氷れる花嫁
渡辺温
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1 (溶明)晴れたる空。輝く十字架──教会の屋根だ。
2 教会。結婚式──青年とその十五になったばかりの可愛らしい花嫁と。──花と、音楽と。
3 春の港に浮べる新造船。
4 帆柱の尖端に飜る船旗。──新しき五月の花よ。モンテ・カルロへ! 万歳!──と書かれてある。
5 船室には、青年と可愛い花嫁とがモンテ・カルロへ新婚旅行をするので乗り込んでいた。
6 二人は勿論恋人同志だったから、深く愛し合った。
7 出帆。──注意、この航海は処女航海である。
8 肥った船長。黒ん坊の運転士。大ぜいの水夫たち。
9 舵手──一心に舵輪を廻している。
10 だが! 船尾に到ってよくよく見るならば、この船には全く一つの舵もついていないのだ。
造船工がヒョッとして付け忘れてしまったのらしい。そしてそのことを舵手を始め、船長も誰も知らないとは、ああ、なんたる失敗であろう!
11 風景。
12 大洋を走る運命の船。
13 楽しい航海生活。──遊戯や、踊りや、酒や……。
14 一等船客たちの華美なる舞踏会。
15 青年とその美しい花嫁も踊っている。
16 突然花嫁は卒倒しかける。叫ぶ。
「あたし、寒くて寒くて、凍えそうだわ!」
17 青年はびっくりして、花嫁の華車な人形のような体を抱き上げる。
青年の顔に恐怖の色。叫ぶ。
「ガタガタ慄えているね。お前は熱病にかかったのだ!」
18 船客たちのどよめき。
「熱病!」
「熱病……」
「印度洋の熱病だ!」
「印度洋の熱病だ‼」
19 青年は花嫁の体を腕にかかえて、
20 そして船室のベッドへ運ぶ。
21 船医が診察する。首を大きく振って、
「印度洋の特有な悪性の瘧らしい」
22 忽ち船全体に大袈裟な消毒が始まる。
23 しかし、すでに遅く、悪疫は船内に瀰漫しつつあった。まず花やかな薄羅に包まれた淑女たちが、それから紳士と船員が次々にたおれた。みんな恐ろしい寒気を身に感じて、そしてまるで「慄える玩具」のように劇しく絶え間なく戦慄した。
24 花嫁の枕辺で絶望している青年。青年自身も堪え難い寒気に襲われた。
25 船長室。──肥った船長はベッドの中で氷嚢に冷やされながら慄えていた。
26 黒ん坊の運転手は慄えながら神を祈った。
27 電信技師は慄える手先で辛うじて発信機を打つ。
──S・O・S! 印度洋にて。新しき五月の花──
28 帆柱高く上がる非常信号旗。
──我等、危険に瀕せり!──
29 ただ船底の火夫だけが丈夫で働いた。
30 羅針盤。不良──と書いた紙が貼ってある。
31 舵手室。舵手は蒼ざめて、厚まくれた外套にくるまりながら、決然たる態度で舵輪を廻している。
32 船尾。
33 舵機──舵のついていない心棒ばかりが波間に空しく廻転した。
34 大洋を走る運命の船。(溶暗)
35 長い夜。おそろしく泡立っている真っ暗な海面。
36 (溶明)朝。青年の船室。
37 青年ひどく厚く重ねた夜具の中で眼をさます。そして傍を見た。
38 花嫁がいない。
39 青年は周章てて船室を飛び出す。
40 一歩、船室を出るならば、ああ、見よ!
41 船は白皚々たる雪に埋もれていたではないか!
42 大雪の港の景色。
43 船は進路を誤って、アラスカへ着いたのであった。
44 青年は雪の甲板を走った。
45 はるかの船首に両手を上げて突っ立っている花嫁の姿。
46 青年は喜びの叫びを上げる。そして走り寄る。
47 しかし、花嫁は身動きもしなかった。
48 それもそのはずである。小いさな可愛い花嫁は、天へ向って両手を差しのべたまま、氷となって、固く固く凍りついて死んでいた。
49 そして、悲嘆にくれた青年が、その胸にいくら熱い泪をそそぎかけながらかき抱いても、氷の花嫁は再び生き返りはしなかった……。(溶暗)
底本:「新青年傑作選 爬虫館事件」角川ホラー文庫、角川書店
1998(平成10)年8月10日初版発行
初出:「新青年」
1927(昭和2)年4月号
入力:網迫、土屋隆
校正:山本弘子
2008年1月25日作成
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