美の日本的源泉
高村光太郎
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民族の持つ美の源泉は実に深く、遠い。その涌き出ずる水源は踏破しがたく、その地中の噴き出口は人の測定をゆるさない。厳として存在し、こんこんとして溢れて止まぬ其の民族を貫く民族特有の美の源泉は、如何なる外的条件のかずかずを並べ立ててみても説明しがたく、殆ど解析の手がかり無き神秘さを感じさせる。近寄ってこれを観れば、或は紛々として他と分ちがたい程の交流に接する時さえありながら、一歩退いてこれを眺めるとまがう方もない其の民族特有の美の地下泉は、あらゆる形態で到るところにあらわれる。如何なる他からの影響があっても一つの民族は一つの根源的な美の性質を失わない。これの失われる時はその民族が解消する時である。
世界美術史は斯かる民族の美の源泉間に行われる勢力交流の消長に外ならない。或る民族の美的源泉が強力な時、その美は世界に溢流する。或る民族の美の源泉が弱い時、それは多く一地方的存在としてのみ生存する。最も強大な美の源泉は、民族そのものが亡びても其の美の勢力を失わない。一民族を超えて世界の美の源泉となる。
斯くて現在の世界に美の大源泉を成すものが幾つか残った。エジプト─アッシリヤ系の美の大源泉は、考古学的時代からの数万年に亘るエジプト文化が生んだ所謂「死の書」の宗教に伴って、王と奴隷とを表現する雄渾単一な厖大な美の形式であり、今日でもその王は傲然として美の世界に君臨し、その鷹や猫は黒花崗岩の中に生きている。そして絶え間なく諸民族の新らしい美に多くの示唆と激励とを与えている。西暦三世紀に及んでエジプトの伝統芸術は既に終を告げたが、その美の大源泉はまだ世界に生きている。アッシリヤ亦然り。アッシリヤに聯関してアラビヤ、イラン系の美は中位の存在として長く今日につづいている。世界の美の源泉として最も猛威をふるっているのはギリシャ─ロオマ系と、ビザンチン─ゴチック系との二つであろう。共にアリヤン民族の美の大系譜である。今日の欧米諸民族の美の源泉は悉く此の二系統にその母体を持つ。欧洲に於ける如何に飛び離れた新らしい美も此の二系統の外に出る事は出来ない。彼等の美的教養の限界がそれをゆるさないのである。欧米の国力は殆ど世界を制覇していたので、今日まで彼等の美は即ち世界の美となった。ギリシャの円柱は現に東京丸の内にも立っている。これこそ美の世界性であって、人類の親和本能がこれを行わしめるのである。東亜に於ては古来漢民族の美の源泉が優勢を占めていて、東亜の美といえば即ち支那系の美であるように世界に認められていた。欧洲の学者の多くは日本の美をも支那系と目している。少くとも支那美の一傍系と見ているようである。大和民族に独立の美の一大源泉があって、まったく世界のいずくにも類を見ない特質を持っている事を正しく認識している者は少い。甚だしきは支那を学んで及ばざる者が日本の美だと考えている。日本の寺院建築は支那の建築を学んだが、その規模も輪奐の美もはるかに支那に及ばない。日本の仏教美術は支那に学んだが、摩崖の大も日本には無く、宋元の幽玄の深さも日本には見ないと説くのはただに欧米人ばかりではない。これこそ美の源泉そのものの相異を認識する力無き者の商量であるといわねばならない。
日本に於ける大和民族の美の源泉は深く神々の世の血統の中にある。幾千年の歴史の起伏を経て、美の相貌には種々の変化を見たが、美の本質に於ては今も太古の如くである。太古は今の如く新らしく、古事記は今日の書である。日本に於ける美の源泉は古来人知れず世界の一隅に涌きつづけていた。涌いては海に流れていたため、自尊気質の支那には素より認められず、まして日本を支那の属国ぐらいに長い間思っていた欧米諸民族には知られるわけもなく、独り天地の奥処に自らをますます深めていたのである。われわれの持つ美の源泉は今日までまだ人類の間によく知られなかった程新鮮無比、健康にして闊達な、又みやびにして姿高いものであり、それが日本美術史上の遺品の中にさまざまの形態となってあらわれている。私はその中から眼につく幾つかの例を挙げてわれわれ民族の美の特質が如何に世界に於ける新らしい美の源泉として、今後の人類文化に匡正と豊潤とを与うべきかをたずねてみよう。
埴輪の美
埴輪というのは上代古墳の周辺に輪のように並べ立てた素焼の人物鳥獣其の他の造型物であって、今日はかなり多数に遺品が発掘されている。これはわれわれの持つ文化に直接つながる美の源泉の一つであって、同じ出土品でも所謂縄文式の土偶や土面のような、異種を感じさせるものではない。縄文式のものの持つ形式的に繁縟な、暗い、陰鬱な表現とはまるで違って、われわれの祖先が作った埴輪の人物はすべて明るく、簡素質樸であり、直接自然から汲み取った美への満足があり、いかにも清らかである。そこには野蛮蒙昧な民族によく見かける怪奇異様への崇拝がない。所謂グロテスクの不健康な惑溺がない。天真らんまんな、大づかみの美が、日常性の健康さを以て表現されている。此の清らかさは上代の禊の行事と相通ずる日本美の源泉の一つのあらわれであって、これがわれわれ民族の審美と倫理との上に他民族に見られない強力な枢軸を成して、綿々として古今の歴史と風俗とを貫いて生きている。此の明るく清らかな美の感覚はやがて人類一般にもあまねく感得せられねばならないものであり、日本が未来に於て世界に与え世界に加え得る美の大源泉の一特質である。此の「鷹匠埴輪」の無邪気さと、やさしい強さと、清らかさとはよく此の特質を示している。美の健康性がここに在る。
法隆寺金堂の壁画
建国以来、日本にも国運上又は国政上に、危い、きわどい時機が幾度かあった。その所謂危機が外部から襲来した事もあり内部から爆発した事もある。そういう時、日本にはきまって不世出の大人物があらわれ、其の禍を断ち、却て更に国運の向上を来さしめている。あとから思うと不思議なくらいそれがうまく行っている。推古天皇の御代を、そういう危かった時代といっていいかどうか分らないが、思想上にも、国政上にも、どうしても解決しなければならない重大問題が前代から山のようにたまったままになっていて、ここで一歩をあやまれば取りかえしのつかないような事になるし、しかも最早一日も荏苒していられない土壇場に押しつめられたような時代であった。幸にも、その時聖徳太子のような曠古の大天才が此世に顕れて一切の難事業を実に見事に裁決させられた。国是は定まり、国運は伸び、わけて文化の一新紀元が劃せられた。美の領域に於ける太子の偉業は今日から見て実に世界大なものがある。
聖徳太子の日本美顕揚の御遺蹟は現に大和法隆寺に不滅の光を放っている。太子は比類なき聡明な知性を持たせられたと同時に極まりなき美の感性に富ませられ、又実に即決即断の明快な技術的手腕をも兼備させられた。太子の美的直覚の鋭く強く、決然として日本美の中核を把握せられてあやまるところなく、多くの外来の高僧や優秀な帰化工人等の意見を吟味させられ、取るべきは取り捨つべきは捨て、豊饒な大陸文化を十分に摂取しながら、よく日本独特の美の源泉を濁らしめず、現場の技術者等をも用捨なく指揮統率あらせられた御姿は実に颯爽たるものであった。
推古天皇十五年、太子によって建立せられた法隆寺の建築そのものが既にただの大陸寺院建築の模倣ではなく、立派な日本的理念の表現に基いているのは言う迄もないが、今問題にしようとする金堂壁画の美に至ってはますますその感を深くする。金堂四面の壁にそれぞれ画かれた浄土変相の図は大規模な模写事業が現今行われていたりして、既に説明を要しないほど世間に知れ渡っている。同様な構図の壁画が印度アジャンタ洞窟内にもあり、それとの比較が普通に行われ、以前にはその移植であるかのような説をなす者さえあったが、今日では印度発生の斯かる構図形式が西南アジア諸国の間を通過しているうちに、印度臭を脱却し、西域地方の特色に変貌し、それが支那朝鮮を経て日本に渡来したものと推定せられるようになった。その経過がどのようであろうとも、此の金堂の壁画は太子の息吹により純粋に日本美の諸要素に貫かれて、まったく他の如何なる国土にもない美を顕現している。写真に掲出した画面は西方阿弥陀浄土の一部であり、本尊阿弥陀仏の脇侍、向って右側の多分観世音菩薩の像であろうと思う部面の上半に過ぎないが、まことに美の一片は美の全体であると言われる通り、これだけでも其の壁画の美の如何なるものであるかを窺うに十分である。埴輪で見た清らかさの美が又此処にも在る。ここには又節度の美がある。高さの美がある。肉体を超えた精神至上の美がある。
仮にアジャンタ洞窟の壁画を想い出してみると、そこにはもっと、肉体性の卑近さがあり、なまなましさがあり、うるささがある。節度の美については殊に大和民族特有の規律を此処に見る。壁面にぐりぐり画をかくとか、建築の隅から隅までに彫刻を一ぱい彫りつけて立派だとする他民族の神経はわれわれから見ると野蛮である。印度、ビルマ、アナン、ジャワあたりの仏教建築をはじめ、欧洲に於けるゴシック建築の装飾彫刻の如き過剰の美は、美の最も高きものとはいいにくい。
金堂壁画の秀抜な節度ある描法と、気品の高さとはまだ世界に本当には知られていない高度な美の源泉であって、これまた将来人類一般の美意識鍛錬に重大な意味を持つものである。
夢違観音
法隆寺金堂の壁画が意味する日本美の源泉として、其の肉体性を超越した精神至上の美と高さの美と、その表現に当っての節度の美とを前に述べた。此の白鳳の遺作に加えて、もう一つ同時代の、しかも甚だしくその性格を異にする日本美の源泉となり得るものを挙げて置きたい。法隆寺に安置せられ、世に夢違観音と俗称せられる銅造観世音菩薩立像である。
夢殿、中宮寺を含む法隆寺一郭の中にわれらの美の淵源とすべき彫刻の充満していることはいうまでもない。金堂安置の薬師如来像のような聖徳太子御在世中の造像にかかるものや、同金銅釈迦三尊像や、所謂百済観音像や、夢殿の救世観世音菩薩像、中宮寺の如意輪観音と称する半跏像の如き一聯の神品は、悉く皆日本美の淵源としての性質を備えている。殊に夢殿の秘仏救世観世音像に至っては、限りなき太子讃仰の念と、太子薨去に対する万感をこめての痛惜やる方ない悲憤の余り、造顕せられた御像と拝察せられ、他の諸仏像とは全く違った精神雰囲気が御像を囲繞しているのを感ずる。まるで太子の生御魂が鼓動をうって御像の中に籠り、救世の悲願に眼をらんらんとみひらき給うかに拝せられる。心ある者ならば、正目には仰ぎ見ることも畏しと感ぜられる筈であり、千余年の秘封を明治十七年に初めて開いたのがフェノロサという外国人であったという事であるが、これは外国人だからこそ敢て為し得たというべきである。様式だけは北魏に則って造られているが、この破天荒とも言うべき表現の直接性は決して様式伝習の間から生れているのではなく、却て様式破綻から溢れ出る技術と精神気魄との作ったものである。作者がしゃにむになって、むしろ有る限りの激情をうちつけに具象化したものと考えられる。あらたかな御像という物凄いほどの力がその超越的な写実性から来る。作者が絶体絶命な気構で一気に此の御像を作り上げ、しかも自分自身でさえ御像を凝視するのが恐ろしかったような不思議な状態を想見することが出来る。藤原時代に早くも秘仏としておん扉を固く閉じ奉ることに定められたという事のいわれが分るような気がする。この御像にはあらゆる宗教的、芸術的約束を無視した、言わばただならぬものがあるのである。私は今日でもこの御像は再び秘仏として秘封し奉る方がいいのではないかとさえ思っている。たしかに太子が推古の御代を深くおもい給い、蒼生の苦楽をあわれませられ、更には衆生の発菩提心に大悲願をかけさせられる生御魂がここにおわすのである。多くの美学者によって言われるような、強勁とか厳正とか自若とか慈悲抱擁とかいうようなものだけでは余りよそよそしくて、この御像の真を伝え得ない。もっとあらたかな、おそろしいものがあることを感ずべきである。従ってこの御像の写真撮影は悉く失敗に帰している。この御像は日本彫刻美の淵源としてその随一な権威を持つものであるが、私が敢て写真を掲げないのはそういう理由に基いている。今後どのような優れた写真家が出てこの御像の真を撮影し得るようになるかは測り知れないが、恐らくその撮影はその写真家の命取りとなるであろうと想像される。
夢殿の救世観世音像は、こういう意味で古今を独歩する唯一無二の霊像であり、彫刻美としてのみ語るのはまことに心無きわざとなるのである。美の日本的源泉として飛鳥時代が持つ要素は、おしなべてその様式や性格の部分的抽出をゆるさない。それはすべて全体性から来て居り、美に於ける精神の優位を語る根本の問題である。様式のみからいえば大陸の六朝や隋の移入が目立ち、まだ土着自生の域に達していない。聖徳太子が法隆寺の建築其他に於て成し遂げられた大陸分子の濾過摂取の妙はまだ十分彫刻に於ては現れていない。天象風土に直接関係ある建築の方がかかる点に於て一歩先んじるようになるのは当然であるかもしれぬが、彫刻に於てはその様式踏襲の間にまがう方もなく日本的特質として現れて来る第一のものがまず仏像の骨相であった。白鳳天平に至るまでのその推移のあとをたずねると面白いが此は問題が別になる。
法隆寺東院絵殿に以前安置されていて今は綱封蔵にあるときく此の夢違観音は所謂天平前期にあたる作であるが、この像の持つ美の要素には十分注目すべきものがあり、日本美の特質を深く包蔵している。わずか二尺八寸余の小像であるが古来世人の恭敬愛慕絶ゆる事なく、悪夢を善夢とかえてくださる御仏として礼拝されて来たという。そういう伝説に値する美が確かにある。この像には既に大陸の影響が十分に消化せられて、日本美独特のものが備っているが、前に述べた清らかさ、高さ、精神至上、節度というようなものに加え、更に疑念なき人なつこさの美がある。これが大和民族の本能から来ているところに意味がある。大和民族はもともと豪壮勇敢な悲壮美に富んでいるが、また一方他に見られぬ疑念なき人なつこさの情にゆたかである。日本人は他民族を不思議に容易にうけ入れる。随分危険なほど明け放ちの性質を持っている。乗ぜられる弱点ともなるが、又これが強大の実力を伴う時民族親和の魅力ともなる。敵さえ包容する大度量ともなる。この像にはその美が「天にはうたがい無きものを」という高度の無垢にまで至っている。実例をあげていられないが、こういう清らかな人なつこさは世界の美の源泉中に類が無い。そして又この美は世界に一つの新らしい美を開く。
神護寺金堂の薬師如来
日本美術の精華を語るに当って、其例を天平期の諸仏像にとるのは世の常識である。これは当然の事であって、飛鳥白鳳の輸入期を超えて、其美が漸く純日本の形式に落着き、しかも技術の優秀、精神の高遠、共に古今に並びなき発達を遂げた時代であるから、およそ日本美術を語ろうとすれば、どうしても此時期の諸仏像を挙げざるを得ないのである。雄渾な構想に加えるに緻密な工匠的の美意識に富み、聡明な空間組成と鋭敏豊潤な色彩配置とを為し遂げたその純芸術力は世界にもこれに匹敵するもの甚だ稀である。僅にギリシャが之に対比し得るだけで、他には規模の厖大とか煩瑣な技術の目まぐるしい積みかさねとか、偏った末梢美の誇示とかいう類のものはあっても、よく美の中正を行き芸術の微妙な機能の公道を捉えているものは甚だ少い。その点で日本とギリシャとは性質は全く異っても美の世界に於ける二つの大道康衢を成すものである。
白鳳から天平へかけての諸仏像の壮麗さは筆紙に尽し難いものがある。まことに目もあやな景観で、その遺品だけを考えてもわずか百五六十年の間によくもこんなに多くの傑作が出来たものだと驚く外はない。いかに当時の仏像造顕そのものが国家の問題であり、又いかに造型意識そのものが直ちに信仰と倫理とにつながるものとして重大視されていたかを想見することが出来る。美は直ちに力であったのである。その美が競い立って相継いで芳香ある雰囲気を平城一円の地を中心に八方に漲らしていたのである。
夢違観音と同時代には新薬師寺の香薬師立像のような同型の美が作られていて、唐風様式の聡明な日本化が既に行われていた事を示す。
最も壮観を極めるものに薬師寺金堂の薬師三尊の巨大な銅造仏がある。古事記、日本書紀の出来た頃前後の作と思われるが、その端厳にして旺盛な仏徳発揚の力といい、比例均衡の美といい、造型技巧の完璧さといい、更に鋳金技術の驚くべき練達といい、まったく一つの不可思議である。唐の影響はよく淘汰され、大陸にもかかる優れた遺品は絶無である。同寺東院堂の銅造聖観音立像もこれに劣らぬ美の最もいさぎよきものである。
天平盛期となるとまず東大寺三月堂の乾漆の巨像不空羂索観音があり、雄偉深遠で、しかも写実の真義を極めている。写実はすべての天平仏の美の根源であって、その自然から汲み取ることの感謝とよろこびを斯くも正しく表現している時代は少い。同じ三月堂の塑造日光月光の両菩薩像もその傾向を推し進めたものであり、更に戒壇院の四天王像になると聡明な頭脳と余裕ある手腕とによる悠揚せまらぬ写実の妙諦に徹底している。
又一方には興福寺の十大弟子や八部衆のような近親感の強い純写生に基く諸作もあり、写生の極まるところ行信僧都や、鑑真和上のような肖像の神品となる。
奈良朝後期には唐招提寺や大安寺のような新様の形式が大陸の影響下に生れ、それが又日本美に一段の奥深さを加えて弘仁期への橋を成している。唐招提寺金堂には今でもそれらの巨像がずらりと並んでいる。聖林寺の十一面観音像は又これとは離れて独立した天平後期の雄大の気を示顕する。
今は原作を見るよしもないが、天平盛期にあたっていしくも聖武天皇は国家の総力をあげて東大寺に五丈余尺の金銅毘盧舎那仏を建立あらせられた。この記念碑的製作の様式についての民族的本能から来る美の採択は恐らく劃期的なものがあったであろう。それは内、国家を統一し、外、国力を唐天竺にまでも示し、日本が世界の美の鎔鉱炉であることを千幾百年の古しえ、世に示そうとされたのである。
斯くの如く天平期の日本芸術の美は絢爛を極めているが言い得べくんばこれはすべて完成綜合の美であって、真の意味での新らしい芽は無い。すべて飛鳥白鳳期に胚胎せられたものの進展成熟であり、例えば夢殿の救世観世音像に見るようなあの言語道断な、真剣な魂の初発性は見られない。
天平期の完成に伴う諸弊害を一掃せられた英邁な桓武天皇の平安遷都前後にあたってもう一度人心は粛然として真剣の気を取りもどした。
京都神護寺に厳存する木彫薬師如来立像を美の日本的源泉の一つとして今特記しようとするには説明がいる。この所謂弘仁期直前に製作せられた一木造りの如来像は世間普通には晩唐様式の模倣であってむしろ日本的性格の甚だ少いそれゆえ其様式もあまり永続きしなかったものとして考えられている。一応尤もなのであるが、さてその晩唐の本家たる大陸にこれだけの内容と技術とを持った優れた仏像は無い。その晩唐様式の影響というのは唯わずかに衣襞の線条の形式や全体の様式の形骸にとどまっていて、その生命とするところは晩唐のだらけた駄作とは根本的に正反対である。概して多くの写真は撮影のかげんで殆どその面影もわからないのであるが、此像の持つ真剣な原始力は世界に類を求め難いほど特異なものである。飛鳥白鳳や天平にもなかった精神内奥の陰影がその形象の上に深く刻みつけられている。刀刃を以て木材を刻み彫り成すことに造型の心理的意味が加わり、この棒立ちの薬師如来に精神形象の具体化が生れた。意力の発現がこれほど真摯に行われているものは少い。美の切実性は日本からこそ起るのが当然である。われわれは今斯の如き芸術を求める。われわれの祖先は斯の如きものを遺した。これを美の日本的源泉の一つとするかせぬかは、われわれ自身の意力の厚薄如何にかかっている。
藤原期の仏画
今日、日本画の特長を人が語る時多く水墨画の美を挙げる。外国人が最も心をひかれるのも水墨画であるという。現にさき頃仏印地方に日本画の展覧会を開いた時も最も好評を博したのは水墨画であったという事であり、従って今後外国で展覧会を開く時は水墨画を多く出陳する方がいいというような説まで耳にする。なるほど水墨画の類は日本支那に於て独特の発達を遂げちょっと外国では見られない美の深さにまで到達している。その点では確に日本の水墨画は、日本特殊の美の領域を堅持していて他の追随を許さない。
私は今、美の日本的源泉として日本芸術の根蔕に厳存していて今後ますます生成発展せしむべき諸性質を考えているのであるが、以上の事実にも拘らず、この水墨画偏重の理念には大に警戒すべきものがあると信ずる。
そもそも日本美の顕揚という事は決して日本の特殊美を以てのみ世界に臨もうとするのではないという事を十分注意すべきである。通俗的な意味で考えられる所謂日本的美という特殊性のみを追ってゆけば結局非常にせまい、限られた特質ばかりが残ってしまって、それらの性質のみを以て日本美を守るような消極的な気持に落ち込めば今後世界の美の諸源泉に立ち向う場合、ついに堂々たる態勢のものとなり得ない事となるのである。あれも日本的でない、これもいけないと排他的に考えるよりも、一切の善きもの、世界の美のあらゆる範疇を日本美に抱摂すべきであろう。つまり美のあらゆる範疇を日本美の健康性と清浄性とによって起死回生せしめねばならないのである。当今世界の近代美は爛熟と廃頽と自暴自棄とに落ち込んでいる。この一切をもう一度新鮮な黎明の美にかえさしめるのがわれわれ日本民族の仕事である。
水墨画の美、もとより日本美の雄なるものである。しかし日本に藤原期の仏画ある事を忘れてはならない。日本にも曾て交響楽的色彩の綜合美に成る芸術の専ら行われた時代のある事を銘記しなければならない。外国人がよく日本を色彩の国と称ぶ時それは浮世絵の色彩を意味する。版画のあの落ちついた好もしい色彩の美は結局板木とバレンとの工作によって自然に出る色彩の綜合的妙味であって、版画の隆盛期に於ける肉筆絵画が必ずしも同様の妙趣を持っていたのではない。試みに広重北斎あたりの肉筆の彩色画を見れば如何にその版画に於ける色彩との相違の甚だしいかを観る事が出来よう。私の意見では日本に於ける交響楽的色彩美の本質は藤原期にあり、鎌倉期以後はむしろ色彩の把握というよりも素描へ彩色を加えるという意味の方に傾いていると思える。
藤原期は、天平弘仁の彫刻隆盛の後をうけて絵画興隆の機運に恵まれた時代であり、一方には壁画をはじめとして大小の掛幅が作製され、又一方には宮廷生活の需要に応じた「源氏物語絵巻」のような絵巻物の類が創作せられた。いずれも色彩美のよろこびに溢れたものであって、壁画掛幅のような建築との色彩調和に俟つものは当然の事としても、絵巻物のような単独鑑賞の絵画にしても「源氏物語絵巻」の如きは「つくり絵」と謂われる胡粉ぬり重ねによる色彩の諧和豊麗を志している。もともと天平弘仁の彫刻そのものが既に色彩美を十全に発揮した造型であったのであるから、その後をうけた絵画が更に自由な規模による領域を発見してその色彩美をついに交響楽的綜合美にまで高めるに至ったのも自然である。
写真を掲げた一図は高野山に蔵せられる「聖衆来迎図」のほんの一部分、中央阿弥陀如来の向って右に跪坐する観世音菩薩の像である。此全画は又「二十五菩薩来迎図」とも称せられ、恵心僧都の筆という伝説のある絹本の大幅三幅に収められた一つの構図である。もとよりその全体を目前にしなければ説明もしかねるのであるが、何分にも竪六尺九寸、幅一丈にも余る大幅であるので、写真に縮小しては鮮明を欠くのでその一部分を掲げて描法の一端を示す事としたのである。幸い此の全画の写真はよく画集などに出ているので就て見る便宜も多い。もと比叡山に蔵せられたものであるという事であるが、叡山横川の僧都源信の「往生要集」に基く往生極楽の信仰をまのあたりに画きあらわした宗教画として、まことに壮麗無比、法悦無上の美が此処にある。「当に知るべし、是の時に仏は大光明を放ち、諸の聖衆と倶に来つて、引接し擁護したまふなり。惑障相隔てて見たてまつること能はずと雖も、大悲の願疑ふべからず。決定して此の室に来入したまふなり。」「命終らんとする時に臨み、合掌叉手して南無阿弥陀仏と称へしむ。仏の名を称ふるが故に、五十億劫の生死の罪を除き、化仏の後に従つて、宝池の中に生る。」こういう浄土教の雄大な幻想が、さながら色彩の交響楽となって藤原期の仏画の一々に遍満する。写真の観世音菩薩像にしても金銀五彩の調和そのものであり、且つ又その個々の色彩の質が持つ高度の美に至っては、如何に当時の画人の美意識の極度に洗煉されていたかがうかがわれる。殊に今日まで褪色もしないでいる紺青臙脂の美は比類がない。アニリン剤の青竹や洋紅に毒された世界近代の画人は此の前に愧死するに値する。東京在住の人は帝室博物館に所蔵せられて頻繁に展示せられる「白象普賢菩薩像」に接する機会が多い。此の同じ藤原期の仏画に接して日本に曾てあった色彩美の如何なるものであったかを実際に観られるがいい。色彩に於ける美の日本的源泉は決して低い浮世絵などの中に存在せずして、遠く高い藤原期にあり、しかもそれが絶妙のものである事を世界にもあまねく知らしめたい。そうしてわれわれは此の源泉から深く汲んで堂々たる交響楽的色彩美を今後の日本美の有力な一要素たらしめたい。
能面「深井」
以上私は、美の日本的源泉を説いて来た。ここにいう美の日本的源泉とは、単に美術上に於ける日本的美の性格とか、特質とかを意味するのではない。私の意図するところは、深くわれわれ民族の本能に根ざして他民族の美の理念と或は隔絶し、或は共通し、しかも世界に於ける美の健康な支持者として強力な気魄と実質とを持ち、ギリシャ、エジプト、ゴチック、支那というような異質の美の系統に対しても堂々たる位置を占め、殊に近代に於ける世界の美をその廃頽から再起せしめる事に十分に役立ち、今後われわれ民族の努力によって、今日迄甚だ特殊な一隅の美としてのみ世界の人等に認められていたような偏見を一掃すると共に、ますます幅びろな、高度な美の標準として世界に臨む者としての日本美の源泉的性質を考える事にあった。日本美は今後ますます成長し、豊満し、進展するに違いない。而しそれは決して手当り次第の栄養摂取によっては果されない。十分な自覚と静観とを以て我々の進むべき筋道を心得た上での事でなければならない。私はそういう事の一助にもと思って自分の所見を提示するのである。これまで此意味に於ける日本美の重要な源泉的諸分子を挙げて来たが、最後には矢張能面がよく代表する日本美の奥深い含蓄性について一言せねばならぬ。
能面の最も高き美は鎌倉末期から室町時代にかけて成就した。長い間の日本彫刻の伝統であった仏像彫刻が、鎌倉期の中興を経てついに再び廃頽堕落するに至った室町時代に及んで、その精粋が思いがけない能面のようなものに移り、此所に又別途の新らしい美を創り出した事は奇観である。芸術美が自然を離れれば必ず枯渇して、足利期仏像のような瑣末形式のくり返しに陥り、一度び自然に眼が開けば必ず新鮮の美が油然と起って、室町時代の能面のような幽玄微妙な神韻を創生するに至った事実はわれわれにとって無上の教訓となる芸術上の恐ろしい約束である。
背後に蔚然たる五山文学の学芸あり、世は南北朝の暗澹たる底流の上に立って興廃常なき中に足利義満等の夢幻の如き栄華は一時に噴火山上の享楽を世上に流通せしめた。この前後の芸術一般が持つ美には、それゆえ毎に無常迅速の哀感を内に孕み、外はむしろ威儀の卓然たるものがあった。猿楽は寺坊の間から起ってこれらの将軍と公卿との寵児となり、更に慰楽に飢えた民衆一般の支持をうけ、遠く辺陬の地にまで其の余光を分った。能面の急激な発達は斯くして成就せられたのである。仏像の彫刻がただ形式の踏襲に終始し、ただ工人的末梢技巧のめまぐるしい累積となり終った時、此の新興芸術たる物まねの生命たる仮面の製作には実に驚くべき斬新の美が創り出された。
能面は物まね演技の劇中人物を表現すべきものであるという条件が、その製作者をして勢い活世間の人間の面貌にまず注視を向けしめた。しかも仏像の類と違って賢愚雅俗のあらゆる人面の芸術的表現を余儀なくさせた。これは人を救う仏でなくて、仏に救われる煩悩の徒である。これは尊崇措かざる聖者の肖像ではなくして、浮世になみいる妄執に満ちた憐愍すべき餓鬼の相貌である。賢愚おしなべて哀れはかない運命の波に浮沈する盲亀の面貌である。彼岸の仏菩薩でなくて、吾が隣人であり、又自己そのものである。面打といわれる彫刻家の製作にあたっての生きいきした感慨は思いやられる。
こういう凡人の相貌を芸術化するという稀有な役割を持つ能面が、野卑な悪写実に走らずして、最も高雅な方向に向ったのは、一に当時の洗煉された一般的美意識によると共に、能楽という演技そのものが、その発祥を格式を尚ぶ社寺のうちに持ち、謡曲のうしろには五山の碩学が厳として控えて居り、啓書記、兆殿司、斗南、鉄舟徳済というような禅門書画家の輩出数うるに遑なきほどの社会的雰囲気の中に育ち、わけて天才世阿弥のような実技者のきびしい幽玄思想に導かれた事によるのである。
能面の美は演技上の必要から来た其の表情の縹渺性に多く基いている。喜怒哀楽をむき出しに表現せず、そのいずれでもなく、又そのいずれでもあるような、含みを深く湛えた美の性格を極限の境にまで追及して得た此の奥深い含蓄性は、世界に類を見ない美の日本的源泉として、今日われわれの内にこんこんと湧いて已まない無限の力を与えてくれる。「般若」のような激情の面でさえ、怒であると同時に、悲でもあり、のしかかる強さであると同時に、寂しい自卑自屈の弱さでもある。こういう類の表現は単にそれを理解する事だけですら、恐らく今日の世界に於ける美の感覚の程度では及び難いのではないかと考えられる。われわれは斯かる超高度美を感受し得る美的感覚を、今後あまねく世界の人々にすすめねばならぬ。此の源泉から得た力を更に時代と共に前進せしめねばならぬ。
奥深い含蓄性は元来東洋の持つ特性ではあるが、支那の持つこれと似たような性質とは根本から違っている。例えば倪雲林の墨画が代表するような含蓄性、又は幽玄性には、いつでも平かならざる抵抗性を内に蔵している。われわれ民族のものはそういう曲折を内に持たない。常に真正面から深く入りこんだ含蓄性、幽玄性なのである。写真の「深井」は中年の女性の美とさびしさと、その人生的な味いとを魂もろとも遺憾なく表現している。此写真を見ていると、いつしらず人間界の深い、遠いところに明滅する美の発光体を心に感ずる。「深井」に限らず、能面の美の牽引性はすべて造型と精神との一身同体から来ている。美の日本的源泉としての斯かる含蓄性は今後まるで違った芸術的表現の上にも大きな要素として生きるであろう。
底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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