曙覧の歌
正岡子規
|
余の初め歌を論ずる、ある人余に勧めて俊頼集、文雄集、曙覧集を見よという。それかくいうは三家の集が尋常歌集に異なるところあるをもってなり。まず源俊頼の『散木弃歌集』を見て失望す。いくらかの珍しき語を用いたるほかに何の珍しきこともあらぬなり。次に井上文雄の『調鶴集』を見てまた失望す。これも物語などにありて普通の歌に用いざる語を用いたるほかに何の珍しきこともあらぬなり。最後に橘曙覧の『志濃夫廼舎歌集』を見て始めてその尋常の歌集に非ざるを知る。その歌、『古今』『新古今』の陳套に堕ちず真淵、景樹の窠臼に陥らず、『万葉』を学んで『万葉』を脱し、鎖事俗事を捕え来りて縦横に馳駆するところ、かえって高雅蒼老些の俗気を帯びず。ことにその題目が風月の虚飾を貴ばずして、ただちに自己の胸臆を攄くもの、もって識見高邁、凡俗に超越するところあるを見るに足る。しこうして世人は俊頼と文雄を知りて、曙覧の名だにこれを知らざるなり。
曙覧の事蹟及び性行に関しては未だこれを聞くを得ず。歌集にあるところをもってこれを推すに、福井辺の人、広く古学を修め、つとに勤王の志を抱く。松平春岳挙げて和歌の師とす、推奨最つとむ。しかれども赤貧洗うがごとく常に陋屋の中に住んで世と容れず。古書堆裏独破几に凭りて古を稽え道を楽む。詠歌のごときはもとよりその専攻せしところに非ざるべきも、胸中の不平は他に漏らすの方なく、凝りて三十一字となりて現れしものなるべく、その歌が塵気を脱して世に媚びざるはこれがためなり。彼自ら詠じて曰く
吾歌をよろこび涙こぼすらむ鬼のなく声する夜の窓
灯火のもとに夜な夜な来たれ鬼我ひめ歌の限りきかせむ
人臭き人に聞する歌ならず鬼の夜ふけて来ばつげもせむ
凡人の耳にはいらじ天地のこころを妙に洩らすわがうた
何らの不平ぞ。何らの気焔ぞ。彼はこの歌に題して「戯れに」といいしといえども「戯れ」の戯れに非るはこれを読む者誰かこれを知らざらん。しかるをなお強いて「戯れに」と題せざるべからざるもの、その裏面には実に万斛の涕涙を湛うるを見るなり。吁この不遇の人、不遇の歌。
彼と春岳との関係と彼が生活の大体とは『春岳自記』の文に詳なり。その文に曰く
橘曙覧の家にいたる詞
おのれにまさりて物しれる人は高き賤きを選ばず常に逢見て事尋ねとひ、あるは物語を聞まほしくおもふを、けふは此頃にはめづらしく日影あたたかに久堅の空晴渡りてのどかなれば、山川野辺のけしきこよなかるべしと巳の鼓うつ頃より野遊に出たりき、三橋といふ所にいたる、中根師質あれこそ曙覧の家なれといへるを聞て、俄にとはむとおもひなりぬ、ちひさき板屋の浅ましげにてかこひもしめたらぬに、そこかしこはらひもせぬにや塵ひぢ山をなせり、柴の門もなくおぼつかなくも家にいりぬ、師質心せきたるさまして参議君の御成ぞと大声にいへるに驚きて、うちよりししじもの膝折ふせながらはひいでぬ、●
すこし広き所に入りてみれば壁落かかり障子はやぶれ畳はきれ雨もるばかりなれども、机に千文八百ふみうづたかくのせて人丸の御像などもあやしき厨子に入りてあり、おのれきものぬぎかへて賤が著るつづりおりに似たる衣をきかへたり、此時扇一握を半井保にたまひて曙覧にたびてよと仰せたり、おのれいへらく、みましの屋の名をわらやといへるはふさはしからず、橘のえにしあれば忍ぶの屋とけふよりあらためよといへり、屋のきたなきことたとへむにものなし、しらみてふ虫などもはひぬべくおもふばかりなり、●
かたちはかく貧くみゆれど其心のみやびこそいといとしたはしけれ、おのれは富貴の身にして大厦高堂に居て何ひとつたらざることなけれど、むねに万巻のたくはへなく心は寒く貧くして曙覧におとる事更に言をまたねば、おのづからうしろめたくて顔あからむ心地せられぬ、今より曙覧の歌のみならで其心のみやびをもしたひ学ばや、さらば常の心の汚たるを洗ひ浮世の外の月花を友とせむにつきつきしかるべしかし、かくいふは参議正四位上大蔵大輔源朝臣慶永元治二年衣更著末のむゆか、館に帰りてしるす
曙覧が清貧に処して独り安んずるの様、はた春岳が高貴の身をもってよく士に下るの様はこの文を見てよく知るを得ん。この知己あり。曙覧地下に瞑すべきなり。
曙覧が清貧の境涯はほぼこの文に見えたるも、彼の衣食住の有様、すなわち生活の程度いかんはその歌によって一層詳に知ることを得べし。その歌左に
人にかさかしたりけるに久しうかへさざりければ、わらはしてとりにやりけるにもたせやりたる
山吹のみの一つだに無き宿はかさも二つはもたぬなりけり
その貧乏さ加減、我らにも覚えのあることなり。
ひた土に筵しきて、つねに机すゑおくちひさき伏屋のうちに、竹生いでて長うのびたりけるをそのままにしおきて
壁くぐる竹に肩する窓のうちみじろくたびにかれもえだ振る
膝いるるばかりもあらぬ草屋を竹にとられて身をすぼめをり
明治に生れたる我らはかくまで貧しくなられ得べくもあらず。(「草屋」を「草の屋」と読ませ「草花」を「草の花」と読まする例、集中に少からず。漢語にはあらず)
銭乏しかりける時
米の泉なほたらずけり歌をよみ文をつくりて売りありけども
彼が米代を儲け出す方法はこの歌によりてやや推すべし。(「泉」は「ぜに」と読むべし)
ある日、多田氏の平生窟より人おこせ、おのが庵の壁の頽れかかれるをつくろはす来つる男のこまめやかなる者にて、このわたりはさておけよかめりとおのがいふところどころをもゆるしなう、机もなにもうばひとりてこなたかなたへうつしやる、おのれは盗人の入たらん夜のここちしてうろたへつつ、かたへなるところに身をちひさくなしてこのをの子のありさま見をる、我ながらをかしさねんじあへて
あるじをもここにかしこに追たてて壁ぬるをのこ屋中塗りめぐる
家の狭さと、あるじの無頓着さとはこの言葉書の中にあらわれて、その人その光景目前に見るがごとし。
おのがすみかあまたたび所うつりかへけれど、いづこもいづこも家に井なきところのみ、妻して水汲みはこばする事もかきかぞふれば二十年あまりの年をぞへにきける、あはれ今はめもやうやう老にたれば、いつまでかかくてあらすべきとて、貧き中にもおもひわづらはるるあまり、からうじて井ほらせけるにいときよき水あふれ出づ、さくもてくみとらるべきばかりおほうあるぞいとうれしき、いつばかりなりけむ□「しほならであさなゆふなに汲む水もからき世なりとぬらす袖かな」と、そぞろごといひけることのありしか、今はこのぬれける袖もたちまちかわきぬべう思はるれば、この新しき井の号を袖干井とつけて
濡しこし妹が袖干の井の水の涌出るばかりうれしかりける
家に婢僕なく、最合井遠くして、雪の朝、雨の夕の小言は我らも聞き馴れたり。
「独楽唫」と題せる歌五十余首あり。歌としては秀逸ならねど彼の性質、生活、嗜好などを知るには最便ある歌なり。その中に
たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふ時
たのしみはまれに魚烹て児等皆がうましうましといひて食ふ時
など貧苦の様を詠みたるもあり。
文人の貧に処るは普通のことにして、彼らがいくばくか誇張的にその貧を文字に綴るもまた普通のことなり。しこうしてその文字の中には胸裏に蟠る不平の反応として厭世的または嘲俗的の語句を見るもまた普通のことなり。これ貧に安んずる者に非ずして貧に悶ゆる者。曙覧はたして貧に悶ゆる者か否か。再びこれをその歌詠に徴せん。
余は思う、曙覧の貧は一般文人の貧よりも更に貧にして、貧曙覧が安心の度は一般貧文人の安心よりも更に堅固なりと。けだし彼に不平なきに非るもその不平は国体の上における大不平にして衣食住に関する小不平に非ず。自己を保護せずしてかえって自己を棄てたる俗世俗人に対してすら、彼は時に一、二の罵詈を加うることなきにしもあらねど、多くはこれを一笑に付し去りて必ずしも争わざるがごとし。「独楽唫」の中に
たのしみは木芽瀹して大きなる饅頭を一つほほばりしとき
たのしみはつねに好める焼豆腐うまく烹たてて食せけるとき
たのしみは小豆の飯の冷たるを茶漬てふ物になしてくふ時
多言するを須いず、これらの歌が曙覧ならざる人の口より出で得べきか否かを考えみよ。陽に清貧を楽んで陰に不平を蓄うるかの似而非文人が「独楽唫」という題目の下にはたして饅頭、焼豆腐の味を思い出だすべきか。彼らは酒の池、肉の林と歌わずんば必ずや麦の飯、藜の羹と歌わん。饅頭、焼豆腐を取ってわざわざこれを三十一文字に綴る者、曙覧の安心ありて始めてこれあるべし。あら面白の饅頭、焼豆腐や。
安心の人に誇張あるべからず、平和の詩に虚飾あるべからず。余は更に進んで曙覧に一点の誇張、虚飾なきことを証せん。似而非文人は曰く、黄金百万緡は門前のくろ(犬)の糞のごとしと。曙覧は曰く
たのしみは銭なくなりてわびをるに人の来りて銭くれし時
たのしみは物をかかせて善き価惜みげもなく人のくれし時
曙覧は欺かざるなり。彼は銭を糞の如しとは言わず、あどけなくも彼は銭を貰いし時のうれしさを歌い出だせり。なお正直にも彼は銭を多く貰いし時の思いがけなきうれしさをも白状せり。仙人のごとき仏のごとき子供のごとき神のごとき曙覧は余は理想界においてこれを見る、現実界の人間としてほとんど承認するあたわず。彼の心や無垢清浄、彼の歌や玲瓏透徹。
貧、かくのごとし、高、かくのごとし。一たびこれに接して畏敬の念を生じたる春岳はこれを聘せんとして侍臣をして命を伝えしめしも曙覧は辞して応ぜざりき。文を売りて米の乏しきを歎き、意外の報酬を得て思わず打ち笑みたる彼は、ここに至って名利を見ること門前のくろの糞のごとくなりき。臨むに諸侯の威をもってし招くに春岳の才をもってし、しこうして一曙覧をして破屋竹笋の間より起たしむるあたわざりしもの何がゆえぞ。謙遜か、傲慢か、はた彼の国体論は妄に仕うるを欲せざりしか。いずれにもせよ彼は依然として饅頭焼豆腐の境涯を離れざりしなり。慶応三年の夏、始めて秩禄を受くるの人となりしもわずかに二年を経て明治二年の秋(?)彼は神の国に登りぬ。曙覧が古典を究め学問に耽りしことは別に説くを要せず。貧苦の中にありて「机に千文八百文堆く載せ」たりという一事はこれを証して余りあるべし。その敬神尊王の主義を現したる歌の中に
高山彦九郎正之
大御門そのかたむきて橋上に頂根突けむ真心たふと
をりにふれてよみつづけける(録一)
吹風の目にこそ見えぬ神々は此天地にかむづまります
独楽唫(録二)
たのしみは戎夷よろこぶ世の中に皇国忘れぬ人を見るとき
たのしみは鈴屋大人の後に生れその御諭をうくる思ふ時
赤心報国(録一)
国汚す奴あらばと太刀抜て仇にもあらぬ壁に物いふ
示人(録一)
天皇は神にしますぞ天皇の勅としいはばかしこみまつれ
極めて安心に極めて平和なる曙覧も一たび国体の上に想い到る時は満腔の熱血を灑ぎて敬神の歌を作り不平の吟をなす。慷慨淋漓、筆、剣のごとし。また平日の貧曙覧に非ず。彼がわずかに王政維新の盛典に逢うを得たるはいかばかりうれしかりけむ。
慶応四年春、浪華に
行幸あるに吾
宰相君御供仕たまへる御とも仕まつりに、上月景光主のめされてはるばるのぼりけるうまのはなむけに
天皇の御さきつかへてたづがねののどかにすらん難波津に行
すめらぎの稀の行幸御供する君のさきはひ我もよろこぶ
天使のはろばろ下りたまへりける、あやしきしはぶるひ人どもあつまりゐる中にうちまじりつつ御けしきをがみ見まつる
隠士も市の大路に匍匐ならびをろがみ奉る雲の上人
天皇の大御使と聞くからにはるかにをがむ膝をり伏せて
勅使をさえかしこがりて匍匐いおろがむ彼をして、一たび二重橋下に鳳輦を拝するを得せしめざりしは返すがえすも遺憾のことなり。
都にのぼりて
大行天皇の御はふりの御わざはてにけるまたの日、泉涌寺に詣たりけるに、きのふの御わざのなごりなべて仏さまに物したまへる御ありさまにうち見奉られけるを畏けれどうれはしく思ひまつりて
ゆゆしくも仏の道にひき入るる大御車のうしや世の中
曙覧は王政維新の名を聞きて、その実を見るに及ばざりしなり。
社会の一貧民としての曙覧、日本国民の一人としての曙覧は、臆測ながらにほぼこれを尽せり。ここより歌人としての曙覧につきて少しく評するところあらんとす。
曙覧の歌は比較的に何集の歌に最も似たりやと問わば、我れも人も一斉に『万葉』に似たりと答えん。彼が『古今』、『新古今』を学ばずして『万葉』を学びたる卓見はわが第一に賞揚せんとするところなり。彼が『万葉』を学んで比較的善くこれを模し得たる伎倆はわが第二に賞揚せんとするところなり。そもそも歌の腐敗は『古今集』に始まり足利時代に至ってその極点に達したるを、真淵ら一派古学を闢き『万葉』を解きようやく一縷の生命を繋ぎ得たり。されど真淵一派は『万葉』を解きて『万葉』を解かず、口には『万葉』をたたえながらおのが歌は『古今』以下の俗調を学ぶがごときトンチンカンを演出して笑を後世に貽したるのみ。『万葉』が遥に他集に抽んでたるは論を待たず。その抽んでたる所以は、他集の歌が豪も作者の感情を現し得ざるに反し、『万葉』の歌は善くこれを現したるにあり。他集が感情を現し得ざるは感情をありのままに写さざるがためにして、『万葉』がこれを現し得たるはこれをありのままに写したるがためなり。曙覧の歌に曰く
いつはりのたくみをいふな誠だにさぐれば歌はやすからむもの
「いつはりのたくみ」『古今集』以下皆これなり。「誠」の一字は曙覧の本領にして、やがて『万葉』の本領なり。『万葉』の本領にして、やがて和歌の本領なり。我謂うところの「ありのままに写す」とはすなわち「誠」にほかならず。後世の歌人といえども、誠を詠め、ありのままを写せ、と空論はすれどその作るところのかえっていつわりのたくみを脱するあたわざるは誠、ありのまま、の意義を誤解せるによる。西行のごときは幾多の新材料を容れたるところあるいはこの意義を解する者に似たれど、実際その歌を見ば百中の九十九は皆いつわりのたくみなるを知らん。趣味を自然に求め、手段を写実に取りし歌、前に『万葉』あり、後に曙覧あるのみ。
されば曙覧が歌の材料として取り来るものは多く自己周囲の活人事活風光にして、題を設けて詠みし腐れ花、腐れ月に非ず。こは『志濃夫廼舎歌集』を見る者のまず感ずるところなるべし。彼は自己の貧苦を詠めり、彼は自己の主義を詠めり。亡き親を想いては、「親ある人もあるに」と詠み、亡き子を想いては、「きのふ袂にすがりし子の」と詠めり。行幸の供にまかる人を送りては、「聞くだに嬉し」と詠み、雪の頃旅立つ人を送りては、「用心してなだれに逢ふな」と詠めり。楽みては「楽し」と詠み、腹立てては「腹立たし」と詠み、鳥啼けば「鳥啼く」と詠み、螽飛べば「螽飛ぶ」と詠む。これ尋常のことのごとくなれど曙覧以外の歌人には全くなきことなり。面白からぬに「面白し」と詠み、香もなきに「香に匂ふ」と詠み、恋しくもなきに「恋にあこがれ」と詠み、●
見もせぬに遠き名所を詠み、しこうして自然の美のおのが鼻の尖にぶらさがりたるをも知らぬ貫之以下の歌よみが、何百年の間、数限りもなくはびこりたる中に、突然として曙覧の出でたるはむしろ不思議の感なきに非ず。彼は何に縁りてここに悟るところありしか。彼が見しこと聞きしこと時に触れ物に触れて、残さず余さずこれを歌にしたるは、杜甫が自己の経歴を詳に詩に作りたると相似たり。古人が杜詩を詩史と称えし例に傚わば曙覧の歌を歌史ともいうべきか。余が歌集によりてその人の事蹟と性行とを知り得たるもその歌史たるがためなり。しかれども彼が杜詩より得たるか否かは知るに由なし。ただ杜甫の経歴の変化多く波瀾多きに反して、曙覧の事蹟ははなはだ平和にはなはだ狭隘に、時は逢いがたき維新の前後にありながら、幾多の人事的好題目をその詩嚢中に収め得ざりしこと実に千古の遺憾なりとす。
『古今集』以後今日に至るまでの撰集、家集を見るに、いずれも四季の歌は集中の最要部分を占めて、少くも三分の一、多きは四分の三を占むるものさえあり。これに反して四季の歌少く、雑の歌の著く多きを『万葉集』及び『曙覧集』とす。この二集の他に秀でたる所以なり。けだし四季の歌は多く題詠にして雑の歌は多く実際より出づ。『古今集』以後の歌集に四季の歌多きは題詠の行われたるがためにして世下るに従い恋の歌も全く題詠となり、雑の歌も十分の九は題詠となりおわりぬ。曙覧の歌すら四季のには題詠とおぼしきがあり、かつ善からぬが多し。題詠必ずしも悪しとに非ず、写実必ずしも善しとに非ず。されど今日までの歌界の実際を見るに題詠に善き歌少くして写実に俗なる歌少し。曙覧が実地に写したる歌の中に飛騨の鉱山を詠めるがごときはことに珍しきものなり。
日の光いたらぬ山の洞のうちに火ともし入てかね掘出す
赤裸の男子むれゐて鉱のまろがり砕く鎚うち揮て
さひづるや碓たててきらきらとひかる塊つきて粉にする
筧かけとる谷水にうち浸しゆれば白露手にこぼれくる
黒けぶり群りたたせ手もすまに吹鑠かせばなだれ落るかね
鑠くれば灰とわかれてきはやかにかたまり残る白銀の玉
銀の玉をあまたに筥に収れ荷緒かためて馬馳らする
しろがねの荷負る馬を牽たてて御貢つかふる御世のみさかえ
採鉱溶鉱より運搬に至るまでの光景仔細に写し出して目覩るがごとし。ただに題目の新奇なるのみならず、その叙述の巧なる、実に『万葉』以後の手際なり。かの魚彦がいたずらに『万葉』の語句を模して『万葉』の精神を失えるに比すれば、曙覧が語句を摸せずしてかえって『万葉』の精神を伝えたる伎倆は同日に語るべきにあらず。さわれ曙覧は徹頭徹尾『万葉』を擬せんと務めたるに非ず。むしろその思うままを詠みたるが自ら『万葉』に近づきたるなり。しこうして彼の歌の『万葉』に似ざるところははたして『万葉』に優るところなりや否や、こは最大切なる問題なり。
余は断定を下していわん、曙覧の歌想は『万葉』より進みたるところあり、曙覧の歌調は『万葉』に及ばざるところありと。まず歌想につきて論ぜん。
歌想に主観的なるものと客観的なるものとあり。『万葉』は主として主観的歌想を述べたるものにして客観的歌想は極めて少かりしが、『古今』以後、客観的歌想の歌、次第にその数を増加するの傾向を見る。
主観的歌想の中にて理屈めきたるはその品卑しく趣味薄くして取るに足らず。『古今』以後の歌には理屈めきたるが多けれど『万葉集』、『曙覧集』にはなし。理屈ならぬ主観的歌想は多く実地より出でたるものにして、古人も今人もさまで感情の変るべきにあらぬに、まして短歌のごとく短くして、複雑なる主観的歌想を現すあたわず、ただ簡単なる想をのみ主とするものは、観察の精細ならざりし古代も観察の精細に赴きし後世も差異はなはだ少きがごとし。ただ時代時代の風俗政治等々しからざるがために材料または題目の上には多少の差異なきにあらず。例えば万葉時代には実地より出でたる恋歌の著しく多きに引きかえ『曙覧集』には恋歌は全くなくして、親を懐い子を悼み時を歎くの歌などがかえって多きがごとし。
曙覧の歌、四になる女の子を失いて
きのふまで吾衣手にとりすがり父よ父よといひてしものを
父の十七年忌に
今も世にいまされざらむよはひにもあらざるものをあはれ親なし
髪しろくなりても親のある人もおほかるものをわれは親なし
母の三十七年忌に
はふ児にてわかれまつりし身のうさは面だに母を知らぬなりけり
古書を読みて
真男鹿の肩焼く占にうらとひて事あきらめし神代をぞ思ふ
筑紫人のその国へかえるに
程すぎて帰らぬ君と夕占とひまつらむ妹にとく行て逢へ
されど女を思うも子を思うも恋い思うとばかり詠む短歌にては、感情の切なるを感ずるほかなければ、いずれにても深き差異あるにあらず。この点におきて『万葉』と曙覧と強いて優劣するを要せず。しこうして客観的歌想に至りては曙覧やや進めり。
四季の題は多く客観的にして、『古今』以後客観的の歌は増加したれど、皆縁語または言語の虚飾を交えて、趣味を深くすることを解せざりしかば、絵画のごとく純客観的なるは極めて少かり。『新古今』は客観的叙述において著く進歩しこの集の特色を成ししも、以後再び退歩して徳川時代に及ぶ。徳川時代にては俳句まず客観的叙述において空前の進歩をなし、和歌もまたようやくに同じ傾向を現ぜり。されども歌人皆頑陋褊狭にして古習を破るあたわず、古人の用い来りし普通の材料題目の中にてやや変化を試みしのみ。曙覧、徳川時代の最後に出でて、始めて濶眼を開き、なるべく多くの新材料、新題目を取りて歌に入れたる達見は、趣味を千年の昔に求めてこれを目睫に失したる真淵、景樹を驚かすべく、進取の気ありて進み得ず趦趄逡巡として姑息に陥りたる諸平、文雄を圧するに足る。徳川時代の歌人がわずかに客観的趣味を解しながら深くその蘊奥に入るあたわざりしは、第一に「新言語新材料を入るるべからず」という従来の規定を脱却するあたわざりしに因る。曙覧はまずこの第一の門戸を破りて、歌界改革の一歩を進めたり。
曙覧が客観的景象を詠ずるは、新材料を入れたることにおいて、新趣味を捉えしことにおいて、『万葉』より一歩を進めたるとともに、新言語新句法を用いしことにおいて、一般歌人よりは自在に言いこなすことを得たり。
秋田家
蚱蜢うるさく出てとぶ秋のひよりよろこび人豆を打つ
酉(詠十二時の内)
夕貌の花しらじらと咲めぐる賤が伏屋に馬洗ひをり
松戸にて口よりいづるままに(録二)
ふくろふの糊すりおけと呼ぶ声に衣ときはなち妹は夜ふかす
こぼれ糸纚につくりて魚とると二郎太郎三郎川に日くらす
行路雨
雨ふれば泥踏なづむ大津道我に馬ありめさね旅人
古寺雨
風まじり雨ふる寺の犬ふせぎしぶきのぬれにうつるみあかし
寒灯
ともすれば沈灯火かきかきて苧をうむ窓に霰うつ声
砂月涼
そとの浜千さとの目路に塵をなみすずしさ広き砂上の月
薔薇
羽ならす蜂あたたかに見なさるる窓をうづめて咲くさうびかな
題しらず
雲ならで通はぬ峰の石陰に神世のにほひ吐く草花
歌会の様よめる中に(録五)
人麻呂の御像のまへに机すゑ灯かかげ御酒そなへおく
設け題よみてもてくる歌どもを神の御前にならべもてゆく
ことごとく歌よみいでし顔を見てやをら晩食の折敷ならぶる
汁食とすすめめぐりてとぼしたる火もきえぬべく人突あたる
戸をあけて還る人々雪しろくたまれりといひてわびわびぞ行
初午詣
稲荷坂見あぐる朱の大鳥居ゆり動して人のぼり来る
「設け題」「探り題」「あき米櫃」「饅頭を頬ばる」「笑ひかたりて腹をよる」「畳かず狸のものの広さにて」「二郎太郎三郎」など思うに任せて新語新句をはばかり気もなく使いたるのみならず、「人豆を打つ」「涼しさ広き」「窓をうづめてさく薔薇」などいうがごとく、詩または俳句には用うれど、歌にはいまだ用いざる新句法をも用いたるはその見識の凡ならぬを見るべし。「神代のにほひ吐く草の花」といえる歌は彼の神明的理想を現したるものにて、この種の思想が日本の歌人に乏しかりしは論を竢たず。(曙覧の理想も常にこの極処に触れしにあらず)一般に天然に対する歌人の観察は極めて皮相的にして花は「におう」と詠み、月は「清し」と詠み、鳥は「啼く」、とのみ詠むのほか、花のうつくしさ、月の清さ、鳥の啼く声をしみじみと身にしめて感じたる後に詠むということなければ、変化のなきのみか、その景象を明瞭に眼前に浮ばしむることは絶えてあるなし。曙覧の叙景法を見るにしからず。例えば「赤きもみぢに霜ふりて」「霜の上に冬木の影をうす黒くうつして」と詠めるがごとき、「もみぢ」の上に「赤き」という形容語を冠せ、「影」の下に「うす黒き」という形容語を添えて、ことさらに重複せしめたるは、霜の白さを強く現さんとの工夫なり。その成功はともかくも、その著眼の高きことは争うべからず。
曙覧は擬古の歌も詠み、新様の歌も詠み、慷慨激烈の歌も詠み、和暢平遠の歌も詠み、家屋の内をも歌に詠み、広野の外をも歌に詠み、高山彦九郎をも詠み、御魚屋八兵衛をも詠み、侠家の雪も詠み、妓院の雪も詠み、蟻も詠み、虱も詠み、書中の胡蝶も詠み、窓外の鬼神も詠み、饅頭も詠み、杓子も詠む。見るところ聞くところ触るるところことごとく三十一字中に収めざるなし。曙覧の歌想豊富なるは単調なる『万葉』の及ぶところにあらず。
世に『万葉』を模せんとする者あり、『万葉』に用いし語の外は新らしき語を用いず、『万葉』にありふれたる趣のほかは新しき趣を求めず、かくのごとくにして作り得たる陳腐なる歌を挙げ、自ら万葉調なりという、こは『万葉』の形を模して『万葉』の精神を失えるものなり。『万葉』の作者が歌を作るは用語に制限あるにあらず、趣向に定規あるにあらず、あらゆる語を用いて趣向を詠みたるものすなわち『万葉』なり。曙覧が新言語を用い新趣味を詠じ毫も古格旧例に拘泥せざりしは、なかなかに『万葉』の精神を得たるものにして、『古今集』以下の自ら画して小区域に局促たりしと同日に語るべきにあらず。ただ歌全体の調子において曙覧はついに『万葉』に及ばず、実朝に劣りたり。惜むべき彼は完全なる歌人たるあたわざりき。
曙覧の歌の調子につきて例を挙げて論ぜんか。前に示したる鉱山の歌のごときは調子ほぼととのいたり、されどこれほどにととのいたるは集中多く見るべからず、ましてこれより勝りたるはほとんどあるなし。
書中乾胡蝶
からになる蝶には大和魂を招きよすべきすべもあらじかし
結句字余りのところ『万葉』を学びたれど勢抜けて一首を結ぶに力弱し。『万葉』の「うれむぞこれが生返るべき」などいえるに比すれば句勢に霄壌の差あり。
緇素月見
樒つみ鷹すゑ道をかへゆけど見るは一つの野路の月影
この歌は『古今』よりも劣りたる調子なり。かくのごとき理屈の歌は「月を見る」というような尋常の句法を用いて結ぶ方よろし。「見るは月影」と有形物をもって結びたるはなかなかに賤しく厭わし。
煙
あないぶせ銚子かけてたく藁のもゆとはなしに煙のみたつ
「あないぶせ」とかように初に置くこと感情の順序に戻りて悪し。『万葉』にてはかくいわず。全くこの語を廃するか、しからざれば「煙立ついぶせ」などように終りに置くべし。下二句の言い様も俗なり。
赤
賤家這入せばめて物ううる畑のめぐりのほほづきの色
この歌は酸漿を主として詠みし歌なれば一、二、三、四の句皆一気呵成的にものせざるべからず。しかるにこの歌の上半は趣向も混雑しかつ「せばめて」などいう曲折せる語もあり、かたがたもって「ほほづきの色」という結句を弱からしむ。
よそありきしつつ帰ればさびしげになりてひをけのすわりをる哉
句法のたるみたる様、西行の歌に似たり。「さびしげになりて」という続きも拙く「すわりをるかな」のたるみたるは論なし。「なりて」の語をやめて代りに「火桶」の形容詞など置くべく、結句は「火桶すわりをる」のごとき句法を用うるか、または「○○すわりをる」「すわり○○をる」のごとく結びて「哉」を除くべし。
かつふれて巌の角に怒りたるおとなひすごき山の滝つせ
この歌は滝の勢を詠みたるものにて、言葉にては「怒りたる」が主眼なり。さるを第三句に主眼を置きしゆえ結末弱くなりて振わず。「怒り落つる滝」などと結ぶが善し。
島崎土夫主の軍人の中にあるに
妹が手にかはる甲の袖まくら寝られぬ耳に聞くや夜嵐
上三句重く下二句軽く、瓢を倒にしたるの感あり。ことに第四句力弱し。
狛君の別墅二楽亭
広き水真砂のつらに見る庭のながめを曳て山も連なる
前の歌と同じ調子、同じ非難なり。
酔人の水にうちいるる石つぶてかひなきわざに臂を張る哉
これも上三句重く下二句軽し。曙覧の歌は多くこの頭重脚軽の病あり。
宰相君よりたけを賜はらせけるに
秋の香をひろげたてつる松のかさいただきまつるもろ手ささげて
これも前の歌と同じく下二句軽くして結び得ず。
羊腸ありともしらで人のせに負れて秋の山ふみをしつ
これも頭重脚軽なり。この歌にては「背に負はれ」というが主眼なれば、この主眼を結句に置かざれば据わらざるべし。
ふくろふの糊すりおけと呼ぶ声に衣ときはなち妹は夜ふかす
こぼれ糸纚につくりて魚とると二郎太郎三郎川に日くらす
この歌はいずれも趣向の複雑したる歌なれば結句に千鈞の力なかるべからず。しかるに二首ともに結句の力、上三句に比して弱きを覚ゆ。ことに第四句に「二郎太郎三郎」などいえるつまりたる語を用いなば、第五句はますます重く強きを要す。
曙覧の歌調を概論すれば第二句重く第四句軽く、結句は力弱くして全首を結ぶに足らざるもの最も多きに居る。『万葉』にこの頭重脚軽の病なきはもちろん、『古今』にもまたなし。徳川氏の末ようやく複雑なる趣向を取るに至りて多くは皆この病を免れず。曙覧また同じ。曙覧はほとんど歌調を解せず。歌調を解せざるがために彼はついに歌人たるを得ずして終れり。
これを要するに曙覧の歌は『万葉』に実朝に及ばざること遠しといえども、貫之以下今日に至る幾百の歌人を圧倒し尽せり。新言語を用い新趣向を求めたる彼の卓見は歌学史上特筆して後に伝えざるべからず。彼は歌人として実朝以後ただ一人なり。真淵、景樹、諸平、文雄輩に比すれば彼は鶏群の孤鶴なり。歌人として彼を賞賛するに千言万語を費すとも過賛にはあらざるべし。しかれども彼の和歌をもってこれを俳句に比せんか。彼はほとんど作家と称せらるるだけの価値をも有せざるべし。彼が新言語を用うるに先だつ百四、五十年前に芭蕉一派の俳人は、彼が用いしよりも遥かに多き新言語を用いたり。彼の歌想は他の歌想に比して進歩したるところありとこそいうべけれ、これを俳句の進歩に比すれば未だその門墻をも覗い得ざるところにあり。俳人の極めて幼稚なるものといえども、趣味の多様なることは曙覧の歌のわずかに新奇ならんとせしがごときに非ず。曙覧をして俳人ならしめば、ほとんどその名だに伝うるあたわざりしなるべし。いわんや彼は全く調子を解せざるをや。しかるにかくのごとき曙覧をも古来有数の歌人として賞せざるべからざる歌界の衰退は、あわれにも気の毒の次第と謂わざるべからず。余は曙覧を論ずるに方りて実にその褒貶に迷えり。もしそれ曙覧の人品性行に至りては磊々落々世間の名利に拘束せられず、正を守り義を取り俯仰天地に愧じざる、けだし絶無僅有の人なり。
この稿を草する半にして、曙覧翁の令嗣今滋氏特に草廬を敲いて翁の伝記及び随筆等を示さる。因って翁の小伝を掲げて読者の瀏覧に供せんとす。歌と伝と相照し見ば曙覧翁眼前にあらん。
底本:「子規選集 第七巻 子規の短歌革新」増進会出版社
2002(平成14)年4月12日初版第1刷発行
底本の親本:「子規全集 第七卷 歌論 選歌」講談社
1975(昭和50)年7月18日第1刷発行
初出:「日本」日本新聞社
1899(明治32)年3月22日~24日
1899(明治32)年3月26日
1899(明治32)年3月28日
1899(明治32)年3月30日
1899(明治32)年4月9日
1899(明治32)年4月22日~23日
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年2月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。