幻想
有島武郎
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彼れはある大望を持つてゐた。
生れてから十三四年の無醒覺な時代を除いては、春秋を迎へ送つてゐる中に、その不思議な心の誘惑は、元來人なつこく出來た彼れを引きずつて、段々思ひもよらぬ孤獨の道に這入りこました。ふと身のまはりを見返へる時、自分ながら驚いたり、懼れたりするやうな事が起つてゐるのを發見した。今のこの生活──この生活一つが彼れの生くべき唯一の生活であると思ふと、大望に引きまはされて、移り變つて行く己れ自身を危ぶんで見ないではゐられないやうな事もあつた。根も葉もない幻想の翫弄物になつて腐り果てる自分ではないか。生活の不充實から來る倦怠を辛うじて逃げる卑劣な手段として、自分でも氣付かずに、何時の間にか我れから案じ出した苦肉の策が、所謂彼れの大望なるものではないか。さう云ふ風な大望を眞額にふりかざして、平氣な顏をしてゐる輩は、いくらでもそこらにごろ〳〵してゐるではないか。かすかながらこんな反省が彼れをなやます事は稀れではなかつた。
それにも係らず大望は彼れを捨てなかつた。彼れも大望が一番大切だつた。自分の生活が支離滅裂だと批難をされる時でも、大望を圓心にして輪を描いて見ると、自分の生活は何時でもその輪の外に出てゐる事はなかつた。さう云ふ事に氣がつくと急に勇ましくなつて、喜んで彼れは孤獨を迎へた。彼れは柔順になればなる程、親からも兄弟からも離れて行つた。妻や友人が自分を理解するしないと云ふやうな事は、てんで問題にならなくなつた。彼れ自身の他人に對する理解のなさ加減から考へると、他人の理解を期待すると云ふやうな事が卑劣極つた事に思はれた。段々と失つて來てゐた心の自由を、段々と囘復して行く滿足は、外に較べるものがなかつた。
空は薄曇つたまゝで、三日の間はつきりした日の目を見せなかつたから、今日あたりは秋雨のやうなうすら寒い細雨が降るのだらうと彼れは川上から川下にかけてずつと見渡して見た。萌えさかつた堤の青草は霧のやうな乳白色を含んで、河原の川柳はそよ風にざわ〳〵と騷いではゐたが、雨の脚はまだ何處にも見えなかつた。悒鬱な氣分が靜かにおごそかに彼れを壓倒しようと試みるらしかつた。彼れはそれを物ともせずに、しつかりした歩き方で堤の上を大跨に歩いた。後ろの方には細長い橋を痩せた腕のやうに出した小さな町が川にまたがつて物淋しく横はつてゐた。
行手の堤の蔭には不格好に尨大な黒ずんだ建物がごつちやになつて平らな麥畑の中に建つてゐた。近づいて見ると屠殺場だつた。その門の所に、肥つた四十恰好の女房と十二三のひよろりとした女の兒とが立つて此方を見てゐた。少女のヱプロンが恐ろしい程白かつた。堅く閉つた大きな門を背にして、二人は手をつないで彼れの近づくのを見守つてゐた。彼れは遠くからその二人を睨まへて歩いて行つた。程が段々近よつて、互の顏がいくらか見分けられるやうになると、二人は人違ひをしてゐたのに氣付いたらしく、吸ひ込まれるやうにそゝくさと木戸から這入つてしまつた。
彼れは用のないものに氣を向けてゐたのを悔やむやうに又川上を眞向に見入つて進んで行つた。見詰めてゐた白いヱプロンは然し黒いしみになつて、暫らくは眼の前をちら〳〵として離れなかつた。然しそれもやがて消えた。
彼れは自分のつゝましやかな心を非常に可愛いく思つた。自分の大望の爲めに、意識して犧牲を要求しながら、少しも悔いなかつた古人の事を思ふと、人の生活の細やかな味ひが心の奧まで響き亙つた。虫けら一疋でも自信を以て自分の爲めに犧牲にする事の出來た人を彼れは同情と尊敬とを以て思ひやつた。事業と云ふ大きな波にゆられながら、この微妙な羅針盤を見詰めるしみ〴〵した心持ちを何に譬へよう。
人違ひながら自分を待つてゐる人のあつた事が、彼れには一種の感激の種となつた。木戸を潛る時その母と子とらしい二人の間に取かはされた小さな失望の會話をはつきり想像して見る事が出來た。然し結局その人達とても無縁の衆生に過ぎない。而して彼れは結婚したばかりの妻の事を思つた。「お前も何時か犧牲にしてやるぞ」さう彼れは悲しくつぶやいた。
その邊は去年大水の出た跡だつた。堤の壞れた所を物の五十間ほども土俵で喰ひ留めた、その土俵の藁は半ば土になつて、畑中に盛り上つた砂の間からは、所々に一かたまりになつて、大根の花が薄紫に咲き出て居た。彼れはこの小さな徴にも自然の力の大きさと強さとを感受した。而して彼れは今更のやうに立停つてあたりを見まはした。百姓の捨てた畑の砂の上には、怒り狂つた川浪の姿が去年のまゝに殘つてゐた。その浪がこの邊に住んでゐた百姓の一人息子を容赦なく避難の小舟から奪ひ去つたのだ。沈澱した砂は片栗粉のやうにぎつしりと堆積して雜草も生えて居なかつた。何んにも知らないやうな顏をしてゐる。今まで親しみ慣れた自然とは大分違つた感じが彼れの胸を打つた。
固より彼れは自然とも戰ふべきものだと云ふ事を忘れてゐたのではない。然し彼れは人間と自然とを離して考へてゐた。人間の理解から孤獨となる事が自然と離縁する事にもなるとは思はなかつた。彼れはその瞬間まで人間から失つた所を自然から補はせる事が出來ると思ひ込んでゐたのだ。
彼れはそこに立つてあたりを見𢌞はしたが、人の姿は何處にも見當らなかつた。細長い橋を痩腕のやうに延ばして横になつてゐる町がかすかになつて川下に見えるばかりだつた。
彼れはしんみりした心になつてじつとそれを見た。その町で人力車に乘らうとしたが蝦蟇口の中の錢が足りないのを恐れて乘らなかつた事をも思ひ出してゐた。
彼れは彼れの大望と云ふ力に誘はれてそこまで來てゐるのだと云ふ事を更らに思つて見た。
大望とは何だ。
一つの意志だ。
否、彼自身だ。
そんなら何んで彼れは自身の前に躊躇するのだ。
神か。
彼れは頭に一撃を加へられたやうに頸をすくめてもう一度あたりを見まはした。
つばなを野に取りに出て失望した記憶がふと浮んで來た。手にあまる程取つて歸つた翌日から三日ばかり雨が降つたので、外出せずにゐて出て行つて見ると、つばなは皆んなほうけてしまつてゐた。大望がほうけたら如何する。彼れは再び氣を取直して川上の方へ向き直りながら、かう心の中でつぶやいて、自分自身の胸に苦がい心持ちを瀉ぎ入れた。
暫らく行くとちよろ〳〵としか水の流れない支流に出遇つて彼れは自から川の本流に別れねばならなかつた。支流に沿うても、小さな土手が新らしく築かれてゐた。石垣の上の赤土はまだ風化せずに、どんよりした空の下にあつても赤かつた。彼れはそのかん〳〵堅くなつた赤土の上を──彼れならぬ他人のした事業の上を踏みしめ〳〵歩いて行つた。
土手には一間ほどづつ隔てゝ落葉松が植ゑつけてあつた。而してその土手の上を通行すべからずと云ふ制札が立てゝあつた。行きつまる所には支流に小さな柴橋が渡してあつて、その側に小ざつぱりした百姓家が立つてゐた。彼れは垣根から中を覗き込んで見た。垣根に沿うて花豆の植ゑてあるのが見えた。
彼れも自分の庭の隅に花豆を植ゑて置いた。その自分の花豆は胚葉が出たばかりであるのに、此所の花豆はもう大きな暗緑の葉を三つづゝも擴げてゐた。
彼れは鋭く孤獨を感じながら歩いて行つた。彼れの歩き方は然し大跨でしつかりしてゐた。彼れは正しく彼れの大望に勵まされてゐるやうに見えた。
柴橋は渡られた。
眼の前の展望は段々狹まつて、行手の右側には街道と並行に山の裾が逼り出した。
彼れは其大望の成就の爲めには牢獄に投げ入れられる事を前から覺悟してゐた。牢獄生活の空想は度々彼れの頭に釀された。牢獄も如何する事も出來ない孤獨と、其孤獨の報酬たるべき自由とが、暗く、冷たい、厚い牢獄の壁を劈いて勝手に流れ漂ふのを想像するのは、彼れの一番快い夢だつた。
然しその時彼れはその夢を疑はないではゐられない程の親しみを以て路傍の小さな井戸を見た。その井戸は三尺にも足らない程の淺さで、井戸がはも半分腐つてゐたが、綺麗に掃除が行き屆いてゐて、林檎箱のこはれで造つたいさゝかのながしも塵一つ溜つてゐなかつた。彼れは其處に人の住んでゐる事を今まで感じた事のないやうな感じ方で強く感じた。牢獄はこんな親しみのある場面を彼れの眼から遠けるだらう。
彼れは彼れの孤獨の自由を使つて、牢獄からこの井戸の傍に來る事が出來るであらうか。
とう〳〵雨が落ちて來た。遠い所から、木の葉をゆする風につれて、ひそやかな雨の脚が近づいた。
彼れの方に向つて雨の脚は近づいて來た。彼れは雨の方に向つて足を早めた。白く塵ばんだ街道は見る中に赤黒く變つて行つて、やがて凹んだ所に水溜りが出來、それがちよろ〳〵と流れ出し始めた。
傘もない彼れは濡れるまゝで進んで行つた。ふと彼れは鳴きかはす鳥の聲を聞きつけて又脚をとめて山の方を振り仰いだ。街道のそばに逼つた山は非常な高さだつた。彼れはその高みを見上げるに從つて不思議な恐怖を感じた。山には處女林が麓から頂までぐつすり込んで生ひ茂つてゐた。雨氣が樹と樹との間に漂ふので、凡ての樹は個性を囘復して、うざ〳〵する程むらがり集つてゐた。その樹の凡てが奇異な言葉で彼れに呼びかけた。その樹の言葉に綾をかけて、かけすが雨に居所を襲はれて、けたゝましく鳴きかはした。
山が語る。嘗て聞いた事のない不可解な、物凄い、奇異な言葉で山が語る。
彼れはそれを窃み聞きした。
恐怖の爲めに彼れの全身は唯がた〳〵と震へた。
彼れは始めて孤獨の中に自分が段々慣れひたつて行く事を感じた。而して彼れは言葉につくせぬなつかしさを以て、垣根の花豆と底の淺い井戸とを思ひ浮べた。
やゝ暫らくして雨に濡れまさる彼れは又川上の方へ向いて街道を歩き始めた。雨に煙る泥道の上には彼れ一人の影が唯一つ動いた。
底本:「有島武郎全集第二卷」筑摩書房
1980(昭和55)年2月20日初版第1刷発行
2001(平成13)年7月10日初版第3刷発行
底本の親本:「有島武郎著作集第七輯」叢文閣
1918(大正7)年11月9日初版発行
初出:「白樺 第五卷第八號」
1914(大正3)年8月1日発行
入力:鈴木智子
校正:土屋隆
2005年11月23日作成
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