起ち上る大阪
──戦災余話
織田作之助
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この話に「起ち上る大阪」という題をつけたが、果して当っているかどうか分らない。或は「起ち上れ大阪」と呼び掛けるか、「大阪よ起ち上れ」と叫ぶ方が、目下の私の気持から言ってもふさわしいかも知れない。しかし、この一ト月の間──というのはつまり、過ぐる三月の、日をいえば十三日の夜半、醜悪にして猪口才な敵機が大阪の町々に火の雨を降らせたその時から数えて今日まで丁度一ト月の間、見たり聴いたりして来た数々の話には、はや災害の中から「起ち上ろうとする大阪」もしくは「起ち上りつつある大阪」の表情が、そこはかとなく泛んでいるように、少くとも私には感じられた。いや、もはや「起ち上った大阪」の表情であるといっても、まるで心にもないことをいったことにもなるまいと、思われる節もいくらかはある。
思えば、こうした表情も、たとえば一ト月前であったなら、或はそれと気づかずに終ったかも知れない。が、すでにして今日の大阪は昨日の大阪の顔ではない。昨日の大阪の顔は或は古く或は新しくさまざまな粧いを凝らしていたものだが、今日の大阪はすでに在りし日のそうした化粧しない、いわゆる素顔である。つまりは、素顔の中に泛んだ表情なのである。それだけに本物であり、そしてまた本物であるだけに、わざとらしい見せ掛けがなく、ひたむきにうぶであり、その点に私は惹きつけられたのだ。ありていにいえば、この「起ち上ろうとする」もしくは「起ち上りつつある」──更に「起ち上った」大阪の表情のあえかな明るさに、よしんばそれがそこはかとなき表情であるにせよ私は私なりに興奮したのである。明るさといい、興奮と言ったが、私は嘘を言っているのではない。商売柄嘘を書く才能は持っているが、しかし、いやそれだけに一層真実への愛は深い筈である。つまりは、言葉の持つ、ことに標語的な言葉の持つ空虚な響きには、何よりもまして本能的に警戒しているのが、私たちの職業である。だが、いや、だからして、以下の数々の話につけた「起ち上る大阪」という題も、思えばまるで見当ちがいの出鱈目なものではなかったかも知れない。しかし、前書はもうこれくらいで充分であろう。
ある罹災者の話である。名前はかりに他三郎として置こう。そして私の好みに従って、他アやんと呼ぶことにする。
他アやんは大阪の南で喫茶店をひらいている。この南というのは、大阪の人がよく「南へ行く」と言っているその南のことであり、私もまた屡〻「南へ行く」たびに他アやんの店へ寄っていたから、他アやんとは顔馴染みであった。
私がこの他アやんを見舞ったのは、確か「復活する文楽」という記事が新聞に出ていた日のことであった。文楽は小屋が焼け人形衣裳が焼け、松竹会長の白井さんの邸宅や紋下の古靱太夫の邸宅にあった文献一切も失われてしまったので、もう文楽は亡びてしまうものと危まれていたが、白井さんや古靱太夫はじめ文楽関係者は罹炎に屈せず、直ちにこの国宝芸術の復活に乗りだしたのである。即ち、まず民間の好事家の手元に残っている人形を狩り集め、足らぬ分は阿波の人形師が腕によりを掛けて作ろうと申し出たということであり、準備が出来次第新しい旗上げ興行を行うというこの記事ほど、時宜に適った新聞記事を最近私は読んだことがない。輿論指導の下手糞な近頃の新聞としては、書きも書いたりと思われた。早い話が、この記事を読んだ大阪の人びとは、何ものにもへこたれない大阪人の粘り強さというものに改めてわが意を強うしたであろうし、また、散っても散っても季節が来れば咲くという文化の花の命永さに、今年の春をはじめて感ずる思いを抱いたことであろうし、ひいては大阪の復興に自信が持てたことであろうし、あれこれ思い合せるとまことに「春は文楽復活の記事に乗って」大阪へ来たかの感があった。ともあれ、私は何がなし嬉しく、いそいそとした気持でその日大阪へ出掛け、他アやんを見舞ったのである。
実のところ、他アやんはもうどっかへ疎開していて、会えないだろうと私は諦めていた。ところが、行ってみると、他アやんは家族の人たちと一緒にせっせと焼跡を掘りだしていて、私の顔を見るなり、
「よう、織田はん、よう来とくなはった。見とくなはれ、ボロクソに焼けてしまいました。さっぱり、ワヤだすわ」
と言ったが、他アやんはべつに「さっぱりワヤ」になった人のような顔をしていなかった。聴けば他アやんは頼っていく縁故先が無いわけでもなかったが、縁故疎開も集団疎開もしようとせず、一家四人、焼け残った防空壕の中で生活しているのである。
「防空壕やったら、あんた、誰に気兼遠慮もいらんし、夜空襲がはいっても、身体動かす世話はいらんし、燈火管制もいらんし、ほんま気楽で宜しあっせ」
そして、わては最後までこの大阪に踏み止って頑張りまんねんと、他アやんは言い、
「メリ助が怖うてシャツは着られまっかいな。戦争済んだら、またここで喫茶店しまっさかい、忘れんと来とくなはれ」
実に朗かなものであった。「メリ助が怖うてシャツは着られまっかいな」というメリ助とは、メリケンのことであろう。メリケンが怖くてはメリヤスのシャツも着れないという意味の洒落にちがいないと、私はかねがね他アやんが洒落の名人であったことを想い出し、治に居て乱を忘れずとはこのことだと呟いているところへ、只今と帰って来たのは他アやんの細君であった。町会の事務所へ行って来た帰りだと細君は言い、そして、町会の事務所も町会長の家も焼けてしまったが、しかし町会長の梅本さん一家はやはり疎開しようとせず、近くの教会が半焼だったのを倖い、そこを仮の事務所として、その中で一家全部寝泊りしながら町会の事務を取ったり世話をしたりしているのだと説明したあと、
「梅本はんとこは、なんし町会長しやはる位だっさかい、お金は馬に食わすほど持ったはりますし、何もそんな不自由な目エしやはらんと、どこぞ田舎で家買いなはったら良かりそうなもんでっけど、責任があるいうて、一ぺんも家探しに行きはらんと、あないしてずっとあの中に頑張って、町会のことしたはりまんね。よそとえらい違いだすわ。よその町内では、あんた、町会長のズボラな人がいやはるもんやさかい、証明書書いて貰うのに二日も三日も掛る、疎開した田舎から出て来たら宿屋に泊って貰わんならん言うてブツブツ文句言うたはる所もあるいうことでっせ。──あ、先生にお湯も出さんと。今沸かしまっさかい、お白湯でも飲んで行っとくなはれ」
細君はカンテキでも取りに行くのであろう、防空壕の中へはいり掛けたので、私はあわてて停めて、そして帰ろうとすると、他アやんは、
「えらいお愛想なしだなア。先生、こんな鰻の寝間(床)みたいな小っちゃいアバラ屋でっけど、また寄っとくなはれや」
と言った。
他アやんと別れ、やがて千日前の大阪劇場の前まで来た。空襲のあった二、三日後、ここの支配人から聴いた話によれば、空襲の夜が明けると間もなく、一人の従業員が支配人の所へ来て、大阪劇場の従業員の中で罹災した者があれば、これを渡してくれと言って差し出したのは、二百円の見舞金であったということである。その金額はその従業員の月給の額をはるかに超えていた。支配人は感激して君の方は無事だったのかと訊くと、
「いやうちも焼かれました」と言ったという。
この話を想い出しながら、劇場の前を過ぎた途端、名前を呼ばれた。振り向くと、三ちゃんであった。三ちゃんは波屋書店の主人で、私が中学生時代からずっと帳付けで新刊書を買うていたのは三ちゃんの店であったし、三ちゃんもまた私の新しい著書が出ると、随分いい場所に陳列して売ってくれていたし、三ちゃんの店が焼けたことは感慨深いものがあり、だから、顔を見るなり、挨拶もそこそこにその事を言った。
「あんた所が焼けたので、雑誌が手にはいらんようになったよ」
すると三ちゃんは、滅相もないという口つきを見せて、
「何言うたはりまんねん。一ぺん焼かれたくらいで本屋やめますかいな。今親戚のところへ疎開してまっけど、また大阪市内で本屋しまっさかい、雑誌買いに来とくなはれ」と、三ちゃんは既に捲土重来の意気込みであった。そして、私をはげますように、
「織田はん、また夫婦善哉書きなはれ」と言ったので、私は、
「サアナア、しかし、夫婦善哉といえば、あの法善寺の阿多福の人形は助かったらしい。疎開していたから、きっとどこかで無事に残ってる筈だよ。その行方を探す小説を書くかな。いや、それより、地蔵さんの話を書こう思ってる」と言った。すると、三ちゃんは、
「へえ? 地蔵さん? どこの地蔵さんだす」
と訊いたので、私は次のような長い立ち話をした。
B29の暴虐爆撃の中で、私が最も憤激に堪えぬのは、彼等が日本の伝統を破壊しようとしていることである。その現われの一つは神社、仏閣へ焼夷弾を落したことだ。大阪の神社、仏閣も相当被害を蒙った。そしてまた、昔なつかしい民間信仰の対象である石地蔵の多くが同じ目にあった。
私は子供の頃からあの大阪の年中行事の一つである地蔵祭が好きであった。私の生まれた上町辺が地蔵さんの非常に多い土地であったせいもあるだろうが、とにかく一町内、一路地、一長屋毎に一つの地蔵さんを持っていて、それを敬い、それを愛し、ささやかな信仰の対象物として大切に守りつづけ、そして一年一回、七月二十四日にそれぞれの地蔵さんを中心に一町内、一路地、一長屋の祭典を行ったということは、どれだけ大阪の庶民の生活をうるおいあるものとしたか計り知れないくらいである。ところが、敵機は無残にもこれらの愛すべき地蔵さんを破壊しようとした。
しかし、私はたとえば火除地蔵というものを知っている。つねに火を避けて来た地蔵さんであるが、この地蔵さんは果して焼夷弾の火を避けることができたかどうか、それを私は知りたいと思い、あちこち尋ねまわっているうちに、最近ゆくりなくも火除地蔵健在の事実を知った。
それは天王寺区○○町の田村克巳さんの邸宅のお庭にある地蔵さんで「阿砂龍石地蔵尊」といい、田村さんの仏壇の抽出に秘められている一巻の古い軸には、この地蔵さんが模写されていて、「宝亀五年三月二十四日聖徳太子御直作」と肩書があり、裾書に「鈴木町」とある。鈴木町というのは十年ばかり前まで田村さんが代々住んでおられた内久宝寺町の古い町名で、田村さんのお屋敷は代官の金蔵があった跡である。
この地蔵さんは矩形の石に浮彫をしたもので、底が平らでないから、そのままでは佇立できず、あとから土台石をつけたものらしく、恐らく土中に埋めていたものを発掘して、鈴木町の田村邸に安置され、のち田村さんと共に○○町へ移ったものであろう。聖徳太子作で想い出すのは、六万体地蔵のことで、天王寺の××町の真光院にやはり聖徳太子作の地蔵さんが二体あり、これは聖徳太子が六万体の石像をお刻みになって、天王寺を中心とする地の中へ埋められたのを発掘したものであり、田村さんの地蔵さんと同じ浮彫である所を見ると、恐らく田村さんの地蔵も六万体地蔵の一つであろう。
ともかく、この地蔵さんは火除地蔵とされて来たのだが、空襲の際田村さんのお邸は隣の家まで火が来たのに焼けず、無論地蔵さんも助かったのである。この地蔵さんは浮彫のせいか、目鼻立ちが明瞭でなく、ためにその表情はさまざまに変化して見えるのだが、空襲の夜、隣家まで火が来た時、地蔵さんの表情は急に怒っているように見えたと、田村さんの令嬢で、二十一歳の若さでありながら、二代目志賀山勢鶴を名乗る志賀山流舞の名取である尚子さんは、私に語った。因みに大阪で志賀山流の名取は尚子さん唯一人、尚子さんは放送局の文芸部へ勤められる余暇を、舞の手の記録に捧げておられる。志賀山流の伝統保存のためであることは言うまでもない。──こんな話を、私は三ちゃんに語ったのである。
底本:「定本織田作之助全集 第八巻」文泉堂出版
1976(昭和51)年4月25日発行
1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「週刊朝日」
1945(昭和20)年4月
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2007年4月25日作成
2007年8月18日修正
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