「太平洋漏水孔」漂流記
小栗虫太郎
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竜宮から来た孤児
前作「天母峯」で活躍した折竹孫七の名を、読者諸君はお忘れではないと思う。
アメリカ自然科学博物館の名鳥獣採集者として、非番でも週金五百ドルはもらう至宝的存在だ。その彼が、稀獣矮麟を追い、麝牛をたずね、昼なおくらき大密林の海綿性湿土をふみ、あるいは酷寒水銀をくさらす極氷の高原をゆくうちに、知らず知らず踏破した秘境魔境のかずかず。その、わが折竹の大奇談の秘庫へ、いよいよこれから分け入ってゆくことになるのだ。
「おい、海を話せよ、君も、藻海ぐらいは往ったことがあるだろう」
とまず私は困らせてやれとばかりに、折竹にこう訊いたのである。
というのは、海に魔境ありということは未だに聴いてないからだ。絶海の孤島、といえばやはり土が要る。たいていは、大陸の中央か大峻険の奥。密林、氷河、毒瘴気の漂う魔の沼沢と──すべてが地上にあって海洋中にはない。ただ、あるといえば藻海くらいだろうが、それも過去における魔境に過ぎず……いまはその怪馬尾藻も汽船の推進器が切ってしまう。
大西洋を、メキシコ湾流がめぐるちょうどまっ唯中、北緯二十度から三十度辺にかけておそろしい藻の海がある。
これは、紀元前カルタゴの航海者ハノンが発見したのが始め。帆船のころは、無風と環流のためそこを出られなくなり、舵器には馬尾藻がぬるぬると絡みついてしまう。そういう、なん世紀前かしれぬボロボロの船、帆柱にもたれる白骨の水夫、それを、死ぬまで見なければならぬ新遭難船の人たち。絶望、発狂、餓死、忍びよる壊血病。むくんだ腐屍の眼球をつつく、海鳥の叫声。じつに、凄惨といおうか生地獄といおうか、聴くだに慄っとするような死の海の光景も、いまは藻海のとおい過去のことになっている。
では、海に魔境は絶対ないと云えるのか⁉ そういうと、折竹は呆れたような顔をして、
「オイオイ、俺だからいいようなもんの、他人には云うなよ。今どき、藻海なんて古物をもち出すと、君の、魔境小説作家たる資格を疑うものがでてくるからね。だが、じっさい海には魔境といえるものが、少ない。彼処に一つ、此処に一つと……マアそれでも、三つくらいあるだろう」
全然ないと思われた海洋中の魔境が、折竹の話によれば三つほどあるという。ゆけぬ魔海──それはいったい何処のことだろう。また、陸の未踏地のごとく全然人をうけつけぬ、その海の魔境たる理由? しかも、それがわが大領海「太平洋」中にあるという、折竹の言葉には一驚を喫しないわけには往かない。
「それが、東経百六十度南緯二度半、ビスマルク諸島の東端から千キロ足らず。わが委任統治領のグリニッチ島からは、東南へ八百キロくらいのところだ。つまり、わが南洋諸島であるミクロネシアと、以前は食人種の島だったメラネシア諸島のあいだだ。そこに、世界にもう其処だけだという、海の絶対不侵域がある」
「ほう、まだ未踏の海なんてこの世にあるのかね。で、名は?」
「それが島々でちがうんで色々あるんだがね。ここでは、いちばんよく穿っているニューギニア土人の呼びかたを使う。Dabukkū──。つまり『海の水の漏れる穴』という意味だ」
土人の言葉には、ひじょうに幼稚な表現だが奇想天外なものがある。この〝Dabukkū〟などもその一つ。直経百海里にもわたるこの大渦流水域を称して、「海の水の漏れる穴」とはよくぞ呼んだりだ。
そこは、赤道無風帯のなかでいちばん湿熱がひどいという、いわゆる「熱霧の環」のなかにある。そしてその渦は、外辺は緩く、中心にゆくほど早く、規模でも、「メールストレームの渦」の百倍くらいはあろう。ましてこれは、鳴門やメールストレームのような小渦の集団ではなく、渺茫数百海里の円をえがく、たった一つの渦。
周縁は、海水が土堤のように盛りあがっている。ことに、地球自転の速力のはげしい赤道に面した側は、まさに海面をぬくこと数メートルの高さ。さながら、大環礁の横たわる心地す──とは、はじめて〝Dabukkū〟をみた De Quiros の言葉だ。
この、オウストラリア大陸を発見し損なったそそっかしいスペイン人が、〝Dabukkū〟を最初みたのが十七世紀のはじめ。しかし彼は、この化物のように盛りあがった水の土堤に、舵をかえして蒼惶と逃げ出した。そしてそこを、雲霧たちこめるおそろしい湿熱の様から、〝Los Islas de Tempeturas〟と名づけた。すなわち、「颶風の発生域の島々」という意味。
「なるほど」
と、もう私は一、二尺のりだすような亢奮。しかし、いまの説明のなかに判じられないようなものがある。
「その、島々というのはどういう意味だね。〝Dabukkū〟のなかには、島があるのか?」
「そうだ、大小合して七、八つはあるらしい。その何百、何十万年かはしらぬが隔絶した島のなかを、君は一番覗きこみたいとは思わないかね」
と、なにやら仄めかし気にニッと笑った折竹の眼は、たしかに私を驚死せしめる態の大奇談の前触。そしてまず、〝Dabukku〟の島々について語りはじめた。
「ニューギニア土人は、その黒点のようにみえる島を穴と見誤った。海水が、ぐるりから中心にかけて、だんだんに低くなってゆく。それを、勾配のゆるやかな大漏斗のように考えた。つまり、その穴から海水が落ちる。そのため、こんな大きな渦巻ができると、いかにも奴等らしい観察が〝Dabukkū〟の語原だよ」
「ふうむ、太平洋漏水孔か……」
「そうだ、案外渦の成因はそんなところかもしらんよ。ところで、なぜ『太平洋漏水孔』のなかへ踏み入ることができないか。
一九一二年に、当時の独逸ニューギニア会社の探険隊が、『太平洋漏水孔』へ入ろうとした。そのとき、はじめて魔海のおそろしさがハッキリと分ったのだ。それは、『太平洋漏水孔』の海面下が一面の暗礁で、小汽艇のようなものでも忽ち覆えってしまう。つまり、縦に突っきろうにも渦流にまかせようにも、重さと抵抗をもつ汽艇のようなものは駄目なんだ。ただ、どうかと思われるのが桁付き独木舟だ。
こいつは、目方も軽いし抵抗も少ない。ふわふわ渦にのってゆくうちに、どれかの島へゆけるだろう。と、マアその考えもそこまでは良いんだがね。考えると、それでは行きっきりになってしまう。渦が逆流でもしないかぎり……永遠の竜宮ゆきだよ」
「………」
私は、さっきから折竹が頻繁につかう、竜宮という言葉が気になって堪らない。こいつ、何かどえらいものをきっと隠しているなと、問おうとしたのを折竹が遮って、
「それから、もう一つ『太平洋漏水孔』探険の大障害というのが、さっきも云ったひじょうな高湿度だ。なにしろ『太平洋漏水孔』の形がちょうど漏斗だからね。海面の蒸発に涿留がおこる。その探険隊が、『海の潮吹き穴』とそこを名づけたように、濛気赤道太陽をさえぎる大湿熱海だ。
ところで、そのニューギニア会社の探険のとき、実験がおこなわれた。それは、大蚪虫をいれた箱を『太平洋漏水孔』へ流したのだが、その、空気温度が約摂氏四十五度。ところが、それから十分ばかり経って引きよせてみると、その大蚪虫の体温が空気温度とおなじだ。君、人間が四十五度の体温にどれくらい堪えられるだろうか」
「想像もつかんよ、地球の熱極というのがあれば、『太平洋漏水孔』のことだろう」
「ふむ、ところでだ。ここに、独木舟に乗って入りこんだ、人間がいると仮定しよう。渦は、毎時周縁のあたりが三十カイリの速さ。そして、ぐるぐる巡りながら最初の島までゆくのに、どう見積っても半日は費る。するとそれまでに、その人間の命が保つかどうかということが、まず第一の問題になってくる。僕は、医者じゃないが、受け合い兼ねますといいたいね」
「分ったよ」
私はメモを置いて、落胆したように彼をみた。
「なるほど、人間の生理状態が一変しないかぎり、『太平洋漏水孔』へはゆけないと云うことが、分った。だが、そんな工合で人間がゆけなくてだね、そこに奇談もなにもないものは、聴いても仕様がないよ」
すると、折竹がいきなり童顔をひき締めて、オイと、一喝するように呶鳴った。
「おいおい、話というものはしまいまで聴くもんだ。僕が、何百、何十万年秘められていたかもしれぬ『太平洋漏水孔』の大驚異──それを話そうと思う矢先、早まりやがって……」
「そ、そうか」
「それみろ。とにかく『太平洋漏水孔』のなかに何かしらあるらしいことは、君に作家的神経がありゃ、感付かにゃならんところだ。といって、僕が往ったわけじゃない。じつは、ひとりそこへ入り込んで奇蹟的に生還したものがいる。そしてその人物と、僕のあいだには奇縁的な関係がある」
「なんと云うんだ! そして、どこの国のものだ」
「日本人だ。しかも、頑是ない五歳ばかりの男の子だ」
私は、ちょっと、暫くのあいだ物もいえなかった。読者諸君も、その五歳という文字を誤植ではないかと疑うだろう。しかし、五歳はあくまでも五歳。そこに、この「太平洋漏水孔」漂流記のもっとも奇異な点があるのだ。では、しばらく私は忠実な筆記者として、折竹の話を皆さんに伝えよう。
「黒人諸島」浦島
それが、第一次大戦勃発直後の大正三年の秋──。日本海軍が赤道以北の独領諸島を掃蕩しつくしたけれど、まだドイツ東洋艦隊が南太平洋にいるという頃。はやくも、新占領区域を中心に商戦の火蓋をきった、向うみずな一商会があった。それが、折竹の義兄が経営する海南社。のちの恒信社、南洋貿易などの先駆となったものだ。
独艦が出没する南太平洋を縫い、ともかく小帆船ながら新領諸島と、濠洲間の聯絡を絶やさなかったのは偉い。その、水凪丸の二回目の航海、ブリック型、補助機関附きの五百噸ばかりの帆船。それが、雑貨燐鉱などをはち切ればかりに積んで、いま北東貿易風にのり赤道を越えようとしている。
若人のあこがれ、海のロマンチシズムは帆船生活にある。順風に、十度ほど傾いではしる総帆の疾走。波音と、ブロックの軋めきのほかは何もない南海の夜。仰げば、右に左に弧をえがく上檣帆のあいだに、うつくしい南の眼、赤十字星のまたたき。折竹も、珊瑚礁生物の採集というよりも、むしろこうした雰囲気に魅せられて乗っていたのだ。やがて、北東貿易風がいつとはなしに絶え、船は、聴くだに厭な赤道無風帯に入っていった。
「驚いたですよ、船長」
と折竹もさすがに音をあげた。
「この、補助機関の震動がするあいだは地獄というわけですね。まったく、この蒸し暑さときたら死んじまいたいくらいだ。眼がぽっと霞んで来るし、なにも考えられなくなる。だが、あれ⁉、アッ、ありゃ何だ」
下桁のしたの天幕のかげから、折竹が弾かれたように立ちあがった。そとは、文字どおりの熱霧の海だ。波もうねりもなく濃藍の色も褪せ、ただ天地一塊となって押しつぶすような閃めき。と彼に、左舷四、五十鏈の辺に異様なものが見えるのだ。環礁のようだが色もちがい、広茫水平線をふさぐに拘わらず、一本の椰子もない。
「あれかね、あれは有名な『太平洋漏水孔』の渦だよ。環礁のように見えるのは、盛りあがった縁だ。とにかく、はいったら最後二度と出られないという、赤道太平洋のおそろしい魔所なんだ」
その時、船首の辺でけたたましい叫びが起った。一人の水夫が、檣梯の中途でわれ鐘のような声で呶鳴っている。
「おうい、変なものが見えるぞう。右舷八点だ……鳥が、籠みてえなものを引いてゆくが……見えたかよう」
まもなく、その二羽の鰹鳥が射止められた。引きあげられたのは葡萄蔓の籠で、なかを覗いた男がアッといって飛び退いた。裸体の、愛らしい五つばかりの男の子が、呼吸もかすかに昏々とねむっている。なんだ、夢ではないのか。この、ちかくに島とてない赤道下の海を、鳥に引かれながら漂う頑是ない男の子。
と、しばらく全員は酔ったような眼で、暑さも忘れ、じっとその子をながめている。と間もなく、その子の背に手紙が結いつけられてあるのが、見つかった。船長が手にとったが、すぐ折竹にわたし、
「君、ドイツ語のようだね」
「そうです、読みましょうか。最初に、この子の仮りの父となって暮すこと一月。いま『太平洋漏水孔』中にある独逸人キューネより──とあります」
太平洋漏水孔──たった一字だががんと殴られた感じだ。しかも、みればこの子は日本人のようだし、どうして、あの魔海に入りどうして抜けでたのか。しばらく全員は阿呆のように、じりじりと照る烈日のしたで動かない。
やがて、その子は手当をされ船室で寝かされた。折竹は、いつまでも醒めない悪夢のあとのような気持、フラフラわれともなく檣舷へのぼって、いま左舷に過ぎようとする「太平洋漏水孔」をながめていた。
斜めの海、海の傾斜。とうてい、夢にも思えなかったものが、現実として、眼のまえにある。そこには、幾重にも海水が盛りあがり、まっ蒼に筋だっている。その大漏斗をまく渦紋のあいだには、暗礁がたてるまっ白な飛沫。しかし、それはただ眼先だけのことで、はや四、五鏈先はぼうっと曇っている。そして、煙霧のかなたからごうごうと轟いてくるのが、「太平洋漏水孔」の渦芯の哮りか……。
折竹は、それをキューネの絶叫のように聞きながら、魔海からの通信を読みはじめたのである。
*
手紙の主フリードリッヒ・キューネは、独逸ニューギニア拓殖会社の年若い幹部であった。以前はお洒落で名高い竜騎兵中尉。それが先年、ベルリン人類学協会のニューギニア探険に加わって、以来南海趣味にすっかり溺れこみ、退役してニューギニア会社へきたのだ。スポーツマン、均斉のとれた羚羊のような肢体。これで、一眼鏡をしコルセットをつければ、どうみても典型的貴族出士官だ。
そのキューネが、この五月に破天荒な旅を思いたち、独領ニューギニアのフインシャハから四千キロもはなれた、かの「宝島」の著者スチーヴンスンの終焉地、Vailima 島まで独木舟旅行を企てたのである。両舷に、長桁のついた、〝Prau〟にのって……かれは絶海をゆく扁舟の旅にでた。そして、海洋冒険の醍醐味をさんざん味わったのち、ついに九月二日の夜フインシャハに戻ってきた。──話はそこで始まるのである。
土人の〝Maraibo〟という水上家屋のあいだを抜け、紅樹林の泥浜にぐいと舫を突っこむ──これが、往復八千キロの旅路のおわりであった。ところが、海岸にある衛兵所までくると、まったく、なんとも思いがけない大変化に気がついたのだ。そこには、ドイツ兵士は一人もいず、てんで見たこともない土民兵が睡っている。ちょっと、ポリネシア諸島の馴化土人兵のような服装だ。
「なんだろう。国の兵隊がいず、変なやつがいるが……」
と、見るともなくふと壁へ眼をやると、そこに、土民への布告が張ってある。かれは、みるみる間にまっ蒼になった。留守中、大戦が勃発しこの独領ニューギニアは、いま濠洲艦隊司令官の支配下にあるのが、わかった。ことに、その布告の終りの数行をみたとき、彼はわれを忘れてかっと逆上したのである。
──濠洲軍は、なんじ等に善政を約束する。思えば、永年苛酷なるドイツ植民政策に虐げられた汝らは、ドイツ軍守備隊長フオン・エッセンに対しても、われ等と協力し復讐をわすれなかった。彼らが、家族、敗兵らとともに密林中に逃げこんだとき、汝らはわが言にしたがい間諜をだし、たくみに彼らを導いて殱滅させたではないか。
但し、隊長夫妻ならびにその一子、以下白人戦死体の首の拾得は禁ずる。
キューネは、眼がくらくらして倒れそうになった。ことに、彼と仲よしだった隊長の、子ウイリーの死を思うとかっと燃えあがる憤怒。鬼畜、頑是ない五歳の子まで殺さんでもいいだろう。おそらくそれは、平素恨みを抱く土人の仕業だろうが、なにより嗾かけたのはベレスフォードではないか。
と、わずか四月の間にかわった世の中となり、いまは身を寄せるところもない今浦島となったキューネは……それから先々もかんがえず怖ろしさも感ぜずに、ただフラフラと放心したように歩みはじめた。
(殺すぞ。鬼のようなベレスフォードのやつ、からならず殺ってしまうぞ)
いま、キューネの胸のなかには、それだけの事しかない。すると、月のない夜がもっけの倖いとなり、ふらふら彷徨ううちに隊長官舎のそばへ出た。巨きな、腕ほどもある胡瓜の蔭に、ちらっと灯がみえる。窓はあけ放され、部屋のなかが見える。壁には、子供がかぶるピエロの帽子。卓には、オモチャの喇叭や模型の海賊船。
(ようし)彼はぐびっと唾をのんだ。
眼には眼、歯には歯だ。ベレスフォードに、男の子がいるとは……天運とはこのこと。と、ただ復讐一図に後先もかんがえず、やがて、ちいさな寝台から抱えあげたその子を、毛布にくるんでそっと持ちだしたのである。まもなく、夜風をはらんだ独木舟の三角帆が深夜のフインシャハを放れ矢のようにすべり出た。
密林逃亡者
しかし、キューネは、くらい海上にでるとさすがに亢奮も醒めた。いま、父母の懐ろから拉しこられたにも拘わらず、ベレスフォードの子はかるい寝息をたてている。この、無心神のような子になんの罪がある⁉ いかに、復讐とはいえどうして殺せようと、一度理性がもどれば飛んだことをしたと急にキューネはその子が不憫になってきた。
どれどれ、すぐ坊やのお家に帰してやるよ──と、もともとキューネは子供好きだけに、毛布をあげてそっと顔を見ようとした。
夜が明けかかり、星影がしだいに消えてゆく。当て途なく流れてゆくこの独木舟のうえにも、ほの白い曙のひかりが漂ってきた。すると、いきなりキューネがハッと身を退くような表情になり、
「ちがう、こりゃ、ベレスフォードの子じゃない」
とさけんだ。
白人ではない。五歳ばかりの、黒い髪に琥珀色の肌。くりくり肥った愛らしい二重頣。この、意外な東洋人の子におどろいたキューネは、がたがた独木舟をゆすってその子を起してしまった。
「オヤッ」
というようなまん丸い眼をして、しばらくちがった周囲に呆気にとられていたその子は、やがて、しくっしくっと泣きじゃくりを始め、
「オジチャン、ここ、ジャッキーちゃんのお家じゃないんだね」
「そうだよ。だが、もうじきに帰してやるからね。ときに、坊やはどこの子だね」
「お父ちゃんは、日本人でジョリジョリ屋だい」
「ジョリジョリ⁉ ああ理髪屋さんだね。で、坊やはどこで生れたんだ」
「シドニーだよ。お母ちゃんは、去年そこで死んじまったんだ。お父ちゃんは、それから兵隊附きのジョリジョリ屋になって、今度も、隊と一緒にここへ来たんだがね。それも、先週の土曜にマラリアで死んじまったよ。ボクは、宇佐美ハチロウっていうんだよ」
五歳で、この蛮地へきて孤独の身となるだけに、なかなか、ませてもいるし利発でもある。それから聴くと、父の死後はベレスフォードの家へきて、そこの、ジャッキーちゃんの遊び相手になっているというのだ。してみると、ゆうべジャッキーが壁際に寝ていたのを、キューネが見損なったわけなのである。しかし、ともかくこの子は帰さなければならない。
「オジチャン、オチッコが出たいよ」
きゅうに、ハチロウが尻をもじもじしはじめた。
「だけど、ジャッキーちゃんは海へオシッコすると、オチンチンを撞木鮫にとられるというよ」
と、その時どうしたことか、ハチロウの腰をおさえてオシッコをさせている、キューネの手がいきなり震えはじめてきた。遠空に、色付きはじめた中央山脈を縫いながら、するするのぼってゆく英国旗。しまった、もうこの子を帰そうにも帰せなくなったと──起床ラッパの音を夢のように聴きながら、かれはまったく途方に暮れてしまったのである。
天地間、いま一人のこの身の置きどころもなくなった彼は、ハチロウの処置という重荷が加わったのだ。多分、明ければハチロウの失踪に気がつくだろう。そして、この島の内外がきびしく調べられるだろう。所詮自分は、ハチロウを帰そうとしてこの辺に迂路ついてはいられない。では、これからどこへ行こうか。
周囲はことごとく英仏領諸島。蘭領も米領も、所詮ドイツ人にとっては安全の地ではない。いまこの地上に一寸の土地もなくなった。キューネはただ悶えるのみであった。そこへ、突然ハチロウがこんなことを云いだしたのだ。
「オジチャンの、このお舟はどこへゆくんだね。坊やのお国の、日本へゆくの?」
「行ってもいいよ」
と、彼は眼先がきゅうに開けたような気がし、
「だけど、坊やはジャッキーちゃんのお家へゆくんじゃないのかね」
「うん、だけどね。ジャッキーちゃんはとっても威張るんだもの。あたいを、いつも慾ばりの悪殿様にして、ジャッキーちゃんの海賊が退治にくるんだもの。だけど、あたいのお国の日本なら虐められないだろうね」
こんな、頑是ない子が郷愁をおぼえる哀れさ。それは、やはりキューネも同じことである。オジチャンも、どれほどドイツへ帰りたいか知れないよと、口には云わないがいきなりハチロウを抱きしめ頬ずりをしながら滂沱と涙をながした。
「ゆこう坊や。坊やのお国の日本へゆこうよ」
そうして二人は、安住の地へと漂泊をはじめたのであったが……それには、まず行きようもないと云う秘境が必要だ。ところが、独領ニューギニアの最北端に、〝Nord-Malekula〟という、荒れさびた岬がある。そこには、岩礁乱立で近附く舟もなく、陸からの道には〝Niningo〟の大湿地があり、じつに山中に棲む矮小黒人種さえ行ったことがないと云う。かれは、まず皇后オウガスタ川を遡っていった。
両側は、いわゆる多雨の森、パプアの大湿林。まい日七、八回の驟雨があり、ごうごうと雷が鳴る。その雨に、たちまちジャングルが濁海と化し──独木舟が、大羊歯のなかを進んでゆくようになる。わけても、この皇后オウガスタ川はおそろしい川で、鰐や、泥にもぐっている〝Ragh〟という小鱶がいる。
ほとんど哺乳類のいないこのニューギニアは、ただ毒虫と爬虫だけの世界だ。やがて、独木舟を芋蔓でつないで、いよいよハチロウを負い〝Niningo〟の湿地へとむかった。
そのあいだの密林行。繁茂に覆われた陽の目をみない土は、ずぶずぶと沢地のようにもぐる。羊歯は樹木となり巨蘭は棘をだし、蔦や、毒々しい肥葉や小蛇ほどの巻鬚が、からみ合い密生を作っているのだ。その間に、人の頭ほどもある大昼顔が咲き鸚鵡や、巨人の蝶の目ざめるような鮮色。そしてどこかに、極楽鳥のほのぼのとした声がする。やがて、百足を追い毒蛇を避けながら、〝Niningo〟の大湿地へ出たのだった。
そこは、幅約半マイルほどの、おそろしい死の沼だ。水面は、みるも厭らしいくらい黄色をした、鉱物質の滓が瘡蓋のように覆い、じつは睡蓮はおろか一草だにもなく、おそらくこの泥では櫂も利くまいと思われる。そしてここが、奥パプアの最終点になっているのだ。
「坊やは、ウンチがでないかね」
「また、オジチャン、泥亀をとるんだろう。だけど、坊やだってそうは出ないよ」
人糞を、このんで食う泥亀をとっては、この数日間二人は腹をみたしていた。しかし彼には、この沼をわたる方法がない。こんなことなら、むしろ中央山脈中に、原始的な生活をしている、矮小黒人種の〝Matanavat〟の部落へゆけばよかった。と、此処へきてはや一時間とならぬのに、キューネの面は絶望に覆われてしまった。
すると、時々とおい対岸で、パタリパタリと音がする。その、なんだか聴きようによっては人間の舌打ちのように聴える音が、万物死に絶えた沼面をわたってくるのだ。と同時にそれに交って、小鳥のさけぶキーッという声がする。やがて、キューネがポンと手をうって、
「分った。ニューギニアの奥地には食肉植物の、『うつぼかずら』のひじょうに巨きなものがあるという話だったが……。そうだ、一番それを使って、この沼をわたってやろう」
やがて、ほそい藤蔓のさきに小鳥をつけて飛ばしているうちに、キーッという叫び声とともに、ぐっと手応えがした。たしかに、「うつぼかずら」の大瓶花が小鳥をくわええたにちがいない。とそれをキューネが力まかせに引くと、一茎の攀縁一アール(百平方米)にもおよぶと云う、「大うつぼかずら」がズルズルと引きだされてくる。まもなく、そうして出来た自然草の橋のうえを、二人が危なげに渡っていたのである。いよいよ、目指す、〝Nord-Malekula〟
「坊や、ここが当分、私たちのお宿になるんだよ」
「日本かね、オジチャン」
「いや、日本へゆく道になるのさ。坊やが、ここで幾つも幾つもおネンネしていると、そのうちにお迎いの船がくるよ」
そして、キューネの気もハチロウの気も落着いた。みれば、果物も豊富、魚介も充分。ここから、時機がくるまで伸々と過せると、キューネもほっとしたのであった。
しかし、そうして何事もなかったのもたった一日だけ……。翌朝、果実を見つけに茂みのなかへ入ってゆくと、ふいに、眼のまえに薄赤いものが現われた。
「あっ、何だ。サア、坊や、はやくオンブしな」
前方でも、ザクザクと草を踏む音がする。やがて、ベゴニアの藪のなかへ蹲んだその生物を、キューネがぐいと引きだしたのである。とたんに、彼はアッと叫び、思わず離すまいと双手に力をこめた。それが、人間も人間、うら若い娘だった。
「Papalangi、ああ、Papalangi」
とその娘が絶え入るような喘ぎをする。
Papalangi とは、サモア語の白人という意味。みれは、熟れかかった桃のような肌の紅味、五体はタヒチ島土人ときそう彫刻的な均斉。思わず、キューネがほうっと唸ったように、まさに地上の肉珊瑚、サモア島の少女だ。
「君、そう怯えなくたって、何もしやしないよ。だが、どうして君一人が、この Malekula にいるんだね。サモアだろう⁉ サモアの娘がどうして此処にいるの」
娘が、キューネに安心するまでには長時間かかった。もし愛らしいハチロウがこの白人のそばにいなければ、おそらくこの娘は必死に逃走をはかったろう。間もなく、かの女が此処へくるについてのかなしい物語をしはじめた。娘は、名を〝Nae-a〟という。
「私は、ながらくサモアの国王をやっている〝Tamase〟の孫です。ところが、どういう訳でしょうか、ドイツ領事が、タマセの王系を絶やそうとするのです。祖父のタマセは、今から三十年ほどまえ伯林へ送られました。また、それから転々として亜弗利加ギニアの、おそろしい土地にも送られたことがあります。
ですけど、どうしてタマセの王系がそんなに邪魔なんでしょう。父はいま、サモア酒の中毒で廃人も同様。兄も、父に見ならって盛んにサモア酒をのんでいます。それも、みんなドイツ領事の薦めることなんですわ。私も、幼な心に見過せなくなりました。まだ去年といえば十一でしたけど、父と兄を諫めたことがあります。するとそれが、なにかドイツ領事に危険なものに見えたのでしょうか。私を、こっそり捕まえて貿易船に抛りこみ、ここの岩礁のうえで、ポンと放したのです」
この、天人ともに許さぬ白人の暴戻は、キューネをさえ責めるように衝いてくる。まったく、ナエーアが啜り泣きながらいうように、サモアへ帰れば殺されるだろうし、といって、此処に一生いるくらいなら死んだほうが増しだという。まして、この〝Nord-Malekula〟は、けっして安全な地ではないのだ。
「私、まだここには一年しかいませんけど、時々、おそろしい高潮が襲ってくるのです。その時は、木へのぼって、ぶるぶる顫えていなければなりません。そしてその潮は、ここの果実という果実をすっかり持っていってしまうのです。ねえ坊や、これから坊やとオジチャンとオネエチャンと三人で、どこか安楽な島へでもゆこうじゃないの」
そうして間もなく、この〝Nord-Malekula〟を三人が出ていった。果実や泥亀の乾肉をしこたまこしらえて、また、独木舟にのり大洋中にでたのだ。しかし、今度は目的地もない。ただ、絶海をめぐって、孤島をたずねよう。そしてそこが食物の豊富な常春島であれば……。
太平洋漏水孔の招き
「オジチャン、これで坊やたちは、日本へいくんだね」
ハチロウは、外洋へでると大悦びだったが、そんなことを聴くと、キューネは鼻の奥がじいんと滲みるような思い、自分はドイツ、ナエーアはサモアへ……。いずれも帰心矢のごとしと云いながら、帰れない身だ。よくよく、おなじ運命のものがめぐり合わせたもんだと、ますますこんなことから結ばれてゆく三人。
独木舟、いま南東貿易風圏内にある。この雨桁附き独木舟にはひじょうな耐波性があって、むかしは、ハワイ、タヒチ島間六千キロを、定時にこの扁舟が突破していたといわれる。
「なんだか、赤道に近いようですわね」
とビスマルク諸島の北端を出てから三日目の午、ナエーアが、しばらく手をかざしながら水平線を見ていたが、そういった。
「どうして、分るね」
「ホラ、蒼黒い筋が水平線にあるでしょう。あれが、凪がちかい証拠だというんです。じきに、北の星が見えるかもしれませんわ」
それまでキューネは、ただ羅針盤だけでこの舟を進めていた。いま針路は真東にゆき、エリス諸島辺へむかっている。それだのに、赤道ちかいとは何事であろう。事によったら、皇后アフガスタ川の叢林中につないで置いたあいだ、なにか羅針盤が狂うような原因があったのではないか。そこで、念のため軽便天測具を持ちだして、その夜、星を測ってみたのだ。なるほど、セントウルスの二つの輝星の位置がちがう。
かれは、軽便天測具を置くとナエーアの手をにぎった。はじめて土人娘のカンの正しさを知ったのだ。
「私たちが、もしこの舟のうえに一生いるようになったら……」
ナエーアがある夜キューネにこんなことを云いだした。星影をちりばめたまっ暗な水、頭上の三角帆は、はち切れんばかりに風をはらんでいる。
「そうだねえ。僕らは、こんなようじゃ当分海上にいるだろうからね」
事実この三人は、見る島、ゆく島の人たちによって残酷に追われていた。キューネのだれにも分るドイツ訛りと、戦争が終ったか終ったかと聴くような怪しい男には、どの島民も胡乱の眼をむけずにはいない。銃を擬せられて、逃げだすときの情なさ。まったく、この三人はかなしい漂泊を続けていたのだ。
しかし、この扁舟のなかの二人の男女には、たがいに木石でない以上、何事かなければならない。ナエーアは、十二とはいえ早熟な南国ではもう大人であり結婚期である。二人はだんだん、自然の慾求に打ち克てなくなってきたのである。
「私、どこでも島さえ見つければ、一生懸命に働きますわ。あなたの、ズボンも椋梠毛でつくれますわ。それに、珊瑚礁の烏賊刺しは、サモア女の自慢ですもの」
「僕は、君の不幸にならなけりゃと思うがね」
キューネは、ふかく海気を吸ってナエーアを見まいとする。しかしその眼は、もう間もなくくるだろう、甘酔に血ばしっている。そこへ、かるい欠伸をして、ハチロウが眼をさました。
「オジチャン、もう日本へ来たのかい」
「まだまだ、坊やがそう、百もおネンネしてからだね」
「じゃ、オジチャンとオネエチャンがお父ちゃんとお母ちゃんになって……、坊やは、唯今って日本へいくんだね」
そんなことが、ますます二人を近附けてゆくのだ。すると翌朝、サゴ椰子がこんもりと茂った島に着いた。そこは、誰もいない無人島であるが、植物は、野生のヴァラをはじめすこぶる豊富だ。三人は、ホッと重荷を下したような気になった。
「マア、なんて、いいところだろう」
ナエーアが、踊るような足取りで、水際を飛んであるいている。珊瑚虫が、紺碧の海水のなかで百花の触手をひらいている。そのあいだを、三尺もあるようなナマコがのたくり、半月魚という、ながい鎌鰭のあるうつくしい魚がひらひらと……。そして、森はまた花の拱廊をつらねている。
「僕はこの島を、新日本島ということにした。ハチロウのために、そう呼んでやろうよ」
それから二人は、なかにハチロウを挾んで森のなかへ入っていった。すると、野生のヴァニラの茂みのなかに埋もれて、いまはボロボロになっている十字架が一つある。ああ、白人の墓だ──と、キューネは、びっくりして駈けよった。風雨にさらされてまっ黒になったその十字架には、からくも次のような墓碑銘が読めるのだ。
──R・Kという女。一八八二年にこの島にて死す。夫に死なれ生計の道も尽き、土人の妻となりしがため、名を記さず。
墓碑には、簡単にそうあったのだ。しかし、みるみるキューネの面が暗くなってゆく。白人の女が暮しようもなくなって土人の妻となった……それを恥じて、死後も名を記さない。それだのに、いま俺とナエーアはどうなってゆこうとしている⁉
と急に、嫌悪の情がむらむらっと起ってきた。キューネにも、やはりどこかにある白人の優越感が……このたった一度でナエーアの顔を、見るも厭なようになってしまったのだ。彼は、幾度も詰まりながら、ナエーアに嘘をついた。
「ナエーア、やはりここも不可ない島なんだ。疫病がある。それで、ここの島には誰も住むものがないと云うんだ」
「あァあァせっかく見付けたのに、不可ないんでしょうか」
ナエーアはキューネの気持を知らず、がっかりして云った。そしてまた、独木舟の漂流がはじまったのだ。
キューネはそれ以来、見ちがえるような人間になった。ハチロウには、以前とかわらぬ親しさを見せるが、ナエーアにはほとんど物をいわない。そして、水また水の絶海の旅が続いた。
朝は、うすら青くすがすがしい海水が、昼には、ニスを流したような毒々しい藍色になる。そして夕には、水平線を焼く火焔の大噴射。そういう、まい日まい日繰りかえされる同じような風物に、だんだんキューネに募ってくるのはおそろしい虚無。すると、ちょうどその夜あたりから、それまで吹いていた南東貿易風が弱まってきた。
「どうしたんですの。この頃は星も見ないんですね」
とハラハラしたような声でナエーアがいう。
「見ても、見なくても同じことだからね。どうせ、どこへ流れつこうが、末は分っているよ」
それから、数日間はくもって、暗黒の夜が続いた。風は絶え、三角帆もだらりと垂れている。海も空気もネットリとなって、湯気のようなガス、ねむったような蜒り。キューネは、もうどうなろうが儘とばかりに、この四、五日は方角もみない。
とある夜、風もないのに急に波だってきた。
「どうしたんでしょう。風もないのに、こんなに荒れてきましたわ」
ナエーアは、帆を下してハチロウの上にかけた。
波は、低く窪みひろがり泡だって、押しよせてくる。しかし、空には突風もない。ただ水面には触れずとおく上空をゆくのか、ごうっという颶風のような音がする。ところが、空が白々となってきた暁がた近いころに、キューネがけたたましい叫び声をあげた。
「ああ、なんというところへ来たんだ。ナエーア、こりゃ大変な渦だよ。ああ、太平洋漏水孔!」
「だから、だから、云わないこっちゃないんですわ」
ナエーアはただハチロウを抱きながら、オロオロ声でいうだけであった。
こうして三人は、ついに「太平洋漏水孔」へ引きこまれた。海が皺だっておそろしい旋回をしながら、ぐるぐるながい螺旋をえがいたのち、大漏斗の底へ落ちこむ。水は、紫檀を溶かしたような色で二十度ほど傾むき、いま水平線はとおく頭上にかかっている。その、はじめてみた濃藍の水壁は、ごうごうと唸る渦心の哮りよりも怖ろしい。
もうこれまでと、キューネはじっと観念した。いま、朝焼けをうけ血紅のように染まっているこの魔海の光景は、ただ熱気を思ってさえ焔の海のようだ。頭は茫っとなり動悸ははやく、おそらくこの舟が渦心に落ちこむまでに、三人は熱気のため死んでしまうだろう。しかしキューネは、疾い呼吸を感じながらも、じっと渦をにらんでいる。
人間には、どうなっても最後まで生きようという意識がある。それがこの時に、キューネを刺戟してきたのだ。
「どうだろう、この海はこんなことではないのか。それは、渦はもとより求心性のものだが……きっとそれにつれ、うえの空気のうごきは遠心性を帯びるだろう。つまり、くるくる中心に巻きこむ渦の方向とは反対に、うえの湿熱空気は外側へと巻いてゆく。だから、多分この湿熱帯は輪のような形でぐるりに近いところだけを巻いているのではないか。きっと、そこを突きぬけて中心に近づけば、案外この船は緩和圏へ出るのではないか。そうだ、この『太平洋漏水孔』には島があるということだが……」
独木舟は、その間しだいに速力を早めてゆく。傾き、飛沫をあび、速さも約五十カイリくらいと思われる。
と、ここでキューネが狂ったのではなかろうか。いきなり帆綱をもってナエーアに躍りかかった。そして、ナエーアとハチロウを胴の間に縛りつけると、二人の鼻へ粉末のようなものを詰めてゆく。それから、自分を今度は帆柱に縛りつけ、やはりさっきの粉を鼻へ詰めこむのである。やがて、死の瀬を流れてゆく渦中の独木舟のなかで、三人は微動ぎもしなくなった。
水面下の島
それでは、キューネは熱気のため気狂いになったのか⁉ 早くも、湿熱環の禍いが頭へきたのか? いや、それは一人キューネだけではない。ナエーアも、ハチロウも異様なことを喚きだしたのだ。
「渦が、逆廻りし出しましたわ。ああ、私たちはここを出られるんですのね」
とナエーアの声にハチロウが続き、
「オジチャン、涼しくなってきたよ。もう、じきに日本へいけるね」
しかし、渦は依然としておなじ方向へ巻いている。空気は、湿潤高熱、湯気のようである。けれど二人は、この熱気のために気が可怪しくなったのではないのだ。
キューネが、この湿熱環に堪えるため、窮通の策をほどこした。それが、もしも成功すれば起死回生を得る。
「うまく往ってくれ。ただハチロウのため、俺はそう祈る」
キューネが、しだいに朦朧となる頭のなかで叫んでいた。
「おれは、この湿熱環をいかに凌ぐか、考えたのだ。しかしそれには、毒をもって毒を制すよりほかにない。この摂氏四十五度もある大高温のなかにいれば、まずなにより先に気が可怪しくなってくる。
しかしその前に、こっちから進んで人工の狂気をつくったら、どうだ。一時、この高温を感じないように気を可怪しくさせ……そのまま湿熱環を過ぎて緩和圏に出たとき……ハッと眼醒めるようにしたら……」
それが、いま三人が嗅いでいる〝Cohoba〟の粉だ。これは元来ハイチ島の禁制物、〝Piptadenia peregrina〟という合歓科の樹の種だ。土人は、そのくだいた粉を鼻孔に詰めて吸う。すると、忽ちどろどろに酔いしれて、乱舞、狂態百出のさまとなるのだ。いま、その〝Cohoba〟の妖しい夢のなかで、独木舟は成否を賭け飛沫をあびながら走っている。
それから、渦中をゆくことなん時間後のことだろう。ふと、外界が朦朧と見えてきたと思うと、頬にあたる熱気の感じがちがう。オヤッ、と、キューネがふと横をむくと、舟は、大岩礁に桁先をはさんで停っている。
島だ──と彼は歓喜の声をあげた。独木舟はついに湿熱環を突破し、緩和圏中の一島についたのである。
*
折竹は、そこまで話してふと口を休めた。そして、隣室から手紙のようなものを持ってきて、
「これからは、キューネの手紙を見たほうがいいだろう。簡単だが、僕の話よりも切々と胸をうつよ」
という。
*
その島は、周囲八マイルもあるだろうか。ながらく外海と絶縁していたため、ひじょうに珍らしい生物がいる。その一つが、〝Sphargs〟だ。鳴く亀である。亀が声を発するとは伝説だけであろうがいま、「太平洋漏水孔」のこの島のなかには歴然とそれがいるのだ。そいつは、ガラバゴス島の大亀ほどの巨きさで、四、五百ポンドの巨体をゆすりながら愛らしい声で鳴く。私は、肉も食ったが、ひじょうな美味だ。
ほかには紅蝙蝠のひじょうに巨きなのがいるだけで、生物は、ただその蝙蝠と亀だけに過ぎない。そして、島の中央は礁湖になっている。
だが礁湖には、普通外海との聯絡孔が水面下にあるのが通例だが、ここでは、それが最近塞がってしまったらしい。そのため、澱んだ水が高温のため腐り、どろどろの海草や腔腸動物の屍体が、なんとも云えぬ色で一面に覆うているのだ。
まさに、これこそ死の海の景である。そこへ、赤子の手のような前世界の羊歯や、まるでサボテンみたいに見える蘇鉄の類が群生し、そのあいだを、血のような蝙蝠が飛び、鳴き亀が這うといったら、まず地球前史の風物というよりも化物の世界だろう。
こうして、地上に数百万年もとり残された島のなかへ、私たちはポツリと置かれたのだ。今では、ここを出たいとか人里が恋しいとか、そんな事はなにも思わなくなっている。
温度は、ここでもやはり高い。外辺のいわゆる湿熱環ほどではないが、多分摂氏四十度ぐらいはあろう。そのため、私たちはだんだん痴愚になってゆくようだ。
実際、今のところは死なないと云うだけだ。脳力、が暑さのため減退してゆくと云うことは、なにより、お利口さんのハチロウをみれば分る。今では、日本のことも何もいわなくなったし、第一、こう云っている私がそうではないか。あれほど、自己批判の眼をむけて触れようともしなかったナエーアと、いまは動物の雌雄のようになっている。
一切が、もう忘却の彼方にあるのだ。
ところで、此処へ来て私は不思議な人間になった。おそらく私は、この地上における新生物かもしれない。というのは、いつも身体を倒して斜めに歩いているからだ。ちょうど、水平とは四十五度の角度で、私は斜めにかたむきながら歩いている。またそれが、この「太平洋漏水孔」の島での普通の歩きかたなのだ。では、一体なぜだろうか。
それは、この「太平洋漏水孔」では水平というものが、大漏斗の斜面しかないからだ。それに、いつもおなじ方向からひじょうな強風が吹いている。そのため、全島の樹木がなかば傾いて……その薙がれた角度が大漏斗の斜面と、ちょうど直角をなしているのだ。だから、そのあいだへ直立している私は、てっきり、なかば傾きながら歩いているとしか思えない。まったく、錯覚とはいえ自然天地の法則が、ここではものの見事に覆えされている。
これも、私がまったく痴愚になったためか、いや、決してそうではないだろう。
海面は、黒くたかく頭上にそびえ、風と飛沫と囂音で一分の休息もない。そのなかで、私たちはだんだんに退化して、いまに鳴き亀とおなじようになるだろう。
ところが、きょう夜にかけて大颶風がやってきた。そのあと、朦気が吹き払われ清涼の気をおぼえると、今まで忘れていたこと、感じなかったこと、また、私が是非しなければならぬことが、まるで堰切った激流のように迸しってくる。私は寸時でも、脳力を恢復したことを悦ばねばならない。
それは、私が痴愚になったという第一の証拠だが、ハチロウのことをすっかり忘れていたのだ。私とナエーアが、この水面下の島で朽ちはててしまうのはよし。しかし、ハチロウをここで鳴き亀同様の存在にするということは、まったく何としても忍びないことなのだ。
私は、今夜ハチロウを外海へ出そうというのだ。それには、渡り鳥である鰹鳥を利用する。さらに〝Cohoba〟をハチロウにもちいて泥々に酔わせて置く。そして、そのハチロウを入れた籠を鰹鳥にひかせる。おそらく、五羽の鰹鳥はその籠をひいて、底をかすかに水面に触れながら、まっしぐらに突っ切るだろう。
愛は、ハチロウをきっと守るにちがいない。そして神も、私の天使ハチロウに倖いするだろう。
*
私は、読みおわってからも亢奮がさめず、なんだか此処も、斜めに倒れながら歩いている感じがするという、「太平洋漏水孔」のその島のような気がした。折竹は、にたにた笑いながら私のからだを支え、
「オイ、しっかりしろ」
と怒鳴った。私は、頭の靄がようやく霽れたように、
「そのハチロウという子は助かったわけだね。で、今は?」
「あいつかね。あいつは、時々いま重慶へ飛んでゆくよ。そして、爆薬のはいったおそろしいウンコを置いてゆく。まったく、ニューギニアといい『太平洋漏水孔』といい、よく方々へウンコを置いてゆく奴さ」
底本:「世界SF全集 34 日本のSF(短篇集)古典篇」早川書房
1976(昭和51)年7月15日再版発行
初出:「新青年」博文館
1940(昭和15)年2月号
※初出時の表題は、「〝太平洋漏水孔〟漂流記」です。
※「Dabukkū」と「Dabukku」の混在は、底本通りです。
入力:網迫、土屋隆
校正:Juki
2007年8月29日作成
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