物理学の要用
福沢諭吉
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物理学とは、天然の原則にもとづき、物の性質を明らかにし、その働を察し、これを採ってもって人事の用に供するの学にして、おのずから他の学問に異なるところのものあり。たとえば今、経済学といい、商売学といい、等しく学の名あれども、今日の有様にては、経済商売の如き、未だまったく天然の原則によるものに非ず。いかんとなれば、経済商売に、自由の主義あり、保護の主義あり。そのもとづくところ、同じからずして、英国の学者が自由をもって理なりといえば、亜国の人は保護をもって道なりといい、これを聞けば双方ともに道理あるが如し。されば、経済商売の道理は、英亜両国においてその趣を異にするものといわざるをえず。
物理はすなわち然らず。開闢の初より今日にいたるまで、世界古今、正しく同一様にして変違あることなし。神代の水も華氏の寒暖計二百十二度の熱に逢うて沸騰し、明治年間の水もまた、これに同じ。西洋の蒸気も東洋の蒸気も、その膨脹の力は異ならず。亜米利加の人がモルヒネを多量に服して死すれば、日本人もまた、これを服して死すべし。これを物理の原則といい、この原則を究めて利用する、これを物理学という。人間万事この理に洩るるものあるべからず。もしあるいは然らざるに似たる者は、未だ究理の不行届なるものと知るべし。そもそもこの物理学の敵にして、その発達を妨ぐるものは、人民の惑溺にして、たとえば陰陽五行論の如き、これなれども、幸にして我が国の上等社会には、その惑溺はなはだ少なし。拙著『時事小言』の第四編にいわく、
「(前略)ひっきょう、支那人がその国の広大なるを自負して他を蔑視し、かつ数千年来、陰陽五行の妄説に惑溺して、事物の真理原則を求むるの鍵を放擲したるの罪なり。天文をうかがって吉兆を卜し、星宿の変をみて禍福を憂喜し、竜といい、麒麟といい、鳳鳥、河図、幽鬼、神霊の説は、現に今日も、かの上等社会中に行われて、これを疑う者、はなはだ稀なるが如し。いずれも皆、真理原則の敵にして、この勁敵のあらん限りは、改進文明の元素は、この国に入るべからざるなり。
我が日本にもこの敵なきに非ざりしかども、偶然の事情によりて大いに趣を異にするところあり。我が国において、鬼神幽冥の妄説は、多くは仏者の預るところとなりて、もっぱら社会に流行したることなれども、三百年来、儒者の道、ようやく盛にして、仏者に抗し、これに抗するの余りに、しきりに幽冥の説を駁して、ついには自家固有の陰陽五行論をも喋々するを忌むにいたれり。たとえば、儒者が易経を講ずれども、ただその論理を講ずるのみにして、卜筮を弄ぶを恥ずるが如し。その仏を駁撃するはあたかも儒者流の私なれども、この私論の結果をもって惑溺を脱したるは、偶然の幸というべし。
支那の儒者も孔孟の道を尊び、日本の儒者も孔孟の書を読み、双方ともにその教の源を同じゅうして、その社会に分布したる結果において、まったく相反するは、偶然に非ずして何ぞや。けだし、支那の儒教は敵なきがゆえに、その惑溺をたくましゅうし、日本の儒教は勁敵に敵して自から警めたるものなり。かつ我が儒者はたいがい皆、武人の家に生れたる者にして、文采風流の中におのずから快活の精神を存し、よく子弟を教育してその気風を養い、全国士族以上の者は皆これに靡ざるはなし。改進の用意十分に熟したるものというべし。」云々。
右の如く、我が国上等社会の人は、無稽の幽冥説に惑溺すること、はなはだ少なしといえども、その、これに惑溺せざるは、ただ一時仏者に敵するの熱心に乗じたるものにして、天然の真理原則を推究したる知識の働に非ざるがゆえに、幽冥説に向って淡白なるほどに、物理においてもまた自から漠然たるの情あるが如し。
儒者が地獄極楽の仏説を証拠なきものなりとて排撃しながら、自家においては、数百年のその間、降雨の一理をだに推究したる者なし。雨は天より降るといい、あるいは雲凝りて雨となるというのみにして、蒸発の理と数とにいたりては、かつてその証拠を求むるを知らざりしなり。朝夕水を用いてその剛軟を論じながら、その水は何物の集まりて形をなしたるものか、その水中に何物を混じ何物を除けば剛水となり、また軟水となるかの証拠を求めず、重炭酸加爾幾は水に混合してその性を剛ならしめ、鉄瓶等の裏面に附着する水垢と称するものは、たいてい皆この加爾幾なりとの理は、これを度外におきて推究したる者あるを聞かず。今日にありても儒者の教に養育しられたる者は、これらの談を聴きて瑣末の事なりと思うべけれども、決して然らず。
欧州近時の文明は皆、この物理学より出でざるはなし。彼の発明の蒸汽船車なり、鉄砲軍器なり、また電信瓦斯なり、働の成跡は大なりといえども、そのはじめは錙朱の理を推究分離して、ついにもって人事に施したる者のみ。その大を見て驚くなかれ、その小を見て等閑に附するなかれ。大小の物、皆偶然に非ざるなり。人にして物理に暗く、ただ文明の物を用いてその物の性質を知らざるは、かの馬が飼料を喰うて、その品の性質を知らず、ただその口に旨きものはこれを取りて、然らざるものはこれを捨つるに異ならず。
然りといえども、馬はなお、その物の毒性なるか良性なるかを弁ずるの能力を有す。然るに今の世の不学の徒は、汽車に乗りて汽の理をしらず、電信を用いて電気の性質を知らず、はなはだしきは自身の何物たるを知らずして、摂生の法を誤る者あり。なおはなはだしきは、医は意なりと公言して、医術は憶測に出ずるものかと誤まり認め、無稽の漢薬を服して自得する者あり。その愚の極度にいたりては、売薬をなめて万病を医せんと欲する者あり。上等社会にしてその知識の卑しきこと、実に驚くに堪えたり。
ひっきょう物理を度外視するの罪にして、あるいは人にして馬に若かずと評せらるるも、これに答うるの辞なかるべし。我が慶応義塾において初学を導くにもっぱら物理学をもってして、あたかも諸課の予備となすも、けだしこれがためなり。なお、その教則の事については他日陳述するところのものあるべし。
底本:「福沢諭吉教育論集」岩波文庫、岩波書店
1991(平成3)年3月18日第1刷発行
底本の親本:「福沢諭吉選集 第3巻」岩波書店
1980(昭和55)年12月18日第1刷発行
初出:「時事新報」時事新報社
1882(明治15)年3月22日発行
入力:田中哲郎
校正:noriko saito
2006年12月30日作成
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