春昼後刻
泉鏡花
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この雨は間もなく霽れて、庭も山も青き天鵞絨に蝶花の刺繍ある霞を落した。何んの余波やら、庵にも、座にも、袖にも、菜種の薫が染みたのである。
出家は、さて日が出口から、裏山のその蛇の矢倉を案内しよう、と老実やかに勧めたけれども、この際、観音の御堂の背後へ通り越す心持はしなかったので、挨拶も後日を期して、散策子は、やがて庵を辞した。
差当り、出家の物語について、何んの思慮もなく、批評も出来ず、感想も陳べられなかったので、言われた事、話されただけを、不残鵜呑みにして、天窓から詰込んで、胸が膨れるまでになったから、独り静に歩行きながら、消化して胃の腑に落ちつけようと思ったから。
対手も出家だから仔細はあるまい、(さようなら)が些と唐突であったかも知れぬ。
ところで、石段を背後にして、行手へ例の二階を置いて、吻と息をすると……、
「転寐に……」
と先ず口の裏でいって見て、小首を傾けた。杖が邪魔なので腕の処へ揺り上げて、引包んだその袖ともに腕組をした。菜種の花道、幕の外の引込みには引立たない野郎姿。雨上りで照々と日が射すのに、薄く一面にねんばりした足許、辷って転ばねば可い。
「恋しき人を見てしより……夢てふものは、」
とちょいと顔を上げて見ると、左の崕から椎の樹が横に出ている──遠くから視めると、これが石段の根を仕切る緑なので、──庵室はもう右手の背後になった。
見たばかりで、すぐにまた、
「夢と言えば、これ、自分も何んだか夢を見ているようだ。やがて目が覚めて、ああ、転寐だったと思えば夢だが、このまま、覚めなければ夢ではなかろう。何時か聞いた事がある、狂人と真人間は、唯時間の長短だけのもので、風が立つと時々波が荒れるように、誰でもちょいちょいは狂気だけれど、直ぐ、凪ぎになって、のたりのたりかなで済む。もしそれが静まらないと、浮世の波に乗っかってる我々、ふらふらと脳が揺れる、木静まらんと欲すれども風やまずと来た日にゃ、船に酔う、その浮世の波に浮んだ船に酔うのが、たちどころに狂人なんだと。
危険々々。
ト来た日にゃ夢もまた同一だろう。目が覚めるから、夢だけれど、いつまでも覚めなけりゃ、夢じゃあるまい。
夢になら恋人に逢えると極れば、こりゃ一層夢にしてしまって、世間で、誰某は? と尋ねた時、はい、とか何んとか言って、蝶々二つで、ひらひらなんぞは悟ったものだ。
庵室の客人なんざ、今聞いたようだと、夢てふものを頼み切りにしたのかな。」
と考えが道草の蝶に誘われて、ふわふわと玉の緒が菜の花ぞいに伸びた処を、風もないのに、颯とばかり、横合から雪の腕、緋の襟で、つと爪尖を反らして足を踏伸ばした姿が、真黒な馬に乗って、蒼空を飜然と飛び、帽子の廂を掠めるばかり、大波を乗って、一跨ぎに紅の虹を躍り越えたものがある。
はたと、これに空想の前途を遮られて、驚いて心付くと、赤楝蛇のあとを過ぎて、機を織る婦人の小家も通り越していたのであった。
音はと思うに、きりはたりする声は聞えず、山越えた停車場の笛太鼓、大きな時計のセコンドの如く、胸に響いてトトンと鳴る。
筋向いの垣根の際に、こなたを待ち受けたものらしい、鍬を杖いて立って、莞爾ついて、のっそりと親仁あり。
「はあ、もし今帰らせえますかね。」
「や、先刻は。」
その莞爾々々の顔のまま、鍬を離した手を揉んで、
「何んともハイ御しんせつに言わっせえて下せえやして、お庇様で、私、えれえ手柄して礼を聞いたでござりやすよ。」
「別に迷惑にもならなかったかい。」
と悠々としていった時、少なからず風采が立上って見えた。勿論、対手は件の親仁だけれど。
「迷惑処ではござりましねえ、かさねがさね礼を言われて、私大くありがたがられました。」
「じゃ、むだにならなかったかい、お前さんが始末をしたんだね。」
「竹ン尖で圧えつけてハイ、山の根っこさ藪の中へ棄てたでごぜえます。女中たちが殺すなと言うけえ。」
「その方が心持が可い、命を取ったんだと、そんなにせずともの事を、私が訴人したんだから、怨みがあれば、こっちへ取付くかも分らずさ。」
「はははは、旦那様の前だが、やっぱりお好きではねえでがすな。奥にいた女中は、蛇がと聞いただけでアレソレ打騒いで戸障子へ当っただよ。
私先ず庭口から入って、其処さ縁側で案内して、それから台所口に行ってあっちこっち探索のした処、何が、お前様御勘考さ違わねえ、湯殿に西の隅に、べいらべいら舌さあ吐いとるだ。
思ったより大うがした。
畜生め。われさ行水するだら蛙飛込む古池というへ行けさ。化粧部屋覗きおって白粉つけてどうしるだい。白鷺にでも押惚れたかと、ぐいとなやして動かさねえ。どうしべいな、長アくして思案のしていりゃ、遠くから足の尖を爪立って、お殺しでない、打棄っておくれ、御新姐は病気のせいで物事気にしてなんねえから、と女中たちが口を揃えていうもんだでね、芸もねえ、殺生するにゃ当らねえでがすから、藪畳みへ潜らして退けました。
御新姐は、気分が勝れねえとって、二階に寝てござらしけえ。
今しがた小雨が降って、お天気が上ると、お前様、雨よりは大きい紅色の露がぽったりぽったりする、あの桃の木の下の許さ、背戸口から御新姐が、紫色の蝙蝠傘さして出てござって、(爺やさん、今ほどはありがとう。その厭なもののいた事を、通りがかりに知らして下すったお方は、巌殿の方へおいでなすったというが、まだお帰りになった様子はないかい。)ッて聞かしった。
(どうだかね、私、内方へ参ったは些との間だし、雨に駈出しても来さっしゃらねえもんだで、まだ帰らっしゃらねえでごぜえましょう。
それとも身軽でハイずんずん行かっせえたもんだで、山越しに名越の方さ出さっしゃったかも知れましねえ、)言うたらばの。
(お見上げ申したら、よくお礼を申して下さいよ。)ッてよ。
その溝さ飛越して、その路を、」
垣の外のこなたと同一通筋。
「ハイぶうらりぶうらり、谷戸の方へ、行かしっけえ。」
と言いかけて身体ごと、この巌殿から橿原へ出口の方へ振向いた。身の挙動が仰山で、さも用ありげな素振だったので、散策子もおなじくそなたを。……帰途の渠にはあたかも前途に当る。
「それ見えるでがさ。の、彼処さ土手の上にござらっしゃる。」
錦の帯を解いた様な、媚めかしい草の上、雨のあとの薄霞、山の裾に靉靆く中に一張の紫大きさ月輪の如く、はた菫の花束に似たるあり。紫羅傘と書いていちはちの花、字の通りだと、それ美人の持物。
散策子は一目見て、早く既にその霞の端の、ひたひたと来て膚に絡うのを覚えた。
彼処とこなたと、言い知らぬ、春の景色の繋がる中へ、蕨のような親仁の手、無骨な指で指して、
「彼処さ、それ、傘の陰に憩んでござる。はははは、礼を聞かっせえ、待ってるだに。」
横に落した紫の傘には、あの紫苑に来る、黄金色の昆虫の翼の如き、煌々した日の光が射込んで、草に輝くばかりに見える。
その蔭から、しなやかな裳が、土手の翠を左右へ残して、線もなしに、よろけ縞のお召縮緬で、嬌態よく仕切ったが、油のようにとろりとした、雨のあとの路との間、あるかなしに、細い褄先が柔かくしっとりと、内端に掻込んだ足袋で留まって、其処から襦袢の友染が、豊かに膝まで捌かれた。雪駄は一ツ土に脱いで、片足はしなやかに、草に曲げているのである。
前を通ろうとして、我にもあらず立淀んだ。散策子は、下衆儕と賭物して、鬼が出る宇治橋の夕暮を、唯一騎、東へ打たする思がした。
かく近づいた跫音は、件の紫の傘を小楯に、土手へかけて悠然と朧に投げた、艶にして凄い緋の袴に、小波寄する微な響きさえ与えなかったにもかかわらず、こなたは一ツ胴震いをして、立直って、我知らず肩を聳やかすと、杖をぐいと振って、九字を切りかけて、束々と通った。
路は、あわれ、鬼の脱いだその沓を跨がねばならぬほど狭いので、心から、一方は海の方へ、一方は橿原の山里へ、一方は来し方の巌殿になる、久能谷のこの出口は、あたかも、ものの撞木の形。前は一面の麦畠。
正面に、青麦に対した時、散策子の面はあたかも酔えるが如きものであった。
南無三宝声がかかった。それ、言わぬことではない。
「…………」
一散に遁げもならず、立停まった渠は、馬の尾に油を塗って置いて、鷲掴みの掌を辷り抜けなんだを口惜く思ったろう。
「私。」
と振返って、
「ですかい、」と言いつつ一目見たのは、頭禿に歯豁なるものではなく、日の光射す紫のかげを籠めた俤は、几帳に宿る月の影、雲の鬢、簪の星、丹花の唇、芙蓉の眦、柳の腰を草に縋って、鼓草の花に浮べる状、虚空にかかった装である。
白魚のような指が、ちょいと、紫紺の半襟を引き合わせると、美しい瞳が動いて、
「失礼を……」
と唯莞爾する。
「はあ、」と言ったきり、腰のまわり、遁げ路を見て置くのである。
「貴下お呼び留め申しまして、」
とふっくりとした胸を上げると、やや凭れかかって土手に寝るようにしていた姿を前へ。
「はあ、何、」
真正直な顔をして、
「私ですか、」と空とぼける。
「貴下のようなお姿だ、と聞きましてございます。先刻は、真に御心配下さいまして、」
徐ら、雪のような白足袋で、脱ぎ棄てた雪駄を引寄せた時、友染は一層はらはらと、模様の花が俤に立って、ぱッと留南奇の薫がする。
美女は立直って、
「お蔭様で災難を、」
と襟首を見せてつむりを下げた。
爾時独武者、杖をわきばさみ、兜を脱いで、
「ええ、何んですかな、」と曖昧。
美女は親しげに笑いかけて、
「ほほ、私はもう災難と申します。災難ですわ、貴下。あれが座敷へでも入りますか、知らないでいて御覧なさいまし、当分家を明渡して、何処かへ参らなければなりませんの。真個にそうなりましたら、どうしましょう。お庇様で助りましてございますよ。ありがとう存じます。」
「それにしても、私と極めたのは、」
と思うことが思わず口へ出た。
これは些と調子はずれだったので、聞き返すように、
「ええ、」
「先刻の、あの青大将の事なんでしょう。それにしても、よく私だというのが分りましたね、驚きました。」
と棄鞭の遁構えで、駒の頭を立直すと、なお打笑み、
「そりゃ知れますわ。こんな田舎ですもの。そして御覧の通り、人通りのない処じゃありませんか。
貴下のような方の出入は、今朝ッからお一人しかありませんもの。丁と存じておりますよ。」
「では、あの爺さんにお聞きなすって、」
「否、私ども石垣の前をお通りがかりの時、二階から拝みました。」
「じゃあ、私が青大将を見た時に、」
「貴下のお姿が楯におなり下さいましたから、爾時も、厭なものを見ないで済みました。」
と少し打傾いて懐しそう。
「ですが、貴女、」とうっかりいう、
「はい?」
と促がすように言いかけられて、ハタと行詰ったらしく、杖をコツコツと瞬一ツ、唇を引緊めた。
追っかけて、
「何んでございますか、聞かして頂戴。」
と婉然とする。
慌て気味に狼狽つきながら、
「貴女は、貴女は気分が悪くって寝ていらっしゃるんだ、というじゃありませんか。」
「あら、こんなに甲羅を干しておりますものを。」
「へい、」と、綱は目を睜って、ああ、我ながらまずいことを言った顔色。
美女はその顔を差覗く風情して、瞳を斜めに衝と流しながら、華奢な掌を軽く頬に当てると、紅がひらりと搦む、腕の雪を払う音、さらさらと衣摺れして、
「真個は、寝ていましたの……」
「何んですッて、」
と苦笑。
「でも爾時は寝ていやしませんの。貴下起きていたんですよ。あら、」
とやや調子高に、
「何を言ってるんだか分らないわねえ。」
馴々しくいうと、急に胸を反らして、すッきりとした耳許を見せながら、顔を反向けて俯向いたが、そのまま身体の平均を保つように、片足をうしろへ引いて、立直って、
「否、寝ていたんじゃなかったんですけども、貴下のお姿を拝みますと、急に心持が悪くなって、それから寝たんです。」
「これは酷い、酷いよ、貴女は。」
棄て身に衝と寄り進んで、
「じゃ青大将の方が増だったんだ。だのに、わざわざ呼留めて、災難を免れたとまで事を誇大にして、礼なんぞおっしゃって、元来、私は余計なお世話だと思って、御婦人ばかりの御住居だと聞いたにつけても、いよいよ極が悪くって、此処だって、貴女、こそこそ遁げて通ろうとしたんじゃありませんか。それを大袈裟に礼を言って、極を悪がらせた上に、姿とは何事です。幽霊じゃあるまいし、心持を悪くする姿というがありますか。図体とか、状とかいうものですよ。その私の図体を見て、心持が悪くなったは些と烈しい。それがために寝たは、残酷じゃありませんか。
要らんおせっかいを申上げたのが、見苦しかったらそうおっしゃい。このお関所をあやまって通して頂く──勧進帳でも読みましょうか。それでいけなけりゃ仕方がない。元の巌殿へ引返して、山越で出奔する分の事です。」
と逆寄せの決心で、そう言ったのをキッカケに、どかと土手の草へ腰をかけたつもりの処、負けまい気の、魔ものの顔を見詰めていたので、横ざまに落しつけるはずの腰が据らず、床几を辷って、ずるりと大地へ。
「あら、お危い。」
というが早いか、眩いばかり目の前へ、霞を抜けた極彩色。さそくに友染の膝を乱して、繕いもなくはらりと折敷き、片手が踏み抜いた下駄一ツ前壺を押して寄越すと、扶け起すつもりであろう、片手が薄色の手巾ごと、ひらめいて芬と薫って、優しく男の背にかかった。
南無観世音大菩薩………助けさせたまえと、散策子は心の裏、陣備も身構もこれにて粉になる。
「お足袋が泥だらけになりました、直き其処でござんすから、ちょいとおいすがせ申しましょう。お脱ぎ遊ばせな。」
と指をかけようとする爪尖を、慌しく引込ませるを拍子に、体を引いて、今度は大丈夫に、背中を土手へ寝るばかり、ばたりと腰を懸ける。暖い草が、ちりげもとで赫とほてって、汗びっしょり、まっかな顔をしてかつ目をきょろつかせながら、
「構わんです、構わんです、こんな足袋なんぞ。」
ヤレまた落語の前座が言いそうなことを、とヒヤリとして、漸と瞳を定めて見ると、美女は刎飛んだ杖を拾って、しなやかに両手でついて、悠々と立っている。
羽織なしの引かけ帯、ゆるやかな袷の着こなしが、いまの身じろぎで、片前下りに友染の紅匂いこぼれて、水色縮緬の扱帯の端、ややずり下った風情さえ、杖には似合わないだけ、あたかも人質に取られた形──可哀や、お主の身がわりに、恋の重荷でへし折れよう。
「真個に済みませんでした。」
またぞろ先を越して、
「私、どうしたら可いでしょう。」
と思い案ずる目を半ば閉じて、屈託らしく、盲目が歎息をするように、ものあわれな装して、
「うっかり飛んだ事を申上げて、私、そんなつもりで言ったんじゃありませんわ。
貴下のお姿を見て、それから心持が悪くなりましたって、言通りの事が、もし真個なら、どうして口へ出して言えますもんですか。貴下のお姿を見て、それから心持が悪く……」
再び口の裏で繰返して見て、
「おほほ、まあ、大概お察し遊ばして下さいましなね。」
と楽にさし寄って、袖を土手へ敷いて凭れるようにして並べた。春の草は、その肩あたりを翠に仕切って、二人の裾は、足許なる麦畠に臨んだのである。
「そういうつもりで申上げたんでござんせんことは、よく分ってますじゃありませんか。」
「はい、」
「ね、貴下、」
「はい、」
と無意味に合点して頷くと、まだ心が済まぬらしく、
「言とがめをなすってさ、真個にお人が悪いよ。」
と異に搦む。
聊か弁ぜざるべからず、と横に見向いて、
「人の悪いのは貴女でしょう。私は何も言とがめなんぞした覚えはない。心持が悪いとおっしゃるからおっしゃる通りに伺いました。」
「そして、腹をお立てなすったんですもの。」
「否、恐縮をしたまでです。」
「そこは貴下、お察し遊ばして下さる処じゃありませんか。
言の綾もございますわ。朝顔の葉を御覧なさいまし、表はあんなに薄っぺらなもんですが、裏はふっくりしておりますもの……裏を聞いて下さいよ。」
「裏だと……お待ちなさいよ。」
ええ、といきつぎに目を瞑って、仰向いて一呼吸ついて、
「心持が悪くなった反対なんだから、私の姿を見ると、それから心持が善くなった──事になる──可い加減になさい、馬鹿になすって、」
と極めつける。但し笑いながら。
清しい目で屹と見て、
「むずかしいのね? どう言えばこうおっしゃって、貴下、弱いものをおいじめ遊ばすもんじゃないわ。私は煩っているんじゃありませんか。」
草に手をついて膝をずらし、
「お聞きなさいましよ、まあ、」
と恍惚したように笑を含む口許は、鉄漿をつけていはしまいかと思われるほど、婀娜めいたものであった。
「まあ、私に、恋しい懐しい方があるとしましょうね。可うござんすか……」
「恋しい懐しい方があって、そしてどうしても逢えないで、夜も寐られないほどに思い詰めて、心も乱れれば気も狂いそうになっておりますものが、せめて肖たお方でもと思うのに、この頃はこうやって此処らには東京からおいでなすったらしいのも見えません処へ、何年ぶりか、幾月越か、フトそうらしい、肖た姿をお見受け申したとしましたら、貴下、」
と手許に丈のびた影のある、土筆の根を摘み試み、
「爾時は……、そして何んですか、切なくって、あとで臥ったと申しますのに、爾時は、どんな心持でと言って可いのでございましょうね。
やっぱり、あの、厭な心持になって、というほかはないではありませんか。それを申したんでございますよ。」
一言もなく……しばらくして、
「じゃ、そういう方がおあんなさるんですね、」と僅に一方へ切抜けようとした。
「御存じの癖に。」
と、伏兵大いに起る。
「ええ、」
「御存じの癖に。」
「今お目にかかったばかり、お名も何も存じませんのに、どうしてそんな事が分ります。」
うたゝ寐に恋しき人を見てしより、その、みを、という名も知らぬではなかったけれども、夢のいわれも聞きたさに。
「それでも、私が気疾をしております事を御存じのようでしたわ。先刻、」
「それは、何、あの畑打ちの爺さんが、蛇をつかまえに行った時に、貴女はお二階に、と言って、ちょっと御様子を漏らしただけです。それも唯御気分が悪いとだけ。
私の形を見て、お心持が悪くなったなんぞって事は、些とも話しませんから、知ろう道理はないのです。但礼をおっしゃるかも知れんというから、其奴は困ったと思いましたけれども、此処を通らないじゃ帰られませんもんですから。こうと分ったら穴へでも入るんだっけ。お目にかかるのじゃなかったんです。しかし私が知らないで、二階から御覧なすっただけは、そりゃ仕方がない。」
「まだ、あんな事をおっしゃるよ。そうお疑いなさるんなら申しましょう。貴下、このまあ麗かな、樹も、草も、血があれば湧くんでしょう。朱の色した日の光にほかほかと、土も人膚のように暖うござんす。竹があっても暗くなく、花に陰もありません。燃えるようにちらちら咲いて、水へ散っても朱塗の杯になってゆるゆる流れましょう。海も真蒼な酒のようで、空は、」
と白い掌を、膝に仰向けて打仰ぎ、
「緑の油のよう。とろとろと、曇もないのに淀んでいて、夢を見ないかと勧めるようですわ。山の形も柔かな天鵞絨の、ふっくりした括枕に似ています。そちこち陽炎や、糸遊がたきしめた濃いたきもののように靡くでしょう。雲雀は鳴こうとしているんでしょう。鶯が、遠くの方で、低い処で、こちらにも里がある、楽しいよ、と鳴いています。何不足のない、申分のない、目を瞑れば直ぐにうとうとと夢を見ますような、この春の日中なんでございますがね、貴下、これをどうお考えなさいますえ。」
「どうと言って、」
と言に連れられた春のその日中から、瞳を美女の姿にかえした。
「貴下は、どんなお心持がなさいますえ、」
「…………」
「お楽みですか。」
「はあ、」
「お嬉しゅうございますか。」
「はあ、」
「お賑かでございますか。」
「貴女は?」
「私は心持が悪いんでございます、丁ど貴下のお姿を拝みました時のように、」
と言いかけて吻と小さなといき、人質のかの杖を、斜めに両手で膝へ取った。情の海に棹す姿。思わず腕組をして熟と見る。
「この春の日の日中の心持を申しますのは、夢をお話しするようで、何んとも口へ出しては言えませんのね。どうでしょう、このしんとして寂しいことは。やっぱり、夢に賑かな処を見るようではござんすまいか。二歳か三歳ぐらいの時に、乳母の背中から見ました、祭礼の町のようにも思われます。
何為か、秋の暮より今、この方が心細いんですもの。それでいて汗が出ます、汗じゃなくってこう、あの、暖かさで、心を絞り出されるようですわ。苦しくもなく、切なくもなく、血を絞られるようですわ。柔かな木の葉の尖で、骨を抜かれますようではございませんか。こんな時には、肌が蕩けるのだって言いますが、私は何んだか、水になって、その溶けるのが消えて行きそうで涙が出ます、涙だって、悲しいんじゃありません、そうかと言って嬉しいんでもありません。
あの貴下、叱られて出る涙と慰められて出る涙とござんすのね。この春の日に出ますのは、その慰められて泣くんです。やっぱり悲しいんでしょうかねえ。おなじ寂しさでも、秋の暮のは自然が寂しいので、春の日の寂しいのは、人が寂しいのではありませんか。
ああ遣って、田圃にちらほら見えます人も、秋のだと、しっかりして、てんでんが景色の寂しさに負けないように、張合を持っているんでしょう。見た処でも、しょんぼりした脚にも気が入っているようですけれど、今しがたは、すっかり魂を抜き取られて、ふわふわ浮き上って、あのまま、鳥か、蝶々にでもなりそうですね。心細いようですね。
暖い、優しい、柔かな、すなおな風にさそわれて、鼓草の花が、ふっと、綿になって消えるように魂がなりそうなんですもの。極楽というものが、アノ確に目に見えて、そして死んで行くと同一心持なんでしょう。
楽しいと知りつつも、情ない、心細い、頼りのない、悲しい事なんじゃありませんか。
そして涙が出ますのは、悲しくって泣くんでしょうか、甘えて泣くんでしょうかねえ。
私はずたずたに切られるようで、胸を掻きむしられるようで、そしてそれが痛くも痒くもなく、日当りへ桃の花が、はらはらとこぼれるようで、長閑で、麗で、美しくって、それでいて寂しくって、雲のない空が頼りのないようで、緑の野が砂原のようで、前生の事のようで、目の前の事のようで、心の内が言いたくッて、言われなくッて、焦ッたくって、口惜くッて、いらいらして、じりじりして、そのくせぼッとして、うっとり地の底へ引込まれると申しますより、空へ抱き上げられる塩梅の、何んとも言えない心持がして、それで寝ましたんですが、貴下、」
小雨が晴れて日の照るよう、忽ち麗なおももちして、
「こう申してもやっぱりお気に障りますか。貴下のお姿を見て、心持が悪くなったと言いましたのを、まだ許しちゃ下さいませんか、おや、貴下どうなさいましたの。」
身動ぎもせず聞き澄んだ散策子の茫然とした目の前へ、紅白粉の烈しい流が眩い日の光で渦いて、くるくると廻っていた。
「何んだか、私も変な心持になりました、ああ、」
と掌で目を払って、
「で、そこでお休みになって、」
「はあ、」
「夢でも御覧になりましたか。」
思わず口へ出したが、言い直した、余り唐突と心付いて、
「そういうお心持でうたた寐でもしましたら、どんな夢を見るでしょうな。」
「やっぱり、貴下のお姿を見ますわ。」
「ええ、」
「此処にこうやっておりますような。ほほほほ。」
と言い知らずあでやかなものである。
「いや、串戯はよして、その貴女、恋しい、慕わしい、そしてどうしても、もう逢えない、とお言いなすった、その方の事を御覧なさるでしょうね。」
「その貴下に肖た、」
「否さ、」
ここで顔を見合わせて、二人とも挘っていた草を同時に棄てた。
「なるほど。寂としたもんですね、どうでしょう、この閑さは……」
頂の松の中では、頻に目白が囀るのである。
「またこの橿原というんですか、山の裾がすくすく出張って、大きな怪物の土地の神が海の方へ向って、天地に開いた口の、奥歯へ苗代田麦畠などを、引銜えた形に見えます。谷戸の方は、こう見た処、何んの影もなく、春の日が行渡って、些と曇があればそれが霞のような、長閑な景色でいながら、何んだか厭な心持の処ですね。」
美女は身を震わして、何故か嬉しそうに、
「ああ、貴下もその(厭な心持)をおっしゃいましたよ。じゃ、もう私もそのお話をいたしましても差支えございませんのね。」
「可うございます。ははははは。」
トちょっと更まった容子をして、うしろ見られる趣で、その二階家の前から路が一畝り、矮い藁屋の、屋根にも葉にも一面の、椿の花の紅の中へ入って、菜畠へ纔に顕れ、苗代田でまた絶えて、遥かに山の裾の翠に添うて、濁った灰汁の色をなして、ゆったりと向うへ通じて、左右から突出た山でとまる。橿原の奥深く、蒸し上るように低く霞の立つあたり、背中合せが停車場で、その腹へ笛太鼓の、異様に響く音を籠めた。其処へ、遥かに瞳を通わせ、しばらく茫然とした風情であった。
「そうですねえ、はじめは、まあ、心持、あの辺からだろうと思うんですわ、声が聞えて来ましたのは、」
「何んの声です?」
「はあ、私が臥りまして、枕に髪をこすりつけて、悶えて、あせって、焦れて、つくづく口惜くって、情なくって、身がしびれるような、骨が溶けるような、心持でいた時でした。先刻の、あの雨の音、さあっと他愛なく軒へかかって通りましたのが、丁ど彼処あたりから降り出して来たように、寝ていて思われたのでございます。
あの停車場の囃子の音に、何時か気を取られていて、それだからでしょう。今でも停車場の人ごみの上へだけは、細い雨がかかっているように思われますもの。まだ何処にか雨気が残っておりますなら、向うの霞の中でしょうと思いますよ。
と、その細い、幽な、空を通るかと思う雨の中に、図太い、底力のある、そして、さびのついた塩辛声を、腹の底から押出して、
(ええ、ええ、ええ、伺います。お話はお馴染の東京世渡草、商人の仮声物真似。先ず神田辺の事でござりまして、ええ、大家の店前にござります。夜のしらしら明けに、小僧さんが門口を掃いておりますると、納豆、納豆──)
と申して、情ない調子になって、
(ええ、お御酒を頂きまして声が続きません、助けて遣っておくんなさい。)
と厭な声が、流れ星のように、尾を曳いて響くんでございますの。
私は何んですか、悚然として寝床に足を縮めました。しばらくして、またその(ええ、ええ、)という変な声が聞えるんです。今度は些と近くなって。
それから段々あの橿原の家を向い合いに、飛び飛びに、千鳥にかけて一軒一軒、何処でもおなじことを同一ところまで言って、お銭をねだりますんでございますがね、暖い、ねんばりした雨も、その門附けの足と一緒に、向うへ寄ったり、こっちへよったり、ゆるゆる歩行いて来ますようです。
その納豆納豆──というのだの、東京というのですの、店前だの、小僧が門口を掃いている処だと申しますのが、何んだか懐しい、両親の事や、生れました処なんぞ、昔が思い出されまして、身体を煮られるような心持がして我慢が出来ないで、掻巻の襟へ喰いついて、しっかり胸を抱いて、そして恍惚となっておりますと、やがて、些と強く雨が来て当ります時、内の門へ参ったのでございます。
(ええ、ええ、ええ、)
と言い出すじゃございませんか。
(お話はお馴染の東京世渡草、商人の仮声物真似。先ず神田辺の事でござりまして、ええ、大家の店さきでござります。夜のしらしらあけに、小僧さんが門口を掃いておりますと、納豆納豆──)
とだけ申して、
(ええ、お御酒を頂きまして声が続きません、助けて遣っておくんなさい。)
と一分一厘おなじことを、おなじ調子でいうんですもの。私の門へ来ましたまでに、遠くから丁ど十三度聞いたのでございます。」
「女中が直ぐに出なかったんです。
(ねえ、助けておくんなさいな、お御酒を頂いたもんだからね、声が続かねえんで、えへ、えへ、)
厭な咳なんぞして、
(遣っておくんなさいよ、飲み過ぎて切ねえんで、助けておくんなさい、お願えだ。)
と言って独言のように、貴下、
(遣り切ねえや、)ッて、いけ太々しい容子ったらないんですもの。其処らへ、べッべッ唾をしっかけていそうですわ。
小銭の音をちゃらちゃらとさして、女中が出そうにしましたから、
(光かい、光や、)
と呼んで、二階の上り口へ来ましたのを、押留めるように、床の中から、
(何んだね、)
と自分でも些と尖々しく言ったんです。
(門附でございます。)
(芸人かい!)
(はい、)
ッて吃驚していました。
(不可いよ、遣っちゃ不可ない。
芸人なら芸人らしく芸をして銭をお取り、とそうお言い。出来ないなら出来ないと言って乞食をおし。なぜまた自分の芸が出来ないほど酒を呑んだ、と言ってお遣り。いけ洒亜々々失礼じゃないか。)
とむらむらとして、どうしたんですか、じりじり胸が煮え返るようで極めつけますと、窃と跫音を忍んで、光やは、二階を下りましたっけ。
お恥しゅうございますわ。
甲高かったそうで、よく下まで聞えたと見えます。表二階にいたんですから。
(何んだって、)
と門口で喰ってかかるような声がしました。
枕をおさえて起上りますと、女中の声で、御病気なんだからと、こそこそいうのが聞えました。
嘲るように、
(病人なら病人らしく死んじまえ。治るもんなら治ったら可かろう。何んだって愚図ついて、煩っているんだ。)
と赭顔なのが白い歯を剥き出していうようです。はあ、そんな心持がしましたの。
(おお、死んで見せようか、死ぬのが何も、)とつっと立つと、ふらふらして床を放れて倒れました。段へ、裾を投げ出して、欄干につかまった時、雨がさっと暗くなって、私はひとりで泣いたんです。それッきり、声も聞えなくなって、門附は何処へ参りましたか。雨も上って、また明い日が当りました。何んですかねえ、十文字に小児を引背負って跣足で歩行いている、四十恰好の、巌乗な、絵に描いた、赤鬼と言った形のもののように、今こうやってお話をします内も考えられます。女中に聞いたのでもございませんのに──
またもう寝床へ倒れッきりになりましょうかとも存じましたけれども、そうしたら気でも違いそうですから、ぶらぶら日向へ出て来たんでございます。
否、はじめてお目にかかりました貴下に、こんなお話を申上げまして、もう気が違っておりますのかも分りませんが、」
と言いかけて、心を籠めて見詰めたらしい、目の色は美しかった。
「貴下、真個に未来というものはありますものでございましょうか知ら。」
「…………」
「もしあるものと極りますなら、地獄でも極楽でも構いません。逢いたい人が其処にいるんなら。さっさと其処へ行けば宜しいんですけれども、」
と土筆のたけの指白う、またうつつなげに草を摘み、摘み、
「きっとそうと極りませんから、もしか、死んでそれっきりになっては情ないんですもの。そのくらいなら、生きていて思い悩んで、煩らって、段々消えて行きます方が、いくらか増だと思います。忘れないで、何時までも、何時までも、」
と言い言い抜き取った草の葉をキリキリと白歯で噛んだ。
トタンに慌しく、男の膝越に衝とのばした袖の色も、帯の影も、緑の中に濃くなって、活々として蓮葉なものいい。
「いけないわ、人の悪い。」
散策子は答えに窮して、実は草の上に位置も構わず投出された、オリイブ色の上表紙に、とき色のリボンで封のある、ノオトブックを、つまさぐっていたのを見たので。
「こっちへ下さいよ、厭ですよ。」
と端へかけた手を手帳に控えて、麦畠へ真正面。話をわきへずらそうと、青天白日に身構えつつ、
「歌がお出来なさいましたか。」
「ほほほほ、」
と唯笑う。
「絵をお描きになるんですか。」
「ほほほほ。」
「結構ですな、お楽しみですね、些と拝見いたしたいもんです。」
手を放したが、附着いた肩も退けないで、
「お見せ申しましょうかね。」
あどけない状で笑いながら、持直してぱらぱらと男の帯のあたりへ開く。手帳の枚頁は、この人の手にあたかも蝶の翼を重ねたようであったが、鉛筆で描いたのは……
一目見て散策子は蒼くなった。
大小濃薄乱雑に、半ばかきさしたのもあり、歪んだのもあり、震えたのもあり、やめたのもあるが、○と□△ばかり。
「ね、上手でしょう。此処等の人たちは、貴下、玉脇では、絵を描くと申しますとさ。この土手へ出ちゃ、何時までもこうしていますのに、唯いては、谷戸口の番人のようでおかしゅうござんすから、いつかッからはじめたんですわ。
大層評判が宜しゅうございますから……何ですよ、この頃に絵具を持出して、草の上で風流の店びらきをしようと思います、大した写生じゃありませんか。
この円いのが海、この三角が山、この四角いのが田圃だと思えばそれでもようござんす。それから○い顔にして、□い胴にして△に坐っている、今戸焼の姉様だと思えばそれでも可うございます、袴を穿いた殿様だと思えばそれでも可いでしょう。
それから……水中に物あり、筆者に問えば知らずと答うと、高慢な顔色をしても可いんですし、名を知らない死んだ人の戒名だと思って拝んでも可いんですよ。」
ようよう声が出て、
「戒名、」
と口が利ける。
「何、何んというんです。」
「四角院円々三角居士と、」
いいながら土手に胸をつけて、袖を草に、太脛のあたりまで、友染を敷乱して、すらりと片足片褄を泳がせながら、こう内へ掻込むようにして、鉛筆ですらすらとその三体の秘密を記した。
テンテンカラ、テンカラと、耳許に太鼓の音。二人の外に人のない世ではない。アノ椿の、燃え落ちるように、向うの茅屋へ、続いてぼたぼたと溢れたと思うと、菜種の路を葉がくれに、真黄色な花の上へ、ひらりと彩って出たものがある。
茅屋の軒へ、鶏が二羽舞上ったのかと思った。
二個の頭、獅子頭、高いのと低いのと、後になり先になり、縺れる、狂う、花すれ、葉ずれ、菜種に、と見るとやがて、足許からそなたへ続く青麦の畠の端、玉脇の門の前へ、出て来た連獅子。
汚れた萌黄の裁着に、泥草鞋の乾いた埃も、霞が麦にかかるよう、志して何処へ行く。早その太鼓を打留めて、急足に近づいた。いずれも子獅子の角兵衛大小。小さい方は八ツばかり、上は十三─四と見えたが、すぐに久能谷の出口を突切り、紅白の牡丹の花、はっと俤に立つばかり、ひらりと前を行き過ぎる。
「お待ちちょいと、」
と声をかけた美女は起直った。今の姿をそのままに、雪駄は獅子の蝶に飛ばして、土手の草に横坐りになる。
ト獅子は紅の切を捌いて、二つとも、立って頭を向けた。
「ああ、あの、児たち、お待ちなね。」
テンテンテン、(大きい方が)トンと当てると、太鼓の面に撥が飛んで、ぶるぶると細に躍る。
「アリャ」
小獅子は路へ橋に反った、のけ様の頤ふっくりと、二かわ目に紅を潮して、口許の可愛らしい、色の白い児であった。
「おほほほ、大層勉強するわねえ、まあ、お待ちよ。あれさ、そんなに苦しい思いをして引くりかえらなくっても可いんだよ、可いんだよ。」
と圧えつけるようにいうと、ぴょいと立直って頭の堆く大きく突出た、紅の花の廂の下に、くるッとした目を睜って立った。
ブルブルッと、跡を引いて太鼓が止む。
美女は膝をずらしながら、帯に手をかけて、揺り上げたが、
「お待ちよ、今お銭を上るからね、」
手帳の紙へはしり書して、一枚手許へ引切った、そのまま獅子をさし招いて、
「おいでおいで、ああ、お前ね、これを持って、その角の二階家へ行って取っておいで。」
留守へ言いつけた為替と見える。
後馳せに散策子は袂へ手を突込んで、
「細いのならありますよ。」
「否、可うござんすよ、さあ、兄や、行って来な。」
撥を片手で引つかむと、恐る恐る差出した手を素疾く引込め、とさかをはらりと振って行く。
「さあ、お前こっちへおいで、」
小さな方を膝許へ。
きょとんとして、ものも言わず、棒を呑んだ人形のような顔を、凝と見て、
「幾歳なの、」
「八歳でごぜえス。」
「母さんはないの、」
「角兵衛に、そんなものがあるもんか。」
「お前は知らないでもね、母様の方は知ってるかも知れないよ、」
と衝と手を袴越に白くかける、とぐいと引寄せて、横抱きに抱くと、獅子頭はばくりと仰向けに地を払って、草鞋は高く反った。鶏の羽の飾には、椰子の葉を吹く風が渡る。
「貴下、」
と落着いて見返って、
「私の児かも知れないんですよ。」
トタンに、つるりと腕を辷って、獅子は、倒にトンと返って、ぶるぶると身体をふったが、けろりとして突立った。
「えへへへへへ、」
此処へ勢よく兄獅子が引返して、
「頂いたい、頂いたい。」
二つばかり天窓を掉ったが、小さい方の背中を突いて、テンとまた撥を当てる。
「可いよ、そんなことをしなくっても、」
と裳をずりおろすようにして止めた顔と、まだ掴んだままの大な銀貨とを互に見較べ、二個ともとぼんとする。時に朱盆の口を開いて、眼を輝すものは何。
「そのかわり、ことづけたいものがあるんだよ、待っておくれ。」
とその○□△を楽書の余白へ、鉛筆を真直に取ってすらすらと春の水の靡くさまに走らした仮名は、かくれもなく、散策子に読得られた。
散策子は思わず海の方を屹と見た。波は平かである。青麦につづく紺青の、水平線上雪一山。
富士の影が渚を打って、ひたひたと薄く被さる、藍色の西洋館の棟高く、二、三羽鳩が羽をのして、ゆるく手巾を掉り動かす状であった。
小さく畳んで、幼い方の手にその(ことづけ)を渡すと、ふッくりした頤で、合点々々をすると見えたが、いきなり二階家の方へ行こうとした。
使を頼まれたと思ったらしい。
「おい、そっちへ行くんじゃない。」
と立入ったが声を懸けた。
美女は莞爾して、
「唯持って行ってくれれば可いの、何処へッて当はないの。落したら其処でよし、失くしたらそれッきりで可んだから……唯心持だけなんだから……」
「じゃ、唯持って行きゃ可いのかね、奥さん、」
と聞いて頷くのを見て、年紀上だけに心得顔で、危っかしそうに仰向いて吃驚した風でいる幼い方の、獅子頭を背後へ引いて、
「こん中へ入れとくだア、奴、大事にして持ッとんねえよ。」
獅子が並んでお辞儀をすると、すたすたと駈け出した。後白浪に海の方、紅の母衣翩翻として、青麦の根に霞み行く。
さて半時ばかりの後、散策子の姿は、一人、彼処から鳩の舞うのを見た、浜辺の藍色の西洋館の傍なる、砂山の上に顕れた。
其処へ来ると、浪打際までも行かないで、太く草臥れた状で、ぐッたりと先ず足を投げて腰を卸す。どれ、貴女のために(ことづけ)の行方を見届けましょう。連獅子のあとを追って、というのをしおに、まだ我儘が言い足りず、話相手の欲しかったらしい美女に辞して、袂を分ったが、獅子の飛ぶのに足の続くわけはない。
一先ず帰宅して寝転ぼうと思ったのであるが、久能谷を離れて街道を見ると、人の瀬を造って、停車場へ押懸ける夥しさ。中にはもう此処等から仮声をつかって行く壮佼がある、浅黄の襦袢を膚脱で行く女房がある、その演劇の恐しさ。大江山の段か何か知らず、とても町へは寄附かれたものではない。
で、路と一緒に、人通の横を切って、田圃を抜けて来たのである。
正面にくぎり正しい、雪白な霞を召した山の女王のましますばかり。見渡す限り海の色。浜に引上げた船や、畚や、馬秣のように散ばったかじめの如き、いずれも海に対して、我は顔をするのではないから、固より馴れた目を遮りはせぬ。
かつ人一人いなければ、真昼の様な月夜とも想われよう。長閑さはしかし野にも山にも増って、あらゆる白砂の俤は、暖い霧に似ている。
鳩は蒼空を舞うのである。ゆったりした浪にも誘われず、風にも乗らず、同一処を──その友は館の中に、ことことと塒を踏んで、くくと啼く。
人はこういう処に、こうしていても、胸の雲霧の霽れぬ事は、寐られぬ衾と相違はない。
徒らに砂を握れば、くぼみもせず、高くもならず、他愛なくほろほろと崩れると、また傍からもり添える。水を掴むようなもので、捜ればはらはらとただ貝が出る。
渚には敷満ちたが、何んにも見えない処でも、纔に砂を分ければ貝がある。まだこの他に、何が住んでいようも知れぬ。手の届く近い処がそうである。
水の底を捜したら、渠がためにこがれ死をしたと言う、久能谷の庵室の客も、其処に健在であろうも知れぬ。
否、健在ならばという心で、君とそのみるめおひせば四方の海の、水の底へも潜ろうと、(ことづけ)をしたのであろう。
この歌は、平安朝に艶名一世を圧した、田かりける童に襖をかりて、あをかりしより思ひそめてき、とあこがれた情に感じて、奥へと言ひて呼び入れけるとなむ……名媛の作と思う。
言うまでもないが、手帳にこれをしるした人は、御堂の柱に、うたた寐の歌を楽書したとおなじ玉脇の妻、みを子である。
深く考うるまでもなく、庵の客と玉脇の妻との間には、不可思議の感応で、夢の契があったらしい。
男は真先に世間外に、はた世間のあるのを知って、空想をして実現せしめんがために、身を以って直ちに幽冥に趣いたもののようであるが、婦人はまだ半信半疑でいるのは、それとなく胸中の鬱悶を漏らした、未来があるものと定り、霊魂の行末が極ったら、直ぐにあとを追おうと言った、言の端にも顕れていた。
唯その有耶無耶であるために、男のあとを追いもならず、生長らえる効もないので。
そぞろに門附を怪しんで、冥土の使のように感じた如きは幾分か心が乱れている。意気張ずくで死んで見せように到っては、益々悩乱のほどが思い遣られる。
また一面から見れば、門附が談話の中に、神田辺の店で、江戸紫の夜あけがた、小僧が門を掃いている、納豆の声がした……のは、その人が生涯の東雲頃であったかも知れぬ。──やがて暴風雨となったが──
とにかく、(ことづけ)はどうなろう。玉脇の妻は、以て未来の有無を占おうとしたらしかったに──頭陀袋にも納めず、帯にもつけず、袂にも入れず、角兵衛がその獅子頭の中に、封じて去ったのも気懸りになる。為替してきらめくものを掴ませて、のッつ反ッつの苦患を見せない、上花主のために、商売冥利、随一大切な処へ、偶然受取って行ったのであろうけれども。
あれがもし、鳥にでも攫われたら、思う人は虚空にあり、と信じて、夫人は羽化して飛ぶであろうか。いやいや羊が食うまでも、角兵衛は再び引返してその音信は伝えまい。
従って砂を崩せば、従って手にたまった、色々の貝殻にフト目を留めて、
と我にもあらず口ずさんだ。
更に答えぬ。
もしまたうつせ貝が、大いなる水の心を語り得るなら、渚に敷いた、いささ貝の花吹雪は、いつも私語を絶えせぬだろうに。されば幼児が拾っても、われらが砂から掘り出しても、このものいわぬは同一である。
小貝をそこで捨てた。
そうして横ざまに砂に倒れた。腰の下はすぐになだれたけれども、辷り落ちても埋れはせぬ。
しばらくして、その半眼に閉じた目は、斜めに鳴鶴ヶ岬まで線を引いて、その半ばと思う点へ、ひらひらと燃え立つような、不知火にはっきり覚めた。
とそれは獅子頭の緋の母衣であった。
二人とも出て来た。浜は鳴鶴ヶ岬から、小坪の崕まで、人影一ツ見えぬ処へ。
停車場に演劇がある、町も村も引っぷるって誰が角兵衛に取合おう。あわれ人の中のぼうふらのような忙しい稼業の児たち、今日はおのずから閑なのである。
二人は此処でも後になり先になり、脚絆の足を入れ違いに、頭を組んで白波を被ぐばかり浪打際を歩行いたが、やがてその大きい方は、五、六尺渚を放れて、日影の如く散乱れた、かじめの中へ、草鞋を突出して休んだ。
小獅子は一層活溌に、衝と浪を追う、颯と追われる。その光景、ひとえに人の児の戯れるようには見えず、かつて孤児院の児が此処に来て、一種の監督の下に、遊んだのを見たが、それとひとつで、浮世の浪に揉み立てられるかといじらしい。但その頭の獅子が怒り狂って、たけり戦う勢である。
勝では可い!
ト草鞋を脱いで、跣足になって横歩行をしはじめた。あしを濡らして遊んでいる。
大きい方は仰向けに母衣を敷いて、膝を小さな山形に寝た。
磯を横ッ飛の時は、その草鞋を脱いだばかりであったが、やがて脚絆を取って、膝まで入って、静かに立っていたと思うと、引返して袴を脱いで、今度は衣類をまくって腰までつかって、二、三度密と潮をはねたが、またちょこちょこと取って返して、頭を刎退け、衣類を脱いで、丸裸になって一文字に飛込んだ。陽気はそれでも可かったが、泳ぎは知らぬ児と見える。唯勢よく、水を逆に刎ね返した。手でなぐって、足で踏むを、海水は稲妻のように幼児を包んでその左右へ飛んだ。──雫ばかりの音もせず──獅子はひとえに嬰児になった、白光は頭を撫で、緑波は胸を抱いた。何らの寵児ぞ、天地の大きな盥で産湯を浴びるよ。
散策子はむくと起きて、ひそかにその幸福を祝するのであった。
あとで聞くと、小児心にもあまりの嬉しさに、この一幅の春の海に対して、報恩の志であったという。一旦出て、浜へ上って、寝た獅子の肩の処へしゃがんでいたが、対手が起返ると、濡れた身体に、頭だけ取って獅子を被いだ。
それから更に水に入った。些と出過たと思うほど、分けられた波の脚は、二線長く広く尾を引いて、小獅子の姿は伊豆の岬に、ちょと小さな点になった。
浜にいるのが胡坐かいたと思うと、テン、テン、テンテンツツテンテンテン波に丁と打込む太鼓、油のような海面へ、綾を流して、響くと同時に、水の中に立ったのが、一曲、頭を倒に。
これに眩めいたものであろう、啊呀忌わし、よみじの(ことづけ)を籠めたる獅子を、と見る内に、幼児は見えなくなった。
まだ浮ばぬ。
太鼓が止んで、浜なるは棒立ちになった。
砂山を慌しく一文字に駈けて、こなたが近いた時、どうしたのか、脱ぎ捨てた袴、着物、脚絆、海草の乾びた状の、あらゆる記念と一緒に、太鼓も泥草鞋も一まとめに引かかえて、大きな渠は、砂煙を上げて町の方へ一散に遁げたのである。
浪はのたりと打つ。
ハヤ二、三人駈けて来たが、いずれも高声の大笑い、
「馬鹿な奴だ。」
「馬鹿野郎。」
ポクポクと来た巡査に、散策子が、縋りつくようにして、一言いうと、
「角兵衛が、ははは、そうじゃそうで。」
死骸はその日終日見当らなかったが、翌日しらしらあけの引潮に、去年の夏、庵室の客が溺れたとおなじ鳴鶴ヶ岬の岩に上った時は二人であった。顔が玉のような乳房にくッついて、緋母衣がびっしょり、その雪の腕にからんで、一人は美にして艶であった。玉脇の妻は霊魂の行方が分ったのであろう。
さらば、といって、土手の下で、分れ際に、やや遠ざかって、見返った時──その紫の深張を帯のあたりで横にして、少し打傾いて、黒髪の頭おもげに見送っていた姿を忘れぬ。どんなに潮に乱れたろう。渚の砂は、崩しても、積る、くぼめば、たまる、音もせぬ。ただ美しい骨が出る。貝の色は、日の紅、渚の雪、浪の緑。
底本:「春昼・春昼後刻」岩波文庫
1987(昭和62)年4月16日第1刷発行
1999(平成11)年7月5日第19刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十卷」岩波書店
1940(昭和15)年5月
初出:「新小説」
1906(明治39)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※章番号は「春昼」から連続しています。
入力:小林繁雄
校正:平野彩子、土屋隆
2006年7月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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