けむり(ラヂオ物語)
岸田國士
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さて、みなさん。
と、呼びかけてはみましたが、どなたがどんな顔をして聴いておいでになるか、さつぱり見当がつきません。
相手があつて、なきが如く、話す方はまことに調子が取りにくいのですが、
何処からともなく、声だけが聞えて来る。それが、何のなにがし作るところの物語であつたといふ。
この世の不思議も亦、昭和の春の夜の一興でせう。
見渡すところ、今、作者の周囲には、これといふ面白い話もありません。
現代の文化は、遠いものを近くするといふところに、ひとつの特色があるのではないかと思ひますので、勝手をゆるしていたゞければ、時と場所とを少しばかり遠いところに選びます。
標題は、やけくそで、「けむり」とつけてみました。ラヂオの逆をゆく、形ばかりで音のしないといふ洒落になりますか、どうか……。
先づ、今を去る十五六年前、欧洲大戦の幕が下りた、そのすぐ後の、陸にも海にもまだ血腥い印象の数々を残してる時代を思ひ出して下さい。
一千九百二十年の春が、伊太利半島の爪先から這ひ上つて、はるか北の国境に近づきはじめました。
そこは、ヴエルサイユ条約の結果、新らしく敵国墺太利から奪ひ取ることになつた、チロルといふ山国です。
アルプスの南斜面を形づくつてゐるこの地方は、
古い歴史と、美しい自然と、淳朴な生活とが、見事な調和を保つてをります。
目近に、白い山々の峯が光つてゐます。その中腹から緑の牧場が、ゆるやかな起伏を見せて、谷へ伸び、そこで、はじめて、灰色に翳つた小さな部落のひとかたまりを浮き出させるのです。
糸杉に覆はれた麓の小径を降りて行きませう。首に鈴をつけた羊の群に出会ひます。それが若し夕方なら、羊飼の少年は、慌たゞしく角笛を吹き鳴らします。崖をよぢ登る仔羊を、犬が後から追ひ上げます。四つ辻に来ると、少年は立ち止ります。基督の十字架像が、夕焼の空を背にして立つてゐるからです。少年はその前に跪きます。折りも折り、村の教会堂からは、祈祷の鐘が鳴り響くでせう。
さあ、帰りを急がなければなりません。近道をして、林檎畑を抜けて行きます。林檎の花は、もう、ちらほら、咲いてゐます。
村の入口です。
乳桶を提げた少女が、たつた一人、静まり返つた町の中を歩いてゐます。
「エリザ!」
羊飼の少年は、かう叫びました。
娘はふり返りました。多分、返事の代りに笑つてみせたのでせう。
その後姿は、もう広場を横切つて、一軒の、とある見すぼらしい家の踏段を上つてゐました。
「なにを愚図々々してた。」
奥から父親の、我武者羅な声が迎へました。
「だつて。……」
と、娘が何か云ひ返さうとするのを遮ぎつて、
「さあ、早く支度をしろ。ブレンネル・ホテルから迎ひが来てゐる。」
「ブレンネル・ホテル……あら、今時分……?」
「えらいお客様だ。国境画定委員とかいふ、あれさ、同勢二十人からの団体らしい。一と月ぐらゐゐるつて話だ。手伝つて来な。」
「外国人ばつかりでせう。」
「当り前さ。英吉利、仏蘭西、日本……。」
「マカロニイもゐるの。」
「伊太公か、うん……。」
娘のエリザは、その晩、迎への馬車に乗せられ、近くの街にあるブレンネル・ホテルへ、臨時雇ひの女中として、出掛けて行きました。思ひ出しても、身慄ひのするあの頃──朝から晩まで、ひつきりなしの銃声、馬の蹄の音、負傷兵をのせた担架の往き来、窓をかすめる飛行機の翼の影……。
やがて、味方の墺太利軍は北へ〳〵と追ひまくられて、伊太利兵の銃剣が辻々をいかめしく固めてしまひました。
それから一年もたつた今日ですが、エリザの胸は、まだ時々、怖れと怒りとにふるへるのです。
しかし、夜の山道を馬車にゆられながら、エリザの気持は、だん〳〵明るくなつて行きます。
単調なその日〳〵の生活から、ホテルの賑やかな空を想ひ浮べるだけでも、十七の娘心は、わけもなく弾みます。
その翌日の朝、五台の軍用自動車が、それ〴〵に違つた国旗を靡かせながら、ホテルの玄関へ着きました。
先頭は、伊太利の旗でした。その車からは、一くせありげな老将軍と、謹直らしいその副官とが降りました。
次は、仏蘭西の三色旗、空色の洋服を着た華車な将校が二人、続いて、子供を二人連れた中年の婦人。
その次は英吉利、瘠せた、意地の悪るさうなカーキ服の将校とその随員。
四番日の車は、日の丸の旗です。初めてみる東洋人、見るからに慓悍な軍人が一人と、欧羅巴風の外套に、毛糸の頸巻をした青年。
最後が懐しい墺太利……わざと平服に、戦敗国の代表たる自分をつゝんでゐます。
一同は、やがて、サロンに陣取つて、様々な国語でお喋りをはじめました。支配人が、いち〳〵挨拶をして廻つてゐます。
部屋の割当てがすみました。
「ぼんやりしてないで、食堂の用意だよ。」
昨日までは、独逸に国籍を置いてゐた猶太人のこのマネージヤアは、抜目なく采配を振ります。
エリザは、食堂の給仕頭から、卓子へ草花を飾ることを云ひつかります。
ヂエラニウムと桜草の鉢を裏のフレームから運んで来ました。
それから、窓硝子を拭きます。
雪がとけて、一部分、紫色に霞んだ山肌が、硝子越しに、和やかな春の気配を感じさせます。芝生に眼をおとすと、そここゝに、サフランの芽が伸びてゐるやうです。セキレイが長い尻尾を振つて、白樺の枝から枝へ飛びうつつてゐます。
と、この時、突然、後ろで、
「なにか、食べるものはできないか。」
訛りのあるドイツ語で、かういふ声が聞えたと思ふと、もう自分の横に、今朝着いた伊太利の将校が二人立つてゐます。
年を取つた方は、参謀本部付のノビス工兵大佐で、その副官らしい青年将校は、ルナアト・パリヤアニと呼ぶ猟騎兵中尉です。まだやつと二十七八といふところでせう。帽子を脱いだ顔立は、さつきの印象よりもずつと穏やかでした。が、それも、こつちへ向けた眼が、快活に笑つてゐたからでせうか。
エリザは、ハツとして、両手で無意識に緑のエプロンを引きさげました。
「腹が減つてゐるんだ、なんでもいゝから、大急ぎで出来るものを……。」
若い士官が、更に言葉をかけました。
「さあ、ちよつと訊いて来ますわ。」
さう答へて、給仕頭のところへ走つて行きましたが、その途中、エリザは、あれが敵国の士官かと思ふと、自分がすこし惨めになつて来ました。もつと無愛想な返事をするのが、あたり前だつたと気がついたのです。
やがて、注文のチーズ入オムレツを運び了ると、彼女はできるだけ卓子から離れて立つてゐました。
二人の将校は、全く彼女のゐることを忘れたやうに、食べることゝ話すことに夢中です。エリザは、ほとんど伊太利語がわかりませんから、なんだか意味は通じませんが、多分、墺太利に取つて不利な相談をしてゐるらしく思はれました。
食事が了つて、彼女が、伝票を持つて行くと、
「君はこの土地で生れたの?」
と、若い士官が訊ねました。
黙つてうなづくと、今度は、
「君のお父さんか兄さんで、戦死をした人はないか。」だの、
「何時までも、墺太利人でゐたいと思ふか。」だの、
「南チロルは昔、伊太利の領土だつたのを知つてゐるか。」
「伊太利の軍隊は、戦争には強いが、決して乱暴はしないだらう。」など、
その他いろ〳〵な話をしかけるのです。
窓から遥か向うの山間に見える古いお城を指して、「あれは今誰がすんでゐる」と訊ねるので、知つてゐる通り、「ガルモンチ侯爵一家」と答へますと、「それ見給へ、その名前は、羅馬時代から伝つてゐるのだ。」
と、さも得意らしく、彼女の肩を叩きました。親しみと反抗との、妙に織り交つた気持でエリザは、眼のやり場に困りました。
何と云はれても、なるたけ口を利くまいと、決心をしてゐるのですが、相手は、それにおかまひなく、しまひには、「君はなんていふ名? 年は?……おつと失敬……聞かなくつてもわかつてる。」などと、ひとりはしやいで、食堂を出て行きました。
その晩は、駐屯軍司令官の招待で、晩餐会が催されました。地方の名士も幾組か夫人令嬢同伴でその席に列りました。
戦争以来、絶えて、このホテルにはみられなかつた、華やかな一夜です。
チロル風のバンドが、ワルツを奏しはじめました。
ホールでは、もう黒いエナメルの長靴と銀刺繍のサンダアルとが、軽やかなステツプを踏んでゐます。
エリザは、さつきから、食堂のドアの陰で、息をひそめて、この光景を眺めてゐましたが、急に、自分の姿を省みて、恥らふやうに、そこを立去りました。
炊事場から、そつと、裏口へ出ました。
温室の間を抜けて、露天食堂になつてゐる庭の一隅に辿りつき、片手の甲を、熱くほてつた頬にあてゝ、大きな溜息をつきました。
──これが、今戦争に負けた自分の国で、現にやつてゐることなんだ。こんな不思議なことがあるだらうか? お父つあんが見たら、なんていふだらう……。墺太利の悲しみは、どこへ行つたんだ? 何処で、人が涙をのみ、歯をくひしばつてゐるのだらう……。
眼を据ゑて、彼女は空をみつめました。すると星明りの下に、ぼんやりと浮ぶひとつの顔……、気がつくと、すぐにぱつと消えましたが……。それはたしかに今朝、彼女に話しかけた若い伊太利士官の笑顔でした。
ルナアト・パリヤアニ中尉は、その晩、自分の部屋に帰ると、早速、ブレンネル地方の軍用地図をひろげ、条約で仮に決定されたアルプスの分水線に赤い線を書き入れ、コンパスで、重要な地点間の距離を測り、明日の集合地たるメンデル・パスまでの自動車道を選びました。
それがすむと、隣の部屋のドアを叩いて、
「大佐殿、もうおやすみになりましたか。」
「いゝや、君もまだ起きとつたのか。まあはひれ。」
二人は、明日の現地調査について打合をしました。住民の代表者を呼び集めて、この地方の経済事情を聴き取るといふことになつてゐます。その他、委員の間で、政治上、軍事上のいろ〳〵な条件を研究討議し、墺太利と伊太利との、常に相反する利害を斟酌して、委員会が最後の国境をきめるといふ段取なのです。
そこで、墺太利側も伊太利側も、極力、住民を手なづけて、それ〴〵自分の国に有利な申出をさせようと、あらゆる手段を講じてゐます。
しかし、何分、その地方は、もう伊太利軍の支配下にあるのですから、公然武力干渉が行はれます。金品を以て誘ふことも自由です。従つて、委員会が開かれる度毎に、墺太利側の主張は裏切られ、その代表たちは、本国政府と、悲痛な電報を往復しなければなりませんでした。
各国代表を乗せた五台の自動車が、ホテルとメンデルの峠を結ぶ山間の道を、朝夕二度、物々しく通る、その有様を、いろ〳〵の眼が見送つてゐます。
砂煙の中で、腰を砕かれた犬が泣き叫んでゐることもあります。
いよ〳〵現地調査もすみ、ホテルの一室で最後の会議が開かれました。例によつて、墺太利側の譲歩が宣告されます。部屋を出て来た一同の緊張した顔の中に、一きは疲れた色を見せてゐるのが、云ふまでもなく、墺太利代表のゲルベル中佐です。これに引かへて、伊太利代表ノビス大佐は、副官のパリヤアニ中尉を促して、早速、測量班の編成に取り掛らせます。新しく決つた国境に、杭を打つためです。
翌日は、もう、測量班が作業を開始します。ノビス大佐は、或る日、作業の視察に出掛けると云ひ出しました。
「なに、それよりも、名物の焼物を見に行くんだ。面白いものが出来るさうだよ。皿の四五枚はさう荷物にもなるまい。君も来いよ。細君を持つなら、食器は第一に揃へる必要があるぜ。」
副官のパリヤアニ中尉をつかまへて、こんな戯談を云ひました。
「ぢや、君、済まんが、自動車の用意をさせてくれ。」
鷹の羽根をさした略帽を無雑作につかんで、大佐は、もう起ち上りました。
パリヤアニ中尉は、そこで、運転手の溜場へ行き、
「おい、車……。大佐殿がメンデルの陶器工場へお出掛けだ。」
丁度その時、中尉の後ろを、何気なく通りかゝつたエリザは、ふとその言葉に耳を傾けました。
彼女には、はつきり、その意味がわかりました。
ある押へきれない感情が、胸いつぱいにひろがつて、そのまゝ、裏へ取つて返し、物置から小さな、一束の針金を探し出しました。
彼女はそれを前掛の下にかくし、そつと建物の陰に添つて、表道へ駈け出します。
あとは夢中です。露にぬれた牧場の草を踏み分け、蜘蛛の巣と棘を払ひのけながら、メンデルの峠へ通じる自動車道の、とあるカーヴへ姿を現はしました。
そこから先は、やゝ平坦な、直線です。車はスピードをいつぱいに出さうといふ場所なのです。そこはまた葉の茂つた糸杉が並木を作つてゐて、その隙間から、ホテルの門が見えます。
彼女は、真つすぐな道をいゝ加減走りつゞけました。そして、しばらく考へた揚句、傍らの一本の木の丁度首の高さと思ふあたりへ、針金の一端をしつかり結びつけます。
それから、一方の端を、道を距てゝ、向ひ側の木にゆるく巻きつけ、いざと云へば、ピンと引つ張れるやうにしておきます。
今度は、その近所に、隠れる場所を探します。それは、牛の喰べ残した草叢で充分です。やつと、それが見つかりました。
見ると、もう、例の、伊太利国旗を前に押立てた一台のオープンがホテルの門を後にして、全速力で飛ばして来ます。
──駄目かな。
さう思ひながら、彼女は力委せに、針金を引つ張り、からだごと、ぐる〳〵と木の廻りを廻りました。
唸るやうなエンヂンの音が、耳の中へ喰ひ込んで来ます。
彼女は、眼をつぶつて、道の外へ這ひ出しました。さつきの草叢を、手探りで探りあてます。そつと、顔をあげます。
その瞬間、風を切つて、暗緑色の車体が、眼の前をかすめました。
「あツ──」
彼女は、思はず叫んだのです──。
そして、両手で顔を蔽つたまゝ、そこへ打ち伏しました。
どれくらゐの時間がたちましたか、気がついてみると、自分は、逞ましい男の腕に抱かれてゐます。
細く見開いた彼女の眼は、何を見たでせう。眉を寄せ、唇を固く結んだパリヤアニ中尉の顔でした。
中尉は黙つて、彼女の眼をみつめました。責めるといふよりも、寧ろそれは憫れむに近く、静かに、彼女のからだを起して、傍らを頤で指しました。
そこには、ノビス大佐の、無残な死体が、酔ひどれのやうに倒れかゝつてゐます。
車は間もなくホテルに着きました。
静粛な混乱の中で、ノビス大佐は、ベツドの上に運ばれ、エリザは、パリヤアニ中尉の部屋へ導かれました。
そこで、取敢へず、訊問が始まります。
中尉は、事の顛末を当局に報告し、この美しい犯人の身柄を始末しなければなりません。エリザは、一脚の椅子を与へられました。
やゝ蒼ざめた頬の色は、平生と似もつかぬ彼女ではありましたが、つぶらな黒い瞳は、細かな眼ばたきの効果を引立たせ、かすかにふるへてゐるあどけない唇に、もう罪を悔いるかのやうな色が見えました。
「お前のした事は、どういふことか判つてゐるか。」
中尉は、それでも、一語々々に重みをつけて、口を切りました。
「誰にそんなことを云ひつかつた?」
「…………」
「黙つてゐると、お父つあんを引つ張つて来るよ。」
「あら……。誰にも言ひつかりはしませんわ。父はなんにも知りません。それだけは神様に誓ひます。」
「よし、では、どういふつもりで、あんなことをやつた? はつきり答へてごらん。」
「墺太利のためです。」
「うむ、お前はまだ子供だからなんにも知るまいが──。いゝか、お前のしたことは、墺太利のためどころか、却つて、その反対だ。墺太利は、明日から一層不利な立場に立つだらう。莫大な賠償金を出さなけれやならん。ことによると、また戦争が始まつて、ウインナまで伊太利に取られてしまふぞ。」
「いゝえ、そんな法はありません。墺太利は、もう、チロルの半分を失はうとしてゐるのです。あたしたちを、墺太利から引離したのは誰です? あなたがたです。伊太利人です。ああ、神様はそんなことをお許しになるでせうか。」
「馬鹿を云へ……伊太利人に罪はないよ。戦争つていふものはかういふもんだ。お前たちも悲しい思ひをしたらう。我々も同様に苦しいんだ。お前は、僕までも殺す気だつたのか?」
こゝで、エリザは、涙ぐんだ眼の底に、われ知らず、微笑をうかべて、
「でも、あなたは今日は乗つてらつしやらないと思つたんです。」
かう云ひ終るが否や、例の緑色のエプロンを両手で捲り上げて、顔の前へ屏風を作りました。
パリヤアニ中尉は、ギクリとしました。そして、思はず彼女から眼をそらして、自分が今どういふ地位にあるかを考へたのです。
──こいつはいかん。おれはどうかしてゐる。話をこんな風にもつて行つては、事面倒だ。かう気がつくと、更めて、語調をとゝのへ、
「とにかくお前は、伊太利人を憎んでゐるんだね。それで、復讐をしようと思つた。よろしい。で、われ〳〵を殺すために、あゝいふ仕掛をした。珍らしいことを思ひついたもんだが、あの仕掛は一体、誰にをそはつた?」
「自分で考へました。」
「嘘つけ!」
この一語は、たしかに、冷たく、鋭い響きをもつてゐました。エリザは、眼を見はりました。初めて、自分の運命が恐ろしい手の中にあることを感じたのです。肩がわな〳〵ふるへてゐました。
「軍法会議がお前をどう裁くか、それは僕にもわからない。しかし、お前は総てを覚悟してゐる筈だ。たゞ、僕が一つ訊いておきたいことは、お前が自分のしたことを後悔してゐるかどうかといふことだ。そのことを、報告にはつきり書いておきたい。これは僕の義務だと思ふ。どうだ? もう一度やれと云はれてもできないだらう?」
すると、エリザは、急に顔を伏せて、ボロ〳〵と涙をこぼしはじめました。
テーブルの上には、蒔絵入のシガレツト・ケースがのつてゐます。中尉はそれを指先で弄びながら、ぢつとエリザの返事を待つてゐます。さういへば、このシガレツト・ケースが自分の命を救つたと云へるのでした。なぜなら、丁度、あの一瞬間、中尉は巻煙草に火をつけるために、からだをこゞめてゐた、それが、偶然針金の下を潜るかたちになつたからです。
そのことを思ひ出すと、中尉は、またさつきエリザが云つた、あの言葉、──あなたが乗つてゐるとは思はなかつた、といふ、あの言葉を、心の中で繰り返してみました。
──自分は、たしかに、この少女のことなど問題にしてゐなかつた筈だ。
ろくに、親しく口を利いた覚えもありません。勿論最初は、ちよつと可愛い娘だなと、注意を惹かれたことは事実ですが、それも、忙しいのと、相手がわりに不愛想なのとで、それ以上に興味をもつといふやうなことは決してありませんでした。
ところが、今日、かういふ想像にあまる事件が起り、この少女を、目の前に据ゑて、心の隅々までを探らうとしてゐる自分にとつて、さつきの告白は、あまりに惨酷な意味を含んでゐます。
如何に追ひ払はうとしても、無残に植ゑつけられた同情の芽は、中尉の胸の中で、伸びひろがる一方でした。
「では、これ以上、僕から訊ねることは止めにしよう。」
と、パリヤアニ中尉は、いきなり椅子から起ち上りました。
「たとへ、お前がまだ子供で、僕から見れば、お前に責任はないとしたところで、僕にはどうすることもできないんだ。今から、軍司令部へ送り届ける。さよなら、エリザ。」
ブレンネルの守備隊から護衛が派遣され、その日のうちに、エリザは、ヴエロオナの軍司令部に送られました。
昼の食堂は、この話で持ち切りでした。
墺太利委員は、どうしたのか姿を見せません。仏蘭西委員と英吉利委員とは、ともに、自分たちの国の歴史に思ひを馳せました。どつちからともなく、ジヤンダアクの名が口にされました。
この噂は、忽ち、村ぢうに拡がります。
葡萄畑に鍬を入れてゐた父親の耳にも、当然それがはひらないわけには行きません。
彼は、握り拳を固めて、空に突き上げました。
「やりやがつた!」
人々は、この父親をとり巻いて、娘の壮烈な行為を褒めそやします。その声が高すぎてはなりません。
不吉な予感が地べたを通つてゐます。
果して、一週間後に、伊太利軍司令官の命令として、エリザを銃殺に処する旨の宣告が下されました。
それと同時に、南チロル一帯の村々に不気味な騒音が湧き上り、国境には、再び嵐が来るかと思はれました。
武装した軍隊が繰り出されました。
ある朝、密雲の中を電光が走るやうに、ブレンネルの大通りを、一隊の騎馬兵が通過しました。
その後から、一台の自動車が、エリザを運んで、町の広場に差しかゝりました。
群集は黙々として、これを見送ります。教会堂の前で、車が停ります。
血の気を失つたエリザのよろめき歩く姿を、人々は、眼を曇らせながら眺めてゐます。エリザは敷石の上に跪きました。
餌をひろつてゐた一群れの鳩が、驚いて飛び立ちます。
恰度、その時刻に、ブレンネル・ホテルの一室で、窓から空を眺めてゐたのは、パリヤアニ中尉です。
空は、からりと晴れてゐます。
細く尖つた鐘楼の上で、鳩の群が輪を画いてゐます。
中尉は、腕時計を見ました。そして、
──あと二分──
と、口の中で呟きました。
エリザの最期が近づいてゐるのです。
民族の名に於ては、美徳も亦常に悲劇であると、この時、ふと中尉は考へました。
彼は十字を切ります。
と、その刹那銃声が轟きました。反響が谷々に伝はります。鳩が、四方へ散りました。一筋の煙が淡く、その後に浮びました。
底本:「岸田國士全集6」岩波書店
1991(平成3)年5月10日発行
底本の親本:「花問答」春陽堂書店
1940(昭和15)年12月22日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2011年5月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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