中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註
宮本百合子
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父は、ものを書くのが特に好きというのではなかったようですが、一般にまめであった性質から、結局はなかなかの筆まめであるという結果になって居たと思います。
一生の間には、事務的な用向ではあるが夥しい度数の旅行をして居りますから、その都度書いてよこした寸簡類がもし今日迄保存されていたら、恐らく大した数にのぼって居たことでしょう。
どういうわけか、父が家族に宛てて書いた手紙類は実に小部分しかのこって居ません。日頃あんまり活々と生活していたし、最近の十数年は、手紙類も用向だけを、(一)(二)という風に箇条書にしてよこしたのが多かったため、音信の実際上の役割がすむと、そのまま忘られ、そして捨てられて行ったのかもしれません。或は又、父自身が帰って来て、その辺につみ重ねてある不用の来信を整理するとき、例の調子で自分から破って淘汰の仲間入りをさせてしまったこともあったでしょう。
今日、私共にとって纏った記念としてのこっているのは、明治三十七年一月から明治四十年頃まで父がイギリスに行っていた時代のエハガキ通信です。「ロンドン百景」「藻塩草」「浮世模様」などと題をつけて、殆ど三日にあげず種々雑多なエハガキを母葭江にあて、娘百合子にあて、当時二人の幼い息子であった国男、道男(亡)にあてて書いて居ます。三人の子供を抱いて留守を暮す若い母は、その一枚一枚を大切にとっていて、大きいアルバムに二つ、小さいの二つほどにぎっしりはめこまれて居ます。
父は東京に住んでいた家族にこのようにして書いていたばかりでなく、福島県の開成山に隠棲していた老母に、凡そこの二分の一ぐらいのエハガキだよりを送って居ます。当時は外国雑誌など珍らしかったので、老母のところには、父が写真説明を日本語で細かく書いたグラフィックなども沢山ありました。それらは、現在でも開成山の家の戸棚に、赤ラシャの布につつまれてしまってあります。
一九一八年に数ヵ月ニューヨークへ出かけた折の分も散逸してしまって居り、一九二九年五月、一家を引連れてヨーロッパ旅行した節のも、これぞというのがありません。この旅行の初めに、やはり父の気持ではエハガキ通信をつづけるつもりであったらしく、留守宅あてに「西欧行脚」という題で、これから送る通信なくさずとって置くように、と書いていますが、アルバムの様子で見ると、父自身やがて書き送らなくなってしまったようです。家には、そのようなハガキを待っているという人も居なかったし、不馴れな多人数での外国旅行で、さすがの父にも、この「西欧行脚」を完結することは不可能であった有様がうかがわれます。
以下に、折々の通信のほんの一部分を抄出し、これらの通信の書かれた当時の雰囲気紹介のため、懐しい父への愛着のため、娘の思い出によって註を附しました。
書簡(一)
註。イースタン・アンド・オリエンタルホテルの絵葉書。父のほかに「いが栗老人」などと自署された他の人々の寄書がある。ホテルの木立の間に父の筆で、雲を破って輝き出した満月の絵が描加えられてある。父は当時いつも「無声」という号をつかい、隷書のような書体でサインして居る。
書簡(二)
註。父は当時三十七歳。旧藩主上杉伯の伴侶としてイギリスに旅立った。留守宅の収入は文部省官吏とし月給半額。妻と三子あり。高等学校の学生であった頃から父の洋行したい心持はつよく、ロンドンやパリの地図はヴェデカの古本を買って暗記する位であった由。この知識が偶然の功を奏して、当時富士見町の角屋敷に官職を辞していた老父のところへ、洋行がえりの同県人と称して来て五十円騙った男を追跡し、それをとりかえしたという逸話さえある。しかしながら、遽しく船出して見れば、境遇上故郷に走せる思いはおのずから複雑であったのであろう。
書簡(三)
註。アフリカ海岸と飛島点々。父のペン画なり。
書簡(四)
註。左肩にスエズ運河を船が通過するところ右下には英語でニッポン、ユーセンカイシャ、S・Sビンゴマルと書かれた今日で見れば小さい客船の写真がある。凡そ二十年ほど後に、父は再びこの運河を、このハガキに所謂我妹子と子ららやからを伴って通ったのであった。母は旅行記の中に、スエズを通った日のことを書いているが、このようなハガキが遠い昔自分におくられたことを果して思い出していたであろうか。
書簡(五)の一
註。エッフェル塔のエハガキ。一九二九年の初秋には、このエッフェル塔にシトロエン6というイルミネーション広告が終夜明滅していた。父、母、妹たちはヴルヷール・ペレールのアパートメントに住み、百合子はヴォジラールの下宿の窓から、シトロエン6、シトロエン6、とせわしい明滅が、シャンゼリゼイの方に向って瞬くのを眺めた。
書簡(五)の二
註。巴里、エトワールのエハガキ。後年、日本の女詩人与謝野晶子の健やかな双脚をして思わずもすくませたりという凱旋門をめぐる恐ろしい自動車の疾駆は未だ見えず、二頭びきの乗合馬車がカツカツと二十世紀初頭の街路を通っている。
書簡(六)
註。ランガム・ホテル全景。第五階とことわりがきのしてあるところを辿ってホテルの窓を下からのぼって見ると、屋根部屋のすぐ下に当る。当時でもヨーロッパではホテルの階が上である程やすいということにかわりはなかったのであろう。
書簡(七)
註。右手に茶色に見えるのが、チャーリングクロス停車場であろうか。このエハガキのむこうから黄色い外套を着ぶくれた御者にあやつられて栗毛の馬二頭にひかれた乗合馬車が来る。広場の中央に一本ガス燈の立っている周囲を、四本の標で区切ったいとささやかな安全地帯があって、包をもった子供がそこへかけつけている。
書簡(八)
註。風車・乾草・小川は秋空をうつして流れている。農婦は赤い水汲桶を左右にかついで小川に向って来る。画中の女、戦の勝敗を知らず。
書簡(九)
註。この頃シベリアは郵便物が通れず通信すべてアメリカ経由でされている。このハガキは東京へ八月二十七日着している。殆ど四十日かかって、ハーフディンバアの沙翁の家の写真が母の許についたわけである。父がまだ出立しないうち、一夜本郷座でシェクスピアの「ハムレット」を川上音二郎一座が演ずるのを見物した。五つ位の娘であった私の茫漠とした記憶の裡に、暗くて睡い棧敷の桝からハッと目をさまして眺めた明るい舞台に、貞奴のオフェリアが白衣に裾まである桃色リボンの帯をして、髪を肩の上にみだし、花束を抱いて立っていた鮮やかな顔が、やきつけられたようにのこっている。
漱石がカーライルの旧屋を訪ねた時だけは帳面に自分の名を書いた。あの変り者のカーライルでも沙翁の家へ行ったときは自分の名など書く気になったのであろうかと面白い。ダンテの名もあるとハガキに父は書いているが、神曲の作者は沙翁がエリザベス女皇の劇場で活躍するより数世紀以前に白骨となっている。どこの、どの、神曲を書かさるるこれはダンテであったのだろうか。
書簡(一〇)
註。緑濃き野面に一本の桜桃の樹が丸く紅の実をたわわにつけている。その枝の下に一人の若い女が柔かい顎をあげて梢を仰いでいる。その顎のまわりに父はペンをとって細い一連の鎖とロケットとを描き、ロケットの心臓型の表には、はっきり小さくYと刻まれている。母の名は葭江である。
書簡(一一)
註。若い娘が三つのリンゴを掌の上に舞わして遊んでいる。イギリスの子供の生活にお手玉はあるのだろうか。お手玉はしなくなった娘は、ケンジントン、パアクの芝生で、これも老年に至った父とプッティング、グリーンをして戯れた。
書簡(一二)
註。漱石が明治三十三年にケムブリッジへ行ってそこの学生々活を観察し、次のように書いている。「こゝにて尋ねたる男の外二三の日本人に逢へり。彼等は皆紳商の子弟にして所謂ゼントルマンたるの資格を作る為め、年々数千金を費す」中略「彼等は午前に一二時間の講義に出席し、昼食後は戸外の運動に二三時間を消し、茶の刻限には相互に訪問し、夕食にはコレヂに行きて大衆と会食す。」とそして、そのような生活は漱石にとって「費用の点に於て、時間の点に於て又性格に於て、迚も調和出来ないから、ケムブリツヂもオクスフオードもやめにした」……と。
父の性格はケムブリッジ学生の生活と対立するような傾きのものではなかったと思われるが、三十七歳の良人であり父親である貧乏な学生として、テニスをやって見ても大して面白くもなれぬ父の正直な、境遇の相異をおのずから語っている心持を、今日私共はまことに親しみぶかく感じる。
一九二九年の初夏、父は百合子をつれて、ケムブリッジを訪ね、思い出のある大学の建築を一つ一つ説明してくれた。そして笑いながら、「何しろ馬、馬丁と猟犬を何匹も飼っているような学生がいたんだから、こっちは人並のつき合いも出来かねるようだったよ。教授から個人指導をうけるわけだが、そんな金もありゃしなかったしね」と語った。楡の木のかげの公園で、町の若者たちが、学生は休暇で一人も居ない晴々しさで、ホッケーをして遊んでいるのを見物した。
書簡(一五)
註。この便りにある写真は、今日も保存せられている。ケムブリッジのガウンを着、帽をいただき、当時の流行で、ひどく先の尖った髭をつけて居る。母はこういう髭を眺めるとき「マア、お父様ったら、こんな髭して!」と云ったものであった。父はその髭をもって帰朝し、九つばかりであった百合子は激しいよろこびと極りわるさと、心に描いていた父とちがっている現実の父の感じとに圧倒され、気分がわるくなったようであった。
書簡(一九)
註。この画というのは、巨大な軍服に白手袋の魯国が仰向きに倒れんとして辛くも首と肱とで体を支えている腹の上に、身長五分ばかりの眉目の吊上った日本兵がのって銃剣をつきつけているイギリス漫画である。三十二年後の今日の漫画家は果してどのようなカトゥーンを描かんと欲するか。
書簡(二〇)
註。黒白の漫画絵ハガキの右手にはケムブリッジ案内と書いた部厚な本を抱えた紳士を従えた市長が、胸に授を飾り、脱帽して高貴な訪問者に挨拶している。頭にタヷーンを高くまきつけ、白袍をまとった所謂インド王族がそれに勿体ぶった礼をかえしているうしろで三人の随伴者がかたまって、おい芝居がうまく行きすぎるぞ、という苦笑顔である。
英本国とインドとの関係、それにつれてのインド王族らに対する外交的儀礼をケムブリッジの学生らの若さが揶揄するところ、到って興が深い。更にこれらの若者が長じていつしかこの市長の役を演ずるに至るであろう過程に於て、罪なき笑劇は悲劇にかわるのである。
書簡(二一)
註。父はこの時代自転車にのっては、よくころがったことがあったらしい。その不如意なる父が目を瞠って少女の曲乗に感歎している様はまことに面白い。活動写真が真に迫る云々。幻燈のことであろうか。
書簡(二三)
註。面に黒ラシャを張って、ガラガラとフォールディングになった開きのついたデスクの上に、母は円ボヤの明るいラムプをつけた。その下で、雁皮紙を横綴にしたものへ、真書き筆で、こまごまと父への手紙をかく。雁皮紙は何枚も厚く重ねてこよりでとじられた。六歳である私は、そのデスクにやっと顎をのせるほどの背たけに成長している。母は、おかっぱの私の右手に筆を持たせ、我手をもち添えオトウサマ、ハヤクカエッテチョウダイ、ユリコと書かせるのであった。或夏の夜特別な燈火の下で母と子とがそうやっていたら、突然、桑田さんの方で泥棒! 泥棒! と叫ぶ声がして、バリバリ竹垣を踏破る音が起った。母は、さっと廻転椅子を立ち上るなり、物をも云わず庭に向ってまだ開け放されていた椽側の雨戸をしめた。宵の八時頃であったろうか。
書簡(二四)
註。キャップ、アンド、ガウンの大学生が街燈のガス燈によじのぼって灯屋をあけ煙草をすいつけようとしている。そこへ来かかったのは、太った体にガウンをゆさゆさと着、胸に白ネクタイを下げた学生監並にシルクハットにフロック、コオトのブルドック二人である。漫画の題はTRAPPED、大学スケッチ第八。
書簡(二五)
註。夜の歩道。一人の学生が巡査の帽子を失敬して一目散に走り出した。その代りに三角帽をのせられた本人。いそいで追っかけている後でうまく逃げろ! と燕尾服のズボンに片手を突こみ片手には手袋を振って声援しているもう一人の学生。更に一人は瓦斯街燈にからみついて他愛がない。遙か彼方から、重い体で学生監がかけつつある。
「EXCHANGE IS NO ROBBERY。」
書簡(二六)
註。この塗絵帳のことは、かすかに、かすかに思い出せる。エハガキ四枚が一頁に入っていて、羊と遊んでいる少女の絵などが線であらわされていた。母は私に絵具を買ってくれたろうか? 色をつけて父に送っただろうか? 覚えていない。私はきっと又母に手をもち添えられて、夜の燈の下で遠いところの父へ、その礼の手紙をかいたことであったろう。この本のほか、父は子供たちに折々様々のものを送ってくれた。両手にもつ柄のところに鈴のついた繩飛びの繩だの、臥かすと眼をつぶる人形だの。そういう箱を開いたとき、芳しく鼻をうった一種独特の西洋の匂いだの、その時分は全く珍しかったティッシュ・ペイパアのさらさらした手触りだのを、今も鮮明に感覚に甦らすことが出来る。
書簡(二七)
註。この時分の三人の子供達あてのエハガキの英文宛名は、大きい字で
Three little Froggs
in
Japan
とかかれている。
書簡(二八)
註。この写真が、あのコダックでとられたのであろうか。父が帰朝した日は雨ではあったし、子供の心に大きすぎる感動の数々で、私は白麻の洋服を着て、くたびれて、横浜から東京までの汽車の中では父の横へくっついて眠ってしまった。肩へ茶皮のケースに入った重いコダックをかけたまま。そして、誰かがそれをとろうとすると、半寝呆けながら「いや、お父様んだから百合ちゃんがもっていく」と拒みながら。
書簡(二九)
註。軽い夕飯を食っているのはグリーン色の縞のスカートに膝出したハイランダアである。炉辺にかけて、右手でパン切をかじり、片手の壺は牛乳か麦酒か。炉の前にフイゴが放り出されていて、床は不規則なごろた石をうずめてある。一つ一つ色ちがいなその石の面を飛びわたって、父は隙間もなく日本字を埋めている。藻塩草 150 とかかれているところは窓のカーテンであり、無声と署名するのに、わざわざマントルピースの上に置額を描いている。父とロンドンの生活とにまだその頃は在った閑静さ。
書簡(三〇)
註。おおこれは又何たる古典的「もうとるかあ!」燃えるような落日に森が黒い帯と連っている路を一人の美人が「もうとるかあ」を操縦して馳けている。坐席がびっくりする程高いオープンで、ギヤー・ブレーキ・ハンドルすべてが露出である。エンジンだけが覆われている。ハンドルは坐席に合わせてまるで低いところについているから、美人は愛嬌よい顔をこちらに向けつつも背中は痛々しい程の前屈みになっている。
だが、私は妻としての感情から、妻としてのこのエハガキをよんだ時母の心に何か戸惑いを生じたであろう瞬間の感情を察して微笑する。何故なら、父は大した考えなく一般的に、翼がなくて何処までも飛べる発明が出来るまで生きたいという心持を云っているのであるが、一通りこの夕焼空の上にかかれた文章を読むと、何だか、この世にそんなことが起る頃まで待つこそよけれ、待っていたがよいと云っているようで、そう云われているのは、留守をしている妻、自分であるかのような、妙な混雑を感じる。そして、子供らしくむっとして、其那頃まで待たされてはかなわない、という気がする母は、雁皮紙の便りに、この文章について何と書いたであろうか。それが知りたいと思う。
書簡(三二)
註。省吾は父の二弟であったと思う。東京帝大法科卒業の年に漂然とアメリカへ行ってしまった。熱心なホーリネス信者となって、多分明治三十九年の秋ごろ帰朝したが、間もなく中耳炎を患い手術後の経過思わしくなくて没した。父と性格は大変に異っていた。一本気な、やや暗い、劇しい気質であった。私は暫時であったがこの伯父から非常に愛された。沢山のバイブル物語をおそわった。小学一年生で、友達の告げ口をした時、つねられた。死の恐怖を知ったのはこの省吾伯父の没した時であった。
書簡(三三)
註。この年、父が事務的な用向をもってニューヨークへ赴き、二十歳ばかりの私も伴われた。郵船の伏見丸。左側に献立を印刷し、右手に松と二羽の丹頂鶴の絵を出した封緘にこのたよりはかかれている。裏の航路図に、インクであらましの船位がしるしてある。
書簡(三五)
註。一九二九年の一家総出のヨーロッパ旅行は、父の経済力にとって、又母の体力にとって、超常識な決断であった。父は、母を海外へつれてゆくについて、万一の場合、子供らから離れていては母がさぞ悲しいであろうと、長男夫婦、末娘までを一行に加えた。
私は二年前よりモスクヷに居り、五月マルセーユまで行って、家の一行と合した。母は、一生に一度は見て置きたいと云っていた外国旅行の間、驚くべき努力で毎日日記をつけた。父は母の永年の労をねぎらうためと、一九二八年八月一日に三男英男が自分から生命を断った、その悲愁から母の心持を転換させようとこの旅行を企てたのであった。母は一九三四年六月十三日に持病糖尿病から肺エソになって没した。後、母の残した日記を集めて「葭の影」という一冊をこしらえた。一九三五年四月十八日、父の第六十八回目の誕生日に、私が父を気に入りの浜作に招き、その席で「葭の影」という題名を父が思いついた。「葭の影」のこの日の条には、こう記されている。「七月廿七日、晴。涼し。前略。交際馴れた近藤氏はロシア語も自由であるらしく、種々とメヌーをくり返して注文された。羊肉の串焼を高く捧げて、一人の助手がそれを恭々しくぬいては客に供する、実にこと〴〵しい。そのうちに、この家独特のロシアの貴族? の一団によるバイオリンやヴオーカルがはじまり、婦人の出る時は、その度々電燈が消された──踊り手だけを照らしつゝ──」云々と。一九二九年以後ヨーロッパ、特にフランスの事情は一変して、漫遊客の数は今日劇減している、思えば我が一家は、世界事情が将に一転化しようとするその前夜、未だ夥しくヴルヴァールを彷徨していたアメリカ人の間に計らずも互していたのであった。
書簡(四〇)
註。この旅行へ出発した朝、車が本郷一丁目辺まで来た時、父は自分が紙入だか何か忘れて来ていることに気付いたのだそうであった。国男がいそいで引かえし、特急に間に合わせようとしたが到頭駄目であったので、金は電報為替にして送り、紙入その他は又別に送ったりした由。この秋、父は何年ぶりかで、計らず最後となった奈良の古美術足脚をしたのであった。
底本:「宮本百合子全集 第二十五巻」新日本出版社
1981(昭和56)年7月30日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「中條精一郎」国民美術協会
1937(昭和12)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年8月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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