は、互にそれと打ち明けられない秘密を押し隠して、小間使てるの小さき犯罪を、遂に救ひ難きものにした。たゞ、息子の是守だけは、父と母との表面的犠牲となりつゝ、彼等の良心の上に君臨し、少女てるの涙を、たまたま、快く思ひ浮べることができた。

底本:「岸田國士全集6」岩波書店

   1991(平成3)年510日発行

底本の親本:「現代 第十四巻第三号」

   1933(昭和8)年31日号発行

初出:「現代 第十四巻第三号」

   1933(昭和8)年31日号発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2011年528日作成

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