環礁
──ミクロネシヤ巡島記抄──
中島敦
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寂しい島
寂しい島だ。
島の中央にタロ芋田が整然と作られ、その周囲を蛸樹やレモンや麺麭樹やウカルなどの雑木の防風木が取巻いている。その、もう一つ外側に椰子林が続き、さてそれからは、白い砂浜──海──珊瑚礁といった順序になる。美しいけれども、寂しい島だ。
島民の家は西岸の椰子林の間に散らばっている。人口は百七、八十もあろうか。もっと小さい島を幾つも私は見て来た。全島珊瑚の屑ばかりで土が無いために、全然タロ芋(これが島民にとっての米に当るのだ)の出来ない島も知っている。虫害のためにことごとく椰子を枯らしてしまった荒涼たる島も知っている。それだのに、人口僅か十六人のB島を別にすれば、此処ほど寂しい島は無い。何故だろう? 理由は、ただ一つ。子供がいないからだ。
いや、子供もいることはいる。たった一人いるのだ。今年五歳になる女の児が。そうして、その児の外に二十歳以下の者は一人もいない。死んだのではない。絶えて生れなかったのだ。その女の児(外に子供はいないのだから、言いにくい島民名前などは持出さずに、ただ、女の児とだけ呼ぶことにしよう)が生れる前の十数年間、一人の赤ん坊もこの島に生れなかった。女の児が生れてから今に至るまで、まだ一人も生れない。恐らく、今後も生れないのではなかろうか。少くとも、この島の年老いた連中はそう信じている。それ故、数年前この女の児が生れた時は、老人連が集まって、この島の最後の人間──女になるべき赤ん坊を拝んだということである。最初の者が崇められるように、最後の者もまた崇められねばならぬ。最初の者が苦しみを嘗めたように、最後の者もまたどんなにか苦しみを嘗めねばならぬであろう。そう呟きながら、黥をした老爺や老婆たちが、哀しげに虔み深く、赤ん坊を礼拝したという。但し、それは老人だけの話で、若い者は、何年にも見たことのない人間の赤ん坊というものが珍しさに、ワイワイ騒ぎながら見物に来たと聞いている。ちょうど女の児が生れる二年前に、戸口調査があり、その時の記録には人口三百と記されているのに、今ではもう百七、八十しか無い。こんな速やかな減少率があろうか。死ぬ者ばかりで生れる者が皆無だと、別に疫病に見舞われた訳でなくとも、こんなに速く減るものだろうか。当時女の赤ん坊を拝んだ老人たちはもはや一人残らず死んでしまっているに違いない。それでも、老人たちの残した訓えは固く守られていると見えて、今でも、この島の最後の者たるべき女の児は、喇嘛の活仏のように大事にされている。成人ばかりの間にたった一人の子供では、可愛がられるのが当り前のようだが、この場合は、それに多分の原始宗教的な畏怖と哀感とが加わっているのである。
何故、この島には赤ん坊が生れないのか。性病の蔓延や避妊の事実は無いか、と誰もが訊ねる。なるほど、性病も肺病も無いことはないが、それは何も、この島に限ったことではない。というよりむしろ、他の島々に比べて少い位なのだ。避妊に至っては己の島の絶滅を予感してその前に戦いているものが、そんな事をする訳が無いのである。また、女性の身体の一部に不自然な施術をする奇習が原因だろうという者もあるが、この習慣の本家たるトラック地方の諸離島では人口減少の現象が見られないのだから、この推測は当らない。他の島々に比べてタロ芋の産出は豊かだし、椰子も麺麭樹も良く実り、食料は余る位だ。別に天災地変に見舞われた訳でもない。では、何故だ。何故、赤ん坊が生れないか。私には判らない。恐らく、神がこの島の人間を滅ぼそうと決意したからでもあろう。非科学的と嗤われても、そうでも考えるより外、仕方が無いようである。よく手入された芋田と、美しい椰子林とを真昼の眩しい光の下に見ながら、この島の運命を考えた時、あらゆる重大なことは凡て「にもかかわらず」起る、といった誰かの言葉を思い出した。ものが亡びる時は、こんなものなのかと思った。科学者たちはその滅亡の跡を見て数々の原因を指摘しては得々としているが、その原因と称する所のものは、何ぞ図らん、原因ではなくて結果に過ぎないことが多いのである。
秋の終りの最後の薔薇に、思いがけなく大輪の花が咲くことがあるように、この島の最後の娘もあるいは素晴らしく美しく怜悧な子(もちろん島民の標準においてではあるが)ではあるまいかと、甚だ浪漫的な空想を抱いて、私はその女の児を見に行った。そして、すっかり失望した。肥ってこそいたが、うす汚い、愚かしい顔付の、平凡な島民の子である。鈍い目に微かに好奇心と怯えとを見せて、この島には珍しい内地人たる私の姿に見入っていた。まだ黥はしていない。大切にされているとは言っても、フランペシヤだけは出来ると見える。腕や脚一面に糜爛した腫物がはびこっていた。自然は私ほどにロマンティストではないらしい。
夕方、私は独り渚を歩いた。頭上には亭々たる椰子樹が大きく葉扇を動かしながら、太平洋の風に鳴っていた。潮の退いたあとの湿った砂を踏んで行く中に、先刻から私の前後左右を頻りに陽炎のような・あるいは影のようなものがチラチラ走っていることに気が付いた。蟹なのである。灰色とも白とも淡褐色ともつかない・砂とほとんど見分けの付かない・ちょっと蝉の脱け殻のような感じの・小さな蟹が無数に逃げ走るのである。南洋には、マングローブ地帯に多い・赤と青のペンキを塗ったような汐招き蟹なら到る所にいるが、この淡い影のような蟹は珍しい。初めてパラオ本島のガラルド海岸でこれを見た時、一つ一つの蟹の形は見えずに、ただ、自分の周囲の砂がチラチラチラチラと崩れ流れて走るような気がして、幻でも見ているような錯覚に囚えられたものであった。今この島でそれを二度目に見るのである。私が立停ってしばらくじっとしていると、蟹どもの逃走も止む。素速く走る灰色の幻も、フッと消えるのである。この島の人間どもが死絶えた(それはもうほとんど確定的な事実なのだ)後は、この影のような・砂の亡霊のような小蟹どもが、この島を領するのであろうか。灰白色の揺動く幻だけがこの島の主となる日を考えると、妙にうそ寒い気持がして来た。
薄明というものの無い南国のことで、陽が海に落ちると、すぐに真暗になる。私が淋しい東海岸から、それでも人家の集まっている西岸へと廻って行った頃は、もう既に夜であった。椰子樹の下の低い民家から、チラチラと灯が洩れる。その一軒に私は近付いて行った。裏の炊事場──パラオ語ではウムというが、此処南方離島では何と呼ぶのか知らない──に、焔が音も無く燃えていた。その上に掛かった鍋には芋か魚でもはいっているのだろう。私が中にはいって行くと、火の傍にいた老婆が驚いて顔を上げた。黥をした、たるんだ皮膚が、揺れ動く焔にチラチラと赤く映える。手真似で食を求めると、老婆はすぐに前の鍋の蓋を取って覗いた。だぶだぶの汁の中に小魚が三、四匹はいっていたが、まだ煮えないらしい。老婆は立上って奥から木皿を持って来た。タロ芋の切ったのと、燻製らしい魚の切身が載っていた。別に空腹な訳ではない。彼らの食物の種類や味が知りたかっただけである。両方をちょっとつまんで味わって見てから、私は日本語で礼を言って、表へ出た。
浜へ出ると、遥か向うに、私の乗って来た──そうして、ここ数時間の中にはまた乗って立去る──小汽船の燈火が、暗い海に其処だけ明るく浮上っていた。ちょうど側を通りかかった島民の男を呼びとめ、カヌーを漕がせて、船に帰った。
汽船はこの島を夜半に発つ。それまで汐を待つのである。
私は甲板に出て欄干に凭った。島の方角を見ると、闇の中に、ずっと低い所で、五つ六つの灯が微かにちらついて見える。空を仰いだ。檣や索綱の黒い影の上に遥か高く、南国の星座が美しく燃えていた。ふと、古代希臘の或る神秘家の言った「天体の妙なる諧音」のことが頭に浮かんだ。賢いその古代人はこう説いたのである。我々を取巻く天体の無数の星どもは常に巨大な音響──それも、調和的な宇宙の構成にふさわしい極めて調和的な壮大な諧音──を立てて廻転しつつあるのだが、地上の我々は太初よりそれに慣れ、それの聞えない世界は経験できないので、竟にその妙なる宇宙の大合唱を意識しないでいるのだ、と。先刻夕方の浜辺で島民どもの死絶えた後のこの島を思い画いたように、今、私は、人類の絶えてしまったあとの・誰も見る者も無い・暗い天体の整然たる運転を──ピタゴラスのいう・巨大な音響を発しつつ廻転する無数の球体どもの様子を想像して見た。
何か、荒々しい悲しみに似たものが、ふっと、心の底から湧上って来るようであった。
夾竹桃の家の女
午後。風がすっかり呼吸を停めた。
薄く空一面を蔽うた雲の下で、空気は水分に飽和して重く淀んでいる。暑い。全く、どう逃れようもなく暑い。
蒸風呂にはいり過ぎたようなけだるさに、一歩一歩重い足を引摺るようにして、私は歩いて行く。足が重いのは、一週間ばかり寝付いたデング熱がまだ治り切らないせいでもある。疲れる。呼吸が詰まるようだ。
眩暈を感じて足をとどめる。道傍のウカル樹の幹に手を突いて身体を支え、目を閉じた。デングの四十度の熱に浮かされた時の・数日前の幻覚が、再び瞼の裏に現れそうな気がする。その時と同じように、目を閉じた闇の中を眩い光を放つ灼熱の白金の渦巻がぐるぐると廻り出す。いけない! と思ってすぐに目を開く。
ウカル樹の細かい葉一つそよがない。肩甲骨の下の所に汗が湧き、それが一つの玉となって背中をツーッと伝わって行くのがはっきり判る。何という静けさだろう! 村中眠っているのだろうか。人も豚も鶏も蜥蜴も、海も樹々も、咳き一つしない。
少し疲れが休まると、また歩き出す。パラオ特有の滑らかな敷石路である。今日のような日では、島民たちのように跣足でこの石の上を歩いて見ても、大して冷たくはなさそうだ。五、六十歩下りて、巨人の頬髯のように攀援類の纏いついた鬱蒼たる大榕樹の下まで来た時、始めて私は物音を聞いた。ピチャピチャと水を撥ね返す音である。洗身場だなと思って傍を見ると、敷石路から少し下へ外れる小径がついている。巨大な芋葉と羊歯とを透かしてチラと裸体の影を見たように思った時、鋭い嬌声が響いた。つづいて、水を撥ね返して逃出す音が、忍び笑いの声と交って聞え、それが静まると、また元の静寂に返った。疲れているので、午後の水浴をしている娘どもにからかう気も起らない。また、緩やかな石の坂道を下り続ける。
夾竹桃が紅い花を簇らせている家の前まで来た時、私の疲れ(というか、だるさというか)は堪えがたいものになって来た。私はその島民の家に休ませてもらおうと思った。家の前に一尺余りの高さに築いた六畳敷ほどの大石畳がある。それがこの家の先祖代々の墓なのだが、その横を通って、薄暗い家の中を覗き込むと、誰もいない。太い丸竹を並べた床の上に、白い猫が一匹ねそべっているだけである。猫は眼をさまして此方を見たが、ちょっと咎めるように鼻の上を顰めたきりで、また目を細くして寝てしまった。島民の家故、別に遠慮することもないので、勝手に上り端に腰掛けて休むことにした。
煙草に火をつけながら、家の前の大きな平たい墓と、その周囲に立つ六、七本の檳榔の細い高い幹を眺める。パラオ人は──パラオ人ばかりではない。ポナペ人を除いた凡てのカロリン群島人は──檳榔の実を石灰に和して常に噛み嗜むので、家の前には必ず数本のこの樹を植えることにしている。椰子よりも遥かに細くすらりとした檳榔の木立が矗として立っている姿は仲々に風情がある。檳榔と並んで、ずっと丈の低い夾竹桃が三、四本、一杯に花をつけている。墓の石畳の上にも点々と桃色の花が落ちていた。何処からか強い甘い匂の漂って来るのは、多分この裏にでも印度素馨が植わっているのだろう。その匂は今日のような日にはかえって頭を痛くさせる位に強烈である。
風は依然として無い。空気が濃く重くドロリと液体化して、生温い糊のようにねばねばと皮膚にまといつく。生温い糊のようなものは頭にも浸透して来て、そこに灰色の靄をかける。関節の一つ一つがほごれたようにだるい。
煙草を一本吸い終って殻を捨てた拍子に、ちょっと後を向いて家の中を見ると、驚いた。人がいる。一人の女が。何処からいつの間に、はいって来たのだろう? 先刻までは誰もいなかったのに。白い猫しかいなかったのに。そういえば今は白猫がいなくなっている。ひょっとすると、先刻の猫がこの女に化けたんじゃないかと(確かに頭がどうかしていた)本当に、ごく一瞬間だが、そんな気がした。
驚いた私の顔を、女はまじろぎもせずに見ている。それは驚いた目ではない。先刻から私が外を眺めていた間中ずっと此方を見ていたというような感じがした。
女は上半身すっかり裸体で、鳶足に坐った膝の上に赤ん坊を抱いている。赤ん坊はひどく小さい。生れて二月にもなるまい。睡りながら乳首をくわえている。吸っている様子は無い。びっくりしたのと、言葉が不自由なのとで、私は、勝手に留守宅に休ませてもらった断りを言いそびれ、黙って女の顔を見ていた。こんなに眼を外らさない女は無い。ほとんど目を据えていると言っても宜い。熱病めいた異常なものまでが、その眼の光の中に漂っているようである。少々気味が悪くなって来た。
私が逃出さなかったのは、女の目付の中に異常なものはあっても兇暴なものが見えなかったからである。いや、まだもう一つ、そうやって無言で向い合っている中に次第に微かながらエロティッシュな興味が生じて来たからでもあった。実際、その若い細君は美人といって良かった。パラオ女には珍しく緊った顔立で、恐らく内地人との混血なのではなかろうか。顔の色も、例の黒光りするやつではなくて、艶を消したような浅黒さである。何処にも黥の見えないのは、その女がまだ若くて、日本の公学校教育を受けて来たためであろう。右の手で膝の児を抑え、左の手は斜め後に竹の床に突いているが、その左手の肱と腕とが(普通の関節の曲り方とは反対に)外側に向ってくの字に折れている。こういう関節の曲り方はこの地方の女にしか見られないものだ。やや反り気味なその姿勢で、受け口の唇を半ば開いたまま、睫の長い大きな目で、放心したように此方を見詰めている。私はその目を外らすことをしなかった。
弁解じみるようだが、一つには確かにその午後の温度と、湿気と、それから、その中に漂う強い印度素馨の匂とが、良くなかったのである。
私には先ほどからの、女の凝視の意味がようやく判って来た。何故若い島民の女が(それも産後間もないらしい女が)そんな気持になったか、病み上りの私の身体が女のそういう視線に値するかどうか、また、熱帯ではこんな事が普通なのかどうか、そんな事は一切判らないながら、とにかく現在のこの女の凝視の意味だけはこの上なくハッキリ判った。女の浅黒い顔に、ほのかに血の色が上って来たのを私は見た。かなり朦朧とした頭の何処かで、次第に増して来る危険感を意識してはいたのだが、もちろんそれを嗤う気持の方に自信をもっていたのである。その中に、しかし、私は妙に縛られて行くような自分を感じ始めた。
全く莫迦莫迦しい話だが、その時の泥酔したような変な気持を後で考えて見ると、どうやら私はちょっと熱帯の魔術にかかっていたようである。その危険から救ってくれたものは、病後の身体の衰弱であった。私は縁に足を垂れて腰掛けていたので、女の方を見るためには、身体を捩って斜め後を向かねばならない。この姿勢がひどく私を疲れさせた。しばらくする中に、横腹と頸の筋がひどく痛くなって来て、思わず、姿勢を元に戻すと、視線を表の景色に向けた。何故か、深い溜息がホーッと腹の底から出た。途端に呪縛が解けたのである。
一瞬前の己の状態を考えて、私は覚えず苦笑した。縁から腰を上げて立上ると、その苦笑を浮かべた顔で、家の中の女にサヨナラと日本語で言った。女は何も答えない。酷い侮辱を受けでもしたように、明らかに怒った顔付をして、先刻と同じ姿勢のまま私を見据えた。私はそれに背中を向けて、入口の夾竹桃の方へ歩き出した。
アミアカとマンゴーの巨樹の下を敷石伝いに私はようやく宿に帰って来た。身体も神経もすっかり疲れ果てて。私の宿というのは、この村の村長たる島民の家だ。
私の食事の世話をしてくれる日本語の巧い島民女マダレイに、先刻の家の女のことを聞いて見た。(もちろん、私の経験をみんな話した訳ではない。)マダレイは、黒い顔に真白な歯を見せて笑いながら、「ああ、あのベッピンサン」と言った。そして、付加えて言うことに、「あの人、男の人、好き。内地の男の人なら誰でも好き。」
先刻の自分の醜態を思出して、私はまた苦笑した。
湿った空気のそよとも動かぬ部屋の中で、板の間の呉蓙の上に疲れた身体をぐったりと横たえ、私は昼寝の眠りに入った。
三十分ほども経ったろうか。突然、冷たい感触が私を目醒めさせる。風が出たのか? 起上って窓から外を見ると、近くのパンの木の葉という葉が残らず白い裏を見せて翻っている。有難いなと思って、急に真黒になった空を見上げている中に、猛烈なスコールがやって来た。屋根を叩き、敷石を叩き、椰子の葉を叩き、夾竹桃の花を叩き落して、すさまじい音を立てながら、雨は大地を洗う。人も獣も草木もやっと蘇った。遠くから新しい土の香が匂って来る。太い白い雨脚を見ながら、私は、昔の支那人の使った銀竹という言葉を爽かに思い浮かべていた。
雨が霽ってからしばらくして表へ出て見たら、まだ濡れている敷石路を、向うから先刻の夾竹桃の家の女が歩いて来た。家に寝かし付けて来たのか、赤ん坊は抱いていない。私と擦れ違ったが、視線を向けもしなかった。怒っている顔付ではなく、全然私を認めないような、澄ました無表情な顔であった。
ナポレオン
「ナポレオンを召捕りに行くのですよ」と若い警官が私に言った。パラオ南方離島通いの小汽船、国光丸の甲板の上である。
「ナポレオン?」
「ええ、ナポレオンですよ」と若い警察官は私の驚きを期待していたように笑いながら言った。「ナポレオンといっても、島民ですがね。島民の子供の名前です。」
島民には随分変った名前が色々とある。昔は基督教の宣教師に命名してもらうことが多かったので、マリヤとかフランシスなどというのが多く、また、以前独逸領だった関係からビスマルクなどというのも時にあったが、ナポレオンは珍しい。しかし、私の知っている他の島民の名前、シチガツ(七月に生れたのであろう)、ココロ(心?)、ハミガキなどに比べれば、何といっても堂々たる名前には違いない。もっとも、その余り堂々とし過ぎている点が可笑しいのには違いないが。
甲板に張られたカンヴァスの日覆の下で、私は色の黒い不良少年、ナポレオンの話を聞いた。
ナポレオンは二年前までコロールの街にいたのだが、公学校三年生の時、年下の女の児にひどく悪性の嗜虐症的な悪戯をして、その児をほとんど死に瀕せしめたという。その他これに類する事件を二つ三つ引起し、更に窃盗なども働いたらしく、一昨年十三歳の時に、未成年者への罰として、コロールから遥か離れた南方のS島へ流されたのである。名目上はパラオ諸島に属しているものの、これら南方離島は地質的にも全然別の島だし、住民もずっと東方の中央カロリン系のものなので、言語習慣もパラオとはまるで変っている。さすがの悪少年ナポレオンも最初は大分閉口したらしいが、環境に適応する(というよりこれを克服する)不思議な才能を備えていると見え、半年も経たぬ間に、S島でももてあます跳梁ぶりを示し始めた。島の少年どもを脅迫したり、娘や人妻に怪しからぬ振舞をして困るからとの陳情が、島の村長から大分前にパラオ支庁の方へ来ているという。そんな悪少年は島の内で制裁すればいいと思われるのに、それがどうして、島の成人たちが逆に怯えている有様なのだそうだ。S島は人口も極めて少く、それも年々減少しつつある、いわば廃島に近い島なのだが、僅か十五、六歳の少年一人を抑えかねるほど、住民らも元気が無いのであろうか。
私と今話している警察官がナポレオンを召捕りに来たのは、この少年に改悛の情無しと見たパラオ支庁の警務課が、彼の流刑の期間を延長し、その上流竄地をS島よりも更に南方遥か隔たったT島に変更することに決めたためである。警官は、この用件と、もう一つ僻遠諸離島の人頭税取立てとを兼ねて、一人の島民巡警を引連れ、内地人の乗ることなどほとんど無い・そして年に僅か三回位しか通わないこの離島航路の小船に乗ったのであった。
「ナポレオン先生、大人しくこの船に乗せられて、T島に移りますかな?」と私が言うと、「なあに、いくら悪だといったって、たかが島民の子供じゃないですか。問題じゃない」と警官がむきになって答えた。その声に、今までの会話の調子と違って、意外にも若干の憤激の調子が感じられ、ああ、私の今の言葉は島民の前には絶対権威をもつ警官への多少の侮辱に当るのかも知れぬと気が付いた。
S島がナポレオンの存在に困るからとて、T島にやったのでは、同じような無気力者の寄合に違いないT島でもやはりこの少年に手古摺るに違いない。もっと他に何か方法は無いものか。たとえばコロールの街で厳重な監視の下に労役に従わせるとか、そういう風な。それに、一体、この流刑という古風な刑罰を少年に課しているのは、どういう法律なのだろう? 日本人の籍をもたぬ彼ら島民、殊にその未成年者には、どんな法律が設けられているのだろう? 同じ南洋の官吏でいながら、まるで方面違いの、おまけにごく新米の私は、そんな事に全然無知だったので、少し訊ねて見たかったのだが、相手の機嫌を幾らか損じたらしい際でもあり、傍にいる島民巡警への顧慮も手伝って、それは控えることにした。
「昼頃にはS島に着くようなことを船長は言っとったが、この間みたいに半日も流されて、行過ぎとるなんてことがあるから、あてにはなりませんなあ。」
警官は話を換えて、そんなことを言い、伸びをしながら、眼を海の方に向けた。私もまたそれにつられて、何ということもなく、目を細くして眩しい海と空とを眺めた。
底抜けの上天気である。何という光り輝く青さだろう、海も空も。澄み透る明るい空の青が、水平線近くで、茫と煙る金粉の靄の中に融け去ったかと思うと、その下から、今度は、一目見ただけでたちまち全身が染まってしまいそうな華やかな濃藍の水が、拡がり、膨らみ、盛上って来る。内に光を孕んだ豊麗極まりない藍紫色の大円盤が、船の白塗の欄干の上になり下になりして、とてつもなく大きく高く膨れ上り、さてまたぐうんと低く沈んで行く。紺青鬼という言葉を私は思出した。それがどんな鬼か知らないが、無数の真蒼な小鬼どもが白金の光耀粲爛たる中で乱舞したら、あるいはこの海と空の華麗さを呈するかも知れないと、そんなとりとめない事を考えていた。
しばらくして、余りの眩さに海から眼を外らして前を見ると、つい先刻まで私と話していた若い警官は、布製の寝椅子に凭ったまま、既に快げな寝息を立てていた。
午近く、船は珊瑚礁の罅隙の水道を通って湾に入った。S島だ。黒き小ナポレオンのいるというエルバ島である。
低い・全然丘の無い・小さな珊瑚島だ。緩く半円を描いた渚の砂は──珊瑚の屑は、余りにも真白で眼に痛い。年老いた椰子樹の列が青い昼の光の中に亭々と聳え立ち、その下に隠見する土人の小舎がひどく低く小さく見える。二、三十人の土民男女が浜に出て、眼をしかめたり小手を翳したりしながら、我々の船の方を見ている。
潮の関係で、突堤には着けられなかった。岸から半丁ほど離れて船が泊ると、迎えの独木舟が三隻水を切って近寄った。見事に赤銅色をした逞しい男が、真赤な褌一つで漕いで来る。近付くと、彼らの耳に黒い耳輪の下っているのが見えた。
「では、行って来ます」と警官はヘルメットを手に取りながら挨拶し、巡警を従えて甲板から降りて行った。
この島には三時間しか泊らないことになっている。私は上陸しないことにした。ひとえに暑さを恐れたためである。
昼食を下で済ませてから、また甲板へ上って来た。外海の濃藍色とは全然違って、堡礁内の水は、乳に溶かした翡翠だ。船の影になった所は、厚い硝子の切断部のような色合に、特に澄み透って見える。エンジェル・フィッシュに似た黒い派手な竪縞のある魚と、さよりのような飴色の細い魚とが盛んに泳いでいるのを見下している中に、眠くなって来た。先刻警官の睡った寝椅子に横になると、直ぐに寝てしまった。
タラップを上って来る足音と人声とに目を醒ますと、もう警官と巡警とが帰って来ていた。傍に、褌一つの島民少年を連れている。
「ああ、これですか。ナポレオンは。」
「ハア」と頷くと、警官は少年を、甲板の隅の索具などの積んである辺へ向けて突き飛ばした。「その辺へしゃがんどれ。」
警官の背後から巡警が(二十歳になったかならない位の、愚鈍そうな若者だ)何か短く少年に言った。警官の言葉を通訳したのであろう。少年は不貞腐れたような一瞥を我々に投げてから、其処にあった木箱に腰を下し、海の方を向いてしまった。
島民としては甚だ眼が小さいが、ナポレオン少年の顔は別に醜いという訳ではない。そうかといって(大抵の邪悪な顔には何処か狡い賢さがあるものだが)悪賢いという柄でもない。賢さなどというものは全然見られぬ・愚鈍極まる顔でありながら、普通の島民の顔に見られる・あのとぼけたおかしさがまるで無い。意味も目的も無い・まじりけの無い悪意だけがハッキリその愚かしい顔に現れている。先ほど警官から聞かされたこの少年のコロールでの残忍な行為も、なるほどこの顔ならやりそうだと思われた。ただ、予期に反したのは、その体躯の小さいことである。島民は概して二十歳前に成長し切ってしまうので、十五、六にもなれば、実に見事な体格をしている者が多い。殊に性的な犯行をするほど早熟な少年ならば、きっと体躯もそれに伴って充分発達しているだろうと思ったのに、これはまた、痩せてひねこびた猿のような少年である。こんな身体の少年が、どうして(いまだに家柄の次には腕力が最もものを言うはずの)島民の間で衆人を懼れさせることが出来るか、誠に不可思議に思われた。
「御苦労様でしたな」と私は警官に向って言った。
「イヤ。船が珍しいもんだから、野郎、村の者と一緒に浜へ出とったんで、すぐつかまえましたよ。しかし、あの男が(と巡警を指して)言うにはですな、困ったことに」と警官が言った。「ナポレオンの野郎、今ではパラオ語をすっかり忘れてしまっとるんですと。何をあれに聞かせても通じんのです。しかし、そんな事があるもんでしょうかな。僅か二年の間に自分の生れた土地の言葉をみんな忘れてしまうなんてことが。」
二年間この島でトラック語ばかり使っていたために、ナポレオンはパラオ語を忘れ果てたという。公学校で二年ほど習った日本語を忘れたというのなら、これは解る。しかし、生れた時から使って来たパラオ語まで忘れるとは? 私は首を傾けた。だが、万更、有り得ないことではないかも知れんなと思った。しかし、また一方、警官の訊問を避けるための偽りでないと誰が知ろう。「さあね」と私はもう一度首を傾げた。
「わしもね、奴が嘘をついとるんじゃなかろうかと大分責めて見たんですがな、やっぱり本当に忘れてしまったらしい所もあるし。」と警官はそう言いながら額の汗を拭い、此方に背中を向けているナポレオンの方を忌々しそうに見遣った。「とにかく、不貞腐れた、生意気な奴ですよ。まだ子供のくせに、こんな強情な野郎は無い。」
午後三時、いよいよ出帆だ。ゴトゴトいうエンジンの音と共に船体が軽く上下に揺れ出した。
私は警官と甲板の椅子に凭って(我々二人だけが一等船客だったのでいつも一緒にいない訳に行かないのである)島の方を見ていた。その時、我々の傍に立っていた例の島民巡警が「アレ!」と頓驚な声を出して、我々の背後を指さした。すぐその方向に振向いた時、私は、今しも白塗の欄干を越えて海の上へと躍った島民少年の後姿を見た。慌てて我々は欄干の所へ駈け寄った。既に脱走者は船から七、八間離れた渦の中を船尾を廻って鮮やかに島の方へと泳いでいた。
「停めろ! 船を停めろ!」と警官が喚いた。「ナポレオンが逃げたぞ。」
たちまち船の上はごった返しの騒ぎとなった。船尾にいた二人の島民水夫がその場から海に跳び込んで脱走者の後を追うた。二人とも二十歳を越えたばかりと思われる逞しい青年だ。脱走者と追跡者との距離は見る見る縮まって行くように見えた。浜辺で船を見送っていた島の連中もようやく気が付いたらしく、ナポレオンの泳ぎ着こうとする方角に向って、白い砂の上をバラバラと駈けて行く。
思いがけない活劇に、私は欄干に凭ってかたずを呑んだ。これはまた、目も醒めるばかり鮮やかな色彩の世界を背景にした南海の捕りものである。私はよほど嬉しそうな顔をして眺めていたに違いない。「面白いですなあ!」と声を掛けられて気が付くと、いつの間にか隣に船長が(どういう訳か、この船長はいつ見ても多少の酒気を帯びていないことはない)来ていたのである。彼もまたのんびりとパイプの煙をふかしながら、映画でも見るように楽しげに海の活劇を見下していた。巧くナポレオンが浜に泳ぎ着いて、さて島内の森の中へでも逃げおおせてくれればいいと、どうやらそんな事を考えていたらしい自分に気が付いて、私は苦笑した。
だが、結果は案外あっけなかった。結局、汀から二十間ばかりの・丈の立つ所まで来た時、ナポレオンは追い付かれた。並よりも身体の小さい少年一人と、堂々たる体格の青年二人とでは、結果は問うまでもない。少年は二人に両腕を取られて引立てられ、浜に上ったまでは見えたが、島の連中がたちまち取巻いてしまったので、あとは良く見えなくなった。
警官は酷く機嫌を悪くしていた。
三十分後、殊勲の二水夫に押えられたナポレオンが再び島のカヌーで船に連れ戻された時、真先に彼は手酷い平手打を三つ四つ続けざまに喰わせられた。さて、それから今度は(先刻は縄をつけなかったのだ)両手両足を船の麻縄で縛り上げられた上、隅っこの・島民船員の食料が詰め込んであるらしい椰子バスケットと飲用の皮剥若椰子との間にころがされた。
「畜生。余計な世話を焼かせやがる!」と警官は、それでもようやく安堵したように、そう言った。
翌日も完全な上天気であった。一日陸を見ずに、船は南へ走った。
ようやく夕方近くなって、無人島H礁の環礁の中に入った。無人島に船を寄せるのは、万一漂流者がありはせぬかを調べるためだろうと私は思った。何処かの命令航路の規約にそんな事が書いてあったのを憶えていたからである。ところが実際は、そんな甘い人道的な考え方からではなかった。此処での高瀬貝採取権を独占している南洋貿易会社からの頼みで、密漁者を取締るのが目的なのだという。
甲板の上から見ると、夥しい海鳥の群がこの低い珊瑚礁島を蔽うている。船員の二、三に誘われ上陸して見て、更に驚いた。岩の陰も木の上も砂の上も、ただ一面の鳥、鳥、鳥、それから鳥の卵と鳥の糞とである。そうして、それら無数の鳥どもは我々が近寄っても逃げようとはしない。捕えようとすると、始めて僅かに二、三歩よたよたと避けるだけである。大きいのは人間の子供位なのから、小さいのは雀位のものに至るまで、白いもの、灰色のもの、薄茶色のもの、淡青のもの、何万とも数え切れぬ数十種の海鳥どもが群れているのだが、残念ながら、私には(同行の船員にも)一つも名前が判らぬ。私はただ無性に嬉しくなり、むやみに走り廻っては彼らを追いかけ廻した。幾らでも、全く可笑しい位幾らでも、捕まるのだ。嘴の赤くて長い・大きな白い奴を一羽抱きかかえた時はさすがに少し暴れられてつっ突かれはしたが、私は子供のように喚声をあげながら何十羽となく捕えては離し、捕えては離しした。同行の船員らは始めてではないので私ほどに喜びはしなかったが、それでも棒切を揮っては大分無用の殺生をしていた。彼らは手頃な大きさの奴三羽と、薄黄色い卵を十ばかり、食用にするために船へ持ち帰った。
遠足に行った少年のように満足し切って船に戻ると、下船しなかった警官が私に言った。
「あの野郎(ナポレオンのことだ)昨日から不貞腐れて何も喰わんのですよ。芋と椰子水を出して手の縄を解いてやるんだが、見向きもせんのです。何処まで強情か底が知れん。」
なるほど、少年は昨日と同じ場所に同じ姿勢でころがっていた。(幸い、そこは陽の射さぬ所だったが。)私が側へ寄っても、目はハッキリあいているくせに、視線を向けようともしないのである。
次の朝、即ちS島を出てから二日目の朝、船はようやくT島に着いた。この航路の終点でもあり、ナポレオン少年の新しい配流地でもある。堡礁内の浅い緑色の水、真白い砂と丈高い椰子樹の遠望、汽船目懸けて素速く漕寄せて来る数隻のカヌー、そのカヌーから船に上って来ては船員の差出す煙草や鰯の缶詰などと自分らの持ち来たった鶏や卵などとを交換しようとする島民ども、さては、浜に立って珍しげに船を眺める島人ら。それらは何処の島も変りはない。
迎えの独木舟が着いた時、巡警は、まだ同じ姿勢で椰子バスケットの間に寝ころがっているナポレオン(彼はとうとう丸二日間、強情に一口も飲食しなかったのだそうだ)にその旨を告げ、足の縄を解いて引起した。ナポレオンは大人しく立上ったが、巡警がなおもその腕を取って警官の方へ引張ろうとした時、憤然とした面持で、島民巡警を不自由な肱で突き飛ばした。突き飛ばされた巡警の愚鈍そうな顔に、瞬間、驚きと共に一種の怖れの表情が浮かんだのを私は見逃さなかった。ナポレオンは独りで警官の後についてタラップを降りた。カヌーに移り、やがてカヌーから岸に下り立ち、二、三の島の者と共に警官について椰子林の間に消えて行くのを、私は甲板から見送った。
此処で七、八人の島民船客が椰子バスケットを独木舟に積込んで下りて行ったのと入違いに、ここからパラオへ行こうとする十人余りが同じような椰子バスケットを担いで乗込んで来た。無理に大きく引伸ばした耳朶に黒光りのする椰子殻製の輪をぶら下げ、首から肩・胸へかけて波状の黥をした・純然たるトラック風俗である。
一時間ほどすると、警官と巡警とが船に戻って来た。ナポレオン配流のことを島民らに言って聞かせ、その身柄を村長に託して来たのである。
出帆は午後になった。
例によって浜辺には見送りの島の者がずらりと並んで別を惜しんでいる。(一年に三、四回しか見られない大きな船が発つのだから。)
陽除の黒眼鏡を掛けて甲板から浜辺を眺めていた私は、彼らの列の中に、どうもナポレオンらしい男の子を見付けた。オヤと思って隣にいた巡警に確かめて見ると、やはり、ナポレオンに違いないと言う。大分離れているので、表情までは分らないが、今はもうすっかり縛めを解かれて、心なしか、明るく元気になったらしく見える。隣りに自分より少し小柄の子供を二人連れ、時々話し合っているのは、既に──上陸後三時間にして早くも乾児を作ってしまったのだろうか?
船がいよいよ汽笛を鳴らして船首を外海に向け始めた時、ナポレオンが居並ぶ島民らと共に船に向って手を振ったのを、私は確かに見た。あの強情な不貞腐れた少年が、一体どうしてそんな事をする気になったものか。島に上って腹一杯芋を喰ったら、船中の憤懣もハンガー・ストライキも凡て忘れてしまって、ただ少年らしく人々の真似をして見たくなったのだろうか。あるいは、其処の言葉は既に忘れてしまっても、やはりパラオが懐しく、そこへ帰る船に向って、つい手を振る気になったのだろうか。どちらとも私には判らない。
国光丸はひたすら北へ向って急ぎ、小ナポレオンのためのセント・ヘレナは、やがて灰色の影となり、煙の如き一線となり、一時間後には遂に完全に、青焔燃ゆる大円盤の彼方に没し去った。
真昼
目がさめた。ウーンと、睡り足りた後の快い伸びをすると、手足の下、背中の下で、砂が──真白な花珊瑚の屑がサラサラと軽く崩れる。汀から二間と隔たらない所、大きなタマナ樹の茂みの下、濃い茄子色の影の中で私は昼寝をしていたのである。頭上の枝葉はぎっしりと密生んでいて、葉洩日もほとんど落ちて来ない。
起上って沖を見た時、青鯖色の水を切って走る朱の三角帆の鮮やかさが、私の目をハッキリと醒めさせた。その帆掛独木舟は、今ちょうど外海から堡礁の裂目にさしかかったところだった。陽射しの工合から見れば、時刻は午を少し廻ったところであろう。
煙草を一服つけ、また、珊瑚屑の上に腰を下す。静かだ。頭上の葉のそよぎと、ピチャリピチャリと舐めるような渚の水音の外は、時たま堡礁の外の濤の音が微かに響くばかり。
期限付の約束に追立てられることもなく、また、季節の継ぎ目というものも無しに、ただ長閑にダラダラと時が流れて行くこの島では、浦島太郎は決して単なるお話ではない。ただこの昔語の主人公がその女主人公に見出した魅力を、我々がこの島の肌黒く逞しい少女どもに見出しがたいだけのことだ。一体、時間という言葉がこの島の語彙の中にあるのだろうか?
一年前、北方の冷たい霧の中で一体自分は何を思い悩んでいたやら、と、ふと私は考えた。何か、それは遠い前の世の出来事ででもあるように思われる。肌に浸みる冬の感覚ももはや生々しく記憶の上に再現することが不可能だ。と同様に、かつて北方で己を責めさいなんだ数々の煩いも、単なる事柄の記憶にとどまってしまい、快い忘却の膜の彼方に朧ろな影を残しているに過ぎない。
では、自分が旅立つ前に期待していた南方の至福とは、これなのだろうか? この昼寝の目醒めの快さ、珊瑚屑の上での静かな忘却と無為と休息となのだろうか?
「いや」とハッキリそれを否定するものが私の中にある。「いや、そうではない。お前が南方に期待していたものは、こんな無為と倦怠とではなかったはずだ。それは、新しい未知の環境の中に己を投出して、己の中にあってまだ己の知らないでいる力を存分に試みることだったのではないのか。更にまた、近く来るべき戦争に当然戦場として選ばれるだろうことを予想しての冒険への期待だったのではないか。」
そうだ。たしかに。それだのに、その新しい・きびしいものへの翹望は、いつか快い海軟風の中へと融け去って、今はただ夢のような安逸と怠惰とだけが、懶く怡しく何の悔も無く、私を取り囲んでいる。
「何の悔も無く? 果して、本当に、そうか?」と、また先刻の私の中の意地の悪い奴が聞く。「怠惰でも無為でも構わない。本当にお前が何の悔も無くあるならば。人工の・欧羅巴の・近代の・亡霊から完全に解放されているならばだ。ところが、実際は、何時何処にいたってお前はお前なのだ。銀杏の葉の散る神宮外苑をうそ寒く歩いていた時も、島民どもと石焼のパンの実にむしゃぶりついている時も、お前はいつもお前だ。少しも変りはせぬ。ただ、陽光と熱風とが一時的な厚い面被をちょっとお前の意識の上にかぶせているだけだ。お前は今、輝く海と空とを眺めていると思っている。あるいは島民と同じ目で眺めていると自惚れているのかも知れぬ。とんでもない。お前は実は、海も空も見ておりはせぬのだ。ただ空間の彼方に目を向けながら心の中で Elle est retrouvée! ── Quoi? ── L'Éternité. C'est la mer mêlée au soleil.(見付かったぞ! 何が? 永遠が。陽と溶け合った海原が)と呪文のように繰返しているだけなのだ。お前は島民をも見ておりはせぬ。ゴーガンの複製を見ておるだけだ。ミクロネシアを見ておるのでもない。ロティとメルヴィルの画いたポリネシアの色褪せた再現を見ておるに過ぎぬのだ。そんな蒼ざめた殻をくっつけている目で、何が永遠だ。哀れな奴め!」
「いや、気を付けろよ」と、もう一つの別な声がする。「未開は決して健康ではないぞ。怠惰が健康でないように。謬った文明逃避ほど危険なものは無い。」
「そうだ」と先刻の声が答える。「確かに、未開は健康ではない。少くとも現代では。しかし、それでも、お前の文明よりはまだしも溌剌としていはしないか。いや、大体、健康不健康は文明未開ということと係わり無きものだ。現実を恐れぬ者は、借り物でない・己の目でハッキリ視る者は、何時どのような環境にいても健康なのだ。ところが、お前の中にいる『古代支那の衣冠を着けたいかさま君子』や『ヴォルテエル面をした狡そうな道化』と来たら、どうだ。先生たち、今こそ南洋の暑気に酔っぱらってよろめいているらしいが、醒めている時の惨めさを思えば、まだしも、酔っている時の方が、ましのようだな。……」
見慣れぬ殻をかぶったちっぽけな宿借が三つ四つ私の足許近くまでやって来たが、人の気配を感じて立止り、ちょっと様子を窺ってから、慌ててまた逃げて行った。
村は今昼寝の時刻らしい。誰一人浜を通らぬ。海も──少くとも堡礁の内側の水だけは──トロリと翡翠色にまどろんでいるようだ。時々キラリと眩しく陽を照返すだけで。たまに鯔らしいのが水の上に跳ねるのを見れば、魚類だけは目覚めているらしい。明るい静かな・華やかな海と空だ。今、この海の何処かで、半身を生温い水の上に乗出したトリイトンが嚠喨と貝殻を吹いている。何処か、この晴れ渡った空の下で、薔薇色の泡からアフロディテが生れかかっている。何処か紺碧の波の間から、甘美なサイレンの歌が賢いイタカ人の王を誘惑しようとしている。……いけない! またしても亡霊だ。文学、それも欧羅巴文学とやらいうものの蒼ざめた幽霊だ。
舌打をしながら私は立上る。ほろ苦いものがしばらくの間心の隅に残っている。
湿った渚に踏入ると、無数のやどかりども、青と赤の玩具のような小蟹どもが一斉に逃げ出す。五寸ほど芽の出掛かった椰子の実の落ちているのを蹴飛ばすと、水の中にころげ入ってボチャンと音を立てる。
そういえば、昨夜、奇妙なことがあった。島民家屋の丸竹を並べた床の上に、薄いタコの葉の呉蓙を一枚敷いて寝ていた時、私は、突然、何の連絡も無く、東京の歌舞伎座の、(それも舞台ではなく)みやげもの屋(あられや飴や似顔絵やブロマイドなどを売る)の明るい華美な店先と、その前を行き交う着飾った人波とを思出したのだ。役者の家の紋を散らした派手な箱や缶や手拭や、俳優の似顔の目の隈取りや、それを照らす白い強い電燈の光や、それに見入る娘たちや雛妓らの様子までもはっきり、彼女らの髪油の匂までもありありと、浮かんで来た。私は、歌舞伎劇そのものも余り好きではない。みやげもの屋などに何の興味も無いはずである。何故、こんな意味も内容も無い東京生活の薄っぺらな一断面が、太平洋の濤に囲まれた小さな島の・椰子の葉で葺いた土民小舎の中で、家の周囲にズシンと落ちる椰子の実の音を聞いている時に、突然思出されたものか。私には皆目判らぬ。とにかく、私の中には色んな奇妙な奴らがゴチャゴチャと雑居しているらしい。浅間しい、唾棄すべき奴までが。
海岸のタマナ並木の蔭のはずれまで来た時、向うから陽に灼けた砂の上を素裸の小さい男の子が駈けて来た。私の前まで来ると、立止ってキチンと足を揃え、頭が膝の所まで来るほどの丁寧なお辞儀をしてから、食事の用意が出来たことを告げた。私の泊っている島民の家の児で、今年八歳になる。痩せた・目の大きい・腹ばかり出た・糜爛性腫瘍だらけの児である。何か御馳走が出来たか、と聞けば、兄が先刻カムドゥックル魚を突いて来たから、日本流の刺身に作ったという。
少年について一歩日向の砂の上に踏出した時、タマナ樹の梢から真白な一羽のソホーソホ鳥(島民がこう呼ぶのは鳴き声からであるが、内地人はその形から飛行機鳥と名付けている)が、バタバタと舞上って、たちまち、高く眩しい碧空に消えて行った。
マリヤン
マリヤンというのは、私の良く知っている一人の島民女の名前である。
マリヤンとはマリヤのことだ。聖母マリヤのマリヤである。パラオ地方の島民は、凡て発音が鼻にかかるので、マリヤンと聞えるのだ。
マリヤンの年が幾つだか、私は知らない。別に遠慮した訳ではなかったが、つい、聞いたことがないのである。とにかく三十に間があることだけは確かだ。
マリヤンの容貌が、島民の眼から見て美しいかどうか、これも私は知らない。醜いことだけはあるまいと思う。少しも日本がかった所が無く、また西洋がかった所も無い(南洋でちょっと顔立が整っていると思われるのは大抵どちらかの血が混っているものだ)純然たるミクロネシヤ・カナカの典型的な顔だが、私はそれを大変立派だと思う。人種としての制限は仕方が無いが、その制限の中で考えれば、実にのびのびと屈託の無い豊かな顔だと思う。しかし、マリヤン自身は、自分のカナカ的な容貌を多少恥ずかしいと考えているようである。というのは、後に述べるように、彼女は極めてインテリであって、頭脳の内容はほとんどカナカではなくなっているからだ。それにもう一つ、マリヤンの住んでいるコロール(南洋群島の文化の中心地だ)の町では、島民らの間にあっても、文明的な美の標準が巾をきかせているからである。実際、このコロールという街──其処に私は一番永く滞在していた訳だが──には、熱帯でありながら温帯の価値標準が巾をきかせている所から生ずる一種の混乱があるように思われた。最初この町に来た時はそれほどに感じなかったのだが、その後一旦此処を去って、日本人が一人も住まない島々を経巡って来たあとで再び訪れた時に、この事が極めてハッキリと感じられたのである。此処では、熱帯的のものも温帯的のものも共に美しく見えない。というより、全然、美というものが──熱帯美も温帯美も共に──存在しないのだ。熱帯的な美を有つはずのものも此処では温帯文明的な去勢を受けて萎びているし、温帯的な美を有つべきはずのものも熱帯的風土自然(殊にその陽光の強さ)の下に、不均合な弱々しさを呈するに過ぎない。この街にあるものは、ただ、如何にも植民地の場末と云った感じの・頽廃した・それでいて、妙に虚勢を張った所の目立つ・貧しさばかりである。とにかく、マリヤンはこうした環境にいるために、自分の顔のカナカ的な豊かさを余り欣んでいないように見えた。豊かといえば、しかし、容貌よりもむしろ、彼女の体格の方が一層豊かに違いない。身長は五尺四寸を下るまいし、体重は少し痩せた時に二十貫といっていた位である。全く、羨ましい位見事な身体であった。
私が初めてマリヤンを見たのは、土俗学者H氏の部屋においてであった。夜、狭い独身官舎の一室で、畳の代りにうすべりを敷いた上に坐ってH氏と話をしていると、窓の外で急にピピーと口笛の音が聞え、窓を細目にあけた隙間から(H氏は南洋に十余年住んでいる中に、すっかり暑さを感じなくなってしまい、朝晩は寒くて窓をしめずにはいられないのである。)若い女の声が「はいってもいい?」と聞いた。オヤ、この土俗学者先生、なかなか油断がならないな、と驚いている中に、扉をあけてはいって来たのが、内地人ではなく、堂々たる体躯の島民女だったので、もう一度私は驚いた。「僕のパラオ語の先生」とH氏は私に紹介した。H氏は今パラオ地方の古譚詩の類を集めて、それを邦訳しているのだが、その女は──マリヤンは、日を決めて一週に三日だけその手伝いをしに来るのだという。その晩も、私を側に置いて二人はすぐに勉強を始めた。
パラオには文字というものが無い。古譚詩は凡てH氏が島々の故老に尋ねて歩いて、アルファベットを用いて筆記するのである。マリヤンは先ず筆記されたパラオ古譚詩のノートを見て、其処に書かれたパラオ語の間違を直す。それから、訳しつつあるH氏の側にいて、H氏の時々の質問に答えるのである。
「ほう、英語が出来るのか」と私が感心すると、「そりゃ、得意なもんだよ。内地の女学校にいたんだものねえ」とH氏がマリヤンの方を見て笑いながら言った。マリヤンはちょっとてれたように厚い脣を綻ばせたが、別にH氏の言葉を打消しもしない。
あとでH氏に聞くと、東京の何処とかの女学校に二、三年(卒業はしなかったらしいが)いたことがあるのだそうだ。「そうでなくても、英語だけはおやじに教わっていたから、出来るんですよ」とH氏は附加えた。「おやじといっても、養父ですがね。そら、あの、ウィリアム・ギボンがあれの養父になっているのですよ。」ギボンといわれても、私にはあの浩瀚なローマ衰亡史の著者しか思い当らないのだが、よく聞くと、パラオでは相当に名の聞えたインテリ混血児(英人と土民との)で、独領時代に民俗学者クレエマア教授が調査に来ていた間も、ずっと通訳として使われていた男だという。尤も、独逸語ができた訳ではなく、クレエマア氏との間も英語で用を足していたのだそうだが、そういう男の養女であって見れば、英語が出来るのも当然である。
私の変屈な性質のせいか、パラオの役所の同僚とはまるで打解けた交際が出来ず、私の友人といっていいのはH氏の外に一人もいなかった。H氏の部屋に頻繁に出入するにつれ、自然、私はマリヤンとも親しくならざるを得ない。
マリヤンはH氏のことをおじさんと呼ぶ。彼女がまだほんの小さい時から知っているからだ。マリヤンは時々おじさんの所へうちからパラオ料理を作って来ては御馳走する。その都度、私がお相伴に預かるのである。ビンルンムと称するタピオカ芋のちまきや、ティティンムルという甘い菓子などを始めて覚えたのも、マリヤンのお蔭であった。
或る時H氏と二人で道を通り掛かりにちょっとマリヤンの家に寄ったことがある。うちは他の凡ての島民の家と同じく、丸竹を並べた床が大部分で、一部だけ板の間になっている。遠慮無しに上って行くと、その板の間に小さなテーブルがあって、本が載っていた。取上げて見ると、一冊は厨川白村の『英詩選釈』で、もう一つは岩波文庫の『ロティの結婚』であった。天井に吊るされた棚には椰子バスケットが沢山並び、室内に張られた紐には簡単着の類が乱雑に掛けられ(島民は衣類をしまわないで、ありったけだらしなく干物のように引掛けておく)竹の床の下に雞どもの鳴声が聞える。室の隅には、マリヤンの親類でもあろう、一人の女がしどけなく寝ころんでいて、私どもがはいって行くと、うさん臭そうな目を此方に向けたが、またそのまま向うへ寝返りを打ってしまった。そういう雰囲気の中で、厨川白村やピエル・ロティを見付けた時は、実際、何だかへんな気がした。少々いたましい気がしたといってもいい位である。尤も、それは、その書物に対して、いたましく感じたのか、それともマリヤンに対していたいたしく感じたのか、其処まではハッキリ判らないのだが。
その『ロティの結婚』については、マリヤンは不満の意を洩らしていた。現実の南洋は決してこんなものではないという不満である。「昔の、それもポリネシヤのことだから、よく分らないけれども、それでも、まさか、こんなことは無いでしょう」という。
部屋の隅を見ると、蜜柑箱のようなものの中に、まだ色々な書物や雑誌の類が詰め込んであるようだった。その一番上に載っていた一冊は、たしか(彼女がかつて学んだ東京の)女学校の古い校友会雑誌らしく思われた。
コロールの街には岩波文庫を扱っている店が一軒も無い。或る時、内地人の集まりの場所で、たまたま私が山本有三氏の名を口にしたところ、それはどういう人ですと一斉に尋ねられた。私は別に万人が文学書を読まねばならぬと思っている次第ではないが、とにかく、この町はこれほどに書物とは縁の遠い所である。恐らく、マリヤンは、内地人をも含めてコロール第一の読書家かも知れない。
マリヤンには五歳になる女の児がある。夫は、今は無い。H氏の話によると、マリヤンが追出したのだそうである。それも、彼が度外れた嫉妬家であるとの理由で。こういうとマリヤンが如何にも気の荒い女のようだが、──事実また、どう考えても気の弱い方ではないが──これには、彼女の家柄から来る・島民としての地位の高さも、考えねばならぬのだ。彼女の養父たる混血児のことは前にちょっと述べたが、パラオは母系制だから、これはマリヤンの家格に何の関係も無い。だが、マリヤンの実母というのが、コロールの第一長老家イデイズ家の出なのだ。つまり、マリヤンはコロール島第一の名家に属するのである。彼女が今でもコロール島民女子青年団長をしているのは、彼女の才気の外に、この家柄にも依るのだ。マリヤンの夫だった男は、パラオ本島オギワル村の者だが、(パラオでは女系制度ではあるが、結婚している間は、やはり、妻が夫の家に赴いて住む。夫が死ねば子供らをみんな引連れて実家に帰ってしまうけれども)こうした家格の関係もあり、また、マリヤンが田舎住いを厭うので、やや変則的ではあるが、夫の方がマリヤンの家に来て住んでいた。それをマリヤンが追出したのである。体格からいっても男の方が敵わなかったのかも知れぬ。しかし、その後、追出された男がしばしばマリヤンの家に来て、慰藉料などを持出しては復縁を嘆願するので、一度だけその願を容れて、また同棲したのだそうだが、嫉妬男の本性は依然直らず(というよりも、実際は、マリヤンと男との頭脳の程度の相違が何よりの原因らしく)再び別れたのだという。そうして、それ以来、独りでいる訳である。家柄の関係で、(パラオでは特にこれがやかましい)滅多な者を迎えることも出来ず、また、マリヤンが開化し過ぎているために大抵の島民の男では相手にならず、結局、もうマリヤンは結婚できないのじゃないかな、と、H氏は言っていた。そういえば、マリヤンの友達は、どうも日本人ばかりのようだ。夕方など、いつも内地人の商人の細君連の縁台などに割込んで話している。それも、どうやら、大抵の場合マリヤンがその雑談の牛耳を執っているらしいのである。
私はマリヤンの盛装した姿を見たことがある。真白な洋装にハイ・ヒールを穿き、短い洋傘を手にしたいでたちである。彼女の顔色は例によって生々と、あるいはテラテラと茶褐色にあくまで光り輝き、短い袖からは鬼をもひしぎそうな赤銅色の太い腕が逞しく出ており、円柱の如き脚の下で、靴の細く高い踵が折れそうに見えた。貧弱な体躯を有った者の・体格的優越者に対する偏見を力めて排しようとはしながらも、私は何かしら可笑しさがこみ上げて来るのを禁じ得なかった。が、それと同時に、いつか彼女の部屋で『英詩選釈』を発見した時のようないたましさを再び感じたことも事実である。但し、この場合もまた、そのいたましさが、純白のドレスに対してやら、それを着けた当人に対してやら、はっきりしなかったのだが。
彼女の盛装姿を見てから二、三日後のこと、私が宿舎の部屋で本を読んでいると、外で、聞いたことのあるような口笛の音がする。窓から覗くと、すぐ傍のバナナ畑の下草をマリヤンが刈取っているのだ。島民女に時々課せられるこの町の勤労奉仕に違いない。マリヤンの外にも、七、八人の島民女が鎌を手にして草の間にかがんでいる。口笛は別に私を呼んだのではないらしい。(マリヤンはH氏の部屋にはいつも行くが、私の部屋は知らないはずである。)マリヤンは私に見られていることも知らずにせっせと刈っている。この間の盛装に比べて今日はまたひどいなりをしている。色の褪せた、野良仕事用のアッパッパに、島民並の跣足である。口笛は、働きながら、時々自分でも気が付かずに吹いているらしい。側の大籠に一杯刈り溜めると、かがめていた腰を伸ばして、此方に顔を向けた。私を認めるとニッと笑ったが、別に話しにも来ない。てれ隠しのようにわざと大きな掛声を「ヨイショ」と掛けて、大籠を頭上に載せ、そのままさよならも言わずに向うへ行ってしまった。
去年の大晦日の晩、それは白々とした良い月夜だったが、私たちは──H氏と私とマリヤンとは、涼しい夜風に肌をさらしながら街を歩いた。夜半までそうして時を過ごし、十二時になると同時に南洋神社に初詣でをしようというのである。私たちはコロール波止場の方へ歩いて行った。波止場の先にプールが出来ているのだが、そのプールの縁に我々は腰を下した。
相当な年輩のくせにひどく歌の好きなH氏が大声を上げて、色んな歌を──主に氏の得意な様々のオペラの中の一節だったが──唱った。マリヤンは口笛ばかり吹いていた。厚い大きな唇を丸くとんがらせて吹くのである。彼女のは、そんなむずかしいオペラなんぞではなく、大抵フォスターの甘い曲ばかりである。聞きながら、ふと、私は、それらが元々北米の黒人どもの哀しい歌だったことを憶い出した。
何のきっかけからだったか、突然、H氏がマリヤンに言った。
「マリヤン! マリヤン!(氏がいやに大きな声を出したのは、家を出る時ちょっと引掛けて来た合成酒のせいに違いない)マリヤンが今度お婿さんを貰うんだったら、内地の人でなきゃ駄目だなあ。え? マリヤン!」
「フン」と厚い唇の端をちょっとゆがめたきり、マリヤンは返辞をしないで、プールの面を眺めていた。月はちょうど中天に近く、従って海は退潮なので、海と通じているこのプールはほとんど底の石が現れそうなほど水がなくなっている。しばらくして、私が先刻のH氏の話のつづきを忘れてしまった頃、マリヤンが口を切った。
「でもねえ、内地の男の人はねえ、やっぱりねえ。」
なんだ。こいつ、やっぱり先刻からずっと、自分の将来の再婚のことを考えていたのかと急に私は可笑しくなって、大きな声で笑い出した。そうして、なおも笑いながら「やっぱり内地の男は、どうなんだい? え?」と聞いた。笑われたのに腹を立てたのか、マリヤンは外っぽを向いて、何も返辞をしなかった。
この春、偶然にもH氏と私とが揃って一時内地へ出掛けることになった時、マリヤンは鶏をつぶして最後のパラオ料理の御馳走をしてくれた。
正月以来絶えて口にしなかった肉の味に舌鼓を打ちながら、H氏と私とが「いずれまた秋頃までには帰って来るよ」(本当に、二人ともその予定だったのだ)と言うと、マリヤンが笑いながら言うのである。
「おじさんはそりゃ半分以上島民なんだから、また戻って来るでしょうけれど、トンちゃん(困ったことに彼女は私のことをこう呼ぶのだ。H氏の呼び方を真似たのである。初めは少し腹を立てたが、しまいには閉口して苦笑する外は無かった)はねえ。」
「あてにならないというのかい?」と言えば、「内地の人といくら友達になっても、一ぺん内地へ帰ったら二度と戻って来た人は無いんだものねえ」と珍しくしみじみと言った。
我々が内地へ帰ってから、H氏の所へ二、三回マリヤンから便りがあったそうである。その都度トンちゃんの消息を聞いて来ているという。
私はといえば、実は、横浜へ上陸するや否や、たちまち寒さにやられて風邪をひき、それがこじれて肋膜になってしまったのである。再び彼の地の役所に戻ることは、到底覚束無い。
H氏も最近偶然結婚(随分晩婚だが)の話がまとまり、東京に落着くこととなった。もちろん、南洋土俗研究に一生を捧げた氏のこと故、いずれはまた向うへも調査には出掛けることがあるだろうが、それにしても、マリヤンの予期していたように彼の地に永住することはなくなった訳だ。
マリヤンが聞いたら何というだろうか?
風物抄
Ⅰ
朝、目が覚めると、船は停っている様子である。すぐに甲板に上って見る。
船は既に二つの島の間にはいり込んでいた。細かい雨が降っている。今まで見て来た南洋群島の島々とはおよそ変った風景である。少くとも、今甲板から眺めるクサイの島は、どう見ても、ゴーガンの画題ではない。細雨に烟る長汀や、模糊として隠見する翠の山々などは、確かに東洋の絵だ。一汀煙雨杏花寒とか、暮雲巻雨山娟娟とか、そんな讃がついていても一向に不自然に思われない・純然たる水墨的な風景である。
食堂で朝食を済ませてから、また甲板へ出て見ると、もう雨は霽っていたが、まだ、煙のような雲が山々の峡を去来している。
八時、ランチでレロ島に上陸、すぐに警部補派出所に行く。この島には支庁が無く、この派出所で一切を扱っているのである。昔見た映画の「罪と罰」の中の刑事のような・顔も身体も共に横幅の広い警部補が一人、三人の島民巡警を使って事務をとっていた。公学校視察のために来たのだと言うと、すぐに巡警を案内につけてくれた。
公学校に着くと、背の低い・小肥りに肥った・眼鏡の奥から商人風の抜目の無さそうな(絶えず相手の表情を観察している)目を光らせた・短い口髭のある・中年の校長が、何か不埒なものでも見るような態度で、私を迎えた。
教室は一棟三室、その中の一室は職員室にあててある。此処は初等課だけだから三年までである。門をはいるや否や、色の浅黒い(といっても、カロリン諸島は東へ行くにつれて色の黒さが薄らいでくるように思われる)子供らが争って前に出て来ては、オハヨウゴザイマスと叮嚀に頭を下げる。
教員は校長に訓導一人と島民の教員補一人。但し、一人の訓導とは女で、しかも校長の奥さんである。
校長は授業を見られたくない様子だ。殊に己が妻の授業を。私もまた、それを強要して、心理的な機微を観察しようとするほど、意地が悪くはない。ただ、校長から、此処の島民児童の特徴や、永年の公学校教育の経験談でも聴くにとどめようと思った。ところが、私は、何を聞かねばならなかったか? 徹頭徹尾、私が先ほど会って来た・あの警部補の悪口ばかりを聞かされたのである。
此処ばかりには限らない。離島で、巡査派出所と公学校と両方のある島では、必ず両者の軋轢がある。そういう島では、巡査と公学校長(校長ばかりで下に訓導のいない学校が甚だ多いので)と、島中でこの二人だけが日本人であり、且つ官吏であるので、自然勢力争いが起るのである。どちらか一方だけだと、小独裁者の専制になってかえって結果は良いのだが。
私は今までにも何回となくそれを見ては来たが、ここの校長のように初対面の者に向って、いきなりこう猛烈にやり出すのは、初めてであった。何の悪口ということはない。何から何までその警部補のする事はみんな悪いのである。魚釣(この湾内ではもろ鰺が良く釣れるそうだが)の下手なのまでが讒謗の種子になろうとは、私も考えなかった。魚釣の話が一番後に出たものだから、少し慌てて聞いていると、警部補は魚釣が下手故この島の行政事務を任せては置けないという風な論旨に取られかねないのである。聞いている中に、先ほどは何とも感じなかった・あの横幅の広い警部補に何だか好感が持てそうな気がして来た。
島を案内しようというのを断って公学校を退却すると、私は独りで、島民に道を聞きながら、「レロの遺跡」という名で知られている古代城郭の址を見に行った。今まで曇っていた空から陽が洩れ始め、島は急に熱帯的な相貌を帯びて来た。
海岸から折れて一丁も行かない中に、目指す石の塁壁にぶつかる。鬱蒼たる熱帯樹に蔽われ苔に埋もれてはいるが、素晴らしく大きな玄武岩の構築物だ。
入口をはいってからがなかなか広い。苔で滑りやすい石畳路が紆余曲折して続く。室の跡らしいもの、井戸の形をしたものなどが、密生した羊歯類の間に見え隠れする。塁壁の崩れか、所々に纍々たる石塊の山が積まれている。到る所に椰子の実が落ち、或るものは腐り、或るものは三尺も芽を出している。道傍の水溜には鰕の泳いでいるのが見える。
ミクロネシヤにはもう一つ、ポナペ島にこれと同様な(更に大規模な)遺址があるが、共にこれを築いた人間も年代も判っていない。とにかく、その構築者が現住民族とは何の関係も無いものだということだけは通説となっているようだ。この石塁については何らまとまった伝説が無い上に、現住民族は石造建築について何等の興味も知識も持たぬのだし、またこれら巨大な岩石を何処よりか(この島にこういう石は無い)海上遠く持ち運ぶなどという技術は、彼らよりも遥かに比較を絶して高級な文明を有つ人種でなければ不可能だからである。そういう文明をもった先住民族が何時頃栄え、いつ頃亡び去ったか。或る人類学者は渺茫たる太平洋上に点在するこれらの遺址(ミクロネシヤのみならずポリネシヤにも相当に存在する。イースター島の如きは最も有名だが)を比較研究した後、遥かなる過去の一時期に西は埃及から東は米大陸に至るまでの広汎な地域を蔽うた共通の「古代文明の存在」を仮定する。そうして、その文明の特徴として、太陽崇拝、構築のための巨石使用、農耕灌漑その他を挙げる。こうした壮大な仮説は、私に、大変楽しい空想の翼を与える。私は、太古埃及から東漸した高度の文明を身につけた・勇敢な古代人の群を想像することが出来る。彼らは、真珠や黒耀石を追い求めては、果てしない太平洋の真蒼な潮の上を、真紅な帆でも掛けて、恐らくは葦の茎の海図を使用しながら、あるいは、今でも我々の仰ぐオリオン星やシリウス星を頼りに、東へ東へと渡って行ったに違いない。そうして、愚昧な原住民の驚嘆を前に、到る処に小ピラミッドやドルメンや環状石籬を築き、瘴厲な自然の中に己が強い意志と慾望との印を打建てたのであろう。……もちろん、この仮説の当否は、門外漢たる私に判る訳が無い。ただ私は今、眼前に、炎熱と颱風と地震との幾世紀の後、なお熱帯植物の繁茂の下に埋め尽されもせずにその謎のような存在を主張している巨石の堆積を見、また一方、巨石の運搬どころかごく簡単な農耕技術さえ知らぬ・低級な現住民の存在を知っているだけである。
巨大な榕樹が二本、頭上を蔽い、その枝といわず幹といわず、蔦葛の類が一面にぶらさがっている。
蜥蜴が時々石垣の蔭から出て来ては、私の様子を窺う。ゴトリと足許の石が動いたのでギョッとすると、その蔭から、甲羅のさしわたし一尺位の大蟹が匍い出した。私の存在に気が付くと、大急ぎで榕樹の根本の洞穴に逃げ入った。
近くの・名も判らない・低い木に、燕の倍ぐらいある真黒な鳥がとまって、茱萸のような紫色の果を啄んでいる。私を見ても逃げようとしない。葉洩陽が石垣の上に点々と落ちて、四辺は恐ろしく静かである。
私のその日の日記を見ると、こう書いてある。「忽ち鳥の奇声を聞く。再び闃として声無し。熱帯の白昼、却つて妖気あり。佇立久しうして覚えず肌に粟を生ず。その故を知らず」云々。
船に帰ってから聞いた所によると、クサイの人間は鼠を喰うということである。
Ⅱ
とろりと白い脂を流したような朝凪の海の彼方、水平線上に一本の線が横たわる。これがヤルート環礁の最初の瞥見である。
やがて、船が近づくにつれて、帯と見えた一線の上に、まず椰子樹が、次いで家々や倉庫などが見分けられて来る。赤い屋根の家々や白く光る壁や、果ては真白な浜辺を船の出迎えにと出てくる人々の小さな姿までが。
全くジャボールは小綺麗な島だ。砂の上に椰子と蛸樹と家々とを程良くあしらった小さな箱庭のような。
海岸を歩くと、ミレ村共同宿泊所、エボン村共同宿泊所などと書かれた家屋があり、その傍で各島民が炊事をしている。此処は全マーシャル群島の中心地とて遠い島々の住民が随時集まってくるので、それらのために各島でそれぞれ共同宿泊所を設けている訳だ。
マーシャルの島民は、殊にその女は、非常にお洒落である。日曜の朝は、てんでに色鮮かに着飾って教会へと出掛ける。それも、恐らくは前世紀末に宣教師や尼さんが伝えたに違いない・旧式の・すこぶる襞の多いスカートの長い・贅沢な洋装である。傍から見ていても随分暑そうに思われる。男でも日曜は新しい青いワイシャツの胸に真白な手巾を覗かせている。教会は彼らにとって誠に楽しい倶楽部、ないし演芸場である。
衣服の法外な贅沢さに引換えて、住宅となると、これはまた、ミクロネシヤの中で最も貧弱だ。第一、床のある家が少い。砂、あるいは珊瑚屑を少し高く積上げ、そこへ蛸樹の葉で編んだ筵を敷いて寝るのである。周囲に四本の柱を立て、蛸樹の葉と椰子の葉とで以てそれを覆えば、それで屋根と壁とは出来上ったことになる。こんな簡単な家は無い。窓も作ることは作るが、至って低い所に付いているので、ちょうど便所の汲取口のようである。このような酷い住居にも、なお必ずミシンとアイロンとだけは備えてあるのだ。彼らの衣裳道楽に呆れるよりも、宣教師と結托したミシン会社の辣腕に呆れる方が本当なのかも知れないが、とにかく、驚くべきことである。もちろん、ジャボールの町にだけは、床を張った・木造の家も相当にあるが、そうした床のある家には必ず縁の下に筵を敷いて住んでいる住民がいるのだ。マーシャル特産の蛸葉の繊維で編んだ団扇、手提籠の類は、概ねこうした縁の下の住民の手内職である。
同じヤルート環礁の内のA島へ小さなポンポン蒸汽で渡った時、海豚の群に取囲まれて面白かったが、少々危いような気もした。というのは、おどけた海豚どもが調子に乗ってはしゃぎ廻り、小艇の底を潜っては右に左に現れ、うっかりすると船が持上りそうに思われたからである。時々二、三尾揃って空中に飛躍する。口の長く細く突出た・目の小さい・ふざけた顔の奴どもだ。船と競争して、とうとう島のごく近くまでついて来た。
島へ上って見ると、ちょうど、ジャボール公学絞の補習科の生徒がコプラの採取作業をやっている。増産運動の一つなのだ。島内を一巡して見たが、島中、椰子と蛸樹と麺麭樹とがギッシリ密生している。熟した麺麭の果が沢山地上に落ち、その腐っているのへ蠅が真黒にたかっている。側を通る我々の顔にも手にもたちまちたかってくる。とても堪らない。途で一人の老婆が麺麭の実の頭に穴を穿ち、八つ手に似た麺麭の葉を漏斗代りに其処へ突込み、上からコプラの白い汁を絞って流し込んでいた。こうして石焼にすると、全体に甘味が浸みこんでいて大変旨いのだそうである。
支庁の人の案内でマーシャルきっての大酋長カブアを訪ねた。カブア家はヤルートとアイリンラプラプとの両地方に跨がる古い豪家で、マーシャル古譚詩の中にはしばしば出て来る名前だそうである。
瀟洒たるバンガロー風の家だ。入口に、八島嘉坊と漢字で書いた表札が掛かっていて、ヤシマカブアと振り仮名が附けてある。この地方の風と見えて、廚房だけは別棟になっているが、それが四面皆竪格子で囲んだ妙な作りである。
初め主人が不在とて、若い女が二人出て来て接待した。一見日本人との混血と分る顔立だが、二人とも内地人の標準から見ても確かに美人である。二人が姉妹だということもすぐに判った。姉の方がカブアの細君なのだという。
程なく主人のカブアが呼ばれて帰って来た。色は黒いがちょっとインテリ風の・三十前後の青年で、何処か絶えずおどおどしているような所が見える。日本語は此方の言葉が辛うじて理解できる程度らしく、自分からは何一つ言出さずに、ただ此方の言うことに一々大人しく相槌を打つだけである。これが年収五万ないし七万に上るという(椰子の密生した島を有っているというだけで、コプラ採取による収入が年にその位あるのだ)大酋長とはちょっと思われなかった。椰子水とサイダーと蛸樹の果とをよばれて、ほとんど話らしい話もせずに(何しろ向うは何一つしゃべらないのだから)家を辞した。
帰途、案内の支庁の人に聞く所によれば、カブア青年は最近(私が先刻見た)妻の妹に赤ん坊を生ませて大騒ぎを引起したばかりだとのことである。
早朝、深く水を湛えた或る巌蔭で、私は、世にも鮮やかな景観を見た。水が澄明で、群魚游泳の状の手に取る如く見えるのは、南洋の海では別に珍しいことはないのだが、この時ほど、万華鏡のような華やかさに打たれたことは無い。黒鯛ほどの大きさで、太く鮮やかな数本の竪縞を有った魚が一番多く、岩蔭の孔らしい所から頻りに出没するのを見れば、此処が彼らの巣なのかも知れない。この外に、透きとおらんばかりの淡い色をした・鮎に似た細長い魚や、濃緑色のリーフ魚や、ひらめの如き巾の広い黒いやつや、淡水産のエンジェル・フィッシュそっくりの派手な小魚や、全体が刷毛の一刷のようにほとんど鰭と尾ばかりに見える褐色の小怪魚、鰺に似たもの、鰯に似たもの、更に水底を匍う鼠色の太い海蛇に至るまで、それら目も絢な熱帯の色彩をした生物どもが、透明な薄翡翠色の夢のような世界の中で、細鱗を閃かせつつ無心に游優嬉戯しているのである。殊に驚くべきは、碧い珊瑚礁魚よりも更に幾倍か碧い・想像し得る限りの最も明るい瑠璃色をした・長さ二寸ばかりの小魚の群であった。ちょうど朝日の射して来た水の中に彼らの群がヒラヒラと揺れ動けば、その鮮やかな瑠璃色は、たちまちにして濃紺となり、紫藍となり、緑金となり、玉虫色と輝いて、全く目も眩むばかり。こうした珍魚どもが、種類にして二十、数にしては千をも超えたであろう。
一時間余りというもの、私はただ呆れて、茫然と見惚れていた。
内地へ帰ってからも、私はこの瑠璃と金色の夢のような眺めのことを誰にも話さない。私が熱心を以て詳しく話せば話すほど、恐らく私は「百万のマルコ」と嗤われた昔の東邦旅行者の口惜しさを味わわねばならぬだろうし、また、自分の言葉の描写力が実際の美の十分の一をも伝え得ないことが自ら腹立たしく思われるであろうからでもある。
ヘルメット帽は、委任統治領では官吏だけのかぶるものになっているらしい。不思議に会社関係の人はこれを用いないようである。
ところで、私は、余り上等でないパナマ帽をかぶって群島中を歩いた。道で出会う島民は誰一人頭を下げない。私を案内してくれる役所の人がヘルメットをかぶって道を行くと、島民どもは鞠躬如として道を譲り、恭しく頭を下げる。夏島でも秋島でも水曜島でもポナペでも、何処ででもみんなそうであった。
ジャボールを立つ前の日、M技師と私は、土産物の島民の編物を漁るために、低い島民の家々を──もっと正確にいえば、家々の縁の下を覗き歩いた。前にちょっと言ったが、ヤルートでは、家々の縁の下に筵を敷いて女どもがごろごろしており、そういう連中が多く蛸樹の葉の繊維で編物をやっているのである。M氏より十歩ばかり先へ歩いていた私は、或る家の縁の下に一人の痩せた女が帯を編んでいる所を見付けた。帯はなかなか出来上りそうもないが、傍には既に出来上ったバスケットが一つ置いてある。私は、案内役の島民少年にバスケットの値段を聞かせる。三円だという。もう少し安くならないかと言わせたが、なかなか承知しそうもない。そこへM氏が現れた。M氏も少年に値段を聞かせる。女はチラと私と見比べるようにして、M技師を──いや、M技師の帽子を、そのヘルメットを見上げる。「二円」と即座に女は答える。オヤッと私は思った。女はまだ自信の無いような態度で何かモゴモゴと口の中で言っている。少年に通訳させると、「二円だけれど、何なら一円五十銭でもいい」と言っているのだそうだ。私が呆気に取られている中に、M氏はさっさと一円五十銭でそのバスケットを買上げてしまう。
宿へ帰ってから、私はM氏の帽子を手に取って、しげしげと眺めた。相当に古い・既に形の崩れた・所々に汚点の付いた・おまけに厭な匂のする・何の変哲も無いヘルメット帽である。しかし、私にはそれがアラディンのランプの如くに霊妙不可思議なものと思われた。
Ⅲ
島が大きいせいか、大分涼しい。雨が頻りに来る。
綿の木と椰子との密林を行けば、地上に淡紅色の昼顔が点々として可憐だ。
J村の道を歩いていると、突然コンニチハという幼い声がする。見ると、道の右側の家の裏から、二人の大変小さい土民の児が──一人は男、一人は女だが、切って揃えたような背の丈だ。──挨拶をしているのだ。二人ともせいぜい四歳になったばかりかと思われる。大きな椰子の根上りした、その鬚だらけの根元に立っているので、余計に小さく見えるのであろう。思わず此方も笑ってしまって、コンニチハ、イイコダネというと、子供たちはもう一度コンニチハとゆっくり言って大変叮嚀に頭を下げた。頭は下げるが、眼だけは大きく開けて、上目使いに此方を見ている。空色の愛くるしい大きな眼だ。白人の──恐らくは昔の捕鯨者らの──血の交っていることは明らかである。
総じてポナペには顔立の整った島民が多いようだ。他のカロリン人と違って、檳榔子を噛む習慣が無く、シャカオと称する一種の酒の如きものを嗜む。これはポリネシヤのカヴァと同種のものらしいから、あるいは、此処の島民にはポリネシヤ人の血でも多少はいっているのかも知れぬ。
椰子の根元に立った二人の幼児は、島民らしくない小綺麗な服を着ている。彼らと話を始めようとしたのだが、生憎、コンニチハの外、何にも日本語を知らないのである。島民語だって、まだ怪しいものだ。二人ともニコニコしながら何度もコンニチハと言って頭を下げるだけだ。
その中に、家の中から若い女が出て来て挨拶した。子供らに似ている所から見れば、母親だろう。余り達者でない・公学校式の角張った日本語で、ウチヘハイッテ、休ンデクダサイと言う。ちょうど咽喉が涸いていたので、椰子水でも貰おうかと、豚の逃亡を防ぐための柵を乗越して裏から家の庭にはいった。
恐ろしく動物の沢山いる家だ。犬が十頭近く、豚もそれ位、その外、猫だの山羊だの鶏だの家鴨だのが、ゴチャゴチャしている。相当に富裕なのであろう。家は汚いが、かなり広い。家の裏からすぐ海に向って、大きな独木舟がしまってあり、その周囲に雑然と鍋・釜・トランク・鏡・椰子殻・貝殻などが散らかっている。その間を、猫と犬と鶏とが(山羊と豚だけは上って来ないが)床の上まで踏み込んで来て、走り、叫び、吠え、漁り、あるいは寝ころがっている。大変な乱雑さである。
椰子水と石焼の麺麭の実を運んで来た。椰子水を飲んでから、殻を割って中のコプラを喰べていると、犬が寄って来てねだる。コプラがひどく好きらしい。麺麭の実は幾ら与えても見向きもしない。犬ばかりでなく、鶏どももコプラは好物のようである。その若い女のたどたどしい日本語の説明を聞くと、この家の動物どもの中で一番威張っているのはやはり犬だそうだ。犬がいない時は豚が威張り、その次は山羊だという。バナナも出してくれたが、熟し過ぎていて、餡を嘗めているような気がした。ラカタンとてこの島のバナナの中では最上種の由。
独木舟の置いてある室の奥に、一段床を高くした部屋があり、其処に家族らが蹲ったり、寝そべったりしているらしい。明り取りが無くて薄暗いので、隅の方は良く判らないが、此方から見る正面には、一人の老婆が傲然と──誠に女王の如く傲然と踞坐して煙草を吸っている。そうして、外からの侵入者に警戒するような・幾分敵意を含んだ目で、私の方を凝乎と見ている様子である。あれは誰だと、若い女に聞けば、ワタシノダンナサンノオ母サンと答えた。威張っているね、と言うと、一番エライカラと言う。
その薄暗い奥から、十歳ばかりの痩せた女の子が、時々独木舟の向う側まで出て来ては、口をポカンとあけて此方を覗く。この家の者は皆きちんとした服装をしているのに、この子だけはほとんど裸体である。色が気味悪く白く、絶えず舌を出して赤ん坊の様にベロベロ音を立て、涎を垂れ、意味も無く手を振り足を摺る。白痴なのであろう。奥から、女王然たる老婆が喫煙を止めて、何か叱る。烈しい調子である。手に何か白いきれを持ち、それを振って白痴の子を呼んでいる。女の子が側へ戻って行くと、怖い顔をしながら、それをはかせた。パンツだったのである。「あの児、病気か?」と私がまた若い女に聞く。頭ガワルイという返辞である。「生れた時からか?」「イイヤ、生レタトキハ良カッタ。」
大変愛想のいい女で、私がバナナを喰べ終ると、犬を喰わぬかと言う。「犬?」と聞き返す。「犬」と、女はその辺に遊んでいる・痩せた・毛の抜けかかった・茶色の小犬を指す。一時間もかかれば出来るから、あれを石焼にして馳走しようというのだ。一匹まるのまま、芭蕉の葉か何かに包み、熱い石と砂の中に埋めて蒸焼にするのである。腸だけ抜いた犬が、そのまま、足を突張らせ歯をむき出して膳の上に上されるのだという。
ほうほうの態で私は退却した。
出がけに見ると、家の入口の左右に、黄と紅と紫との鮮やかなクロトンの乱れ葉が美しく簇っていた。
Ⅳ
月曜島には、公学校校長の家族の外に内地人はいない。
朝、校長の官舎で食事をしていると、遠くから歌声が聞えて来る。愛国行進曲だ。多くの子供らの声とすぐに分った。声がだんだん近付いて来る。あれは何ですと聞けば、同じ方面の生徒らは一緒に登校させるのだが、その連中が、合唱しながらやって来るのだという。声は官舎の近くまで来ると、やんだ。途端に、トマレ! という号令が掛かる。玄関から外を見ると二十人ほどの島民児童がちゃんと二列に縦隊を作ってやって来ているのだ。先頭の一人は紙の日の丸を肩にかついでいる。その旗手が、再び、ヒダリ向ケヒダリ! と号令をかけた。一同が校長の家に向って横隊になる。と、一斉に、オハヨウゴザイマスと言いながら頭を下げた。それから、また、先頭の腫物だらけの旗手が、ミギ向ケミギ! 前ヘススメ! をかけて、一行は、愛国行進曲の続きを唱いながら、官舎の隣の学校の方へと曲って行く。官舎の庭には垣根が無いので、彼らの行進が良く見える。背丈が(恐らく年齢も)恐ろしく不揃いで、先頭には大変大きいのがいるが、後の方はひどく小さい。夏島あたりと違って余り整ったなりをしている者は無い。みんな、シャツを着ているとはいうものの、破れている部分の方が繋がっている部分より多そうなので、男の子も女の子も真黒な肌が到る所から覗いている。足はもちろん全部跣足。学校から給与されるのか、感心に鞄だけは掛けているようだ。てんでに、椰子の果の外皮を剥いたものを腰にさげているのは、飲料なのである。それらのおんぼろをぶら下げた連中が、それぞれ足を思い切り高く上げ手を大きく振りつつ、あらん限りの声を張上げて(校長官舎の庭にさし掛かると、また一段と声が大きくなったようだ)朝の椰子影の長く曳いた運動場へと行進して行くのは、なかなかに微笑ましい眺めであった。
その朝は、他に二組同じような行進が挨拶に来た。
夏島で見た各離島の踊の中では、ローソップ島の竹踊が最も目覚ましかった。三十人ばかりの男が、互いに向いあった二列の環を作り、各人両手に一本ずつ三尺足らずの竹の棒を持って、これを打合わせつつ踊るのである。あるいは地を叩き、あるいは対者の竹を打ち、エイサッサ、エイサッサと景気のいい掛声をかけつつ、廻り廻って踊る。外の環と内の環とが入違いに廻るので、互いに竹を打合わせる相手が順次に変って行く訳だ。時に、後向きになり片脚を上げて股の間から背後の者の竹を打つなど、なかなか曲芸的な所も見せる。撃剣の竹刀の撃合うような音と、威勢のいい掛声とが入り交って、如何にも爽やかな感じである。
北西離島のものは、皆、仏桑華や印度素馨の花輪を頭に付け、額と頬に朱黄色の顔料を塗り、手頸足頸腕などに椰子の若芽を捲き付け、同じく椰子の若芽で作った腰簑を揺すぶりながら踊るのである。中には耳朶に孔を穿ち、そこへ仏桑華の花を挿した者もある。右手の甲に、椰子若芽を十字形に組合せたものを軽く結び付け、最初、各人が指を細かく顫わせて、これを動かす。すると、たちまち遠くの風のざわめきのような微妙な音が起る。これが合図で踊が始まる。そうして、掌で以て胸や腕のあたりを叩いてパンパンという烈しい音を立て、腰をひねり奇声を発しつつ、多分に性的な身振を交えて踊り狂うのである。
歌の中でも、踊を伴わないものは、全部といって良い位、憂鬱な旋律ばかりであった。その題名にも、すこぶるおかしなものが多い。その一例。シュック島の歌。「他人の妻のことを思わず、己が妻のことを考えましょう。」
夏島の街で見た或る離島人の耳。幼時から耳朶を伸ばし伸ばしした結果らしく、一尺五寸ばかりも紐のように長く伸びている。それを、鎖でも捲くように、耳殻に三廻ほど巻いて引掛けている。そういう耳をしたのが四人並んで、すまして洋品店の飾窓を覗いていた。
その離島へ行ったことのある某氏に聞くと、彼らは普通の耳をもった人間を見ると嗤うそうである。顎の無い人間でも見たかのように。
また、こういう島々に永くいると、美の規準について、多分に懐疑的になるそうだ。ヴォルテエル曰く、「蟾蜍に向って、美とは何ぞやと尋ねて見よ。蟾蜍は答えるに違いない。美とは、小さい頭から突出た大きな二つの団栗眼と、広い平べったい口と、黄色い腹と褐色の背中とを有つ雌蟾蜍の謂だと。」云々。
Ⅴ
断崖の白い・水の豊かな・非常に蝶の多い島。静かな昼間、人のいない官舎の裏に南瓜の蔓が伸び、その黄色い花に、天鵞絨めいた濃紺色の蝶々どもが群がっている。
島民の姿の見えないソンソンの夜の通りは、内地の田舎町のような感じだ。電燈の暗い床屋の店。何処からか聞えて来る蓄音機の浪花節。わびしげな活動小屋に「黒田誠忠録」がかかっている。切符売の女の窶れた顔。小舎の前にしゃがんでトーキイの音だけ聞いている男二人。幟が二本、夜の海風にはためいている。
タタッチョ部落の入口、海から三十間と離れない所に、チャモロ族の墓地がある。十字架の群の中に、一基の石碑が目につく。バルトロメス・庄司光延之墓と刻まれ、裏には昭和十四年歿九歳とあった。日本人にして加特力教徒だった者の子供なのであろう。周囲の十字架に掛けられた花輪どもはことごとく褐色に枯れ凋み、海風にざわめく枯椰子の葉のそよぎも哀しい。(ロタ島の椰子樹は最近虫害のためにほとんど皆枯れてしまった。)目に沁みるばかり鮮やかな海の青を近くに見、濤の音の古い嘆きを聞いている中に、私は、ひょいと能の「隅田川」を思い浮かべた。母なる狂女に呼ばれて幼い死児の亡霊が塚の後からチョコチョコ白い姿を現すが、母がとらえようとすると、またフッと隠れてしまうあの場面を。
あとで公学校の島民教員補に聞くと、この子の両親(経師屋だったそうだ)は子供に死なれてから間もなくこの地を立去ったということである。
宿舎としてあてがわれた家の入口に、珍しく茘枝の蔓がからみ実が熟してはぜている。裏にはレモンの花が匂う。門外橘花猶的皪、牆頭茘子已斕斑、というのは蘇東坡(彼は南方へ流された)だが、ちょうどそっくりそのままの情景である。但し、昔の支那人のいう茘枝と我々の呼ぶ茘枝と、同じものかどうか、それは知らない。そういえば、南洋到る所にある・赤や黄の鮮やかなヒビスカスは、一般に仏桑華といわれているが、王漁洋の「広州竹枝」に、仏桑華下小廻廊云々とある、それと同じものかどうか。広東あたりなら、この派手な花も大いにふさわしそうな気がするが。
Ⅵ
日曜の夕方。
鳳凰樹の茂みの向うから、疳高い──それでいて何処か押し潰されたような所のある──チャモロ女の合唱の声が響いて来る。スペインの尼さんの所の礼拝堂から洩れてくる夕べの讃美歌である。
夜。月が明るい。道が白い。何処やらで単調な琉球蛇皮線の音がする。ブラブラと白い道を歩いて見た。バナナの大きな葉が風にそよいでいる。合歓の葉が細かい影をハッキリ道に落している。空地に繋がれた牛が、まだ草を喰っている様子である。何か夢幻的なものが漂い、この白い径が月光の下を何処までも続いているような気がする。ベコンベコンという間ののびた蛇皮線の音は相変らず聞えるが、何処の家で鳴らしているのか、一向に判らぬ。その中に、歩いていた細い径が、急に明るい通りに出てしまった。
出た角の所に劇場があって、その中から頻りに蛇皮線の音が響いて来る。(だが、これは、先刻から私の聞いて来た音とは違う。私の道々聞いて来たのは、劇場のそれのような本式の賑かなのではなく、余り慣れない手が独りでポツンポツンと爪弾していたような音だった)此処は沖縄県人ばかりのための──従って、芝居は凡て琉球の言葉で演ぜられる──劇場である。私は、何ということなしに、小屋の中へはいって見た。相当な入りだ。出しものは二つ。初めのは標準語で演ぜられたので、筋は良く判ったが、極めて愚劣なくすぐり。第二番目の、「史劇北山風雲録」というのになると、今度は言葉がさっぱり分らない。私にはっきり聴き取れたのは「タシカニ」(この言葉が一番確実に聞き分けられた。)「昔カラコノカタ」「ヤマミチ」「トリシマリ」などの数語に過ぎぬ。かつてパラオ本島を十日ばかり徒歩旅行した時、途を聞く相手が皆沖縄県出の農家の人ばかりで、全然言葉が通じないで閉口したことを憶い出した。
芝居小舎を出てから、わざわざ廻り道をして、チャモロ家屋の多い海岸通りを歩いて帰った。この路もまた白い。ほとんど霜が下りたように。微風。月光。石造のチャモロの家の前に印度素馨が白々と香り、その蔭に、ゆったりと牛が一匹臥ている。牛の傍にいやに大きな犬が寝ているなと思って、よくよく見たら山羊であった。
底本:「山月記・李陵 他九篇」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年7月18日第1刷発行
2003(平成15)年4月15日第15刷発行
底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房
1976(昭和51)年3月15日
初出:「南島譚」今日の問題社
1942(昭和17)年11月
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年4月14日作成
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