珈琲店より
高村光太郎
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例の MONTMARTRE の珈琲店で酒をのんで居る。此頃、僕の顔に非常な悲しみが潜んでゐるといつた君に、僕の一つの経験を話したくなつた。まあ読んでくれたまへ。
OPÉRA のはねたのが、かれこれ、十二時近くであつた。花の香ひと、油の香ひで蒸される様に暖かつた劇場の中から、急に往来へ出たので、春とはいひながら、夜更けの風が半ば気持ちよく、半ば無作法に感じられた。
AVENUE DE ĹOPÉRA の数千の街灯が遠見の書割の様に並んで見える。芝居がへりの群衆が派手な衣裳に黒い DOMINO を引つかけて右にゆき、左に行く。僕は薄い外套の襟を立てて、このまま画室へ帰らうか、SOUPER でも喰はうか、と MÉTRO の入口の欄干の大理石によりかかつて考へた。
五六日、夜ふかしが続くので、今夜は帰つて善く眠らうと心を極めて、MÉTRO の地下の停車場へ降りかけた。籠つて湿つた空気の臭ひと薄暗い隧道とが人を吸ひ込まうとしてゐる。十燭の電灯が隧道の曲り角にぼんやりと光つてゐる。其の下をちらと絹帽が黒く光つて通つた。僕は降りかけた足を停めた。画室の寒い薄暗い窖の様な寝室がまざまざと眼に見えて、今、此の PLACE に波をうつてゐる群衆から離れて、一人あんな遠くへ帰つてゆくのが、如何にも INHUMAIN の事の様に思へてならなかつた。
〝UN HOMME! MOI AUSSI〟と心に叫んで、引つかへして、元のOPÉRAの前の広場に立つた。アアク灯と白熱瓦斯の街灯とが僕の影を ASPHALTE の地面の上へ五つ六つに交差して描いた。
〝VOILA UN JAPONAIS! QUE GRAND!〟といふ声が耳のあたりで為た様に思つて振り返つた。五六歩の処を三人連れの女が手を引き合つて BOULEVARD の方へ急いで行く。何処を歩かうといふ考へも無かつた僕は、当然その後から行く可きものの様に急いで歩き出した。
歩き出したが、別に其の女に追ひつかうといふのではない。ただ、河の瀬を流れる花弁の一つが右へ行くと、其の後のも右へ行く様に吸はれて行つたまでである。CRÉDIT LYONNAIS の銀行の真黒な屋根の上に大熊星が朧ろげな色で逆立ちをしてゐる。BOULEVARD の両側の家並の上の方に CHOCOLAT MEUNIER だの、JOURNAL だのの明滅電灯の広告が青くなつたり、赤くなつたりして光つてゐる。芽の大きくなつた並木の MARRONNIER は、軒並みに並んでゐる珈琲店の明りで梢の方から倒まに照されて、紫がかつた灰色に果しも無く列つてみえる。その並木の下の人道を強い横光線で、緑つぽい薄墨の闇の中から美しい男や女の顔が浮き出されて、往つたり来たりしてゐる。話声と笑声が車道の馬の蹄に和して一種の節奏を作り、空気に飽和してゐる香水の香と不思議な諧調をなして愉快に聞える。動物園のインコやアウムの館へ行くと、あの黄いろい高い声の雑然とした中に自ら調子があつて、唯の騒音でも無い様なのに似てゐる。僕は此の光りと音と香ひの流れの中を瀬のうねくるままに歩いてゐた。三人の女は鋭い笑ひ声を時々あげながらまだ歩いてゐる。
僕は生れてから彫刻で育つた。僕の官能はすべて物を彫刻的に感じて来る。僕が WHISTLER の画や、RENOIR の絵を鑑賞し得る様になるまでには随分この彫刻と戦つたのであつた。往来の人を見ると、僕はその裸体が眼についてならないのである。衣裳を越して裸体の MOUVEMENT の美しさに先づ酔はされるのである。
三人の女の体は皆まるで違つてゐる。その違つた体の MOUVEMENT が入りみだれて、しみじみと美しい。
ぱつと一段明るい珈琲店の前に来たら、渦の中へ巻き込まれる様にその姿がすつと消えた。気がついたら、僕も大きな珈琲店の角の大理石の卓の前に腰をかけてゐた。
好きな CAFÉ AMERICAIN の CITRON の香ひを賞しながら室を見廻した。急に人の話声が始まつたか、と思ふほど人の声が耳にはいる。急に明るくなつたか、と思ふほど室の美しさが眼に入る。急に熱くなつたかと思ふほど顔がほてつて来た。音楽隊では TARANTELLA をやり始めた。
トラ、ラ、ラ、ラ、ラ。トララ、トララ、トラ、ラ、ラ、ラ、ラ。
僕の神経も悉く躍り出しさうになつた。音の節奏に従つて、今此の室にある総ての器、すべての人の分子間に同様な節奏の運動が起つてゐるに違ひない。
足拍子が方々で始まつた。立派な体に吸ひついた様な薄い衣裳を着けてゐる女が二三人匙を持ちながら踴り出した。わつと喝采が起つた。僕も手を拍つた。
〝HALLO! VOICI〟と口々に言つて僕の肩を叩いたのは、先刻の女共であつた。
「後をつけていらしつたの?」
「後をつけて来たのではないの。後について来たの。」
「今夜は何処へ入らしつた?」
「OPÉRA」
「SALAMMBO ね、今夜は。」
「N'APPROCHER PAS; ELLE EST A MOI!」と一人が声高く、手つきをしながら声色をやつた。僕は、体中の神経が皆皮膚の表面へ出てしまつた様になつた。女等の眼、女等の声、女等の香ひが鋭い力で僕の触感から僕を刺戟する様であつた。言ふがままに三人の女に酒をとつた。僕も飲んだ。三人は唄つた。僕は手拍子をとつた。やがて、蒸された肉に麝香を染み込ました様な心になつて一人を連れて珈琲店を出た。
今夜ほど皮膚の新鮮をあぢはつた事はないと思つた。
朝になつた。
白布の中で珈琲と麺麭を食つた。日が窓から室の中にさし込んでゐる。窓掛けの薄紗を通して遠くに PANTHÉON の円屋根が緑青色に見える。PIANISSIMO で然も GRANDIOSO な滊笛の音がする。襤褸買ひの間の抜けた呼声が古風にきこえる。ごろごろと窓の下を車が通る。静かな騒がしさだ。
一度眼をさました人は又うとうとと睡つて、長い睫が微かに顫へて見える。腕の筋が時々ぶるぶると痙攣する。
僕は静かに、昨夕 OPÉRA に行つてから、今朝までの自分の感情を追つて考へて見た。人の楽しむ事を自分もたのしみ、人の悲しむ事を自分も悲しみ得たのが何より満足に感じた。眼を閉ぢて、それから其へと纏らない考へを弄んで、無責任な心の鬼事に耽つてゐた。
突然、
〝TU DORS?〟といふ声がして、QUINQUINA の香ひの残つてゐる息が顔にかかつた。大きな青い眼が澄み渡つて二つ見えた。
あをい眼!
その眼の窓から印度洋の紺青の空が見える。多島海の大理石を映してゐるあの海の色が透いて見える。NOTRE DAME の寺院の色硝子の断片。MONET の夏の林の陰の色。濃い SAPHIR の晶玉を MOSQUÉE の宝蔵で見る神秘の色。
その眼の色がちらと動くと見ると、
「さあ、起きませう。起きて御飯をたべませう」と女が言つた。案外平凡な事を耳にして、驚いて跳ね起きた。女は、今日 CAFÉ UNIVERSITÉ で昼飯を喰はうといつた。
ふらふらと立つて洗面器の前へ行つた。熱湯の蛇口をねぢる時、図らず、さうだ、はからずだ。上を見ると見慣れぬ黒い男が寝衣のままで立つてゐる。非常な不愉快と不安と驚愕とが一しよになつて僕を襲つた。尚ほよく見ると、鏡であつた。鏡の中に僕が居るのであつた。
「ああ、僕はやつぱり日本人だ。JAPONAIS だ。MONGOL だ。LE JAUNE だ。」と頭の中で弾機の外れた様な声がした。
夢の様な心は此の時、AVALANCHE となつて根から崩れた。その朝、早々に女から逃れた。そして、画室の寒い板の間に長い間坐り込んで、しみじみと苦しい思ひを味はつた。
話といふのは此だけだ。今夜、此から何処へ行かう。
底本:「日本の名随筆 別巻3 珈琲」作品社
1991(平成3)年5月25日第1刷発行
1997(平成9)年5月20日第6刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集 第九巻」筑摩書房
1957(昭和32)年11月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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