空屋
宮崎湖処子
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上
麑島謀反の急報は巻き来たる狂瀾のごとく九州の極より極に打てり、物騒なる風説、一たびは熊本城落ちんとするの噂となり、二たびは到るところの不平士族賊軍に呼応して、天下再び乱れんとするの杞憂となり、ついには朝廷御危しとの恐怖となり、世間はみずから想像してみずから驚愕せり、ただ生活に窮せる士族、病人に棄てられたる医者、信用なき商人、市井の無頼らが命の価を得んとて戦場に赴くあるのみ、他は皆南方の風にも震えり、しかれども熊本城ははるかに雲のあなたにて、ここは山川四十里隔たる離落、何方の空もいと穏やかにぞ見えたる、
いと長き旅に疲れし春の日が、その薄き光線を曳きつつ西方の峰を越えしより早や一時間余も過ぎぬ、遠寺に打ちたる入相の鐘の音も今は絶えて久しくなりぬ、夕の雲は峰より峰をつらね、夜の影もトップリと圃に布きぬ、麓の霞は幾処の村落を鎖しつ、古門村もただチラチラと散る火影によりてその端の人家を顕わすのみ、いかに静かなる鄙の景色よ、いかにのどかなる野辺の夕暮よ、ここに音するものとてはただ一条の水夜とも知らで流るるあるのみ、それすら世界の休息を歌うもののごとく、スヤスヤと眠りを誘いぬ、そのやや上流に架けたる独木橋のあたり、ウド闇き柳の蔭に一軒の小屋あり、主は牧勇蔵と言う小農夫、この正月阿園と呼べる隣村の少女を娶りて愛の夢に世を過ぎつつ、この夕もまた黄昏より戸を締めて炉の火影のうちに夫婦向きあい楽しき夕餉を取りおれり、やがて食事の了るころ、戸の外に人の声あり「兄貴はうちにおらるるや」と、
「オオ」と応うる勇蔵の答えのうちに戸はひらけ、一個の壮年入り来たり炉の傍の敷居に腰かけぬ、彼は洗濯衣を着装り、裳を端折り行縢を着け草鞋をはきたり、彼は今両手に取れる菅笠を膝の上にあげつつ、いと決然たる調子にて、「兄貴、われは今熊本の戦争に往くところにてちょっと暇乞いに立ちよりぬ」と言う、思いもよらぬ暇乞いに夫婦は痛くも驚いたり、
彼は山田佐太郎と言う壮年、勇蔵には無二の友、二年前両親に逝れ、いと心細く世を送れる独身者なり、彼は性質素直にして謹み深く、余の壮年のごとく夜遊びもせず、いたずらなる情人も作らず、家に伝わる一畝の田を旦暮に耕し耘り、夜は縄を綯い草鞋を編み、その他の夜綯いを楽しみつ、夜綯いなき夜はこの家を訪い、温かなる家内の快楽を己がもののごとく嬉しがり、夜深けぬ間に還りて寝ぬ、されば彼は同年らに臆病者と呼ばれ、少女情人らの噂にも働きなしとの評はあれど、父老らは彼を褒め、彼を模範にその子を意見するほどなりき、しかして彼また決して臆病者にあらず、謹厚の人もまた絳衣大冠すと驚かれたる劉郎の大胆、虎穴に入らずんば虎子を得ずと蹶起したる班将軍が壮志、今やこの正直一図の壮年に顕われ、由々しくも彼を思い立たしめたり、
「和主が戦争にゆくとか」「しかり」「げにか」「げによ」「そは和主にしては感心のことなりいかにしてしか思い立ちしや」「どうという子細はなけれど、いつまでかくてあるも不本意なれば、金を得て身を立てんとも思うなり」「和主には金より命の惜しからずや」「命とよ命は大丈夫なりわれらは戦うものにあらず、ただ戦場のはるか後まで兵糧弾薬を運ぶ人夫なれば、命は兄貴大丈夫なり」
これまでただ佐太郎を試みたる勇蔵も、すでに旅装束して来たれる彼が気胆に痛くも打たれぬ、「シテ一日に幾何の賃銀を得べきか」「しかとはわれも知らねど、一日半金ないし一金を得べしと聞けり」「一日に一金とよ……和主一個か」「独り」「他に誰も伴わなきや」「誰もなしただわれ独りなり」「かほどの思い立ちをわれに告げずということやある」「否告げてすげなく留めらるるも面白からねば誰にも明かさず、ただ暇乞いに兄貴に告げたるのみ」「さらばわれも一しょに往くべし」
勇蔵が気質を知れる女房は痛くも驚き、佐太郎もまたはなはだ惑えり、「そは兄貴真実に」「無論のことなり」「そははなはだよろしからず、卿は姐子をよびて間もなければ、卿は今姐子と離るべからず、よし卿に恨みなしとするも姐子の心中も思いやられよ」
それもさなりと、一たびは思いたれども、すでに一日一金の甘言に酔い、しかして臆病者の佐太郎の決心に恥かしめられたる彼は、平生の気質のごとく焦るままに決心したり、「和主の言も無理ならねど、ともかくもわれも往くべし、せっかく急ぐべけれども支度するまで一両日待ちくれよ」
女房は青くなれり、佐太郎は涙ぐみ、「過てり過てり、告げずして往くべかりしに」と、返す返すも悔みたれど、早や転び出でたる玉いかんともするに由なければ、「サラバひそかに用意してよ人に知れては面倒なれば」と、再びその家に帰りて寝ぬ、
翌日阿園は村を駈け廻り、夫の心を回らすべく家ごとに頼みければ大事は端なくも村に洩れぬ、媒妁人は第一に訪ずれて勇蔵が無情を鳴らし、父老は交々来たりて飛んで火に入る不了簡を責め、同年者もとかくに止め、別して彼が幼き時膝にあげたる一人の老媼、阿園とともに昼ごろまで泣きて止めたれど動く様子少しもなく、いよいよ明朝の出立と定まりぬ、阿園も今は涙を拭き、足袋行縢を取り出し、洗濯衣、古肌着など取り出でて、綻びを縫い破れを綴り、かいがいしく立ち働く、その間に村人は二人の首途を送らんと、濁酒鶏肉の用意に急ぎぬ、
その夜夫婦は最も温かなる寝床をとり、最も悲しき睦言を語れり、一生の悲哀と快楽を短か夜の尽しもあえず鶏は鳴きぬ、佐太郎は二度の旅衣を着て未明より誘い来たれり、間もなく父老朋友を初め、老媼女房阿園が友皆訪い集い、ここより別るるものは勇蔵が前に来て慇懃にその無事と好運とを祈り、中には涙に溢れて、再び逢い見ぬもののごとく悲しき別れを宣ぶるもありき、
一行は今勇蔵が家を出でたり、春の日のいとも遅々たるさまにはあれど、早くも村の外に出でたり、路傍の一里塚も後になりて、年経りし松が枝も此方を見送り、柳の糸は旅衣を牽き、梅の花は裳に散り、鶯の声も後より慕えり、若菜摘める少女ら、紙鳶あげて遊べる童子ら、その道この道に去り来る馬子らも、行き逢う旅人らも、暫時佇みてはるかにゆく一行を眺めやりぬ、早や一里余も来ぬると思うころ、大仏と言う川の堤に出て、また一町余にして広々たる磧に下り、一行はここに席を列ね、徳利を卸し、行炉を置き、重箱より屠れる肉を出し、今一度水にて洗い清めたり、その間にあるものは向いの森より枯枝と落葉を拾い来たりて燃しつけつ、早やポッポッと煙は昇れり、
この大仏川の磧は、この近郷の留別場にしてかねてまた歓迎場なり、江戸詰めの武士も、笈を負いて上京する遊学者も、伊勢参宮の道者本願寺に詣ずる門徒、その他遠路に立つ商用の旅なども、おおよそ半年以上の別離と言えば皆この磧まで送らるるなり、されば下流に架る板橋は、行人の故郷を回顧する目標なるがゆえに見返りの橋と名づけられ、向いの森は故郷の観を遮るゆえに隠しの森と呼ばれ、対う塘の上に老いたる一樹の柳は、往くも送るもこれより別るるゆえに名残りの柳と称えられぬ、いと広き磧の中央、塵芥しみて黄色になれるは、送別の跡の絶えぬ証拠にして、周辺の石にシロジロと古苔蒸せるは、無事を祝して濺ぎし酒のかびなり、岸辺に近き砂礫の間、離別の涙揮いし跡には、青草いかに生い茂れるよ、行人は皆名残りの柳の根を削りてその希望を誌して往けども、再びここに歓迎せらるるもの、昔より幾人もなかりしぞとよ、
早や酒温まり肉煮えたり、さりながら一行はまだ盃を挙げざりき、人々は皆気を焦ちて越し方を見回れり、はるかの塘に勇蔵夫婦の影ようやく顕われぬ、彼らは暫時柳の蔭に坐し顔を見合わせ言葉なし、泣きはらしたる阿園が両眼ムラムラと紅線走り手巾持てる手も今は早や拭く力なければ涙は滴々湛えて落ちぬ、磧よりは手を拍ち声を揚げ手巾を振りて此方を呼びたり、
もはや語る間もなきかと思えば、阿園は言うべき語を知らず手拭を顔にあて俯向いてただよよと泣くのみ、勇蔵もうち萎れて悄然として面を伏したり、身を投げてよりすがる阿園が頬より落つる熱き涙は、ハラハラと夫の小手に当って甚深無量の名残りを語れり、
昨日まで石のごとく堅固なりし勇蔵が一念、今はいかばかり脆くなりしよ、彼はさきの決心のただ一時の出来ごころなりしを悟り、膝を交えて離別を語るのいたずらなりしを思い当りて悔ゆれども、事すでに晩れたれば、今はただ心強く別るるほかはなけれど、彼は痛くも力なくなり、あたかも生きながら別るるもののごとくうち沈み、「われにもしものことあらば、何事も佐太郎と相談して、心のままに再縁すべし、必ず短気に誤るまじきぞ」と、遺言ようの秘密を洩らしぬ、女房は声を揚げて泣きつつ答えり、「卿にもしものことあらば前夜よりしばしば誓いたる通り、妾は必ず尼になりて、卿の菩提を弔わん、……さりながらかりそめにもかかる悲しきこと言わるるは、死にに往かるる心にや、さように心を痛めずとも、つつがのう帰りてよ、妾はいつまでも待ちおるべければ」と、勇蔵がなお何か言わんとせし折、磧の手巾は再び揚りて夫婦を呼びぬ、
この留別場に女はただ阿園のみなりき、彼は今泣き顔を水に流し、給士酌一人して立ち働き、一坐の雑めきに暫時悲しさを紛らしぬ、一坐の歓娯も彼が不運を予言するもののごとく何となく打ち湿り、互いに歌う鄙歌もしばしば途切れ、たまたま唱うるものあれば和するものなく拍子抜けてついに黙りぬ、かくして時もやや移り、酒肉も尽きければ、イザと立ち上る佐太郎を力に、勇蔵も力なく立ち上り、一同も皆立ち上りて塘を出づれば、名残りの柳は一群の人を双方にふり分けぬ、二人は見返りの橋をわたり、隠しの森の端に沿い、行き行きて影も遠くなり、森のあなたに影消ゆれば、跡はただ大仏川のみ行方も知らず流れゆきぬ、
中
村落は今揷秧すみてしばらくは農事閑なり、あたかも賊軍熊本を退き世間の物情とみに開けし折なりければ、村人もまた瓢箪を負い行廚を持ち、いずこより借り来たりけん二三の望遠鏡さえ携えつつ、戦争見物とて交る交る高きに登れり、戦争は遠くして見えねど、事によせたる物見遊山も、また年中暇なき山賤の慰藉なるべし、そのうちに阿園は一人残されて心細くもその日を送れり、二人が門を出でし日より、今は三月に及べどもいずれよりも便りなければ、旦暮その無事を祈るのみ、さりながらひたすら戦場の消息に耳を傾けたればにや、彼は村人がかつて聞かざる珍事を聞き得て、近処の老母らが音ずるごとに、新たなる物語もて彼らを驚かせしなり、
げにや阿園は熊本城の一たび危かりしこと、熊本城の大将は谷少将と言える清正公以後の豪傑なること、賊軍の巨魁西郷隆盛は以前は陸軍大将にて天朝の御覚えめでたかりしものなること等より、田代よりゆきし台兵が、籠城中に戦死せしこと、三奈木より募られたる百人夫長が、陣中の流行病にて没くなりしこと、甘木の商人が暗号を誤りて剣銃にて突かれしことなど、おおよそ近郷四五里の間の遠征戸籍は一々に暗記したり、最後に館原の藤吉が、輜重を運べる間流れ丸に中たりて即死したる報道を得しより、いと痛う力を落しぬ、これよりは隠気に鎖じ籠り終日戸の外にも出でず、屋の煙さえいと絶え絶えにて、時々寒食断食することさえあり、さながら喪を守るもののごとく半月余もかくして過しぬ、
ある日阿園はあまりの暑さに窓をあけて外面を眺めぬ、日はあたかも家の真上にありて畑の人は皆昼餉に急げり、と見れば向うの路より一個の旅人、大いなる布の包みを負いて此方に歩めり、ようやくに近くなれり、絶えず打ち守る此方の顔を旅人も目標として来るさまなりき、阿園は飛び立ちて独語せり、「佐太郎主にてはあらぬか、佐太郎主によくも似てあり、……否佐太郎主ならば、宿の主も一しょに帰らるべきものを、……さりながら余の人とは……いかにも佐太郎主のような……」
げに旅人は佐太郎なり、彼は今ただ一人帰れるなり、彼はさきに身を立つべき資を得んと百日余り命を賭け牛馬のごとく追い使われしが、今は危難と苦役の地獄を出て、懐かしき家路に上り、はるばるも故郷の橋を渡れるなり、彼が喜悦に溢るる心緒は、熊本籠城の兵卒が、九死一生の重囲を出でて初めて青天白日を見たるその嬉しさにも優るべく、いと重げなる黄金の包みのその懐に満々たるは、征西将軍が拝受したる菊桐の大勲章よりもその身にとってありがたかるべし、今や故郷に錦を装り、早や閭樹顕われ村見え、己が快楽の場なりし勇蔵が家またすでに十歩の近きにありて、その窓より歓迎する顔さえ見ゆるは、凱歌を唱えて凱旋する幾万の兵士の喜びを合わするとも、なお及ぶべくもあらざるべきに、見よこの満足の日に彼の顔の曇れるを、彼が足の躊躇せるを、彼は窓に近づきぬ、窓の顔は一たび消えて戸をあけて転び出でたり、「佐太郎主今がお帰り、して宿の主は」と、
佐太郎はうちに入り布の包みを卸してまず一杯の水を乞えり、女房は井より新たに汲み来たり柄杓のままにさし出し、「宿の主も一しょにか」と問う、佐太郎は水に気の入り、阿園が問いに何心なくさようと答えつ、後にてハッと愕きたれど駟も舌に及ばざりき、女房は焦き立てり、「していずこにか立ち寄られてか」「さよう」「いずこに」「否今すぐに帰り来べし、ゆっくりと待たれよ」「さても情なき人の心、いつまで妾に待てよとか、妾は一走り呼びに往かん」と、阿園はあわただしく駈け出でたり、佐太郎は色をかえ、「姐子よ呼びに往かれずとも、兄貴は疾くに帰りてある……、ああ、隠すとも隠されぬか」と嘆息しつつ、阿園を見れば、彼はただキョロキョロして家の裏を駈け回り、己が影を逐いてまた立ち回り、「主はいずこに帰ってある」と、憐れのものよ彼はまだ夫の不幸に気づかであるなり、
「オオ兄貴はココに」と、佐太郎は布の包み解きもあえず推しやりぬ、女房は解いて見て夢になり、物言わぬ夫の遺筐を、余人の衣類のごとくしばらく折目をさすりておりしが、やがて正気に復りし時は、早や包みを懐きしめて悶絶したり、げに勇蔵は田原坂の戦官軍大敗の日に、館原の藤吉とともに敵の流れ丸に中り、重傷を負いて病院に運ばれ、佐太郎を死の枕に呼び阿園が再縁のことをくれぐれも頼みて死しぬ、されば佐太郎は気絶したる阿園を呼び回して、勇蔵が遺言と死にざまとを語り、彼が命の価なる三十金を渡し、阿園が尼になるべき余儀なき願いに対しては、十分力を添うべきことを約して、哀れの寡婦を涙の海に残して帰りぬ、
翌朝阿園が里方の父来たり、村人も皆訪い来たれり、父は佐太郎が持ち帰りし三十両を改めて己が手に納め、勇蔵は上より戦場に埋められたれば再び葬式を営むの要なきことを主張し、直ちに阿園を引き取らんと言う、村人も大概その儀を賛しぬ、佐太郎のみさきに寡婦に誓いしごとく、情なき里方の処置に対して寡婦の力となり、一身を投げて彼方此方に奔走し、ようやくにその議を翻し、寺院にも葬儀を頼み、大工にも棺槨を誂え、みずから犂をとりて墓を掘り、父老、女房、勇蔵夫婦の朋友を呼びて野辺送りに立たしめたり、阿園が尼になるの一事は、里方は痛く怒りたれど、これも彼が周旋にて、忌中五十日の間ともかくもこの家にて喪を守ることを許されぬ、
阿園が尼の願いいと切なりければ、佐太郎はなお陳述するところありしかど、里方は少しも動く様子なく、ただとにかくに此方より返事するまで待ちおるべしとのことなりければ、今は推して乞わんようもなかりき、
この五十日間は阿園が心の還俗するか、里方が尼の願いを許すか、両者その一に定まるべき期限なりし、その後里方は娘が心を回らさんともせず、また慰むべき人をもやらず、村人も訪い来ざれば、阿園はただ一人貧しく寂しく時々は涙にくれつつ、留守の日よりもひとしおあわれに日を送りただただ訪い来る佐太郎を待つのみなりき、げにこの家に快楽を享けたりし佐太郎は、今はこの家に慰藉を報うべかりし、ある日彼は尼になるべき順序を問うべく五里はるかなる善導寺の尼院を訪いしが、落胆して帰り来たり、尼になるには父兄親戚の保証を要することを阿園に告げ、次の日世に知られぬ尼院ありと伝うる彦山に登り、二日の後に帰り来たり、夫ありて夫に死なれ、子ありて子に後れ、世間より捨てられたる者ならでは尼となられぬこと、されど道なき絶処虎狼の住むところには、昔信心堅固の尼の住みたる洞穴あり、このごろもまた一人の尼住みおり、ここは人間の至るところならねば、世の法律を逃るるとも後追わるべき憂いなき由を語り聞かせぬ、阿園はいかなる絶処を越えても尼になるべく思いたり、されどその洞穴の辺まで佐太郎に送られたしとも思いしなり、
かくて一七日となり法事を営まねばならざりき、さらでも野菜なき夏の半ば、夫の留守中何事も懈りがちなりければ、裏の圃に大葱の三四茎日に蒸されて萎えたるほか、饗応すべきものとては二葉ばかりの菜蔬もなかりき、法事をせずば仏にも近所にも済まず、営まんには物なければ、彼はいと痛う哀れになり、もはや世に棄てられたるように感ぜり、折々窓より外面を眺めても、村人はただ己がじしその野に労するのみにて、人には一把の菜の慈悲もなかりき、今はジリジリ移りゆく日影を見るに堪えかね、仏壇の前に伏して泣きたり、哀れの寡婦よ、いかばかり悲しかりけん、さりながら慈悲深き弥陀尊はそのままには置き給わず、日影の東に回るや否、情ある佐太郎を遣わし給えり、彼は瓜、茄子、南瓜、大角豆、満ちたる大いなる籃と五升入りの徳利とを両手に提げて訪い来たれり、「姐子今日は兄貴が一七日、大方法事を営まるることと、今朝寺に案内し、帰るさに三奈木の青物店に立ち寄り、初物品々買うて来ぬ、兄貴は大角豆が好きなりしゆえ、余分に求めしわが寸志、仏前に捧げられたし、もしこの籠一個にて今日の法事の済みもせば、われにもこの上なき本望なり」と、絶望の余にかかる恵みの音ずれあり、ことさら夫が好きの物と聞くからに、感謝の語のすべることも無理にはあらず、「夫に勝る卿の親実、しみじみ嬉しく忘れはせじ」と、
分に過ぎたる阿園が感謝に、佐太郎は気を取り外せり、彼は満面に笑みの波立て直ちに出で行き、近処に法事の案内をし、帰るさには膳椀を借り燗瓶杯洗を調え、蓮根を掘り、薯蕷を掘り、帰り来たって阿園の飯を炊く間に、吸物、平、膾、煮染め、天麩羅等、精進下物の品々を料理し、身一個をふり廻して僕となり婢となり客ともなり主人ともなって働きたり、日暮るれば僧も来たり、父老、女房朋友らの員も満ち、看経も済み饗応もまた了り、客は皆手の行き届きたることを賞めて帰れば、涙をもって初めし法事も、佐太郎の尽力をもて満足に済みたり、
阿園は法事済ましてより、日常のこととてはただ午前には墓より寺に詣り、午後よりは訪いくる佐太郎に慰められ、夜は疾く寝るばかりなりき、佐太郎もまたこの家に以前よりは繁く通いぬ、されど村人は皆彼が謹直なるを思い、この家との旧き好みを思い、勇蔵とともに戦地に赴きしことを思い、勇蔵が亡き後事大小となく皆彼が義務なるを思いつ、ただに彼を怪しまざるのみならず、彼が経験なき壮年の身にしては、頼みなき身を慰むることの行き届けるに、感心したり、阿園はまた二三日ごとに墓の掃除せられ、毎朝己れに先だって線香立ち、花揷され、花筒の水も新たまり、寺の御堂にも香の煙薫らし賽銭さえあがれるを見、また佐太郎が訪い来るごとに、仏前に供えてとて桔梗、蓮華、女郎花など交る交る贈るを見、わけても徒然ごとに亡夫の昔語を語るを聞きてこの上のうも満足に思いぬ、「この人までもかくまで亡夫に懐きてあるか」と、
そもそも勇蔵は幼なかりしころより、佐太郎とはわけて親しき寺子友達にて、常に佐太郎が家に机を列べたりしゆえ、彼が手習い道具はそのまま佐太郎が家にありき、これまではただその家の邪魔物なりしが、今は彼が縁者のためには、千金の珍宝にも易えがたき遺物となれり、ある日佐太郎は半日家内を捜索して、ことごとく勇蔵が所有に属せし小道具を取り揃えて寡婦のもとに背負いゆき、「今日はよきものを持ち来ぬ」とて寡婦の前に卸したり、その黒染めの古板と欠けたる両脚は、牧家数代の古机にして、角潰れ海に蜘蛛の網かけたる荒砥の硯は、彼が十歳のとき甘木の祇園の縁日に買い来しものなり、雨に湿みて色変りところどころ虫蝕いたる中折半紙に、御家流文字を書きたるは、寅の年の吉書の手本、台所の曲める窓より剥ぎ来たれる、三行書きの中奉書は卯の年の七夕、粘墨に固まりて反れたる黒毛に殕つきたるは吉書七夕の清書の棒筆、矢筈に磨滅されたる墨片は、師匠の褒美の清輝閣なり、彼は曰えり、「兄貴がこの墨を頂戴せしそのありがたがりし笑顔、今もなお目にあり、古参の子供らが捻紙つなぎの文銭もてぜひに買わんと強い、あるいは半紙十枚と換えくれと請いたれども承知せず、大切に秘蔵して自分さえついに一度も使用せざりし時のこと、思えば昨日のようなれど今は返らぬ昔語となりぬ」と、思わず一滴の涙を浮めぬ、
「行き届きたる卿の情しみじみかたじけのう存ずるぞかし、して人間はただ前の方に進むばかり跡には返らず、まして墓に入ればそれまでのこと」と、阿園も太息し、暫時はともに無言なりき、久しく隠れたる尼の発心、再び寡婦の胸に浮びしはこの沈黙の折にてありし、さりながら機会すでに過ぎ感情の潮またすでに退き一方には里方の頑固、他方には道なき絶峰、いずれを蹈み破るも難ければ、今はただいつまでもかく寡居していつまでも佐太郎に訪わるるこそせめて世に存うる甲斐ならめ、しかれどもすでに黄金に余れる彼、いつまで妻なくてあるべき、しかして阿園が寡居の日も、早やすでに半ば過ぎぬ、忌満てば到底里方へ帰らねばならぬ身、思いきって彦山に遁るべきか、かくまで親切なる佐太郎主今さらに別るるも名残り惜し、さらば洞穴まで送りてもらわんか、さほどに迷惑をかけたりとて、到底別るべき世の中、断念して夫の遺言に従い再縁すべきか、決して決して、夫にはいかに誓いしぞ、再縁せば親切なる佐太郎主に遇い見ることも……恩を報ずることも出来まじ、さらば身をいかにすべきか、尼、寡居、再縁、いずれが最も身のためなるか、阿園は呼びぬ、「佐太郎主」
佐太郎は笑顔を向けたり、「身の上のことを問うも恥かしけれども、妾が身の落着、何とせばよろしからんか」「さればなり、尼になるにはいずれの道も難渋なり、よし彦山に遁るることも、途にして過ちあらばわれが卿を失いたるに異ならず、里方は言わでも許諾はなかるべし、詮方なくば、遺言に身を任するか、この家に寡居するか、二つに一つのほかあるまじ」「卿もさよう思いたまうか」「さようそのほかに詮方もなければ」「さらば早やぜひなきことか」と、阿園は再び大息して、佐太郎の顔をジッと見る、佐太郎もその顔をジッと見たり、やがて日暮るれば佐太郎は暇をつげぬ、
げに彼は阿園を慰むるの務めをもちたりき、阿園はただ彼が入来のみをもて満足せる時にも、彼はなお阿園を喜ばしめんと思えり、彼は亡友の遺物と逸事の、いかにその目的を答えしかを観てひそかに笑みたり、次の日彼は家の床の下を捜りて、乗り崩したる竹馬を寡婦の家に持ちゆきて曰く、これは兄貴が十五歳の時大雪の中を競走して勝ちを得たる竹馬なりと、翌日は黒塗りの横笛をもたらしゆき、こは氏神の秋祭に彼が吹きて誉れを得たるものなりと、二三日の後また一個の南天の盆栽を携えゆき、これは彼が生前われより兄費に譲るべく約せしものと、もし阿園が望まんには彼はなお幾個の遺物をも蒐むべかりし、されど今は寡婦の満足ようやくに薄らぎ、遺物という詞も夫という詞も、早やその耳に幻力を失いたり、
かくて忌中の三分の二は早や過ぎぬ、佐太郎が阿園を訪うこと、初めの一七日は午前にして、その後は多く午後に来たり、ようやくに夕景となり、このごろはまた朝昼夕の差別もなくなり、時には朝より夕までおりつづけて勇蔵の伝記を叙べたり、しかしてその逸事のすでに尽くるころは、阿園の耳も勇蔵に厭き、今は佐太郎いねば留守を守る心地し、佐太郎もまた阿園の顔を離れては、己が家も逆旅のごとく寂しく覚えぬ、
村人はようやくこの謹直者を怪しめり、口さがなき女房らも、チラホラ寡婦の風説を伝え、佐太郎が夜々阿園の家に住むと言うものさえありき、されば意地汚なき穴さがし、情人なき嫌われ者らは、両個の密事を看出して吹聴せんものと、夜々佐太郎が跡をつけ、夜遊びの壮年らも往き還りにこの家の様子を窺いぬ、かくして一週間も経たれども、何の怪しきこともなく、彼はただ戦場の譚、浮世話を阿園に語り聞かせ、夜更くればその家に帰り、かつて午夜過ぐるまでいたることなければ、果ては彼らも心に恥じて口を閉じ、怪しき風評もやや薄らぎぬ、
早や四十九日となりぬ、四十九日短く暮れて明くれば五十日、いよいよ忌の満つる日となれば、阿園がこの家におることも今は一日一夜となりぬ、この家よ、この家はげに阿園がためには幸いなかりし、彼はこの春の始めにこの家に嫁ぎ、暮に夫に別れしなり、夫が遠征の百日間は、彼は空しく空閨を守りたりしが、夫を待ち得しと思いし日より、なお五十日の間、寂しき夜を怨み明かし、なお幾夜かくあるべくありしなり、阿園には夫婦の睦みいまだ尽きず、閨の温味いまだに冷えず、恋の夢ただ見初めたるのみなりしなり、彼は哀れにも尼の願いを起し、この久しき間忍んでその許可を待ちしなり、そのついに消息なきに及んで、彼は思いよらぬ方向に還俗し初めしなり、悲しいかな彼は今運命の与えぬところを己が手をもて取らんとしつつあるなり、彼はしばしば独語せり、「怨めしきはかの人、これまで一夜宿りもせず、げにただ一夜くらい宿りたればとて」と、
その日の夕佐太郎は再び徳利と菜籃を提げて訪えり、待ちわびたる阿園は飛び立ちて迎え入れ、まだ日は暮れねど戸を締めたり、彼らは裏縁の風涼しきところに居並び、一個の膳に差し向い、いよいよ離別の杯を取れり、阿園は長々世話になりしことを謝し、里方の無慈悲を怨み、あかぬ別れを歎き、身の薄命を悲しみ、佐太郎が親切を嘆じ、再縁再度の不幸を想いては佐太郎の妻となるべき女を羨み、佐太郎の一方ならぬ恩誼を思いては、この家を出てまた報ゆるの時なきをかこち、わけても佐太郎が妻なるべき女の好運を返す返すも羨みぬ、
杯の廻りに日暮れ、情話のうちに夜も更けゆき、外ゆく人全く絶え、行燈は油尽きて、影くらくなりて、ついに消えたり、
やがて家々鶏なくころ、佐太郎は目を覚ませり、彼はただ一個床にありき、首を挙げてソッと呼びたれど答うるものなかりしなり、さてはと身を起して闇を捜りたれど、阿園はいずこにもいず、ただ裏の戸明け放しありて、向いの空ほのぼのと明けゆく模様なりしなり、佐太郎は愕とせり、彼はそのままソッと戸を締め、夜明けぬ間に己が家に忍び走れり、
下
古門村の後には、村と同名の山脈連なり、峰は高きにあらずといえども、満山隠然として喬木茂り、麓には清泉灑げる、村の最奥の家一軒その趾に立ちて流れには唐碓かけたる、これぞ佐太郎が住居なりき、彼は今朝未明に帰り来たり、夜明けたれど外にも出でず、残暑焔ゆるがごとき炉の傍に、終日屹坐して思いに沈みぬ、その日の夕、にわかに戸を敲くものありき、彼は愕として飛び立ちしが気を静めておそるおそる戸を明けしに、その友の一人なる壮年なりき、突然とし彼は曰えり、「佐太郎和主も来たり見よげに希代のものを捜し出せり、疾く疾く疾く来よ」
佐太郎は思い当るところあれば青くなり、心には拝むようにして外に出るを拒みたるも、今にして止むべきにあらざれば、彼は牢に牽かるる罪人のごとく悄々と随いゆきぬ、常にはほかに訪う人なかりし寡婦が住居の周囲に、今はほとんど人の山を築けり、彼らは今来たる佐太郎を見て一斉に此方を向き、何事をかしきりにササメき合いつ皆苦笑して唾はきたり、佐太郎はいよいよ恐れ、壮年の後につきて群集の中を推して入れば、皇天后土、彼は今朝尋ねたりし阿園が縊れたる死骸を見しなり、げに昨夜家を出て、六地蔵堂の松樹に縊れし阿園は、今その家の敷居に踞して〓(「口+欷」)れる里方の両親の面前に、寝衣のままに死にて置かれてありしなり、佐太郎は再び見るあたわず、目を閉じ顔を背けて、死の苦痛を身の震いに顕わせり、これまで沈黙して様子を見おりし、群集はこの様子を見てまたザワザワと私語き初めぬ、父老「のう佐太郎これまでの好みもあれば、面倒ついでに今一度墓を掘らでは」老母ら「これまで卿が世話しつるもの、何とぞ成仏するよう葬りてよ」女房ら「縊れて死ぬるとは誰にいかなる遺恨のありてぞ」壮年の一人「何ゆえ死にしか和主は必ず知りおらん」壮年の今一人「しかり和主がほかに出入りしたるものもなければ」今一人「アア憐れ憐れ、誰がかように殺したるぞ」小供ら「伯父よ佐太郎主が縊り殺せしとか」
佐太郎は一言も答えず、答うることあたわざればなり、両親は顔を挙げつ、娘の死を他の咎によらずして、最初に還らざりしその不了簡に帰し、日も暮るれば死人をうちに容れて逮夜せんと、村人に謝礼しつ、夫婦して娘の死骸を抱き上げたり、父老壮年、その傍に立ちしものは皆手伝えり、ただ佐太郎のみ佇みたるまま手をも挙げざりき、やがて群集はおのおのその伴を呼びつつ罵り帰り、時々振り回りて佐太郎を見やれり、佐太郎は人影の遠ざかるを待ち、ツト戸の内に駈けこまんとしては身を返し、再び入らんとして再び入らず、ひそかに戸のうちを窺い、その両親のヒッそりとせし闇の中に咽べるを聞き、ついに得入らずしてひき返せり、
彼は影のごとくわが家に帰り、行燈を点してその前に太息つきぬ、「何ゆえ死にしか和主がほかに知る人なし」「憐れ憐れ誰が殺せしぞ」「伯父よ佐太郎主が縊り殺せしとか」ああ怨めしき阿園、情なきことせしものぞ、かくなることとは露知らざりしも、かくなる上はわれが殺せしと言わるるとも言い開くべきようなし、悲しいかなやんぬるかなと、彼は怨めしげに自身の手足を視回しては太息し、愛憎なげに己が影を眺めては太息せり、彼はなお幾たびか阿園の両親に懺悔せんと思い、また阿園のごとく死なんとまで思うこともしばしばなりき、しかして彼はつらつら思い回わせり、「もし懺悔せんとせばげに懺悔すべき罪あり、もし死なんとせばげに死すべき罪すらなきにあらず」と、彼はさしあたりなすべきことを考えたれど、ほとんどなすべきことを知らざりき、げに彼はまさに死なんとする蒼顔の勇蔵を呼び起して詫び、恐るべく変りし阿園に向いて悔い、厳めしき里方の父にいかに懺悔の端を開くべきか、打ち沈めるその母をいかに慰藉すべきか、彼らは阿園が死を己れに帰せざるがごとしといえども、その実は己れを怨み初めより己れの懺悔慰藉を拒むものにはあらざるか、よし拒まずとするも事すでに後れたるにはあらざるか、よしまたすべてがよろしきにもせよ村人ことに女房、朋友、小供らに対しいかにして再び顔を合わすべきかを思い、ついには裏の戸を抜け、唐碓の小屋の傍に出て、流れに沿いて麓を下り、もってその身の棄てどころを尋ねんと思い、山をたどり峰に登り谷に下り森に入って、いずこにても縊り死すべしと思いたり、彼はかく一様のことを幾たびも繰り返しつ、千緒万端思考したれども、ただ茫然として仆れたる一事のほか何のなすところもなかりしなり、
彼はその罪を懐きて眠れり、彼は直ちに眠りに就きしもその罪は生きており、種々異様の形を取り夢路を遮って彼を悩ませり、その最も恐ろしかりしはこれなりき、ある短き日の夕彼はいずこともなく旅立って野路を行き、日没に及んで茫々たる墓場にさしかかれり、彼がまさに行き過ぎんとするや否、路傍に差し出でたる二個の新墓、忽然として動ぎ出て石の下より一声「待て」と呼ぶや否、両頭の大蛇首を挙げて追い来たれり、彼は飛ぶごとくして遁げ走りたるも、足はただ同じ地のみを踏める間に大蛇はすでに寸後にせまり、電火のごとき二条の舌ズッと彼が頸を嘗めたり、彼はみずから驚く声に目覚めたるが、峰の嵐の戸を敲く声は地獄よりの使者の来たれるかとも思われたり、
彼はもはや眠るあたわず、起き直りて夜の明くるを待てり、夜はやがて明け初め、怨夢はすでに去ったるも、怨夢の去りし牖の孔より世界は白き視線を投げて彼が顔をさし窺けり、力なげに戸をあくれば、天は大いなる空を開きて未明より罪人を捜しおり、秋の日は赫々たる眼光を放ちて不義者の心を射透せるなり、彼は今日も鎖じ籠りて炉の傍に坐し、終日飯も食わずただ息つきてのみ生きておれり、命をかけて得たりし五十金、いずこに蔵めてあるかその員に不足を生ぜざるか改めて見んともせず、ひたすらにまた日暮を待ちたり、日はやがて暮れたり、
彼はあたかも遠征を思い立ちし最初の日の夕のごとく圃の人の帰るを測りて表の戸より立ち出でたり、彼が推測は謬らず、圃の人は皆帰り尽し、鳥さえ塒に還りてありし、彼は前夜の夢路をたどるもののごとく心細く歩きたるが、早や黄昏すぎて闇きころ、思いがけなく一群の人の此方に向いて来たるに遇えり、彼は立ち留りて窺いたるに、これは皆村人にてしかも阿園の葬式の帰りなりき、佐太郎は再び愕としてあたりの櫨の樹蔭に身を隠したり、群は何の気もつかず、サヤサヤと私語きあいつ緩々その前を通りすぎたり、彼は耳を澄まして聞きたるに多くの言語相混じてしかと分らざれど、彼はかく聴き取りぬ、「縊れてまで死ぬるとは誰にいかなる遺恨あってぞ」「何ゆえ死にしか和主がほかに知るものなし」「憐れ憐れ誰が殺せしぞ」「伯父よ佐太郎主が縊り殺せしとか」と、彼は再び消え入ったり、
一群ははるかに去りて暗光はドップリと暮れゆき再び来る人もなかりき、されど彼は阿園が棺とその葬式の道を恐れて出でず、なお樹下に潜みいつ遠近と夜の影を見回せり、彼の心には現世ははるかの山の彼方になりて、ココは早や冥土に通ずる路のごとく思われ、ヒヤヒヤと吹き来る風は隠府の羽を延ぶるがごとく、眼前に闇よりもひときわ黒く釣られたる案山子は焼け焦らされし死骸のごとく、はるかの彼方に隠々として焔えつつ遠くなり近くなりパシパシ火の子のハシる阿園が棺の火は、さながら地獄の無尽焔とも見えたり、目を瞑じて静かに考うれば、これまでの無量の罪業ことに阿園の忌中五十日間の心術と所業と、一層明白に浮び来たり、一七日の法事を営み了り墓に詣りて香花を手向けたること、勇蔵が遺物と逸事をもって阿園の喜びに入りしこと、再度徳利と菜籠を提げて阿園を訪いたること、ついに阿園と寝たること、歴々としてなお閻王の法廷に牽かれて照魔鏡の前に立たせられたるに異ならず、しかして今しも吹くる風、怪しくも墓の煙を彼が身辺に吹きよせたり、
やがて影薄き新月山の端より窺い出づれば、今まで隠れたる野辺の景色は、たちまち妖魔怪物のごとく飛び出でて、彼を囲めり、今は驚く気力も消え、重傷を負いたる人のごとく重き歩みを曳きずりつつ、交路に立てる石仏の前を横ぎり、秋草茂れる塚を過ぎ、パラパラ墓と称する墓場を経、雨夜に隠火の出づると言う森と、人魂の落ちこみしと伝うる林を右左にうけて通りこし、かの唐碓の渓の下流なる曲淵の堤に出でたり、
両岸の楊柳は風に揺られ、疎らに垂れたる枝さらさらと靡き、幽霊の髪の毛のごとく佐太郎が頭に触れて肩を撫でり、げにこの曲淵には去年の秋この村に嫁ぎたる阿豊と言える女房、姑の虐遇に堪えで身を投げたるところにして、その一頃の波脈々としてサワ立てるは、今も亡者の怨魂がその水底をカキ回して寒たく写れる眉月を砕くに似たり、彼は淵に臨んで嘆ぜり、「女に誤りし身の果ては死ぬるも女の跡を追わねばならぬか、古門村の住人山田佐太郎生年二十三歳アアこれまでの娑婆は夢か」と、
たちまち怪しき声するとともに、三日月は山を越え、跡には闇と娑婆のみ残れり、
不思議にも彼が死骸はいずこにも浮ばざりき、しかれども彼は再びその家に還らざりしかば、また一場の風評は伝わりぬ、あるいは曰く、彼は人知れぬ谿に縊り、その死骸はなおそこにあるべしと、あるいは曰く彼はいずれの淵ことに曲淵に身を投げたるも、罪業深きゆえにその身浮ばざるものならんと、あるいは曰く阿園の葬式の夜五十金を懐きて遁れしと、かくて彼は到底死したることと定まりしも、彼は死後生より重き幾倍の苦痛──冥土にてその友と寡婦に逢うの苦痛、その友の信用を偸みし罪、その妻を親切をもって謀りし罪その他一切の悪業に報わるるの苦痛あるを知りて死にしや否の一事はなお往々にして争われたりき、
かくて古門村には二軒の空屋を残したり、一軒は川辺にあり一軒は山手に立てり、前者の門札は尋常にその墓に移りてあるも、後者の名はその石を有せざりき、逝くものは月日、三年立ち五年過ぎ、村人の代も変りて去年新たに隠居して本願寺に詣でし父老の一人、帰村の初め、歓迎の宴席において語れるその紀行のうちに左の一節ありしなり、
「われらが西京より近江に出でて有名なる三井寺に詣ずる途中、今しも琵琶湖を漕ぎ出る舟に一個の気高き行脚僧を見き、われらが彼を認めし時は、舟すでに岸を離れてありき、われらが彼を熟視するごとく彼もしきりにわが一行を打ち守りき、ついに彼は舟子に舟を返さしめんとするさまなりしが、その語は櫓の声波の音に紛らされ舟は返らずしてますます遠ざかり、互みの顔ようように隔たりつつ、ついに全く見えなくなりぬ、さてその法師の容貌と風采とは、さながら年とりし佐太郎そのままにて、不思議の再会最も懐かしく思いたるに、他に佐太郎にあらずと言うものもあり、さらばとて、帰り路に再びそこを過ぎたれど人にも舟にも遇わざりし」と、
底本:「日本の文学 77 名作集(一)」中央公論社
1970(昭和45)年7月5日初版発行
1971(昭和46)年4月30日再版
初出:「国民之友」
1891(明治24)年8月
入力:川山隆
校正:土屋隆
2007年4月5日作成
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