初夏に座す
岡本かの子
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人生の甘酸を味はひ分けて来るほど、季節の有難味が判つて来る。それは「咲く花時を違へず」といつた──季節は人間より当てになるといふ意味の警醒的観念からでもあらう。季節の触れ方は多種多様で一概には律しられないが、触れ方が単純素朴なほど、季節は味はふ人の身に染めるやうである。
この頃の季節の長所は明るく、瑞々しく、爽かなことである。たいがい憂愁も、しばし忘れさせて呉れる、常緑樹の重厚な緑のバツクに対して鬱金色の粉を吹いたやうな灌木の新芽、あらゆる形の「点」と、あらゆる形の「塊」とで清新な希望の国を構成する若葉の茂り、見れど見飽かず、眺むれど眺め尽せぬ心持ちがする。
野には晩春を咲越へて、なほ衰へを見せない花、すでに盛夏を導いて魅力ある花、それ等に交り、当期の花は鮮妍を競つて盛上つてゐる。碧青や、浅黄をまぜて、大空は仰ぐ眼をうつとりさせる。寛いだ白雲は悠々と歩を運ばしてゐる、そこにはなほ光と匂と微風の饗宴がある。
食物には、筍は孟宗のシユンは過ぎて淡竹真竹の歯切れのよい品種が私たちを迎へる。魚類はそろそろ渓川の潚洒な細鱗が嗜味の夢に入る、夕顔の苗に支柱を添へ、金魚の鉢に藻を沈めてやる、いづれも、季節よりの親しみである。
この際、忙中寸暇を割いて、座つて落ち付いて見る、場所はあまり物を置かない庭向きの座敷がいい、新茶の一椀を啜つて見るのもいい、これは決して贅沢でも閑人でもない。そこに、何ものか洗ひ浄められ慰められ、その下からひしひしと心に湧き上つて来るものがある筈である。生活行進曲の新譜である。人は季節の黙示に対して詩人であるところの素質と権利を持つてゐる。真の詩人とは万物に即して生活力の源泉を見出す人をいふ。
底本:「日本の名随筆 別巻14 園芸」作品社
1992(平成4)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十二巻」冬樹社
1976(昭和51)年9月
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月27日公開
2007年5月17日修正
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