「マリー・ロオジェ事件」の研究
小酒井不木



     一、序言


 ポオの探偵小説「マリー・ロオジェ事件」は、言う迄もなく、一八四一年七月、紐育ニューヨークを騒がせたメリー・ロオジャース殺害事件を、パリーに起った出来事として物語に綴り、オーギュスト・ヂュパンをして、その迷宮入りの事件に、明快なる解決を与えさせたものである。小説は一八四二年十一月に発表されたのであって、一八五〇年に出た再版の脚註に、ポオは、「マリー・ロオジェ事件は、兇行の現場から余程はなれた所で書いたもので、研究資料といっては色々な新聞が手にはいっただけだった。そのために、作者は、現場の近くにいて、親しく関係のある地点を踏査していたら得られたであろう色々な材料を逸したものが多いとは言いながら、二人の人物(そのうちの一人はこの物語の中のドリュック夫人にあたるのだ)が、この物語を発表してからずっと後に、別々の時に私に告白したところによると、この物語の大体の結論ばかりでなく、その結論に到達するに至った細々しい臆測の主要な部分は、ことごとく事実そのままだったということである」と書いているけれども、ポオが推理の材料とした事実は、真の事実とは幾分か違っているのであって、従ってポオの与えた解決は実に怪しいものなのである。換言すればポオは自分の物語を読者に一も二もなく納得させるために、前提として、自分に都合のよい材料をのみ選び出したらしい形跡があるのであるから、ポオの結論は、決してメリー・ロオジャース事件の真相を伝えたものとは言い難い。

 しからば、メリー・ロオジャース事件の真相は何であるかというに、もとより今に至るまで明かにされてはいないのであって、今後に於て解決されることは尚更なおさらあるまじく、所謂いわゆる永遠の謎に外ならぬ。従って私がこれから述べようと思うのは、この謎に対する解決ではなくて、探偵小説家としてのポオの名を不朽ならしめたこの物語の題材となっている事実を挙げて、読者の比較研究に資し、併せてポオの驚くべき推理の力について考察するに過ぎないのである。


     二、メリー・ロオジャース事件に関する事実


 その当時にすらわからない事件であるから、大部分の記録が失われてしまった今日、もはや如何いかんともすることは出来ない。私たちはむしろポオの小説によって、この事件の真相を教えられるという皮肉な立場に居るのであって、かの Third Degree と称する特種の訊問法を発明したバーンス探偵の著書「アメリカの職業的犯罪者」中のこの事件の記述さえ、ポオの物語の影響が見られるということである。もっとも、ポオの小説がなかったならば、たとい、殺されたのがニューヨークで評判の美人であっても、この事件はこれ程有名にならなかったであろうから、ポオの物語の内容が重要視せられるのは無理もないことかも知れない。

 チャーレス・ピアスの著「未解決殺人事件」によると、この事件の記録は、前記バーンスの著書と、ニューヨーク・トリビューン紙の記事より他にこれという目ぼしいものはないそうである。千八百四十一年代の新聞はこのトリビューン紙を除いては現今見ることが出来ないのだそうであって、しかもポオはこのトリビューン紙の記事を一つもその物語の中に引用していないのであるから、ポオが当時の新聞記事として引用したものが、果して本当のものかどうかということさえ確かめることが出来ぬのである。が、それはとにかく、先ず、私はピアスの著によって、この事件について知られたる事実を述べようと思う。

 メリー・セシリア・ロオジャースは、その当時ニューヨークの下町に出入する男で知らぬものはないといってよい程であった。彼女は一八四〇年、ブロードウエーはトーマスストリート近くのアンダアスン(小説ではル・ブラン君)という人の煙草店に売子として雇われたのであるが、その美貌のために店は大繁昌をきたし、当時二十歳の彼女は、Pretty cigar girl と綽名あだなされて後にはニューヨーク中の評判となった。彼女の母はナッソー街に下宿屋を営んでオフィス通いの人たちに賄付まかないつきで間貸しをしていたのである。

 一八四一年の夏もまだ浅い頃、ある日彼女は突然店を休んで約一週間ほど姿をあらわさなかった。この事はただちに人々の話題となり、彼女がせいの高い立派な服装なりをした色の浅黒い男と一緒に歩いているのを見たというものがあって、眼尻の下った連中に岡焼おかやき半分に噂されたものである。店へ帰って来ると彼女は、田舎のお友達の家をたずねたのだと語ったが、その真相は誰も知らなかった。

 しかし、そのことがあって間もなく、彼女は煙草屋の店を退いて家に帰ったので、彼女の店にせっせと通って不要な煙草を買った連中は、掌中の珠を奪われたかのように落胆した。しかも彼女は家に帰ると間もなく、下宿人の一人なるダニエル・ペイン(小説ではサン・チュースターシュ)と婚約したという噂が伝わって、人々は一層失望した。

 七月二十五日(日曜日)の朝、彼女はペインの室のドアをノックして、今日はこれからブリーカー街の従姉のドーニング夫人をたずねますから、夕方になったら迎えに来て下さいといって家を出た。が、それが今生こんじょうの別れであろうとはペインは夢にも思わなかったのである。なお又、彼女がそれから死骸となって発見されるまで、彼女の生きた姿を見たものは一人もなかった。

 その朝は快く晴れていたが、正午ひる過から天気が変って、夕方にははげしい雷雨となった。それがため、ペインは彼女との約束を果たさなかったが、従姉の家なら泊めてもくれるであろうと思って、彼は少しも気に懸けなかったのである。あくる日彼は平気で仕事に出かけ、昼飯をりに帰って来たが、その時まだメリーが帰らぬときいて、始めて心配になり出したので、とりあえず、ドーニング夫人のもとを訪ねると、意外にもメリーは昨日来なかったと聞いて吃驚びっくり仰天し、家に駈け戻って、母親に事情を告げた。それから人々は心配の程度を深めつつ彼女の帰宅を待ったが、とんと姿を見せなかったので警察に訴えて捜索して貰った。しかし一日と過ぎ二日と経っても彼女は帰らないのみか、どこに居るかということさえわからなかった。

 ところが八月二日になって、トリビューン紙にはじめて次の記事が載ったのである。

「戦慄すべき殺人事件。『美しい煙草屋の娘』として名高いロオジャース嬢は先週日曜日の朝、散歩して来ると、ナッソー街の自宅を出たが、劇場横町シアーター・アレーの角で待ち合せていた若い男と共に、ホボーケンにでも遊びに行くとてかバークレー街の方へ歩いて行った。その以後、消息がふっつりと絶えたので、家族朋友はおおいに心配して、火曜日の新聞には広告をしてまでその行方をたずねることになった。けれども、何処どこからも何の知らせもなかったが、水曜日に至ってルーサーという人と他の二名の紳士が帆船でホボーケンのキャスル・ポイントに近いシヴィル洞孔を通過しつつあった時、水中に若い女の死骸のあることを発見し、大に驚いて、とりあえず河岸かしに運んで届け出たところ、直ちに審問が行われ、その結果、件の死骸はロオジャース嬢のそれとわかった。彼女はむごたらしい暴行を加えられた後殺されたもので、『未知の人又は人々による他殺』なる宣言が下された。彼女は善良な性質の娘で近くこの市の某青年と結婚する筈であった。聞くところによると、殺害が行われてから行方をくらましたある青年に嫌疑がかかっているとの事である」

 この記事の始めにある、彼女が町角である青年と逢って共にホボーケンへ行こうとしたということは、かかる殺人事件に伴い易い単なる風説に過ぎなかったのであって、その後二度と新聞に繰返されなかった。バーンスの著書は多分警察の記録に従って書かれたものらしいのであるが、それによって発見当時の死骸の状態を述べると、彼女の顔は甚だしく傷害を受け、腰のまわりに、短い紐によって重い石が附けられてあった。彼女は彼女の衣服から引き裂かれた布片きれで絞殺され、両腕のまわりに紐の跡がはっきり附いていた。両手には薄色のキッドの手袋をはめ、ボンネットは、リボンによってくびにひっかかっていた。そうして衣服全体が甚だしく乱れ且つ引き裂かれてあった。

 八月六日、トリビューン紙は二度目の報知を掲げた。

「ロオジャース嬢殺害事件は日に日に人々の興味を喚起しつつある。……一週間を経るもなお犯人は不明であって、警察は躍起になって活動しているけれど、もはや遅過ぎる感がないでもない。市長は自ら賞を懸ける前にニュー・ジャーセー州知事の懸賞を待っているとの噂があるが、それは誤聞であるらしい。……失踪当日の日曜日にホボーケンで彼女を見た人はないか? もし警察へ告げてかかり合いになることを恐れている人があるならば、新聞社へ手紙を送って貰いたい」

 けれども、これに対して何人なんぴとも返事するものはなかった。八月十一日、彼女と婚約の間柄なるペインは、判事パーカーに警察へ呼出されて長時間の訊問を受けたが、犯人の手がかりは少しも得られなかった。トリビューン紙はこのことを報告すると同時に、ペインが彼女の失踪後二日三日の間、自ら捜索を行いつつあったにかかわらず、水曜日に彼女の死体が発見されたという報知を得ながら、それを見に行かなかったことを不思議な現象だとして特に世人の注意を促した。

 その日は警察でペインを中心として午前八時から午後七時まで熱心な研究が行われたが、死体がロオジャース嬢に間ちがいないという程度以上に捜索は進まなかった。死体鑑別の証人は幾人かあったが、そのうちには、メリーの以前の求婚者たるクロムリン(小説では、ボオヴェー君)も居た。この男は、心配事があったら、いつでも呼びに来てくれとでも言ってあったのか、メリーが殺される前の金曜日にロオジャース夫人(メリーの手蹟で)から、一寸来てくれという手紙を受取ったが、先だって訪ねたとき、冷淡な待遇を受けたので、行くことをしなかったのである。が、土曜日に、彼の家の石の名札にメリーの名が書かれ、鍵孔には薔薇の花が挿してあった。水曜日にクロムリンは死体発見の報を得てホボーケンへ行って夕方まで居たが、天候がいやに蒸暑かったので、審問が大急ぎで済まされ、死体は埋葬された。で、彼が帰宅しようと思ってハドスン河を渡ろうとしたが渡船が出なかったので、ジャーセー市まで歩いた。しかし、ここでも船は出なかったため、やむなく宿泊するに至った。だからメリーの死体は母親の目にもペインの目にも触れなかった訳で、ただその衣服によって、メリーだということが鑑別された。

 死体を最初に発見した紳士たちは、彼女が宝石類を身につけていなかったことを誓った。しかも、彼女はたしかに宝石を身につけて、家を出たらしいのである。なお又紳士たちは、紐も縄も死体には巻かれてなかったといったので、この点バーンスの記載とすこぶるちがっているけれども、どちらが本当であるかは、今になって知る由もない。

 彼此かれこれするうちに、ここに新らしいセンセーションが起った。それは何であるかというに、以前ナッソー街一二九番地に住んでいたモース(小説ではマンネエ)という木彫師が犯人嫌疑者として逮捕されたことである。彼はマッサチューセット州ウースターから七マイル離れた西ボイルストンで八月九日に逮捕されたのであって、その前数日間というもの、彼は仮名のもとにその辺をうろついていた。逮捕される前、ウースターの郵便局でニューヨーク発の彼宛ての手紙が発見されたが、その中に髭を剃り服装をかえて探偵の眼をくらませるがよいという忠告が書かれてあった。訊問の際彼は、細君殴打のかどで逮捕されたときいて「それだけですか」と言い、なお七月二十五日、何処に居たかと問われて、始めはホボーケンへ行ったといい、後にはステーツン・アイランドへ行ったと言った。

 このモースという男は小柄ながっしりした体格をして黒い頬鬚をはやし、さっぱりした服装をしていたが、性質は善良とはいえない方で、博奕ばくちが非常に好きであった。度々煙草店を訪問してメリーとも知り合の仲であったし、問題の日にメリーと一しょに歩いていたという証拠が挙げられたし、その夜家に居なかったし、翌日トランクを自宅からオフィスへひそかに運んで、仮名でニューヨークを逃げだし、その上に前記の手紙が発見されたというのであるから、彼が犯人嫌疑者と考えられたのは無理もなかった。

 けれども、これは、やはりとんでもない誤謬であった。モースがその日若い女とステーツン・アイランドへ行ったことは事実であるが、その女はメリーではなく、メリーに似た女に他ならなかったのである。で、トリビューン紙は、この事を記した後、「これまで、捜索の歩は、日曜日の夜に殺害が行われたものとして進められて来たが、日曜日の午前か、或は又月曜日の日中又は夜分に行われたものとしては間違であろうか。この点当局者の熟考を煩わしたい」と書いている。そうして、遂に、以前の記事を取消して、メリーは母の家を出てから死体となって発見される迄何人なんぴとにも見られなかったと書かざるを得なくなった。

 日はだんだんと過ぎて行ったが犯人の手がかりは何一つ発見されなかった。で、とうとう九月十日になって、ニューヨーク州知事は、犯人を告げたものには七百五十ドルの賞を与えると広告したのである。しかし、残念ながら、この方法も不成功に終った。

 さて、前にも述べたごとく、当時の新聞はニューヨーク・トリビューン紙の他、一つも見ることが出来ぬのであるから、もとより臆測にとどまるけれども、もし官憲が記事差止めを命じたならば他の新聞も同様の命令を受ける筈であるから、たとい、他の新聞を見ることが出来ても、恐らくこれ以上のことはわかるまいと思われる。けれどもバーンスの著書の中には、トリビューン紙に載っていない事実でニューヨーク・クーリエ紙の九月十四日附の記事として、左の文句が引用されてあるのである。

「ウィーハウケン(小説ではルール関門)附近の堤防に小さな酒店を開いているロッス夫人(小説ではドリュック夫人)は、市長の前で訊問された結果、メリーが七月二十五日の晩、数人の若い男と共に、彼女の店に来て、そのうちの一人の差出したリモネードを飲んだことを告げた。死体の着物はロッス夫人もメリーのものであることを認めた」

 この記事を敷衍ふえんしてバーンスはなお次のような記述を行っている。懸賞のことが広告されたあくる日、無名の手紙が検屍官の許に届いた。読んで見ると、筆者が日曜日にハドソン河畔を散歩していると、ニューヨーク側から一艘のボートがこちらの河岸へこがれて来たが、それには六人の荒くれ男と一人の若い女が乗っていた。その女は他ならぬメリーであった。ボートはホボーケンにつき、一同は森の中へはいったが、彼女はにこにこしながらついて行った。丁度、一同の姿が見えなくなった頃、別のボートがニューヨーク側からやって来て、その中に居た三人の立派な服装をした男は、同じくホボーケンで上陸し、筆者に向って、今ここを六人の男と一人の娘が通らなかったかとたずねた。で、筆者が、通った旨を答えると、更に三人は娘が厭々いやいや引張られて行きはしなかったかとたずねた。そこで、喜んでついて行った様子だと答えると、三人はそうかと言って、再びボートに乗って引返して行ったというのである。

 この手紙は新聞紙に発表されたということであるが、トリビューン紙には載っていない。バーンスによると、更にその後、アダムスという男が、メリーを問題の日曜日にホボーケンのある渡し場で見たことを申し出た。彼女はその時、せいの高い色の黒い男と連立っていて、二人はエリジアン・フィールドの休憩茶屋へ行ったというのである。このことを既記のロッス夫人にたずねると、その日、その通りの男が店へたずねて来て、一ぱい飲んでから森の方へ行ったのは事実であって、暫らく経ってから女の悲鳴のようなものが聞えて来たが、そのようなことはいつもあり勝ちのことであるから別に気にとめなかったというのであった。

 以上の話の中の女が果してメリーであったかどうかはわからないから、このことが、事件の真相をかたちづくっているものとは無論言われないのである。けれどもポオはこれを、有力なる論拠として解決しようとしたのである。そうして、バーンスは、更に次のように書いている。

「犯罪の行われた場所は九月二十五日即ち殺害の満二ヶ月後にロッス夫人の小さな子供たちによって発見された。即ち彼等が森へ遊びに行くと、奥の叢林の中に白の下袴ペチーコートと絹のスカーフとパラソルとM・Rというイニシアルのついた麻の手巾ハンカチーフとを発見したのである。その附近の土地は踏み荒され、雑草の幹は折られ、はげしい格闘の跡が認められた。そうしてその叢林の中から、ちょうど死体を引摺ったような跡が一本河の方に向ってついていたが、やがて森の中で消えていた。そうして、それらの遺留品はすべて、メリーのものであると判別された」

 このことは、トリビューン紙には一語も記されていない。なお又、メリーの婚約者であるペインが彼女の死に遭遇して悲歎のあまり自殺したということも載ってはいない。しかしポオはこれらのことを既に読者の知らるる如く物語の中に引用しているのである。そうして、バーンスのこの記述は、残念ながら、その出所が明かにされていないばかりか、何だかポオの物語が多少影響しているようにも思われる。しかしポオの物語が悉く信頼すべき事実にって書かれたものだとはバーンスも思わなかったであろう。して見ると真実であるかとも思われる。けれど、もとより絶対に信をく訳にはいかぬのである。


     三、事件の真相


 以上が、メリー・ロオジャース殺害事件に関する事実の主要なるものであって、これらの僅少な事実からして、事件の真相を判断することは到底不可能のことである。

 ことに最も残念に思われることは、死体を検査した医師の言葉が、信頼すべきところに記されてないことである。審問の行われるときに医師が立合わぬ筈はないのに、そのことがトリビューン紙にも書いてなければ、バーンスの著書にも書いてない。ただポオのみが医師の屍体検案書のことを書いている。ところがポオはクロムリン(小説ではボオヴェー君)がウィーハウケン(小説ではルール関門)の附近を捜索している際に、ちょうど漁夫等が、河の中に一つの死体を発見してたった今網で岸へ曳き上げたところだという知らせを受け、駈けつけて死体の鑑別を行ったように書いているけれども、実際は前に記したように、クロムリンは、死体発見の報知を自宅で受けてからホボーケンへ行ったのであって、彼が到着した時分にはすでに審問が始まっていたにちがいない。しかもこのことはトリビューン紙に出ているけれどもバーンスの記述の中にはクロムリンのことは一語も書かれていないのである。いずれにしてもクロムリンがゆっくり死体を見ることが出来なかったのは想像するに難くない。

 ところがポオは、クロムリンの鑑別にたずさわったことを書いて後、死体の状態を記述して精細を極めている。「顔には黒血がにじんでいた。その血の中には、口から出た血も混っていた。ただの溺死者の場合に見られるような泡は見えず、細胞組織には変色はなかった。咽喉のまわりには擦過傷がついており、指の痕がのこっていた。両方の腕は胸の上に曲げられて剛直しており、右手はかたく握りしめ、左手は半ば開いていた。左の手頸てくびには、皮膚の擦りむけたあとが二すじ環状になって残っていた。それは、二本の縄でできたものか、或は一本の縄を二重に巻いて縛ったためにできたものかであることは明瞭だった。右の手頸の一部分もよほど皮膚が擦りむけており、それからひきつづいて右腕の背部一面に皮膚が擦りむけていたが、とりわけ、最もひどかったのは、肩胛骨けんこうこつの部分だった。漁夫等は、この屍体を岸へ曳きあげるときに、屍体に縄をむすびつけたということであるが、どの擦れ傷もそのためにできたものではなかった。頸部の肉は膨れ上がっていた。切傷のあとや、打撲傷らしいものは一つも見られなかった。頸部のまわりをレース紐でかたく縛ってあるのが発見された。あまりかたく縛ってあるので、紐がすっかり肉の中に食い入っていて外からは見えなかった。その紐はちょうど左の耳の下のところで結んであった。これだけでも優に致命傷となったであろうと思われる。医師の死体検案書には死人の貞潔問題が自信をもって記してあり、死者は、野獣的な暴行を加えられたのであると述べてあった」

 この詳細な記述が医師の死体検案書に書かれてあったものでないことは決して想像するに難くはない。何となればポオが医師の検案書を取り寄せたとは考えられぬし、このような委しい記述が当時普通の新聞に発表されることはなかろうと思われるからである。即ち以上の記述及びそれに続く衣服の状態の記述は、(小説参照)全く彼の想像力の所産と見るべきである。

 ポオは小説を作るのが目的で、事実を紹介するのが目的でなかったから、それでよいとしても、バーンスとなるとそうはいかない。ところがバーンスの記述を読むと幾分かポオの記述と似ていて、しかも前に述べたように、腰のまわりに短い紐で重い石が附けられてあったと書かれているのである。しかるに死体を最初に発見した人たちは、身体には紐や縄らしいものは一本も附いていなかったと証言しているのであって、こうなると一たいどう信じてよいか判断がつきかねるのである。

 もし医師の検案書が果して他の新聞に発表されたとしたならば、ポオは死体が幾日間水中にあったということについて、ヂュパンに長い議論をさせる必要はない筈である。なお又、死体がメリーであるか無いかの疑問も起らない訳であって、あの長々しいアイデンチフィケーションに関する説明もしなくってすんだ訳である。しかし、探偵小説を書くためには、溺死体が水に浮ぶか否かの議論もしなければならぬし、又、個体鑑別論も書かなければならない。実際あの小説の三分の一を占める明快な個体鑑別論によって、読者はヂュパンの驚くべき推理に敬服し、次で行われる事件の解決を一も二もなく受け容れねばならなくなるからである。だから、私たちは、ポオの引用したエトワール紙(事実ではニューヨーク・ブラザー・ジョネーザン紙)の「死体はマリーにあらず」という議論は、恐らく、ポオが議論するために仮に設けたのではあるまいかと疑って見たくなる訳である。

 発見された死体の状態の記述がこのように区々まちまちである以上、たとい死体がマリーであることに疑ないとしても、彼女がどんな風な殺され方をしたかということを、死体の状態から判断することは不可能である。従って私たちは、死体を離れて、注意をホボーケンに向け、もって彼女の死の真相を推察しなければならぬのである。

 ところが、前に記したように、ホボーケンで、彼女を見たというロッス夫人やアダムスの証言は決して断定的のものではない。又森の中で発見されたというマリーの所有品の記述も、どこまでが本当であるかを知るに由ないのである。従ってポオの、犯人は一人であって、悪漢たちの仕業しわざでないという結論も容易に賛成することが出来ないのである。ポオはメリーの第一回の失踪が海軍士官と一しょであったことから、海軍士官が犯人だろうと推定し、メリーの心を想像して次のように書いている。

「……自分は或る人と駈落ちの相談をするために会うことになっているのだ。駈落ちでないとしても、それは自分だけしか知らない或る目的のためだ。そのためには、どうしても、はたから邪魔されたくない──あとから追っかけて来ても、それまでに行方をくらましておけるだけの時間の余裕をこさえておかなくちゃならない──だから自分はドローム街の伯母さん(ブリーカー街の従姉)のとこへ行って一日じゅう遊んで来るってみんなのものに告げておくことにする──サン・チュースターシュ(ペイン)には、暗くなるまで迎えに来ちゃいけないって言っとく──そうすれば、できるだけ長い間、誰にも疑われず、誰にも心配かけずに家を留守に出来るというものだ。時間の余裕をこしらえるにはそれが一番いい方法だ。サン・チュースターシュに暗くなってから迎いに来て下さいって言っておけば、あの人はきっとそれまでに来る気遣いはない。だけど、迎いに来てくれとも何とも言わずにおけば、自分の逃げる時間の余裕が減って来る勘定だ。何故かっていうと、皆んなの者は自分がもっと早く帰ると思って、自分の帰りが少しでもおくれると心配するからだ……」

 マリーの精神分析はこのように精細を極めているけれども、これによって、殺害の秘密は少しも明かにされてはいないのである。ことに、「だけど、自分はもう二度と家へは帰らないつもりだから──或はここ何週間かは家へ帰らないつもりだから──或はまた人に言えない或る用事をすます迄は帰らないつもりだから、自分にとっては、たっぷり時間の余裕をこさえることが何より肝腎なんだ」という、言葉に至っては、彼女が死体となってあらわれるに至る事情を説明するというよりも、むしろ、まだ何処かに生きておって、死体は彼女でないと説明するのに都合がいいくらいである。もっともこれは犯人が一人だとの推定を裏書きするための議論であるから已むを得ないことでもあろう。

 第一回の失踪を第二回の失踪即ち殺害と関係あるものと考えたポオの推定は、犯罪学的に見て頗る当を得ているのである。ところがポオは第一回の失踪と第二回の失踪との間の時日を夕刊新聞六月二十三日の記事(小説参照)によって、約三年半として推定を行っている。ポオは物語の始めに約五ヶ月と書いて、後に三年半として推定を行っているのは変である。マリーは煙草店に一年半ばかりしか居なかったので、三ヶ月半の書き違いかとも思えるけれど、「第一のたしかにわかっている駈落ちと、第二回目の仮定の駈落ちとの間に経過した時間は、アメリカの艦隊の一般の巡航期間よりも数ヶ月多いだけだということだ」と書いているところを見ると、やはり三年半と見てのことであるらしい。して見ると海軍士官をマリーの恋人と見るのは頗るおかしく、従って色の浅黒いことや、帽子のリボンの「水兵結び」なども、事件の真相から眺めて見れば一種のこじつけになって来るのである。もっとも、海軍士官云々の説は六月二十四日のメルキュール紙の「昨夕発行の一夕刊新聞は、マリー嬢が、以前に合点のゆかぬ失踪をしたことがある事件に言及しているが、彼女が、ル・ブラン氏の香料店にいなくなった一週間、彼女が若い海軍士官と一しょにいたのであるということは周知の事実である。この海軍士官は有名な放蕩者であった。幸にして、二人の間に仲たがいが起ったために、マリーは帰るようになったのだと想像されている」という記事を根拠としたものであろうけれど、夕刊新聞には、第一回の失踪の原因について、マリーも母親も、田舎の友達のところへ遊びに行ったのだといっているに反し、メルキュール紙が、「海軍士官と一しょにいたことは周知の事実である」と書いているのも少々おかしいように思われる。海軍士官のことがもし周知であるならば、メリーの母親の知らぬ訳はなく、従って母親を訊問した警察の記録には載っている筈で、それを調べた筈のバーンスの著書には当然書かれていなければならぬのに、その記述はないのである。

 最後に、メリーが何処で殺されたかの問題も、知れている事実だけから推定してこれを解決することは頗る困難である。しかし、メリーの死体がハドソン河から発見されたことは、ハドソン河の近くで殺害の行われたことを想像するに難くはない。現今ならばメリーの衣服に着いている塵埃や草の葉の破片などから、それを顕微鏡的に検査することによって兇行の場所を推定することが出来るであろうけれども、当時は常識的に判断するより他はなかった。もしウィーハウケン(小説ではルール関門)の近くで認められたという女がメリーであったならば、兇行はやはりその附近で行われたものとするのが、常識的に見て当然のことである。

 そこで今度はメリーが一人の男に殺されたのか又は一団の悪漢たちに殺されたかという問題が起って来る。何となればメリーは六人のものと一しょだったという見証と、色の浅黒い男と一しょだったという見証とがあったからである。無論前にも述べたごとく、これらの見証は頗る怪しいものであるが、仮りにそれを是認するならば、ポオの推定したように一人に殺されたとした方が理屈に合うようである。しかし当時の人達は格闘した形跡の発見を基として一団の人達に殺されたと信ずるものが多かったのである。ポオの文章の中に、

「まず手初めに検屍に立ちあった外科医の検案なるものが出鱈目でたらめなものだということをちょっと言っておこう。それにはただこれだけのことを言っておけばよいのだ。あの外科医が下手人の数について発表している推定なるものが、パリーの第一流の解剖学者たちによって、不当な、全然根拠のないものだとして一笑に附せられているということをね」

 とあるところを見ると、検屍に立ちあった医師までが犯人の多数説を建てたと見える。しかし、このことも、恐らく前に述べたようにポオの空想から生れた「事実」であろうと思われる。

 そこで次に、ポオはこの世間の説を反駁するために、

「まあ、格闘の形跡なるものをよく考えて見よう。一体この形跡は何を証明するというんだと僕は訊ねるね。それは一団の悪漢のしわざであるということを証明しているのだが、むしろ、これは、一団の悪漢のしわざでないということを証明してるじゃないか。いいかね、相手はか弱い、全く抵抗力のない小娘だぜ。こんな小娘と、想像されているような悪漢の一団との間にどんな格闘が行われ得るかね。……二三の荒くれ男がだまって鷲づかみにしてしまやあ、それっきりだろうじゃないか。……これに反して、兇行者がただ一人であると想像すれば、その場合にのみはじめて明白な形跡をのこすような、はげしい格闘の行われたことが理解できるのだよ。次に、僕は例の遺留品が、そもそも発見された場所におき忘れてあったと言う事実そのことに疑いがあるということを言っといたが、こんな犯罪の証拠が、偶然にある場所に遺棄してあるということは、殆んど有り得ないことのように思われるね。……僕の今言ってるのは殺された娘の名前入りのハンカチのことなんだ。たとい、これが偶然の手落ちであるとしても、それは徒党を組んだ悪漢の手落ちじゃないね。一人の人間の偶然の手落ちだとしか想像できないね、いいかね、或る一人の兇漢が殺害を犯したとする。彼はたった一人で死人の亡霊と向いあってるのだ。……彼はぞっとする。……けれども死体をどうにか始末する必要があるのだ。彼は他の証拠物はうっちゃっておいて死体を河ぶちまで運んで行く。──ところが一生懸命に骨を折って死体を河まで運んで行く間に、心の中で恐怖は益々募って来る。……どんな結果になろうとも、彼は断じて引き返せないのだ。彼のただ一つの考はすぐに逃げ出すことだ。……」

 と書いて犯人の一人説を主張し、併せてその犯人の行動をも推定しているのである。そうしてなお、死体の上衣うわぎから、幅一フィートばかりの布片きれが裾から腰の辺まで裂いて、腰のまわりにぐるぐると三重に巻きつけて、背部でちょっと結んでとめてあったことを、犯人が一人であったために死体を運ぶための把持とされた証拠だと述べているのである。

 しかし、ここに於て、ポオは、実は一つの論理的矛盾に陥っているのである。何となれば彼は、叢林の中に残された品物が三四週間も発見されずにあるということは考えられないから、それらの品物は、兇行の現場からわきへ注意をそらそうという目的で、わざと叢林の中へ置かれたものだろうと推定して置きながら、(小説参照)前記の文中には、その場所を兇行の現場と認め、なお、品物は犯人が偶然残して置いたのであるように推定しているからである。このことは昨年の三月二十七日発行の「ゼ・デテクチヴ・マガジン」にボドキン判事によって指摘され、同氏は、この自家撞着があるために、この作品に対する期待を打ち壊されてしまったと言っている。

 なお又、ウエルス女史が指摘したように、裾から腰の辺まで裂かれた布片きれが、マリーの腰のまわりを三重に巻くということも彼の論理的の矛盾ということが出来るのであって、実際に死体を発見した人たちが、死体には紐も縄も見られなかったと証言したところを見ると、このこともポオの空想から生み出された「事実」といってよいかも知れない。

 いずれにしても、かような論理的の矛盾──ボドキン判事やウエルス女史の指摘した点及び、第一回失踪と第二回失踪との間の時日に関する点などが──この小説に発見されるということは、「マリー・ロオジェ事件」が、必ずしもメリー・ロオジャース事件を説明するもので無いと断言し得るのであって、ポオが推理の材料とした「事実」がまた必ずしも真実でないことを想像し得るのである。

 して見ると、ポオがこの物語の一八五〇年版に附加した脚註(この文の最初に掲げた)はデフォーがしばしば用いた手段と同じように、読者の感興を深からしめるための方策に過ぎないといっても差支ないと思われる。

 以上のような訳で、メリー・ロオジャース殺害事件なるものは、厳密に言えば犯人が如何なる種類の人間であったかということのみならず、何処で殺害が行われたかということさえわからぬ謎の事件なのである。


     四、探偵小説としての「マリー・ロオジェ事件」


 マリー・ロオジェ事件は、もとより探偵小説であって事件の記録ではないが、その中に前節に述べたような論理的矛盾のあるということは、探偵小説としても幾分の感興が薄らぐ訳である。しかるに、この小説を読んでいると、ヂュパンの明快な議論と、その歯切れのよい言葉に魅せられて、どうかすると、これらの論理的矛盾に気がつかないのは、ひとえにポオの筆の偉大なことを裏書きするものであるといってよい。実際、探偵小説を愛好される読者は、恐らくこの小説を読んで、多大の興味を覚えられるにちがいないと思う。

 ポオがこの物語を綴るに至った動機が何であるかはもとより知る由もないが、警察の無能に憤慨して筆を取ったというよりも、この事件を種として、ヂュパンの性格を一層はっきりせしめ、ポオ自身の推理力を遺憾なく発揮して見ようと企てたのであろうと思われる。さればこそ、既に述べたように死体の個体鑑別に殆んど物語の三分の一を費しているのである。そうしてその個体鑑別の精細な点は実に驚嘆に値する。「まあもう一度、ボオヴェー君の死体鑑別に関する部分の議論をよく読んで見給え……」から以下の文章は、個体鑑別に就て書かれた従来のどの文章にも劣らぬ名文であると思う。

 この文章に魅せられた読者は更に進んで、犯人及び殺害の場所に関する推理に導かれる。「今さしあたっての問題としては、吾々はこの悲劇の内部の問題には触れぬことにして、事件の外廓に専ら注意を集中しよう。こんな問題の場合には傍系的といおうか、附随的といおうか、直接事件に関係のない事柄を全く無視するために、取調べに間違いが起ることがざらにあるもんだ。裁判所が、証拠や議論を、外見上関係のある範囲に限定するのは悪い習慣だよ。だが、真理というものは、多く、いや大部分、ちょっと見たところでは無関係に見えるものの中にひそんでいるってことは、経験も証明しているし、ほんとうの哲学もきっとこれを証明するだろう。近代の科学が未知のものを計算しようとするのは、この原則の精神を奉じているからだ」と書いて大部分の真理が傍系的なものから出ることを説明し、当時の周囲の事情を調べるのが当然の順序であることを述べ各新聞紙から、議論を組み立てるに必要な記事を抜粋して、然る後、それを基として更に明快な推理に移って行く手際は、実に巧妙を極めている。

 このような書き方こそ、本格探偵小説の原型をなすものであって、この型が如何にしばしばドイルその他の探偵小説家によって採用されているかは、読者のよく知っていられるところである。列挙せられた新聞紙の記事は所謂この物語の第二の伏線とも見るべきものであって、第一の伏線たるマリー失踪前後の記述と相まちて、この長い物語の美しい「あや」をかたちづくっているのである。何気なしに読んでいると、「マリー・ロオジェ事件」はまるで一篇の論文のように思えるが、その実あく迄用意周到に一篇の物語を編もうとしたポオの努力がありありとあらわれている。

 もとよりこの物語には、何等はらはらさせられるところがない。これは題材の性質上やむを得ないことであるが、それにもかかわらず読者がしまいまでずんずん引っ張られてしまうのは、その叙述の仕方が寸分のスキもないように順序立てられてあるからである。そうして、読者を引っ張って行こうとした努力のために却って論理の矛盾を来すような破目に陥ってしまったのである。

 ポオ自身が、この論理の矛盾に気附いたかどうかは、もとより知るに由もないが、たとい気附いてももはやどうにもすることが出来なかったのであろう。これは本格探偵小説を書くものの常に出逢う難点であって、本格小説に手をつける人の少ないのはこれがためであるとも言える。

 警察の記録ならば事実を羅列しさえすればよいのであるけれども、物語である以上は、読者を満足させるように何等かの解決をつけねばならぬため、そこに多少の破綻が起って来るわけである。又、本格探偵小説を書くときは、ややもすると、些細な点の説明を逸し易いものである。「マリー・ロオジェ事件」の中にも、例えば、ヂュパンは叢林の木の枝に引っかかっていた衣服の破片が、格闘の際偶然に引きさかれたものでないことを主張しながら、何のために犯人がわざわざ衣服を引き裂いてそこに引っかけたかということについては説明していないのである。

 けれども、「マリー・ロオジェ事件」を読まれた読者は、以上の点を除いては、文中に挙げられた大小すべての事項が遅かれ早かれもれなく、分析解剖されていることに気附かれるであろう。実際一面からいえば、かゆいところへ手の届くように書きこなされてあるのであって、これは到底凡手の企て及ばざるところである。

 最近わが国に於ても、盛んに探偵小説の創作が試みられるようになったが、「マリー・ロオジェ事件」のような本格探偵小説を書く人は極めて少ないのであって、私自身も本格探偵小説が書いて見たいと思いながら、つい、むずかしいので手を出し兼ねている。この時にあたって、本格探偵小説の元祖ともいうべき「マリー・ロオジェ事件」が平林氏の忠実にして流暢なる翻訳によって「新青年」に紹介されたことは欣喜に堪えぬところである。読者はよろしく再読三読して、その妙味を味ってほしいと思う。

(「新青年」大正十五年夏季増刊号)

底本:「人工心臓」国書刊行会

   1994(平成6)年920日初版第1刷発行

底本の親本:「新青年」博文館

   1926(大正15)年夏季増刊号

初出:「新青年」博文館

   1926(大正15)年夏季増刊号

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:川山隆

校正:門田裕志

2007年821日作成

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