映画雑感(
寺田寅彦



影なき男


 一種の探偵映画たんていえいがである。しかしこの映画のおもしろみはストーリーの猟奇的な探偵趣味よりもむしろウィリアム・パウェルという男とマーナ・ロイという女とこの二人の俳優の特異なパーソナリティの組み合わせと、その二人で代表された特異な夫婦間の情味にかかっているというのが定評となっているようである。ある人はこの夫婦の関係を一種のソフィスティケーションと見ている。その意味は、こうしたものの内容には、一面においては人為的、不自然、不純真、似而非にてひ贋造がんぞうといったようなあまりかんばしくない要素を含んでいるが、また一面においてはそうしたかんばしくないものを、もう一ぺんひっくりかえして裏から見たときに、その背面から浮かび出して来る高次元に真なるもの純なるものの高次元の美しさおもしろさを認識することができるというのであろう。換言すれば、月並みな陳套ちんとうな正札付きの真実よりも、うそから出た誠にかえってより多くのより深き真実を見いだすこともありうるという意味で、こうした言葉を使っているのではないかと想像される。

 この夫婦のように、深く相愛して愛におぼれず、堅く相信じて信に甘えないというのは、アメリカ人の目にはよほど珍しく目新しい一大発見として映ずるかもしれないが、日本人には実は少しも珍しくもなんともない、むしろ規準的ノルマールな夫婦関係のスタンダードであったのではないかという気がする。もっとも事実上はこの規準的関係の実現は存外困難であった。そうしてむしろかえってさんざん道楽をし尽くしたような中年以上のパトロンと辛酸をなめ尽くして来た芸妓げいぎとの間の淡くして深い情交などにしばしば最も代表的なノルマールな形で実現されたもののようである。

 江戸の言葉で粋と言ったのは現代語をもってしては説明のむつかしい言葉であり、外国語に訳そうとする場合には全く途方にくれる言葉である。しかしこの映画「影なき男」に現われた夫婦愛のソフィスティケーションの中にわれわれは江戸っ子の粋の反映のようなものを認めることはできないであろうか。

 粋の精神はまた一面において俳諧はいかいの精神と握手するところがある。露骨な真実、平板な虚欺、その二つの世界の境界に中立地帯のようにしかも高次元の空間に組み立てられた俳諧の世界がある。実と虚と相接するところに虚実を超越した真如しんにょの境地があって、そこに風流が生まれ、粋が芽ばえたのではないかという気がするのである。もっともこの中立地帯の産物はその地帯の両側にある二つの世界の住民から見るとあるいは廃頽的はいたいてきと見られあるいは不徹底とののしられるかもしれない。しかし、結局それはすむ世界の相違であり、生まれついた人種の差別である。議論にはならない。

 世界じゅうでいちばん「若い」アメリカ人が一九三〇年代の今ごろになって、いくらかこの俳諧の世界の存在に気づいて来たように見えるのははなはだ興味の深いことである。そうして、そのうちに本家の老舗しにせの日本人がこのアメリカ語に翻訳された「俳諧」の逆輸入をいかなる形式においてしおおせるであろうかを観望するのは、さらにより多く興味の深いことである。

 日本映画人がかつてソビエト露国から俳諧的モンタージュの逆輸入を企て一時それに熱中したのはすでに周知の事実なのである。


ロバータ


 前に見た「コンチネンタル」と同じく芸人フレッド・アステーアとジンジャー・ロジャースとの舞踊を主題とする音楽的喜劇である。はなはだたわいのないものである。これを見ていたとき、私のすぐ右側の席にいた四十男がずっと居眠りをつづけて、なんべんとなくその汗臭い頭を私の右肩にぶっつけようぶっつけようとしていた。全くこうした映画に全然興味をもとうという用意のない正直な観客には退屈至極な映画であろうと思われた。

 しかし、私にはこのアステーア、ロジャースの踊りのデュエットは見ていてやっぱりおもしろい。自分は踊りの事は何も知らないし、ましてやこんな西洋の足踏み踊りなどいったいなんのことだかちっともわけがわからない。わけがわからないくせにやっぱりおもしろいのが不思議である。

 この二人の踊りは見ていてちっともあぶなげがない。手でも足でも思い切り自由に伸ばしたり縮めたりしてはね回っているけれども、その運動の均衡が実に安定であって、非常によくバランスのとれた何かの複雑なエンジンの運転を見ているような不思議な快感がある。

 二人の呼吸が実によく合っている。そこから生まれる効果は一プラス一が二になる代わりに三になり四になり十になるようである。同じようなことをしばしば菊五郎きくごろう三津五郎みつごろうの踊りで見ることがある。

 アステーアという男もロジャースという女もはじめのうちは変な男妙な女にしか見えなかったが、二人の踊りを見ているとだんだんに男が腹に強い力をもった男に見えて来るし、女が胸に美しい意気をもった女のように見えてくるから不思議なものである。

 芸の力は恐ろしいものだと思う。しかし、またやっぱり腹と意気がなくては芸はできないものではないかと思うのである。

(昭和十年十月、渋柿)

底本:「寺田寅彦全集 第十巻」岩波書店

   1961(昭和36)年77日第1刷発行

初出:「渋柿」

   1935(昭和10)年1010

入力:米田

校正:富田倫生

2012年52日作成

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