黒百合
泉鏡花



      序


 越中の国立山たてやまなる、石滝いわたきの奥深く、黒百合となんいうものありと、語るもおどろおどろしや。姫百合、白百合こそなつかしけれ、鬼と呼ぶさえ、分けてこのすさまじきを、雄々しきは打笑い、さらぬは袖几帳そでぎちょうしたまうらむ。富山の町の花売は、山賤やまがつたぐいにあらず、あわれに美しき女なり。その名の雪の白きに愛でて、百合の名の黒きをも、濃い紫と見たまえかし。

    明治三十五年寅壬三月


       一


「島野か。」

 ひる少し過ぐる頃、富山県知事なにがしの君が、四十物町あえものちょうやしきの門で、活溌に若い声で呼んだ。

 呼ばれたのは、知事の君が遠縁の法学生、この邸に奇寓きぐうする食客しょっかくであるが、立寄れば大樹おおきの蔭で、涼しい服装みなり、身軽な夏服を着けて、帽を目深まぶかに、洋杖ステッキも細いので、猟犬ジャム、のほうずに耳のおおきいのをうしろに従え、得々として出懸けるところ、澄ましていたのが唐突だしぬけに、しかも呼棄よびずてにされたので。

 およそ市中において、自分を呼棄てにするは、何等なにらの者であろうと、且つあやしみ、且つ憤って、目をとがらして顔を上げる。

「島野。」

「へい、」と思わず恐入って、紳士はむことを得ずかしらを下げた。

勇美ゆみさんは居るかい。」と言いさまれ違い、門を入ろうとして振向いて言ったのは、十八九の美少年である。絹セルの単衣ひとえ、水色縮緬ちりめんの帯を背後うしろに結んだ、中背の、見るから蒲柳ほりゅうの姿に似ないで、眉もまなじりもきりりとした、その癖口許くちもとの愛くるしいのが、パナマの帽子を無造作に頂いて、絹の手巾ハンケチの雪のような白いのを、泥に染めて、何か包んだものを提げている。

 成程これならば、この食客的紳士が、因ってもって身の金箔きんぱくとする処の知事の君をも呼棄てにしかねはせぬ。一国の門閥もんばつ、先代があまねく徳をいた上に、経済の道よろしきを得たので、今も内福の聞えの高い、子爵千破矢ちはや家の当主、すなわち若君滝太郎たきたろうである。

「お宅でございます、」と島野紳士は渋々ながらうやうやしい。

「学校はやすみかしら。」

「いえ、土曜日はんどんなんで、」

「そうか、」とい棄てて少年はずッと入った。

「ちょッ。」

 その後を見送って、島野はつくづく舌打をした。この紳士の不平たるや、単に呼棄てにされて、その威厳の幾分をがれたばかりではない。たれも誰も一見して直ちにやかたの飼犬だということを知って、これを従えた者は、知事の君と別懇の者であるということを示す、きた手形のようなジャムのやつが、連れて出たおのれを棄てて、滝太郎の後から尾を振りながら、ちょろちょろと入ったのであった。

「恐れるな。小天狗こてんぐめ、」とさも悔しげに口の内につぶやいて、洋杖ステッキをちょいとついて、小刻こきざみに二ツ三ツつちの上をつついたが、ものうげに帽の前を俯向うつむけて、射る日をさえぎり、さみしそうに、一人で歩き出した。

「ジャム、」

 真先まっさきけて入った猟犬をまず見着けたのは、当やかた姫様ひいさま勇美ゆみ子という。襟は藤色で、白地にお納戸で薩摩縞さつまじま単衣ひとえ、目のぱッちりと大きい、色のくッきりした、油気の無い、さらさらした癖の無い髪をせなへ下げて、蝦茶えびちゃのリボンかざりかざしは挿さず、花畠はなばたけ日向ひなたに出ている。


       二


 この花畠は──門を入ると一面の芝生、植込のない押開おっぴらいた突当つきあたりが玄関、その左の方が西洋づくりで、右の方がまわり廊下で、そこが前栽になっている。一体昔の大名の別邸を取払った幾分の造作が残ったのに、くだんの洋風の室数まかずを建て増したもので、桃色の窓懸まどかけを半ば絞った玄関わきの応接所から、金々として綺羅きらびやかな飾附の、呼鈴よびりん巻莨入まきたばこいれ、灰皿、額縁などがれて見える──あたかもその前にわざとひなめいたあつらえで。

 日車ひぐるまつぼみを持っていまだ咲かず、牡丹ぼたんは既に散果てたが、姫芥子ひめげし真紅まっかの花は、ちらちらと咲いて、姫がものを言う唇のように、芝生から畠をかぎって一面に咲いていた三色菫さんしきすみれの、紫と、白と、くれないが、勇美子のその衣紋えもんと、そのきぬとの姿に似て綺麗である。

「どうして、」

 体はおおきいが、小児こどものように飛着いてまつわる猟犬のあたまをおさえた時、傍目わきめらないで玄関の方へ一文字にこうとする滝太郎を見着けた。

「おや、」

 同時に少年も振返って、それと見ると、芝生を横截よこぎって、つかつかと間近に寄って、

「ちょいとちょいと、今日はね、うんと礼を言わすんだ、拝んでいな。」と莞爾々々にこにこしながら、いきおいよく、棒を突出したようなものいいで、係構かけかまいなしに、何か嬉しそう。

 言葉つきなら、仕打なら、人の息女とも思わぬを、これがまた気に懸けるような娘でないから、そのまま重たげに猟犬のかしらうしろ押遣おしやり、顔を見て笑って、

「何?」

「何だって、大変だ、きてるんだからね。お姫様なんざあ学者の先生だけれども、こいつあ分らない。」とくだん手巾ハンケチの包を目の前へつまんでぶら下げた。その泥がにじんでいる純白まっしろなのを見て、傾いて、

「何です。」

「見ると驚くぜ、吃驚びっくりすらあ、草だね、こりゃ草なんだけれど活きてるよ。」

「は、それは活きていましょうとも。草でも樹でも花でも、みんな活きてるではありませんか。」という時、姫芥子の花は心ありげにたもとに触れてひらめいた。が、滝太郎はねたような顔色かおつきで、

「また始めたい、理窟をいったってはじまらねえ。可いからまあ難有ありがとうと、そういってみねえな、よ、いやならせ。」

「乱暴ねえ、」

「そっちアまた強情だな、可いじゃあないか難有う……と。」

「じゃアまああっちへ参りましょう。」

 と言いかけて勇美子は身を返した。塀の外をちらほらと人の通るのが、小さな節穴をすかしてはるかに昼の影燈籠かげどうろうのように見えるのを、じっみまもって、忘れたように跪居ついいる犬を、勇美子はてのひらではたと打って、

「ほら、」

 ジャムは二三尺飛退とびすさって、こちらを向いて、けろりとしたが、駈出かけだして見えなくなった。

「活きてるんだな。やっぱり。」といって滝太郎一笑す。

 振向いて見たばかり、さすがこれには答えないで、勇美子は先に立って鷹揚おうようである。


       三


「いらっしゃいまし。」

 縁側に手をつかえて、銀杏返いちょうがえしの小間使が優容しとやかに迎えている。後先あとさきになって勇美子の部屋に立向うと、たちまち一種身に染みるような快いかおりがした。縁の上も、床の前も、机の際も、と見るとかんばしい草と花とでみたされているのである。ある物は乾燥紙の上に半ば乾き、ある物は圧板おしいたの下に露を吐き、あるいは台紙に、紫、あか、緑、かば橙色だいだいいろ名残なごりとどめて、日あたりに並んだり。壁に五段ばかり棚を釣って、重ね、重ね、重ねてあるのは、不残のこらず種類の違った植物の標本で、中にはびんに密閉してあるのも見える。山、池、野原、川岸、土堤どて、寺、宮の境内、産地々々の幻をこの一室にめて物凄ものすごくも感じらるる。正面には、紫の房々とした葡萄ぶどうの房を描いて、光線をあしらった、そこにばかり日の影がして、明るいようで鮮かな、露垂るばかりの一面の額、ならべて壁に懸けた標本の中なる一輪の牡丹ぼたんくれないは、色はまだせ果てぬが、かえって絵のように見えて、薄暗い中へと入ったあるじの姫が、白と紫をかさねた姿は、一種言うべからざる色彩があった。

「道、」

「は、」と、いらえをし、大人しやかな小間使は、今座に直った勇美子と対向さしむかいに、紅革べにかわ蒲団ふとんを直して、

「千破矢様の若様、さあ、どうぞ。」

 帽子も着たままで沓脱くつぬぎ突立つったってた滝太郎は、突然いきなり縁に懸けてうしろざまに手を着いたが、不思議に鳥の鳴くがしたので、驚いて目をみはって、またてのひらでその縁の板の合せ目をおさえてみた。

「何だい、鳴るじゃあないか、きゅうきゅういってやがら、おや、可訝おかしいな。」

「お縁側が昔のままでございますから、もと好事ものずきでこんなに仕懸けました。鶯張うぐいすばりと申すのでございますよ。」

 小間使が老実立まめだっていうのを聞いて、滝太郎は恐入った顔色かおつきで、

「じゃあ声を出すんだろう、木だの、草だの、へ、色々なものが生きていら。」

「何をいってるのよ。」と勇美子は机の前に、整然ちゃんと構えながら苦笑する。

「どう遊ばしましたの。」

取為顔とりなしがおの小間使に向って、

「聞きねえ、勇さんが、ね、おい。」

「あれ、また、乱暴なことを有仰おっしゃいます。」と微笑ほほえみながら、道は馴々なれなれしくたしなめるがごとくに言った。

御容子ごようすにも御身分にもお似合い遊ばさない、ぞんざいなことばっかし。不可いけねえだの、居やがるだのッて、そんなことは御邸の車夫だって、部屋へ下って下の者同士でなければ申しません。本当に不可いけませんお道楽でございますねえ。」

「生意気なことをいったって、不可いけねえや、かしこまってるなあ冬のこッた。ござったのは食物でみねえ、夏向は恐れるぜ。」

「そのお口だものを、」といって驚いて顔を見た。

「黙って、見るこッた、折角お珍らしいのに言句もんくをいってると古くしてしまう。」といいながら、急いで手巾ハンケチほどいて、縁の上に拡げたのは、一つかみ、青いこけの生えた濡土である。

 勇美子は手を着いて、のぞくようにした。眉を開いて、艶麗あてやかに、

「何です。」

 滝太郎はせなを向けてぐっと澄まし、

「食いつくよ、活きてるから。」


       四


「まあ、若様、あなた、こっちへお上り遊ばしましな。」と小間使は一塊の湿った土をあえて心にも留めないのであった。

「面倒臭いや、そこへ入り込むと、かしこまらなけりゃならないから、沢山だい。」といって、片足を沓脱くつぬぎに踏伸ばして、片膝を立てておとがいを支えた。

「また、そんなことを有仰おっしゃらないでさ。」

「勝手でございますよ。」

「それではまあお帽子でもお取り遊ばしましな、ね、若様。」

 黙っている。心易立こころやすだてに小間使はわざとらしく、

「若様、もし。」

「堪忍しねえ、まぶしいやな。」

 滝太郎はさも面倒そうに言い棄てて、再び取合わないといった容子を見せたが、俯向うつむいて、足に近い飛石のほとりきっと見た。かれは炫いといって小間使に謝したけれども、今瞳を据えた、パナマの夏帽の陰なる一双のまなこは、極めて冷静なものである。小間使は詮方せんかたなげに、向直って、

「お嬢様、お茶を入れて参りましょう。」

 勇美子は余念なく滝太郎の贈物をながめていた。

珈琲コオヒイにいたしましょうか。」

「ああ、」

「ラムネを取りに遣わしましょうか。」

「ああ、」とばかりで、これも一向に取合わないので、小間使は誠に張合がなく、

「それでは、」といって我ながら訳も解らず、あやふやに立とうとする。

「道、」

「はい。」

冷水おひやが可いぜ、汲立くみたてのやつを持って来てくんねえ、後生だ。」

 といいも終らず、滝太郎はつかつかと庭に出て、飛石の上からいきなりつちの上へ手を伸ばした、はやいこと! つかまえたのは一疋の小さなあり

「おいらのせいじゃあないぞ、何だ、蟻のような奴が、たとえにもわあ、小さな体をして、動いてら。おう、堪忍しねえ、おいらのせいじゃあないぞ。」といいいい取って返して、縁側に俯向うつむいて、勇美子が前髪を分けたのに、眉を隠して、瞳をくだんの土産に寄せて、

「見ねえ。」

 勇美子は傍目わきめらないでいた。

 しばらくして滝太郎は大得意の色を表して、莞爾にっこ微笑ほほえみ、

「ほら、ね、どうだい、だから難有ありがとうッて、そう言いねえな。」

「どこから。」といって勇美子は嬉しそうな、そしてつむりを下げていたせいであろう、耳朶みみもとに少し汗がにじんで、まぶちの染まった顔を上げた。

「どこからです、」

「え、」と滝太郎は言淀いいよどんで、かおの色が動いたが、やがて事も無げに、

「何、そりゃ、ちゃんと心得てら。でも、あの余計にゃあ無いもんだ。こいつあね、蠅じゃあ大きくって、駄目なの、小さな奴なら蜘蛛くもの子位はやッつけるだろう。こら、こわいなあ、まあ。」

 心なく見たらば、群がった苔の中で気は着くまい。ほとんど土の色とまがう位、薄樺色うすかばいろで、見ると、柔かそうに湿しめりを帯びた、小さな葉がかさなり合って生えている。葉尖はさきにすくすくと針を持って、なめらかに開いていたのが、今蟻を取って上へ落すと、あたかも意識したように、静々と針を集めて、見る見る内に蟻をとりこにしたのである。

 滝太郎は、見て、そのげんあるを今更に驚いた様子で、

「ね、特別に活きてるだろう。」


       五


「何でもがけ裏か、やぶの陰といった日陰の、湿った処で見着けたのね?」

「そうだ、そうだ。」

 滝太郎は邪慳じゃけんに、無愛想にいって目も放さず見ていたが、

「ヤ、半分ばかり食べやがった。ほら、こいつあ溶けるんだ。」

「まあ、ここに葉のまわりの針のさきに、一ツずつ、小さな水玉のような露を持っててね。」

「うむ、水がかかって、たまっているんだあな、雨上りの後だから。」

「いいえ、」といいながら勇美子は立って、へやを横ぎり、床柱に黒塗の手提の採集筒と一所にある白金巾しろかなきん前懸まえかけを取って、襟へあてて、ふわふわと胸膝を包んだ。その瀟洒しょうしゃ風采ふうさいは、あたかも古武士がよろいを取って投懸けたごとく、白拍子が舞衣まいぎぬまとうたごとく、自家の特色を発揮してあまりあるものであった。

 勇美子はもとの座に直って、机の上から眼鏡レンズを取って、くだんの植物の上にかざし、じっと見て、

「水じゃあないの、これはこの苔が持っている、そうね、まあ、あの蜘蛛が虫を捕える糸よ。蟻だの、ぶゆだの、留まるとがさない道具だわ。あなた名を知らないでしょう、これはね、モウセンゴケというんです、ちょいとこの上から御覧なさい。」と、眼鏡レンズを差向けると、滝太郎は何をという仏頂面で、

つまらねえ、そんなものより、おいらの目がたしかだい。」といって傲然ごうぜんとした。

 しかり、名も形も性質も知らないで、湿地の苔の中に隠れ生えて、虫を捕獲するのを発見した。滝太郎がものを見る力は、また多とすべきものである。あらかじめ書籍ほんに就いて、その名を心得、その形を知って、且ついかなる処で得らるるかを学んでいるものにも、容易に求猟あさられない奇品であることを思い出した勇美子は、滝太郎がこの苔に就いて、いまだかつて何等の知識もないことに考えいたって、越中の国富山の一箇所で、しかも薄暗い処でなければ産しない、それだけ目に着きやすからぬ不思議な草を、不用意にして採集して来たことに思い及ぶと同時に、名は知るまいといって誇ったのを、にわかに恥じて、差翳さしかざした高慢な虫眼鏡を引込めながら、行儀悪くほとんど匍匐はらばいになって、頬杖ほおづえを突いている滝太郎の顔をみまもって、心から、

「あなたの目はこわいのね。」と極めて真面目まじめにしみじみといった。

 勇美子は年紀としも二ツばかり上である。去年父母に従うてこの地に来たが、富山より、むしろ東京に、東京よりむしろ外国に、多く年月を経た。父はさき仏蘭西フランスの公使館づきであったから、勇美子は母とともに巴里パリイに住んで、九ツの時から八年有余、教育も先方むこうで受けた、その知識と経験とをもて、何等かこの貴公子に見所があったのであろう、滝太郎といえばかねてより。……


       六


「よく見着けて採って来てねえ、それでは私に下さるんですか、頂いておいてもよろしいの。」

「だから難有ありがとうッて言いねえてば、はじめから分ってら。」と滝太郎は有為顔したりがおで嬉しそう。

「いいえ、本当に結構でございます。」

 勇美子はこういって、猶予ためらって四辺あたりを見たが、手をその頬のあたりもたらして唇を指に触れて、嫣然えんぜんとして微笑ほほえむとひとしく、指環ゆびわを抜き取った。玉の透通ってあかい、金色こんじきさんたるのをつッと出して、

「千破矢さん、お礼をするわ。」

 頤杖あごづえした縁側の目のさきに、しかき贈物を置いて、別にこころにも留めない風で、滝太郎はモウセンゴケを載せた手巾ハンケチの先を──ここに耳を引張ひっぱるべき猟犬も居ないから──つまんでは引きながら、片足は沓脱くつぬぎを踏まえたまま、左で足太鼓を打つ腕白さ。

「取っておいて下さいな。」

 まるで知らなかったのでもないかして、

「いりやしねえよ。さあ、とうとう蟻を食っちゃった、見ねえ、おい。」

 勇美子は引手繰ひったぐられるように一膝出て、わずかに敷居に乗らないばかり。

「よう、おしまいなさいよ。」といったが、はしたなくも見えて、き込む調子。

ほしかアありませんぜ。」

「おいや。」

「それにゃ及ばないや。」

「それではお礼としないで、あの、こうしましょうか、御褒美。」と莞爾にっこりする。

「生意気を言っていら、」

 滝太郎は半ば身を起して腰をかけて言い棄てた。勇美子は返すべき言葉もなく、少年の顔を見るでもなく、モウセンゴケに並べてある贈物を見るでもなく、目のり処に困った風情。年上の澄ましたうちにも、仇気あどけなさが見えて愛々しい。顔を少し赤らめながら、

「ただ上げては失礼ね、千破矢さん、その指環。」

「え、」と思わず手を返した、滝太郎の指にも黄金きん一条ひとすじはまっている。

「取替ッこにしましょうか。」

「これをかい。」

「はあ、」

 勇美子は快活に思い切った物言いである。

 滝太郎は目をつぶらにして、

不可いけねえ。こりゃ、」

「それでは、ただ下さいな。」

「うむ。」

「取替えるのがお厭なら。」

「止しねえ、おめえ、お前さんの方がよッぽどいや、素晴しいんじゃないか。おいらのこの、」

 とななめに透かして、

「こりゃ、つまらない。取替えると損だから、悪いことは言わないぜ、はははは、」と笑ったが、努めて紛らそうとしたらしい。

 勇美子は燃ゆるがごとき唇を動かして、動かして、

「惜しいの、大事なんですか。」

「うむ、大事なんだ。」といい放って、縁を離れてそのまますッくと立った。

けえったら何か持たして寄越よこさあ、邸でも、くらでも欲しかあ上げよう、こいつあ、後生だから堪忍しねえ。」

 勇美子もあわただしく立つ処へ、小間使は来て、廻縁の角へ優容しとやかに現れた。何にも知らないから、小腰をかがめて、

「お嬢様、いつぞの花売の娘が参っております。若様、もうお忘れ遊ばしたでしょう、冷水おひやは毒でございますよ。」


       七


 場末ではあるけれども、富山でにぎやかなのは総曲輪そうがわという、大手先。城の外壕そとぼりが残った水溜みずたまりがあって、片側町に小商賈こあきゅうどが軒を並べ、壕に沿っては昼夜交代に露店ほしみせを出す。観世物みせもの小屋が、氷店こおりみせまじっていて、町外まちはずれには芝居もある。

 ここに中空をしのいでえのきが一本、こずえにははや三日月が白くななめかかった。蝙蝠こうもりが黒く、見えては隠れる横町、総曲輪から裏の旅籠町はたごまちという大通おおどおりに通ずる小路を、ひとしきり急足いそぎあし往来ゆききがあった後へ、ものさみしそうな姿で歩行あるいて来たのは、大人しやかな学生風の、年配二十五六の男である。

 久留米の蚊飛白かがすり兵児帯へこおびして、少ししわになったつむぎの黒の紋着もんつきを着て、紺足袋を穿いた、鉄色の目立たぬ胸紐むなひもを律義に結んで、懐中物を入れているが、夕涼ゆうすずみから出懸けたのであろう、帽はかぶらず、髪の短かいのがうるしのようで、色の美しく白い、細面の、背のすらりとしたのが、片手に帯を挟んで、俯向うつむいた、紅絹もみきれで目を軽く押えながら、物思いをする風で、何か足許あしもと覚束おぼつかないよう。

 静かに歩を移して、もう少しでとおりへ出ようとする、二けん幅の町の両側で、思いも懸けず、わッ といって、動揺どよめいた、四五人の小児こども鯨波ときを揚げる。途端に足を取られた男は、横様にはたとつちの上。

「あれ、」という声、旅籠町の角から、白い脚絆きゃはん、素足に草鞋穿わらじばきすそ端折はしょった、中形の浴衣に繻子しゅすの帯の幅狭はばぜまなのを、引懸ひっかけに結んで、結んだ上へ、桃色の帯揚おびあげをして、胸高に乳の下へしっかとめた、これへ女扇をぐいと差して、膝の下の隠れるばかり、甲斐々々しく、水色唐縮緬とうちりめんの腰巻で、手拭てぬぐいを肩に当て、縄からげにして巻いた茣蓙ござかろげにになった、あきない帰り。町や辻では評判の花売が、曲角から遠くもあらず、横町の怪我けがを見ると、我を忘れたごとく一飛ひととびに走り着いて、転んだつちへ諸共に膝を折敷いて、たすけ起そうとする時、さまでは顛動てんどうせず、力なげに身を起して立つ。

「どこも怪我はしませんか。」と人目も構わず、紅絹を持った男の手にすがらぬばかりに、ひたと寄って顔をのぞく。

「やあい、やあい。」

盲目めくらやあい、按摩針あんまはり。」とはやしたので、娘は心着いて、きっと見て、立直った。

「おいらのせいじゃあないぞ、」

「三年先の烏のせい。」

 甲走かんばしった早口に言い交わして、両側から二列に並んでげ出した。その西の手から東の手へ、一条ひとすじの糸を渡したので町幅をって引張ひっぱり合って、はらはらと走り、三ツ四ツ小さな顔が、かわがわる見返り、見返り、

がんが一羽かかった、」

「懸った、懸った。」

「晩のおかずに煮て食おう。」と囃しざま、糸につながったなり一団ひとかたまりになったと見ると、おおきひさしの、暗い中へ、ちょろりと入って隠れてしまった。

  新庄しんじょ通れば、いばらと、藤と、

藤が巻附く、茨が留める、

  茨放せや、帯ゃ切れる、

      さあい、さんさ、よんさの、よいやな。

 と女の子のあどけないのが幾たりか声を揃えて唄うのが、町を隔てて彼方あなたに聞える。

 二人は聞いて立並んで、黙って、顔を見てほっと息。


       八


小児こども衆ですよ、不可いけません。両方から縄を引張ひっぱって、軒下に隠れていて、人が通ると、足へ引懸ひッかけるんですもの、悪いことをしますねえ。」

「お雪さん、」と言いかけて、男はその淋しげな顔を背けた。声は、足をからんでたおされた五分を経ないのちにも似ず、落着いて沈んでいる。

「はい、どこも何ともなさいませんか。」

 お雪と呼ばれた花売の娘は、優しく男の胸の辺りで百合の姿のしおらしい顔を、傾けて仰いで見た。

「いえ、何、擦剥すりむきもしないようだ。」と力なく手を垂れて、膝の辺りをしずかはたく。

「まあ、砂がついて、あれ、こんなに、」と可怨うらめしそうに、袖についたほこりを払おうとしたが、ふと気を着けると、たもと冷々ひやひやと湿りを持って、まみれた砂も落尽くさず、またその漆黒な髪もしっとりと濡れている。男の眉はおのずからひそんで、紅絹もみきれで、赤々と押えた目のふちも潤んだ様子。娘は袂にすがったまま、荷を結えた縄の端を、思わず落そうとしてしっかり取った。

「今帰るのかい。」

「は……い。」

「暑いのに随分だな。」

 思入ってねぎらう言葉。お雪は身に染み、胸にこたえて、

「あなた。」

「ああ、」

「お医者様は、」

 問われて目をおさえた手がかすかに震え、

「悪い方じゃあないッていうが、どうも捗々はかばかしくはかぬそうだ。なりたけまあ大事にして、ものを見ないようにする方がいっていうもんだから、ここはちょうど人通の少い処、そっと目をふさいで探って来たので、ついとんだわな蹈込ふみこんださ、意気地いくじはないな、忌々いまいましい。」

 とさりげなく打頬笑うちほほえむ。これに心を安んじたか、お雪もやや色を直して、

「どうぞまあ、お医者様を内へお呼び申すことにして、あなたはおって、何にもしないでいらっしゃるようにしたいものでございますね。」

「それは何、懇意な男だから、先方さきでもそう言ってくれるけれども、上手なだけ流行るのでひまといっちゃあない様子、それも気の毒じゃあるし、何、寝ているほどの事もないんだよ。」

「でも、随分お悪いようですよ。そしてあの、お帰途かえりに湯にでもお入りなすったの。」

 考えて、

「え、なぜね。」

「おつむりが濡れておりますもの。」

「む、何ね、そうか、濡れてるか、そうだろう。医者がひやしてくれたから。」と、なじられて言開いいひらきをする者のような弱い調子で、努めて平気を装って言った。

「冷しますと、お薬になるんですか。」と袂を持つ手に力が入ると、男は心着いて探ってみたが、苦笑して

「おお、湿った手拭を入れておいたな、だらしのない、袂が濡れた。成る程女房おかみさんには叱られそうなこッた。」

「あれ、あんなことをいっていらっしゃるよ。」と嬉しそうに莞爾にっこりしたが、これで愁眉しゅうびが開けたと見える。

「御一所に帰りましょうか。」

「別々にこうよ、ちっとおだやかでないから。いや、大丈夫だ。」

「気を着けて下さいましよ。」


       九


 男女ふたりが前後して総曲輪そうがわへ出て、この町の角を横切って、往来ゆききの早い人中にまじって見えなくなると、小児こどもがまた四五人一団になってあらわれたが、ばらばらとけて来て、左右に分れて、もとのごとく軒下にしゃがんで隠れた。

 月の色はやや青く、蜘蛛くもはそのを営むのにせわしい。

 その時旅籠町はたごまちとおりの方から、同じこの小路を抜けようとして、薄暗い中に入って来たのは、一にんの美少年。

 パナマの帽を前下り、目も隠れるほど深く俯向うつむいたが、口笛を吹くでもなく、右の指の節を唇に当て、素肌に着た絹セルの単衣ひとえ衣紋えもんくつろげ──弥蔵やぞうという奴──内懐に落した手に、何か持って一心にみつめながら、悠々と歩を移す。小間使が言った千破矢の若君という御容子ごようすはどこへやら、これならば、不可いけねえの、居やがるのと、いけぞんざいなことも言いそうな滝太郎。

「ふん。」

 片微笑かたほえみをして、また懐の中をじっと見て、

「おいらのせいじゃあないぞ。」と仇口あだぐちつぶやいた。

「やあい、やい」

盲目めくらやあい。」

 小児こども一時いちどきどッと囃したが、滝太郎は俯向いたまま、突当ったようになって立停たちどまったばかり、形も崩さず自若としていた。

 膝の辺りへ一条ひとすじの糸がかかったのを、一生懸命両方から引張ひっぱって、

「雁が一羽懸った、」

「懸った、懸った、」と夢中になり、口々に騒ぎ立つのは、大方獲物が先刻さっきのごとく足を取られたと思ったろう。幼いものは、驚破すわというと自分の目を先にふさぐのであるから、敵の動静はよくも認めず、血迷ってただはしゃぐ。

 左右をみまわして、叱りもしない、滝太郎の涼しやかな目は極めて優しく、口許くちもとにも愛嬌あいきょうがあって、柔和な、大人しやかな、気高い、可懐なつかしいものであったから、南無三なむさん仕損じたか、逃後にげおくれて間拍子を失った悪戯者いたずらもの此奴こいつ羽搏はばたきをしない雁だ、と高をくくって図々しや。

「ええ、そっちを引張んねえ。」

「下へ、下へ、」

ゆるめて、くぐらせやい。」

「巻付けろ。」

 遊軍に控えたのまで手を添えて、からめ倒そうとする糸が乱れて、網の目のように、裾、袂、帯へ来て、懸ってははずれ、またまとうのを、身動きもしないで、たたずんで、目も放さず、面白そうに見ていたが、やや有って、ねらいを着けたのか、ここぞと呼吸を合わせた気勢けはい、ぐいと引く、糸が張った。

 滝太郎は早速に押当てていた唇を指から放すと、薄月うすづきにきらりとしたのは、さきに勇美子に望まれて、断乎として辞し去った指環である。と見ると糸はぷつりと切れて、足も、膝も遮るものなく、滝太郎の身は前へ出て、見返りもしないでと通った。

 そのまま総曲輪へ出ようとする時、背後うしろではわッといって、我がちにげ出す跫音あしおと

 蜘蛛の子は、糸を切られて、驚いて散々ちりぢりなり。

「貰ったよ。」

 滝太郎は左右をみまわし、今度ははばからず、袂から出して、たなそこに据えたのは、薔薇ばらかおり蝦茶えびちゃのリボン、勇美子が下髪さげがみを留めていたその飾である。


       十


 土地の口碑こうひ、伝うる処に因れば、総曲輪のかのえのきは、稗史はいしが語る、佐々成政さっさなりまさがその愛妾あいしょう、早百合を枝に懸けて惨殺した、三百年の老樹おいきの由。

 髪をつかんでつるし下げた女の顔の形をした、ぶらり火というのが、今も小雨の降る夜が更けると、樹のまたかかるというから、縁起を祝う夜商人よあきんどは忌みはばかって、ここへ露店を出しても、榎の下は四方を丸く明けて避ける習慣ならわし

 片側の商店あきないみせの、おびただしい、瓦斯がす洋燈ランプの灯と、露店のかんてらが薄くちらちらと黄昏たそがれの光を放って、水打った跡を、浴衣着、団扇うちわを手にした、手拭を提げた漫歩そぞろあるきの人通、行交ゆきちがい、立換たちかわってにぎやかなあかるい中に、榎のこずえ蓬々ほうほうとしてもの寂しく、風が渡る根際に、何者かこれ店を拡げて、薄暗く控えた商人あきんどあり。

 ともすると、ここへ、痩枯やせがれた坊主の易者が出るが、その者は、何となく、幽霊を済度しそうな、怪しい、そして頼母たのもしい、呪文を唱える、堅固な行者のような風采ふうさいを持ってるから、ひとの忌む処、かえって、底の見えない、霊験ある趣を添えて、誰もその易者が榎の下に居るのを怪しまぬけれども、今夜のはそれではない。

 今灯をけたばかり、油煙も揚らず、かんてらの火も新しい、店の茣蓙ござの端に、汚れた風呂敷を敷いて坐り込んで、物れた軽口で、

「召しませぬか、さあさあ、これは阿蘭陀オランダトッピイ産の銀流し、何方どなたもお煙管きせるなり、おかんざしなり、真鍮しんちゅうあかがね、お試しなさい。鍍金めっき、ガラハギをなさいましても、鍍金、ガラハギは、鍍金ガラハギ、やっぱり鍍金、ガラハギは、ガラハギ。」

 と尻ッぱねの上調子で言って、ほほと笑った。鉄漿かねを含んだ唇赤く、細面で鼻筋通った、引緊ひきしまった顔立の中年増ちゅうどしま年紀としは二十八九、三十でもあろう、白地の手拭てぬぐいあねさんかぶりにしたのに額は隠れて、あるのか、無いのか、これで眉が見えたらたちまち五ツばかりは若やぎそうな目につく器量。垢抜あかぬけして色の浅黒いのが、しぼりの浴衣の、のりの落ちた、しっとりと露に湿ったのを懊悩うるさげにまとって、衣紋えもんくつろげ、左の手を二の腕の見ゆるまで蓮葉はすはまくったのを膝に置いて、それもこの売物の広告か、手に持ったのは銀の斜子打ななこうちの女煙管である。

 氷店こおりみせ白粉首しろくびにも、桜木町の赤襟にもこれほどの美なるはあらじ、ついぞ見懸けたことのない、大道店の掘出しもの。流れ渡りの旅商人たびあきんどが、因縁は知らずここへ茣蓙ござを広げたらしい。もっとも総曲輪一円は、露店も各自てんでんに持場がきまって、駈出かけだしには割込めないから、この空地へ持って来たに違いない。それにしても大胆な、女の癖にと、珍しがるやら、あやしむやら。ここの国も物見高で、お先走りの若いのが、早や大勢。

 婦人おんなは流るるような瞳をめぐらし、人だかりがしたのを見て、得意な顔色かおつき

「へい、鍍金めっきは鍍金、ガラハギはガラハギ、品物に品が備わりませぬで、一目見てちゃんと知れる。どこへ出しても偽物いかものでございますが、手前商いまする銀流しを少々、」と言いかけて、膝に着いた手をうしろへ引き、煙管を差置いて箱の中の粉を一捻いちねんし、指を仰向あおむけて、前へ出して、つらりと見せた。

「ほんのわずかばかり、一つまみ、手巾ハンケチ、お手拭の端、きれくず、お鼻紙、お手許お有合せの柔かなものにちょいとつけて、」

 婦人おんなは絹の襤褸切ぼろきれくだんの粉を包んで、俯向うつむいて、真鍮の板金を取った。

 お掛けなさいまし、お休みなさいましと、間近な氷店で金切声。夜芝居よしばいの太鼓、どろどろどろ、はるかに聞える観世物みせものの、評判、評判。


       十一


「訳のないこと、子供しゅでも誰でも出来る。ちょいと水をつけておいて、柔かにぐいぐいとこうりさえすりゃ、あい、たか化してはととなり、からかさ変わって助六となり、田鼠でんそ化してうずらとなり、真鍮変じて銀となるッ。」

雀入海中為蛤すずめかいちゅうにいってはまぐりとなるか。」と、立合のうちから声を懸けるものがあった。

 婦人おんなはその声のぬしを見透そうとするごとく、人顔をじろりと見廻わし、黙って莞爾にっこりして、また陳立のべたてる。

「さあさあ召して下さい、召して下さいよ。御当地は薬が名物、津々浦々までも効能が行渡るんでございますがね、こればかりは看板を掛けちゃ売らないのですよ。一家秘法の銀流ぎんながし、はい、やい、お立合のお方は御遠慮なく、お持合せのお煙管なり、おかんざしなり、これへ出しておためしなさいまし、目の前で銀にしておなぐさみに見せましょう、御遠慮には及びません。」

 といってちょいと句切り、煙管を手にして、たばこひねりながら、動静を伺って、

「さあさあ、誰方どなたでもどうでござんす。」

 若い同士耳打をするのがあり、尻をつついて促すのがあり、中には耳を引張ひっぱるのがある。止せ、と退しさる、遣着やッつけろ、と出る、ざまあ見ろ、と笑うやら、痛え、といって身悶みもだえするやら、一斉に皆うようよ。有触れた銀流し、汚い親仁おやじなら何事もあるまい、いずれ器量が操る木偶でくであろう。

ねえや。」

 この時、人の背後うしろから呼んだ、しかしこれは、前に黄な声を発して雀海中にってを云々うんぬんしたごとき厭味いやみなものではない。すずしい活溌なものであった。

 婦人おんなきっ其方そなたを見る、トまた悪怯わるびれず呼懸けて、

「姉や、姉や。」

「何でございますか、は、わたくし、」

「指環でも出来るかい。」

「ええ、出来ますとも、何でもお出しなさいましよ。」

「そう、」と極めてその意を得たという調子で、いそいそずッと出て、店前みせさきつちへ伝法にかがんだのは、滝太郎である。遊好あそびずきの若様は時間に関らず、横町で糸を切って、勇美子の頭飾かみかざりをどうして取ったか、人知れずたなそこもてあそんだ上に、またここへ来てその姿をあらわした。

 滝太郎は、さすがに玉のような美しい手を握って、猶予ためらわず、売物の銀流のの包、お験しの真鍮板、水入、絹の切などを並べた女の膝の前に真直まっすぐに出した。指環のきらりとするのを差向けて、

「こいつを一つってくんねえな。」

 立合の手合はもとより、世擦れて、人馴れて、この榎の下を物ともせぬ、弁舌のさわやかな、見るから下っ腹に毛のない姉御あねごも驚いて目をみはった。その容貌ようぼう、その風采ふうさい、指環は紛うべくもない純金であるのに、銀流しを懸けろと言うから。

「これですかい。」

「ちょいと遣っておくんな。」

「結構じゃありませんかね。」

「おあしがなくっちゃあ不可いけねえか、ここにゃ持っていねえんだが、かったらつけてくんねえ。後で持たして寄越よこすぜ。」

 と真顔でいう、言葉つき、顔形、目のうちをじっと見ながら、

「そんなけちじゃアありませんや。おのぞみなら、どれ、附けて上げましょう。」と婦人おんなは切の端に銀流をまぶして、滝太郎の手をそっと取った。

「ようよう、」とまたうしろの方で、雀海中に入った時のごとき、奇なる音声を発する者あり。


       十二


いぜ、可いぜ、沢山だ、」と滝太郎はやや有って手を引こうとする、ト指のさきを握ったのを放さないで、銀流のきれ摺着すりつけながら、

「よくして上げましょう、もう少しですから。」

「沢山だよ。」

「いいえ、これだけじゃあ綺麗にはなりません。」と婦人おんなは急にめそうにもない。

「さあ、大変。」

「おしずかに、お静に。」

「構わず、ぐっと握るべしさ、」

「しっかり頼むぜ。」

 などと立合はわやわやいうのを、すましたもので、

口切くちきりあきないでございます、本磨ほんみがきにして、成程これならばという処を見せましょう、これから艶布巾つやぶきんをかけて、仕上げますから。」

「止せ。」

 滝太郎の声はやや激して、振放そうとして力を入れる。押えて動かさず、

「ま、もうちっと辛抱をなさいましな、これから裏の方を磨きましょうね。」

 婦人おんなはこういいつつ、ちらちらと目をつけて、指環の形、顔、服装みなり天窓あたまから爪先つまさきまで、きっと見てはさりげなく装うのを、滝太郎は独り見て取って、何かはばかる処あるらしく、一度は一度、婦人おんなが黒い目でにらむ数のかさなるに従うて、次第に暗々おのれを襲うものがきたり、ちかづいて迫るように覚えて、今はほとんど耐難たえがたくなったと見え、知らず知らず左の手が、片手その婦人おんなに持たれた腕にかかって、力を添えて放そうとする。肩はそびえ、顔には薄く血を染めて、滝太郎は眉をひそめた。

「可いッてんだい。」

「お待ち!」とばかりで婦人おんなも商売を忘れて、別に心あって存するごとく、瞳を据えておもてを合せた。

 ちょうどその時、四五十歩を隔てた、夜店の賑かな中を、背後うしろの方で、一声高く、馬のいななくのが、往来の跫音あしおとを圧して近々と響いた。

 と思うと、滝太郎は、うむ、といって、振向いたが、吃驚びっくりしたように、

「義作だ、おう、ここに居るぜ。」

「ちょいと、」

「ええ、」

「あれ、」といって振返された手を押えた。指の間にはくれない一滴、見る見る長くなって、手首へ掛けて糸を引いて血が流れた。

ねえさん、」

「どうなすった。」

 押魂消おッたまげた立合は、もう他人ではなくなって、驚いて声を懸ける。滝太郎はもう影も見えない。

 婦人おんなは顔の色も変えないで、きれで、血を押えながら、ねえさんかぶりのまま真仰向まあおのけに榎を仰いだ。晴れた空もこずえのあたりは尋常ただならず、木精こだま気勢けはい暗々として中空をめて、星の色も物凄ものすごい。

「おや、おや、おかしいねえ、変だよ、奇体なことがあるものだよ。露か知らん、上の枝からしずくが落ちたそうで、指がひやりとしたと思ったら、まあ。」

「へい、引掻ひっかいたんじゃありませんか。」

「今のが切ったんじゃないんですかい。」

「指環で切れるものかね、御常談を、引掻いたって、血が流れるものですか。」

「さればさ。」

いやだ、私は、」と薄気味の悪そうな、しょげた様子で、婦人おんなは人の目に立つばかり身顫みぶるいをして黙った。榎の下せきとして声なし、いずれも顔を見合せたのである。


       十三


「何だね、これは。」

しっ、」と押えながら、島野紳士のセル地の洋服のひじを取って、──奥を明け広げた夏座敷の灯が漏れて、軒端のきばには何の虫か一個ひとつうなりを立ててはたと打着ぶつかってはまた羽音を響かす、蚊が居ないという裏町、俗にお園小路ととなえる、遊廓桜木町の居まわりに在り、夜更けて門涼かどすずみの団扇が招くと、黒板塀の陰から頬被ほおかぶりのぬっと出ようというすごい寸法の処柄、宵の口はかえって寂寞ひっそりしている。──一軒の格子戸を背後うしろ退すさった。

 これは雀部ささべ多磨太といって、警部長なにがし氏の令息で、島野とは心合こころあいの朋友である。

 箱を差したように両人気はしっくり合ってるけれども、その為人ひととなりは大いに違って、島野は、すべて、コスメチック、香水、巻莨シガレット洋杖ステッキ護謨靴ゴムぐつという才子肌。多磨太は白薩摩しろさつまのやや汚れたるを裾短すそみじかに着て、紺染の兵児帯へこおびを前下りの堅結かたむすび、両方腕捲うでまくりをした上に、もすそ撮上つまみあげた豪傑造り。五分刈にして芋のようにころころと肥えた様子は、西郷の銅像にて、そしてなりの低い、年紀としは二十三。まだ尋常中学を卒業しないが、試験なんぞをあえて意とするようなけちなのではない。

 島野を引張ひっぱり着けて、自分もその意気な格子戸をうしろに五六歩。

「見たか。」

 島野はやせぎすで体も細く、釣棹つりざおという姿で洋杖ステッキを振った。

「見た、何さ、ありゃ。門札のわきへ、白で丸い輪を書いたのは。」

「井戸でない。」

「へえ。」

「飲用水の印ではない、何じゃ、あれじゃ。その、色事の看板目印というやつじゃ。まだ方々にあるわい。試みに四五軒見しょう、一所に来う、歩きながら話そうで。まずの、」

 才子と豪傑は、鼠のセル地と白薩摩で小路の黄昏たそがれの色にまじり、くっ着いて、並んで歩く。

 ここに注意すべきは多磨太が穿物はきものである。いかに辺幅を修せずといって、いやしくも警部長の令息で、知事の君の縁者、勇美子には再従兄またいとこに当る、紳士島野氏の道伴みちづれで、護謨靴と歩を揃えながら、何たる事! 藁草履わらぞうりの擦切れたので、ほこりをはたはた。

 歩きながら袂を探って、手帳と、袂草たもとくそと一所くたにつかみ出した。

「これ見い、」

 紳士は軽く目を注いで、

「白墨かい。」

「はははは、白墨じゃが、何と、」

「それで、」と言懸けて、衣兜かくしうずだかく、挟んでおく、手巾ハンケチの白いので口のあたりをちょいといた。

「うむ、おりゃ、近頃博愛主義になってな、同好の士にはみんな見せてやる事にした。あえてこのなぐさみ独擅どくせんにせんのじゃで、いたる処俺が例の観察をして突留めた奴のうちには、必ず、門札の下へ、これで、ちょいとな。」

「ふん、はてね。」

「貴様今見たか、あれじゃ、あの形じゃ。目立たぬように丸い輪を付けておくことにしたんじゃ。」

「御趣向だね。」

「どうだ、今のうちには限らずな、どこでもいぞ、あの印の付いた家を随時うかがって見い。殊に夜な、きっと男と女とで、何かしら、演劇しばいにするようなことを遣っとるわ。」


       十四


 多磨太は言懸けて北叟笑ほくそえみ、

「貴様も覚えておいてちと慰みにのぞいて見い。犬川でぶらぶら散歩して歩いても何の興味もないで、わしがあの印を付けておく内は不残のこらず趣味があるわい。姦通かな、親々の目を盗んで密会するかな、さもなけりゃ生命いのちがけでれたとか、惚れられたとかいう奴等、そして男の方は私等わしら構わんが、女どもはいずれも国色じゃで、先生難有ありがたいじゃろ。」

 ぎろりとした眼で島野を見ると、紳士は苦笑して、

「変ったおなぐさみだね、よくそして見付けますなあ。」

「ははあ、なんぞ必ずしも多く労するを用いん。国民皆堕落だらく、優柔淫奔いんぽんになっとるから、夜分なあ、暗い中へ足を突込つッこんで見い。あっちからも、こっちからも、ばさばさと遁出にげだすわ、二疋ずつの、まるでもって螇蚸ばった蟷螂かまきりが草の中から飛ぶようじゃ。其奴そいつの、目星い処を選取えりとって、縦横に跡をけるわい。ここぞという極めが着いた処で、印を付けておくんじゃ。わしも初手の内は二軒三軒と心覚えにしておいたが、じゃの道はへびじゃ、段々その術に長ずるに従うて、つるを手繰るように、そら、ぞろぞろ見付かるで。ああ遣って印をして、それを目的めあてにまた、同好の士な、手下どもを遣わす、巡査、探偵などという奴が、その喜ぶこと一通ひととおりでないぞ。中には夜行をするのに、あの印ばかりねらいおる奴がある。ぐッすり寐込ねこんででもいようもんなら、盗賊どろぼう遁込にげこんだようじゃから、なぞというて、叩き起して周章あわてさせる。」

ひどいことを!」

 島野は今更のように多磨太の豪傑づらみまもった。

其等そいらはほんの前芸じゃわい。一体何じゃぞ、手下どもにも言って聞かせるが、野郎と女と両方夢中になっとる時は常識を欠いて社会の事を顧みぬじゃから、脱落ぬかりがあってな、知らず知らず罪を犯しおるじゃ。わしはな、ただ秘密ということばかりでも一種立派な罪悪と断ずるで、勿論市役所へ届けた夫婦には関係せぬ。人の目を忍ぶほどの中の奴なら、何か後暗いことをしおるに相違ないでの。仔細しさいに観察すると、こいつ禁錮きんこするほどのことはのうても、説諭位はして差支えないことを遣っとるから、つかみ出して警察であばかすわい。」

「大変だね。」

「発くとの、それ親に知れるか、亭主に知れるか、近所へ聞える。何でも花火をくようなもので、その途端に光輝天に燦爛さんらんするじゃ。すでにこないだも東の紙屋の若い奴が、桜木町である女と出来合って、意気事をめるちゅうから、しゃくに障ってな、いろいろしらべたが何事もないで、為方しかたがない、内に居る母親おふくろが寺まいりをするのに木綿を着せて、うぬ傾城買じょろうかいをするのに絹をまとうのは何たることじゃ、というかどをもって、説諭をくらわした。」

「それで何かね、警察へ呼出しかね。」

「ははあ、幾ら俺が手下を廻すとって、まさかそれほどの事では交番へも引張ひっぱり出せないで、一名制服を着けて、洋刀サアベルびた奴を従えて店前みせさきわめき込んだ。」

「おやおや、」

「何、喧嘩をするようにして言って聞かせても、母親おふくろは昔気質かたぎで、有るものを着んのじゃッて。そんなことを構うもんか、こっちはそのせいで藁草履わらぞうり穿いて歩いてる位じゃもの。」

 さなり、多磨太君の藁草履は、人の跡をけるのに跫音あしおとを立てぬ用意である。


       十五


「それからの、山田下の植木屋の娘がある、美人じゃ。貴様知ってるだろう、あれがな、次助というて、近所の鋳物師のせがれと出来た。先月の末、やみの晩でな、例のごとく密行したが、かねて目印の付いてる部じゃで、そっと裏口へ廻ると、木戸が開いていたから、庭へ入った。」

「構わず?」

「なにとがめりゃわしが名乗って聞かせる、雀部といえば一縮ひとちぢみじゃ。貴様もジャムを連れて堂々濶歩かっぽするではないか、親の光は七光じゃよ。こうやって二人並んで歩けばみんなみちけるわい。」

 島野は微笑して黙ってうなずいた。

「はははは、愉快じゃな。勿論、淫魔いんまを駆って風紀を振粛し、且つ国民の遊惰ゆうだを喝破する事業じゃから、父爺おやじも黙諾の形じゃで、手下は自在に動くよ。既にその時もあれじゃ、植木屋の庭へこの藁草履を入れて掻廻かきまわすと、果せるかな、螇蚸ばった蟷螂かまきり。」

「まさか、」

「うむ、植木屋の娘と其奴そいつと、貴様、植込の暗い中に何か知らん歎いておるわい。地面の上で密会なんざ、立山と神通川とあって存する富山の体面をけがすじゃから、引摺出ひきずりだした。」

南無三宝なむさんぽう、はははは。」

「挙動が奇怪じゃ、胡乱うろんな奴等、来い! と言うてな、角の交番へ引張ひっぱって行って、ぬかせと、二ツ三ツ横面よこッつらをくらわしてから、親どもを呼出して引渡した。ははは、元来東洋の形勢日に非なるの時に当って、植込の下で密会するなんざ、不埒ふらち至極じゃからな。」

「罪なこッたね、悪い悪戯いたずらだ、」と言懸けて島野は前後を見て、ステッキを突いた、辻の角で歩をとどめたので。

「どこへこうかね。」

 榎のこずえは人の家の物干の上に、ここからも仰いで見らるる。

「総曲輪へ出て素見ひやかそうか。まあ来いあそこの小間物屋の女房にも、ちょいと印が付いておるじゃ。」

「行き届いたもんですな。」

「まだまだこれからじゃわい。」

「さよう、君のは夜が更けてからがおかしいだろうが、私は、そのおそくなるとうちが妙でないから失敬しよう。」

「ははあ、どこぞ行くんかい。」

「ちょいと。」

「そんならけ。だが島野、」と言いながら紳士の顔を、皮の下まで見透かすごとくじろりと見遣って、多磨太はにやり。

 くすぐられるのをこらえるごとく、極めて真面目まじめで、

「何かね、」

「注意せい、貴様の体にも印が着いたぞ。」

「え!」と吃驚びっくりして慌てて見ると、上衣うわぎの裾に白墨で丸いもの。

「どうじゃ。」

「失敬な、」とばかり苦い顔をして、また手巾ハンケチを引出した。島野はそそくさと払い落して、

「止したまえ。」

「ははは、構わん、遣れ。あの花売は未曾有みぞう尤物ゆうぶつじゃ、また貴様が不可いけなければわしが占めよう。」

「大分、御意見とは違いますように存じますが。」

「英雄色を好むさ。」と傲然ごうぜんとして言った。二人が気の合うのはすなわちここで、藁草履と猟犬と用いる手段は異なるけれども、その目的はひとしいのである。

 島野は気遣わしそうに見えて、

「まさか、君、花売が処へは、用いまいね、何を、その白墨を。」

「可いわい、一ツぐらい貴様に譲ろう。油断をするな、那奴あいつまた白墨一抹いちまつに価するんじゃから。」


       十六


貴方あなた御存じでございますか。」

「ああ、今のその話の花か。知ってはいない、見たことはないけれどもあるそうだ。いや、有るに違いはないんだよ。」

 かや軒端のきばに鳥の声、というわびしいのであるが、お雪が、朝、晩、花売に市へ行く、出際と、帰ってからと、二度ずつ襷懸たすきがけで拭込ふきこむので、朽目くちめほこりたまらず、冷々ひやひやと濡色を見せて涼しげな縁に端居はしいして、柱にせなを持たしたのは若山ひらくわずらいのある双の目をふさいだまま。

 うまれは東京で、氏素性は明かでない。父も母も誰も知らず、諸国漫遊の途次、一昨年の秋、この富山に来て、旅籠町の青柳あおやぎという旅店に一泊した。その賊のためにのこらず金子きんすを奪われて、あくる日の宿料もない始末。七日十日逗留とうりゅうして故郷へ手紙を出した処で、仔細しさいあって送金の見込はないので、進退きわまったのを、よろしゅうがすというような気前の商人あきんどはここにはない。ただし地方裁判所の検事に朝野なにがしというのが、その為人ひととなりに見る所があって、世話をして、足をとどめさせたということを、かつておしえを受けた学生は皆知っている。若山は、昔なら浪人の手習師匠、由緒あるさむらいがしばし世を忍ぶ生計たつきによくある私塾を開いた。温厚篤実とくじつ、今の世には珍らしい人物で、且つ博学で、恐らく大学に業を修したのであろうと、中学校の生意気なのが渡りものと侮って冷かしに行って舌を巻いたことさえあるから、教子おしえごも多く、皆敬い、なずいていたが、日もたず目を煩って久しくえないので、英書をけみし、数字を書くことが出来なくなったので、弟子は皆断った。直ちに収入がなくなったのである。

 先生むぐらではございますが、庭も少々、裏が山つづきで風もよしまちにも隔って気楽でもございますから御保養かたがたと、たって勧めてくれたのが、同じ教子の内に頭角を抜いて、代稽古だいげいこも勤まった力松という、すなわちお雪の兄で、傍ら家計を支えながら学問をしていたが、適齢に合格して金沢の兵営に入ったのは去年の十月。

 後はこの侘住居わびすまいに、拓と雪との二人のみ。拓は見るがごとく目を煩って、何をする便たよりもないので、うら若い身で病人を達引たてひいて、兄の留守を支えている。お雪は相馬氏の孤児みなしごで、父はかつて地方裁判所に、明決、快断のほまれある名士であったが、かつて死刑を宣告した罪囚のむすめを、心着かず入れてしょうとして、それがために暗殺された。この住居すまいは父が静を養うために古屋こおくあがなった別業の荒れたのである。近所に、癩病かったい医者だと人はいうが、漢方医のある、その隣家となりの荒物屋で駄菓子、油、蚊遣香かやりこうまでも商っている婆さんが来て、瓦鉢かわらばちの欠けた中へ、杉の枯葉を突込つっこんでいぶしながら、庭先にかがんでいるが、これはまたお雪というと、孫も子も一所にして、乳で育てたもののように可愛かわゆくてならないので。

 一体、ここはもと山の裾の温泉宿ゆやどの一廓であった、今も湯の谷という名が残っている。元治年間立山に山くずれがあって洪水でみずの時からはたとかなくなった。温泉いでゆの口は、お雪が花を貯えておく庭の奥の藪畳やぶだたみの蔭にある洞穴ほらあなであることまで、忘れぬ夢のように覚えている、谷の主ともいつべき居てつきのおうな、いつもその昔の繁華を語って落涙する。今はただ蚊が名物で、湯の谷といえば、まちの者は蚊だと思う。木屑きくずなどをいた位で追着おッつかぬと、売物の蚊遣香は買わさないで、杉葉すぎッぱいてくれる深切さ。縁側に両人ふたり並んだのを見て嬉しそうに、

「へい、旦那様知ってるだね。」


       十七


「百合には種類が沢山あるそうだよ。」

 ささめ、為朝ためとも博多はかた、鬼百合、姫百合は歌俳諧にもんで、誰も知ったる花。ほしなし、すけ、てんもく、たけしま、きひめ、という珍らしい名なるがあり。染色そめいろは、くれない、黄、すかししぼり、白百合は潔く、たもと鹿の子は愛々しい。薩摩さつま琉球りゅうきゅう、朝鮮、吉野、花の名の八重百合というのもある。と若山は数えて、また紅絹もみきれで美しく目をおさえ、おうなを見、お雪を見て、楽しげに、且つ語るよう、

「話の様子では西洋で学問をなすったそうだし、植物のことにそういう趣味を持ってるなら、私よりは、お前のお花主とくいの、知事の嬢さんが、よく知っておいでだろうが、黒百合というのもやっぱりその百合の中の一ツで、花が黒いというけれども、私が聞いたのでは、真黒まっくろな花というものはないそうさ。」

「はい、」しばらくして、「はい、」媼は返事ばかりでは気が済まぬか、団扇持つ手と顔とを動かして、笑傾えみかたむけては打頷うちうなずく。

「それでは、あの本当はないのでございますか。」とお雪は拓の座を避けて、ななめに縁側に掛けている。

「いえ、無いというのじゃあないよ。黒い色のはあるまいと思うけれども、その黒百合というのは帯紫暗緑色で、そうさ、ごくごく濃い紫に緑がまじった、まあ黒いといっても可いのだろう。花は夏咲く、丈一尺ばかり、こずえの処へつぼみを持つのはほかの百合も違いはない。花弁はなびらは六つだ、しべも六つあって、黄色い粉の袋が附着くッついてる。私が聞いたのはそれだけなんだ。西洋の書物には無いそうで、日本にも珍らしかろう。書いたものには、ただ北国ほっこくの高山で、人跡の到らない処に在るというんだから、昔はまあ、仙人か神様ばかり眺めるものだと思った位だろうよ。東京理科大学の標本室には、加賀の白山はくさんで取ったのと、信州のこまたけ御嶽おんたけと、もう一色ひといろ、北海道の札幌で見出みだしたのと、四通り黒百合があるそうだが、私はまだ見たことはなかった。

 お雪さん、そしてその花を欲しいというお嬢さんは、どういう考えで居るんだね。」

「はい、あのこないだからいつでもお頼みなさいますんでございますが、そういう風に御存じのではないのですよ。やっぱり私達が、名を聞いておりますとおり、芝居でいたします早百合さゆり姫のことで、富山には黒百合があるッていうから、欲しい、どんな珍らしい花かも知れぬ。そして仏蘭西フランスにいらしった時、大層御懇意に遊ばした、その方もああいうことに凝っていらっしゃるお友達に、由緒を書いて贈りたいといってお騒ぎなんでございます。お請合うけあいはしませんけれども、黒百合のある処は解っておりますからとそう言って参りましたが、太閤記に書いてあります草双紙のお話のような、それより外でもまだ誰も見たものはないのでございますから、どうかしら、怪しいと存じました。それでは、あの、貴方あなた、処に因って、在る処には、きっと有るのでございますね。」

 とお雪は膝に手を置いて、ものを思うごとく、じっと気を沈めて、念を入れて尋ねたのである。その時、白地の浴衣を着た、髪もやや乱れていたお雪のやつれた姿は、蚊遣の中に悄然しょうぜんとして見えたが、おもてには一種不可言の勇気とよろこびの色がかすかに動いた。

「おお、くすぶる燻る、これはたまりませぬ、お目の悪いに。」

 一団のけぶりが急にうづまいて出るのを、つかんで投げんと欲するごとく、婆さんは手をった。風があたって、𤏋ぱっとする下火の影に、その髪は白く、顔は赤い。黄昏たそがれの色は一面に裏山をめて庭にかかれり。

 若山は半面に団扇をかざして、

当地こちらで黒百合のあるのはどこだとか言ったっけな。」


       十八


「ねえ、お婆さん。」

 お雪は、黒百合が富山にある、場所の答を、婆さんに譲って、其方そなたを見た。

 湯の谷の主は習わずしておのずから這般しゃはんの問に応ずべき、経験と知識とを有しているので、

「はい、石滝いわたきの奥には咲くそうでござります。」

 若山は静かに目を眠ったまま、

「どんな処ですか。」

「蛍の名所なのね。」とお雪は引取る。

「ええ、その入口迄は女子供も参りまする、夏の遊山場でな、お前様。お茶屋もかかっておりまするで、素麺そうめん、白玉、心太ところてんなど冷物ひやしものもござりますが、一坂越えると、滝がござります。そこまでも夜分参るものは少い位で、その奥山と申しますと、今身を投げようとするものでも恐がって入りませぬ。その中でなければ無いと申しますもの、とても見られますものではござりますまい。」婆さんは言って、蚊遣をあおぐ団扇の手を留めて、その柄をつくばった膝の上にする。

「それでは滝があって蛍の名所、石滝という処は湿地だと見えるね。」

「それはもう昼も夜も真暗まっくらでござります。いかいこと樹が茂って、満月の時も光がすのじゃござりませぬ。

 一体いつでも小雨が降っておりますような、この上もない陰気な所で、お城の真北まッきたに当りますそうな。ちょうどこの湯の谷とは両方の端で、こっちは南、田〓(「なべぶた/(田+久)」)も広々としていつもあかるうござりますほど、石滝は陰気じゃで、そのせいでもござりましょうか、評判の魔所で、お前様、ついしか入ったものの無事に帰りましたためしはござりませぬよ。」

「その奥に黒百合があるんですッて、」お雪は婆さんのことばを取って、確めてこれを男に告げた。

 若山はややあって、

「そりゃきっとあるな、その色といい、形といい、それからその昔からの言いつたえで、何か黒百合といえば因縁事のまつわった、美しい、黒い、つやを持った、紫色の、物凄ものすごい、堅い花のように思われるのに、石滝という処は、今のはなしでは、場処も、様子もその花があって差支えないと考える。もっとも有ることはあるのだから、大方黒百合が咲いてるだろう。夏月かげつ花ありという時節もちょうど今なんだけれども、何かね、本当にあるものなら、お前さん、その嬢さんに頼まれたから、取りにでもこうというのか。」と落着いて尋ねて、かれは気遣わしく傾いた。

「…………」お雪はふとその答につかえたが、婆さんはかえって猶予ためらわない。

「滅相な、お前様、この湯の谷の神様が使わっしゃる、白い烏が守ればといって、若い女が、どうして滝までかれますものか。取りにでも行く気かなぞと、問わっしゃるさえ気が知れませぬてや。ぷッ、」と、おどけたような顔をしてばばは消えかかった蚊遣を吹いた。杉葉の瓦鉢かわらばちの底に赤く残って、けぶりも立たず燃え尽しぬ。

「お婆さん、御深切に難有ありがとう。」

 とうっかり物おもいに沈んでいたお雪は、心着いて礼をいう。

「あいあい、何の。もう、お大事になされませ、今にまたあの犬を連れた可厭いやらしいお客がござって迷惑なら、私家わしとこへ来て、かがんで居ッさい。どれ、店を開けておいて、いかいこと油を売ったぞ、いや、どッこいな。」と立つ。


       十九


 帰りたくなると委細は構わず、庭口から、とぼとぼと戸外おもてへ出てく。荒物屋のばばあはこの時分からせわしい商売がある、隣の医者がうちばかり昔の温泉宿ゆやど名残なごりとどめて、いたずらに大構おおがまえの癖に、昼も夜も寂莫せきばくとして物音も聞えず、その細君が図抜けて美しいといって、滅多に外へ出たこともないが、向うも、隣も、筋向いも、いずれ浅間で、豆洋燈まめランプの灯が一ツあれば、ふすまも、壁も、飯櫃めしびつの底まで、戸外おもてから一目に見透かされる。花売の娘も同じこと、いずれも夜が明けると富山の町へ稼ぎに出る、下駄の歯入、氷売、団扇売、土方、日傭取ひやといなどが、一廓をした貧乏町。思い思い、町々八方へちらばってるのが、日暮になれば総曲輪から一筋道を、順繰に帰って来るので、それから一時ひとしきり騒がしい。水をむ、胡瓜きゅうりを刻む。俎板まないたとんとん庖丁チョキチョキ、出放題な、生欠伸なまあくびをして大歎息を発する。翌日あくるひの天気の噂をする、お題目を唱える、小児こどもを叱る、わッという。戸外おもてでは幼い声で、──蛍来い、山見て来い、行燈あんどの光をちょいと見て来い!

「これこれ暗くなった。天狗様がさらわっしゃるに寝っしゃい。」と帰途かえりがけに門口かどぐちで小児をおどしながら、婆さんは留守にしたおのれの店の、草鞋わらじの下をくぐって入った。

 草履を土間に脱いで、一渡ひとわたり店の売物に目を配ると、真中まんなかつるした古いブリキの笠の洋燈ランプは暗いが、駄菓子にもあめにも、鼠は着かなかった、がたりという音もなし、納戸の暗がりは細流のような蚊の声で、耳の底に響くばかりなり。

可恐おそろしいうなりじゃな。」とつぶやいて、一間口けんぐちへだての障子の中へ、腰を曲げて天窓あたまから入ると、

「おう、帰ったのか。」

「おや。」

ひどい蚊だなあ。」

「まあ、お前様めえさま。まあ、こんな中に先刻さっきにからござらせえたか。」

「今しがた。」

「暗いから、はや、なおたまりましねえ。いかなこッても、勝手が分らねえけりゃ、店の洋燈でも引外ひっぱずしてござればいに。」

 深切を叱言こごとのごとくぶつぶつ言って、納戸の隅の方をかさかさごそりごそりと遣る。

いから、可いから。」といって、しばらくすると膝を立直した気勢けはいがした。

「近所の静まるまで、もうちっとあかしけないでおけよ。」

「へい。」

のぞくとうるさいや。」

「それでは蚊帳を釣って進ぜましょ。」

「何、おいら、直ぐ出掛けようかとも思ってるんだ。」

「可いようにさっしゃりませ。」

「ああ、それから待ちねえこうだと、今に一人へ尋ねて来るものがあるんだから、頼むぜ。」

「お友達かね。お前様は物事ものずきじゃでいけれど、お前様のような方のお附合なさる人は、から、入ってしばらくでも居られます所じゃあござりませぬが。」

 言いも終らず、快活に、

「気扱いがいる奴じゃねえ、きたね婦人おんなよ。」

「おや!」と頓興とんきょにいった、ばばの声の下にくすくすと笑うのが聞える。

「婆ちゃん、おくんな。」と店先で小児こどもの声、繰返して、

「おくんな。」

「おい。」

しずかに………」といって、暗中の客は寝転んだ様子である。


       二十


 ばばが帰ったあと、縁側に身を開いて、一人は柱にって仰向あおむき、一人は膝に手を置いて俯向うつむいて、涼しい暗い処に、白地の浴衣で居た、お雪は、突然驚いたようにいった。

「あれ星が飛びましたよ。」

 湯の谷もここは山の方へはずれの家で、奥庭が深いから、はたの騒しいのにもかかわらず、しんとした藪蔭やぶかげに、細い、青い光物が見えたので。

「ああ、これから先はよくあるが、淋しいもんだよ。」

 と力なげに団扇持った手を下げて、

「今も婆さんが深切に言ってくれたが、お雪さん、人が悪いという処へ推してくのは不可いけない。何も、妖物ばけものが出るの、魔がつかむのということは、目の前にあるとも思わないが、昔からまるで手も足もれない処じゃあ、人の知らない毒虫が居て刺そうも知れず、つち工合ぐあいむと崩れるようなことがないとも限らないから。」

「はい、」

く気じゃあるまいね。」とやや力をめて確めた。

「はい、」と言懸けて、お雪は心に済まない様子で後を言い残して黙ったが、あわただしく、

「蛍です。」

 と立った庭の空を、つらつらと青い糸を引いて、二筋に見えて、一つ飛んだ。

「まあ、珍らしい、石滝から参りました。」

 このあたりに蛍は珍らしいものであった、一つびとつ市中へ出て来るのは皆石滝から迷うて来るのだといい習わす。人に狩り取られて、親がないか、夫がないか、みなしご孀婦やもめ、あわれなのが、そことも分かず彷徨さまよって来たのであろう。人可懐なつかしげにも見えて近々と寄って来る。お雪は細いに立てて唇を吸って招きながら、つかつかと出てたもとを振った、横ぎる光の蛍の火に、細い姿は園生そのうにちらちら、髪も見えた、ほのかに雪なす顔を向けて、

「団扇を下さいなちょいと、あれ、」と打つ。蛍はれて、若山が上のひさしに生えた一八いちはつの中にかろく留まった。

「さあ、団扇、それ、ははは……大きな女の嬰児あかさんだな。」と立ちも上らず坐ったまま、縁側から柄ばかり庭の中へ差向けたが、交際つきあいにも蛍かといって発奮はずみはせず、動悸どうきのするまで立廻って、手をすべらした、蛍は、かえってその頭の上を飛ぶものを、振仰いで見ようともせぬ、男のひややかさ。見当違いに団扇を出して、大きな嬰児あかんぼだといって笑ったが、声も何となくもの淋しい。お雪は草の中にすッくと立って、じっと男の方をながめたが、爪先つまさきを軽く、するすると縁側に引返ひっかえして、ものありげに──こうつんとした事は今までにはなかったが──黙って柄の方から団扇を受取り、手を返して、爪立つまだって、廂を払うと、ふッと消えた、光はひるがえした団扇の絵の、滝の上をうてそのながれも動く風情。

 お雪はみまもって、ほっと息をいて、また腰を懸けて、黙って見ていた、目を上げて、そと男の顔を透かしながら、腰をじて、ななめに身を寄せて、くだんの団扇を、触らぬように、男の胸の辺りへ出して、

「可愛いでしょう、」といった声も尋常ただならず。

「何か、石滝の蛍か、そうか。」といって若山は何ともなしに微笑ほほえんだが、顔は園生の方を向いて、あらぬ処を見た。涼しい目はぱッちりと開いていたので、蛍は動いた。団扇は揺れて、お雪の細い手は震えたのである。


       二十一


「歩きますわ、御覧なさいな。」と沈んだ声でいいながら、お雪は打動かす団扇の蔭から、はかない一点の青いともしで、しばしば男の顔を透かして差覗さしのぞく。

 男はこの時もう黙ってしまい、顔を背けてけようとするのを、また、

「御覧なさいな、」と、人知れずお雪は涙含なみだぐんで、見る見る、男の顔の色は動いた。はッと思うと、

「止せ!」

 若山はてのひらをもてはたと払ったが、はしなく団扇を打って、柄は力のない手を抜けて、庭に落ちた。

「あれ、」といってお雪は顔を見ながら、と胸をいて背後うしろ退すさる。

 かれは膝を立直して、

「見えやあしない。」

「ええ!」



「僕の目がつぶれたんだ。」

 言いさま整然ちゃんとして坐り直る、怒気満面にあふれて男性の意気さかんに、また仰ぎ見ることが出来なかったのであろう、お雪は袖で顔をおおうて俯伏うつぶしになった。

「どうしたならどうしたと聞くさ、容体はどうです目が見えないか、と打出して言えばい。何だって、人を試みるようなことをして困らせるんだい、見えない目前めさきへ蛍なんか突出して、綺麗だ、動く、見ろ、とは何だ。残酷だな、無慈悲じゃあないか、星が飛んだの、蛍が歩くのと、まるでなぶるようなもんじゃあないか。女の癖に、第一失敬ださ。」

 と、声を鋭く判然はっきりと言い放つ。言葉の端にはおのずから、かかる田舎にこうして、女の手に養われていらるべき身分ではないことが、響いて聞える。

「そんな心懸こころがけじゃあ盲目めくらの夫の前で、情郎いろおとこ巫山戯ふざけかねはしないだろう。いやになったらさっぱりと突出すが可いじゃあないか、あわれななさけないものをつかまえて、いじめるなあ残酷だ。また僕も苛められるようなものになったんだ、全くのこッた、僕はこんな所にお前様まえさんほどの女が居ようとは思わなんだ。気の毒なほど深切にされる上に、打明けていえば迷わされて、はやく身を立てよう、行末を考えようと思いながら、右を見ても左を見ても、薬屋の金持か、せいぜいが知事か書記官の居る所で、しかも荒物屋の婆さんや近所の日傭取ひやといにばかり口を利いて暮すもんだからいつの間にか奮発気がなくなって、引込思案になる所へ、目のわずらいを持込んで、我ながら意気地はない。口へ出すのもみッともないや。お前さんに優しくされて朝晩にゃ顔を見て、一所に居るのが嬉しくッて、恥も義理も忘れたそうだ。そっちじゃあ親はなし、あにさんは兵に取られているしよ、こういっちゃあ可笑おかしいけれども、ただ僕をたよりにしている。僕はまた実際つえとも柱とも頼まれてやる気だもんだから、今目が見えなくなったといっちゃあ、どんなに力を落すだろう。お前さんばかりじゃない、人のことより僕だって大変だ。死んでも取返しのつかないほど口惜しいから、心にだけも盲目めくらになったと思うまい、目が見えないたあいうまいと、手探てさぐりの真似もしないで、苦しい、切ないおもいをするのに、何が面白くッてそんな真似をするんだな。されるのはこっちが悪い、意気地なしのしみったれじゃアあるけれども。」

 お雪の泣声が耳にると、若山は、口にふたをされたようになって黙った。


       二十二


「お雪さん。」

 ややあって男は改めて言って、この時はもう、声も常の優しい落着いた調子に復し、

「お雪さん、泣いてるんですか。悪かった、悪かった。まことを言えばお前さんに心配を懸けるのが気の毒で、無暗むやみと隠していたのを、つい見透かされたもんだから、罪なことをすると思って、一刻に訳も分らないで、悪いことをいった。知ってる、僕は自分めかも知らないが、お前さんの心は知ってるつもりだ。情無い、もう不具根性かたわこんじょうになったのか、ひがみも出て、我儘わがままか知らぬが、くさくさするので飛んだことをした、悪く思わないでおくれ。」

 その平生ふだんおこないは、けだし無言にして男の心を解くべきものがあったのである。お雪は声を呑んで袂に食着いていたのであるが、優しくされて気もゆるんで、わっと嗚咽おえつして崩折くずおれたのを、慰められ、すかされてか、節も砕けるほど身に染みて、夢中ににじり寄る男のそば。思わずすがる手を取られて、団扇は庭に落ちたまま、お雪は、潤んだ髪の濡れた、恍惚うっとりした顔を上げた。

貴方あなた、」

「可いよ。」

「あの、こう申しますと、生意気だとお思いなさいましょうが、」

「何、」

「お気に障りましたことは堪忍して下さいまし、お隠しなさいますお心を察しますから、つい口へ出してお尋ね申すことも出来ませんし、それに、あの、こないだ総曲輪でお転びなすった時、どうも御様子が解りません、お湯にお入りなさいましたとは受取りにくうございますもの、往来ですから黙って帰りました。が、それから気を着けて、お知合のお医者様へいらっしゃるというのは嘘で、石滝のこちらのお不動様の巌窟いわやの清水へ、おつむりひやしにおいでなさいますのも、存じております。不自由な中でございますから、お怨み申しました処で、唯今ただいまはお薬を思うように差上げますことも出来ませんが、あの……」

 と言懸けて身を正しく、お雪はあたかも誓うがごとくに、

「きっとあの私が生命いのちに掛けましても、お目の治るようにして上げますよ。」と仇気あどけなく、しかも頼母たのもしくいったが、神の宣託でもあるように、若山の耳には響いたのである。

「気張っておくれ、手を合わして拝むといっても構わんな。実に、何だ、僕はのぞみがある、おしい体だ。」といって深く溜息をいたのが、ひしひしと胸にこたえた。お雪は疑わず、勇ましげに、

「ええ、もう治りますとも。そして目が開いて立派な方におなりなさいましても、貴方、」

「何だ。」

「見棄てちゃあ、私はいや。」

「こんなに世話になった上、まだ心配を懸けさせる、僕のようなものを、何だって、また、そういうことを言うんだろう。」

「ふ、」と泣くでもなし、笑うでもなし、きまり悪げに、面を背けて、目が見えないのも忘れたらしい。

「お雪さん。」

「はい。」

「どうしてこんなになったろう、僕は自分に解らないよ。」

「私にも分りません。」

「なぜだろう、」

 莞爾にっこりして、

「なぜでしょうねえ。」

 表の戸をがたりと開けて、横柄に、澄して、

「おい、」


       二十三


 声を聞くとお雪は身をすくめて小さくなった。

「居るか、おい、暗いじゃないか。」

「唯今、」

真暗まっくらだな。」

 例の洋杖ステッキをこつこつ突いて、土間に突立つったったのは島野紳士。今めかしくいうまでもない、富山のまちで花を売る評判の娘に首っ丈であったのが、勇美姫おん目を懸けさせたまうので、毎日のようにやかたに来る、近々と顔を見る、口も利くというので、おもい可恐おそろしくなると、この男、自分では業平なりひらなんだからたまらない。

 花屋の庭は美しかろう、散歩の時は寄ってみるよ、情郎いろおとこは居ないか、その節邪魔にすると棄置かんよ、などとおお上段に斬込きりこんで、臆面おくめんもなく遊びに来て、最初は娘の謂うごとく、若山を兄だと思っていた。

 それ芸妓げいしゃあにさん、後家の後見、和尚のめいにて候ものは、油断がならぬと知っていたが、花売の娘だから、本当の兄もあるだろうと、この紳士大ぬかり。段々様子が解ってみると、瞋恚しんいが燃ゆるようなことになったので、不埒ふらちでも働かれたかのごとく憤り、この二三日は来るごとに、皮肉を言ったり、当擦あてこすったり、つんとねてみたりしていたが、今夜の暗いのはまた格別、大変、吃驚びっくり、畜生、殺生なことであった。

 かつてまた、白墨狂士多磨太君の説もあるのだから、肉が動くばかりしばしもたまらず、洋杖ステッキを握占めて、島野は、

「暗いじゃあないか、おい、おい。」とただあせる。

「はい、」と潤んだ含声の優しいのが聞えると、𤏋ぱッ摺附木マッチる。小さな松火たいまつ真暗まっくらな中に、火鉢の前に、壁の隅に、手拭のかかった下に、中腰で洋燈ランプ火屋ほやを持ったお雪の姿を鮮麗きれいてらし出した。その名残なごりに奥の部屋の古びた油団ゆとん冷々ひやひやと見えて、突抜けの縁の柱には、男の薄暗い形があらわれる。

 島野はにらみ見て、洋杖ステッキと共に真直まっすぐに動かず突立つったつ。お雪は小洋燈に灯を移して、摺附木を火鉢の中へ棄てた手でびん後毛おくれげ掻上かいあげざま、向直ると、はや上框あがりがまち、そのまませわしく出迎えた。

 ちょいと手をいて、

「まあ、どうも。」

「…………」島野は目の色も尋常ただならず、とがった鼻を横に向けて、ふんと呼吸いきをしたばかり。

「失礼、さあ、お上りなさいまし、取散らかしまして、汚穢むそうございますが、」ときまり悪げに四辺あたりみまわすのを、うしろの男に心を取られてするように悪推わるずいする、島野はますます憤って、口も利かず。

(無言なり。)

「おおそうございましたのね。」と何やらつかぬことを言って、為方しかたなしにお雪は微笑ほほえむ。

「お邪魔をしましたな。」という声ぎっすりとして、車の輪のきしむがごとく、島野は決する処あって洋杖ステッキを持換えた。

「お前ねえ、」

 邪気おのずからはだえを襲うて、ただは済みそうにもない、物ありげに思い取られるので、お雪は薄気味悪く、やすからぬ色をして、

「はい。」

「あのな、」と重々しく言い懸けて、じろじろと顔を見る。

「どうぞ、まあ、」

「入っちゃあおられん。」

「どちらへか。」

「なあに。」

「お急ぎでございますか。」と畳に着く手も定まらない。

「ちょっと出てもらおう、」

「え、え。」

「用があるんだ。」


       二十四


「後を頼むとって、お前様めえさま、どこさかっしゃる。」

 ちょいとどうぞと店前みせさきから声を懸けられたので、荒物屋のばばは急いで蚊帳をまくって、店へ出て、一枚着物を着換えたお雪を見た。繻子しゅすの帯もきりりとして、胸をしっかと下〆したじめに女扇子おおぎを差し、余所行よそゆきなり、顔も丸顔で派手だけれども、気が済まぬか悄然しょんぼりしているのであった。

「お婆さん、私はじき帰るんですが、」

「あい、」

「どうぞねえ、」と何やら心細そうで気にかかると、老人としよりの目もさとく、

「内方にゃ御病気なり、夜分、また、どうしてじゃ。総曲輪へ芝居にでも誘われさっせえたか。はての、」

 と目をると、片蔭に洋服の長い姿、貧乏町のほこりが懸るといったように、四辺あたりを払って島野がたたずむ。南無三なむさん悪い奴と婆さんは察したから、

「何にせい、夜分出歩行であるくのは、若い人に良くないてや、留守の気を着けるのが面倒なではないけれども、大概ならよしにさっしゃるがかろうに。」

 と目で知らせながら、さあらず言う。

「いえ、お召なんでございます。四十物町あえものちょうのお邸から、用があるッて、そう有仰おっしゃるのでございますから。」

「四十物町のお花主とくいというと、何、知事様のお邸だッけや。」

「お嬢様が急に、御用がおあんなさいますッて。」

「うんや、善くないてや。お前様が行く気でも、わしが留めます。お嬢様の御用とって、お前、医者じゃあなし、駕籠屋かごやじゃあなし、差迫った夜の用はありそうもない。大概の事は夜が明けてからする方が仕損じが無いものじゃ。若いものは、なおさら、女じゃでの、はて、月夜に歩いてさえ、美しい女の子は色が黒くなるという。」

「はい、ですけれども。」

「殊にやみじゃ、狼があとけるでの、たってめにさっせえよ。」と委細は飲込んだ上、そこらへ見当を付けたので、婆さんは聞えよがし。

 島野は耐えかねてずッと出て、老人としよりには目も遣らず、

「さあ、」

「…………」黙って俯向うつむく。

「おい、」とちと大きくいって、洋杖ステッキでこと、こと、こと。

 お雪は覚悟をした顔を上げて、

「それじゃあお婆さん。」

「待たっせえ、いや、もし、お前様、もし、旦那様。」

 顧みもせず島野は、おれほどのものが、へん、愚民にお言葉を遣わさりょうや!

 婆さんも躍気やっきになって、

「旦那様、もし。」

「おれか。」

「へい、ばばがおねがいでござります、お雪が用は明日のことになされ下さりませ。内には目の不自由な人もござりますし、四十物町までは道も大分でござりますで。」

「何だ、お前は。」

「へい、」

「さあ、行こう。」

 お雪は黙って婆さんの顔を見たが、詮方せんかたなげであわれである。

「お前様、何といっても、」と空しく手をって、伸上った、婆は縋着すがりついても放したくない。

「知事様のお使だ。」と島野が舌打して言った。

 これが代官様より可恐おそろしく婆の耳には響いたので、目をみはって押黙る。

 その時、花屋の奥で、りんとして澄んで、うら悲しく、

雲横秦嶺家何在くもはしんれいによこたわっていえいずくにかある

雪擁藍関馬不前ゆきはらんかんをようしてうますすまず

 と、韓湘かんしょうが道術をもって牡丹花ぼたんかの中に金字であらわしたという、一れんの句を口吟くちずさむ若山の声が聞えてんだ。

 お雪はほろりとしたが、打仰いで、淋しげに笑って、

「どうぞ、ねえ。」


       二十五


 恩になる姫様ひいさま、勇美子が急な用というにさからい得ないで、島野に連出されたお雪は、屠所としょの羊のあゆみ

「どういう御用なんでございましょう。いつも御贔屓ごひいきになりますけれども、つい、お使なんぞ下さいましたことはございませんのに、何でしょうね、れませんこッてすから、胸がどきどきして仕様がありません。」

 島野は澄ましてひややかに、

「そうですか。」

貴下あなた御存じじゃあないのですか。」

「知らないね。」と気取った代脉だいみゃくが病症をいわぬにひとしい。

 わざと打解けて、底気味の悪い紳士の胸中を試みようとしたお雪は、取附とりつく島もなくしおれて黙った。

 二人は顔を背け合って、それから総曲輪へ出て、四十物町へ行こうとする、杉垣がさしはさんで、樹が押被おっかぶさったこみちを四五間。

「兄さんに聞いたらかろう。」島野は突然こう言って、ずッと寄って、肩を並べ、

「何もそんなに胸までどきつかせるには当らない、大した用でもなかろうよ。たかがお前この頃情人いいひとが出来たそうだね、お目出度いことよ位なことをわれるばかりさ。」

いやでございます。」

「厭だって仕方がない、何も情人が出来たのに御祝儀をいわれるたッて、弱ることはないじゃあないか。ふん、結構なことさね、ふん、」

 と呼吸いきがはずむ。

「ほんとうでございますか。」

「まったくよ。」

「あら、それでは、あのわたくしは御免こうむりますよ。」

 お雪は思切って立停たちどまった、短くさし込んだ胸の扇もきりりとする。

「御免蒙るッて、来ないつもりか。おい、お嬢様が御用があるッて、僕がわざわざむかいに来たんだが、御免蒙る、ふん、それでいのか。──御免蒙る──」

「それでも、おなぶり遊ばすんですもの、わたくしは辛うございます。」

「可いさ、来なけりゃ可いさ、そのかわり、お前、知事様のお邸とは縁切だよ。かろう、毎日の米の代といっても差支えない、大切なお花主とくいを無くする上に、この間から相談のある、黒百合の話も徒為ふいになりやしないかね。仏蘭西フランスの友達に贈るのならばって、奥様も張込んで、勇美さんの小遣にうんと足して、ものの百円ぐらいは出そうという、お前その金子かね生命いのちがけでもほしいのだろう、どうだね、やっぱり御免を蒙りまするかね。」といって、にやにやと笑いけり。

 お雪は深い溜息ためいきして、

「困っちまいました、私はもうどうしたら可いのでございましょうねえ。」

 詮方なげに見えて島野にすがるようにいった。お雪はむことを得ず、その懐に入って救われんとしたのであろう。

 紳士は殊の外その意を得た趣で、

「まあ、一所に来たまえ。だから僕が悪いようにゃしないというんだ。え、どこかちょっと人目に着かない処で道寄をしようじゃあないか、そしていろいろ相談をするとしよう。またどんなうまい話があろうも知れない。ははは、まずまあ毎日汗みずくになって、お花は五厘なんていって歩かないでも暮しのつくこッた。それに何さ、兄さんとかいう人に存分療治をさせたい、金子かねおのずからほしくなくなるといったような、ね、まあまあ心配をすることはないよ、来たまえ!」といって、さっさっと歩行あるき出す。お雪は驚いて、追縋るようにして、

「貴下、どちらへ参るんでございます。」


       二十六


「心得てるさ、ちっとも気あつかいのいらないように万事取計らうから可いよ。向うが空屋あきやで両隣がはたけでな、つんぼの婆さんが一人で居るという家が一軒、……どうだね、」と物凄ものすごいことをいう。この紳士は権柄けんぺいずくにおためごかしを兼ねて、且つ色男なんだから極めて計らいにくいのであります。

 勇美子の用でも何でもない。大方こんなこととは様子にも悟っていたが、打着けに言われたので、お雪も今更ぎょっとした。

みちも遠うございますから、おそくなりましょう、直ぐあの、お邸の方へ参っちゃあ不可いけませんか。」

「何、遠慮することはないさ。」

 これだもの。…………

「いいえ、」といったばかり。お雪は遁帰にげかえ機掛きっかけもなし、声を立てるすうでもなし、理窟をいうわけにもかず、急におなかが痛むでもない。手もつけられねば、ものも言われず。

 こみちややそのなかばを過ぎて、総曲輪に近くなると、島野は莞爾にこやかに見返って、

「どうだ、御飯でも食べて、それからそのうちへ行くとしようか。」

 お雪はものもいい得ない。背後うしろから大きな声で、

おごれ奢れ、やあ、棄置かれん。」と無遠慮にわめいてぬいと出た、この野面のづらを誰とかする。白薩摩の汚れた単衣ひとえ、紺染の兵子帯へこおび、いが栗天窓ぐりあたま団栗目どんぐりめ、ころころと肥えて丈の低きが、藁草履わらぞうり穿うがちたる、あにそれ多磨太にあらざらんや。

 島野は悪い処へ、という思入おもいれあり。

「おや、どちらへ。」

「ははあ、貴公と美人とが趣く処へどこへなと行くで。奢れ! 大分ほッついたで、夕飯の腹も、ちょうど北山とやらじゃわい。」

「いいえさ、どこへ行くんです。」と島野は生真面目きまじめになって押えようとする、と肩をゆすって、

「知事が処じゃ。」

「今ッからね。」

「うむ、勇美子さんが来てくれいと言うものじゃでの。」

「へい、」と妙な顔をする。

 多磨太、大得意。

なんよ、また道寄も遣らかすわい。向うが空屋で両隣は畠だ、聾のばばあが留守をしとる、ちっとも気遣きづかいはいらんのじゃ、万事わしが心得た。」

「驚いたね。」

「どうじゃ、恐入ったか。うむ、好事魔多し、月に村雲じゃろ。はははは、感多少かい、先生。」

「何もその、だからそういったじゃアありませんか。君、僕だけは格別で。」

あにしからん、この美肉をよ、貴様一人で賞翫しょうがんしてみい、たちまち食傷して生命にかかわるぞ。じゃからわしが注意して、あらかじめ後をけて、好意一足の藁草履をもたらしきたった訳じゃ、感謝して可いな。」

 島野は苦々しい顔色かおつきで、

「奢ります、いずれ奢るから、まあ、君、君だって、分ってましょう。それ、だから奢りますよ、奢りますよ。」

豚肉とんにく不可いかんぞ。」

「ええ、もうずっとそこン処はね。」

「何、貴様のずっとはずっと見当が違うわい。そのいわゆるずっとというのは軍鶏しゃもなんじゃろ、しからずんばうなぎか。」

「はあ、何でも、」とうなずくのを、見向もしないで。

あらず、わしが欲する処はの、ゆうにあらず、にあらず、牛豚ぎゅうとん、軍鶏にあらず、鰻にあらず。」

「おやおや、」

「小羊の肉よ!」

「何ですって、」

「どうだ、螇蚸ばった蟷螂かまきり、」といいながら、お雪と島野をかわがわる、笑顔でみまわしても豪傑だからにらむがごとし。


       二十七


 島野は持余した様子で、苦り切って、ただ四辺あたりを見廻すばかり。多磨太は藁草履の片足を脱いで、砂だらけなので毛脛けずねこすった。

ぶよす、蚋が螫すわ。どうじゃ、歩き出そうでないか。たまらん、こりゃ、立っとッちゃあらち明かん、さあさきね、貴公。美人は真中まんなかよ、わし殿しんがりを打つじゃ、早うせい。」

 島野はたまりかねて、五六歩かたわらけて目で知らせて、

「ちょいと、君、雀部さん、ちょいと。」

「何じゃ、」と裾をつかみ上げて、多磨太はずかずかと寄る。

 島野は真顔になって、口説くように、

「かねて承知なんじゃあないか、君、ここは一番ひとつ粋を通して、ずっと大目に見てくれないじゃあ困りますね。」となさけなそうにいった。

「どうするんかい、」

「何さ、どうするッて。」

「貴公、どこへしょびくんじゃ、あの美人をよ、巧く遣りおるの。うう、」と団栗目を細うして、変な声で、えへ、えへ、えへ。

「しょびくたって何も君、まったくさ、お嬢さんが用があるそうだ。」

「嘘をけい、誰じゃと思うか、ああ。貴公目下のこの行為は、公の目から見ると拐帯かどわかしじゃよ、詐偽さぎじゃな。我輩警察のために棄置かん、直ちに貴公のその額へ、白墨で、輪を付けて、交番へ引張ひっぱるでな、左様さよ思え、はははは。」

串戯じょうだんをいっちゃあ不可いけません。」

「何、構わず遣るぞ。しゃくじゃ、第一、あの美人は、わしさきへ目を着けて、その一挙一動を探って、兄じゃというのが情男いろおとこなことまで貴公にいうてやった位でないかい。考えてみい、いかに慇懃いんぎんを通じようといって、貴公ではと思うで、なぶる気で打棄うっちゃっておいたわ。今夜のように連出されては、こりゃならんわい。向面むこうづらへ廻って断乎として妨害を試みる、なんじにジャムあれば我に交番ありよ。来るか、対手あいてになるか、来い、さあ来い。両雄並び立たず、一番勝敗を決すべい。」

 と腕まくりをして大乗気、手がつけられたものではない。島野もここに至って、あきらめて、ぐッと砕け、

「どうです、一ツ両雄並び立とうではありませんか、ものは相談だ。」と思切っていう。多磨太は目をみはって耳をそばだてた。

「ふむ、立つか、見事両雄がな。」

「耳を、」肩を取って、口をつけ、二人はの下蔭にささやきを交え、手を組んで、短いのと、長いのと、四脚を揃えたのがかすかに見える。お雪は少し離れて立って、身を切裂かるる思いである。

 当座の花だ、むずかしい事はない、安泊やすどまりへでも引摺込ひきずりこんで、裂くことは出来ないが、美人たぼ身体からだを半分ずつよ、丶丶丶の令息むすこと、丶丶の親類とで慰むのだ。土民の一少婦、美なりといえどもあえて物の数とするには足らぬ。

「ね、」

(笑って答えず。)

 多磨太はうなずいて身を退いて、両雄いい合わせたようにきっとお雪を見返った。

 こみちかぶさった樹々の葉に、さらさらと渡って、すそから、袂から冷々ひやひやはだに染み入る夜の風は、以心伝心二人の囁を伝えて、お雪は思わず戦悚ぞっとした。もう前後あとさきわきまえず、しばらくもそばには居たたまらなくなって、そのまま、

「島野さん、おつれ様もお見え遊ばしたし、失礼いたしますから、お嬢様にはどうぞ、」も震え声で口のうち、返事は聞きつけないで、引返ひっかえそうとする。

「待ちなさい、」

「待て、おい、おい、おい、待て!」といいさま追いすがって、多磨太は警部長の令息であるから傍若無人。

「あれ、」とげにかかる、小腕こがいなをむずと取られた。なりも、ふりも、くれない白脛しらはぎ


       二十八


もがくない、螇蚸ばった、わはは、はは、」多磨太は容赦なくそのいわゆる小羊を引立ひったてた。

「あれ、放して、」

「おい、声を出しちゃあ不可いかん、黙っていな、おとなしくしてついておいで。あれそれ謂っちゃあ第一何だ、お前の恥だ。往来で見ッともない、人が目をつけて顔を見るよ。」と島野は落着いたものである。多磨太は案をたないばかりで、

「しかり、あきらめて覚悟をせい。うおの中でもこいとなると、品格が可いでな、まないたに乗るとねんわい。声を立てて、助かろうと思うてもらち明かんよ。我輩あえてはばからず、こうやって手を握ったまま十字街頭を歩くんじゃ。誰でも可い、何をするととがめりゃ、黙れとくらわす。此女こいつ取調とりしらべの筋があるで、交番まで引立ひったてる、わしは雀部じゃというてみい、何奴どいつもひょこひょこと米搗虫こめつきむしよ。」

「呑気なものさね、」と澄まし切って、島野は会心の微笑を浮べた。

「さあ、行こう、何も冥途めいどへ連れて行くんじゃあないよ。謂わばまあ殿様のお手が着くといったようなものさ。どうして雀部やわしを望んだって、花売なんぞが、口も利かれるもんじゃあない、難有ありがたく思うが可いさ。」

 法学生の堕落したのが、上部を繕ってる衣を脱いだ狼と、虎とで引挟ひっぱさみ、縛って宙に釣ったよりは恐しい手籠てごめの仕方。そのまま歩き出した、一筋路。わかい女を真中まんなかに、おのこが二人要こそあれと、総曲輪の方から来かかってあゆみとどめ、あわいを置いて前屈まえかがみになって透かしたが、繻子しゅすの帯をぎゅうと押えて呑込んだという風で、立直って片蔭に忍んだのは、前夜えのきの下で、銀流ぎんながしの粉を売った婦人おんなであった。

 お雪は呼吸いきさえ高うはせず、気を詰めて、汗になって、

「まあ、この手を放して、ねえ、手を放して、」とそぞろである。

「可いわ、放すからげちゃあならんぞ、」

「何、逃げれば、つかまえる分のことさ、」

 あらかじめ因果を含めたからと、高をくくって、手を放すと半ば夢中、身を返して湯の谷の方へ走ろうとする。

「やい、うぬ!」

 藁草履を蹴立てて飛着いて、多磨太が暗まぎれに掻掴かいつかむ、鉄拳かなこぶしに握らせて、自若として、少しも騒がず、

「色男!」といって呵々からからと笑ったのは、男の声。呆れて棒立になった多磨太は、余りのことにその手を持ったまま動かず、ほとんど無意識にすくんだ。

「島野か、そこに居るのは。島野、おい、島野じゃないか。」

 紳士はぎょっとして、思わず調子はずれに、

、誰です。」

おいらだ、滝だよ。おい、ちょいと誰だか手を握った奴があるぜ。串戯じょうだんじゃあない、気味が悪いや、そういってお前放さしてくんな。おう、後生大事と握ってやがらあ。」

 先刻さっき荒物屋の納戸で、おうなと蚊の声の中にことばを交えた客はすなわちこれである。媼は、誰とも、いかなる氏素性の少年とも弁えぬが、去年秋銃猟の途次みちすがら、渋茶を呑みに立寄って以来、婆や、うちは窮屈で為方しかたがねえ、と言っては、夜昼くつろぎに来るので、里の乳母のように心安くなった。ただ風変りな貴公子だとばかり思ってはいるが、──その時お雪が島野に引出されたのを見て、納戸へ転込ころげこんで胸を打って歎くので、一人の婦人おんなを待つといって居合わせたのが、笑いながら駆出して湯の谷からすくいに来たのであった。


       二十九


 子爵千破矢滝太郎は、今年が十九で、十一の時まで浅草俵町たわらまちの質屋の赤煉瓦あかれんがと、屑屋くずやの横窓との間の狭い路地を入った突当りの貧乏長家に育って、納豆を食い、水を飲み、夜はお稲荷いなりさんの声を聞いて、番太の菓子をかじった江戸児えどッこである。

 母親と祖父じいとがあって、はじめは、湯島三丁目に名高い銀杏いちょうの樹に近い処に、立派な旅籠屋はたごや兼帯の上等下宿、三階づくりやかたの内に、地方から出て来る代議士、大商人おおあきんどなどを宿して華美はで消光くらしていたが、滝太郎が生れて三歳みッつになった頃から、年紀としはまだ二十四であった、若い母親が、にわかに田舎ものは嫌いだ、虫が好かぬ、一所の内に居ると頭痛がすると言い出して、地方の客の宿泊をことごとく断った。神田の兄哥あにい、深川の親方が本郷へ来て旅籠を取るすうではないから、家業はそれっきりである上に、俳優狂やくしゃぐるいを始めて茶屋小屋ばいりをする、角力取すもうとり、芸人を引張込ひっぱりこんで雲井を吹かす、酒を飲む、骨牌かるたもてあそぶ、爪弾つまびきを遣る、洗髪あらいがみの意気な半纏着はんてんぎで、晩方からふいとうちを出ては帰らないという風。

 滝太郎の祖父じいは母親には継父であったが、目を閉じ、口をふさいでもの言わず、するがままにさせておくと、瞬く内に家も地所も人手に渡った。うまでもなく四人の口を過ごしかねるようになったので、大根畠に借家して半歳ばかり居食いぐいをしたが、見す見す体にかんなを懸けて削りくすようなものであるから、近所では人目がある、浅草へ行って蔵前辺に屋台店でも出してみよう、煮込おでんのつゆを吸っても、かつえて死ぬにはましだという、祖父の繰廻しで、わずか残った手廻てまわりの道具を売ってうごきをつけて、その俵町の裏長屋へ越して、祖父は着馴きなれぬ半纏被はんてんぎに身をやつして、孫の手を引きながら佐竹ヶ原から御徒町辺おかちまちあたりの古道具屋を見歩いたが、いずれも高直たかねで力及ばず、ようよう竹町の路地の角に、黒板塀に附着くッつけて売物という札をってあった、屋台を一個ひとつ、持主の慈悲で負けてもらって、それから小道具を買揃えて、いそいそ俵町にいて帰ると、馴れないことで、その辺の見計いはしておかなかった、くだんの赤煉瓦と横窓との間の路地は、入口が狭いので、どうしても借家まで屋台を曳込ひきこむことが出来ないので、そのまま夜一夜よひとよ置いたために、三晩とはかず盗まれてしまったので、祖父は最後の目的の水の泡になったのに、落胆して煩い着いたが、滝太郎の舌が廻って、祖父ちゃん祖父ちゃん、というのを聞いて、それを思出に世を去った。

 後は母親が手一ツで、細い乳を含めてる、幼児おさなごが玉のような顔を見ては、世に何等かの大不平あってしかりしがごとき母親が我慢の角も折れたかして、涙で半襟の紫の色のせるのも、汗で美しい襦袢じゅばんの汚れるのもいとわず、意とせず、たる内職をして苦労をし抜いて育てたが、六ツ七ツ八ツにもなれば、ぜんも別にして食べさせたいので、手内職では追着おッつかないから、世話をするものがあって、毎日吾妻橋を越してある製糸場に通っていた。

 留守になると、橋手前には腕白盛わんぱくざかりの滝太一人、行儀をしつけるものもなし、居まわりが居まわりなんで、鼻緒を切らすと跣足はだし駆歩行かけあるく、袖が切れれば素裸すッぱだかで躍出る。砂をつかむ、小砂利を投げる、溝泥どぶどろ掻廻かきまわす、喧嘩けんかはするが誰も味方をするものはない。日が暮れなければ母親は帰らぬから、昼の内は孤児みなしご同様。親が居ないと侮って、ちょいと小遣でもあるてあいは、除物のけものにしていじめるのを、太腹ふとッぱらの勝気でものともせず、愚図々々いうと、まわらぬ舌で、自分が仰向あおむいて見るほどの兄哥あにいに向って、べらぼうめ!


       三十


 その悪戯いたずらといったらない、長屋内は言うに及ばず、横町裏町までね廻って、片時の間も手足をじっとしてはいないから、余りその乱暴を憎らしがる女房かみさん達は、金魚だ金魚だとそういった。けだし美しいが食えないというこころだそうな。

 滝太はその可愛い、品のある容子ようすに似ず、また極めて殺伐さつばつで、ものの生命いのちを取ることを事ともしない。蝶、蜻蛉とんぼあり蚯蚓みみず、目を遮るに任せてこれを屠殺とさつしたが、馴るるに従うて生類を捕獲するすさみに熟して、蝙蝠こうもりなどは一たび干棹ほしざおふるえば、立処たちどころに落ちたのである。虫も蛙となり、蛇となって、九ツ十ウに及ぶ頃は、薪雑棒まきざっぽうで猫をって殺すようになった。あのね、ぶんなぐるとね、飛着くよ。その時は何でもないの、もうちッとひどくくらわすと、丸ッこくなってね、フッてんだ。うなっておっかねえ目をするよ、恐いよ。そこをも一ツつところりと死ぬさ。でもね、坊はね、あのはじめの内は手が震えてね、そこでしちゃッたい。今じゃ、化猫わけなしだと、心得澄したもので。あれさ妄念もうねん可恐おそろしい、化けて出るからお止しよといえば、だから坊はね、おいらのせいじゃあないぞッて、そう言わあ。滝太郎はものの命を取る時に限らず、するな、止せ、不可いけないと人のいうことをあえてする時は、手を動かしながら、幾たびもおいらのせいじゃないぞと、口癖のようにいつも言う。

 井戸端で水を浴びたり、合長屋の障子を、トつばで破いて、その穴から舌を出したり、路地の木戸を石磈いしころでこつこつやったり、柱を釘できずをつけたり、階子はしごを担いで駆出すやら、地蹈鞴じだんだんで唱歌を唄うやら、物真似は真先まっさきに覚えて来る、喧嘩の対手あいては泣かせて帰る。ある時も裏町の人数八九名に取占とっちめられて路地内へげ込むのを、容赦なく追詰めると、滝はひさしを足場にある長屋の屋根へ這上はいあがって、かわらくって投出した。やんちゃんもここに至っては棄置かれず、言付け口をするも大人げないと、始終蔭言かげごとばかり言っていた女房かみさん達、たまりかねて、ちと滝太郎をたしなめるようにと、ってから帰る母親に告げた事がある。

 しかるに、近所では美しいと、しおらしいで評判の誉物ほめものだった母親が、ごうもこれをまこととはしない。ただそうですか済みませんとばかり、人前では当らず障らずに挨拶をして、滝や、滝やと不断の通りやさしい声。

 それもそのはず、滝は他に向って乱暴狼藉ろうぜきを極め、はばからず乳虎にゅうこの威をふるうにもかかわらず、母親の前ではおおきな声でものも言わず、灯頃ひともしころ辻の方に母親の姿が見えると、駆出して行って迎えて帰る。それからは畳を歩行ある跫音あしおともしない位、以前のおもかげしのばるる鏡台の引出ひきだしの隅に残った猿屋の小楊枝こようじさきで字をついて、膝も崩さず母親の前にかしこまって、二年級のおさらいをするのが聞える。あれだから母親おッかさんは本当にしないのだと、隣近所では切歯はがみをしてもどかしがった。

 学校は私立だったが、先生はまたなく滝太郎を可愛がって、一度同級の者と掴合つかみあいをしてげて帰って、それッきり、登校しないのを、先生がわざわざ母親の留守にむかいに来て連れて行って、そのために先生はほかの生徒の父兄等に信用を失って、席札はくしの歯の折れるように透いて無くなったが、あえてこころにも留めないで、ますます滝太郎を愛育した。いかにか見処みどころがあったのであろう。


       三十一


 しかるに先生は教うるにいかなる事をもってしたのであるか、まさかに悪智慧わるぢえを着けはしまい。前年その長屋の表町に道普請があって、向側へ砂利を装上もりあげたから、この町を通る腕車荷車は不残のこらず路地口の際をいて通ることがあった。雨が続いて泥濘ぬかるみになったのを見澄して、滝太が手ですくい、丸太で掘って、地面をくぼめておき、木戸に立って車の来るのを待っていると、くぼみ雨溜あめだまりで探りがらず、来るほどの車は皆輪が喰い込んで、がたりとなる。さらぬだに持余すのにこの陥羂おとしわなかかっては、後へもさきへも行くのではないから、汗になって弱るのを見ると、会心のえみらして滝太、おじさん押してやろう、幾干いくらかくんねえ、と遣ったのである。自から頼む所がなくなってはさるはかりごともしはせまい、憎まれものの殺生ずきはまた相応した力もあった。それはともかく、あの悪智慧のほどが可恐おそろしい、行末が思い遣られると、見るもの聞くもの舌を巻いた。滝太郎がその挙動を、鋭い目で角の屑屋の物置みたような二階の格子窓に、世をはばかる監視中の顔をあてて、匍匐はらばいになって見ていた、窃盗せっとう、万引、詐偽さぎもその時二十はたちまでにすうを知らず、ちょうど先月までくらい込んでいた、巣鴨が十たび目だというすごい女、渾名あだなを白魚のお兼といって、日向ひなたでは消えそうな華奢きゃしゃ姿。島田が黒いばかり、透通るような雪の肌の、骨も見え透いた美しいのに、可恐おそろしい悪党。すべて滝太郎の立居挙動ふるまいに心を留めて、人が爪弾つまはじきをするのを、独り遮ってめちぎっていたが、滝ちゃん滝ちゃんといって可愛がること一通ひととおりでなかった処。……

 滝太郎が、そののち十一の秋、母親が歿みまかると、双葉にしてらざればなどと、差配佐次兵衛、講釈に聞いて来たことをそのまま言出して、合長屋が協議の上、欠けた火鉢の灰までをおあしにして、それで出合だしあいの涙金を添えて持たせ、道でとびにでもさらわれたら、世の中が無事でい位な考えで、俵町から滝太郎を。

 一昨日おととい来るぜい、おさらばだいと、高慢な毒口を利いて、ふいと小さなものが威張って出る。見え隠れにあとをけて、その金竜山の奥山で、滝さん餞別せんべつをしようと言って、お兼が無名指べにさしからすっと抜いて、滝太郎に与えたのが今も身を離さず、勇美子が顔を赤らめてまで迫ったのを、頑としてかなかった指環ゆびわなのである。

 その時、奥山ではなむけした時、時ならぬ深夜の人影をえる黒犬があった。滝さんちょいとつかまえて御覧とお兼がいうから、もとより俵町界隈かいわいの犬は、声を聞いて逃げた程の悪戯いたずら小憎。御意は可しで、飛鳥のごとく、逃げるのを追懸おッかけて、引捕ひッとらえ、手もなくうなじぶちつかんで、いつか継父がくびり殺した死骸しがいの紫色の頬が附着くッついていた処だといって今でも人は寄附かない、ロハ台の際まで引摺ひきずって来ると、お兼は心得ていきな浴衣に半纏をひっかけた姿でちょいとかがみ、てのひらで黒斑をでた、指環がひらめいたと見ると、犬の耳が片一方、お兼のてのひらの上へ血だらけになって乗ったのである。人間でもわけなしだよ、と目前奇特を見せ、仕方を教え、針のごとく細く、しかも爪ほどのおおきさの恐るべき鋭利な匕首ナイフを仕懸けた、純金の指環を取って、これを滝太郎の手に置くと、かつて少年の喜ぶべき品、食物なり、何等のものを与えてもついぞ嬉しがったためしのない、一つはそれも長屋うちに憎まれるもといであった滝太郎が、さも嬉しげに見て、じっとみつめた、星のような一双のまなこの異様なかがやきは、お兼が黒い目でにらんでおいた。滝太郎は生れながらにして賊性をけたのである。諸君はかれがモウセンゴケに見惚みとれた勇美子の黒髪から、その薔薇ばらかおりのある蝦茶えびちゃのリボン飾を掏取すりとって、総曲輪の横町の黄昏たそがれに、これを掌中にもてあそんだのを記憶せらるるであろう。


       三十二


「滝さん、滝さん、おい、おい。」

わっちかい、」と滝太歩をとどめて振返ると、木蔭をこみちへずッと出たのは、先刻さっきから様子を伺っていた婦人おんなである。透かして見るより懐しげに、

「おう来たのか、おいら約束の処へ行っておめえの来るのを待ってたんだけれども、ちょいと係合かかりあいに取られて出て来たんだ。みちは一筋だから大丈夫だとは思ったが、逢い違わなければ可いと思っての。」

「そう、私実は先刻さっきからここに居たんだよ。路先を切って何か始まったから、田舎は田舎だけに古風なことをすると思ってね、旅稼たびかせぎつもりでぐッとお安く真中まんなかへ入ってやろうかと思ってる処へ、お前さんがおいでだから見ていたの。あい、おかしくッてうござんした。ここいらじゃあ尾鰭おひれを振って、肩肱かたひじいからしそうな年上なのを二人まで、手もなく追帰おッかえしたなあ大出来だ、ちょいとあおいでやりたいわねえ、滝さんお手柄。」

「馬鹿なことを謂ってらあ、何もこっちがえらいんじゃあねえ。島野ッてね、あのひょろ長え奴が意気地なしで、知事をこわがっていやあがるから、そこが附目つけめよ。おいらに何か言われちゃあ、後で始末が悪いもんだから、同類の芋虫まで、自分でなだめて連れて行ったまでのこッた。むこうが使ってる道具を反対あべこべにこっちで使われたんだね、別なこたあねえ、知事様がお豪いのでござりますだ。」といって事も無げに笑った。

「それじゃあ滝さん、毒をもって毒を制するとやらいうのかい。」

ねえや、おめえ学者だなあ、」

「旦那、御串戯ごじょうだんもんですよ。」とひとしく笑った。

 身装みなりは構わず、しぼりのなえたので見すぼらしいが、鼻筋の通った、めじりの上った、意気のさかんなることその眉宇びうの間にあふれて、ちっともめげぬ立振舞。わざと身をやつしてさるもののように見らるるのは、さきの日総曲輪の化榎ばけえのきの下で、銀流しを売っていた婦人おんなであって──且つわかかりし時、浅草で滝太郎に指環を与えた女賊白魚のお兼である。もとより掏賊すりの用に供するために、自分の持物だった風変りな指環であるから、銀流を懸けろといって滝太が差出したのを、お兼は何条見免みのがすべき。

 はじめはあやしみ、なかばは驚いて、はてはその顔を見定めると、幼立おさなだちに覚えのある、裏長屋の悪戯いたずら小憎、かつてその黒い目でにらんでおいた少年の懐しさに、取った手を放さないでいたのであったが。十年ばかりも前のこと、場所も意外なり、境遇も変っているから、滝太郎の方では見忘れて、何とも覚えず、底気味が悪かった。

 横町の小児こども足搦あしがらみの縄を切払うごときはおろかなこと、引外してにげるはずみに、指が切れて血が流れたのを、立合のひとあやしんで目を着けるから、場所を心得て声も懸けなかったほど、思慮の深い女賊は、滝太郎の秘密を守るために、仰いでその怪みを化榎に帰して、即時人の目をくるめたので。

 越えて明くる、宵のほどさえ、分けて初更しょこうを過ぎて、商人あきんどの灯がまばらになる頃は、人の気勢けはいも近寄らない榎の下、お兼が店を片附ける所へ、突然とあらわで、いま巻納めようとする茣蓙ござの上へ、一束の紙幣を投げて、黙っててくんねえ、人に言っちゃ悪いぜとばかり、たちまち暗澹あんたんたる夜色は黒い布の中へ、機敏迅速な姿を隠そうとしたのは昨夜の少年。四辺あたりに人がないから、滝さんといって呼留めて、お兼はひさしぶりでめぐりあったが、いずれも世をはばかって心置のない湯の谷で、今夜の会合をあらかじめ約したのであった。


       三十三


 二人は語らい合って、湯の谷のばばかたへ歩き出した。

 お兼は四辺あたりみまわして、

「そりゃそうと、ひどい目に逢いそうだった姉さんはどうしたの。なんだかお前さんと、あのふとった、」

「芋虫か、」

「え、じゃあ細長い方は蚯蚓みみずかい。おほほほほ、おかしいねえ、まあ、その芋虫と、蚯蚓とお前さんと。」

いやだぜ、おいら虫じゃあねえよ。」とつぶらに目をみはってわざと真顔になる。

「御免なさいまし、三人ともえになってごたごたしてるので、つい見はぐしたよ、どうしたろう。」

「何か、あの花売の別嬪べっぴんか。」

「高慢なことをいうねえ、花売だか何だか。」

「うむ、ありゃもうとっくに帰った。おいいてことよと受合って来たけれども、不安心だと見えてあとからついて来たそうで、老人としよりは苦労性だ。挨拶あいさつだの、礼だの、誰方どなただのと、面倒くせえから、ちょうど可い、連立つれだたして、さっさと帰しちまった。」

「何しろかったねえ。喧嘩になって、また指環でも揮廻ふりまわしはしないかと、私ははらはらして見ていたんだよ。ほんとにお前さん、あれを滅多に使っちゃあ悪うござんす。」

まむしの針だ、大事なものだ。人に見せてたまるもんか、そんなどじなこたあしやしないよ。」

「いかがですか、こないだ店前みせさきへ突出したお手際では怪しいもんだよ。多勢居る処じゃあないかね。」

「誰がまた姉や、おめえだと思うもんか。あの時はどきりとした、ほんとうだ、縛られるかと思った。」

「だからさ、私に限らず、どこにどんな者が居ないとも限らないからね、うっかりしちゃあ危険けんのんだよ。」

「あい、いいえ、それが何だ、知事のお嬢さんがね、いやに目をつけて指環を取換とッかえようなんて言うんだ。何だか機関からくりを見られるようで、気がさすから、目立たないのが可かろう、銀流でもかけておけと、訳はありゃしねえ、出来心で遣ったんだ、相済みません。」といって、莞爾かんじとしてたわむれにそのつむりを下げた。

沢山たんとお辞儀をなさい、お前さんしからないねえ。そりゃれてるんだろう、恐入った?」

「おお、惚れたんだか何だか知らねえが、姫様ひいさまの野郎が血道を上げて騒いでるなあ、黒百合というもんです。」

「何だとえ。」

「百合の花の黒いんだッさ、そいつを欲しいって騒ぐんだな。」

「へい、欲しければ買ったら可さそうなもんじゃあないか。」

「それがね、不可いけねえんだ、銭金ぜにかねずくじゃないんだってよ。何でも石滝って処を奥へ蹈込ふみこむと、ちょうど今時分咲いてる花で、きっとあるんだそうだけれど、そこがまた大変な処でね、天窓あたまが石のような猿の神様が住んでるの、おそろしおおきわしが居るの、それから何だって、山ン中だというに、おかしいじゃあねえか、水掻みずかきのある牛が居るの、種々いろいろなことをいって、まだ昔から誰も入ったことがないそうで、どうして取って来られるもんだとも思やしないんだってこッた。弱虫ばかり、喧嘩の対手あいてにするほどのものも居ねえ処だから、そン中へ蹈込んで、骨のある妖物ばけものにでも、たんかを切ってやろうと、おいらなんするけれども、ついせわしいもんだから思ったばかし。」

「まあ、大層お前さん、むずかしいのね、忙いって何の事だい。」

「だから待ちねえ、見せるてこッた、うんと一番ひとつ喜ばせるものがあるんだぜ。」

「ああ、その滝さんが見せるというものは、何だか知らないが見たいものだよ。」


       三十四


 滝太郎はかつて勇美子に、微細なるモウセンゴケの不思議な作用を発見した視力をたたえられて、そのどこで採獲とりえたかの土地を聞かれた時、言葉を濁して顔の色を変えたことを──前回に言った。

 いでそのモウセンゴケをかれが採集したのは、湯の谷なる山の裾の日当ひあたりに、雨の後ともなく常にじとじと、濡れた草が所々にある中においてした。しかもお雪が宿の庭つづき竹藪たけやぶ住居すまいを隔てた空地、直ちに山の裾が迫る処、その昔は温泉湧出わきでたという、洞穴ほらあなのあたりであった。人は知らず、この温泉の口の奥は驚くべき秘密を有して、滝太郎が富山において、随処その病的の賊心をほしいままにした盗品を順序よく並べてある。されば、お雪が情人に貢ぐために行商する四季折々の花、美しくかおりのあるのを、露もこぼさず、日ごとにこの洞穴の口浅く貯えておくのは、かえって、滝太郎が盗利品に向って投げた、花束であることを、あらかじめここに断っておかねばならぬ。

 さて、滝太郎がその可恐おそろしい罪を隠蔽いんぺいしておく、温泉の口のあたりで、精細かたのごときモウセンゴケを見着けた目は、やがてまた自分がそこに出没する時、人目のありやなしやをじっと見定めるまなこであるから、おのれの視線の及ぶかぎりは、樹も草も、雲の形も、日の色も、従うて蟻の動くのも、露のこぼるるのも知らねばならないので、地平線上に異状を呈した、モウセンゴケの作用は、むしろ渠がいまだかつて見も聞きもしなかったほど一層心着くに容易たやすいのであった。あたかも可し、さる必用を要する渠がまなこは、世に有数の異相と称せらるる重瞳ちょうどうである。ただし一双ともにそうではない、左一つひとみかさなっている。

 そのせいであったろう。浅草で母親が病んで歿みまかる時、手を着いて枕許まくらもとに、衣帯を解かず看護した、滝太郎のうなじを抱いて、(お前は何でもしたいことをおしよ、どんなことでもお前にはきっと出来るのだから、)といったッきり、もう咽喉のどがすうすうとなった。

 その上また母親はあらかじめ一封の書をしたためておいて、不断滝太郎から聞き取って、その自分の信用を失うてまで、人の忌嫌う我児を愛育した先生に滝太郎の手から託さするように遺言して、(私が亡くなった後で、もしも富山からだといって人が尋ねて来たら、この手紙を渡して下さい。開けちゃあ不可いけません、来なかったらばそのままで破って下さい、きっとお見懸け申してお頼み申します。)と言わせたのである。

 やや一月ばかりつと、その言違ことたがわず果して富山からだといって尋ねて来たのが、すなわち当時の家令で、先代に託されて、その卒去ののち、血統というものが絶えて無いので、三年間千破矢家をあずかっていて今も滝太郎を守立ててる竜川守膳たつかわしゅぜんという漢学者。

 守膳は学校の先生から滝太郎の母親の遺書を受取ったが、その時は早や滝太郎が俵町を去って二月ばかり過ぎた後であったので、泰山のごとく動かず、風采ふうさい、千破矢家のたるに足る竜川守膳が、顔の色を変えて血眼になって、その捜索を、府下における区々の警察に頼み聞えると、両国回向院えこういんのかの鼠小憎の墓前はかのまえに、居眠いねむりをしていた小憎があった。巡行の巡査があやしんで引立ひったて、最寄の警察で取調べたのが、俵町の裏長屋に居たそれだと謂って引渡された。

 田舎はいやだと駄々をねるのを、守膳が老功でなだすかし、道中土をまさず、ゆるぎ殿のお湯殿子ゆどのこ調姫しらべひめという扱いで、中仙道は近道だが、船でもおかでも親不知おやしらずを越さねばならぬからと、大事を取って、大廻おおまわりに東海道、敦賀、福井、金沢、高岡、それから富山。


       三十五


 湯の谷の神の使だという白烏しろからすは、朝月夜にばかりまれに見るものがあると伝えたり。

 ものの音はそれではないか。時ならず、花屋が庭つづきやぶの際に、かさこそ、かさこそとひびきを伝えて、ややありて一面に広々として草まばらな赤土の山のすそへ、残月の影に照らし出されたのは、小さい白い塊である。

 その描けるがごとき人の姿は、うッすりと影を引いて、地の上へ黒い線が流るるごとく、一文字に広場を横切って、竹藪を離れたと思うと、やがて吹流しに手拭をかぶった婦人おんなの姿があらわれて立ったが、先へく者のあとを拾うて、足早に歩行あるいて、一所になると、影は草の間に隠れて、二人は山腹に面したくだん温泉の口の処で立停たちどまった。夏の夜はまだ明けやらず、しんとして、樹の枝に鳥がねぐら蹈替ふみかえる音もしない。

いておいで、この中だ。」と低声こごえでいった滝太郎の声も、四辺あたり寂莫せきばくに包まれて、異様に聞える。

 そのまま腰をかがめて、横穴の中へ消えるよう。

 お兼は抱着くがごとくにして、山腹の土に手をかけながら、体を横たえ、顔をななめにして差覗さしのぞいて猶予ためらった。

「滝さん、暗いじゃあないか。」

 途端に紫の光一点、𤏋ぱっと響いて、早附木マッチった。ほらの中は広く、滝太郎はかえってくつろいで立っている。ほとんどその半身をおおうまで、うずだかい草の葉活々いきいきとして冷たそうに露をこぼさぬ浅翠あさみどりの中に、萌葱もえぎあか、薄黄色、幻のような早咲の秋草が、色も鮮麗あざやかに映って、今踏込むべき黒々とした土の色も見えたのである。

花室はなむろかい、綺麗だね。」

「入口は花室だ、まだずっと奥があるよ。これからつき当って曲るんだ、待っといで、暗いからな。」

 燃え尽して赤い棒になった早附木マッチを棄てて、お兼を草花の中に残して、滝太郎は暗中に放れて去る。

 お兼は気を鎮めてほらの口に立っていたが、たちまちあわただしく呼んだ。

「ちょいと……ちょいと、ちょいと。」

 音も聞えず。お兼は尋常ただならず声を揚げて、

「滝さん、おい、ちょいと、滝さん。」

「おう、」とこたえて、洞穴の隅の一方に少年の顔は顕れた。早く既に一個角燈に類した、あらかじめそこに用意をしてあるらしいともしを手にしている。

 お兼は走り寄って、附着くッついて、

「恐しい音がする、何だい、大変な響だね。地面をえぐり取るような音が聞えるじゃあないか。」

 いかにも洞の中は、ただこれ一条の大瀑布ばくふあって地の下にみなぎるがごとき、すさまじい音が聞えるのである。

 滝太郎は事もなげに、

「ああ、こりゃね、神通川の音と、立山の地獄谷の音が一所になって聞えるんだって言うんだ。地底じぞこがそこらまで続いているんだって、何でもないよ。」

 神通は富山市の北端を流るる北陸ほくろく七大川の随一なるものである。立山の地獄谷はまた世に響いたもので、ここにその恐るべき山川さんせん大叫喚の声を聞くのは、さすがに一個婦人の身に何でもない事ではない。

 お兼は顔の色も沈んで、滝太郎にひしと摺寄すりよりながら、

「そうかい、川の音はいけれど地獄が聞えるなんざ気障きざだねえ。ちょいと、これから奥へ入ってどうするのさ、お前さんやりやしないか。私ゃ殺されそうな気がするよ、不気味だねえ。」

「馬鹿なことを!」


       三十六


「いいえ、お前さん、何だか一通ひととおりじゃあないようだ、人殺ひとごろしもしかねない様子じゃあないか。」さすがの姉御あねご洞中ほらなかやみに処して轟々ごうごうたる音のすさまじさに、奥へ導かれるのを逡巡しりごみして言ったが、尋常ただならぬ光景に感ずる余り、半ばは滝太郎に戯れたので。

「おいで、さあ、夜が明けると人が見るぜ。出後でおくれた日にゃあ一日逗留とうりゅうだ、」と言いながら、片手にともしを釣って片手で袖を引くようにして連込んだ。お兼は身を任せて引かれ進むと、言うがごとく洞穴の突当りから左へ曲る真暗まっくらな処を通って、身を細うして行くとたちまち広し。

「まだまだ深いのかい。」

「もうい、ここはね、おい、誰も来る処じゃあねえよ。おいらだって、余程の工面で見着け出したんだ。」

 滝太郎はこう言いながら、手なるともしを上げて四辺あたりを照らした。

 と見ると、処々ところどころむしろを敷き、わらつかね、あるいは紙を伸べ、布を拡げて仕切った上へ、四角、三角、菱形ひしがたのもの、丸いもの。紙入がある、莨入たばこいれがある、時計がある。あるいは銀色のあおく光るものあり、またあかがねさびたるものあり、両手に抱えて余るほどな品は、一個ひとつも見えないが、水晶の彫刻物、宝玉のかざりにしききれひいな香炉こうろの類から、印のごときもの数えても尽されず、並べてあった。その列の最も端の方に据えたのが、蝦茶えびちゃのリボンかざり、かつて勇美子がかしらに頂いたのが、色もあせないでの影に黒ずんで見えた。かたわらには早附木マッチもえさしがちらばっていたのである。

 地獄谷のひびき、神通のながれの音は、ひとしきりひとしきり脈を打って鳴りとどろいて、うずたかいばかりの贓品ぞうひん一個々々ひとつびとつ心あって物を語らんとするがごとく、響に触れ、ともしに映って不残のこらず動くように見えて、一種言うべからざる陰惨の趣がある。お兼はじっと見て物をも言わぬ、その一言も発しないのを、感に耐えたからだとも思ったろう。滝太郎は極めて得意な様子でお兼の顔を見遣りながら、くだんのリボンかざりゆびさして、

「これがね、一番新しいんだぜ。ほら、こないだ総曲輪で、姉やにつかまった時ね、あの昼間だ、あの阿魔、知事の娘のせいでもあるまいが、何だか取難とりにくかったよ、夜店をぶらついてる奴等のかんざしを抜くたあなぜか勝手が違うんだ。でもとうとう遣ッつけた、可い心持だった、それから、」

 と言ってひるがえって向うへ廻って、一個ひとつの煙草入を照らして見せ、

「これが最初はじめてだ、富山へ来てから一番さきに遣ったのよ。それからね、見ねえ。」

 甚しいかな、古色を帯びた観世音の仏像一体。

「これには弱ったんだ、清全寺ッて言う巨寺おおでらの秘仏だっさ。去年の夏頃開帳があって、これを何だ、本堂の真中まんなかへ持出して大変な騒ぎを遣るんだ。加賀からも、越後からもね、おい、泊懸とまりがけ参詣さんけいで、旅籠町の宿屋はみんなとまりを断るというじゃあねえか。二十一日の間拝ませた。二十一日目だったかな、おいらも人出に浮かされて見に行ったっけ。寺の近所は八町ばかり往来の留まる程だったが、何が難有ありがてえか、まるで狂人きちがいだ。人の中を這出はいだして、片息になっておめえ、本尊の前へにじり出て、台に乗っけて小さな堂を据えてよ、にしきとばりを棒のさきで上げたり下げたりして、その度にわッとうならせちゃあ、うんと御賽銭おさいせんをせしめてやがる。そのお前、前へ伸上って、帳の中をのぞこうとしたばばあがあったさ。うぬ血迷ったかといって、役僧め、媼を取って突飛ばすと、人の天窓あたまの上へ尻餅をいた。あれ引摺出ひきずりだせと講中こうじゅう肩衣かたぎぬで三方におひねりを積んで、ずらりと並んでいやがったが、七八人一時いっときに立上がる。忌々いまいましい、可哀そうに老人としよりをと思ってしゃくに障ったから、おいらあな、」

 活気は少年の満面にあふれて、蒼然そうぜんたる暗がりの可恐おそろしいひびきの中に、灯はやや一条ひとすじの光を放つ。


       三十七


「晩方で薄暗かったし、鼻と鼻とつかっても誰だか分らねえような群衆だから難かしいこたあねえ。一番驚かしてやろうと思って、おめえ真直まっすぐに出た。いきなり突立つったって、その仏像をとばりの中から引出したんだから乱暴なこたあ乱暴よ。ばあやゆっくり拝みねえッて、つかみかかった坊主を一人引捻ひんねじってめらせたのに、片膝を着いて、差つけて見せてやった。どうしてたまったもんじゃあねえ。戦争の最中に支那ちゃん小児こどもを殺したってあんなさわぎをしやあしまい。たちまち五六人血眼になって武者振つくと、仏敵だ、殺せと言って、固めている消防夫しごとしどもまで鳶口とびぐちを振ってけ着けやがった。」

 光景の陰惨なのに気を打たれて、姿も悄然しょうぜんとして淋しげに、心細く見えた女賊は、滝太郎が勇しい既往の物語にやや色を直して、蒼白あおじろい顔の片頬かたほえみたたえていたが、思わず声を放って、

「危いねえ!」

「そんなこたあ心得てら。やい、おいらが手にゃあ仏様持ってるぜ、手を懸けられるなら懸けてみろッて、おおきな声でわめきつけた。」

「うむ、うむ、」とばかりお兼は嬉しそうにうなずいて聞くのである。

「おいらが手で持ってさいその位騒ぐ奴等だ、それをお前こっちへ掴んでるからうっかり手出てだしゃならねえやな。堂の中は人間の黒山が崩れるばかり、潮がいたようになってごッた返す中を、仏様を振廻しちゃあ後へ後へと退さがって、位牌堂いはいどうへ飛込んで、そこからお前壁の隅ン処を突き破って、墓原へ出て田圃たんぼへ逃げたぜ。その替り取れようとも思わねえ大変なものをやッつけた。今でもお前、これを盗まれたとってどの位探してるか知れねえよ。富山のうちが五六百焼けたってあんなじゃあるめえと思う位、可い心持じゃあねえか。姉や、それだがね、おらあこんなことを遣ってからはじめてだ、実はこわかった、殺されるだろうと思ったよ。へん、おいらアのせいじゃないぜ、大丈夫知れッこなしだ、占めたもんだい、この分じゃあ今に見ねえ、また大仕事をやらかしてやらあな。」

 血もほとばしらんばかりさかんだった滝太郎のおもてを、つくづく見て、またその罪の数をみまわして、お兼はほっという息をいた。

 歎息ためいきして、力なげにほとんどよろめいたかと見えて、うしろざまに壁のごとき山腹の土にもたれかかり、

「滝さん、まあ、こうやって、どうするつもりだねえ。いいえ、知ってるさ。私だって、そうだったが、殊にお前さん銭金ぜにかねに不自由はなし、売ってどうしようというんじゃあない、こりゃやまいなんだ。どうしてもめられやしないんだろうね。」

 言うことは白魚のお兼である。滝太郎は可怪あやしい目をして、

「誰がお前、これを止しちゃッて何がつまるもんか。おらあ時とするとむしろを敷いて、夜一夜よッぴてこの中で寝て帰ることがある位だ。見ねえ、おい、可い心持じゃあねえか、人にも見せてやりたくッてしようがねえんだけれど、下らない奴にかぎつけられた日にゃ打破ぶちこわしだから、ああ、浅草で別れた姉やぐらいなのがあったらと、しょッちゅう思っていねえこたあなかったよ。おいら一人も友達はこせえねえんだ、総曲輪でお前に、滝やッて言われた時にゃあ、どんなに喜んだと思うんだ、よく見てめてくんねえな。」

 ずッと寄ると袖を開いて、姉御は何と思ったか、滝太郎のうなじを抱いて、仰向あおむきの顔を、

「どれ、」

 ともしは捧げられた、二人はつくづくと目を見合せたのであった。お兼はきっと打守って、

「滝さん、お前さんは自分の目がどんなに立派なものだか知ってるかね。」


       三十八


「お前さんの母様おっかさんなくなんなすった時も、お前にゃあ何でもしたいことが出来るからってとお言いだったと聞いちゃあいたがね、まあ、随分思切ったこったね。何かい、ここで寝ることがあるのかい。」

「ああ、あの荒物屋のばばっていうのが、それが、何よ、その清全寺で仏像の時の媼なんだから、おいらにゃあ自由が利くんだ。やしきからじゃあ面倒だからね、荒物屋を足溜あしだまりにしちゃあ働きに出るのよ。それでも何やや出入に面倒だったり、一品ひとしな々々ひねくっちゃあ離れられなくって、面白い時はこの穴ン中で寝て行かあ。寝てるとね、盗んで来たここに在る奴等が、自分がられた時の様子を、その道筋から、機会きっかけから、各々めいめいに話をするようで、たのしみッたらないんだぜ。」

「それでまあよくお前さん体が何ともないね。浅草に餓鬼大将をやっておいでの時とは違って、品もよくおなりだし、丸顔も長くなってさ、争われない、どう見ても若殿様だ。立派なもんだ。どうして、お前さんのその不思議な左の目の瞳子どうし見覚みおぼえがなかった日にゃあ、名告なのられたって本当に出来るもんじゃあない、その替り、こら、こんなに、」

 と手を取って、お兼はてのひらに据えてみまもりながら、

「節もなくなって細うなったし、体も弱々しくって、夜露に打たれても毒そうではないか。」

「不景気なことを言ってらあ。麦畠むぎばたけの中へひっくりかえって、青天井で寝た処で、天窓あたまが一つ重くなるようなんじゃあないよ、鍛えてあらあな。」と昂然こうぜんたり。

「そうかい、体はそれで可いとした処で、お前さんのような御身分じゃあ、じょうを下ろした御門もあろうし、お次にはお茶坊主、宿直とのいの武士というのが控えてる位なもんじゃあないか。よくこうやって夜一夜よッぴて出歩かれるねえ。」

「何、そりゃおいら整然ちゃんうまくやってるから、大概内の奴あ、今時分は御寝ぎょしなっていらっしゃると思ってるんだ。何から何まで邸の事をすっかり取締ってるなあ、守山てって、おいらを連れて来た爺さんだがね、難かしい顔をしてる割にゃあ解ってて、我儘わがままをさしてくれらあね。」

「成程ね、華族様の内をすっかりあずかって、何のこたあない乞食からお前さんを拾上げたほどの人だから、そりゃお前さんを扱うこたあ、よく知っているんだろう。」

「ああ、ただもう家名をきずつけないようにって、耳うるさく言って聞かせるのよ。堅い奴だが、おいら嫌いじゃあねえ。」

「ふむ、それでお前さん、盗賊どろぼうをすりゃ世話は無いじゃあないか。」と言って、心ありげに淋しいえみを含んだのである。

「おいら何もこれを盗って、儲けようというんじゃあなし、ただ遊んでたのしむんだあな。犬猫を殺すのも狩をするのも同一おんなじこッた。何、知れりゃ華族だ、無断に品物を取って来た、代価は幾干いくらだ、すきな程払ってやるまでの事じゃあねえか。」

「あんな気だから納まらないよ。ほんとに私もあの時分に心得違いをしていたから、見処のあるお前さん、立派な悪党に仕立ててみようと、そう思ったんだがね。滝さんお聞き、蛇がその累々つぶつぶしたうろこを立てるのを見ると気味が悪いだろう、何さ、こわくはないまでも、可い心持はしないもんだ。蟻でも蠅でも、あれがお前、万と千とかたまっていてみな、いやなもんだ。松の皮でもこうかさなり重りしてうずだかいのを見るとね、あんまり難有ありがたいもんじゃあない、景色の可い樹立こだちでも、あんまり茂ると物凄ものすごいさ。私ゃもうとうにからそこへ気が着いて厭になって、今じゃ堅気になっているよ。ね、お前さん、厭な姿は、蛇が自分でも可い心持じゃあなかろうではないか。蚊でものみでも食ったのが、ぶつぶつ一面に並んでみな、自分の体でも打棄うっちゃりたいやな。私ゃこうやってお前さんがここに盗んだものを並べてあるのを見ると、一々動くようで蛇の鱗だと思って、悚然ぞっとした。」


       三十九


「野暮は言わない、私だって何も素人じゃあなし、お前さんの病な事も知ってるから、今めかしい意見をするんじゃないが、世の中にゃもッと面白い盗賊どろぼうのしようがありそうなもんじゃないか。時計だの、金だの、お前さんが嬉しがって手柄そうにここに並べて置くものは、こりゃ何だい! 私に言わせるとけちさ、はしたのお鳥目でざら幾干いくらでもあるもんだ。金剛石ダイヤモンドだって、高々人間が大事がってしまっておくもんだよ、よくかたまりだね。金と灰吹はたまるほど汚いというが、その宝を盗んで来るのは、塵芥溜ごみためから食べ荒しをほじくり出す犬と同一おんなじだね、小汚ない。

 そんなことより滝さん、もっと立派な、日本晴にっぽんばれ盗賊どろぼうがありやしないかしら。

 主のふちといえば誰も入ったものはあるまい。昔から人の入らない処なら、中にまたどんな珍らしい不思議なものがあろうも知れない。たとえにもりゅうあごには神様のような綺麗な珠があるというよ。何そんなものばかりじゃあない、世の中は広いんだ、富山にばかりも神通川も立山もあるじゃあないか。大海の中だの、人のかない島などには、宝にしろ景色にしろ、どんな結構なものがあろうも知れぬ、そして見つかれば大びらに盗んで可いのさ。

 ただそれは難かしい。島へ行くには船もいろうし、山の奥へ入るには野宿だってしなけりゃならない。お前さんはお金子かねが自由だろう、我儘わがままが出来るじゃあないか。気象はそのとおりだし、胆玉きもたまおおきいし、体は鍛えてある、まあ、第一、その目つきが容易じゃあない。火にやかれず、水に溺れずといったような好運があるようだ。すきなことが何でも出来るッて、母様おっかさんが折紙をつけて下すった体だよ、私が見ても違いはないね。

 金目のかかった宝なんざ、人が大切がって惜しむもので、歩るくにも坐るにも腰巾着こしぎんちゃくにつけていようが、じょうを下ろしておこうが、土の中へ埋めてあろうが、私等が手にゃあお茶の子さ。考えて御覧、どんなに厳重にして守ったって、そりゃ人間の猿智慧さるぢえでするこッた、現にお前さん、多勢黒山のような群集の中で、その観音様を一人で引揚げて来たじゃあないか。人の大事にするものを取って来るのは何でもないが、私がいう宝物は、山の霊、水の精、また天道様が大事に遊ばすものもあろう。人は誰もとがめないが、迂濶うかつにお寄越よこしはなさらない、大風で邪魔をするか、水で妨げるか、火で遮るか。恐いけだものに守らしておきもしようし、真暗まっくらな森で包んであろうも知れず、地獄谷とやら、こんな恐い音のする、その立山の底にくしてあるものもあろう。近い処が、お前さんが前刻さっきお話の、その黒百合というものだ、つい石滝とかの山を奥へ入るとあるッていうのに、そら、昔から人が足蹈あしぶみをしない処で、魔処だ。入っちゃあならない、真暗だ、天窓あたまが石のような可恐おそろしい猿が居る、それが主だというじゃあないか。この国中さばいてる知事の嬢さんが欲しくっても、金でも権柄けんぺいずくでもかなわないというだろう。滝さんどうだね、そんなものを取って来ちゃあ。

 一番ひとつ何でもそういったものを、どしどし私たちが頂戴をすることにしようじゃないか。私ばかりでない、まだ同一おんなじ心の者が、方々に隠れている、その苧環おだまきの糸を引張ってさ、縁のあるものへ結びつけて、人間の手で網を張ろうというつもりでね、こうやって方々歩いている。何、私なんざ、ほんの手先の小使だ、幾らも、お前さんの相談相手があるんだから、奮発をしてお前さん、連判状の筆頭につかないか。」

 意気八荒を呑む女賊は、その花のごとき唇からひらめいてのぼる毒炎を吐いた。洞穴ほらあなの中に、滝太郎が手なるともしびの色はややせたと見ると、くだん可恐おそろしひびき音絶とだえるがごとく、どうーどうーどうーと次第に遠ざかって、はたと聞えなくなったようである。


       四十


「もう夜明だ、姉や、分ったい、うむ、早く出よう。そして、おいらもう、この穴へは入るまい。」

 滝太郎は決然として答えた。お兼は嬉しげに手を取って、

「滝さん、それでこそお前さんだ、ああ、富山じゃあい事をした、お庇様かげさま発程栄たちばえがする。」

「おめえ、もうちっとこっちに居てくんねえな。おいら勝手にすきな真似はしてるけれど、友達もなんにもありゃしないやな。本当は心細くッて、一向つまらないんだぜ。」

「気の弱いことをいうもんじゃあない、私はこれから加州へ行って、少し心あたりがあるんだし、あそこへは先へ行って待合わせている者がある。そうしちゃあいられないんだから、また逢おうよ。そしてお前さんの話をして、仲間の者を喜ばせよう。何の、味方にしようと思えば、こっちのものなんざみんな味方さ。不残のこらず敵になったって難かしい事はないのだもの。」

「うむ、そんならそうよ。」とうなずいて身を開いた、滝太郎は今しんとしてひびきんだ洞穴の中に耳を澄したが、見る見る顔の色が動いて、目が光った。

「や、山の上でひぐらしが鳴かあ、ちょッ、あいつが二三度鳴くと、直ぐに起きやあがる。花屋の女は早起だ、半日ここに居てたまるもんかい。」

 ふッとあかしを消すと同時に、再びお兼の手をしっかと取って、

「姉や、大丈夫だ、暗い内に、急いで。さあ、」

 温泉の口なる、花室の露を掻潜かいくぐって、山の裾へ出ると前後あとさきになり、やぶについて曲る時、透かすと、花屋が裏庭に、お雪がまだ色も見え分かぬ、朝まだき、草花の中に、折取るべき一個ひとつかごを抱いて、しょんぼりとして立っていた。髪つややかに姿白く、袖もなえて、露に濡れたような風情。推するにかれは若山の医療のために百金を得まく、一輪の黒百合を欲して、思い悩んでいるのであろう。南天の下に手水鉢ちょうずばちが見えるあたりから、雨戸を三枚ばかり繰った、奥が真四角まッしかくに黒々と見えて、蚊帳の片端の裾が縁側へあふれて出ている。ト見る時、また高らかにひぐらしが鳴いた。

「そらね、あれだから。」

 と苦笑する。滝太郎とささやき合い、かかることにれてしのびの術を得たるごとき両個の人物は、ものおもうお雪が寝起ねおきの目にも留まらず、垣をくぐって外へ出ると、まだ閉切ってある、荒物屋の小店の、くすぶった、破目やれめや節穴の多い板戸の前を抜けて、総井戸の釣瓶つるべがしとしとと落つる短夜のしずくもまだ切果きれはてず、小家がちなる軒に蚊の声のあわただしい湯の谷を出て、総曲輪まで一条ひとすじこみちにかかり、空を包んだ木の下に隠れて見えなくなった。

「それじゃあ滝さん、もう、ここから帰っておくれ、ちょうど人目にもかからないで済んだ。」

 早朝あさまだき町はずれへ来て、お兼は神通川に架した神通橋のたもと立停たちどまったのである。雲のごときは前途ゆくての山、けぶりのようなは、市中まちなかの最高処にあって、ここにも見らるる城址しろあとの森である。名にし負う神通二百八間の橋を、真中まんなか頃から吹断ふきたって、隣国の方へ山道をかけて深々と包んだ朝靄あさもやは、高く揚ってあさひを遮り、低く垂れて水を隠した。色も一様の東雲しののめに、ながれの音はただどうどうと、足許あしもとに沈んで響く。

 お兼は立去りあえずかしらを垂れたが、つと擬宝珠ぎぼうしのついた、一抱ひとかかえに余る古びた橋の欄干に目をつけて、嫣然えんぜんとして、振返って、

「ちょいと滝さん、見せるものがある。ね、この欄干を御覧、種々いろいろな四角いものだの、丸いものだの、削った爪の跡だの、朱だの、墨だので印がつけてあるだろう、どうだい、これを記念かたみに置いて行こうか。」


       四十一


 折から白髪天窓しらがあたますげ小笠おがさ、腰の曲ったのが、蚊細かぼそい渋茶けた足に草鞋わらじ穿き、豊島茣蓙としまござをくるくると巻いてななめ背負しょい、竹の杖を両手に二本突いて、おとがいを突出して気ばかりさきへ立つ、ばばあの旅客が通った。七十にもなって、跣足はだしで西京の本願寺へもうでるのが、この辺りの信者に多いので、これは飛騨ひだ山中やまなかあたりから出て来たのが、富山に一泊して、朝がけに、これから加州を指してくのである。

 お兼は黙って遣過やりすごして、再び欄干の爪の跡を教えた。

「これはね、みんな仲間の者が、道中の暗号めじるしだよ。中にゃあ今真盛まっさかりな商売人のもあるが、ほらここにこの四角な印をつけてあるのが、私が行ってこれから逢おうという人だ、もと海軍に居た将官たいしょうだね。それからこうあっちに、畝々うねうねしたすじ引張ひっぱってあるだろう、これはね、ここから飛騨の高山の方へ行ったんだよ。今はめていても兇状持きょうじょうもちで随分人相書の廻ってるのがあるから、迂濶うかつな事が出来ないからさ。御覧よ、今本願寺まいりが一人通ったろう。たしかあれは十四五人ばかり一群ひとむれなんだがね、その中でも二三人、体の暗い奴等が紛れ込んで富山から放れるはずだよ。倶利伽羅辺くりからあたりで一所になろう、どれ私もここへ、」

 と言懸けて、お兼は、銀煙管ぎんぎせるを抜くと、逆に取って、欄干の木の目を割って、吸口の輪を横に並べて、三つした。そのまま筒に入れて帯に差し、呆れて見惚みとれている滝太郎を見て、莞爾にこりとして、

「どうだい、こりゃ吃驚びっくりだろう。方々の、ほこらの扉だの、地蔵堂の羽目だの、路傍みちばた傍示杭ぼうじぐいだの、気をつけて御覧な、みんなこの印がつけてあるから。人の知らない、楽書の中にこの位なことがこもってるから、不思議だわね。だから世の中は面白いものだよ。滝さん、お前さんの目つきと、その心なら、ここにある印は不残のこらずお前さんの手下になります、頼もしいじゃあないか。」

「うむ、」といって、重瞳ちょうどう異相の悪少は眠くないその左の目をこすった。

「加州は百万石の城下だからまた面白い事もあろう、素晴しい事が始まったら風の便たよりにお聞きなさいよ。それじゃあ、あの随分ねえ。」

「気をつけて行きねえ。」

「あい、」

「………」

「おさらばだよ。」

 その効々かいがいしい、きりりとして裾短すそみじかに、繻子しゅすの帯を引結んで、低下駄ひくげた穿いた、商売あきないものの銀流を一包にして桐油合羽とうゆがっぱを小さく畳んで掛けて、浅葱あさぎきれ胴中どうなかを結えた風呂敷包を手に提げて、片手に蝙蝠傘こうもりがさを持った後姿。飄然ひょうぜんとして橋を渡り去ったが、やがて中ほどでちょっと振返って、滝太郎を見返って、そのまま片褄かたづまを取って引上げた、白い太脛ふくらはぎが見えると思うと、朝靄あさもやの中に見えなくなった。

 やがて、夜が明け放れた時、お兼は新庄しんじょの山の頂を越えた、その時は、裾をからげ、荷を担ぎ、蝙蝠傘をさして、木賃宿から出たらしい貧しげな旅の客。破毛布やぶれげっとまとったり、頬被ほおかぶりで顔を隠したり、中には汚れた洋服を着たのなどがあった、四五人と道連みちづれになって、笑いさざめき興ずるていで、高岡を指して峠を下りたとのことである。

 お兼が越えた新庄というのは、加州の方へ趣く道で、別にまた市中まちなかの北のはずれから、飛騨へ通ずる一筋の間道がある。すなわち石滝のある処で、旅客は岸づたいくのであるが、ここを流るるのは神通の支流で、幅は十間に足りないけれども、わずかの雨にもたちまち暴溢あふれて、しばしば堤防どてを崩す名代の荒河。橋のつめには向い合って二軒、蔵屋、かぎ屋と名ばかりいかめしい、蛍狩、すずみをあての出茶屋でぢゃやが二軒、十八になる同一年紀おないどしの評判娘が両方に居て、負けじと意気張って競争する、声もうぐいす時鳥ほととぎす

「お休みなさいまし、お懸けなさいまし。」


       四十二


 その蔵屋という方の床几しょうぎに、腰を懸けたのは島野紳士、ここに名物の吹上の水に対し、上衣コオトを取って涼をれながら、硝子盃コップを手にして、

「ああ、涼しいが風がんだ、何だか曇って来たじゃあないか、雨はどうだろうな。」

 客の人柄を見てまねきの女、お倉という丸ぽちゃが、片襷かただすきで塗盆を手にして出ている。

「はい、大抵持ちましょうと存じます。それとも急にこうやって雲が出て参りましたから、ふとすると石滝でお荒れ遊ばすかも分りません。」

「何だね、石滝でお荒れというのは。」

「それはあの、少しでも滝から先へ足踏をする者がございますと、暴風雨あらしになるッて、昔から申しますのでございますが。」

 島野は硝子盃を下に置いた。

「うむ、そして誰か入ったものがあるのかね。」

「今朝ほど、背負上しょいあげを高くいたして、草鞋わらじ穿きましてね、花籃はなかごを担ぎました、容子ようすい、美しい姉さんが、あの小さなお扇子を手に持って、」と言懸いいかかると、何と心得たものか、紳士は衣袋かくしの間から一本平骨ひらぼねの扇子を抜出して、胸の辺りを、さやさや。

「はあ、それが入ったのか。」

「さようでございます。その姉さんは貴方あなた、こないだから、昼間参りましたり、晩方来ましたりいたしましては、この辺を胡乱々々うろうろして、行ったり来たりしていたのでございますがね。今日は七日目でございます。まさかそんなことはと存じておりますと、今朝ほどここの前を通りましてね、滝の方へ行ったきり帰りません、きっと入りましたのでございましょう。」

「何かね、全くそんな不思議な処かね。」

「貴方、お疑り遊ばすと暴風雨あらしになりますよ。」といって、塗盆を片頬かたほにあててと笑った、聞えた愛嬌者あいきょうものである。島野は顔の皮をゆるめて、眉をびりびり、目を細うしたのはうまでもない。

「それはいが姉さん、心太ところてんを一ツ出しておくれな。」

「はい、はい。」

「待ちたまえ、いや、それともまた降られない内に帰るとするかね。」

「どういたしまして、降りませんでも、貴方川留かわどめでございますよ。」

 方二坪ばかり杉葉の暗い中にむくむくと湧上わきあがる、清水に浸したのをつきにかけてずッと押すと、心太ところてんの糸は白魚のごときその手にからんだ。皿にって、はいと来る。島野は口も着けず下に置いて、

「そうして何かい、ついぞまだそこへ行った者を見たことはないのか。」

「いいえ、私が生れましてから始めてでございますが、貴方どうでございましょう、つい少しばかり前にいらっしゃいました、太った乱暴な、書生さんが、何ですか、その姉さんがここへ参りましたことを御存じの様子で、どうだとお聞きなさいますから、それそれ申しますと、うむといったッきり駈出かけだして、その方もまだおかえりになりません。」

「え、そりゃ何か、目の丸い、」

「はい、お色の黒い、いがぐり天窓あたまの。もうもう貴方のようじゃあございませんよ、おほほほ。」

「いや!」とばかりでこの紳士、何か早や、にたりとしたが、急に真面目になって、

「ちょッ、しようがないな。」

「貴方御存じの方なんですか。」

「うむ、何だよ、その娘の跡をけまわしてな、からいやがられ切ってる癖に、狂犬やまいぬのような奴だ、来たかい! 弱ったな、どうも、うぬ一人で。」

「何でございます。」

「いえさ、つれは無かったのか。」


       四十三


「ただお一人でございましたよ、えらそうなお方なんです。それに仕込杖しこみづえなんぞ持っていらっしゃいましたから、私達がかれこれ申上げた処で、とてもお肯入ききいれはなさりますまいと、そう思いまして黙って見ておりましたが、無事にお帰りなさればうございますがね。」

 島野は冷然として、

「何、犬に食われて死にゃあ可いんだ。」

「だって、姉さんはお可哀そうじゃございませんか。」

「そりゃお互様よ。」

「あれ、お安くございませんのね。でも、あの、二度あることは三度とやら申しますから、今日の内また誰かお入りなさりはしまいかと言って、内の父様おとっさんも案じておりますから、貴方またその姉さんをお助けなさろうの何のッて、あすこへいらっしゃるのはお止し遊ばしまし。」

「だが、その滝のそばまでは行っても差支さしつかえが無いそうじゃないか。」

「そこまでならたまに行く人もございますが、貴方何しろ真暗まっくらだそうですよ。もうそこへ参りました者でも、帰ると熱を煩って、七日も十日も寝る人があるのでございます。」

「熱はお前さんを見て帰ったって同一おんなじだ、何暗いたッて日中ひなかよ、構やしない。きっとそこらにうろついているに違いない、ちょっと僕は。おい、姉さん帰りに寄ろう。」

「お気をお着け遊ばしていらっしゃいましよ。」

 島野は多磨太がさきんじたりと聞くより、胸の内安からず、あたふた床几しょうぎを離れて立ったが、いざとなると、さて容易な処ではない。ほぼ一町もあるという、森の彼方かなたにどうどうと響く滝の音は、大河をさかしまに懸けたように聞えて、その毛穴はここに居る身にもぞッと立った。島野は逡巡して立っている。

 折から堤防伝つつみづたいにひづめの音、一人砂烟すなけぶりを立てて、ななめに小さく、くうを駆けるかと見る見る近づき、懸茶屋かけぢゃやの彼方から歩をゆるめて、悠然と打って来た。茶屋の際の葉柳の下枝しずえくぐって、ぬっくりと黒くあらわれたのは、たてがみから尾に至るまで六尺、たけの高きこと三尺、全身墨のごとくにして夜眼やがん一点のはくあり、名を夕立といって知事の君が秘蔵の愛馬。島野は一目見て驚いて呆れた。しっくりと西洋ぐら置いたるに胸を張ってまたがったのは、美髯びぜん広額の君ではなく、一個白面の美少年。頭髪柔かにやや乱れた額少しく汗ばんで、玉洗えるがごとき頬のあたりを、さらさらと払った葉柳の枝を、一掴み馬上に掻遣かいやり、片手に手綱を控えながら、一蹄いってい三歩、懸茶屋の前に来ると、くだんの異彩ある目に逸疾いちはやく島野を見着けた。

「島野、」と呼懸けざま、飜然ひらり下立おりたったのは滝太郎である。

 常にジャムを領するをもって、自家の光彩を発揮する紳士は、この名馬夕立に対して恐入らざるを得ないので、

「おや、千破矢様、どうして貴方、」と渋面を造ってかしらを下げる。その時、駿足しゅんそくに流汗を被りながら、呼吸はあえて荒からぬ夕立の鼻面を取って、滝太郎は、自分もてのひらで額の髪を上げた。

「おい、姉や。」

「はい、」

「水を一杯、つめたいのを大急おおいそぎだ。島野、可い処でおめえに逢ったい。おいら、お前ンとこの義作の来るまで、あすこの柳にでもつないでおこうと思ったんだけれど、お前が居りゃあ世話はねえ。この馬返すからな、四十物町あえものちょうまで持って行ってくんねえ、頼むぜ、おい。」

 呆れたものいいと、唐突だしぬけの珍客に、茶屋の女どもは茫乎ぼんやり


       四十四


 島野は、時というとこの苦手があらわれるのを、前世の因縁とでもいいたげな、弱り果てて、

「へい、その馬を持って帰れとおっしゃるんですか。」

 と不平らしい顔をした。

「そうよ。」

「一体その何でございますが、私はどうも一向馬の方は心得ませんもんですから。」

「大丈夫だ。こう、おめえ一ツ内端うちわじゃあねえか、知己ちかづきだろう、暴れてくれるなって頼みねえ、どうもしやあしねえやな。そして乗られなかったらいて行くさ。だからちったア馬に乗ることも心懸けておくこッた、女にかかり合っているばかりが芸じゃあねえぜ。どうだ、色男。」と高慢なことを罪もなくいって、滝太郎は微笑ほほえんだ。

「失敬な。」も口のうちで、島野は顔を見らるるときまり悪そうに四辺あたりをきょろきょろ。茶店のむすめは、目の前にほっかりと黒毛のこまが汗ばんで立ってるのをはばかって、洋盃コップもたらした。右手めてをのべて滝太郎が受ける時、駒はたてがみさっと振った。あれと吃驚びっくりしてむすめあとへ。若君はくつわを鳴らして、しっかと取りつつ、冷水の洋盃を長く差伸べて、盆に返し、

「沢山だ。おい、可いか、島野、預けるぜ。」

 きっと向直って、早く手綱を棄てようとする。島野は狼狽うろたえて両手を上げて、

「若様どうぞ、そりゃ平に、」とばかり、荒馬を一頭ひとつ背負しょわされて、庄司重忠にあらざるよりは、誰かこれを驚かざるべき。見得も外聞も無しに恐れ入り、

「平に御容赦てッたような訳なんです。へい、全く不可いけません。それにちっと待合わせるものもあるんでございますから。」

 と窮したる笑顔を造って、かれはほとんど哀を乞う。

 滝太郎は黙ってうなずくとひとしく、駒の鼻頭はなづら引廻ひきめぐらした。ひづめの上ること一尺、夕立は手綱を柳の樹に結えられていなないた。

「島野、おい、島野。」

 この声を聞くごとに、ほんのこッた、紳士はぞッとする位で。

「へい、御用ですか。」

「お前、待合わせるものがあるッて、また別嬪べっぴんじゃあねえか、花売のよ。」

御串戯ごじょうだんを、」と言ったが、内心えぐられたように、ぎっくりして、おだやかならず。

 滝太郎はたわむれにいったばかり。そのまま茶屋のむすめを見返り、

「何ぞ食べるものをくれねえか、多い方が可いぜ。」

「姉さんおいしいものを、早く、冷たくして上げるが可い。」と、島野はてれ隠しに世辞をいった。

「はい、西瓜すいかでも切りましょうか。心太ところてん真桑まくわ、何を召あがります。」

「そんな水ッぽいもんじゃあねえや、べらぼうめ、そこいらに在る、有平あるへいだの、餡麺麭あんパンだの、駄菓子で結構だ。懐へ捻込ねじこんで行くんだから紙にでも包んでくんな。」と並べた箱の中にゆびさしをする。

「どちらへいらっしゃいます。」

「石滝よ。」

 驚いたのは茶店のむすめばかりではない、島野も思わず顔をながめる。

兵粮ひょうろうだ、奥へへえって黒百合を取って来ようというんだから、日が暮れようも分らねえ。ひもじくなるとそいつをかじらあ、どうだ、お前、勇美さんに言いねえ、土産を持って行ってやるからッてよ。」

「途方もない、若様。それを取ろうッて、実はつい先刻さっきだそうです。あの花売のむすめも石滝へ入ったんです。」

「うむ、」といった滝太郎の顔の色は動いた。滝のひびきを曇天に伝えて聞える、小川の彼方かなたの森のかたを、きっと見て、すっくと立って、

「あの阿魔がかい、そいつああぶねえ!」

 先立って二度あることは三度とやら、見通みとおしの法印だった、蔵屋の亭主は奥からあわただしく顔を出して、

「そりゃこそ、また一人。」


       四十五


「やあ、島野さん、千破矢の若様はどうしました。」

「義作じゃないか、一体ありゃあどうしたんだね。お前、魔物が夕立に乗って降って来たから、驚いたろうじゃあないか。」となかば独言ひとりごとのようにぶつぶついう。

 かぶった帽も振落したか、駆附けの呼吸いきもまだはずむ、おやかたの馬丁義作、大童おおわらわで汗をき、

「どうしたって、あれでさ、お前様まえさん、私ゃ飛んでもねえどじをったで。へい、今朝旦那様をお役所へ送ってね、それからでさ、えて引張ひっぱって総曲輪まで帰って来ると、何に驚いたんだか、評判の榎があるって朝っぱらから化けもしめえに、畜生棹立さおだちになって、ヒイン、え、ヒインてんで。」

「暴れたかね。」

「あばれたにも何も、一体名代の代物しろものでごぜえしょう、そいつがおさん、盲目めくら滅法界に飛出したんで、はっと思う途端に真俯向まうつむけのめったでさ。」

「おやおや、道理で額を擦剥すりむいてら。」

 義作はてのひらでべたべたと顔を撫でて、

串戯じょうだんじゃあがあせん、わっし一期いちごで、ダーだと思ったね、つちん中へ顔をうずめておさん、ずるずると引摺ひきずられたから、ぐらぐらと来て気が遠くなったんで。しばらくして突立つったって、わってッて追い駆けると、もうわいわいという騒ぎで、砂煙すなけぶりが立ってまさ。あれから旅籠町へ抜けて、東四十物町を突切つっきって、橋通りへかかって神通を飛越そうてえ可恐おそろしれ方だ。南無三宝なむさんぽう、こりゃ加州まで行くことかと息切がしてあおくなりましたね。鳥居前のお前さん、乱暴じゃあがあせんか、華族様だってえのにどうです、もっともまああの方にゃあ不思議じゃねえようなものの、空樽あきだるの腰掛だね、こちとらだって夏向は恐れまさ、あのそら一膳飯屋から、横っちょに駆出したのが若様なんです。え、滝先生、滝公、滝坊、へん滝豪傑、こっちの大明神なんで。」とぐっと乗り、拳を握って力を入れると、島野は横を向いて、

「ふむ。」

「どうです、威勢が可いじゃがあせんか。突然いきなり畜生の前へ突立つったったから、ほい、蹴飛ばされるまでもねえ、前足が揃って天窓あたまの上を向うへ越すだろうと思うと、ひたりととまったでさ。畜生、貧乏ゆるぎをしやあがるあごの下へ、体を入れて透間がねえようにくッついて立つが早いか、ぽんと乗りの、しゃんしゃんさ。素人にゃあ出来やせん。義作、貸しねえ貸しねえてって例の我儘わがままだから断りもされず、不断面倒臭くって困ったこともありましたっけが、先刻さっきほんのこった、わっしゃ手を合わせました。どうしておさんなんざ学者で先生だっていうけれど、からそんな時にゃあ腰を抜かすね。へい。何だって法律で馬にゃあ乗れませんや、どうでげす。」

「はい、お茶を一ツ。」

 大気焔きえんの馬丁は見たばかりで手にも取らず、

「おう、そんなもなあ、まだるッこしい。今にわっしゃそこにいてるのに口をつけて干しちまうから打棄うっちゃっておきねえ。はははは、ええ島野さん。おいらこれから石滝へくから、おめえあとから取りに来ねえ、夕立はちょいと借りるぜって、そのまま乗出したもんだからね、そこいら中騒いでたてええに相済みませんを百万だら並べたんで。転んだ奴あ随分あったそうだけれど、大した怪我人もなし、持主が旦那様なんですから故障をいう奴もねえんで、そっちゃ安心をして追駈おいかけて来ましたが、何は若様はどちらへ行ったんで。」

「じゃあ、その何だろう、馬騒ぎで血逆上ちのぼせがしたんだろう、本気じゃあないな。兵粮だって餡麺麭あんパン捻込ねじこんで、石滝の奥へ、今のさき橋を渡ったんだ、ちょうど一足違い位なもんだ。」

「やッ、」というて目をみはる義作と一所に吃驚びっくりしたのは、茶店の女で、向うの鍵屋の当のかたき、およねといって美しいのが、この折しも店先からはたはたと堤防つつみへ駆出したことである。故こそあれ腕車が二台。


       四十六


「もしもしちょいとどうぞ、どうぞちょいとお待ち遊ばして。」と路を遮ったので、威勢の腕車くるまが二台ともばったりとまる。米は顔を赤らめて手を膝に下げて、

「恐入ります、御免下さいまし。どちらの姫様ひいさまですか存じませんが、どうぞあちらへいらっしゃいましたら、わたくしどもへお休み遊ばして下さいまし、後生でございます。」

 先に腕車くるまに乗ったのは、新しい紺飛白こんがすり繻子しゅすの帯を締めて、銀杏返いちょうがえしに結った婦人おんな

「何だね、お前さん。」

「はい、鍵屋と申します御休憩所おやすみどころでございますが、よそと張合っておりますので。

 今朝からむこうにばかりお客がございます処へ、またお馬に召した立派な若様がお立寄でございました。あのお倉さんというのが、それはもうこれ見よがしで、わたくしは居ても立ってもいられません。あんまり悔しゅうございますから、どんなにお叱り遊ばしてもうございます、お見懸け申しましてお願い申します。助けると思召して後生でございます、わたくしどもへ。」

 とおろおろ声で泣くようにいう。

「おや、じゃああのお茶屋の姉さんかい。」

「はい、さようでございます。」

「それでは御馳走をしてくれますか、」と背後うしろ腕車くるまで微笑みながらいったのは、米が姫様ひいさまと申上げた、顔立も風采ふうさいもそれにかなった気高いのが、思懸けず気軽である。

 女はかえって答もなし得ず、俯向うつむいてただお辞儀をした。

「それじゃ若衆わかいしゅさん。」

「おう、鍵屋だぜ。」

「あい、んねえ。」

 車夫は呼交わしてそのまま曳出ひきだす。米は前へ駆抜けて、初音はつねはこの時にこそ聞えたれ。横着よこづけにした、楫棒かじぼうを越えて、前なるがまず下りると、石滝界隈かいわいへ珍しい白芙蓉はくふようの花一輪。微風にそよそよとして下立った、片辺かたえ引添ひっそい、米は前へ立ってすらすらと入るのを、蔵屋の床几しょうぎに居た両人、島野と義作がこれを差覗さしのぞいて、あわただしくひょいと立って、体と体がれるように並んで、急足いそぎあしにつかつかと出た。

「お嬢様。」

「へい、お道どん、御苦労だね。」

「おや、義作さん、ここに。」

 勇美子は店さきに入ろうとしたが、不意に会った内の者を顧みて、

「島野さんも来ていたの。」

「ええ、僕は大分久しい前からなんです。義作君はたった今、その馬が放れました一件で。」

「実は何でございます、飛んだ疎匆そそうをいたしやして、へい。ねえ、お道どん、こういう訳なんだ、実は、」

「はあ、そりゃもう、路で聞きましたよ、飛んだことだったね、でもまあ塩梅あんばいに。」

「御家来さん、あぶのうがしたな。」

「しかし怪我アしなさらなくって何よりだったよ。」と車夫どもは口々なり。お道もまた、

「そうねえ。」

「ええ、もうわっしゃ怪我なんぞいとやしませんが、何、みんな千破矢の若様のおかげなんで、へい。」

「ちょいとどうなすったの、滝太郎さんは。」と姫は四辺あたりを見て、御意遊ばす。

「お馬はあすこに居るじゃあないかね。」

「お嬢様、何ですか、その事でこちらへお越しなんですか。」

「何あのお雪のことなの。」

「姉さん、花売なんだがね、十八九でちょっとそういった風な女を見当りはしなかったかい。」

 お道に聞かれて米が答えようとするのを、ちゃっと引取ったのは今両人が鍵屋の女客に引付けられて、店から出るのに気をんで、あとからついて出て立っている蔵屋のむすめ

「その人なら、存じております、今朝ほどでございました。」

「私だって知ってます。」と、米はつんとして倉を流盼じろり


       四十七


貴方あなたの黒百合を採りたいって、とうとう石滝へ入ったそうです。」と、島野が引取って慎重にこれを伝える。

 勇美子はその瞳をきっと凝らしたが、道は聞くとひとしく、顔の色を変えた。

「お嬢様、どういたしましょう。」

「困ったね、少しお待ち、あの、お前だち誰も中の様子を知らないかい。」

「はい、ちっとも。」

「あの、少しも存じません。」

「それはもう誰も知ったものはござりますまい。」

 と車夫の一人。

「島野さん、義作さん、どうしたら可いでしょう。お嬢様が御褒美をお賭けなすったのを、旦那様がお聞遊ばすと、もっての外だ、間違いに怪我でもさせたらどうする、ほかの内の者とは違うぞ、早く留めろと有仰おっしゃるの。承わると実に御道理ごもっともな事だから、早速あの娘にそういおうと思って、昨日きのうのことなんです、またこないだからふッとお邸には来ないもんですから、昨日きのうその金子かねただでお遣わしになることになって、それを持って私があそこへ、あの湯の谷のうちくと居ないんです。荒物屋から婆さんが私の姿を見ると、駆けて出て、取次いで、その花のことについて相談をされたのは私ばかり、はじめは滅相なと思ったが、こころを察すると無理はないので、なきの涙で合点しました。今日あたりはもう参ったかも知れませぬ、することが天道様の思召おぼしめしかなったら無事で帰って参りましょう。内に居る書生さんの旦那にはごく内々だから黙っておいて、とこういうことです。実はと訳をいって、お金子かねは預けておこうとすると、それは本人へじかにといって承知しません。無理もないと引返して、夜も寝ないで今朝、起きがけに行くともう居ないんです。また婆さんが出て、昨夜ゆうべは帰りました、その事をいって聞かせると、なおのことそのおなさけあずかっては、きっと取って来て差上げずにはと、留めるのもかないで行ったといいます。

 ええ、何の知事様から下さるものを、家一つ戴いて何程どれほどの事があろう、痩我慢やせがまんな行過ぎだと、小腹が立って帰りましたが、それといって棄てておかれぬ、直ぐにといってお嬢様が、ちょうどまたお加減が悪い処、かれこれして遅くなりましたけれども、お体のおいといもなく遠方をお出懸けになったのに、まあ飛んだことをしちまったんでございますねえ。」

 と道は落着かず胡乱々々うろうろする。

 一同顔を見合せた。

 義作一名にやりにやり

うがす、何、大概大丈夫でしょう、心配はありますまいぜ。ことわざにも何でさ、案ずるより産むが易いっていまさ。」

「何だね、お前さん。」とそこどころではない、道はたしなめるがごとくにいった。

 義作あえてその(にやり)なるものをめず。

「いえ、女ってえものは、またこれがその柔よく剛を制すといった形でね。喧嘩にも傍杖そばづえをくいません、それが証拠にゃあ御覧ごろうじろ、人ごみの中でもそんなに足をふみつけられはしねえもんだ。」

「ちょいとお黙り。高慢なことをお言いでない、お嬢様がいらっしゃるよ。」

「ですからさ、そっちにお嬢様がいらっしゃりゃ、こっちにゃあまた滝公、へん、滝の野郎てえ豪傑がついてまさ。」

「あれだもの。」

「どうでえ阿魔、一言もあるめえ恐入ったか。」

「義作さんいい加減におしな。お嬢様は御心配を遊ばしていらっしゃるんですよ。」

「だから、その御心配には及びますめえッてこった。難かしいこたあない、あまさい無事なら可いんでしょう。そこは心得てまさ、義作が心得たといっちゃあ、馬に引摺ひきずられたからとあって御信仰が薄いでしょうが、滝大明神が心得てついてます。今も島野さんに承わりゃ、あとからついて入んなすったそうで、何、またあの豪傑が行きさえすりゃ、」といいかけて、額を押え、

「や、天狗がつぶてを打ちゃあがる。」

 雨三粒降って、雲間に響く滝の音が乱れた。風一陣!


       四十八


「女中さん、降って来そうでございます、姫様ひいさまにおっしゃって、まあ、お休みなさいましな」と米は程合ほどあいを見計らう。

「ああ、そういたしましょうねえ、お嬢様。」

 黙って敏活の気のあふれた目に、大空を見ておわした姫様は、これにうなずいて御入おんいりがあろうとする。道はもとより、馬丁べっとう義作続いて島野まで、長いものに巻かれた形で、一群ひとむれになって。米は鍵屋あって以来の上客を得た上に、当のあいての蔵屋の分二名まで取込んだ得意想うべく、わざと後をおさえて、周章あわてて胡乱々々うろうろする蔵屋のむすめに、上下うえした四人をこれ見よがし。

「お懸けなさいまし、」と高らかに謂った。

 蔵屋の倉はたまりかねて、めながら米を摺抜すりぬけて、島野に走り寄った。

「旦那様、若衆様わかいしさんとお二方は、どうぞわたくしどもへお帰りを願いとう存じます。」

「そうだ、忘れ物もあるし後で寄るよ。」

「はい、お忘物はこちらへ持って参りましてもよろしゅうございます。申兼ねますがどうぞいらっしゃって下さいまし、拝むんでございます、あの、後生になるのでございます。」

「可いじゃあないか、何ものちにだってよ。」

 義作が仔細しさいを心得て、

「競争をしてるんでさ、評判なんで。おい、姉さん、御主人様がこちらへおしとねすわるから、あきらめねえ、仕方がねえやな。いえさ、気の毒だ、わっしあ察するがね、まあ堪忍しなさい。」

「それでもどうぞ姫様にお願い遊ばして。」

「何をいうんですよ、馬鹿におしなさいねえ。」

 と米はかたわらから押隔てると、敵手あいてはこれなり、倉はせんを取られた上に、今のお懸けなさいましでかッとなっている処。

「止してくれ、人、身体からだに手なんぞ懸けるのは、けがれますよ。」

「何をかったいが。」

はりつけめ。」と角目立つのめだってあられもない、手先の突合つつきあいが腕の掴合つかみあいとなって、頬の引掻競ひっかきくら。やい、それと声を懸けるばかりで、車夫も、馬丁べっとうも、引張凧ひっぱりだこになった艶福家えんぷくか島野氏も、女だから手も着けられない。

「留めておやり。道や、」

「ちょいと、串戯じょうだんじゃあないよ、お前様方まえさんがたはどうしたもんです。これお放し、あれさ、お放しというに、両方とも恐しい力だ。こっちはお嬢様がそれどころじゃあないのだのに、お前さんまでがお気をませ申すんだよ。いい加減におし、あれさ、可いやね、そんなら私が素裸まッぱだかになって着物をつちに敷いて、その上へ貴女あなたを休ませ申すまでも、お前達の世話にゃあならない、どちらへも休みはしないからそう思っておくれ。」とすっきりいった。両人ふたりは左右に分れたが、そのまま左右から、道の袖をつかまえて、ひしとすがって泣出したのである。道は弱って手をつかねてぼんやりとするのを見て、勇美子は早やばらばらと音のする雨も構わず、手を両人ふたりせなにかけて、蔵屋と、鍵屋と、路傍みちばたに二軒ならんだのに目を配って、じっと見たまい、

「二人とも聞きな、可いことを教えてあげよう、しょッちゅうそんなことをしていては、どちらにもいことはないよ。こうおし、お前の処のお客は註文のあった食物をお前の処から持運ぶし、お前の処のお客はお前の店から持って行くことにして、そして一月がわりにするの。可いかい、うらみっこ無しに冥利みょうりの可い方が勝つんだよ。」

「おや、お嬢様、それでは客と食物を等分に、代り合っていたします。それでいてお茶代が別にあったり何かすると、どちらが何だか分らないで、うらみはいつの間にか忘れてしまいましょう。なるほどそのこったよ。さあ、二人とも、手をったり。」

「やあ、占めろ。」といって、義作は景気よく手を拍った。むすめ両人ふたり、晴やかな勇美子のおもてを拝んだ。

 折柄荒増あれまさる風に連れて、石滝の森から思いも懸けず、橋の上へ真黒まっくろになって、けつ、まろびつ、人礫ひとつぶてかとすさまじい、物の姿。


       四十九


 あれはと見る間に早や近々ちかぢかと人の形。橋の上を流るるごとく驀直まっしぐらに、蔵屋へ駆込むとひとしく、床几しょうぎの上へひびきを打たせて、どたりと倒れたのは多磨太である。白墨狂士は何とかしけむ、そのままどたどたと足を挙げて、苦痛に堪えざる身悶みもだえして、呻吟うめく声ゆるがごとし。

 鍵屋の一群ひとむれはこれを見て棄て置かれず、島野に義作がついて店前みせさきへ出向いて、と見ると、多磨太は半面べとり血になって、頬から咽喉のどへかけ、例の白薩摩しろさつまの襟を染めて韓紅からくれない

「君、どうしたんです。」と島野は驚いたが、薄気味の悪さうにそっと手をとって、眉をひそめた。

 鍵屋では及腰およびごしに向うを伺い、振返って道が、

「あれ、怪我をしておりますようです、どうしたんでございましょう。」

 勇美子も夜会結びのびんずらを吹かせ、雨に頬を打たせていとわず、掛茶屋の葦簀よしずから半ば姿をあらわして、

「石滝から来たのじゃあなくって。滝さんとお雪はどうしたろうね、」とこれは心も心ならない。道はずッと出て手招てまねぎをした。

「義作さん、おおい、ちょいとおいでよ、お出よ。」

「へッ、」と云って、威勢よく飛んで帰る。

「何だね、どうしたのさ、あれ大変呻吟うめくじゃあないか。」

「え、雀部さんの多磨太なんで、から仕様がえんです。何だそうで、全体心懸こころがけが悪うがすよ。ありゃね、しょッちゅう、あの花売を追懸おっかけ廻していたんで、今朝も、おめえ、後をけて石滝へ入ったんだと。え何、力になろうの、助けてやろうという贅沢ぜいたくなんじゃあねえんでさ。お道どん、お前のまいだけれどもう思い切ってるんだからね、人のへえらねえ処だし、お前、対手あいてはかよわいや。そこでもってからに、」といいかけて、ちょっと姫様ひいさまを見上げたので声をひそめた。

「だね、それ、狼って奴だ。おめえ、滝の処はやっぱり真暗まっくらだっさ。野郎とうとう、めんないちどりで、ふんづかめえて、口説こうと、ええ、そうさ、長い奴を一本引提ひっさげてへえったって。大刀だんびらを突着けの、物凄くなった背後うしろから、襟首を取ってぐいと手繰つけたものがあったっさ。天狗だと思って切ってかかったが、お前、暗試合やみじあい盲目めくらなぐりだ。その内、痛えという声がする、かすったようだけれども、手応てごたえがあったから、占めたと、えらくなる途端にお前。」

 義作は左の耳から頬へかけててのひらですぺりと撫でて、仕方を見せ、苦笑にがわらいをして、

「片耳ざくり、行って御覧ごろうじろ、鹿が角を折ったように片一方まるで形なしだ。呻吟うめくのはそのせいさ、そのせいであの通りだ。急所じゃがあせんッて、わっしもそう言ったんで、島野さんも、生命いのちにゃあ別条はないっていうけれどね、早く手当をしてくれ、破、破、破傷風になるって騒ぐんで、ずきりずきりと脈を打っちゃあ血がくのがきもにこたえるってもがいてね、真蒼まっさおです。それでも見得があるから、お前、松明たいまつをつけて行って見ろ、天狗の片翼かたつばさを切って落とした、血みどろになったとびの羽のようなものが落ちてたら、それだと思えなんて、血迷ってまさ。大方滝太郎様にやられたんでしょう、可い気味だ、ざまあ! はははは。やあ、苦しがりやあがって、島野さんの首っ玉へかじりついた。あの人がまた、血を見ると癲癇てんかんを起すくらい臆病おくびょうだからね。や、慌ててら、慌ててら、それに一張羅だ、たまったもんじゃあねえ。躍ってやあがる、畜生、おもしれえ!」とばかりで雨をくぐって、此奴こいつ人の気も知らず剽軽ひょうきんなり。

「道、滝さんが怪我をなさりやしないのか。」

「さようでございますね、」と、顔と顔。


       五十


小主公わかだんなお久振でござりました、よくわたくしの声にお覚えがござりますな。へい、貴方あなたがお目の悪いことも、そのためにむすめが黒百合を取りに参りましたことも、早いもので、二日前のことだそうですが、もう市中で評判をいたしております。もっともことのついでに貴方のお噂がござりませんと、三年ごし便たよりは遊ばさず、どこに隠れておいでなさりますか、分りませんのでござりました。目がお見えなさらないというだけは不吉じゃあござりましたが、東京の方だというし、お年のころなり御様子なり、てっきり貴方に違いないと、直ぐこちらへ飛んで参り、向うのあの荒物屋で聞いてお尋ね申しました。小主公わかだんな、何はきまして御機嫌よろしく。」

「慶造、何につけても、お前達にもう逢いたくはなかったよ。」

 と若山は花屋の奥に端近く端座して、憂苦にやつれ、愁然しゅうぜんとして肩身が狭い。慶造と呼ばれたのは、三十五六の屈竟くっきょうおのこ、火水にきたえ上げた鉄造くろがねづくりの体格で、見るからに頼もしいのが、沓脱くつぬぎの上へ脱いだ笠を仰向あおむけにして、両掛の旅荷物、小造こづくりなのを縁にせて、慇懃いんぎん斉眉かしずく風あり。拓の打侘うちわびたることばを聞いて、憂慮きづかわしげにその顔を見上げたが、勇気はおのおもてあふれつつ、

「御心中お察し申しますが、人間は四百四病の器、病疾やまいには誰だって勝たれませぬ、そんなに気を落しなさいますな。小主公わかだんないお音信たよりがござりますぜ、大旦那様もちょうどこの春、三月が満期で無事に御出獄でござりました。こちらでも新聞がござりますなら、くに御存じでござりましょう。」

 若山は色を動かして、

「そうか、私はまた何もも思切って、わざと新聞なぞは耳に入れないように勤めているから、そりゃちっとも知らずに居た、御無事に。……そうかい、けれども慶造、私はお目にかかられまい。」と額に手をかざして目をおおうたのである。

「なぜでございます、目をお損いになりましたせいでござりますか。」

「むむ、何それもあるけれども、私がかんがえで、家を売り、邸を売り、父様おとっさんがいらっしゃる処も失くなしたし。」

「それは御心配ござりません、貴下あなた放蕩ほうとうでというではなし、御望おのぞみがおあり遊ばしたとはいえ、大旦那様が迷惑をお懸け遊ばした方々の債主へ、少しずつお分けになったのでござりますもの、拓はよくしたとおっしゃったのを、わたくしじきに承わりましてござります。」

「そして今どこにいらっしゃるんだな。」

「へい、組合の方でお引取申しました。海でなり、陸でなり、一同旗上げをいたします迄はしばらくおかくれでござります。貴方もこういう処はお立退たちのきになって、それへ合体がよろしゅうござりましょう。ちょうどこの国へ参りがけに加州を通りまして、あすこであの白魚の姉御にも逢いました。」

「何、お兼に逢った、加賀といえばつい近所へ来ているのか。」

「さようでござります、この頃さかんに工事を起しました、倶利伽羅鉄道の工夫の中へまじり込んで、目星いのをまた二三人も引抜いて同志につけようッて働いておりますんで。一体富山でしばらく働いたそうでござりますに、貴方をお見着け申さなんだのは、姉御が一代の大脱落おおぬかりでござりましょう。その代り素ばらしいのを一名、こりゃ、華族で盗賊どろぼうだと申しますから、味方には誂向あつらえむき、いざとなりゃ、船の一そうぐらい土蔵を開けて出来るんでござります。金主がつけば竜に翼だ、小主公わかだんな、そろそろ時節到来でござりましょうよ。」と慶造が勇むに引代え、若山は打悄うちしおれて、ありしその人とは思われず。かれは非職海軍大佐某氏の息、理学士の学位あって、しかも父とともに社会の暗雲におおわれた、一座の兇星きょうせいであるものを!


       五十一


 慶造は言効いいがいなしとや、握拳にぎりこぶしを膝に置き、おもてを犯さんず、意気組見えたり。

小主公わかだんな貴方あなたはなぜそう弱くおなんなすったね、やめえなんざ気で勝つもんです。大方何でしょう、そんな引込思案をなさいますのは、目のためじゃあござりますまい。かえってその御病気のために、生命いのちらないという女のあるせいでしょう。うがす、何そりゃ好いたやつのためにゃあ世の中を打棄うっちゃるのも、時と場合にゃ男の意地でさ、品に寄っちゃあ城を一百一束いっそくひとからげにしててのひらに握るのと違わねえんでございましょうが、何ですぜ、野郎の方で、はあと溜息ためいきをついて女児あまッこの膝にすがるようじゃあ、大概たいげえの奴あそこで小首をかしげまさ。てめえのためならばな、かぶとしころなッちもらない、そらよ持って行きねえで、ぽんと身体からだを投出してくれてやる場合もあります代りにゃ、あま達引たてひく時なんざ、べらんめえ、これんばかしのはしたをどうする、手の内ア受けねえよ、かなんかで横ッつらへ叩きつけるくらいでなくッちゃあ、不可いけませんや。=苦労しもする、させもする=ていのはそりゃあ心意気でさ。」

 慶造は威勢よくぽんと一ツ胸を叩いた。

「ここにあるこッてす。顔へ済まねえをあらわして、さも嬉しそうに難有ありがてえ、苦労させるなんて弱いを出して御覧ごろうじろ、やっこさんたちまちなめッちまいますぜ。殊に貴方だ、誰だと思ってるんだ、おことばの一ツも懸けられりゃ勿体もってえねえと心得るが可い位の扱いで、結構でがす。もっとも、まあこうやって女の手一つで立過たてすごして、そんなおっかねえ処へ貴方のために参ったんだ、憎くはありません、心中者だ。ですが、そりゃわっしどもはじめ世間で感心する事で、当の対手あいては何のむすめッ子の生命いのちなんざ、幾つ貰ったって髢屋かもじやにも売れやしねえ、そんな手間で気の利いたこうの物でもこしらえろと、こういった工合ぐあいでなくッちゃ色男は勤まりませんよ。何でも不便ふびんだ、可愛いと思うほど、手荒く取扱って、癇癪かんしゃくを起してね、横頬よこッつらりのめしてやりさえすりゃ惚れた奴あ拝みまさ。貴方も江戸児えどッこじゃあがあせんか。いえさ、若山さんの小主公わかだんなでしょう。あま心中立しんじゅうだてを物珍らしそうに、世の中にゃあ出ねえの、おいらこれッきりだのと、だらしのねえ、もう、情婦いろを拵えるのと、坊主になるのとは同一おんなじものじゃあございませんぜ。しかしまあ盲目めくらにおなんなすったから、按摩あんまにゃあかけがえのねえ女だと、拝んでるんでしょう。でれでれとするのはお金子かねのある分だ、貴方のなんざ、あますがるんだからたまりませんや。え、もし、そんなこッちゃああまにだって愛想をつかされますぜ。貴方ほどの方がどういうもんです。いや、それとも按摩さんにゃあ相当か。」と、声を激ましていいながら、慶造は、目の見えぬ、やつれた若山の面を見守って、目には涙をたたえていた。

「慶造!」と一喝した、かれあおくなって、きっと唇を結んだ。

「ええ、」

「用意が出来たらいつでも来い、同志の者のむかいなら、冥途めいどからだって辞さないんだ。失敬なことをいう、盲人めくらがどうした、ものを見るのが私の役か、いざといって船出をする時、船を動かすのは父上おとっさんの役、いかりを抜くのは慶造貴様の職だ。みんなに食事をさせるのはお兼じゃあないか。水先案内もあるだろう、医者もあろう、船のく処は誰が知ってる、私だ、目が見えないでも勝手な処へ指揮さしずをしてやる、おい、星一ツない暗がりでも燈明台なんぞあてにするには及ばんから。」

 と説き得て、拓は片手を背後うしろへついて、悠然として天井を仰いだ。

難有ありがとうござります。おお、小主公わかだんな。」と、慶造は思わず縁側に額をつけた。


       五十二


「いやもうひさしぶりで癇癪かんしゃくをお起しなすって、こんな心持の可いことはござりません。わたくしゃ変な癖で、大旦那と貴方の癇癪声さえ聞きゃ、ぐっとその溜飲りゅういんの下りますんで。へい、それでわたくしも安心でござります、ついお心持を丈夫にしようとッてさきのように太平楽は並べましたものの、わたくしも涙が出ます、実はこらえておりました。」

 慶造はなさけなさそうに笑いながら、

「大旦那様はそんなにも有仰おっしゃりますまいが、貴方の御病気の様子を奥様がお聞きなすって御覧ごろうじろ、大旦那様の一件で気病きやみでおなくなり遊ばしたようなお優しい、お心弱い方がどんなにお歎きでござりましょう。今じゃあ仏様で、草葉の蔭から、かえって小主公わかだんなをお守りなすっていらっしゃるんで、その可愛い貴方のためにそういう処へ参りました娘なら、地獄だって、魔所だって、きっとお守りなさいましょうから、御心配にゃあ及びますまい。のぞみの黒百合の花を取ってやがて戻って参りましょうが、しかし打遣うっちゃっちゃあおかれません、貴方に御内縁の嬢さんなら、わたくしにゃ新夫人様にいおくさま。いや話は別で、そうかといって見ております訳ではござりません。殊に千破矢様というのがその後へおいでなすったという風説うわさ、白魚の姉御がいった若様なんで、味方の大将を見殺みごろしにはされません。もっとも直ぐにその日、一昨日おとといでござりますな、すくなからぬ係合かかりあいの知事様の嬢さんも、あすこの茶屋まで駈着かけつけましたそうで。あれそれと小田原をやってる処へ、また竜川とかいう千破矢の家の家老が貴方、参ったんだそうで、御主人の安否は拙者がか何かで、昔取った杵柄きねづかだ、腕に覚えがありますから、こりゃ強うがす、覚悟をして石滝へ入ろうとすると、どうでございましょう。四五間しかないそうですが、泥水をって川へ一時に推出して来た、見る間にくいを浸して、早や橋板の上へちょろちょろと瀬が着くさわぎ。大変だという内に、水足が来て足をめたっていうんです。それがためにみんな一雪崩ひとなだれに、引返ひっかえしたっていいますが、もっとも何だそうで、そのさきから風が出て大降になりました様子でござりますな。」

「ああ、その事は昨日きのう知事の内から、道とかいう女中が来て私にいった。ちょいちょい見舞ってくれるんだ、今日もついさきに帰ったから聞いているよ。」

「それからはまるで三日、富山中は真暗まっくらで、むかと思うと滝のように降出します。いや神通が切れた、郷屋敷田圃たんぼ堤防つつみが崩れた、牛のふちから桜木町へ突懸つッかかる、四十物町が少し引くかと思うと、総曲輪がうみだという。それに、間を置いちゃあ大雨ですから市中はいくさです。壁がくずれたり、材木が流れたりしますんですが、幸いまだ家が流れる程じゃあないので、ちょうど石滝の方は橋が出たという噂ですから、どうにか路は歩行あるかれましょう。お目にかかって、いよいと貴方でございます日にゃあ、こっちの嬢さんは御主人なり、一方にゃあ姉御がいった若様もいらっしゃる。どうでございましょう、この辺は水は大丈夫でございますか、もしそれが心配だと貴方ばかりではお目の御不自由、と打遣うっちゃっちゃあ参られませんが。」

「慶造、六十年近くもここに居る荒物屋の婆さんがいうんだ、水には大丈夫だそうだから、私には構わんでも可い。」

 心安く言ったので、慶造は雀躍こおどりをして、

「それじゃあ後髪を引かれねえで、可うがす。お二人の先途を見届けて参りましょう。小主公わかだんなお気を着けなすって、のちともいわず直ぐに、」

 といった。折からの雨はまたしのつかねて、暗々たる空の、殊に黄昏たそがれを降静める。

 慶造は眉を濡らすしずくを払って、さしかざした笠を投出すとひとしく、七分三分にもすそをぐい。

「してこいなと遣附やッつけろ、や、本雨だ、威勢が可いぜえ。」


       五十三


 開戸から慶造が躍出したのを、拓は縁に出て送ったが、繁吹しぶきを浴びて身を退いて座に戻った、かれは茫然として手をつかぬるのみ。なかばは自分の体のごときお雪はあらず、あまりの大降に荒物屋のばばも見舞わないから、戸を閉め得ず、ともしけることもしないで、渠はただ滝のなかに穴あるごとく、雨の音に紛れて物の音もせぬ真暗まっくらの内に数時間を消した。初更しょこうを過ぎつと覚しい時、わずかに一度やや膝を動かして、机の前に寄ったばかり。三日の内にもかばかり長い間降詰めたのは、この時ばかりであった。おどろおどろしい雨の中に、遠く山を隔てた隣国の都と思うあたり、馳違はせちがう人の跫音あしおと、もののひびき、洪水の急を報ずる乱調の湿った太鼓、人の叫声さけびごえなどがひとしきりひとしきり聞えるのを、奈落の底で聞くような思いをしながら、理学士は恐しい夢を見た。

 こはいかに! 乾坤別有天けんこんべつにてんあり。いずこともなく、天うららかに晴れて、黄昏か、朝か、気すずしくして、仲秋のごとく澄渡った空に、日も月の形も見えない、たとえば深山みやまにして人跡ひとあとの絶えたる処と思うに、東西も分かず一筋およそ十四五町の間、雪のごとく、霞のごとく敷詰めた白い花。と見るとの花のようで、よく山奥の溪間たにあいながれに添うてむれ生ずる、のりうつぎ(サビタの一種)であることを認めた

 時にそよとの風もなく、花はただ静かに咲満ちて、真白まっしろな中に、ここかしこ二ツ三ツ岩があった。その岩の辺りで、折々花が揺れて、さらさらとなびくのは、下を流るる水の瀬が絡まるのであろう、一鳥声せず。

 理学士は、それともなく石滝の奥ではないかと、ふと心着いて恍惚うっとりとなる処へ、吹落す疾風はやて一陣。蒼空あおぞらなかばおおうた黒い鳥、片翼およそ一間余りもあろうと思うわしが、旋風つむじを起して輪になって、ばッと落して、そのうつぎの花に翼を触れたと見ると、あッという人の叫声。途端に飜って舞上った時に、粉吹雪こふぶきのごとくむらむらと散って立つ花片はなびらの中から、すっくとあらわれた一個の美少年があった。まくひじを曲げて手首から、垂々たらたらと血が流れるこぶしを握って、まなじりの切上った鋭い目にはッたと敵をにらんだが、打仰ぐ空次第に高く、鷲は早や光のない星のようになって消えた。

 少年は、じっとその勁敵けいてきの逸し去ったのを見定めた様子であったが、そのままなめらかな岩にせなを支えて、仰向あおむけに倒れて、力なげに手を垂れて、いたく疲れているもののようである。

 やや有って、今少年が潜んでいた同じ花の下からそっと出たのはお雪であった。黒髪は乱れてえりもつれ頬にかかり、ふッくりした頬もしし落ちて、すそたもともところどころ破れ裂けて、岩にすがり草をみ、荊棘いばらの中をくぐり潜った様子であるが、手を負うた少年のかいなすがって、懐紙ふところがみきずを押えた、くれないはたちまちその幾枚かを通して染まったのである。

 お雪は見るも痛々しく、目もれたるさまして、おろおろ声で、

「痛みますか、痛みますか。」というのが判然はっきり聞える。

 眠れるか、少年はわずかにそのかしらったが、血はとまらず、おさえた懐紙は手にもたまらず染まったので、花の上に棄てた。一点紅、お雪は口を着けてその疵口きずぐちを吸ったのである。

 唇が触れた時、少年はすずしい目をみはってきっと見たが、また閉じて身動きもせず、手は忘れたもののようにお雪がするままに任せていた。

 両人が姿を見ると、我にもあらず、理学士がししむらは動いたのである。


       五十四


 しばらくするとお雪は帯の端を折返して、いつも締めている桃色の下〆したじめを解いて、一尺ばかり曳出ひきだすと、手を掛けたきぬは音がして裂けたのである。

 そのきれきずを巻いて、放すと、少年はほとんど無意識のごとく手を曲げて胸にもたらして咽喉のどのあたりへ乗せたが、疲れてすやすやとねむった様子。顔のあたり、肩のあたり、はらはらと、来て、白くたまって、また入乱れて立つは、風に花片はなびらが散るのではない、さきに大鷲がうつぎの森の静粛を破って以来、絶えず両人ふたりの身のあたりに飛交う、花の色と等しい、小さな、数知れぬ蝶々で。

 お雪は双の袂の真中まんなかを絞って持ち、留まれば美しい眉をひそめる少年の顔の前を、絶えず払い退け、払い退けする。その都度死装束しにしょうぞくとして身装みなりを繕ったろう、清い襦袢じゅばんくれないの袂は、ちらちらと蝶の中に交って、あれば、おのが肩を打ち、且つ胸のあたりを払っていたが、たちまち顔をしかめて唇を曲げた。二ツ三ツ体をったがあわただしい、我を忘れて肌を脱いだ、単衣ひとえせなこぼづる、雪なすはだえにももつるるくれない、そののあたりからも袂からも、むらむらとして飛んだのは、くだんの白い蝶であった。

 我身なかばはその蝶にしたるかと、お雪は呆れ顔をして身内を見たが、にわかに色を染めてそッと少年を見ると、目を開かず。

 お雪はほっと息をいて、肌を納めようとした手を動かすにいとまなく、きゃッといって平伏した。声に応じて少年はかッぱとね起きて押被おっかぶさり、身をもってお雪をかばう。娘の体は再び花の中にうずもれたが、やや有ってあらわれた少年のせなには、すさまじい鈎形かぎがたに曲ったくちばしが触れた。大鷲は虚を伺って、とこうのすきなく蒼空から襲いきたったのであった。

 倒れながらきっとそのおもてを上げると、翼で群蝶を掻乱かきみだして、白いけぶりの立つ中で、鷲はさっと舞い上るのを、血走った目にみつめながら少年はと立った。思わず胸に縋るお雪の手を取ってたすけながら、行方をにらむと、谷を隔ててはるかに見えるのは、杉ともいわず、とちともいわず、ひのきともいわず、二抱ふたかかえ三抱みかかえに余る大喬木だいきょうぼくがすくすく天をさして枝を交えた、矢来のごとき木間このま々々には切倒したと覚しき同じほどの材木が積重なって、よこたわって、深森のうちおのずからこみちを造るその上へ、一列になって、一ツ去れば、また一ツ、前なるが隠るれば、後なるが顕れて、ほとんど間断なく牛が歩いた。いずれも鼻頭はなづらにおよそ三間あまりの長綱をつけて、姿形も森の中に定かならず、牛曳うしひきと見えるのが飛々に現れて、のッそり悠々として通っていたのであるが、今くだんの大鷲が、風を起して一翼に谷を越え、その峰ある処、件の森の中へあからさまに入ったと思うと、牛は宙に躍って跳狂はねくるうのが、一ツならず、二ツならず、咄嗟とっさかんまなこを遮って七ツ数えるとんだ。

「しっかりしねえ、もう可いぜ。」といって、少年は手を放した。

 お雪は血の気を失った顔を、恐る恐る上げて仰いだが、少年を見るとひとしくふるわした。

「あらまたお背中を、ちょいと大変でございますよ。」

「可いッてことよ、こればかしが何だ。」といったが、あわれ身を支えかねたか、またどっさりと岩に腰を掛ける。

 お雪は失心のていで姿を繕うこともせず。両膝を折って少年の足許あしもとひざまずいて、

「この足手纏あしてまといさえございませねば、貴方お一方はおたすかり遊ばすのに訳はないのでございます。」

 と、いう声も身も顫えたのである。


       五十五


「私はどういたしましょう、花も取って頂きました上に、この山に入りましてから貴方ばかりひどい目にお逢わせ申して、今までに、生命いのちをお取られ遊ばすかと思いましたことが幾たびあったでございましょう。体もきずに遊ばしてかばって下さいますから、勿体ない、私は一ヶ所擦剥すりむきました処もございません。たといさきの世の約束事でも、これまでに御恩を受けますことはないのでございます。どうぞ私を打遣うっちゃってお逃げなすって下さいまし、おねがいでございます。貴方にこうして頂きますより殺されます方がどんなに心安いか分りません。失礼ながらお可哀そうで、片時もこんなこわい処に貴方をお置き申したくはございませんから。」と、嗚咽おえつしていう声も絶断たえだえ

 少年はかえってつッけんどんに、

「生意気な講釈をするない、手前達てめえッちの知ったこッちゃあねえや、見殺しにされるもんか。しかし、おい、おいらも、まさかこれほどとは思わなかったが、随分手に余る上に、ものは食わずよ。どこへ出て可いか方角が分らねえし、弱った。きてる内ゃ助けてやらあ、不可いけなかったら覚悟しねえ。おいら父様おとっさんはなし、母様おっかさんくなったし、一人ぼッちで心細かったっけが、こんな時にゃあさっぱりだ、なさけなくも何ともねえが、てめえは可哀そうだな。」といって、さすがの少年が目に暗涙をたたえて、膝下しっかに、うつぎの花にうずもれてうずくまる清いはだえと、美しい黒髪とが、わななくのを見た。この一雫ひとしずくが身に染みたら、荒鷲あらわしはしに貫かれぬお雪の五体も裂けるであろう。

 一言のいらえも出来ない風情。

 少年も愁然しゅうぜんとして無言で居たが、心すともなく極めて平気な調子で、

「しょうがねえやな、おい、そうしたら一所に死のうぜ。」と、自からうなずくがごとく顔を傾けていった。

 理学士は夢中ながら、おのが命をもって与えんとして、三年みとせの間朝夕室をおなじゅうした自分の口からも、かほどまでに情のこもった、しかも無邪気な、罪のないことをいい得なかったことを思って、ひしと胸を打たるるがごとくに感じたのである。

 我にもあらず、最後を取乱したお雪の耳にも、かかることばは聞えたのであろう。

「勿体のうございます。」と、神に謝するがごとくにいった。

「そのつもりあきらめねえ。おい、そう泣くのは止せ、弱虫だと見ると馬鹿にするぜ、ももんがあ。」といって大空を。

「はい、もう泣きはいたしません。私が先へ覚悟をしておりましたものを、お可恥はずかしゅうございます。」と、手をついて面を上げた。そして顔と顔を見合せた時、少年はほとんど友白髪まで添遂げた夫婦みょうとのごとく、事もなげに冷い玉かと見えるお雪の肩に手を掛けて、

「助かったら何よ、おいらがやしきへ来ねえ、一所に楽をしようぜ、面白く暮そうな。」と、あたかも死をかけものにしたこの難境は、将来のそのたのしみのために造られた階梯かいていであるように考えるらしく、絶望した窮厄の中にとして一脈の霊光を認めたごとく、嬉しげに且つ快げにいって莞爾かんじとした。いまわの際に少年は、刻下無意識になった恋人に対して、ために生命を致すその報酬を求めたのではない。繊弱小心の人の、知死の苦痛の幾分を慰めんとしたのである。

 拓は夢に、我は棄てられるのであろうと思った、お雪は自分を見棄てるであろうと思った。少年がその時のその意気、その姿、その風情は、たとい淑徳貞操の現化げんげした女神にょしんであっても、なお且つ、一糸おおえる者なきその身をいだかれて遮ぎり難く見えたから。


       五十六


 理学士はまた心から、とおの我に百を加えても、なおはるかにその少年に及ばないことを認めたのである。

 たとえばおのが目はいたるに、少年のまなこは秋の水のごとく、清く澄んで星のごとく輝くのである。我はお雪の供給にきて、かれをして石滝の死地におちいらしめたのに、少年はその優しき姿と、斗大の胆をもって、渠を救うために目前荒鷲と戦っている。しかも事の行懸ゆきががりから察し、人の語る処に因れば、この美少年は未見の知己、千破矢滝太郎に相違ない。千破矢は華族だ、今渠がきたれ、共にこの労を慰めんといったのは、すなわちお雪を高家の室となさんという心である。されば少年がその意気と、その容貌ようぼうと、風采ふうさいと、その品位をもってして誰がこれをうけがわざるべき。拓が身をもってお雪と地位をかえたとすれば、直ちに我を棄てて渠に愛を移すのは、世に最も公平なことであると思って、満身の血が冷くなった。けれどもあえて数の多量なるものが、愛をあがない得るのではなかった。お雪は少年が優しく懸けた、肩の手を静かに払って、さっと赤らむ顔とともに、声の下で、

「はい、私はあのお邸へ上ります訳には参りませんのでございます。」

 恐る恐るいうおもはゆげなさまを、少年はみまもりながら、事もなげにいった。

「なぜだ。」

「内に拓さんという方がございます、花を欲しいと存じましたのも、みんなその人のためなんですから。」と死を極めたものの、かえってかかることをはばからず言って差俯向さしうつむく。

 少年はきっとなって、たちまち顔色を変えたのである。

 理学士はこの時少年のいうことを聞こうとして、思わず堅唾かたずを飲んだ。

 夢中の美少年に憤った色が見え、

「おいら、島野とは違うぜ。今までな、おい、ほしい思ったものは取らねえこたあねえ、しようと思ったことをしねえこたあなかったんだ。可いじゃあないか、不可いけねえッて? 不可ねえか。うむそうか、可いや、へん、おいらつまらねえことをしたぜ。」

 と投げるようにいって、大空を恍惚うっとりとみつめた風情。取留めのない夢のおもいで、拓はこの時少年がお雪に向ってなす処は、一つびとつ皆思うことあって、したかのごとく感じられて、快活かくのごとき者が、恋には恐るべき神秘を守って、今までに秋毫しゅうごうも、さる気色のなかったほど、一層大いなる力あることを感じて、愕然がくぜんとした。同時に今までは、お雪を救うために造られた、いわおる一個白面、朱唇、年少、美貌びぼうの神将であるごとく見えたのが、たちまち清く麗しき娘を迷わすために姿を変じた、妄執の蛇であると心着いたが、手も足も動かず、叫ばんとする声もおのが耳にはらなかった。

 鷲がその三回目の襲撃を試みない瞬間、白い花も動かず、二人はじっとして石に化したもののように見えた。やがて少年は袂を探って、一本ひともとの花を取出した。学識ある理学士が夢中の目は、直ちにそれを黒百合の花と認めたのである。

 これがためにこそ餓えたり、傷付いたれ、物怪もののけある山に迷うたれ。荒鷲には襲わるる、少年の身に添えて守っていたと覚ゆるのを、つかむがごとく引出ひきいだして、やにわに手を懸けてむしり棄てようとした趣であった。けれども、お雪が物いいたげに瞳を動かして、と胸を抱いて立ったのを、いやしむがごとく、あざけるがごとく、憎むがごとく、はたあわれむがごとくにじっと見て、舌打して、そのまま黒百合をお雪の手に与えるとひとしく、巌を放れてすっくと立って、

不可いけねえや、おめえ良人ていしがあるんなら、おいら一所に死ぬのは厭だぜ。じゃあ、おい勝手にしねえ。」

 といい棄てて、身を飜すとたちまち歩き去った。


       五十七


 我が手働かず、足動かず、目はただ天涯の一方に、白き花にうずもれたお雪を見るばかり。片手をもって抱き得るような、細いやつれた妻の体を、理学士はいかんともすることならず。

 お雪は黒百合の花を捧げて、身に影も添わず、淋しく心細げにたたずんでいたが、およそ十歩を隔てて少年が一度振返って見た時、糸をもて操らるるかと二足三足後を追うたが、そのまま素気そっけなく向うを向いてしまったので、力無げにあゆみとどめた、目には暗涙をたたえたり。

 やがて後姿に触れて、ゆさゆさとゆすぶられる、のりうつぎの花のこずえは、少年を包んで見えなくなった。

 これをこそは待ち得たれ、黒い星一ツはる彼方かなたの峰に現れたと見ると、風に乗って矢のごとくにさっと寄せた。すわやと見る目の前の、鷲の翼は四辺あたりを暗くした中に、娘の白いはだえを包んで、はたと仰向あおむけたおれた。

「あれえ、」

 叫ぶに応じて少年は、再び猛然としてあらわれたが、宙を飛んで躍りかかった。こぶしを握って高く上げると、大鷲の翼をんで、そのうなじを打ったのである。

「畜生、おれが目に見えねえように殺せやい!」

 と怒気満面にあふれて叱咤しったした。少年はほとんど身を棄てて、その最後の力を尽したのであろう。

 黒雲一団うずまく中に、鷲は一双の金の瞳をいからしたが、ぱっと音を立てて三たび虚空こくうに退いた。二ツ三ツ四ツ五ツばかり羽は斑々として落ちて、たたかいの矢を白い花の上に残した。

 少年が勇威凜々りんりんとして今大鷲をった時の風采は、理学士をして思わずおもてを伏せて、たおれたる肉一団何かある、我が妻をもてこの神将に捧げんと思わしめたのである。

 かくして少年ははたたなそこってちりを払ったが、吐息をいて、さすがに心ゆるみ、力落ちて、よろよろと僵れようとして、息も絶々たえだえなお雪を見て、眉をひそめて、

「ちょッ、しようのねえ女だな。」

 やがて手をかけて、小脇に抱上げたが、お雪の黒髪はさかさまに乱れて、片手に黒百合を持ったのを胸にあてて、片手をぶらりと垂れていた。大鷲は今の一撃にいかりをなしたか、以前のごとく形も見えぬまでは遠く去らず、中空にいかのぼりのごとくすわって、やや動き且つ動くのを、きっにらんでは仰いで見たが、と走っては打仰ぎ、走っては打仰ぎ、ともすれば咲き満ちたうつぎの花の中に隠れ、顕れ、隠れ、顕れて、道を求めて駆けるのを、拓は追慕うともなく後をけて、ややあって一座の巌石、形ひきがえる天窓あたまに似たのが前途ゆくてふさいで、白い花は、あたかも雪間の飛々に次第に消えて、このあたりでは路とともに尽きて見えなくなる処に来た。

 もとよりうしろは見も返らず、少年はお雪を抱いたまま、ひだを蹈み、角にすがって蝙蝠こうもりずるがごとく、ひらりひらりといわおの頂に上った。この巌の頂は、かれを載せて且つあゆみを巡らさしむるにあまりあるものである。

 時に少年の姿は、高く頭上の風に鷲をただよわせ、天を頂いて突立つったったが、何とかしけむ、足蹈あしぶみをして、

「滝だ! 滝だ!」と言って喜びの色はおもてに溢れた。ただ聞く、どうどうと水の音、巌もゆらぐひびきである。

 少年はいとせわしく瞳を動かして、下りるべき路を求めたが、と端に臨んで、俯向うつむいて見る見る失望の色をあらわした。思わず嘆息をして口惜しそうに、

「どこまでたたるんだな、けだものめ。」


       五十八


 少年を載せた巌は枝に留まったふくろのようで、その天窓あたま大きく、尻ッこけになって幾千仭いくせんじんともわきまえぬ谷の上へ、おおかぶさってななめに出ている。裾を蹈んで頭を叩けば、ただこの一座山のごとき大奇巌は月界に飛ばんず形。繁れる雑種の喬木きょうぼくは、こずえを揃えてくだんいわの裾を包んで、滝は音ばかり森の中に聞えるのであった。頂なる少年は、これをみおろして、雲の桟橋かけはしのなきに失望した。しかるにさかさまに伏してのぞかぬ目には見えないであろう、尻ッこけになったいわおの裾に居て、可怪あやしい喬木の梢なる樹々の葉をしとねとして、大胡坐おおあぐらを組んだ、──何等のものぞ。

 面赭かおあかく、耳あおく、馬ばかりなる大きさのもの、手足に汚れた薄樺色うすかばいろの産毛のようで、房々としてやわらかに長い毛が一面の生いて、人かけだものかを見分かぬが、朦朧もうろうとしてただ霧をつかねて鋳出いだしたよう。真俯向まうつむきになっておもてを上げず、ものとも知らぬみたる声で、

「猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、」と支干えとを数えてつぶやきながら、八九寸伸びた蒼黒い十本の指の爪で、くだんの細々とした、突けば折れるばかりの巌の裾をごしごしごしごしと掻挘かきむしる。時に手をとどめてその俯向いた鼻先と思う処を、爪をあつめて巌のかけを掘取ると見ると、また掻きはじめた。その爪の切入るごとに、巌はもろくぼろぼろと欠けて、喰い入り喰い入り、見る内にあやうく一重の皮を残して、まさに断切ちぎれて逆さまに飛ばんとする。

 あれあれ、とばかりに学士は目もれ、心も消え、体に悪熱あくねつを感ずるばかり、血を絞って急を告げようとする声は糸より細うしておのが耳にも定かならず。可恐おそろしきものの巌を切る音は、肝先きもさきを貫いて、滝のひびきは耳をろうするようであった。

 羽撃はばたき聞えて、鷲はさっと大空から落ちて来た。頂高く、天近く、仰げば遥かに小さな少年の立姿は、狂うがごとく位置を転じて、腕白く垂れたお雪の手が、空ざまに少年のかしらに縋ると見た。途端に巌は地を放れて山を覆えるがごとく、二人の姿はもんどり打って空に舞い、滝の音する森の中へ足を空におちいったので、あッと絶叫したが、理学士は愕然がくぜんとして可恐おそろしい夢から覚めたのである。

 拓は茫然自失して、さきのまま机に頬杖を突いた、その手も支えかねてたおれようとしたが、ふとやみのままうとうとと居眠ったのに、いついたか、見えぬ目にともしびが映えるのに心着いた。

 確かにかたわらに人の気勢けはい


       五十九


「誰だ、」と極めて落着いて言ったが、声は我ながら異常なものであった。

 急に答がないので、更に、

「誰だ。」

「はい、」とかすかにこたえた。

 理学士が一生にただ一度目を開いて見たいのは、この時の姿であった、今のはうたがいも無いお雪である。

 これを聞いてかれは思わず手を差延べて、いだこうとしたが、触れば消失きえうせるであろうと思って、悚然ぞっとして膝に置いたが、打戦うちわななく。

「遅くなりまして済みませんでした、拓さん。」

 と判然はっきり、それも一言ひとことごとに切なく呼吸いきが切れる様子。ありしがごとき艱難かんなんうちから蘇生よみがえって来た者だということが、ほぼ確かめらるると同時に、吃驚びっくりして、

「おお、お雪か、お前! そして千破矢さんはどうした、」と数分時前、夢に渠と我とともにあった少年の名をいった。

 お雪はその時答えなかった。

 理学士は繰返してまた、

「千破矢さんはどうしたんだ、」と、これは何心なく安否を聞いたのであったが、ふと夢の中の事に思い当った。お雪の答が濁ったのを、さてはとばかり、胸をおどらして口をつぐむ。

 しばらくして、

「送って来て下さいましたよ。」

「そして

「あの、おむこうの荒物屋に休んでいらっしゃいます。」

「そうか、」といったが、我ながら素気そっけなく、その真心を謝するにも、うらみをいうにも、喜ぶにも、激して容易たやすくはことばも出でず。あまりのことに、活きて再び家に帰って、うつつのごとき男を見ても直ぐにはものも言懸けなかった、お雪も同じ心であろう。ものいう目にも、見えぬ目にも、二人ひとしく涙をたたえて、差俯向さしうつむいて黙然とした。人はかかる時、世に我あることを忘るるのである。

 かまちに人の跫音あしおとがしたが、あわただしく奥に来て、さかんな激しい声は、沈んで力強く、

げろ、遁げねえか、何をしとる!」

 お雪は薄暗いともしびの影に、濡れしおれた髪を振って、蒼白あおじろい顔を上げた。理学士の耳にも正に滝太郎の声である、と思うもしや!

洪水みずだ、しっかりしろ。」

 お雪は半ば膝を立てて、滝太郎の顔を見るばかり。

「早くしねえかい、べらぼうめ。」と叱るがごとくにいって、と縁側に出た、滝太郎はすっくと立った。しばらくして、あれといったが、お雪は蹶起はねおきようとしてともしを消した。

周章あわてるない、」といって滝太郎はと戻って、やにわにお雪の手を取った。

「助けてい!」と言いさまに、お雪は何を狼狽うろたえたか、たすけられた滝太郎の手を振放して、たおれかかって拓の袖を千切れよといた。


       六十


 お雪は曳いて、曳き動かして、

「どうしましょう、あれ、早く貴方あなた、貴方。」

 拓は動じないで、磐石のごとく坐っているので、思わず手を放して、一人で縁側へ出たが、踏辷ふみすべったのか腰を突いた。しばらくは起きも得なかったが、むっくと立上ると柱に縋って、わなわなとふるえた。ただしんとして縁板がさっと白くなったと思うと、水はひたひたと畳に上った。

「ええ、」といって学士も立った。

可恐おそろしい早さだ、放すな!」と滝太郎はせなかをお雪に差向ける。途端にすさまじい音がして、わっという声が沈んで聞える。

「お雪! お雪。」

 学士も我を忘れてたすけを呼んだのである。

「あれ、若様、拓さんは、拓さんは目が見えません。」

「うむ、」

「助けて下さい、拓さんは目が見えません。」

「二人じゃあ不可いけねえや、」

「内の人を、私の夫を。」

「おいら、お前でなくっちゃあ、」

いや、厭ですよ、厭ですよ、」と、捕うる滝太郎の手を摺抜ける。

「だって、おめえ良人ていしゅなら、おいらにゃあかたきだぜ。」

「私は死んでしまいます。」

「へへ、駄目だい、」とつばするがごとく叫んで、滝太郎は飛んで拓に来た。

「滝だ、大丈夫だ。」

「お雪には義理があるんです、私に構わず、」といって、学士は身を退すさって壁にひたりとせなをあてた。

「あれ、拓さん、」とばかり身をあせるお雪が膝は、早や水に包まれているのである。

「いや、いけない、」と学士は決然として言放った。

 滝太郎は真中まんなかに立って、くだんの鋭い目に左右をみまわして瞳を輝かした。

「ええ二人ともつかまんな。構うこたあねえ、けなけりゃみんなで死のう。」

 雨は先刻さっきんで、黒雲くろくも絶間たえまに月が出ていた。湯の谷の屋根に処々ところどころ立てた高張のあかりして、のあたりは赤く、四方へ黒い布を引いてみなぎる水は、随処、亀甲形きっこうがたうねり畝り波を立てて、ざぶりざぶりと山の裾へ打当てる音がした。拓を背にし、お雪をうなじに縋らせて、滝太郎はおもてらずくだん洞穴ほらあなを差して渡ったが、縁を下りる時、破屋あばらやは左右に傾いた。行くことわずかにして、水は既に肩を浸した。手を放すなといって滝太郎が水を含んで吐いた時、お雪は洪水みずの上に乗上って、乗着いて、滝太郎に頬摺したが、

「拓さん堪忍して。」


 声を残して、うおおどるがごとく、身をひるがえして水に沈んだ。遥かにその姿の浮いた折から、荒物屋のばばなんど、五七人乗った小舟を漕寄こぎよせたが、流れて来る材木がくるりと廻ってふなばたを突いたので、船は波に乗ってさっ退いた。同時に滝太郎の姿も水に沈んだが、たちまち水烟みずけぶりを立てて抜手を切ったのである。拓とともに助かったのは言うまでもない。

 その湯の谷でおぼれたのが十七人、……お雪はそのうちの一人であった。

 水は一晩で大方退いて、翌日あくるひは天日快晴。四十物町はちょろちょろ流れで、兵粮を積んだ船が往来ゆききする。勇美子は裾を引上げて濁水にはぎを浸しながら、物珍らしげに門の前を歩いていた。猟犬ジャムはその袖の下を、ちゃぶちゃぶと泳ぎ、義作は夕立のせなを干して、かたわらに立っていた、水はやや駒のひづめを没するばかり。それでも瀬を造って、低い処へ落ちる中に、流れて来たものがある、勇美子が目敏めざとく見て、腕捲うでまくりをして採上げたのは、不思議の花であった。形は貝母ばいもに似て、暗緑帯紫の色、一つは咲いて花弁はなびらが六つ、黄粉こうふんを包んだしべが六つ、つぼみが一つ。

 数年ののち、いずこにも籍を置かぬ一そうの冒険船が、滝太郎を乗せて、拓お兼が乗組んで、大洋の波にうかんだ時は、必ずこの黒百合をもって船になずけるのであろう。

明治三十二(一八九九)年六~八月

底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房

   1996(平成8)年424日第1刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店

   1941(昭和16)年1225日第1刷発行

※底本の誤植は親本を参照して直しました。

入力:もんむー

校正:門田裕志

2005年316日作成

2007年96日修正

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