雷談義
斎藤茂吉



     一


 雷のことをイカヅチと云つて、古事記にも大雷おほいかづち黒雷くろいかづち等とあるが私はかつてイカヅチは厳槌いかづちで、巨大な槌といふ語原だらうと思ひ、上代人が、彼の響きを巨大な槌をもつて続けさまに物を打つと考へたその心理を想像したのであつたが、それは素人しろうと的な理窟で、実は間違つて居た。『名の意はイカなり。は例のに通ふ助辞、は美称なり』(古事記伝)とあるごとく、厳之神、厳之霊といふ意に落付く語原であつた。

 もつとも、東雅引用の文を見ると、私の考へたやうに厳槌とした素人考証家もゐたことは居た。雷のことを神鳴、鳴神といふのは、畏怖ゐふすべき神として上代人は体験してゐた。これは恐らく支那でも同じことであらう。

 雷はああいふ鋭い音をたてるから人は本能的に雷を恐れる。雷撃を直接受けたことが無くとも雷を畏怖するのは、恐らく古い世界からの遺伝で不意識に畏怖するのであらう。それがひどくなると、武道伝来記に出て来る乙見滝之進のやうな、雷の畏怖から悲劇にまで発展することがあり、

『滝之進日来雷公にこはがる事人にすぐれたれば、このひびきに動顛どうてんして関内まづ待つてくれよと、半分頭りかけしを周章あわて立さはぎ天井の板の厚き所はないかと逃廻り脱捨し単羽織ひとへばおりの有程引かぶり、桑原桑原と身を縮めかた隅に倒臥たふれふしたるをかしさ』

には、滑稽こつけいがあるけれども、西鶴ものには無限の哀韻があり、雷鳴を機縁とした人生の悲劇を描写してゐるのも、西鶴の地金の一面であつただらう。

 けれども現代は、さういふ愚直な悲痛は跡を絶つて、ほんのりとした人情を好むやうになつてゐる。菊池寛の「新道」にも雷雨を縁として男女の交会するところを写してゐるが、これには武道伝来記にあるやうな滑稽が無くて、従つて甘美で、悲劇に導くやうなことがない。そして当今の青年男女は、あの場面を幻影として一つのアヴアンチユールを形成することになつてゐるが、これもまた菊池氏の手腕であつた。

 併し、西鶴とてもいつもああいふ手厳しいものをのみ取扱つてはゐない。好色一代男に、『雷の鳴る時は、近寄りて頭まで隠せしこと』云々といふところがあるから、一方当時の読者といへども、西鶴のこの一句から様々の冒険の心をかしたかも知れないのである。

 この句に続いて、『今思へば独身はと悲しく』といふ文句があるから、世之介も、三千七百四十二人の女の一人としての経験をばこの一句に託して、別離ののちの感慨に蜘蛛くもの糸のごとくに続けさせてゐるのである。

 雷電の畏怖も、『近寄りて頭まで隠せしこと』の程度が好かるべく、武道伝来記の悲劇でなくて、近ごろ流行する『夫婦和合の秘訣』の一端ともなるであらう。私如き者といへどもそれに異存は無い。


     二


 雷はその響が猛烈で、直接行動に出るときには襲撃的、爆破的であるのは、たまたま山越えなどをして大樹が無残になつて裂かれ居るのを見てもわかる。

 ところがその爆撃も穉児ちごどものへそをねらふといふことになると、おなじく恐ろしくとも可憐かれんな気持が出て来て好いものである。やはり西鶴の文であつたとおもふが、『神鳴臍を心け』といふのがあつた。これは雷鳴があつて強く夕立するときの形容で、美文まがひの西鶴流ユーモアを漂はせてゐるのである。

 一体この神鳴が臍をねらふといふことは、私は目下その起原を知らぬし、又調べる便利も持たないが、柳田先生あたりの論文には既に其事に関する豊富な内容が盛られてゐるに相違ない。

 正岡子規の明治三十一年の歌に『神鳴のわづかに鳴れば唐茄子たうなすの臍とられじと葉隠れて居り』といふのがあつた。頑童等の臍から聯想したものだが、これも俳諧的に可憐で恐ろしくないところがおもしろい。

 たとへばワーテルローの陣に雷が落ちて将軍級のもの、ネーあたりが撃たれて死んだと云つても、雷をば角の生えたとらの皮の犢鼻褌ふんどしをした生物とはいかにしても聯想が向かない。

 これに反して、頑童らの臍を狙ふといふことになれば、その狙ふものに太鼓を輪きに光背のやうに負うてゐる生物を聯想する方が自然である。そして宗達が風神雷神を画いたとき、風神の体躯たいくの色を暗緑に塗つたかとおもふと、雷神の方を白い胡粉ごふんで塗つて居る。これも先蹤せんしようがあつて宗達の工夫がそんなに働いてゐないのかも知れないが、雷神の方を白くする方が、配合のいろいろな関係でやはり動かないところであらうか。そしてあれならば大名などが静謐せいひつな部屋に置いて落著おちついて鑑賞することも出来るし、光琳くわうりん抱一はういつの二家が臨摸りんぼして後の世まで伝はつてゐるのもさういふわけあひで、肉体的に恐ろしくないからである。

 そこで、レヴユーといふものが次から次へと変化発達して行つてゐるが、西暦一九二四年ごろの巴里パリの本場でも、あんな風に美女がしろい歯を見せつつ、長い脚を一斉に上げたり下げたり、米搗こめつききねが一斉にうすの中に落ちたり上つたりするやうな具合にまでは行つてゐなかつたやうであるが、当今ではあんな風にまで発達した。

 若し長い脚の美女たちが、白い雷神の面をば丁度越後獅子のするやうに額のところに冠つて、巴里のムーランルージユあたりの舞台で一斉にレヴユーをやつたら喝采かつさいを博すだらう。長い脚が一斉に動く時に、背負つてゐる小さい太鼓の列も一つの集団的な運動の役目を補助するだらう。


     三


 旧約詩篇に、『なんぢの雷鳴いかづちのこゑ』、『ヱホバは天に雷鳴いかづちをとどろかせたまへり』とあつたり、フアウストに、『日は合唱の音を立ててゐる。そして霹靂へきれきの歩みをして、まつた軌道を行く処まで行く』などとあるのは、ただの天然顕象として取扱つてゐないが、宗達画風のああいふ形態ではない。

 雷電は夏季のものとされてゐるが、春雷冬雷の語はまた特殊の気味を持つてゐる。昭和五年十一月であつた。満洲里では連日細かい雪が降つたが、南下すると雪が少く四平街では雪が無かつた。

 四平街に一泊し翌日鄭家屯ていかとんに行つた。私を導いた八木沼氏が、鴻雁こうがんの南下する壮大な光景を私に見せようと思つたのであつた。鄭家屯は遼源れうげんともいひ今ではその方が通りが好いが、其処そこの近くにオポ山といふ小山がある。

 その山に登れば雁の飛ぶのを見ることが出来るだらうといふので、鄭家屯の満鉄支社長宅に一泊し、水害で荒された道を馬車で難行して、オポ山に登り、荒涼といはうか、混沌こんとんといはうか、渺漠べうばくといはうか、一目茫々ばうばうたる国土を見おろしたが、その時にも到頭雁が飛ばなかつた。

 翌日、方向を間違へて四平街の方へ乗るところを通遼の方へ乗つた。停車場を三つばかり通過してからやつと気がついて、四平街の方向に乗換へた。程経て車房の中に八木沼氏と車中の客と支那語で問答しつつ分かりにくくて幾たびも繰返してゐると、其処に一人の白い手術著をた支那人が入つて来て日本語で通弁して呉れた。

 その人は、名古屋の医科大学を出た医学士で、そのへんにペストが流行してゐるので、車中の客の健康診断をもしてゐるのであつた。氏はドイツ語をも解し、『只今ただいま流行してゐますのはドリユゼンペストです』などと話して呉れた。

 氏は四平街まで来ずに途中で下車し、助手を一人連れてゐた。なかなか威張つてゐたので私等も肩身が広かつた。

 その医学士とわかれて、窓外を見ると、半天に雲がひろがりつつあつた。一方の天が晴れて澄みきつて居るのに、一方には綿のやうなむくむくとした雲がひろがつて来るその動きが見える。その動きが相当の速さであることは汽車の速力と比較すれば分かる。そのうち雲のなかで雷鳴がした。

 日本本土では天の範囲が狭いから那須野のやうなところにゐても、雲が天をおほふといふやうなこともまれでないが、満洲の天は前後左右が唯渺漠としてゐて雷雲が天に充満するなどといふことは、実に容易ならぬことである。

 雷鳴も追々遠くなり、豪雨の降らざる冬雷として私の記憶に残つた。またそのとき始めて雁の一群を見ることの出来たのも、私の記念として歌一首に残つた。私はくのごとき渺漠とした満洲の風光を愛してかないが、そのうち満洲帝国が興つたので、二たび満洲の雷鳴を聞きたいとおもつてゐる。

底本:「斎藤茂吉選集 第十一巻」岩波書店

   1981(昭和56)年1127日第1刷発行

初出:「東京朝日新聞」

   1937(昭和12)年82527

入力:しだひろし

校正:門田裕志

2006年1018日作成

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