組踊り以前
折口信夫
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一
親友としての感情が、どうかすれば、先輩といふ敬意を凌ぎがちになつてゐる程睦しい、私の友伊波さんの「組み踊り」の研究に、口状役を勤めろ、勤めようと約束してから、やがて、足かけ三年になる。其間に、大分書き貯めた原稿すら、行き方知れずなる位、長い時の空費と、事の繁さが続いた。今日になつて、書きはじめる為のぷらんを立てゝ見ると、何もかも、他人の説でも受けつぐ様な気分がするばかり、興味の鈍つて了うてゐるのに気がついた。こんな無感興・認識未熟の文章が、友の本の情熱に水をさしはすまいか、と案じながら、ほんのぷらんを詞に綴つたと言ふだけの、組踊り成立案を書いて見る。さうせねば時間のない位、もう板行の時が迫つてゐるのを知り乍ら、うか〳〵してゐた事は、申し訣もない。
かうした解説文も、今六年以前なら、別に其仁があつたのである。亡くなつた麦門冬 末吉安恭さんである。大正十三年の末、那覇港大桟橋の下に吸ひつけられてゐた、なき骸を発見したとの知らせを聞いて、琉球芸能史を身を以て、実証研究する学者は、これで空に帰したのだ、と長大息した事であつた。此文章が、伊波さんの本の役に立つ傍、亡き南島第一の軟流文学・風俗史の組織者──たるべき──末吉さんの為の回向にもなれば、この上なく嬉しいと思ふ。
沖縄演劇史の探究の効果は、決して、東の海の波が西に越え、西の浪が東の磯にうち越える、と言つた孤島を出ないものではない。必、日本の歌舞妓芝居や、小唄類の発達過程を示すことになると言ふ自信だけは持つて居る。それでかうした文章も、この友の誂へをしほとして書いたのである。
南島における演劇関係の書物は、大抵、伊波館長時代の県立図書館の沖縄部屋とも称すべき室に、一週間籠つてゐる間に、そこに蒐められてゐたゞけの物は読んだ。だがもう、其記憶も薄れて来てゐる。それが、首里・那覇の学問の権威の、この本の為に、提供せられた資料の前には、星の光りにも値せぬ事を恥ぢるし、又沖縄人の嫌ふ、他府県人のいらざる世話やきにもなつて、島の彼方で苦笑する人々の、俤の浮ぶのも堪へられぬから、さうした引用や、伊波さんから貰うた、沢山の抜き書きなどは、勝手ながら下積みにさせて頂いて、今の場合、忙しい概念だけを綴る事にした。
二
沖縄の村々・島々の祭儀には、現に原始演劇的要素──世界民族一般に窺はれる──を示すものが、まだ〳〵沢山に残つてゐる。時を定めて来臨する神、及び、その迎へに出る神と信じられてゐるものは、皆巫女の仮装する所である。さうして又、其が巫女のやつし姿だ、とさへ知つてゐる処も、沢山ある。或は既に、巫女自身の資格において、さうした神事を行ふと考へる地方が、却つて普通になつてゐる。
そして、此等はいまだに、演劇としての立ち場に入つたものとの自覚なしに、行はれてゐる。併し、其中から分化した演劇は、夙くから意識せられ、今も行はれてゐる。此が、都では「組み踊り」、地方では「村踊り」と言はれてゐる、二種のものである。
玉城朝薫の天才が、組踊りの芸能を、享保年中になつて、創造したとは信じられない。又、先進日本の能・歌舞妓が、島の宮廷の式楽に飜作せられたものとも思はれない。さうした「忽然」を考へる事の、不都合な幾多の例蹤を、私は見てゐる。猿楽能の、元曲から案出せられたものとする説などが、其である。縷説は避けるであらう。が尠くとも、長い種族生活過程の顧みを閑却したもの、と言ふことは出来る。
首里宮廷を考へるのに、京都の禁裡を思ひ浮べてはならない。又、江戸柳営を頭に置いても、比論は成り立ち難い。まづ大々名の家庭に、将軍家の生活気分を加味した位の考へ方が、ほんとうだらうと思ふ。其ほど、気易い処があつたのを思はねば、民間風と、宮廷風との交渉ぐあひが、察せられない。離宮に作つた瓢を、那覇の市に売り出して、王様瓢の名を伝へた王もある。城内に大穴を穿つて、そこに優人を喚んで、遊楽に耽つた城人なる、大奥の女中めいたものもあつた。かう言つた宮廷と、里方との交渉は、首里の芸能と、地方の民俗芸術との間に、相互作用を容易ならしめたのである。
宮廷において、王の為に、楽を奏し技を行ふ事を、貴族・士分の副職分といふ様に考へ、男の芸能に精出して、上流人の面目とする風をなさしめた。此が、其等貴族士分の郷貫にまで及んで、遂に所謂男逸女労の外貌を、全く整へさせる方に導いたのである。
かうした人々の芸能と関聯してゐるものは、地方の間切々々特有の曲節・舞踊を伴うた詞章であつた。其が、次第に宮廷に這入つて行つたのである。此が所謂「ふし」なるものゝ、正式な意義である。地方の国邑名の冠するふしに伴ふ踊りが、其間切や、村の雑多な舞踊の中から、精選せられたものなることも考へられる。
今の琉歌の発生は、速断は出来ぬが、伊波さんの研究によると、「おもろ双紙」にも、その俤はある様である。巫女の呪詞に伴ふ鎮舞から出て、小曲の舞踊の出来る径路は知れる。長章・小曲を踊る行事が、次第に祝言の座の余興となつて来る。この小曲が、地方の巫女の口から、相聞唱和の歌となつて出て来る。恩納節その他が、「恩納なびい」の発唱によるものとする説も、概念的には、琉歌成生・展開の暗示となる。古いおもろの類のあそびと、新しいふしの踊りとの区別は、踊りての上にもあつた。女性の舞踊から出たふしは、男を原則とする様になつた。女性の踊りは其伝襲に重きを置く物にのみ残つた。又男舞ひを模倣する意義に於て、遊女の間にも行はれた。
おもろは後代程、まづ国王の果報を、次に村邑の幸福を祈る様になつてゐる。其表現法は、此あそびの首里宮廷に対する誓約を兼ねて、奏せられたものなる事を示す。此が短章となつて、恋愛味を離れて来ると、やはり国王の為の賀寿に傾くのである。さうでなくとも、恋愛詞章なら、恋愛詞章なりに、其効果は、国王を祝福すると考へる信仰があつた。国邑の古い神事歌以来のものだからである。かう言ふ祝賀の趣きに専らになつてゐるふし踊りに、大きな影響を与へたものは、千秋万歳を祝する芸能の渡来である。日本の為政者や、記録家の知らぬ間に、幾度か、七島の海中の波を凌いで来た、下級宗教家の業蹟が、茲に見えるのである。
念仏宗の地盤の、既に出来てゐた上に、袋中の渡海があつたものと見てよい。浄土宗の布教は、実に行き届いてゐた。地理的に階級的に、忘れられた未信者のありかを、追求して止まなかつた。此宗旨が純化するに従うて、他派の例を逐うて、奴隷階級の布教者が出来た。これが、浄土の念仏聖である。時には、新興の禅宗の組織を移してゐた部分では、行者と言うたらしい。此念仏聖なる布教家も、日本古来の巡遊伝教者のとつた方法を守つてゐた。其は布教と同格に、祝福芸能を行うた事である。唯念仏になると、祝福の外に、悪霊退散を迫る舞踏を持つ様になつてゐた。だから、念仏聖とは謂へ、千秋万歳としての歌詠も、舞踏も演じるのだ。又精霊の物語や、踊り神中心の、神送りの乱舞をも行うた。浄土其他の念仏に伴ふ、成仏得道の過去生譚をも語つた。其に連れて、いつか人形を舞はす事さへ、招来した様である。更にくづれては、やまとの京のあはれな草子物語の筋を、語つた事もあるらしい。其上、現世の為の訓喩めいた文句さへ、唱へる様になつた。沖縄の念仏者伝ふる所の歌謡は、宗教家のものらしくないものも、だから残つてゐるのである。
此等の語つた浄土念仏の説経語りは、やまとの神道説経を、南島までも搬んだ。釜神の話(組踊りでは、花売の縁)などが、其である。後には、継子の苦難を題材とする、京太郎を多く演じた為に、演者自身の祖先が、やまとの京から流離した、京の小太郎だとさへ考へられた。春は、万歳・京太郎を以て、島中を祝福して廻つた。今こそ、行者村は特殊待遇を享けてゐるが、盛んに渡つて来た当時は、必、村邑の豪家に、喜び迎へられたものに相違ない。
今日行はれる若衆踊りを見ると、凡そは万歳系統のものである。だから、一行中の若衆の演芸種目は、略、察せられる。踊るものは、主として若衆であつたのであらう。江戸期に近づくに連れて、さうした形を整へる事になつて来たもの、と思うてよい様だ。
念仏者の行ふすべての行儀・芸能を籠めて、念仏と称へ、盂蘭盆会から初つて、初春の祝言にまで、用ゐられる様になつたのを、多少、劇的の進行を備へたものであつた。貴人・士分の者まで行ふ様になつた。此が、村をどりの古形なる、にせ念仏である。似せと解すれば、念仏もどきの芸能といふ事になるが、私は、伊波さんの賛成を得て、若衆念仏だと考へて居る。これは、朝薫出現の前にも言うた語であらう。組踊りと念仏との関係を、更に内容に見る。万歳敵討の主人公が、念仏者自身なのは、意義がある。現当二世の親の慈愛や、孝養を説く二童敵討その他の仇討物や、狂女物・継母物は皆、今も念仏者の謡ふ唱文の主題だ。かうした物の原型の、村踊りを統一したのが、更に分化して、神能・蔓・修羅・祝言などに、各近づいてゐたのを、能楽が現れて、意識上の事としたのであると思ふ。
三
玉城の現れてから後、その競争者及び、追随者の業蹟に到るまでの観察は、他の方々の研究に任せる。其代り、方々のお残しになつてゐる筈の、琉球演劇──歌劇と言ふ方がふさはしい──の発生を髣髴せしめてゐる村をどりを、考へて見るであらう。
沖縄教育の先輩、名護小学校長島袋源一郎さんが、まだ県視学であつた当時、鉄道開通祝ひの村をどりが、新停車場のある、そちこちの村で行はれた。私は誘はれて、其一つの祝賀場に宛てられた大嶺村の小学校の、焦げつく様な校庭で、朝から八つさがりまで、やまとの旅人として、相伴の見物をした。さうして、今言ふ村をどりには、段々芸尽しといふやうな形で、ある時代の村人の知つた限りの芸が、持ちこまれて、複雑になつて来てゐる事を感じた。だから古くは、尠くとも、今よりはもつと簡単な形で、行はれてゐたもの、と思ふ外はなかつたのである。尤、この時は、村をどり以外に、相撲その他の興行もあつたが、此等臨時の添へ物をとり除けても、尚、今の村をどりは、をどり上手を、個人的に使ひ過ぎてゐるのではないか、と思うたのである。
私の村をどりについての知識は、わづか一回のこの経験が、比嘉春潮さん・島袋源七さんなどの、生きた愛に充ちた説明によつて、生かされて来てゐるのである。あの日は幸福であつた。東島尻の広々とした田の面を、鉦・太鼓で囃し乍ら、一行が練り込んで来るはじめから、なごりを惜しませつゝ、還つて行く行列まで、見てゐたのであつた。
この行事は、実は七月のわらびみち(童満?)のおがん(拝み>お願)に行ふ事であつた。この斎日の本義は、村の若者を作る成年戒の日に、兼ねて二度目の農作を、祝福するものであつたらしいのである。先島諸島の例を見ると、成年授戒の日と農村祝福とは、おなじ日の同じ行事の中に含まれてゐる。八重山離島をはじめとして、其風俗を移した石垣島の二三个村の「あかまた・くろまた(又、あをまた)」の所作を見ても知れる。遠来の神の居る間に、新しく神役──寧、神に扮る──を勤める様になつた未受戒の成年に戒を授けて、童の境涯から脱せしめる神秘を、行うて置くのであつた。この遠来神の行列は、長者の大主と言ふ、仮装した人を先に立てゝ、その長男と伝へられてゐる親雲上──実は、その地の豪族を示すものらしい──その他、をどりの人衆が、夫々わり宛てられた役目の服装をした、風流姿で従ふのである。
此は、全くやまと本土にも、室町・戦国を頂上として、前後に永く行はれてゐて、「風流」と呼ばれた仮装行列であつた。唯役々が皆、現代人ではないが、役者は人間だ、といふ考へを持つてゐる。だが此は、八重山の盆祭りに出て来るあんがまあ群行の伝承を参考して見ると、他界の霊物だといふ意識の落ちたまでだ、といふ事が明らかになる。
長者の大主、設けの座に直ると、改めて名のり──炉辺叢書「山原の土俗」参照──をして、祝福せられた生活を感謝し、更に多くの一行が、皆自分の子孫なることの果報を述べる。此は、遠来の神が、土地農作を祝福し、又一行の伴神の、かくの如く数多きを喜び誇る言ひ立ての、合理的変化である。かういふ変化が起ると、当然遠来の神が、別に登場せねばならぬ。中頭・国頭の村々では、儀来の大主なる神が、次に現れる事になつてゐる処も、多いやうである。まづ長者の大主の長子親雲上が立つて、扇をあげて招くと、神の国の穀物の種を携へた、儀来の大主が出て、村・家・作物の祝言を述べて去る。
其に次いで、定式として行はれるものは、狂言である。此は、其村々特有の小喜劇である。その後は、をどりになるので、年と場合とによつて、いろ〳〵の変更はあるが、狂言だけは、正式に固有の狂言を守つてゐる。ひつくるめて言ふと、人事の滑稽な、争闘後の解決を意味するものから、分化したものらしい。此は必しも、能狂言の影響とは見られない。狂言としては、後には、歌舞妓の「物まね狂言づくし」があり、殆並行したものと思はれるものに、壬生狂言がある。南島へも渡つた念仏の、ある分派の芸能にも、狂言はあつたのである。其後が踊りになると、変遷甚しく、段々、曲目に変化があり、都会風や他村のものを模したのが、次第に殖えて行つて、芸づくしの姿をとる事になつたのである。
儀来河内・おぼつかぐら・なるこてるこ・まやなど称する、遥かな国から来臨する神及び伴神は、青年の扮する所であつた。が、次第に、その神に常仕する村の巫女が、神意を聴き、時としては神となると考へる様な、信仰形式の変化も、琉球国の各地の諸事由来記の伝承以前に、既に、行はれはじめた。だから、男が稀に聖役に与る事があつても、神に扮する者は、巫女となり替つた。琉球神道は、早く既に神を失うて、神に仕へる者を、神と仰ぐ様になつてゐたのである。かう言ふ風になると、どうしても、村々の若衆の男神としての神業の、全部芸能に傾いて来るのは、当然である。村をどりを以て、巫女のみが神幸をまねび、神あそびを行ふ以前から、伝つた神事芸能だと見るのは、此為である。
この村をどりが、地方的に特殊の発達をする中に、ある間切・ある村のものが、づぬけて芸能価値を発揮する様になつて来る。其には、沖縄の伝承にもある様に、地方的の天才の出現が、あつたに違ひない。さうでなくとも、さうした飛躍者を想像させるほど、ある地方のふし・踊り・狂言が、抜け駈けの進歩をする。
首里宮廷で、巫女の神遊を定期にくり返すのは、極めて古い事である。だが、男神なる若衆の仮装群行が、王宮に練り入つて、雑技を演ずる風も、古くから盂蘭盆に接する、満月の夜には行はれてゐた。尠くとも、尚王家中山国建設以前からあつた、民間伝承に違ひない。此は、盆祭りと習合せられた形で、其前は、満月の夜を、三秋の中に択んだのであらう。宮廷の仲秋宴・重陽宴なども、盆の練道に似て、而も齢高い聖者の登場を、第一としてゐる。
かうして見ると、元からあつた村をどりの、念仏踊りに惹き込まれて行つた形が窺はれる。同時に、村踊りの、組踊りとなつた径路の見当もつく訣だ。狂言は、村の下世話の写実だから、其まゝ移して、宮廷には演じなかつたらう。それには、散文の口語を以て唱和するものを、正楽と認める事が、出来なかつた為もあらう。
律語脈の古語で、科白を綴つた、狂言の高踏的になつたものが、現れて来ねばならぬ。即、由来記・家譜等に残る誇るべき地方伝説に、人情味を加へた物が、出来た訣である。而も、神遊から出た芸能である為に、顔面表情は固より、しぐさ・ふりごとを採用するには、困難な事情が考へられる。宮廷や、按司一族との交渉が尠ければ、狂言の方の要素が、濃くなつたらう。さうすると、科白に伴ふ動作表情を主とする劇が、出来るはずであつた。だが、さうは進まないで、歌謡と不即不離の、舞踊劇の方に趨いた。
演劇的組織の基本になるものは、有力な登場者の名のりにはじまつて、更に、あど役との対話に移り、所作あつて後、退場といふ形式である。此だけが備つて居れば、いくらでも複雑化して、劇の姿を構成して行く事が出来るのである。日本の芸能は、大なり小なり、此形だけは保つてゐる。沖縄でいふと、長者の大主・親雲上その他の控へた座へ、儀来の大主の臨んで、科白所作あつて去る形である。
巫女の託遊したあそびばかりからは、組踊りの成立の過程は思はれない。村踊りが、組踊りの基礎をなしてゐると考へる。組踊りは、以前狂言と謂はれた事もある。此は、村踊りから、発生したものなる事を示す。だから、村踊りから出て、宮廷舞踊として行はれたふしが、実は、村をどりの間に発達した如く、其複合組織せられたものが、組踊りなのである。
飜つて、おもろの託遊について考へても、歴史上の事実らしいものを感じさせる内容のあるものには、次第に、多少の表出らしいものを、加へて来ねばならぬ素地がある。併し、さうした方向に趣かずに、堅く無表出を守つてゐたのが、託遊であらう。此が多少、詞章の意識を持つと、舞踊劇としての道が開ける。おもろ──あそびを伴ふ──に次ぐものは、概念的には──沖縄の用例から見れば、複雑な考へはなり立たうが──こいなとあやごとに分れるだらう。一つは、祝意をこめた詞章と其群舞、一つは叙事詩によつて、──信仰的の意義を忘れた──多少ふりを交へ、又其を忘れた歌詞である。
あやごは、今は宮古島にのみ栄えて、外には衰へたが、此は、小曲の琉歌の抒情気分が、古風な叙事詩を征服した為である。あやごは、叙事を本位としても、無表情である。琉歌は、其成立の歴史を思ふ時、直に其作者の感激が、胸に生きて来る。おもろからあやごに展開しなかつた間切・村には、伝説を背景としたふし(風)が、古人の情念を伝へるものと信じて、歌舞せられた。此ふしが次第に、琉歌形式に統一せられて行つた。あやご風に傾けば、物語歌の伴奏とも言ふべき曲節を表現する、ふりごととなつたらうが、琉歌を原則とする様になつたので、抒情的な気分を加へて行つたのである。
四
村をどりの古い形式のものと、間切・村のふしとの関係を説いたが、さうした儀礼に行はれた舞踊が、其まゝ独自の発達を遂げたものであらうか。私は用意しておいた、念仏及び能・歌舞妓の影響を、説く機会に達した。
舞踊としての鑑賞や、細部の研究は、外にふさはしい方々がある。南島本来の式と、やまとのまひの要素とが混淆してゐる事だけは、私にも言へると思ふ。沖縄のをどりと言ふ語は、やまと伝来の舞踏を意味したのが、語原らしい。従つて其踊りの、やまとに於ける評価以上に尊重して、本格の芸と見たのであらう。くみの踊りが、その後渡来すると、やはり珍重して、組踊りを最高の踊りとした様なものである。
琉球の踊りは、概して、やまとの緩かな舞ひを、南島流の早間に踊るものである。等しく踊りと言うても、間を緩かにするものが上品だ、と考へられたらしく、さうしたものが、次第に殖えて行つたのであらう。あそびは神事、をどりは芸事と言つた区劃が、出来たのらしい。だが、此はやまとの検校流の奏楽法や、楽器などゝ共に、伝へた後のものが多からう。其以外、古く這入つた千秋万歳のことほぎ系統に属するものが、極めて多く残つてゐる。其等は皆やまとの万歳に見られぬ程の早さながら、日本の舞ひぶりが、其基調になつてゐる事は、其服装以上に、明らかである。
念仏聖の念仏踊りや、万歳舞ひを見た事は、島人の踊りの上の、非常な擾乱であつた。茲に琉球の踊りは、在来の託遊式のあそびに近く、而もある観念と、感情とを備へたものらしくなつた。鹿児島との交渉が密になり、江戸へ朝聘使を送る様になつて、やまと音楽と共に、新しく亦、舞ひや踊りが這入つて来た。さうして、第二期の整理が行はれたものと見てよい。沖縄の踊りを通じて見られるものは、此三種の融合し、或は混淆したものである。が、其特色とする所は、手の使ひ方・上体の動し方・足の踏み方・踊りの間のきまり方などに、現れ過ぎる程現れてゐる。此が固有のふりである。
支那舞踊の影響は、ありさうには思はれない。同様に、能や、歌舞妓の所作事などゝの交渉も、予断せられてゐるほどにはない、と見てよからう。
組踊りでは、出来るだけ優雅にといふ用意を、次第に加へて来た為に、劇舞踊としての卑しさは、尠い様である。かうして、ふし踊り以来の品格を崩すまいとしてゐるのである。だから、能と所作事・景事との間にある程の違ひはない、と言うてよい。此も亦、組踊り成立の当初から、かうではなかつたと思ふ。
五
組踊りの語原として信じられるのは、かうした劇舞踊を一組として勘定して、譬へば「五組」「三組」など言ふところから、演奏番組の聯想を持たれてゐる。能楽の上の番組を、模倣したと考へることである。だが其は、後の合理解で、必、語原は別だと思ふ。
端的に言ふと、組唄の踊りと言ふ事だと考へてゐる。室町以後江戸の初期へかけて、中世以前、上流の専有であつた組歌が、民間に盛んに行はれる様になり、古い琴歌は、いつしか、新しい組唄を生じ、三味線にも組唄がかけられてゐた。此一続きの組唄の謡はれてゐる間に、其気分表現を主とする踊りが、はやり出したのである。
組唄が、古来箏曲家の正式、長唄は、検校家の本格芸と考へられる様になつて、江戸に入る。三味線も、利用繁くなる程、格が低く見られて行つたが、渡来の始めは、検校家の琴の脇として、品高く用ゐられた、はいからな異国楽器であつた。異国楽譜に、名高い民間の歌謡を合せる試みは、平安初期から、盛んに行はれた事で、楽器の音色と、曲譜とから来る、耳馴れた唄の情調の変化を嬉しむ心は、今も変りはない。だから三味線には、琴の神楽風を行く古典的なのと違つて、催馬楽式に、民間の小唄を合せた。そして、琴の組唄組織を写して、小唄組を作つたのである。
茲に一つ、考へねばならぬ事は、江戸期に入つては、三味線の演奏法が、忽複雑多趣になつたが、始めは、短章か、長くば、変化のない叙事的な物の外、弾奏する事は出来なかつたのであらう。其は恐らく、琉球渡来説の立ち場からすれば、琉歌の弾き方と共に、伝へられたものと見られる。さすれば、三味の本式の演奏は、投げ節その他の、短章の小唄をかけることである。だから、当然琴同様、組唄組織をとる形式が、考へられて来る筈である。来歴を重んじる芸道者流において、三味の組唄に、まづ琉球組──組唄の義──を据ゑたのは、琉球唄の調子に則つたものゝ義で、早く這入つた琉球唄の行はれなくなつて、其替へ唄が行はれ、其が固定したものを元唄ときめたのである。さすれば、此組に、最、三味線の古調を存してゐたもの、と思うてさしつかへはなからう。
かうして、新来の楽器に、小唄の一群をうつして弾く組唄組織が、逆に、元来た琉球に戻ることになつた。さうすると、従来唯の替へ唄として謡うたふし〳〵の後作詞章も、此を列ねて謡ひ弾く処に、新しい芸能的興味のある事が、発見せられたであらう。
室町の頃から盛んになつたのは、小唄・雑芸類が、著しく民俗芸術に近づいて来たことである。さうして、第一に現れたその結果は、小唄踊りである。はじめ、同形異詞の宗教唄を、続けて謡うたのである。其が次第に、多少形式に変化のある詞章をもまじへた唄を組んで、謡ひ返す様になり、小唄踊りの文句は、組唄としての自由さを持つて来た。
小唄踊りは、はじめは信仰的なものゝ多かつたのが、其を段々芸能家がとりこんで、ふりごと・物まね・あてぶりの踊りを演ずる様になつた。念仏踊りの流だ、といはれる出雲のお国が、芸能史上、大きな領分を劃したのは、此小唄踊りを、念仏踊りの新しい芸として、挿んだ為である。その上、当時男性的な、華美風流生活の代表者と見られた、かぶき者の物まねを加へた新趣向が、世間の心に叶ひ、模倣者を多く出して、女歌舞妓が、根を固める事になつたのである。だが、かぶきをどりも畢竟、小唄踊りに連鎖的脚色を加へたものである。歌舞妓草子として伝へられた数種の絵巻も、皆小唄踊りを写してゐる。だから、七月盆の時期に、都邑の少女たちが行うた、団体的謹慎の間の行事たる群行・群舞或は、其間の聖地礼拝などから出た民俗が、大変な結果を生んだと言へよう。
此小唄踊り、即組唄踊りが、琉球の芸能に亦、反響せずに居なかつたであらう。
私は、組踊りの発生が、もつと古いと信じてゐる。尠くとも、歌舞妓がまだ踊りであつて、演劇でなかつた時代にあると思ふ。唯必しも、組踊りなる語の記録が、江戸最初以前にあるかを問題にしない。五組の踊りが作られた時代には、もう組唄から脱して、早歌・連事といふ形をとつて了うてゐた。謡曲の形に近づいてゐるのである。だが、対話を主としてゐる点は、叙事の多い謡曲との間の、大きな溝である。今考へる組踊りよりも、古い形があつた。其は、多く独白式に小唄を列ねて、謡ひ踊るものであつたと思ふ。さうした姿でとりこまれた、楽器の伴ふ歌謡の気分を、表現する組唄の踊りが、新しく渡来した。此は、お国の例もあるから、後れて渡海した、念仏者の業蹟ではないかと思ふ。又、薩摩・堺へ交易に来た、島人の見覚えから移した事も、考へられてゐるのである。
組唄の踊りといふ、優雅な音覚を持つた語を以て、此小唄踊りを示す習はしが出来て来ても、やはり此に似た組織を持つた、にせ念仏なる名は、行はれて居たのであらう。念仏の語が、次第に卑賤な聯想を伴ふ様になつて、漸く組踊りの名が、表に出て来たものと思ふ。でも、其間に、組踊りのくみなる、抒情的な組唄は、次第に律語式な会話に代つて居つたのである。
組踊りの詞章は、南島の知識伊波さんにすら、説き難い若干の古語を含んでゐる様である。それ等の語の中には、創作当時、意義は知られてゐても、既に廃語となりかけてゐるものや、或は既に死語になつた雅言をすら、間々交へて居たのではないかと思ふ。此を伊波さんは、おもろ双紙から採つたものと言うてゐる。其もあるに違ひない。が其外に、前期組踊り詞章の中の、固定した語句などもありさうだ。此は習慣的伝襲や、見物の知識を利用して、劇的効果を収める方便に用ゐられた為と考へてもよい。其ほど、今残つてゐる組踊りは、言語の品位といふ点において、注意を潜めてゐる様子が見える。
伊波さんは、組踊りに対して、羽踊りのある事を説かれた。「くみ」と「は」との対照は、やまと移しである。端唄踊りが、正式優雅な組踊りの「くづれ」として、はをどりと言はれたらしい。さすれば、組唄踊りの説の旁証にはなる。
渾沌時代に、劇的組織を与へたものは、序開きの神人問答の段である。之に写実味を加へ、会話の要素を交へたのは、狂言である。而も其初めから、組唄に趣くべき詞章及び、その舞ひぶりを供給したのは、ふしと称する地方的の歌舞である。其上、古くからも新しくも、組踊り展開の基礎となつて、変化させて来たのは、念仏者の万歳舞ひや、念仏踊り、ひよつとすれば、其等の人々が持つて来たかも知れない、小唄組の踊りである。之を整理したのは、朝薫を代表とする芸術家であつた。能や歌舞妓が、統一方法としては働いてゐる、とだけは言へる。
六
組踊りの土台になる物は、尠くとも江戸最初には、既にあつたと見てよからう。江戸中期の、発達した歌舞妓の模倣とは言へない。謡曲は、玉城朝薫等の詞章を作る典型とはなつたらうが、其から脱化したものではない。「執心鐘入」其他、其飜案ととれるものが多い。が、能楽渡来以前、既に念仏者等によつて、種々の物語は伝へられて居て、根生ひの伝説らしくなつて居た事が考へられる。又、やまとの演劇の筋に酷似した、固有の狂言や、説話のあるのを、誇りに感じた事もあらう。其場合、改作・新作の脚色は、どうしても、之にひきつけられて行つた、と言ふ事があるに違ひない。
要するに、能の影響は、組踊りの純化に役立つた位で、能を移したものではない。謡曲は、組踊り詞章の整頓欲を刺戟したが、演出法の差異が、此を模倣しきる事の出来ない事を示した。歌舞妓芝居との関係は、その若衆歌舞妓時代の影響らしいものが感ぜられるが、此とても、女形の存在や、紫鉢巻の起す幻想に過ぎない様に思ふ。歌舞妓との交渉の深い点は、既に述べた通り、歌舞妓踊り時代のものに在る。唯、小唄念仏の踊りが、固定した歌舞妓と認められた後に、渡つたものとは考へられぬのである。其前の渾沌時代に、念仏者か、島人かの手によつて、組唄の踊りとして移されたものだ、と私は考へるのである。
七
役者に女形のあることも、念仏者の踊りを習得した、士分以上の人々が、踊つた為であつた。女のあそびは、祭時には勿論、饗宴にも、巫女としての資格で行ふのであつた。其以外、享楽に利用する事は出来ない。旁、一種上覧の為の余興なる組踊りを踊るのは、男に限る事になつたのだらう。けれども、沖縄の村をどりの狂言の発端は、神・巫女の代表者として択ばれ、身に一糸をも纏はぬ若い男女の擁き踊りにあるらしい。さうした村の神事には、清い男女が出ても、芸能化した後は、女の役も、男がせねばならなかつた。さうして性的演出を、次第に恋愛の方に移して行つたものと見える。
其よりも根本的に、村をどりは男のみの行事だから、狂言に出る女も、女形を用ゐる事になつてゐた所以を、最初に考へねばならぬ。今の儀保松男の様な美しい女形は、内地にも、東西の先輩のおやまが、皆老境に入つた今日、ちよつと見あたらない。此人を最後の光りにして、琉球劇の女形もなくなつて行くのであらう。いや、組踊り自身が、玉城重朝や、此人を伴うて、村をどりの発祥地たる儀来河内へ還つて了ふ、といふ心細さが、早、目睫の間に迫つてゐる。
八
歌舞妓芝居の型の記録が要望せられてから、三十年にもなる。さうして此頃、其が更めて、情熱を以て唱導せられる様になつた。太田朝敷さんの「鐘入の型」などが、夙く用意せられてゐたのを見て、茲には更に、末期の迫つた演劇があつたのだ、とくり返し感じた。かうした型の記録が、現在の組踊り全部に亘つて、もつと細密に行はれねばならぬはずだと思ふ。此が無為に苦しむ島の有識にとつて、一つの生きがひになるかも知れない。
伊波さんの此本は、かうした組踊りの衰運を輓き戻さう、といふ情熱から書かれたものである。だが、朝薫のやまと・うちなの古典詞章の幻を、現実の芸能の上に活して見ようとして、それの成功した、琉球劇の花の時代を、今一度、つく〴〵と顧みて、なごり惜しみをする事になりさうな気がする。寂しいけれども、為方がない。
底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
1995(平成7)年4月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店
1930(昭和5)年6月20日
初出:「民俗芸術 第二巻第八号」
1929(昭和4)年8月
※底本の題名の下に書かれている「昭和四年八月「民俗芸術」第二巻第八号、昭和四年十月、伊波普猷『校註琉球戯曲集』序」はファイル末の「初出」欄、注記欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年5月3日作成
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