僕の読書法
織田作之助


 僕は視力が健全である。これはありがたいものに思っている。むしろ己惚れている。

 己惚れの種類も思えば数限りないものである。人は己惚れが無くてはさびしくて生きておれまい。よしんばそれが耳かきですくう程のささやかな己惚れにせよ、人はそのかけらにすがって群衆の波に漂うているのではなかろうか。果して小人だけが己惚れを持つものだろうか。己惚れは心卑しい愚者だけの持つものだろうか。そうとも思えない。例えば作家が著作集を出す時、後記というものを書くけれど、それは如何ほど謙遜してみたところで、ともかく上梓して世に出す以上、多少の己惚れが無くてはかなうまいと思うが、どうであろうか。恥しいものですと断ってみても、無理矢理本屋に原稿を持っていかれたと体裁の良い弁明をしてみても、出す以上は駄目である。よくよく恥しいという謙遜の美徳があれば、その人の芸術的良心にかけても、たれも本にすまい。人に読ませる積りで書いたのではないという原稿でも、結局は世に出ている。自分の死んだあと、全集を出すなと遺言した作家は何人いるだろうか。

 謙遜は美徳であると知っていても、結局は己惚れの快感のもつ誘惑に負けてしまうのが、小人の浅ましさだろうか。謙遜の美徳すら己惚れから発するものだと、口の悪いラ・ロシュフコオあたりは言いそうである。僕とてご多分に洩れず、相応の己惚れである。けれどまた、己惚れをすっかり失ってしまって、うろうろすることも時にはある。鼻の先にぶら下げていた眼鏡を、群衆の波にもまれているうちに失ってしまって間誤まごする人のようになってしまうのだ。そんな時、僕は自分の視力に頼るほかはないのだが、幸い僕は眼が良い。はや僕は己惚れを取り戻すのである。

 僕はこんな風に思うのである。森鴎外でも志賀直哉でも芥川龍之介でも横光利一でも川端康成でも小林秀雄でも頭脳優秀な作家は、皆眼鏡を掛けていない。それに比べると、眼鏡を掛けた作家は云々。僕は眼鏡を掛けていない。だから云々と己惚れるのである。

 そしてまた思うのである。森鴎外や芥川龍之介は驚嘆すべき読書家だ、書物を読むと眼が悪くなる、電車の中や薄暗いところで読むと眼にいけない、活字のちいさな書物を読むと近眼になるなどと言われて、近頃岩波文庫の活字が大きくなったりするけれど、この人達は電車の中でも読み、活字の大小を言わず(もっとも鴎外は母親の老眼のために自分の著書の活字を大きくしたが)、無類の多読を一生の仕事のようにして来たにもかかわらず、近眼になったという話をきかない。はじめから眼の良いものはさすがに違ったものだ。多読して頭が痛くなるようなそんな眼ではないのだ。つまり生理的に眼の良いものは、頭も良いのだ。神経衰弱の八割までは眼の屈折異常と関係があるという説を成す医者もあるくらいだから──、とこんな風に僕は我田引水し、これも眼の良い杉山平一などとグルになって、他の眼鏡の使用を必要とする友人を掴えて、さも大発見のようにこの説を唱えて、相手をくさらしているのである。

 他愛のないことである。眼の良い者がすべて皆頭脳優秀とは限らぬし、眼鏡を掛けぬ作家が才能に恵まれているわけでもないし、また、眼鏡を使用する必要のない者がつねに人並すぐれた読書家であるというあんばいには参らぬ。僕はたしかに眼が良い。疾走する電車の中にいる知人を、歩道をぶらついている最中に眼ざとく見つけるなど朝飯前である。雑閙の中で知人の姿を見つけるのも巧い。ノッポの一徳でもあろうが、とにかく視力はすぐれているらしい。だからと言って、僕はべつに自分が頭脳優秀だとも才能豊富だとも思っていない。はかない眼鏡説でわずかに慰めているくらいだから、本当はそういう点になるとからきし自信がないのである。己惚れるなど飛んでもないことだ。ことに読書という点でははなはだ自信が無い。鴎外や芥川龍之介などどのようにしてあれ程多読出来たのか、どのようにして読書の時間をつくったのか、そしてどのようにして読んだものを巧く身につけたのか、その秘法があれば教えて貰いたいと思うくらいである。所詮「わが読書法」という題はくすぐったいのである。

 鴎外は子供の前で寝そべった姿を見せたことがないというくらい厳格な人だったらしいから、書見をされる時も恐らく端坐しておられたことであろうと思われるが、僕は行儀のわるいことに、夜はもちろん昼でも寝そべらないと本が読めない。従って赤鉛筆で棒を引いたり、ノートに抜き書きしたりするようなことは出来ない。そういうことの必要を思わぬこともないが、しかし窮屈な姿勢で読んだり、抜き書きしたりしておれば、読書のたのしみも半減するだろうと思われるのだ。たのしみと言ったが、僕は勉強のために読書することはすくない。たのしみのために読書するのである。だから、たとえば鴎外なら鴎外を読んだあとで、あわてて誰かの鴎外研究を繙いてみたりするようなことは避けている。鴎外の作品という実物にふれているたのしみを味えば、もうそれで充分だと思う。結論がたやすく抜き書きできたりするような書物はだから僕には余り幸福を与えてくれない。音楽に酔うているようなたのしみを、その書物のステイルが与えてくれるようなものを、喜んで読みたいと思うのである。アランや正宗白鳥のエッセイがいつ読んでも飽きないのは、そのステイルのためがあると思っている。このひと達へ作品からは結論がひきだせない。だから、繰りかえし読む必要があるし、そしてまたそれがたのしいのである。抜き書きをしない代り絶えず繰りかえし読む、これが僕の唯一の読書法である。そして繰りかえし読むことがたのしいような書物を座右に置きたいと思う。

 高等学校時代ある教授がかつて「人生五十年の貧しい経験よりもアンナカレーニナの百頁を読む方がどれだけわれわれの人生を豊富にするかも知れない」と言った言葉を、僕はなぜか印象深く覚えているが、しかし二十二歳の時アンナカレーニナを読んでみたけれども、僕はそこからたのしみを得ただけで、人生かくの如しという感慨も、僕の人生が豊富になったという喜びも抱かなかった。恐らくこれは僕が若すぎたせいもあろうと思う。それ故、若い頃に読んだ古典はあとで必ず読みかえすべきであると思う。若い頃に読んだから、もう一度読みかえすのは御免だというのであれば、はじめから読んで置かない方がましであろう。日本の古典なども、僕らが学生時代にしきりに古典復興を唱えている先生たちから習って置かなければ、今もっと読みなおしてよい気持が起るのではなかろうか。名曲など下手な演奏者の手にかかると、ひとからその名曲が与える真のよろこびを取り去ってしまうものである。

 しかし、繰りかえし読むと言っても、その書物の入手しがたいこともある。そういう時は僕は縁のないものと諦めてしまい、千里を近しとしてその書物を探し廻ろうとは思わない。入手できない書物にあるいは潜んでいるかも知れない未知の重大な思想も、触れなければ触れないで済まして置こうと思う。未知の恋人同様、会わなければ会わないで、また心安らかであろう。新刊書が入手しにくくなったという苦情もきくが、しかし、入手し損って一生の損失になるようなそんな新刊書がどれくらいあろうか。噂だけきいて会うことの出来なかった恋人でも、いざ会うてみると、それほどのこともないのである。苦情は当らない。僕は繰りかえし読む百冊の本を持っていることで、満足しているのである。

底本:「定本織田作之助全集 第八巻」文泉堂出版

   1976(昭和51)年425日発行

   1995(平成7)年320日第3版発行

初出:「現代文学」

   1943(昭和18)年9

入力:桃沢まり

校正:小林繁雄

2007年425日作成

2007年818日修正

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