二千六百年史抄
菊池寛




 今年のはじめ、内閣情報部から発行してゐる「週報」から、最も簡単な日本歴史を書いてくれとの註文を受けた。多くの史学者に頼まず、僕を選んだのは、なるべく大衆に読ませようとの意図からであらう。

 僕は、史学者でもない、歴史研究者でもない。しかし、歴史を愛し、歴史上の諸人物に親しみを持つ点に於ては、多く人後に落ちないつもりである。殊に、僕個人として、二千六百年を記念する意味で、「新日本外史」といふ小著を執筆中であつたので、「週報」からの依頼も、喜んで引き受けたのである。

 悠々たる二千六百年間の出来事を原稿紙にして、わづか百五六十枚で、まとめることは至難中の至難である。しかし、僕が素人しろうとであればこそ、さう云ふ大胆な仕事も、出来るのではないかと思つてゐる。

 この「二千六百年史抄」の本願とするところも、勿論国体を明徴にし、日本精神を発揚するところにありと思つたから、その点に微力を尽くしたつもりである。

 が、何にせよ、片々たる小冊子である。説いて尽さゞる所が、甚だ多いのである。読者の中、不満を感ずる方があつたならば、どうかこれを機会として、他の史書を広く渉猟して下さらば、欣懐この上もないのである。日本歴史の智識を充分に持つことは、日本人としての自覚を持つ上に、最も大切なことではないかと思つてゐる。

昭和十五年七月廿八日


神武天皇の御創業


 皇孫彦火瓊瓊杵尊ひこほのににぎのみことが、天照大神あまてらすおほみかみの神勅を奉じ、日向ひうが高千穂たかちほ槵触くしふるたけに降臨されてから御三代の間は、九州の南方に在つて、国土を経営し、民力の涵養かんやうはかると共に、周囲の者どもを帰服せしめ、これを化育することに依つて、いよ〳〵興隆の基礎を築かれたのである。

 神武天皇の御世には、その皇化は九州一円に及んで、皇祖の神勅のまに〳〵大八洲おほやしまを経営すべき自信と力とを獲得されたのであらう。

 天皇は、御年十五歳にして、皇太子となられたが、御年四十五歳の時に、

遼邈之地とほくはるかなるくになほ未だ王沢うつくしびうるほはず、遂にむらに君有り、あれひとこのかみ有り、各自おの〳〵さかひを分ちて、もつて相凌躒しのぎきしろふ。抑又はたまた塩土老翁しほつちのをぢに聞きしに曰く、東に美地よきくに有り、青山四周よもにめぐれり、……われおもふに、彼地そのくには必ずまさに以て天業あまつひつぎのわざ恢弘ひろめのべ天下あめのした光宅みちをるに足りぬべし、けだ六合くに中心もなかか。……何ぞきてみやこつくらざらむや。」

 と、諸皇兄及び諸皇子に計り給うた。

 諸皇族諸臣達、悉く賛同し奉つた。即ち、舟師しうしを率ゐて、東方へ御進発になつた。

 これは、御東征と云ふよりも、東方への御発展とも云ふべきで、わが大和やまと民族が、理想の大業へと未知の国土へと、敢然たる大行進を為したことを意味するのだと思ふ。

 日向を出発して、大和に達せられる迄、古事記に依れば十数年、日本書紀に依れば、六年の歳月が経つてゐる。これは、古事記の方が実際に近いのではあるまいか。当時は完全なる船があるわけでないから、沿岸づたひに徐々に東進せられたのであらう。九州、瀬戸内海、大和地方にかけて、既に御稜威みいつの下に、欣んで帰順する者も多かつたが、事理を解せぬ蛮民も多く、途中に於ても、それらに対する警戒平定に、多くの日時を費されたことと思ふ。吉備高島には、古事記に依れば、八年御滞在になつたとの事であるが、此の地方に、古墳等の遺跡の多いのを考へても、此処を仮の都として、山陽四国地方の経営に当られ、武器を整備し、鋭気を養ふと同時に、大和地方の情勢を偵察されたのではあるまいか。大和の長髄彦ながすねひことの御対戦は、古事記に依つても、その御苦戦が察せられる。最初の正面攻撃に、成功せられず、皇兄五瀬命いつせのみことは、敵の矢に当つて戦死遊ばされた。皇兄が戦死された程だから、日向以来従軍してゐる多くの武士を、失はれたことであらう。

 天皇は、これにくつし給ふことなく、紀州の南端を迂廻して、南方より大和へ入る作戦を敢行遊ばしたが、時利あらず、潮岬の颶風ぐふうに遭つて、皇兄稲飯命いなひのみこと三毛入野命みけいりぬのみことを失ひ給うた。

 稲飯命は「あゝ、わが父祖は天神あまつかみ、わが母は海神わたつみのかみであるのに、何故にかくも我を陸でも苦しめ、海でも苦しめるのであるか。」と仰せられて、剣を抜き持ちて海中に入り給うたとあるが、このお歎きは、天皇のお歎きであつたであらう。

 此の海上でも、我々の先祖の多くは、皇兄に殉じた事であらう。

 が、天皇は、此のおん悲しみに堪へ給うて、皇子手研耳命たきしみみのみことと軍を率ゐて上陸し給ひ、或ひは敵の毒気にあたり給ひ、或ひは熊野の原始林中に迷ひ給ふなどあらゆる辛苦をめさせられたのだ。

 軍隊を率ゐて群敵の中を、山塊累々たる熊野から大和に入られることなどは、奇蹟的な難事業であると云つてもよいだらう。

 しかも、漸く辿り着かれた大和も、群敵の巣窟であつた。

 頑敵たる長髄彦ながすねひこを初め、八十梟帥やそたける磯城しき賊、うかし賊、土蜘蛛つちぐもなど、兇悪な蛮賊が到る処に、皇軍を待つてゐた。

 神武天皇は、御天性の勇武とあらゆる智略とを以て、これ等を次ぎ〳〵に征服して行かれた。

 しかしながら、寛宏なる皇師は、これらの者どもに対して、決して殲滅的攻略に出ることはなかつた。

 帰服まつろはぬ者こそ、平定したが、天つ神の子孫が、この中つ国を支配すべき名分を信じて帰順したものには、最大の仁慈をれたまうたやうである。

 たとへば、天皇は帰順した弟猾をとうかしの献策を用ゐさせ給ふばかりでなく、股肱の臣たる椎根津彦しひねつひこと一しよに、香具山かぐやまに潜行して、その土を取ると云ふ大役を命じ給うて居られるのである。

 論功行賞に際しても、さうした降臣をも、日向以来の重臣と同様に、県主あがたぬしなどに為したまうてゐるのである。

 大和地方を悉く平定せられた後、

「夫れ大人ひじりのりを立つる、ことわり必ず時に随ふ。いやしくも民にくぼさ有らば、何ぞ聖造ひじりのわざたがはむ。まさ山林やま披払ひらきはら宮室おほみや経営をさめつくりて、つゝしみて宝位たかみくらゐに臨み、以て元元おほみたからを鎮むべし。上は則ち乾霊あまつかみの国を授けたまふうつくしびに答へ、下は則ち皇孫すめみまたゞしきを養ひたまひしみこゝろを弘めむ。然して後に六合くにのうちを兼ねて以て都を開き、八紘あめのしたおほひていへむこと、亦からずや。畝傍山うねびやま東南たつみのすみ橿原かしはらところを観れば、蓋し国の墺区もなかならむ、可治之みやこつくるべし。」

 と詔を下された。

 辛酉かのととり春正月朔日、橿原宮に即位し給ふ。此の年を日本の紀元とするのである。

 橿原宮の御即位の式には、大伴おほとも氏、久米くめ氏、物部もののべ氏の祖は、ほこを執つて、儀衛に任じ、斎部いむべ氏、中臣なかとみ氏の祖は、恭々しく御前に進み出て、祝詞を言上し奉つてゐる。いづれも、日向以来歴戦の艱苦を顔に刻みつけた戦場生き残りの士であり、その盛儀に列した感慨は、どんなであつたであらうか。

 日向を進発した時の男女で、生き残つたものは、果して幾人であつたであらうか。

 わが大和民族は、神武天皇の御創業当時、かくも大なる試煉を経たのである。その間に養はれた如何なる困苦にも屈せぬ精神的骨格こつかく、民族としての強い団結力、宗教的にまで高められた天皇尊崇の信仰は、二千六百年を通じて、日本国民性の中核を成してゐるのである。

* 大伴氏の祖は、道臣命みちのおみのみこと。久米氏は、大久米命。物部氏は、可美真手命うましまでのみこと。斎部氏は、天富命あまのとみのみこと。中臣氏は、天種子命あまのたねこのみこと


皇威の海外発展と支那文化の伝来


 神武天皇より開化天皇に至る迄の御九代の間は、大和やまと地方御経営の時代で、東は皇室に御縁故深き伊勢地方、西は播磨はりまあたり迄、北は敦賀つるが地方あたりまでが、追々皇化に浴して来たが、他の地方にはなほ多くの土豪が割拠してゐたのである。

 然るに、第十代崇神すじん天皇は、御肇国天皇はつくにしらすすめらみことと称せられ給ふ聖主で、神武御創業後の偉業を達成せられてゐる。日本書紀に依れば、此の御代に四道将軍を派遣せられたとあるが、当時初めて東海、北陸、吉備、丹波地方への交通が開け、皇化がこの交通線に沿うて、辺鄙の地に及んだことが察せられる。

 この時代には、内政も漸く整ひ、人民に対し、初めて弓弭ゆはず調みつぎ手末たなすゑ調みつぎを課せられてゐる。

 第十二代景行けいかう天皇の御代になると、朝廷の稜威りようゐは国内に於ける群小の土豪どもを悉く平定せしめて、たゞ西に熊襲くまそ、東に蝦夷えぞの二族を残すだけになつた

 この二族の平定者として、日本武尊やまとたけるのみことの御名が美しく輝いてゐる。日本武と云ふ御名は、大和朝廷の武威が、日本全国を圧したことを意味するのではないかと思はれる。

 が、熊襲や蝦夷は一、二度の御征討に依つて、屈服するものでなく、仲哀ちゆうあい天皇の御世に又叛いて、神功皇后の三韓征伐の遠因をなしてゐるし、蝦夷えぞは勢力強大で、東海東山とうさんより奥羽地方にかけて蟠踞ばんきよし、長く化外の民として、平安時代に至る迄、わが朝廷に背いてゐるのである。

 皇威が、中国より九州にあまねく及ぶに至つて、朝鮮から大加羅国おほからこくの使が入朝し来つた。日本書紀では、崇神すじん天皇の御代の末、朝貢の使が穴門あなと(今の長門)に来つたが、天皇崩御後なので、垂仁すゐにん天皇が父天皇の御名を取つて、任那みまなの国号を賜うたとある。大加羅国は、現在の慶尚けいしやう南道に在つた国であるが、日本が接触した最初の外国であるから、日本人はカラと云ふ名をその後外国の総称に使ひ、支那大陸までからと云つたのであらう。

 神功皇后の新羅しらぎ征伐は、熊襲の背後を成す新羅をつと共に、この任那を新羅の圧迫より救援されるための出師すゐしであつたとも云はれる。その後、百済くだらもわが国の保護を依頼して、入朝して来たので、わが国威は南朝鮮をおほひ、任那に日本府を置いて国司を任じ、事あれば将軍を派遣されたのである。

 神功皇后の新羅征伐は、わが国威を海外に知らしめたばかりでなく、以来彼我の交通が開けて、彼地の文物がわが国に輸入され、わが国の文物制度は一大飛躍を遂げたのである。

 当時、先進の文明国たる支那は、動乱の絶間がなく、有能有識の士の朝鮮に避難するものが多かつた。朝鮮も、高麗こま新羅しらぎ百済くだら任那みまななど互に攻略して、其処も安住の地でないので、彼等の中には、交通のやうやく開けたのに乗じ、山紫水明にして、気候温和なるわが国に移住帰化したものが多かつた。そして、彼等の移住の手土産みやげが、支那の文化であつた。

 彼等に依つて、わが国の建築、造船、裁縫、鍛冶かぢ、機織、製陶などの技術は、全く革命的な進歩を遂げたのである。

 しかも、彼等は、もつと大切なる精神的進物を持つて来たのである。それは、漢字と、それに盛られた儒教と、やゝ遅れて伝来した仏教とである。これらは、わが国民の後代に於ける精神生活の方向を決定したと云つてもよい。

 支那の文字が、わが国に伝はつたのは、何時であるか明確でない。九州地方の豪族は、古くから漢土と交通してゐた様子であるから、漢字も知つてゐたかも知れない。しかし支那の書物が、正式にわが国に伝来したのは、応神おうじん天皇の十六年二月(皇紀九四五
西暦二八五
)博士王仁わにが百済から、「論語」と「千字文」とを持参して、朝廷へ献上したのが最初である。

* 景行天皇の御即位後も、九州南部の熊襲が、屡々、不穏な形勢を示したので、天皇は、御即位十二年七月、熊襲御親征の途に上り給うた。斯様かやうな大々的御親征は、神武天皇の御東征以来、実に、八百年目である。

 天皇は、八年の長きにわたり、九州地方全部を巡られ、熊襲を平げ、民を撫順し給うた。ところが、熊襲は、天皇が、大和へお帰りになると、また忽ち、蠢動し始め、横暴愈々いよ〳〵つのつたので、二十七年八月、天皇は、御子日本武尊をお遣はしになつて、これを征伐させ給うた。日本武尊は、その後、東北地方の蝦夷が叛いた時にも、御自ら進んで出征を志願された。

 天皇は、いたく喜び給ひ、

「今、われ汝の人とりをみるに、身体むくろ長大たかく容貌かほ端正きらきらし、力能くかなへぐ、猛きこと雷電いかづちの如く、向ふ所かたきなく、攻むる所必ず勝つ。即ち知る、形は則ち我が子にて、実は即ち神人かみなり。是れまことに天、朕が不叡をさなく、且つ国の不平みだれたるをあはれみたまひて、天業あまつひつぎ経綸をさ宗廟くにいへを絶たざらしめたまふか」

 とまでに仰せられた。尊の無双の御武勇の程が、拝察されるではないか。


氏族制度と祭政一致


 わが国上古の社会制度の特色は、氏族制度と祭政一致である。

 上古は、祖先を同じうする人々が、鞏固きようこに団結して、祖先伝来の職業にいそしんでゐたのである。中臣なかとみ氏、斎部いむべ氏が、朝廷の祭祀をつかさどり、物部もののべ氏、大伴おほとも氏が武将として兵事に当り、弓削ゆげ氏が弓の製造に従事し、玉造たまつくり氏が玉の加工に当つたやうなものである。そして、うぢ中最も正系に属する人を氏上うぢのかみと称して尊信し、他を氏人うぢびとと言つたのである。一つの氏に、氏人が多くなると、その一部は新らしく土地を求めて、住居を作つて、その地名などに依つて氏を作つたが、それを小氏こうぢと称し、はじめの氏を大氏おほうぢと呼んだ。小氏にも氏上うぢのかみがあり、その小氏を統一して、その小氏全体は、本家である大氏の氏上を尊敬した。そして、氏上の先祖を祀つて、事ある毎に参拝した。これが「氏神うぢがみ」と「氏子うぢこ」といふ関係の発生した一原因である。

 そして、この氏族制度が今日の家族制度のもとゐをなすのであつて、皇室より皇族の御分出があり、更に皇室を総御本家として諸氏族が分れてきたところに、我が国が一大家族国家を形成してゐるといふ所以ゆゑんがある。従つて国家の繁栄は、国民の繁栄であり、国民の繁栄は、国家の繁栄である。国民は、各氏の氏神を祭ると共に、天照大神あまてらすおほみかみをはじめ、天つ神を崇敬し、同時に天皇を現人神あらひとがみと仰ぎ奉つた。

 しかも、天皇は天つ神の神意を受けて、大八洲国おほやしまぐにに降臨せられた皇孫の御後裔であらせられるから、常に天つ神を祭り、その神意を奉体せられるのである。

 それは、神武天皇が、御東征の途次、困難に際会される毎に、天照大神の神意に従はせられた事を見ても分ることである。

 天皇が天つ神を祭り、神意の奉体に努めさせられることは、直ちに国民の日常生活の端々にまで及び、「氏神」の信仰が深くなつてゐるのである。

 天皇は天つ神を祭られ、その神意を奉体して民を治められる。即ち「政事まつりごと」は、「祭事まつりごと」で、この祭政一致の思想は、わが国固有の政治の特色として、現代にも及んで居るのである。


聖徳太子と中大兄皇子


 上代に於けるわが日本国家の基礎を堅め、国民をして文化生活の恵沢に浴せしめた偉大なお二方ふたかたがある。それは、聖徳太子と中大兄皇子なかのおほえのわうじである。

 聖徳太子は、天成の御英才を以て、第三十三代推古すゐこ天皇の摂政せつしやうとなり給うたが、仏教思想と共に、鋭意隋唐の文物諸制度を輸入することに努力し給うた。

 是より先、欽明きんめい天皇の御代に伝へられた仏教に就いて、崇仏派の蘇我そが氏と排仏はいぶつ派の物部もののべ氏、中臣なかとみ氏との間に凄じい争闘が展開した。これは、仏教についての争ひといふよりは、氏族制度の弊害として、段々強大になつた各氏族の巨頭が、各自権勢を専らにしようとして、仏教の採否をめぐつて、争つたと云うてもよいのである。

 が、聖徳太子の仏教御信仰は、崇仏派の勝利を決定的にし、以後仏教は、広くわが国土に流布し、わが国民文化の発達に、精神的にも、物質的にも、多大の寄与をしたのである。

 推古天皇の二年に仏教興隆の詔が発せられ、聖徳太子は、四天王寺してんわうじ、法隆寺、中宮寺、蜂岡寺はちをかでらなどを建立された。当時の仏寺は、信仰の道場だけではなく、四天王寺の如きは、外交上の儀式にも用ゐられたし、学校でもあり、又寺内に、悲田院ひでんゐん、療病院、施薬院せやくゐんがあつて、社会事業的施設でもあつたのである。

 太子は、仏教の興隆を図られると共に、仏寺の建立に附随する建築、絵画、彫刻、鋳金などの美術工芸などを奨励された。されば、大工左官などの間に、太子が今もなほ守護神として崇敬されてゐるのを見ても、太子の御遺徳の一端が、うかゞはれるわけである。

 又、太子は、推古天皇の十一年に十二階より成る冠位を定め給うた。それまで、勢力のある氏族に属してゐないと、高い位置に上れなかつたが、冠位の制定に依つて、人々は、才能に依つて、立身する道が開かれた。十二年には、支那の暦を用ゐ、同年に十七条の憲法を制定された。

 これは、文章となつたわが国最初の法典であり、仏教と儒教に基づいた道徳律でもあり、官民心得でもあるが、その大意は、次の通りである。

 一、和を貴び、相争ふな。二、あつく仏法を敬へ。三、みことのりは謹しんでけよ。四、群臣は礼を重んぜよ。五、私慾を棄て、訴訟を裁け。六、悪をたゞし、善を勧めよ。七、官職は人を得なければならぬ。八、群臣百官は早く朝廷に上り、遅く退け。九、信は、義の本である。万事に信であれ。十、寛大であれ。十一、賞罰を明らかにせよ。十二、国に二君なく民に両主なし。国中の万民は、皆天皇を主とする。役人が勝手に人民から税を取り立てるのは不法である。十三、役人は、自分の任務をよくわきまへて遂行せよ。十四、役人は、互に嫉視反目するな。十五、私事を忘れて、公事につくのが臣たるの道である。十六、民を使役するには時を考へよ。十七、大事を決するには、衆と議せよ。

 第十二条の「国中の万民は、天皇を主とする」の一条は、当時の大氏族の長が、人民を私有することを戒められたのである。

 太子は、内治に御心を用ゐられたばかりでなく、欽明天皇の御世にほろんだ任那みまな日本府を復興せんとし、屡々新羅しらぎを御征討になつたし、又推古天皇の十五年小野妹子をののいもこを隋に遣はされて対等の国際的関係を結ばれ、いで高向玄理たかむくのくろまろ南淵請安みなぶちのしやうあんなどの留学生を送られたことも亦、著名な事件である。

 又、太子は始めて国史編纂の業を起され、天皇記、国記を編まれ、その間に、卓抜なる御見識を以て仏典の註釈を完成された。それが三経義疏さんぎやうぎしよと呼ばれてゐるものである。

 十七条の憲法も、太子の御自作であるが、詩経、書経、易など支那の古書を引用して書かれた漢文で、わが国の漢文では最古のものであり、かつ御名文である。

 太子は、推古天皇の三十年に薨去されたが、天皇をはじめ奉り、全国民に至るまで「日月ひかりを失ひ、天地既に崩れぬべし」と、嘆いたと云はれる。太子は、日本が生んだ偉大なる宗教家であり、政治家であり、同時に日本文化の偉大なる建設者だと申上げてもよいであらう。

 この聖徳太子の御精神と御事業を継承して、大化の改新を断行されたのが、中大兄皇子なかのおほえのわうじである。

 是より先、氏族制度の頽廃の結果として、大氏族の長が、広大なる土地人民を私有し、権勢を専らにせんとするものが生じてゐた。が、その内、大伴氏、物部氏は失脚して、蘇我氏のみが、強大なる勢力を擁してゐた。蘇我馬子そがのうまこは、太子と共に仏教の樹立に当つたのであるが、太子もその強大を憎み給うたが、これを退くるに至らずして、世を終り給うた。

 馬子うまこは、太子の御英明の前に、雌伏してゐる外なかつたが、太子薨去後、その野心を現はし、不臣の振舞多く、その子蝦夷えみし、孫入鹿いるかに至つては、馬子以上に専横を極め、当然皇位にき給ふべき御方である聖徳太子の御子たる山背大兄王やましろのおほえわうを斥け奉り、入鹿は遂に大兄王の御即位は、蘇我氏の滅亡を意味するものと考へ、皇極くわうぎよく天皇の二年大兄王を襲ひ奉つた。

 王は、一度は生駒山に逃れ給うたが、「自分は今、兵を起して入鹿を討つならば勝てるだらうが、一身のため、人民を傷つけたくない。わが身は入鹿にやらう」と仰せられ、一族の方々と御一緒に、御自殺になつた。が、蘇我氏のかゝる不臣が許されるわけはなく、御英邁なる中大兄皇子を中心とする中臣鎌子かまこ(後の藤原鎌足)、蘇我倉山田くらやまだ石川麻呂、佐伯子麻呂さへぎのこまろ等の活躍に依つて、皇極天皇の四年六月、入鹿は大極殿に於て、誅戮ちゆうりくを受けたのである。

 皇極天皇は、蘇我氏が滅んだ翌日、皇位を中大兄皇子に譲り給はうとしたが、皇子は叔父君たる軽皇子かるのみこを皇位に即け奉られた。これが、三十六代孝徳かうとく天皇である。初めて、年号を立て、大化元年とされた。

 そして、皇子は皇太子として、中臣鎌足と共に、政治の改新に当り給うた。

 それまでの日本の政治は、おみむらじ国造くにのみやつこ県主あがたぬしなど、勢力のある氏のをさが、土地人民を私有してゐたので、天皇は、氏の長を率ゐて居られるだけで、直接の御領地以外は、人民全体から、税なども、お取り立てになることはなかつたのである。

 だから、臣、連など云はれる勢力のある氏の長は、土地人民を私有し、勢力を養ひ、遂に蘇我氏の如く国政をみだすものが生ずるに至つたのである。

 されば、大化の改新の一大眼目は、これらの氏の長の私有してゐた土地人民を悉く皇室に返上させ、凡てを公地公民とし、天皇たゞ御一人が、君主として、支配されるやうにすることだつた。

 それと同時に、新たに戸籍を作つて、公民の数を調べ、男女老幼に応じ、田地を分配し、六年毎に調べ直して、死んだ者の土地は朝廷に収め、生れて六歳になつた者には、これを与へる法が設けられた。これが、班田収授はんでんしうじゆの法である。

 また八省百官の制を設け、地方に於ける国造、県主の世襲を禁じ、新たに国司郡司を命じ、期限的に交替させることにした。

 又、聖徳太子の制定になつた十二階の冠に、改正を加へて、最高の大織冠たいしよくくわんから最低の立身冠りつしんくわんまで、十九階として、血統や家柄に依ることなく、官位を授けられた。

 中大兄皇子は、後に第三十八代天智てんぢ天皇とならせ給うたが、新政のために、新らしき都を選ばれる意味で、近江あふみ志賀しがに都し給うた。これが大津ノ宮である。

 鎌足かまたりは、天智天皇の仰せに依つて法令を制定した。近江令あふみりやうであり、文武もんむ天皇の御代に出来た大宝律令の根本を成すものである。

 その中に定められてゐる官制や諸制度は、爾来千二百年間、明治十八年迄、用ゐられてゐたのである。

 明治維新の革新と並んで、日本の二大革新である大化の改新は、中大兄皇子に依つて成し遂げられたのである。

 当時としては、思ひ切つた改新であるから、大氏族や守旧派の反対は、さぞかし猛烈であつたらうと想像されるが、それを押し切つての御断行は、一に、天皇の御英明に依るものだと思はれるのである。

* 欽明天皇の十三年(皇紀一二一二
西暦 五五二
)百済の聖明王が、特使を我国に遣はして、仏像や経論を献じて来た。

 天皇は、百済王の上表を聴召きこしめして、諸臣に勅して、仏教信仰の可否をはかり給うた。

 朝臣の内、物部氏・中臣氏は排仏を主張し、蘇我氏は崇仏を主張した。

 その理由とする所は、「一は我が国には古来神道があり天神地祇を祭つてあるから、蕃神を祭れば、神の怒りに触れる」と云ふのであり、一は、「他国が既に仏像を礼拝してゐるのに、我が国独り反対する要はない」と云ふのであつた。一は、守旧的な保守的思想であり、一は、開放的な進歩思想であつた。

 それは、中臣氏は、代々神祇祭祀をつかさどる家柄であり、物部氏は、代々武将であり、これに反して、蘇我氏は、先祖武内宿禰すくね以来韓土と交渉を持ち、代々外交をつかさどる家柄であつたから、この対立が出て来たのであらう。


奈良時代の文化と仏教


 第四十三代元明げんみやう天皇の御代、武蔵国秩父郡ちゝぶのこほりより和銅わどうを献上せるものあり、依つて年号を和銅と改められたが、その三年、都を大和の藤原京より平城京へいじやうきやう(奈良)に遷された。以後七代の間光仁くわうにん天皇迄、この地に都し給ひ、上古よりの歴代遷都の風が止んだ。これは、唐の都城制が輸入せられ、政治と経済の中心が一元化し、住民も多く集り、皇都は一大都会となり、遷都が容易でなくなつたからである。

 此の時代初期の重要なる史実は、銭貨の鋳造と、国史及び風土記の撰修であらう。

 武蔵国よりの和銅献上に依つて、和銅と改元せられると共に、鋳銭司ちうせんしを置いて、初めて銅銭を鋳せしめられたのが、和同開珎かいほうである。

 上古は、物々交換で、その方法も割合便利であつたので、国民の多数には銭貨の重要さが認められなかつた。そこで朝廷では、田の売買には必ず銭貨を用ゐしめられ、銭七貫以上を蓄ふるものは、初位に叙するなど、銭貨使用を奨励せられたのである。

 又和銅四年には、勅命を承けて太安万侶おほのやすまろが、稗田阿礼ひえだのあれの口授に依つて、古事記を筆録し、翌年これを完成してたてまつり、又元正げんしやう天皇の御代には、舎人親王とねりしんわうが勅を奉じて、日本書紀を撰せられてゐる。

 是より先、天武天皇は、わが国の古伝の保存及び国史の編纂に大御心を注がせられ、天皇おん自ら旧辞きうじを稗田阿礼に勅語したまうたとあるから、さうした御苦心が、古事記となつて実を結んだわけである。

 古事記は、漢字の音と訓とを交ぜ用ゐて、記されたものであるが、日本書紀は、全く漢文に依つて書かれてゐる。その書名に「日本」なる字を用ゐられた点より考へて、当時の朝鮮及び唐に対して、独立国家たる威容を示すための修史であつたのであらう。

 又、元明天皇は和銅六年、諸国に勅して、国、郡、郷、里の名は好字を選んで二字を定めしめられると共に、それ〴〵地方の物産、地勢、伝説を記して差出さしめられた。いはゆる風土記ふどきであつて、その内、出雲風土記(完本)、播磨風土記、常陸風土記などが残つてゐる。

 かやうに、国史地誌の編纂が行はれた事は、わが国民の国家意識を高め、愛国心をつちかつたことであらう。

 記紀、風土記の編述と共に、忘れてならないのは「万葉集」の存在であらう。

 その撰者は、橘諸兄たちばなのもろえと云ひ、大伴家持おほとものやかもちと云はれ、明確ではないが、長歌短歌およそ四千五百首、上は天皇より下は庶人に至るまで、あらゆる階級の人を含み、宮廷歌集であると共に、民謡集である点に於て、わが国民の一大家族性を示した和歌集たるの観がある。

 その中には、上代国民の剛健素朴な日常生活や、純真無垢な忠君の精神や、天真無縫の感情生活が脈々として流れてゐるのである。「古代日本人を知らんと欲せば万葉集を読め」と云ひたいくらゐである。現代の活字本の万葉集は、甚だ読み易くなつた。何人も一読すべきだと思ふ。

 奈良時代は、大化改新後に於けるわが国の統一国家としての活動期であるが、第四十五代聖武しやうむ天皇の御代に至つて、その文化は「咲く花の匂ふが如く」燦然と光りかゞやいたのである。

 美術史では、この御代を天平期てんぴやうきと名づけ、第一の黄金時代としてゐる。

 唐より伝来の文化と、仏教の興隆とにより、美術工芸は非常なる発達を遂げ、単なる唐の模倣でない、新らしい芸術を産んでゐるのである。

 殊に彫刻は、前時代の生硬な技法を脱し、流麗典雅な手法を以て、あらゆる材料を駆使して、幾多の傑作を残してゐる。東大寺の大仏、同じくあかがね燈籠扉のレリーフ、法華堂ほつけだう(三月堂)の諸仏像、当麻寺たいまでらの諸像、法隆寺の九面観音像、その他、優にエヂプト、ギリシャの彫刻にも匹敵するものが多いのである。

 建築に於ても、東大寺の法華堂ほつけだう、法隆寺東院とうゐん夢殿ゆめどの新薬師寺しんやくしじ、正倉院その他が、当時のおもかげを伝へてゐる。唐招提寺たうせうだいじ金堂こんだうは、当時は第三流程度であつたと云はれるが、現在では古今の傑作と嘆称されるのだから、当時いかに壮麗なる寺院、宮殿が多かつたかが想像されるのである。

 又、奈良に現存せる正倉院は、聖武天皇の御遺物を初め、当時の家具、楽器、武具、装飾品等三千点を、千数百年後の今日まで、その儘伝へてゐるが、わが国工芸品の粋を集めてゐるばかりでなく、唐、西域、印度インド、ペルシャ、東ローマあたりの品物まで網羅され、その立派さは、世界に比を見ないと云つてもよいくらゐだ。

 かうしたわが国文化の発達は、仏教の好影響であるが、一方仏教流布に伴ふ悪影響もあつたのである。

 聖武天皇は仏教に依つて、国家を治めようと思召し、天下泰平、国土安穏あんをんを祈らせ給うて、国毎に国分寺こくぶんじを建てられ、総国分寺として奈良の東大寺を建立された。その本尊がいはゆる奈良の大仏である。

 皇后光明皇后も亦御信仰深く、その御信仰に依る社会事業に、おん自ら活躍された事は、いろ〳〵の伝説さへ残つてゐるくらゐだ。

 が、かうした朝廷の仏教御信仰に依つて、僧侶の位置は向上し、上下の尊信厚きに誇り、遂には僧侶の分を忘れ、政治に関与せんとする者をも輩出した。その巨魁は、弓削道鏡ゆげのだうきやうである。道鏡は、称徳しようとく天皇の御信頼に依つて太政大臣禅師よりすゝんで法王の位を授けられ、遂に皇位に対して、非望をいだいたと云はれる。

 が、妖雲が、天日をおほはんとするとき、却つて天日の光が、冴え渡るやうに、和気清麻呂わけのきよまろが、宇佐八幡から、

「我が国家開闢かいびやくより以来このかた、君臣の分定まりぬ。臣を以て君とることいまらざるなり。あまツ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除はらひのぞくべし。」

 と神託を受け、奏上したことは、当時儒教思想や仏教思想の伝来に依つて、多少の影響を受けてゐたかとも想像される、わが国体観念の確立に対する一大声明であつて、爾後非望の輩が、長く根絶するに至つたことは、誠に欣ばしいことである。


平安時代


 紀元千四百五十四年(西暦七九四)、第五十代桓武くわんむ天皇は、山城やましろ葛野かどの宇太野うだのに都をさだめられた。これが平安京、現在の京都である。左右両京の制、条坊の区劃などは、広大なること奈良以上である。今の京都は、左京から東部と北部とに発展したのである。爾来、平安京は明治元年まで、千七十五年間の帝都であり、源頼朝が幕府を開くまで、凡そ四百年間政治の中心であつたので、その間を平安時代と云ふのである。

 平安京への遷都は、国運の進展に伴ひ、交通至便な土地を求められた意味もあるが、奈良時代末期に於ける仏教の政治に及ぼす弊害を避けられる意味もあつたと云はれる。

 されば、桓武天皇は、仏教の改革に御心を用ゐられてゐたが、あたかもよし、この時代に空海くうかい(弘法大師)最澄さいちよう(伝教大師)の二傑僧が現はれ、仏教自身、その宿弊を一掃した。

 最澄も空海も、政権の地を離れて、山林の地にその本寺を置いたことと、仏教と日本固有の神祇崇拝との調和を図つたことと、また彼等の創始した天台宗及び真言宗が、必ずしも唐土伝来のものでなく、日本人的思索が、十分加味せられてゐた点に於て、この二人は日本仏教の危機を救ひ、その宗教的基礎を確立した人と云つてもよい。

 たゞ叡山は、あまりに京都に近かつたため、以後屡々政争の渦中にはひつたことは、やむを得ないことだつた。

 空海は、宗教界の偉人であるばかりでなく、わづか一年九箇月余の唐土留学に於て、絵画、彫刻、詩文、書法、音韻学、医道、薬物、その他土木、造筆、製墨、製紙の諸技術など、あらゆる唐土文化の芸能技術を習得して伝来した点に於て、その才能努力は殆んど超人的である。弘法大師について、いろ〳〵の奇蹟が伝はつてゐるのは、その功績に対する当時の讃嘆から生れたものであらう。

 平安時代の初期に於て、その武功の伝ふべきは、坂上田村麻呂さかのうへのたむらまろであらう。

 延暦十六年、田村麻呂を征夷大将軍として、東北の蝦夷えぞ(アイヌ)を征せしめられたが、田村麻呂の武威は精悍な蝦夷を各地に破り、胆沢城いざはじやう(岩手市南部)、志波城しばじやう(盛岡県南方)を築いて、大いに皇威を輝かした。以後多少の波瀾はあつたが、平安のもとゐこゝに定まり、史上に殆んど蝦夷の名を止めないところを見ても、その武功を想見することが出来る。

 平安時代の御世に於て、第六十代醍醐だいご天皇第六十二代村上むらかみ天皇は、英明の質を以て、親しくまつりごとを聞し召され、御世は泰平で文化はいよ〳〵栄えた。世に、延喜えんぎ天暦てんりやくと申し上げるのであるが、この頃漸く萌したのは、藤原氏の横暴であつた。

 大化改新の功臣たる藤原鎌足の子孫が、朝廷に勢力を占むるは、当然の勢ひではあらうが、彼等は他の名門、旧家を排斥し、皇室の外戚として、摂政関白、その他の高位高官を独占する傾向を生じてゐた。橘広相たちばなのひろみ菅原道真みちざね橘逸勢たちばなのはやなりなどは、藤原氏専制の犠牲者の最も大なるものである。

 藤原道長みちながの如きは、一條いちでう、三條、後一條天皇の御代、三十余年にわたつて、政治の最高枢機にあづかり、その子頼通よりみちも、父についで、摂政または関白たること五十余年であつた。

 かうした藤原氏の政権壟断ろうだんは、やがて平清盛の模倣するところとなり、ひいては、源頼朝の幕府思想の萌芽となつたのではあるまいか。その点に於て、藤原氏罪有りと思はれる。

 聖徳太子の飛鳥あすか時代以来、平安初期にかけての支那文物の渡来は、おびたゞしいものがあり、日本の美術、工芸、文物制度は、殆んど唐に劣らない程度に達してゐたのではないかと思はれる。されば、宇多うだ天皇の寛平六年に、菅原道真が遣唐大使に任ぜらるゝや、道真は、唐が既に衰世であり、危険なる航海を冒してまで、彼の文化を輸入する必要がないことを奏上して、遣唐使は爾後長く廃止になつた。

 支那の文化は、その後、それほど発達してゐたわけでもないから、この遣唐使の廃止は、かへつて時宜的であつて、支那よりの影響が中断したため、支那伝来の文化は、以後いよ〳〵日本化され、わが国独得の文化を産むに至つたのである。

 唐風を真似てゐた住宅、衣服等も、日本化して行つたし、漢文学の盛んであつたため、国語を写すにも漢字を用ゐてゐた習慣が打破され、誰発明するともなく、平仮名や片仮名が自然に案出され、短歌、ひいては国文学の発達を促した。

「古今和歌集」、「後撰和歌集」に依つて、男女の歌人が輩出したし、国文学に於ては、清少納言の「枕草子」、紫式部の「源氏物語」などが出た。

 源氏物語は、欧洲に於ける写実小説の元祖であるボッカチオの「十日物語デカメロン」よりも、尚ほ三百五十年前に書かれて居り、支那小説「水滸伝」よりも、一世紀先に書かれてゐる。

 その他「土佐日記」、「伊勢物語」、「竹取物語」、「今昔物語」など注目すべき作品はすこぶる多い。

 又、漢文学に於ても、菅原道真、紀長谷雄きのはせを三善清行みよしきよゆきなどは、支那人に劣らないくらゐ、立派な漢文を書いてゐる。

 書道に於ても、空海、道真と、次第に唐風を捨てて日本風となり、道風だうふうに至つて、上代風といふわが国独得の書風が完成された。

 一方、草仮名さうがなといつて草書を思ひ切つて崩した平仮名が出来、日本独得の美術的な書体を作つた。

 建築も、彫刻も良く、日本趣味のものとなつた。絵画も、巨勢金岡こせのかなをかが、宗教と離れ、倭絵やまとゑを創始した。更に、藤原基光もとみつが、最も日本的な土佐派を起した。

 又、刀剣鍛冶かぢも、唐伝来の技術を多少受けたかも知れないが、早くも世界独得の日本刀を造り始めた。

 備前鍛冶びぜんかぢ、三條小鍛冶こかぢなどがそれである。

 又、官制の上に於ても国司の治績を監督する勘解由使かげゆし、宮中に於ける機密の文書を司る蔵人所くらうどどころ、京都の治安裁判に当る検非違使けびゐしなど、大宝令にない純日本的な職制が設けられたことも、此の時代に於てである。

* 道真の著書には、「三代実録」、「菅家文草」、「菅家詩集」、「新撰万葉集」、「類聚国史」等の編著があり、何れも、彼の非凡な学識才能を窺ふことが出来る。

 中でも、「類聚国史」の如きは、我史学史の中でも最も重要な名著であり、且つ、道真の醇乎たる国体観を知ることが出来る。


院政と武士の擡頭


この世をばわが世とぞ思ふ望月もちづき

   かけたる事もなしと思へば


 と歌つた摂政道長の権勢は、藤原氏の全盛を語ると共に、満つればかくる世の習ひをも示して、以後藤原氏の頽勢は著るしかつた。それは藤原氏に御縁故なき後三條ごさんでう天皇が即位ましますと共に、藤原氏の権勢を抑へ、政治の革新に当られたからである。

 天皇は、才学優れさせ給うた御英明の資を以て、記録所きろくじよを新設され、貴族の私有地たる荘園しやうゑんを調査され、その不当なるものを処分された。その当時は、大化改新に於ける班田収授の制が廃れ、土地の兼併が行はれると共に、開墾することに依つて私有を認められる墾田こんでん、功労に依つて賜はつた功田こうでんなどに依つて、荘園は激増してゐたのである。

 朝廷に租税を収めない荘園の激増は、北畠親房きたばたけちかふさもその神皇正統記じんわうしやうとうきに於て、乱国の始めだと云つて慨嘆してゐる如く、当時に於ける国家の大患であり、武士がその勢力を獲たのも、荘園が、その根拠を与へたからである。

 後三條天皇は御在位わづか四年にして、御位を白河しらかは天皇に譲られたが、太上だじやう天皇となり給うた後、猶ほ政治を親裁あらせられようとする思召おぼしめしがあつたが、御譲位後わづか五箇月にして崩ぜられた。然し、これが院政の初めだと言はれてゐる。

 白河天皇も、又英明の御資質で、藤原氏の権勢など顧慮せらるゝことなく、万機を決し給うてゐたが、応徳三年、御位を堀河ほりかは天皇に譲り給うた後、院庁ゐんのちやうを開いて、おん自から、万機を総攬し給ひ、次の鳥羽とば天皇、崇徳すとく天皇まで御三代の間は、白河上皇の院政が続いたのである。

 これは、従来の朝廷の高官は、藤原氏の人々で、必ずしも練達堪能の士ではないので、新らしい人材を抜擢して、実際的な政治を行ふために、院政と云つた形式が案出されたのではなからうか。このために、摂政関白の手中に在つた政治上の実権が上皇に帰し、藤原氏は全く雌伏するの外なくなつてしまつたが、天皇御親政の理想から云へば、やはり変態であつて、保元の乱の一つの原因になつたとも云はれてゐる。

 藤原氏全盛時代から、この時代にかけて、重大なる社会的事実は諸国に於ける武士の擡頭である。大化の改新に於ける軍団制度は、第四十九代光仁くわうにん天皇の御世に、東国辺要の地及び三関国さんくわんこく(美濃、伊勢、越前)以外は、軍団の必要なしとして、兵士の大都分を農に帰らしめられた時から、半ば崩解したのである。その後、藤原氏が、中央に於ける権勢の維持、栄華の追及に専心して、国司の遥任えうにんが盛んに行はれ、(遥任とは、国守に任ぜらるゝも、自らは任国に赴かず、目代もくだいを差遣して政務に当らしめるものである)従つてその治績が挙るわけもなく、軍団の廃止とともに諸国の治安は漸く乱れ、群盗所在に横行し、京畿にさへその姿を現はすに至つた。

 かうした紀綱の紊乱に連れて、貴族及び豪族の私有地なる荘園は、ます〳〵激増したが、これ等の貴族豪族は、各自の荘園の治安を維持するため、各々の子弟もしくは臣従を武装せしめ、武技をらしめたのである。これが、いはゆる武士の起源である。

 しかも、これらの貴族豪族は、多くは前国司の位置にあつたかみとか、すけとかじようなどで、その任国に土着したもので、人望も厚く、各地に強力なる武士団を形成したのである。その強力なるものは、東国に於ける源氏であり、西国に於ける平家であつた。而して、その統領と武士との関係は、官制上の関係でなく、人格的で情誼的であつたから、その団結力も強く、後年に於ける武家政治の基礎を築いてゐたわけである。

 最初、これらの武士が、中央の政界に於ては、何等の勢力のなかつたことは、平将門まさかどが、一検非違使たらんとする希望を拒まれたことが、彼の後年の叛乱の遠因であると伝へられることに依つても分るが、その後源氏第二代の源満仲みなもとのみつなかなどが藤原氏の股肱爪牙さうがとなることに依つて、漸くその勢力を扶植し、源頼義よりよし義家よしいへは前九年、後三年の両役に、陸奥守、鎮守府将軍として武勲を輝かすと共に、東北の武士と親炙しんしやし、次第にその統領たる位置をつちかつたのである。

 武士の擡頭と同時に、当時朝廷及び藤原氏等の尊信を得てゐた延暦寺、興福寺などは、白河上皇の仏教御尊信に依つて、いよ〳〵勢力を加へ、その広大なる寺領を自衛する必要上、武力を養ひ、僧侶自身武装すると共に、浮浪の徒がこれに加はり、宗門上の争ひにも武力を用ゐるばかりでなく、朝廷に対する訴願などにも、延暦寺は日枝神社の神輿を、興福寺は春日明神の神木を奉じて、京都に乱入した。これ嗷訴がうそと称して、無理非道の振舞をしたのである。朝廷は、これらの僧兵を防がしむるに、京都にある源平二氏の勢力を用ゐ給うたため、武士は、いよ〳〵中央に於ても、その勢力を伸ばすに至つたのである。

 しかも、白河上皇が、従来藤原氏の爪牙たる源氏に対抗せしめるため、伊勢平氏いせへいしたる平正盛たひらのまさもり忠盛ただもり父子を御信任遊ばされたので、忠盛は西海に於ける海賊討伐に功を立て、瀬戸内海に平家の勢力を扶植すると共に、中央に進出して、鳥羽院の昇殿を許されるに至つた。

 かくの如くにして養はれて来た源平二氏を中心とする武士の勢力は、保元の乱に於て、遂に中央の舞台に躍り出たのである。

 保元の乱は、藤原氏に於ける父子兄弟間の権力争ひが、皇室をまで、その渦中に引き入れ奉つた戦乱であるが、政権の争奪が、武力に依つて左右さるべきものであることを、如実に示したことに依つて、今まで他の勢力の爪牙を以て甘んじてゐた武士をして、遂に政権に対する野心をいだかしむるに至つたのである。

 されば、この戦ひに於ける殊勲者たる平清盛は、相つゞく平治の乱に於て、その対抗勢力たりし源義朝よしともを斃すと共に、その官位はしきりに昇進して、太政大臣となり藤原氏に倣うて、皇室の外戚となり、政治上の実権を握つたのである。これは制度の上には、何の変革もなかつたけれど、その内容に於ては、平氏の武家政治であり、源頼朝の幕府政治に移る過渡期であつた。が、幸運に依つて栄達した人々が、そのもとを忘れるやうに、平氏の一門も、殿上人でんじやうびととなつて、栄華に耽ると共に、武士たるの本領を忘れたのである。武士が武士たるの本領を忘れたる以上、平家の武家政治が、崩解することは当然のことであつた。

* 平将門は、桓武天皇の後裔平高望たかもちの孫に当り、父は陸奥鎮守府将軍平良将である。

 初め、京都に出て、太政大臣藤原忠平に仕へてゐたが、検非違使けびゐしになることを願つて許されなかつたので、不平の余り、所領下総に帰つたと云はれる。


鎌倉幕府と元寇


 平家の衰亡は、武家にして、藤原氏を学んで、大宮人としての弊害を承け継ぐと共に、土地を根拠とする武士自身の生活を忘れたためである。

 日本に於ける大叙事詩とも云ふべき平家物語に於ける平家の人々の頼りなさと、「風流」とは、この弊害を、そのまゝに現はしてゐる。

 源頼朝よりともは、前車の覆轍に鑑みて、容易に鎌倉を離れなかつた。

 平家の追討にも、義経よしつね範頼のりよりの二弟をしてその事に当らしめ、自分は鎌倉を離れなかつた。武士が領国を離れ京洛の地に入ることは、その本拠を失ふことであることを心得てゐたのである。木曾義仲よしなかが、旭将軍あさひしやうぐんの勢威を以て、京洛の地に暴威を振ひながら、忽ちにして一敗地にまみれたのも、彼にはよき教訓であつたであらう。

 彼は、建久元年初めて上洛し、権大納言右近衛大将ごんだいなごんうこんゑのたいしやうに任ぜられたが、直ちに拝辞した。彼は、たゞ六十六箇国総追捕使そうつゐぶし、もしくは征夷大将軍として、兵馬の権を握ることに専心した。兵馬の権のある処に、やがて、政権も亦帰属することを、彼は意識してゐたのであらう。

 さらば、弟義経よしつねと不和となるや、義経逮捕を名として、全国に守護しゆごを配置して軍事、警察をつかさどらしめ、又兵粮米ひやうらうまい徴発ちようはつのために、各所の荘園に地頭ぢとうを置いた。これらは、すべて鎌倉と縁故深き、いはゆる御家人を以てしたから、幕府の強固なる統制は全国的に及んだ。また朝廷に議奏の公卿くぎやうを置き、朝臣を任免せんことを奏請した。かくて、頼朝は、鎌倉に在つて、政権を掌握したのである。

 頼朝が、その武家政治に依つて、天下を統一し、国民生活を安定せしめた功績は、武家嫌ひの北畠親房きたばたけちかふささへ、これを認めてゐるくらゐだが、朝廷に対する尊崇の念を多少とも有してゐた彼が、日本の国体とは相容れざる武家政治を開始したことは、百世の下、やはりその責任は問はれなければならぬと思はれるのである。いはゆる、大衆間の判官はうぐわんびいきの反動として、世の識者の間には、頼朝を偉人として認める人が多いが、幕府の統制強化のためとは云へ、義経、範頼を初め眷属功臣を殺すこと、百四十余人に及ぶと云はれる彼、又強固なる幕府は建設されたが、彼の正統の子孫が、悉く非命に斃れることを予知しなかつた彼には、どこか人間として、欠陥があつたのではあるまいか。

 頼朝死後、頼家よりいへ実朝さねともが相次いで非命に斃れ、鎌倉幕府の命運まさに傾むかんとするが如き情勢を示した。折しも、京都には天資英邁文武の諸芸に達し給うた後鳥羽ごとば上皇が、おはしましたから、討幕の御計画が進められたのは当然である。これが承久しようきうの変である。

 が、関東の将士は、頼朝以来の武家政治を謳歌してゐたと見え、彼等は北條義時よしときの命令一下京都に馳せ上つたのである。

 変後、北條義時父子が、後鳥羽上皇、順徳じゆんとく上皇、土御門つちみかど上皇を遠島に遷し奉つたことは、凶悪の極みであつて、その不臣は足利尊氏以上でないかと思はれる。

 幕府は承久の変後、院宣ゐんぜんに応ぜし人々の所領三千余箇所を没して、有功の将士に与へ、新たに地頭職を設け、幕府の基礎は、更に強固なものとなつた。しかも泰時やすとき時頼ときより等の傑出した人物が相継いで執権となり、鎌倉幕府の全盛時代を現出した。

 承久の変に於ける不臣を敢てした鎌倉幕府が、かくも強大になつたことは、悲しむべきだが、武士の統制機関が出来るだけ、強大となつて、将に来らんとする皇国未曾有みぞうの危機たる蒙古襲来に当らうとしてゐたことは、北條氏が、無意識の裡に行つてゐたせめてもの罪滅ぼしであらう。

 蒙古の欧亜征服が、いかに圧倒的で、その勢力がいかに強大であつたかを考へるとき、一島国日本が、彼をして一指も触れしめなかつたことは、世界史上の奇蹟であり、日本民族の優秀性を誇示するに足る史実であるが、その大きな功績は、強固なる鎌倉幕府を統帥した八代の執権相模太郎さがみたらう時宗に帰すべきで、武家政治の罪も、その功績に依りて、少くともその二三割は償ひ得たと云つてもよいだらう。

 時宗大勇猛心を以て、蒙古の使者を斬ること再度、承久以来阻隔してゐた朝幕の間も融和し、君臣一如、かみ、亀山上皇は、御身を以て国難に代らんと、皇大神宮に祈請を凝らし給ひ、しも、鎌倉の将士は驀進して敵艦を襲つて、顧ることをしなかつた。

 弘安四年、七月みそかより、うるふ七月一日の夜にかけての大暴風に、敵十五万の大軍は覆滅して、還り得たるもの、わづか五分の一だと云はれてゐるが、十五万の大軍を石築地いしついぢに依つて、よく防禦した将士の奮戦が、やがてこの天佑を待ち得たのであらう。この一大勝報を得た朝野の感激は、如何ばかりであつただらう。

 六十三日間、一堂に籠つて、蒙古調伏を祈つたと云はれる宏覚禅師くわうがくぜんじが、「末の世の末の末まで我国はよろづの国にすぐれたる国」と詠んだのは、その当時の国民的自覚と歓喜とを、代表したものであらう。

 この歌に現はれたる如く、蒙古の撃退は、わが国民の民族的自覚心を向上せしめると共に、海外発展の壮志を呼び醒した。世界の最大強国たる蒙古を撃退した国民にとつて、怖るべきものは、何者もなくなつたわけである。以後、日本の海賊衆は、朝鮮及び支那の沿海に出没し始めたのである。


建武中興


 元寇は、日本のかゞやかしき大勝に終つたが、その戦禍を甚だしく受けたものは、戦勝の殊勲者たる鎌倉幕府それ自身であつた。

 文永ぶんえい弘安こうあんの両役に於ける莫大なる戦費は勿論、その前後に於ける辺海警備の費用、諸社寺に於ける祈祷に対する恩賞などで、鎌倉幕府の財政は、漸く窮乏を告ぐるに至つた。

 それと同時に、幕府を窮地に陥れたことは、文永弘安の両役に於ける戦功者に対する論功行賞の問題だつた。平家を滅した時は、平家方の土地を恩賞に与へることが出来たし、承久の変に於ても、没収された京方の公卿武士などの土地を恩賞に与へることが出来た。が、元寇に於ては、その戦勝に依つて獲たる所は皆無であつた。しかも、幕府は、将士を励まさんがために恩賞を約束してあつたのだから、戦後将士の恩賞を求むる者、引きも切らず、その訴訟は二十年間も続いたと云はれてゐる。

 幕府が、かうした難関に直面してゐた時、弘安七年北條時宗が三十四歳の壮年で世を去つたことは、北條氏の運命を決したやうなもので、その子貞時は凡庸、その孫高時は暗愚にして、一族の中の内訌ないこう相次ぎ、北條氏の衰運は、著るしいものがあつた。

 あたかもよし、京都では、第九十六代後醍醐ごだいご天皇が、即位し給うた。御即位の当初は、後宇多ごうだ法皇が、院政を聴かれてゐたが、元亨げんかう元年天皇にまつりごとを還し給うたので、天皇は御英明の資を以て、記録所を復し給ひ、絶えて久しき御親政の実を行ひ給ふことになつた。

 天皇は、後の三房と云はれた万里小路宣房までのこうぢのぶふさ、吉田定房、北畠親房きたばたけちかふさの三名臣を初め、日野資朝ひのすけとも、日野俊基としもと等の英才を起用せられ、鋭意諸政を改め給うたので、中興の気運勃々たるものがあつた。

 しかも、北條氏が皇位継承の問題にさへ、容喙ようかいすることを憤らせ給うた天皇は、後鳥羽上皇の御志おこゝろざしを継ぎ、つとに、北條氏討滅の御計画を廻らせられてゐた。

 正中元年その御計画は、北條氏の探知するところとなり、資朝、俊基の公卿を始め、土岐頼兼ときよりかね多治見国長たぢみくにながなどの犠牲者を出したが、天皇は隠忍してその時機を待たせられて居たが、嘉暦元年北條氏の皇位継承に対する干渉露骨となるや、天皇の御決心いよ〳〵深く、北條氏討伐の御計画は、正に一触即発の域に達した。

 所が、この御計画が、意外にも三房の一人にして天皇の御親臣なる吉田定房に依つて幕府に密告されたのである。北條氏の大兵が、内裏を襲はんとするを聞召きこしめされ、元弘げんこう元年八月二十四日、天皇は、にはかに宮中を出でさせられ、ついで二十七日笠置山に御潜幸遊ばされたが、北條氏は、足利尊氏あしかゞたかうぢ、金沢貞冬、大佛貞直おさらぎさだなほ等を将とし、大兵を以て笠置を襲つた。

 楠木正成まさしげが、勅命に依つて蹶起し、河内かはち赤坂城あかさかじやうに菊水の旗を飜したのは、この時である。

 太平記に依れば、天皇がおん夢に依つて、正成の存在をお知りになつたとあるが、天皇も宋学に御造詣深く、正成も宋学を研究してゐたと云ふから、さうした因縁で、つとに正成の忠志を御存知であつたのではあるまいか。

 正成は赤坂城に天皇を迎へ奉るべき準備をしてゐたが、笠置山の間道を知つた賊兵は、夜中山上に達し、火を放つて猛攻したので、笠置は遂に陥り、天皇は北條氏の手に依つて隠岐おきうつされ給うた。

 笠置の陥る前、護良もりなが親王を迎へ奉つた楠木正成は、笠置陥落後も、関東の大軍を迎へて、奇計を以て之を悩ますこと二十日に及んだが、遂に孤掌こしやう鳴りがたきを知り、城に火を放つて自殺と思はせ、護良親王を擁し一族郎党を引きつれ、風雨に乗じて、姿を晦ました。

 焼死と信ぜられてゐた正成が、吉野に兵を挙げられた護良親王と呼応して、赤坂城を奪還したのは、元弘げんこう二年の四月であつた。正成は、更に金剛山に千早城を築いて、寄せ手の北條氏の大軍を馳せ悩ました。

 千早、赤坂、吉野のうち、赤坂、吉野は落ちたが、千早城のみは、賊の大軍に囲まれながら、金剛山に因んで、金剛不壊ふゑの姿を示した。

 しかも、村上彦四郎義光よしてるの御身代りに依つて吉野を落ち給ひし、護良親王から諸国の武士に賜うた高時追討の令旨は、北條氏の無力に愛想を尽かしてゐた諸国の武士に、有効適切に作用して、勤皇のこゝろざしを起すものが、相続いた。

 新田義貞、赤松則村あかまつのりむら、伊予の土居、得能などがそれである。

 この間、隠岐におはしました天皇は、名和長年のお迎へを受けさせられて、伯耆はうき船上山せんじやうざんに行幸遊ばされた。

 九州に於ては、菊池武時きくちたけときが、探題北條英時ひでときを襲つて、九州に於ける勤皇の第一声を挙げた。

 中にも、播磨はりまの赤松則村は、京都の手薄を知り六波羅探題を襲はんとしたので、鎌倉幕府は驚いて足利尊氏、名越なごえ高家の両将に、兵を率ゐて救援に上洛せしめた。足利尊氏は途中近江あふみかゞみ宿しゆくにて、密勅を蒙るや、之を秘して、何気なく京都を通り、丹波に入つて、足利氏の所領たる篠村八幡宮祠前に於て、勤皇の旗を挙げ、山陰道を上つてゐた千種忠顕ちぐさたゞあきの官軍と合して、六波羅を攻めて、これを滅した。

 関東に於ても、北條氏の運命は尽きてゐた。先に、千早の攻囲軍中にあつて、護良親王の令旨を戴いて、東国へ帰つてゐた新田義貞は、義兵を起して鎌倉に攻め入り、北條氏一族を討滅した。時に元弘三年五月である。

 此処に、源頼朝に依つて、始められた武家政治は百五十年にして一旦滅び、輝しい天皇御親政の御世となつたのである。いはゆる建武中興がこれである。


吉野時代


 北條氏の滅亡するや、後醍醐天皇は、伯耆より御還幸の途につかせられ、兵庫迄お迎へ申し上げた楠木正成に、「北條氏を討滅し、今日京都に還幸出来るのは、ひとへに汝の忠節による」とのお言葉を賜ひ、正成の軍を先導として、京都に入らせられた。正成の光栄歓喜如何ばかりであつたであらう。御還幸の後、記録所きろくじよを再興し、親しくまつりごとをみそなはせ給ひ、雑訴決断所ざつそけつだんしよを置いて訴訟を決せしめ給ひ、武者所むしやどころを設けて、武士の進退をつかさどらしめられた。関白をも置かれなかつたから、事実上の御親政となつたのである。

 が、建武中興の大業が、間もなく破れ、北條氏に代つて足利氏の興起を見るに至つたに就いては、次の原因が数へられる。

(一) 建武中興に参加した武士の中には、自己の利害関係や、恩賞目当に行動した者が大部分であつたこと、従つて、之等の武士は公家くげ勢力の再興を欣ばず、公家と武家とがすこぶる不和であつたこと。

(二) 政治の実権が久しく朝廷を去つてゐたから、公卿くぎやうは政治の実際に疎く、しかも鎌倉幕府の滅亡と共に、幕府が処理してゐた政務をも朝廷で併せ行はねばならぬことゝなり、政務が渋滞してしまつたこと。

(三) 訴訟の裁決に当つて統一を欠き、恩賞に不満を懐く者も現はれ、新税に対する不平などもあり、人心漸く新政を離れるに至つたこと。

 かうした新政に対する不平不満を利用して、自己の野心を逞しうしたのは、足利尊氏であつた。足利氏は、新田氏と共に、源義家の子義国から出で、その勢ひは兄の家なる新田氏を凌いで、源頼朝の直系が断絶した後は、源氏の統領として、武士階級の輿望を集めてゐたのである。しかも、六波羅を滅して先づ京都に入るや、巧みに私恩を施して人心を収め、北條氏に倣つて政権をわたくしせんとして、密かに機会を狙つてゐたのである。

 尊氏の野心を早くも察せられたのは、建武中興に大功労のおはしました護良親王で、打倒尊氏を策せられたが、却つて尊氏のざんに遭ひ、鎌倉に流され幽閉され給ふに至つた。

 たま〳〵北條高時の子、時行が信濃に兵を起し、父祖の覇業の地たる鎌倉を奪還せんとして襲来した。相模守として鎌倉に在つた尊氏の弟直義たゞよしは、敗れて鎌倉を脱出するとき、おそれおほくも護良親王をしいし奉つた。これが、足利氏の悪逆の最初である。

 尊氏は、それを聞くと、勅許を待たずして、関東に下り、時行をうて、そのまゝ鎌倉に止まり、新田義貞を除くことを名として、しきりに兵をあつめた。叛心既に明らかである。

 天皇は、新田義貞をして西より、陸奥守むつのかみ北畠顕家あきいへをして東より、鎌倉を挟撃せしめ給うた。義貞は、途中尊氏の軍を破り、足柄箱根に尊氏、直義と戦つたが、官軍の一将が俄かに賊軍に応じたため、竹ノ下に大敗して潰走するに至つた。尊氏、直義その後を追うて、西上するや、建武の功臣たる赤松則村のりむらなど、官軍に叛いて尊氏に応じ、東西から京都に迫つたので、天皇は延元えんげん元年正月一日、難を比叡山に避け給うた。が、陸奥の北畠顕家が、尊氏を追うて西上し、義貞、正成、長年等と協力して、尊氏を破つたので、尊氏は弟直義と兵庫から、海を渡つて、九州にはしつた。

 当時九州には、先に建武の中興に忠死した菊池武時の子武敏があり、少弐貞経せうにさだつねを誅し、勢威を振つてゐたので、尊氏を迎へ撃つて、博多の東方なる多々良浜たたらはまで激戦したが、時利あらず、敗退したため尊氏の勢力は、九州一円を風靡し、九州の将士争うてこれに属した。延元元年四月、尊氏兄弟は博多を発し、途中、中国四国の兵を併せて海陸より並び進んで東上した。

 当時、新田義貞は、赤松則村を播磨の白旗城しらはたじやうに囲んでゐたが、急を聞いて、朝廷に奏上した。朝廷は、楠木正成に命じて、義貞を援けしめられる事になつた。

 正成が敵を京都に入らしめんとの献策が、藤原清忠きよたゞのために、遮られたのは、この時の事である。京都は、大兵を擁しては、長く保ちがたき土地であることは、木曾義仲よしなかの場合でも分るし、尊氏の最初の京都入りの場合でも分るのだから、正成の献策が容れられたならば、尊氏は再敗地にまみれたかも分らないのである。

 正成、桜井駅に子正行まさつらと訣別し、兵庫に赴きて、義貞と共に賊の大軍と戦ひ、腹背敵を受けて忠死を遂げた。此処に於て賊軍は京都に入り、名和長年、千種忠顕等の諸将なんに死し、天皇は難を比叡山に避け給うた。

 京都に入つた尊氏は、先に北條氏の擁立した量仁かずひと親王(光厳院)の御弟豊仁とよひと親王を立て、天皇(光明院)と称し奉つた。次いで、尊氏は使者を比叡山につかはし、偽り降つて、天皇の御還幸を乞ひ奉り、天皇が還幸あらせられると、花山院くわざんゐんに幽し奉つたので、天皇は夜に乗じて、神器を奉じて吉野に行幸あらせられた。延元元年十二月のことである。以後、五十七年間を吉野時代といふ。

 後醍醐天皇は、その後も新田義貞に勅して、皇太子恒良つねなが親王、皇子尊良たかなが親王を奉ぜしめて、北陸経営に当らしめ、又陸奥むつの北畠顕家あきいへを西上せしめて、京都の恢復を計り給うたが、顕家は延元三年五月、摂津の石津いしづで戦死し、新田義貞は、延元三年七月藤島の戦ひで戦死した。

 しかも、延元四年、後醍醐天皇は、吉野の行宮あんぐうに崩ぜられたので、南風いよ〳〵競はず、吉野の朝廷の柱石たる北畠親房の苦心経営を始めとし、楠木正成の遺子正行の奮闘、菊池武敏たけとしの弟武光が、征西将軍懐良かねなが親王を奉じて一時九州に雄飛するなど、朝廷のために忠誠を尽くす将士も多かつたが、遂に京都を恢復する迄には至らなかつた。

 これより先、足利尊氏は、京都に於てほしいまゝに幕府を開き、征夷大将軍と称し、子義詮よしあきら、孫義満相次いで政権を握つた。元中九年に至り、義満は使を吉野に遣して、後亀山天皇の還幸を乞ひ奉つたので、天皇はこれを許し給ひ、京都に還幸し給ひ、神器を後小松天皇に授け給うた。

 吉野時代の変乱は、足利尊氏が、後醍醐天皇の御親政に背き、武家政治の復興を計つたことに起因してゐるが、当時武士階級に大義名分を解するもの甚だ少く、多くの武士は利害情実に依つて動き、昨日の宮方みやかたは今日の武家方ぶけがたとなり、今日の武家方は明日の宮方となるといふやうに、動揺常なく、遂に足利氏をして野心を遂げしむるに至つたのである。

 されば、北畠親房は、吉野の朝廷の中枢にあつて、軍政両方面に肝脳を砕いてゐたが、人心の頽廃を嘆じて、日本の国体を明らかにせんとし、「神皇正統記」を著述し、「大日本は神国なり。天祖始めてもとゐを開き、日神ひのかみ長く統を伝へ給ふ。我が国のみこの事あり。異朝にはその類なし。この故に神国といふなり」と、冒頭第一に、国体の真髄を発揚してゐるし、「凡そ王土にはらまれて、忠を致し命を捨つるは人臣の道なり。必ずこれを身の高名と思ふべきにあらず」と喝破して、当時の武士の通弊たる恩賞目当の進退に対して、大鉄槌を下してゐる。「大日本史」「日本外史」の勤皇思想も、「神皇正統記」にその源を発してゐる。「正統記」は実に明治維新の大原動力をなした千古不磨の著述である。生きては老躯を以て朝廷に尽くし、その二子顕家あきいへ、顕信を君国に捧げ、死しては、その著述に依つて、皇基を永久に護つてゐる。私は、北畠親房を、日本無双の忠臣だと信じてゐる。


足利時代と海外発展


 足利尊氏は、後醍醐天皇の御親政に背き奉つて、足利幕府創設に成功したが、その天罰は彼の在世中早くも報い来つて、一生涯部下の諸将を初め肉親との内訌ないこうに苦しみ、血で血を洗ふが如き骨肉相剋をつゞけてゐる。

 その因果は子孫にも報い、足利幕府十三代を通じても、同じやうな、内訌軋轢あつれきに悩まされてゐる。武士階級の勢力を利用して、ほしいまゝに幕府を樹立したことは、やがて武士階級をしてその勢力を自覚せしめて、下剋上げこくじやうの姿を現はし幕府を蔑視し、自己の好悪利害の赴くまゝに行動して、隠謀叛乱の絶え間なからしめてゐる。その極端なのが、十一年間続いた応仁おうにんの大乱であつて、その大乱の余波が全国に及んで、爾後百年に亙る戦国時代となつたのである。

 だから、足利十三代を通じて、わづかに太平をたのしんだ将軍は、三代義満よしみつと八代義政よしまさくらゐであるが、義満は驕奢に耽つて、財政窮乏を切り抜けるため、明と屈辱外交を結んだり、愚物が天下の権を取つたときの見本のやうな事しかしなかつた。八代の義政は、権臣や諸将の勢力から身を避けるために、風流の道に逃避し、下剋上の当時に、やつと一身の安きを保ち得た将軍である。前者が金閣寺を、後者が銀閣寺を建てたのが、日本建築史の標本として残つてゐるくらゐが、せめてもの功績である。

 されば、民政の上にも悪政が続いたが、その著るしいものは徳政である。徳政は、元来仁政に基づく社会政策であつたが、足利幕府では、その意味が変つて、重税を課せられた窮民が、貝を吹き鐘をたゝいて徳政令とくせいれいの発布を幕府に迫り、一切の貸借関係を一瞬にして、無効にさせるのである。中には、負債に窮した幕吏ばくりが、暗に暴民をそゝのかして、徳政令の発布を幕府に迫らしめるといふ有様で、義政の在職三十年に、徳政令を出すこと前後十三回に及んでゐる。かうなつては、信用取引は皆無となり、金を融通する人もゐなければ、現金取引の外、物を売る人もない。経済的に、万民が困窮するのは当然である。

 さうして、窮民が一揆を起すと、鎮圧に赴いた将士の部下が、一しよに掠奪を始めるといふ有様である。その上、応仁の乱が十一年も続き、京都は戦塵の巷となつて、将軍の威令が地に落ちたのだから、天下は分崩して、実力ある者が各地に割拠する戦国の世となることは、当然の帰結であつた。

 日本歴史を読んで、この時代くらゐ、頽廃的な感じを起させる時はないが、たゞ一つの欣びは、日本民族の海外に対する膨脹運動が旺んになつてゐることである。

 元の来寇を撃退して、わが国民は対外思想を刺戟されると同時に、「日本人強し」の自覚を得たのである。その上、国内生産力の発展や、地方都市の発達から、貿易思想が起つて来たのである。四国や瀬戸内海諸島の士民は、足利時代の当初から壱岐いき対馬つしま、九州の北部を根拠として、支那や朝鮮の沿海で、半貿易半海賊の活躍を始めたのであるが、倭寇わこうと呼ばれる頃には、かなり大がかりなものとなつたのである。

 倭寇と云ふのは、支那人が付けた名で、日本人自身は八幡船ばはんせんと云つた。八幡大菩薩の船旗を掲げたからである。春は、清明せいめいの後、秋は重陽ちようやうの後、順風を得て渡航するのを常としたが、朝鮮や遼東に向ふ者は対馬から、直隷、浙江せつかう、山東に向ふ者は五島から、福建、広東カントンに渡るものは薩摩から出発した。遣唐使を乗せた遣唐船も、三に一つの割で、難破したのだから、八幡船も同じ割合ぐらゐには、途中遭難して、乗組員は魚腹に葬られたのだが、当時の勇敢なる日本人は、そんな事は意としなかつたらしい。

 彼等が、海洋を行くや、疾風の如く、遠く安南、シャム、ルソン、マラッカ、フィリッピンにまで押し渡り、貿易が許されない場合は、忽ち両肌を脱ぎ、長刀を振つて命知らずの奮闘をした。

 明の史書には、「国患は倭寇に在り」と書いてあるし、わが太平記にも「賊徒数千艘の船を揃へて、元朝高麗の津々泊々とまり〳〵に押し寄せて、明州福州の財宝をうばひ取り官舎、寺院を焼き払ひける間、元朝三韓の吏民、之れをふせぎかねて、浦近き国々数十ヶ国、皆すむ人もなく荒れにけり」と書いてある。少し、大げさかも知れないが、八幡船の猛威が想像出来る。

 欧洲でも、貿易の濫觴らんしやうは海賊なり、と云はれてゐるが、当時の日本に具眼の武将政治家があつて、この八幡船隊の活動に、統制と指揮とを与へたならば、日本の勢力は数百年前に、支那大陸及び南方に伸びてゐたかも知れないのである。

 日本民族の本能の一つは、常に海外へ向けての発展にあるのだが、それが徳川幕府の鎖国政策で、その跡を止めなくなつてゐたことは、いかにも残念である。

 徳川幕府の世になつても、ルソン、安南、シャムなどには、日本の植民地があつて、日本町と呼んでゐた。シャムなどには、寛永の頃には、日本の居留民が、八千人居ると云はれた。山田長政が活躍したのは、かうした日本人を指揮してゐたからである。

 秀吉の朝鮮出兵も、その目的意識がハツキリせず、たゞ秀吉の大陸進出思想の現はれとして了つたことは、甚だ残念である。秀吉は、貿易の利をよく知つてゐた男だから、半島出兵などをしないで、これら南方に於ける日本人居留者に、国家的掩護を与へたならば、日本の南方に於ける発展は、どんなに目ざましいものになつたであらうか。惜しみても余りある機会であつたのだ。

 維新後、日本民族は再び海外発展を開始したが、三百年のハンディキャップが、いかに我々にとつて、不利であつたか、しみ〴〵と感ぜられてゐる。が、このハンディキャップを克服して、邁進する点に於て、日本人は先祖に劣らざる勇気を発揮すべきだと思ふ。

* 足利八代将軍義政は、政治に心を用ゐず、奢侈しやしに耽り、土木を起し、課税を重くし、度々徳政の令を発したので、人民は塗炭の苦しみに陥入り、極度に頽廃的となつた。

 この時、管領細川勝元と山名宗全は互に勢力を争ひ、畠山・斯波しばの両管領家にも相続の争ひがあり、たま〳〵、将軍家にも家督相続の争ひが起り、それ〴〵、聯合して、敵味方に別れて、後土御門天皇の応仁元年、京都の内外で戦争を始めた。

 これを見た、諸国の守護・地頭などは、にはかに領地に帰り、或ひは領地にゐる者は、これを機会に兵を挙げ、互に封地を争ひ、租税を入れず、天下動乱した。

 六年後、宗全と勝元相次いでしゆつし、義政もまた職を義尚よしひさに譲つたが、両軍は、尚ほ相対峙して、容易に戈を納めなかつた。

 が、文明九年に至り、やうやく諸将は、戦に疲れ、兵を収めて、国に帰つた。


戦国時代


 足利時代の末期には、下剋上げこくじようの実例が到る処に在る。京都に於て、将軍家の権力が、管領の細川氏に移り、それが亦、細川氏の家臣の三好氏に移り、それが四転して、三好氏の家来の松永久秀に移り、久秀は将軍義輝をしいしてゐる。美濃では、斎藤氏が、その主家の土岐氏を追ひ、近江あふみでは浅井氏が主家の京極氏を圧し、越前では朝倉氏がつて主家の斯波氏から国を奪つてゐる。中国では、大内氏の旗下から毛利氏が起つてゐるし、四国では土佐の一條氏の被官たる長曾我部ちやうそかべ氏が勃興してゐる。中国では、赤松氏の権力が家臣の浦上氏に移り、浦上氏の家臣宇喜多氏が、これに代つてゐる。関東では、鎌倉の足利氏の権力が両上杉氏に移つたが、その権力が家臣の長尾氏に移つてゐる。

 だから、鎌倉時代以来の大名で、潰れなかつたのは、九州で島津氏、奥州で伊達氏くらゐだけで、山名、細川、両上杉、今川、京極、畠山、赤松、大内、九州の少弐せうに、大友、菊池氏など、みんな亡んでしまつたのである。

 そして、その家臣もしくは被官の中の実力あるものが、その後を襲つたわけだが、しかも何等の地盤もなしに、蹶起したのは、北條早雲と豊臣秀吉の二人である。尤も、北條早雲は駿河の今川氏との縁故を頼りに、伊豆を奪つたわけだが、秀吉は徒手空拳でスタートしたのである。

 この時代の人物を二つに別けると、

(イ) 武将としても政治家としても一流の人

豊臣秀吉、徳川家康、織田信長、毛利元就もとなり、北條早雲、北條氏康うぢやす、伊達政宗、武田信玄、小早川隆景、長曾我部元親もとちか蒲生氏郷がまふうぢさと

(ロ) 武将として一流の人

上杉謙信、吉川きつかは元春、立花宗茂むねしげ、加藤清正、加藤嘉明、藤堂高虎、島津義弘、黒田長政

(イ)に属する連中は、秀吉、家康以外の人々も、政治家として民政に明るく、人情の機微にも通じ、天の利、地の利を得れば、もつと大を為し得た人々である。(ロ)に挙げた人々は、政治的手腕には乏しいが、義理堅く勇敢で、殊に吉川元春などは同じ長州の乃木将軍を思はせるやうな剛毅質朴な猛将である。

 戦国時代の戦争の中で、頼山陽は三大戦として桶狹間をけはざまの戦、厳島いつくしまの戦、川越の夜戦の三つを挙げてゐる。この中、桶狹間の戦は、信長の出世戦争であるばかりでなく、天下の大勢にも影響した。厳島の戦は、毛利氏の興亡を賭けた戦である。川越の夜戦は、北條氏康が寡兵を以て両上杉八万の大軍を撃破した快戦だが、その古戦場が直ぐ東京の近くにありながら、殆んど世人に忘れられてゐるのは、北條氏が亡んでしまつた為めかも知れない。

 が、この三大戦よりも、川中島の戦争が、有名である。これは、あの豪快な主将の一騎打が、後代まで人気があるのだらう。上杉謙信は、足に少し引きつりのある五尺そこ〳〵の小躯だつたが、その猛気は、敵味方に怖れられてゐた。

 当時、一軍と一軍との戦争とすれば、甲越二将は、もつとも強かつたが、この二将と相模の北條氏康とが、南北の一線上につらなり、お互に牽制し合つて、三人とも西方に向つて身動きが出来なかつたのである。

 戦国時代は、一見いたづらに混乱した暗黒時代に見えるが、この中に日本全国が自ら統一に向つて、動いてゐたのである。

 しかも、群雄の胸裡に共通した思想は、京都にで、皇室を戴くといふことであつた。天日をおほつてゐた雲が除かれたごとく、足利将軍が没落すると共に、皇室尊崇の思想が目覚めて来た。領土拡張に夢中に見える群雄達も、皇室を戴くにあらざれば、天下に号令することが不可能であることを、皆心得てゐたのである。

 上杉謙信の如きは、年二十三の時、朝廷から従四位下弾正少弼だんじやうせうひつに叙任されると、朝恩の厚きに感激し、「我ながらにして、官爵を受く、これ恐らくは人臣の大義に非ず。まさに上洛して天恩を拝謝せん」と云つて、二度まで京都に上つてゐる。当時、越後から京都まで、敵か味方か分らない国々の間を出かけて行くなど、並々ならぬ心がけであつた。

 毛利元就も、勤皇の志があつたし、織田信長は、父信秀の代から、皇居の修理に献金などしてゐる。

 彼等に忠誠のこゝろざしもあつたのであらうが、皇室を奉戴するのでなければ、群雄を駕御がぎよ出来ないことを知つてゐたのである。

 だから、戦国時代の後半は、彼等の上洛競争になつてゐたのである。

 その中で最初に上洛行動のスタートを切つたのが今川義元である。

 今川家は、下剋上の犠牲にならなかつた足利時代の名家だ。義元は相当の人物で、駿遠参すんゑんさんの大兵を擁して、尾張を衝いて一挙に、信長を踏み潰して、京都に入らうとしたのである。当時信長は、尾張一国をさへ統一してゐないし、兵力から云つて今川の敵ではなかつたが、「大中入り」と云ふ捨身の奇襲戦法に依つて、義元を一蹴して、その首級を挙げたのである。

 義元を打倒した信長は、義元の壮図だけを承け継いで、その戦勝の余威に乗じて、上洛行動の準備を為し、先づ今川から自立した徳川家康と攻守同盟を結んで、後顧の憂を絶ち、美濃の斎藤を追うて道を開き、近江の浅井長政に妹を嫁して、途中の不安を除き、その上洛の志を達したのが、永禄十一年である。桶狹間の大勝から八年目である。

 三好、松永などの下剋上の兵隊と違ひ、規律の厳粛な新興兵士とも云ふべき信長の軍勢は、京都にはつても、秋毫しうがうも犯さなかつたから、忽ちに上下の信望を得て、信長の京都に於ける位置を、堅実なものにしたのである。

 織田信長が、先づ京都に入つて彼の理想たる「天下布武」の第一歩に成功したのは、彼が他の群雄に比して、最も地の利を得てゐたからである。濃尾の地は、伊吹、鈴鹿の縦走山脈に依つて、近畿と隔絶したゐたため、中央政局の波動から、超然としてゐることが出来たし、又本州中部の上杉、武田、北條の諸勢力は、互に牽制し合つてゐたし、偶々たま〳〵伸びて来た今川には、奇勝することが出来た。それに足利三管領の一なる斯波氏の重臣家だから、京都の諸事情にも精通してゐた。その上、慧眼な信長は、新兵器たる鉄砲を重視して、真先に採用してゐる。鉄砲を主力とした近世的な戦法にかゝつては、戦国の諸将も手を焼いたであらう。当時の鉄砲の有効距離は、僅かに二三十間だつたといはれるが、それにしても槍の二三十倍は届くわけだ。鉄砲が、勝敗を左右した著るしい例は、天正三年の長篠の戦である。しかも鉄砲を武器とする以上、尾張平野は絶好の練兵場になるわけだ。その上、尾張は物産にも豊富である。この英雄児は、地理的にも、いろ〳〵恵まれてゐたのだ。


信長、秀吉、家康


 戦国の群雄が素懐そくわいとした上洛の理想は、尾張に崛起くつきした織田信長によつて遂げられたが、かうして、一躍新武家時代の寵児となつた信長は、上洛の栄誉をると同時に、天下諸大名の嫉視の的となつたのである。

 されば、以後の数年間が、彼としては一生の危期であつた。

 甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、相模さがみの北條氏康うぢやす、その何れの勢力が西方に延びて来ても、信長の覇業は忽ち遮断されたに違ひない。

 周到な信玄、慓悍へうかんな謙信、勇敢にしてしかも緻密な計画性をもつた氏康、この三人が用ゐた印章は、それ〴〵龍、獅子、虎であるのも興味深いが、まさに彼等は、当時日本の龍であり、獅子であり、虎であつた。しかも、この三人が互に優劣なく固執し、相牽制して均衡の勢力を保ちながら、空しく年月を費してゐたことが、信長にさいはひしたのである。

 謙信と信玄とは、軍の編成と統率、団体戦法と用兵に於て、戦国時代の群雄をはるかに凌駕してゐて、我が国に於ける戦術の開祖とも云ふべきである。後世、由比正雪が楠木流の軍学などと称したものも、武田の兵法を太平記に結びつけたものである。

 だが、この越後の獅子と甲州の龍は、中央の舞台を外に、十年も対峙してゐる。川中島合戦は、戦史を飾る激戦ではあつたが、政治的には、何ほどの意義もなかつた。後年秀吉が、「ハカの行かぬ戦争をしたものだ」と評した所以ゆゑんである。

 甲越の決戦を観望して、「かたはら毒龍有り、其蹷つまづくを待つ」の感があつた北條氏康は、元亀二年に歿し、こゝに均衡勢力の一端は破れた。翌三年十月、武田信玄は大挙して上洛を志し遠江とほたふみに侵入し、徳川家康を脅かしたが、翌天正元年四月、やまひを得て「明日旗を瀬多せたに立てよ」のうは言も悲しく陣歿した。

 入洛競争のテープを切つたのは信長だつたが、甲斐の龍、信玄の鋭鋒をむかへては、あまり勝味のない桶狭間を、も一度繰り返さねばならない破目になつてゐた信長は救はれたわけだ。

 氏康逝き、信玄歿し、関東は謙信のひとり舞台となつたが、彼も亦、天正六年三月西上の軍を発するに先だち、にはかに卒去した。信長に取つては重ね〴〵の天幸と云はねばならない。

 豊穣な濃尾の地利につちかはれ、人文にはぐくまれた英雄児信長は、遮るものあらば性来の勇猛心で撃砕した。しかも、彼を脅かす東国の諸豪相次いで世を去つたので、彼の天下一統は必ず近きにあり、と自他共に信じてゐたが、測らずも、十七年間重用し来つた家臣光秀のために、京都本能寺に於て、しいせられた。「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻ゆめまぼろしの如く也」、彼の平素愛誦の謡のごとく、五十に満たぬ四十九歳で、いかにも乱世の英雄らしい最後を遂げたのである。

 この時、中国毛利氏と対陣中の秀吉は、すぐさま媾和して、神速飛ぶが如くに引き返し、摂津山崎の一戦に、光秀を討ち取つた。叛逆後わづか十三日にして、光秀は滅んだのである。三日天下の称がある所以である。光秀の叛逆は、下剋上の最後の場合だつたが、近世に近いのと、相手が大物であつただけに、主殺しと云つた悪名を、相当以上に受けてゐる。

 独力で主君の復仇戦を遂げた秀吉の声望は、一時に加はつた。近畿の諸将は、先を争つて彼の麾下に集つた。織田家の宿将たる柴田勝家や滝川一益かずますは、心中甚だ平かでない。やがて勝家は、しづたけで秀吉と戦つたが惨敗し、越前の北庄きたのしやうの本城に逃げこみ、遂に滅亡した。

 天正十一年五月、秀吉は諸国から大木巨岩を集め、三十余国からの人夫を使役して、大坂に大規模な築城工事を起し、翌年の八月に殆んど竣工した。金城鉄壁、難攻不落の堅城であり、荘厳壮麗、天下統一の覇業を期する秀吉の理想を象徴した名城でもあつた。秀吉は築城と同時に、大都市建設の計画を立てて、堺や伏見から商人を移住させた。

 天正十二年には、秀吉は統一の功を急ぐために徳川家康と同盟し、一方では長曾我部元親もとちかを降して四国を平げ、上杉景勝かげかつと和して北国を定め、島津義久よしひさを討つて九州を従へた。

 越えて天正十八年三月、自ら大軍を率ゐて北條氏を小田原に攻囲してこれを滅し、関東を平定したが、その陣中に、奥羽の雄伊達政宗が来降し、こゝに天下は全く統一したのである。

 足利時代は暁暗期である。その中から生気に満ちた近世の朝は明け初めて、豪快な戦国の舞台は展開したのだ。そして、信長と秀吉と家康は、満身に照明を浴びつゝ相いで登場して、英雄の名をさらつてしまつたのである。

 信長は気象の荒々しい性急な乱世的英雄で、彼の活躍は実に目覚しかつた。秀吉は戦国的英雄であると同時に、実に平和を愛する英雄であつた。戦国百年の焦土の上に、絢爛たる桃山時代を出現させたのは彼である。家康は信長のやうな目覚しさはないし、秀吉のやうな華やかさもないが、実に緻密で組織的で建設的で、近代的な英雄である。この三人の性格を比べると、秀吉と家康は、信長に比し、滅多に人を殺してゐない。政略以外には、人を殺してゐない。秀次の妻妾を殺したことは、秀吉の晩年の過失である。秀頼母子を殺したのは、家康として政略上止むを得なかつたのである。それ以外は秀吉も家康も、人を殺すことをたしなんでゐないのである。

 結局、英雄といふものは、時代が生むのだ。世の中が真に必要に逼られてゐる大事業を遂行する人物が英雄なのである。信長も秀吉も家康も、それ〴〵、大きな社会的需要に応じて現れて、独自の役割を果した人物で、真に英雄である。

 もし家康が応仁の乱時代に生れてゐたならば、精々細川か山名の一将で終つたかも知れない。又、信長が家康の時代に出てゐたら、叡山や本願寺を焼打したりして、日本のネロとして悪名だけを残したかも知れないのである。

 叡山の山僧の跋扈ばつこは、歴代の朝廷も将軍も手を焼き、国政上の大患だつた。信長は、この末世の悪僧共が浅井、朝倉と通謀して彼の大志を妨げようとしたから、徹底的に焚滅ふんめつし、永年の禍根を絶つたのである。新井白石の「読史余論」は、これを信長の大功の一にさへ数へてゐるのである。

 信長は一切のふるきものの破壊に続いて、直ちに建設に着手してゐる。皇居の造営、首府たる京都市街の復興、検地、金山銀山の経営、朝鮮との外交政策等を見ても、決して単なる癇癪もちの荒大名ではない。頭脳的にも、創意に満ちた英雄であつた。彼の茶と学問の奨励は、元亀天正の荒武者たちの品性を高めるためであり、同時に、幼時から粗暴と云はれる自らの性行の反省修養のためであつたとも考へられる。

 信長は荒木村重むらしげとの初対面に、刀で餅を刺して、壮士ならこれをくらへ、と云つて突き出したが、後年そむかれてゐる。秀吉は九州島津氏の猛将鬼武蔵(新納武蔵守忠元にひろむさしのかみたゞもと)との初対面で、主家のため最後まで戦つた忠節を褒め、当座の賞として薙刀なぎなたを与へた。渡すとき、自分は刃の方を持ち、武蔵には石突の方を向けて出した。匕首ひしゆふところにしてゐた武蔵も、思はずハツと平伏して、薙刀を押し頂いたのである。

 信長は畏服させたし、秀吉は悦服させた。そして家康は、智慧の力で服従させてゐる。

 家康は、関ヶ原合戦の時にさへ、「貞観ぢやうぐわん政要」を印刷させてゐるし、その後も「吾妻鏡」を刊行させてゐる。さらに元和げんな元年、大坂方と対戦中に、「群書治要」を刊行させてゐる。彼の学問好きは、学問の骨董的価値を賞翫するのではなくて、先人が残した治国平天下の要綱に対する研究心から発してゐるのである。秀吉に圧倒的な人気があるのは、よく分る。しかし、わが国二千年の伝統を捉へて、そこに自家の政治の根柢を求め、徳川三百年の太平をかち得た家康は、やはり近世的な大政治家たる資格の所有者と云はねばならないと思ふ。しかし、皇室に対する態度では、秀吉が一番よい。聚楽第じゆらくだい後陽成ごやうぜい天皇の行幸を迎へ奉つたことは、どんなに皇室の貴むべきかを当時の天下に知らしめたか分らない。信長も皇室の貴むべきことを心得てゐた。家康は、その点で一番劣つてゐる。

* 信長も秀吉も、今日で云へば、成金的成功者であつたから、その時代の文化も、亦、絢爛豪奢を極めたものだつた。いはゆる、安土・桃山時代の文化である。

 信長の安土の城は、天正四年から七年まで、巨万の財をつひやして作り上げたもので、戦争の為めの城と云ふより、むしろ、華麗な邸宅だつた。三つの丘の真中の七重の天守閣の頂には、金の鯱鉾しやちほこが朝日夕日に輝いてゐた。屋根瓦には、漆を塗り、金粉をまき散らした。襖はいづれも、金地で、狩野永徳らが牡丹に唐獅子といつた風な、思ひ切つて華美な絵を描いた。

 秀吉が、諸大名に命じて築かせた大坂城は、周囲三里に余る大城郭で、八層の天守閣を中心に、華美を極めた建物が立並んだ。聚楽第も、絢爛眼を奪ふものだつた。

 従つて、彫刻も独立した美しさを持つたものよりも、豪壮な邸宅寺院などの建築美にそへる装飾彫刻が盛んになり、左甚五郎などゝ云ふ名手が出た。

 絵画も、狩野永徳・山楽、土佐光吉みつよし・光則・光起みつおきなど彩色目もまばゆい程の華麗なものを描いたし、墨絵も、大幅で、華やかなものがもてはやされた。

 足利時代に始まつた茶の湯は、信長・秀吉共に好んだ。秀吉は、北野の大茶の湯のやうに平民も遠慮なく参会させたので、茶の湯は、非常な勢で、上下の区別なく拡まつた。

 武野紹鴎たけのぜうおうとか千利休が出て法式を整へたので、千家表流・千家裏流・千家武者小路流などが出来、更に、石州流・有楽流・藪内流・遠州流などの流派が出来た。

 その上、秀吉は、都市経営策として、美術工芸の名工を京都烏丸からすまに集めたので、京都は美術工芸の中心地となり、本阿弥ほんあみ光悦とか野村宗達などの優れた工芸家があらはれ、桃山風の華美な工芸品を作つた。

 また、茶道の隆盛とともに製陶業が盛んになつた。殊に、朝鮮出兵の時、諸大名は、彼の地から陶工を連れて帰つたので、製陶法は著るしく進歩した。殊に、九州の諸藩では、競つて新らしい製法の陶器を造つた。福岡の高取焼、熊本の高田焼(八代焼)、佐賀の有田焼、鹿児島の薩摩焼などは、この頃、始まつたのである。

 秀吉は、この様な豪奢な生活をする資金の獲得の為、外国貿易を奨励した。彼は、当時、堺の町に多数の外人が居留して、商業が盛んなのに目をつけ、大坂を政治の中心とすると共に、腹心の石田三成を堺町奉行として、外国貿易を自家の監督下に置いた。


鎖国


 秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮を討つためではなくて、大明国だいみんこくを征するのが目的であつた。そして、この半島出兵は、結局失敗に終つたが、当時の日本は、民族的にも国家的にも、このくらゐエネルギーが横溢してゐて、倭寇わこう以来の大陸進出の風潮が、国家的に発現したのだ。然し、この旺盛な海外発展の本能も、徳川氏の鎖国政策によつて萎縮したのである。

 秀吉は、聚楽第じゆらくだいの造営や大仏殿の建立、大坂、伏見の築城、朝鮮出兵と、華美はで好きに任せて莫大な費用を使つたやうに見えてゐて、少しも金には困らなかつた。大坂城が陥るまで、秀吉がたくはへ置いた金銀は、家康を怖れさせたといふのである。

 家康は、あれほど質素倹約を旨とし、金銀の貯蓄に努めながら、彼の死後四十年で早くも財政の窮乏に苦しんでゐるのである。だから、秀吉の天下は、制度や法令の力ではなくて、財政の力で支へられてゐたと言へる。しかも、その有力なる財源は、外国貿易に依つたのである。

 それを、江戸幕府は、何故に鎖国したか。表面の理由は、キリスト教が口実になつてはゐるが、事実は、海外からの活気ある自由な商業資本主義的風潮が、土地と農民を経済的基礎とする封建制度を、侵蝕すると信じたからである。徳川封建政府を維持して行くためには、日本を永久に農業的鎖国にしておく必要があつたのである。

 鎖国令の実施は、寛永十年が第一回で、十三年、十六年と、三段階に分れ、次第に厳重になつてゐる。以後、日本の造船術は、全然後退してしまつたし、日本人の頭には、鎖国は祖法であり、国是であるといふ観念が成長し、外国人と交ることを、極度に怖れるやうになつたのである。そして、日本民族が得意とする、他国文化の吸収同化作用は、一切止んでしまつた。だから、鎖国以後は、固有の文化は発達したが、何となく不具的で盆栽的で、活気のない、いはゆる島国性を感じさせるやうなものとなつたのである。

 しかも、江戸時代に、日本の人口が殆んど増減しなかつた理由は、五十年毎に襲つた大饑饉のためで、鎖国令が国外からの食糧輸入を遮断してゐるから、饑饉になると、今なほ古老が語るやうな悲惨な状態を現出したのである。

 もし、鎖国令といふ桎梏しつこくを受けないで、日本民族の進取の本能に任せて海外発展が続けられてゐたなら、二、三世紀前、すでに南洋一帯は我が版図になつてゐて、今ごろは日本は、東洋の平和、世界の平和のために、有力な役割を果すことが出来ただらう。いかにも残念なことである。

 維新後、日本は再び開国して、世界文化に追ひ付かうとしてあせつた。その焦躁は今日に於ても、欧米の模倣や、模倣から生ずる種々の社会風俗問題などとなつて露呈してゐる。

 一たい、我々の祖先は、他を蕪雑ぶざつに模倣するには、あまりに高い文化的感性の持続を伝承してゐた。それは大陸文明の輸入時代に建立された法隆寺が、大陸の原物よりは建築学的にも美術的にも、はるかに優れてゐるといふ事実を見ても明らかである。この高い文化的感性の伝統と、天才的な吸収同化力とが、弱まつたことも、鎖国が与へた大害の一つである。しかし、三百年前の西欧の文明は、それほど高いものではなかつたから、日本は、まるきり三百年、西洋から後れたといふのではない。我々の血の中に、祖先の天才的な力を目覚まして、鎖国が生んだハンディキャップを克服し、邁進して行くべきである。

* 足利義輝の天文十八年、イスパニヤ人フランシスコ・ザヴィエルが鹿児島に来て、我が国に初めてキリスト教を伝へた。

 当時、異国の風物が珍らしいのと、乱世の為め、国民は不安にをのゝいてゐたので、神の愛を説くキリスト教は、吉利支丹キリシタン宗或ひは天主教と云はれて、非常な勢ひで信者を獲得した。

 ザヴィエルが薩摩に教会を建てゝから二年ばかりの間に、九州や山口などで、五千人程の信者が出来た。

 信長は、本願寺の勢力を制する為めと、外国の新知識、文物を入れる為めに、吉利支丹宗を保護した。

 秀吉も、信長の方針を踏襲して、宣教師を保護し、キリスト教の伝道を放任した。「日本西教史」によると、秀吉は宣教師の一人に向つて、殿中の侍女のうちキリスト教を信ずる者は操行端正である、キリスト教の宗規がもつと寛大であれば、自分も信者になると言つたと伝へてゐる。

 従つて、諸大名の間にも、キリスト教の信者が多くなり、九州の大友・有馬・大村などはローマ法王に使節を出すと云ふ熱心さであつた。高山右近、石田三成、小西行長、黒田孝高よしたか、細川忠興たゞおき、その夫人なども、有名なキリスト教信者である。

 ところが、大村純忠すみたゞが財政に苦しんで、宣教師に金を借りて長崎を奪はれたことから、天正十五年、秀吉は、ポルトガルの宣教師を追ひ払つた。慶長元年には、イスパニヤが領土を狙つてゐるとの疑ひから、吉利支丹キリシタンを禁じ、宣教師や信者を殺したが、家康は、又、初期の間、貿易の利益を得る為めに、吉利支丹キリシタンを黙認した。その結果、九州・畿内の各地に、教会・ミッションスクールが出来、ラテン語、ポルトガル語、地理、文学、西洋音楽などが伝へられた。

 が、幾何いくばくもなく、宣教師はキリスト教を伝道して日本を侵略する下心ありとして、家康は、慶長十七年、天下に令して、キリスト教を厳禁し、外国宣教師をこと〴〵く海外に追放した。

 然し、外国商人が裏面で布教し、国内のキリスト教信者の反抗も意外に強かつたので、三代将軍家光は、数度にわたつて、外国商船の往来を禁じ、遂に、寛永十六年(紀元二二九九
西暦一六三九
)七月、和蘭オランダ人と支那人を除く他の外国人との貿易を一切禁止したのである。


江戸幕府の構成


 徳川家康は、秀吉の死後十五年も待つてゐたが、余命が幾ばくもないことを覚つて、遂に秀吉の子秀頼を大坂城に攻滅こうめつした。

 百年間も戦乱の舞台にされてゐた社会の全体は、戦争には厭き〳〵してゐたから、家康が立てた江戸幕府は、その徳性はともかくとして、天下安定の重鎮としては大磐石だいばんじやくであつたから、平和に飢ゑてゐた人心は、これに帰して行つたのである。

 江戸幕府の政策に一貫してゐる精神は、善政も悪政もない。自存であり自衛であつて、徹頭徹尾徳川本位である。

 家康は、頼朝の鎌倉幕府の組織に傾倒したが、単なる模倣はしなかつた。旧制度の研究に熱心ではあつたが、法制道楽ではなかつた。彼は時代に順応して巧みにこれを参酌した。彼は天才的な立法者であり、巧妙な運用者であつた。だから家康が立てた政治の根本方策は、「神君しんくんが定め置かれた通り」に自動的に適用されて、代を経るに従つて、どこまでも巧緻精妙化されて行く力を内蔵してゐたのである。

 家康は、鎌倉幕府や室町幕府の政策の跡に鑑みて、皇室に対し奉つて十七箇条の公家諸法度くげしよはつとを制定し、陽には尊崇して陰には圧迫した。天皇に専ら花鳥風月の学問を御奨めし、天下に行ふべき経世有用の学は、それとなく御止めしてゐるが如きである。その他、皇室に対しては、色々誠意を欠いてゐる。

 諸大名に対しては、ひそかに婚姻するを禁じ、築城や無届の修築を禁止するなど、十三箇条の武家諸法度を厳に励行させた。福島正則の家や、加藤清正の家は、この法度に触れて断絶した。

 江戸幕府の制度は、外面は最も地方分権的体裁を示してゐるが、内面は最も精緻な中央集権制で、自領内では行政権、警察権をもつてゐる百万石の大名も、幕府の一片の命令で蟄居ちつきよ国替くにがへ、減石、断絶せしめられるので、その何れも今の内閣が地方官の変更任免を奏請するよりも、まだ容易であつた。かうして、幕府は諸大名が臣事するも支持しないも問題でない。自身の財力と兵力とで絶対的に服従させたのである。これは、家康が手本とした頼朝さへも、企て及ばないところであつた。

 江戸幕府の制度が整備したのは、三代の家光の時代で、その職制は、幕府の重職に大老、老中、若年寄の三役があり、その下に三奉行がある。

 大老は一人で、諸役の上にあつて大事を総裁した。これは適当な人物がなければ、いたまゝであつた。老中は年寄とも云ひ、譜代の五、六万石から十万石の大名を任じ、一切の政務を執り、大名の取締をつかさどつた。定員は五人である。若年寄は、老中の見習のやうなもので、旗本の取締りをした。定員は六人で、五、六万石の譜代大名が任ぜられた。三奉行は、寺社、勘定、江戸町奉行の各奉行である。

 大目附、目附は、それ〴〵老中、若年寄の耳目となつて諸大名及び旗本を監掌した。何れも旗本の士を任じたのである。

 側用人は、初めは将軍に近侍して老中へ取次役をしてゐたのであるが、後には五代綱吉の時の柳沢吉保のやうに、政事に参与して、権勢を振つた。やはり大名を任じたのである。

 地方行政機関としては、幕府直轄領に郡代または代官を置いた。特に京都には所司代を置いて、朝廷守護の名の下に、公家及び畿内以西の大名を監視させたのである。なほ、大坂と駿府には城代を置き、その下に町奉行を置いた。この外、奈良、伏見、山田、日光と、金銀山の佐渡、貿易港の長崎、堺、下田等にも奉行を置いたのである。

 大名の取締りは最も重要問題だが、徳川氏の一族たる親藩と、関ヶ原役以前から家臣であつた譜代と、関ヶ原までは徳川の朋輩であつた外様とを、大小親疎に従つて、その領土を犬牙錯綜させて配置し、牽制の妙を極めたのである。

 又、参覲さんきん交替は、信長、秀吉の時にも、安土や大坂に諸大名が邸を置いて滞留したことがあつたが、家光の時代に制定したものは、全大名の大がかりな定期点呼であり、人質制度でもあつた。この参覲交替は、諸大名の財政難や地方の疲弊など、いろ〳〵な弊害も生んではゐるが、国内要路の発達とか、貨幣制度及び流通組織の急速な発展、地方産業の振興、都市の繁栄、中央文化の地方伝播など良い意味での副作用をも起してゐるのである。

 又、徳川幕府は、頻々として諸大名の移封を行つたが、それは鎌倉、室町の時代のやうに、諸大名を同じ領地に定着させては、中に財政家がゐて民心を得、富強を致す者ができては、江戸幕府が危いからであつた。


尊皇思想の勃興


 家康、秀忠、家光と、江戸幕府三代の将軍は、朝幕問題、諸大名問題、切支丹キリシタン問題、外国との通商問題、その他法制、経済、教化などに腐心してゐたが、彼等は幕府の政権の永続化を図る以外、何等高遠の理想を持つてゐなかつた。そのために、日本の民族的発展の機運を阻害した点が甚だ少くないのである。

 その上、織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ、皇室に対する純粋な敬意を持つてゐたが、徳川氏はそれを継承せず、徳川家康にしろ秀忠にしろ、皇室に対して、終始政略的であり、江戸幕府の朝廷に対する態度は、国史を読む者にとつて、痛憤を感ぜしむる点が、甚だ多いのである。後水尾ごみづのを天皇の


葦原やしげらばしげれおのがまゝ

   とても道ある世とは思はず


 の御製に依つても、幕府の横暴が察せられるのである。

 然し、天下の政権を握つた徳川家康が、治国の道徳的基礎として、従来の戦国武士道を、学問に依つて、新らしい君臣道徳に体系づけようとしたことは、やがて天下の武士に、君臣の大義名分を知らせることに役立つた。彼等は自分と主君との名分を知ると共に、主君と将軍との名分を知り、それと同時に将軍と朝廷との間に、より一層大なる名分の存在することに気がついたのである。

 幕府の学問奨励に依つて輩出した江戸時代初期の大儒たる山鹿素行、熊沢蕃山ばんざん、山崎闇斎あんさい等は、漢学に伴ふ支那中心の思想を清算し、日本の学者たる自覚を獲得すると共に、日本主義に徹底し、日本の国体の尊厳なる所以ゆえんは、尊崇すべき皇室あるが為めだといふ結論に達してゐた。

 聖徳太子が「日出処ひいづるところの天子」と書かれた国体精神が、北畠親房の「大日本は神国なり」の神皇正統記となり、而して之等これらの学者に正しく承け継がれてゐたのである。

 幕府が、御用倫理学と頼んでゐた朱子学派の山崎闇斎が、尊皇賤覇思想の一つの源とさへなつてゐるのである。

 かうして、江戸幕府が、自家の道徳的立場を擁護せんとして奨励した学問は、国体観念を勃興せしめ、それと不可分なる尊皇思想の擡頭を誘起してゐるのである。

 しかも、徳川の御三家として、その藩屏はんぺいたるべき、水戸の徳川光圀みつくにの好学は、大日本史の編修となり、其の中に現はされたる大義名分の精神は、勤皇思想の温床となつてゐるのである。

 しかも、その修史の事業は、当時に於ける国史の定本を提供したと云ふだけではなく、水戸三十五万石の財力を傾注したと云はれる編史事業そのものが、学問の奨励となり、学者の優遇となり、国史の研究を促し、国学勃興の動因となり、尊皇精神の昂揚に多方面から寄与してゐるのである

* 義公以来連綿として続いた水戸の藩学は、会沢伯民、藤田東湖の二碩学せきがくの出現により、鬱然たる体系をなし、後世、水戸学と称されて、尊皇論の中核となつてゐる。

 水戸学の定義を強ひて定めるなら、それは大義名分の学であり、皇道第一主義の思想である。その背後には、大日本史と云ふ力強い史論を持ち、その実践方法に於ては、あく迄も実行第一を主として、この点では、陽明学の実践主義も遥かに及ばない位だ。

 その思想の中心が、国体明徴だから、勢ひ覇者である幕府否認に傾き、しかも、それをどし〳〵実行したのであるから、幕府に取つてこれ程恐ろしいことはない。

 井伊直弼なほすけが安政の大獄で狂気じみたテロリズムを行つたのも、この勤皇思想の中核水戸学の総主たる斉昭なりあきを押へる為めだつたのだ。

 水戸学の基礎を大体築いたのは藤田幽谷いうこくだが、これを体系ある思想として完成したのは、その高弟である会沢伯民と、その子である藤田東湖である。

 会沢伯民は、いみなやすし、通称正志斎とも言はれた。東湖その他の水戸学者の稜々たる野性ぶりとは違つて、温厚篤実、心の底からの学者肌の人であつた。

 後進を戒めて、常に、

「口を以て書を読むことなく、心を以て読め。」

「士は弘毅でなければならぬ。弘なるが故に之に安んじ、毅なるが故に少しもたわまない。」

 などと、佳い言葉を遺してゐる。

 然し、何と言つても、彼の名を不朽にしたのは、四十四歳の時に著した「新論」だらう。

「日本国民のすべては、何を措いても、日本国体の自覚の上に立て。」

 と云ふのが「新論」の冒頭で、正志斎が絶叫した趣旨である。その巻一の初めには、

「謹みて按ずるに、神州は太陽のづる所、元気の始まる所にして、天つ日嗣ひつぎ、世々、宸極しんきよくを御し、終古かはらず。もとよりに大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠に宜しく宇内うだいに照臨し、皇化のおよぶ所、遠邇ゑんじあることなかるべし。」

 と、堂々、日本国の優越を宣言してゐる。

「新論」は、熱血溢るゝ当時の勤皇の志士達には、経典の如く読まれ、奮起の原動力となつた。

 吉田松陰は、肥後の宮部鼎蔵ていざうと手を携へて上京する船中でも、この「新論」を読んで感激措く能はず、幾度も船中で雀躍して、快哉を連呼したさうだ。そして、会沢に逢ひたくてたまらず、遂に水戸の寓居を訪れて、その謦咳けいがいに接して、

「吾れ今にして皇国の大道を知れり。」

 と述懐し、

「会沢先生は、人中の虎なり。」

 と、死ぬまで、敬慕の念を寄せてゐた。

 高杉晋作は、「新論」を読むと、すぐ藩公の世子に献上してゐるし、真木和泉は、「新論」を読むや、矢も楯もたまらず、水戸へ出掛けて、会沢門下に加はつてゐる。

「新論」の名声は天下を風靡して、「新論」を読まざる志士なく、「新論」を読んで勤皇志士たらざる無し、と云つた有様であつた。

 会沢は、水戸の南街塾で、諸国から集まる好学の志士を教導しながらも、万巻の書に埋り、清貧の中に、文久三年八十三歳の天寿を全うして生涯を終へた。

 藤田東潮は、会沢の学者肌に対して、むしろ、悲憤慷慨する稜々たる気骨の政治家肌の男であつた。東湖は、天下の諸侯有司志士と交はつて、積極的に水戸学を鼓吹した。

 西郷隆盛は、大先輩として、事ごとに東湖を敬ひ、「天下真に畏敬すべきは、東湖先生である。」と晩年に至るまで語つてゐる。

 東湖は、土佐の豪傑殿様山内容堂とは非常に親密で、常に置酒高会ちしゆかうくわいして、盛んに時勢を語り明したが、或る時、「水戸は親藩でダメだが、山内侯一つ幕府に対して御謀叛ごむほんなさつては如何でござる。」

 と云つて、容堂の荒胆をひしいでゐる。

 東湖の著書で、有名なものは、「常陸帯ひたちおび」「囘天詩史」「弘道館述義」「正気歌」などである。中にも、「囘天詩史」「正気歌」は、維新の志士に愛誦好吟されてゐる。

 東湖の政治的活動には、常に、藩主、烈公斉昭の推輓がある。

 之を要するに、水戸学は、会沢伯民、藤田東湖に至つて大成し、しかも、これに配するに烈公斉昭といふ当時の諸侯中の冠冕くわんべんを得て、一藩をあげて、鬱然たる反幕府の一大中心となつてゐたのである。


国学の興隆


 江戸時代に勃興した学問で、わが日本の社会に最も大きな影響を与へたものは、第一に国学であり、第二に洋学であるが、この国学の興隆に、直接有力な刺戟を与へて国学復古の気運をつくつたのは、前章に説いた如く水戸光圀の修史事業であつた。

 光圀は大日本史の編纂に当つて、和文の本原をたづねて古語を研究する必要を感じて、日本全国にその史料を捜討さうたうし、それを整理した。すなはち、扶桑拾葉集ふさうしふえふしふや、礼儀類典れいぎるゐてんや、神道集成しんたうしふせいを編纂し、さらに万葉集の研究に手をつけたのである。このことは、日本の国典研究に大きな影響を与へ、難解とされてゐた国学書、就中なかんづく国文学書の一般的研究に、一筋の道をひらいたのである。

 当時、大坂に下河辺長流しもかうべながる釈契沖しやくけいちゆうのやうな古典古語に通じた篤学の人々があつて、はやくも光圀の物色するところとなつた。

 その上、漢学者も刺戟されて国学の必要を感じ、古典研究に余力を用ゐるものが多くなつたが、新井白石や伊藤仁斎じんさい、貝原益軒えきけんなどは、その主なるものである。

 長流、契沖についで現はれた専門の国学者に荷田春満かだのあづまゝろがある。

 春満の家は代々京都伏見稲荷山の祠官である。彼は家を弟に継がせ、自らは国学の復古を以て任とし、国史、律令、古文、古歌および諸家の記伝に至るまで渉猟せふれふした。

 当時は支那かぶれの荻生徂徠をきふそらいが、日本を東夷とういと称してゐた時代だが、春満の「ふみ分けよ、大和にはあらぬから鳥の、跡を見るのみ人の道かは」の一首は、実に彼の一生の抱負であるばかりでなく、門下から門下へと伝承して行くべき建学の根本精神であつた。彼は契沖のやうな後援者を持たない一介の町学者でありながら、独力で契沖とは別の方面において古学を開拓した功労者である。そして彼が遺した功績の中で、最大のものは、彼が樹てた学統から、賀茂真淵かもまぶち本居宣長もとをりのりながのやうな偉大な復古学者を輩出させたことである。

 真淵は遠江とほたふみ浜松の新宮の禰宜ねぎ岡部定信の二男で、享保十八年三十七歳で京都に出て、荷田春満の門に入つた。足かけ四年で師の春満は死んだが、平田篤胤あつたね玉襷たまだすきの中で、


荷田の門の人も多かりしと聞ゆる中に、一人ぬけ出て、その正意をば得られてぞ有りける。其は荷田の門に大人うし(真淵)をおきて、外に大人の如く、師に勝れる人なきにて知るべし。


 と、評してゐる。

 その門下にも加藤千蔭ちかげや村田春海はるみのやうに、国典の研究者といふよりは、むしろ歌文の秀才が輩出した。真淵の学統を真に受け継いだ者は、本居宣長唯一人と言つてもよい。それだけに宣長は、国学の真精神、大眼目を、いかにも鮮明に照し出してゐる。

 彼の著書「玉くしげ」に、


 凡て天下の大名たちの、朝廷を深く畏れ、厚く崇敬し奉り玉ふべき筋は、公儀の御定めの通りを、守り玉ふ御事勿論也。然るに朝廷は、今は天下の御政を、きこしめすことなく、おのづから世間に、遠くましますが故に、誰も心には、尊き御事は存じながらも、事にふれて、自然と敬畏の筋、等閑なほざりなる事も、無きにあらず。そも〳〵本朝の朝廷は、神代の初めより、殊なる御子細まします御事にて、異国の王の比類にあらず。下万民に至るまで、格別に有りがたき道理あり。(中略)されば一国一郡をも治め玉はん御方々は、殊更に此子細を御心にしめて、忘れ玉ふ間敷まじき御事也。是即ち大将軍家への、第一の御忠勤也。いかにと申すに、先づ大将軍と申奉まをしたてまつるは、天下に朝廷を軽しめ奉る者を、征伐せさせ玉ふ御職にまし〳〵て、此ぞ東照神御祖命あづまてるかむみおやのみことの御成業の大義なればなり。


 と、いつてゐる。仍ち宣長は自分が仕へてゐる紀州侯に向つて、朝廷尊崇は幕府に対する第一の忠勤であると説いてゐる。彼は将軍職を、朝廷のために不義不逞の徒を討伐する役目で、幕府は独立して存在するのではなくて、朝廷のために存在するのである、と大義を説いてゐるのである。彼が師の真淵を超えて、国学者の魁首とされた所以ゆゑんである。秋田の人平田篤胤は、宣長の門に入つて二箇月にして宣長が歿し、親しく教へを受けることができなかつたが、宣長を先師と尊んで、その遺著によつて国学を励み、さかんに尊皇愛国の精神を鼓吹した。

 篤胤は、春満、真淵、宣長と共に国学の四大人と呼ばれてゐるが、その尊皇愛国主義の主張は実行的であつたために、幕府に忌憚され、天保十二年江戸を逐はれ、秋田に帰郷を命ぜられ、その著「扶桑国号考」は絶版となつた。


ふみわけよ大和にはあらぬ唐鳥の

   跡を見るのみ人の道かは
荷田春満

みたみわれ生れけるかひありて刺竹さすたけ

   君がみ言を今日きけるかも
賀茂真淵

さしいづるこの日の本のひかりより

   高麗もろこしも春をしるらん

本居宣長

人はよしからにつくとも我が杖は

   やまと島根にたてんとぞ思ふ

平田篤胤


 国学の研究は直接的には江戸幕府の脅威ではなかつた。多くの国学者も幕府には何等の反抗的思想を懐いては居なかつた。だから幕府は国学に対して幾分の保護を加へてゐるほどである。

 併し、国学の究極の観念は、皇室中心主義である。幕府絶対中心主義とは根本的に相反するのである。

 この尊皇思想は、江戸幕府の内部的な矛盾が発展するにれて、国学の大先輩たちも予期しなかつたほどの国民的な力と化して、七百年も続いた武家政治を根柢からくつがへすやうな偉力を発揮したのである。


江戸幕府の衰亡


 江戸幕府は、三代将軍家光に至つて、あらゆる機構が整ひ、武家政治は完成された形を示したが、五代将軍綱吉に至つて、幕府の太平が謳歌される傍ら、綱吉の偏執的な性格や、生類憐愍令れんびんれいや、悪貨鋳造などからの影響もあつて、太平の余弊たる享楽主義が天下を風靡した。尤も、そのために学問、文芸、演劇、美術、商業など、文化的な方面は発達したが、戦国伝来の律義な武家精神は早くも凋落してしまつたのである。

 その後も庸主が続いたので、幕府の政治的機構は、生気を喪つてしまつたのである。偶々たま〳〵八代将軍吉宗は、紀州侯頼宣よりのぶの孫ではあるが、わづか三万石の領主から、宗家を嗣ぎ、更に将軍になつただけに、天成の英才であると共に、下情に通じ、家康創業の精神を以て、幕政の改革、風俗の矯正に努力し、足高たしだかの制(従来は、千石の者が、三千石の役高の職に就くと、永久に三千石になつてしまふのを、吉宗は、在職中だけ差額二千石を給することにした。幕府の財政の膨脹を防ぐと共に、少禄の者を抜擢するためである。)目安箱(投書箱)の設置など、大いに善政を敷いた。

 江戸幕府の命脈は、彼に依つて、延長されたに違ひないが、幕府制度の本質内に含まれてゐる欠陥は、如何ともすることが出来なかつた。

 江戸幕府の中心思想は、封建的農業主義である。が、日本の土地の広さは一定してゐるし、農事の技術も百年一日の如しであるから、農産額などは、殆んど増さないのである。これに反して、都市の発達に伴ふ近世的な商業は、発達して行く一方である。

 これでは、土地所有を基礎とする武士階級の経済力が、商業すなはち町人に支配され、その政治的位置までが、動揺を来すことは当然である。幕府創設以来百年に足らずして、熊沢蕃山は、「今は、大小名とも借銀が多からざるは稀なり。」と云つてゐる。その借銀は、主として大坂の町人から借りたのである。

 むろん、町人に借りる前に、家臣達の知行米を借りたから、小身の武士は、仲間ちゆうげんも置けないし、種々の内職さへもした。旗本の間では、町人から持参金のある養子を貰つたりした。

 現在でも、経済力の伴はない軍備などは考へられないが、昔でも同じ事である。昔の武士は、千石について約三十人の兵を連れなければならない。平生から、それだけの人数とそれに必要な武器とを用意しなければならない。が武士が貧乏してしまふと、人を養ふことが出来なくなるし、持つてゐる武器も手放すわけである。役儀上、ぜひとも人数を揃へなければならない場合は、やとひ人足を頼むわけである。

 恩顧譜代の家の子郎党に取り囲まれた鎌倉時代の武士と比べると、幕末の武士達は、もう武士でなくなつてゐるわけである。

 それに、武士は田園に発達したものだ。土地に固着して、半兵半農で武をつたところに、武士の本領があつたのである。土地を離れ、都会に定住し、柔弱な側用人や腰元などに取りまかれてゐたのでは、知行取りで、今の高級サラリーマンと同じで、もう武士ではないのである。だから、律義一徹な三河武士の子孫たる旗本八万騎も、単なる消費階級として、幕府の足手まとひになるだけで、もう軍隊ではなくなつてゐるのである。これでは、幕府の威信は地に墜ちるばかりである。


勤皇思想の勃興


 其処へ持つて来て、勤皇思想の勃興と外交問題とが、時代の激浪として、幕府に迫つて来たのである。

 結局これが幕府の命取りになつたのだが、三代の家光の鎖国以来百五十年の間に、世界の形勢は一変してゐた。

 鎖国当時、ヨーロッパ資本主義は、葡萄牙ポルトガル人を先駆として東洋の印度インドや支那や日本に力を伸して来たが、今はすでに英国が葡萄牙ポルトガルしりぞけ、和蘭オランダを圧して、東洋貿易を独占しようとして、支那と交易し、南方から日本に迫らうとしてゐる。ロシアは五代綱吉時代にカムチャツカを収めたが、つひに我が千島列島を侵し、女帝エカテリナは日本語の研究をやらせてゐたといふくらゐだから、北海道を手に入れようと窺つてゐたのである。

 仏蘭西フランス革命も、イギリスの産業革命も、アメリカのフルトンの蒸汽船の発明も、十一代家斉いへなりの寛政、享和、文化の頃である。

 世界の交通が大規模となつて、ヨーロッパ人の東洋経営が猛烈化し、フランスの安南占領、イギリスの印度インド攻略、阿片戦争、ロシアの黒龍江地方の経営等が行はれてゐた。かうして世界資本主義の波は、東洋の一隅で鎖国の惰眠を貪つてゐる日本の周囲に、ひた〳〵と押し寄せたのである。

 幕府維持の最大綱目は、幕府中心主義と、日本孤立主義である。

 幕府中心、将軍絶対主義は、勤皇思想の勃興によつて動揺しようとしてゐるし、農業的鎖国の徹底によつて維持しようとした封建的大土地所有制度は、今や世界商業資本主義流入の急潮によつて、脅かされてゐるのである。

 元来、勤皇思想は国体観念と聯繋してゐるのだが、外国問題も、当然国家意識を喚起させた。だから国防思想は勤皇思想と融合し、国防論と尊皇論とは抱合して、尊皇攘夷論となり、やがては討幕の大運動となつて展開するのである。

 大名の中での攘夷論の第一人者は、水戸の徳川斉昭なりあきで、嘉永六年六月にアメリカの提督ペルリが軍艦四隻を率ゐて浦賀に入港し、国論が沸騰したときに、大砲七十四門を幕府に献じて世人を驚かせた人である。だから水戸は尊皇攘夷論の中心地になつた。

 ペルリの軍艦は、二隻は帆船で二隻は風力と気力兼用のものだつた。いはゆる黒船くろふねの砲声や黒煙は、手槍や火縄銃を持つ沿岸警備の武士達を驚駭きやうがいさせた。

 洋学によつて海外の事情を学んでゐる者は、攘夷の無謀を知つて、開港の意見を抱いてゐた。渡辺崋山くわざんや高野長英等はそれで、彼等は尊い開国の犠牲となつて徳川幕府の手に仆れた。

 安政元年ペルリは再び浦賀に入港して、前年提出した通商条約の国書の返答を求めた。つひに日米間に神奈川条約が締結され、下田及び函館の二港が互市場ごしぢやうとして開かれて、安政三年には米国領事ハリスが、米国旗を掲揚して下田に駐在した。同四年には江戸、大坂、兵庫、新潟の四港を開くことが約され、同五年には、イギリス、ロシア、オランダ、フランスとの通商条約が結ばれた。

 翌六年には横浜、神奈川、函館の三港が開かれた。

 かくして、外国を恐れた幕府は、鎖国主義の本家でありながら、事なかれ政策のために開国してしまつたのである。とにかく、外交問題は幕府にとつて致命傷となつた。国内は開国論と攘夷論とで沸騰した。

 併し、開国論者といへども、幕府の態度を支持したのではなくして、当初から進歩的な鎖国排撃論者であつた。又攘夷論者も、鎖国主義的攘夷論でなくて、国家の面目をきずつけ、国体の尊厳をやぶり、国民の意気を挫く脅迫的開国、城下の盟約開国に悲憤慷慨する尊皇愛国的な攘夷論者であつた。開国論の大先達と言はれる横井小楠せうなんの如きも、その一人であつた。尤も、中には到底不可能な攘夷の実行を迫つて、幕府を窮地に追ひ詰め、詰腹を切らせようとする倒幕戦術としての攘夷論者もあつた。

 そして、その間、島津久光の家来が横浜郊外の生麦なまむぎでイギリス人を斬つたり、浪士たちが品川御殿山の外国公使館を焼いたり、イギリス船が下関や鹿児島を砲撃したやうな事件も起つた。

 そして又、梅田雲浜うんぴん、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎を始め多くの勤皇家が惨殺された安政の大獄や、その報復としての桜田門外の井伊大老襲殺の壮挙があつて、やがて薩長の聯合は終に倒幕の実現となつたのである。

 幕府が、百五十年に亙つて厳守して来た鎖国政策を、案外容易に放棄したのは、幕府絶対中心主義の根本が、経済的には商業資本主義による町人の興起と、武士階級の財政難、思想的には、尊皇思想の全面的勃興、この二つによつて動揺し出し、鎖国の効果も減じて来たからだと思ふ。

 併し、外交問題は、幕府倒壊のモメントとなつた。江戸幕府を直接くつがへしたものは、創業の家康が極度に恐れた外様とざまの雄藩、強藩ではなくて、志士と呼ばれる下級武士の活躍であり、大頭鯨だいとうくじらを追つて来た船を保護するために、アメリカ政府が持ち込んだこは談判であつた。

 かくして日本が世界歴史の発展から孤立するといふ矛盾は、こゝに全く解消されると同時に、日本民族の理想たる天皇親政は、頼朝以来実に六百七十六年にして、本来の姿で永遠に再現するに至つたのである。

* 剛直漢掃部頭かもんのかみ井伊直弼は、安政五年四月、大老職に就くや、矢継早に、反動的な改革を強行して、勤皇の志士の憤激を買つた。

 殊に、将軍継嗣問題と通商条約問題とでは、井伊の傲岸不遜は言語に絶した。

 当時の輿論たる一橋慶喜よしのぶを将軍世子に就けることに反対して、紀州慶福よしとみを推したことと、勅許を待たずして日米条約に調印したことである。

 孝明天皇は、その非礼に、いたく逆鱗げきりんあらせられ給うたのであつた。

 天下の志士の井伊弾劾の叫びは、嵐の如く捲き上つたのである。

 この時、井伊の輩下たる間部詮勝まなべあきかつと長野主膳は志士の裏を掻いて、京都のアンチ井伊の主魁と目された頼三樹三郎・山岡慎太郎・梅田雲浜等を捕へた。

 次いで、志士追及の疾風は、枯葉を捲くやうに、京洛の地を払つた。

 六角の獄舎は、志士達で埋まつてしまつた。捕へられた人々の中には、公卿の諸大夫、宮方の青侍、処士、町人、画家、近衛家の老女村岡もゐた。越前の橋本左内も、六角牢へ投げ込まれた。

 検挙の手は、堂上公卿の上にものびた。青蓮院しやうれんゐんの宮、鷹司太閤、近衛左府、一條、二條、徳大寺その他数十家へ、慎み、落飾、辞官、出仕止めなどの横暴な断罪が下された。

 追捕つゐぶの手は、京都江戸のみにとゞまらなかつた。第二次、第三次と、全国に亙る検挙網は布かれて、多数の志士が捕縛された。

 事件に直接関係なく、長州の野山獄につながれてゐた吉田松陰もまたいましめられて、江戸へ送られた。

 江戸に集められた志士を裁くに、井伊は、閣老松平乗全のりやすを裁判長として、「五手掛ごてがかりの調」にとりかゝつた。これは、寺社奉行、勘定奉行、町奉行、大目附、目附を掛員として、評定所に開く、一種の特別裁判であつた。

 その時の拷問のひどさと、断罪の不合理は、言語に絶した。

 断罪に先立つて、梅田雲浜は病死し、日下部伊三次くさかべいさうじは拷問の為め死んだ。

 評定所組頭木村敬蔵が、

「この度の吟味は、人間の皮をかぶりさふらふ者にては出来申さず……」と書いてゐる位ひどかつた。

 安政大獄の第一回の処断は、主として水戸派、即ち、安島帯刀あじまたてはき鵜飼うがひ吉左衛門、幸吉父子がいづれも死刑を執行された。

 第二回は、頼三樹三郎、橋本左内、飯泉喜内の三人である。

 頼は、井伊派から、梁川星巌やながはせいがん、池内大学、梅田雲浜等と共に「悪逆四天王」と云はれて憎まれてゐた程の硬派だから、死罪は覚悟の上であつた。しかも、関東へ送られる途中、彼は少しもおそれる色なく、「日毎に軍鶏籠たうまるかごの中から酒を乞ひ酔眠すること平日と異らず」と云ふ程、腹の出来た人間だつたと云ふから流石さすがに頼山陽の子に恥ぢない。

 橋本左内は、攘夷令降勅の件には関係なかつたので微罪になると思はれてゐたが、彼は、堂々と裁判官に所信を披瀝して退かなかつた。二十六歳の天才児左内は、裁判官に大義名分を述べ「貴公達もさう考へないか」と大いに説教したのである。

 幕末の能吏、水野忠徳は、「井伊大老が橋本左内を殺したるの一事、以て徳川氏を亡ぼすに足れり」と喝破してゐる。

 吉田松陰の処刑は第三回目である。

「奉行死罪のよしを読聞せし後、畏り候よし恭しく御答申し、平日庁に出る時に介添せる吏人に久しく労をかけ候よしを言葉やさしくのべ」、正午、伝馬町の獄に帰つた。それから、かみしも紋附の上に荒縄をかけられ、刑場へ引かれたが、この時、松陰は同囚等への告別のつもりで、自筆の「留魂録」の冒頭の歌、

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも

   留め置かまし大和魂

 と、次の辞世の詩、

「吾今為国死。死不君臣。悠々天地事。鑑照在明神。」

 と吟唱した。

 刀を振つた浅右衛門は、「多くの罪人を切つたが、吉田松陰の最期程、堂々として立派なのは他になかつた。」と云つてゐる。

 安政の大獄は、安政五年九月から志士の逮捕を始め、六年十二月に一段落をつげた。その範囲は、上は親王、五摂家、親藩、大名から下は各藩の下士、浪人にまで及んだ大規模のものである。

 井伊の目標とする所は、勤皇志士を絶やし、水戸斉昭をやつゝけることであつた。勤皇運動の総帥斉昭さへ押へれば、朝廷や尊皇攘夷論者は参つてしまふと思つたのである。

 然し、尊皇攘夷思想は、そんな簡単なことで止まる可くもなく、却つて、益々、熾烈となり、井伊は、桜田事変で水戸藩の志士に復讐されたのである。


勤皇志士と薩長同盟


 明治維新に活躍した勤皇の志士の中でも、その忠誠や志操が、何等報いられずして、中途で斃れた人が、何と多いことであらう。吉田松陰、久坂玄瑞くさかげんずゐ、田中河内介、真木和泉、梅田雲浜、頼三樹三郎、有馬新七、松本奎堂けいだう、河上弥市、吉田稔麿としまろ、藤田小四郎、武田伊賀、入江九一、坂本龍馬、中岡慎太郎、その他無数である。これらの人々は、生き延びてゐたならば、その人物に於て、その功業に於て、伯爵や侯爵を授けられた維新の功臣達と、何の遜色もなかつたであらう。殊に、これ等の人の中でも、藩論に背いて行動した人や、徒手空拳で奮起した人や、神官や処士などで大事のために奔走した人達は、何の政略味もない純忠至誠の人々で、その悲壮な最期に対して、最大の敬意を表せざるを得ないのである。五十有余歳の高齢で、いはゆる天誅組に参加し、戦敗れて刑死した国学者伴林光平ともばやしみつひらなどの日記を見ると、耿々かう〳〵たる忠誠が、殆んど報いられてゐないやうな気がして、気の毒に堪へないのである。

 しかし、これらの人々こそ、真に明治維新の大業の礎石となつた人々で、明治、大正、昭和と三代の恩沢に恵まれてゐる我々が、決して忘れてはならない人々だらうと思ふ。

 かういふ人達に比べれば、尊皇討幕の大義名分が、全国を風靡した後、各藩の方針も定まり、それに依つて行動した人達などは、仕事も楽であり、一身の栄達も思ひのまゝだつたのだから、功臣であると同時に成功者であつたわけだ。

 明治維新の初期を彩つた、各地の討幕反幕の行動を挙げると、井伊直弼の首を挙げた桜田事件、閣老安藤対馬つしまを要撃してきずつけた坂下門事件、薩藩内部の同士討であるが、京都に、武装蜂起を企てた伏見寺田屋事件、中山忠光の大和義挙、澤宣嘉さはのぶよし、平野国臣らの生野義挙、そして元治元年の禁門戦争(はまぐり御門の変)などがある。

 これらのアンチ幕府運動の結果、果して彼等の期待したやうに幕府の勢力は地を払つたであらうか。

 成程、歴史の歩みは寸時もその歩調をかへず、その根本に於いては幕府の声威は日々に衰勢を見せてゐるが、表面に現はれたこれらの事件の結果は、必ずしも勤皇運動の伸張を意味するものではなかつた。

 元治元年の禁門戦争の結果は、いよ〳〵この反動的な時勢の動きを、露骨に示してゐる。凡そ無分別な長州勢の禁裡に対する発砲は、今まで勤皇運動の総本山とも云ふべき長州藩に対して、ハツキリと朝敵の烙印を押しつけた。勤皇側の公卿の参朝停止、これは有名な七卿落ちとなつて、惨憺たる急進派の敗北である。

 京都の市中は、今や勤皇の志士は全く屏息へいそくして、所司代の役人や、会津桑名の藩士、さては新選組の浪士たちが、肩で風をきつて、闊歩してゐる。

 更に、幕府は朝廷に請うて、長州征伐の師を起し、藩主毛利父子を謹慎させ、その封土から十万石を削らうとしてゐる。

 これらのことを大観すると、明らかに幕府勢力の復活といふことが云へると思ふ。尊皇攘夷の代りに、今や公武合体といふスローガンが尤もらしく振りまはされ、幕府は朝廷を擁して、天下の諸侯に昔日の威を以て臨まうとしてゐる。明らかに、頽勢挽回である。

 これは一体どうしたのであらう。これでは今までおびたゞしく流された勤皇志士の犠牲の血は、全く無駄ではなからうか。

 各藩の志士の中の頭のよい者は、かうした逆効果に反省して、今までのやり方の失敗に漸次気がつく者が出てきた。

 桜田事件、寺田屋事件、大和、生野義挙、蛤御門の変、水戸天狗党の擾乱ぜうらん──かう並べて考へてみると、それらの討幕テロの企てには共通した誤りがあつた。

 つまり、彼等は有志として蜂起し、擾乱を企てただけで、その背後に、少くともその成功を確信させるだけの実力を持たなかつたことである。自分たち同志だけで、先づ事を起せば、天下は自然に動いて、討幕が出来ると、簡単に考へてゐたことである。やせてもかれても、幕府はそんなに脆く崩壊しはしない。

 この誤りを再びくり返さず、討幕の大理想を実現する方法は、たつた一つしかないのである。それは、もつと実力ある者が一致して、幕府に当ることである。バラ〳〵ではダメなのである。

 つまりこゝろざしを同じくする雄藩が、今までの種々の行きがかりを水に流して、この際大同団結し、同盟を結ぶことである。もつと簡単に云ふならば、薩藩と長藩の同盟である。

 なるほど、今や薩長は仇敵の間柄と云つてもよい。長州兵の精鋭は、蛤御門の戦ひで、薩摩軍の銃火にかゝつて、沢山死んでゐる。薩奸会賊と云ふのは、当時の志士の標語であつて、薩摩は会津と同じく、佐幕の張本人と目され、その評判のわるいこと甚だしい。

 薩藩はしかし、果して佐幕であらうか。断じて否だ。たゞ長州や勤皇急進論者のやうに、過激でなかつただけだ。その耿々たる勤皇精神に於ては、一歩も譲るものではなかつたのである。目的は同じであるが、その手段に於て、異つてゐただけなのである。それから封建の世だけに、藩と藩との間の対立嫉視もある。彼等は一藩を以て一国とし、互ひに対峙してゐたのである。

 しかし、大体のコースとして、薩摩と長州とは、それ程深刻に憎み合はなければならぬ理由はないのだ。西国の雄鎮として、共に率先して勤皇の大義を唱へた両藩の先覚者の間に、それほど深刻な敵愾心てきがいしんがあるとは思へない。話せば分るのである。

 こゝ四五年の間の不幸な行きがかりを捨てゝしまへば、両藩の妥協は可能だし、提携も出来る。

 たゞ、薩摩でも長州でも、かう気づいてゐたが、責任ある当局者は、自分で先に言ひ出すわけにはゆかないのだ。

 この時、両藩の間に橋渡しをして、その提携の糸口を開いてやつたのが、土佐勤皇党の俊英、坂本龍馬と中岡慎太郎であつた。

 慶応元年五月六日、馬関へ長藩の巨頭桂小五郎(木戸孝允)を引つぱり出し、薩摩藩の代表、西郷隆盛に会はした。

 そして、薩長が互に肚の探り会ひをして、なか〳〵木戸、西郷の会見がまとまらないと、彼はかう云つて怒鳴つた。

「何がわが藩の面目、体面、名誉だ。もういゝ加減にしないか。あんた等は、まだ封建制度の幽霊を背負つてゐるか。此の大きな日本を何故忘れてゐるか。同じ日本の土地の上に、位牌知行を立て合ひ、わが藩、わが主人と、区別を立てて何になる。西郷も桂も、これ程馬鹿とは思つてゐなかつたよ。」

 さう言つて、西郷にぢか談判をして、この薩長秘密攻守同盟を締結させたのである。慶応二年一月二十一日のことである。

 しかも此の秘密同盟は、七十七万石と三十六万石の大藩が、漫然と一緒になつたのではない。この両藩を代表するに足る、西郷と木戸が、腹心を披瀝しあつて、討幕の役割を分担することを決めたのだ。

 その他に、土佐藩、越前藩、宇和島藩等の各藩も、これを機に一つに固まらうとしてゐる。

 坂本龍馬を仲介とする、西郷吉之助、桂小五郎両人の晴れやかな握手は、正に維新大業の出発点といつてよい。皇政わうせい復古運動の進展は、こゝに一段と拍車をかけられたのである。


明治維新と国体観念


 慶応三年十二月九日、明治天皇小御所に出御、諸卿諸侯を召見し給ひて、皇政復古のことを諭告し給うた。こゝに於て、明治維新のことは、一まづ形の上では成つたのである。

 この復古の大号令に先立つこと二箇月、徳川慶喜よしのぶは土佐の山内容堂の建白により、十月十四日に、政権奉還の表を奉つてゐる。

 薩長の攻勢はいよ〳〵激しく、このまゝでは幕府の瓦解は免れ難き情勢となつた。この時慶喜将軍は土佐派の公武合体、公議政治論を採つて、大政奉還と先手に出たのである。これでは如何に幕府打倒といきり立つてゐる薩長といへども文句がつけられないのである。

 しかし、薩長派の西郷、大久保、木戸たちは、たゞに大政奉還だけでは、ダメだと達観した。二百有余年の旧習に汚染した人心を振起するためにも、幕府にはどうしても武力を以て一撃を加へ、天下の人心を一新しなければ、新時代は来ないと見てとつたのだ。

 板垣退助などは「馬上でとつた徳川の天下だから、馬上でなければれぬ」と痛言してゐた程である。

 そして彼等は、さま〴〵の挑戦的行動をとつて、幕府側を怒らせようとした。江戸薩摩邸の焼打などそれだ。こゝに於て、衰へたりと雖も、幕府は依然として幕府だ。大坂に退いて謹慎してゐる慶喜をめぐつて、幕臣の激昂は渦をまき、伏見鳥羽の一戦となつて爆発、こゝに一箇年余に亙る戊辰戦争の幕は切つて落されたわけである。

 この薩長主戦派のやり方は、充分に理由はあつたけれど、しかし考へてみれば、ずゐ分危険な権道だつたとも云へよう。

 し慶喜が本当に肚を据ゑて、佐幕派の藩士を集めて、反薩長の旗幟きしを掲げてつたならばどうであつたであらうか。

 当時フランスは、ナポレオン三世の命を承けた公使ロセスが、積極的に幕府援助に乗り出してゐるのである。金も六百万ドル貸さう。軍事顧問も派遣すると言つたハリ切り方である。

 だから慶喜が、突如として大政奉還の挙に出ると、公使ロセスはすつかり呆れ、また驚いてしまつた。

「三百年も天下太平をもたらした徳川家が、兵戈へいくわも交へずして、こんなに簡単に政権をなげ出すとは、不思議千万である。欧羅巴ヨーロツパには、こんなバカ〳〵しい政変はかつてない。」と、福沢諭吉に語つたといふ。

 が、慶喜は、フランスの援助を拒絶したし、血気に逸る旗本の将士を慰撫し、あくまでも絶対無抵抗主義をとつて、慶応四年(明治元年)四月十一日には、本拠江戸城をも官軍に引渡し、郷国水戸に退いて、弘道館の一室に退隠してゐるのである。

 慶喜は烈公斉昭の子で、水戸学の精神で、幼時から育て上げられてきた人だ。皇政復古は皇国本来の姿で、これは歴史の必然だと観じてゐたのだ。薩長の専恣は、固より好むところではなかつたが、わが皇室が中心となつて、これからの日本は世界に乗り出してゆかねばならぬと信じてゐたことは、決して勤皇の有志と違ふものではなかつた。たゞ将軍といふ立場が、今まで歴史を逆行させる役目を担はせてゐたのである。水戸に退いて、はじめて、慶喜は、一日本人としての自分と、そしてその立場を得て、静かに時勢を眺め得るに至つたといへよう。

 攻められる慶喜に此の感懐があつたとすれば、攻める薩長側にも、称揚さるべき佳行があつた。

 フランスが幕府に力を貸したのと同じやり方で、英国の薩長援助は公然の秘密であつた。英国公使パークスは、機会ある毎に、薩摩に説いて、幕府及びその背後にあるフランスを打倒すべくすゝめ、その為めにはどんな援助でもするからと、もちかけてゐる。

 これに対して、薩長の領袖、西郷吉之助は何と答へてゐるか。

「戦争のことはとに角、日本の政体変革のことは、われ〳〵日本人だけで考へるべき問題である。外国の援助を受けるは面目ない。」とキツパリと断つてゐるのである。

 慶喜といひ、西郷といひ、わが国体といふ点にいたつて、その両極端の立場にも拘はらず、期せずして一致したわけである。外国をある程度まで利用しようと考へたであらうが、その国政干渉は一歩たりとも許さなかつたし、近づけもしなかつた。そこに維新史を流れる、日本人独得の力強い信念の流れを見るのである。以夷制夷いゝせいゝなど、所詮、日本人には出来ない芸当なのであらう。

 あれほどに激湍げきたん渦を捲いた、維新の政治史に於て、われ〳〵は此の日本歴史に特有な美談佳話を探さうとするならば、他にもいくつも挙げられるだらう。

 伏見鳥羽の戦争がまさに一触即発といふ時、大坂城に在る慶喜のもとへ、岩倉卿から一使者が遣はされた。孝明天皇御一年忌に際し、慶喜に対して献金のことを申出でたのである。恐懼した慶喜は、勘定奉行に命じて、直ちに五万両を朝廷に奉つてゐるのである。想へ、京都は今や薩長の精兵によつて充満し、幕兵一掃といきり立つてゐる時である。大坂城は、江戸から上つた竹中陸軍奉行の大軍によつて守られ、京都に対して、一戦に及ばんと、陣容を整へてゐる最中である。これらの物々しい空気の中にあつて、大坂城と京都御所を結んで、一脈清冽の気の相つらなつてゐるのを見る、われ〳〵日本人は如何に幸福であらうか。

 伏見鳥羽の一戦に朝廷の汚名を着た、徳川慶喜に対する処断は、当時諸説紛々で、初めの中は死刑論が圧倒的に多かつた。薩長の諸将は慶喜を憎むこと甚だしく、ぜひこれを誅戮ちゆうりくして、刑典を正さねばならぬと主張する者が多かつたのである。

 この時に於て、明治天皇は三條実美さねとみを召されて、徳川家の旧勲を失はざるやうに処置せよ、との有難き宸翰しんかんを賜うてゐる。

 これらの聖恩が、たゞに徳川氏をしてその家祀を全うせしめたばかりでなく、明治維新の大業をして容易に成就せしめた所以ゆゑんなのである。

 戊辰奥羽諸藩の処断に於ても、みことのりして今日の乱は九百年来の弊習の結果であると、大いに藩主等の罪をじよし、今後親しく教化を国内に布き、徳威を海外に輝かさんことを欲する旨を、告げたまうた。恐懼きようくの限りである。

 この洪大無辺の聖恩があつたればこそ、維新の戦乱も容易に鎮定されたのである。慶喜、西郷などの立派な国体観などもさることながら、一たび、明治天皇の御洪大なる大御心に思ひ及ぶ時、明治維新史の花を観る心持がするのである。


廃藩置県と征韓論


 明治元年正月の鳥羽伏見の戦ひで始まつた維新戦争は、翌二年函館の幕軍が降伏して、一段落となり、輝かしい天皇親政の御世となつたが、しかし天皇親政の障害となるものは、徳川幕府だけではなかつた。

 討幕の急先鋒となつた薩長二藩をはじめ、全国無数の大小各藩も、一君万民の理想のためには、やがて廃滅せらるべき運命に在つたのである。

 討幕のために奔走した勤皇諸藩の主従が、幕府の廃滅はやがて諸藩の廃滅となることを、意識してゐたかどうか、それはかなり疑はしい。幕府の代りに朝廷を戴いて、討幕の功績に対する恩賞をも受け、旧幕時代以上の威福をほしいまゝにしようと考へてゐた者も、絶無とは云ひがたいであらう。従つて、明治四年の廃藩置県までは、新興日本は非常なる危機にあつたと云つてもよい。一歩あやまれば建武中興の二の舞が演ぜられたかも知れないのだ。

 この形勢を、ハツキリと認識してゐたのは、大久保利通としみちである。明治二年四月、岩倉具視ともみ宛の書簡に、

「即今、内外の大難、危急存亡のとき切迫すること間髪を容れず、抑々そも〳〵昨年来一時の平和の形をなすといへども、大小藩主おの〳〵狐疑を抱き、天下人心恟々然きよう〳〵ぜんとして、その乱れること百万の兵戈へいくわ動くより恐るべし……」

 と喝破してゐる。たゞ、当時の各藩は、水戸の天狗騒動で、武田耕雲斎が、わづか数百の兵力で、中部日本を押し通るのを、傍観してゐたのでも分るやうに、軍備的に無力であつたのと、天皇親政の中央集権的情勢が天下を風靡してゐたので、利害的にも、人情的にも、至難と思はれた廃藩置県が、見事に断行されたのである。西郷隆盛が、

「お互に数百年来の御鴻恩、私情に於ては忍び難きことにさふらへども、天下の大勢かくの如く、全く人力の及ばざるところと存じ候」

 と、述懐してゐるのを見ても、当時の実情が分り、その局に当つた岩倉、大久保、西郷、木戸等の苦衷は察せらるべきである。が、この廃藩置県をはじめ、廃刀令、徴兵令その他明治政府の革新政策に対する武士階級の不平不満が、やがて、西南戦争その他の変乱となつて、勃発してゐるわけである。

 明治六年の征韓論に就いての廟議の紛糾は、当時の重臣間に於ける文治派と武断派との意見の対立ではあるが、武断派の思想的背景としては、西洋文明の輸入に快からざる保守主義的傾向、攘夷思想の変形である国権論、武士階級の撤廃に対する不満、薩長専制に対する不平などがよこたはつてゐることを見逃すことが出来ない。

 偶々たま〳〵、岩倉大使と共に欧米を巡遊して、その燦然たる文明の諸施設に驚嘆し、殖産興業に依る富国強兵の大策を、土産みやげとして帰朝した大久保利通の眼には、征韓派の主張は、時代知らずの書生論としか映らなかつたのであらう。彼が、断乎として反対したのは当然であらう。

 が、当時の征韓論は、たとひそれが当時の情勢から云へば無謀であつたとしても、やはり発展的日本民族の気魄であつて、この気魄があればこそ、後年日清、日露の大戦勝となつたのである。

 が、この征韓論の決裂に依つて、多くの反対勢力を野に放つた明治政府は、爾後数年間、苦難の道を歩まねばならなかつた。

 現在でも、学生間では、歴史的人物としては、第一に人気があると云はれる西郷隆盛の、生前に於ける大衆の輿望は想見すべきで、その西郷を魁首とした薩軍の蹶起は、明治政府にとつては、現在の我々が想像する以上の危機であつたのである。

 が、大久保を中心とする政府は、よくその措置を誤らず、徹底的にこれを鎮定して、明治政府の基礎を確立すると共に、新興日本から不平分子を一掃したのである。後年の立憲政治も、この安定した国情の上に築かれたのである。

 討幕から廃藩置県までの立役者は、西郷隆盛であるが、廃藩置県以後、変乱時代を通じて、その文明政策に依つて、近代日本を築いた大立物は、大久保利通である。


立憲政治


 明治時代に創始された立憲政治の起源は、維新当初の五箇条の御誓文である。いな、御誓文は、当時すでに実行されて、各藩選出の徴士ちようし貢士こうしが、後年の代議士のやうに国政に参与してゐたのである。たゞ、この公議政治がよく理解されず、政治の運行が円滑に行かないので、薩長の政治家達が、強力な藩閥政府をつくり上げてしまつたのである。

 が、既に、公議政治の何物であるかを知つた国民が、藩閥政府の専横を見るにつけ、国民参政の要求をなすのは、当然であつた。殊に、征韓論で破れた板垣退助が、立志社を組織し、国会開設の建白を成すや、人心が翕然きふぜんとして集り、自由民権運動が、天下を風靡した。

 が、五箇条の御誓文に依り、憲法を制定し、立憲政治を行ふといふことは、明治天皇の叡慮であつたと拝察してよい。

 されば、明治十二年の夏、アメリカのグラント将軍が来朝するや、明治天皇は、将軍を浜離宮に召されて、政治上の事を、いろ〳〵御下問になつたが、将軍の、

「承るところに依れば、日本にも国会開設の議論がある由、いづれ憲法を御制定になることと存じますが、何事も忌憚なく言上せよとの御沙汰であるから、申上げます。日本の憲法は日本の歴史及び習慣を基として、御起草あそばさるゝことこそ最も願はしく存じます。」

 と、いふ意見が、よほど御思召おんおぼしめしに叶つたやうであり、同年末には、立憲政治に就いて、山県有朋、黒田清隆、山田顕義あきよし、伊藤博文、大隈重信などの各参議に対して、意見の提出をお求めになつて居られる。

 この時の大隈の意見が、あまりに急進的であつたため、大隈は廟堂から追はれて、後年の改進党を組織したのである。されば、憲法制定、立憲政体の実施については、政府に於ても、明治天皇の大御心に依つてその大方針が確立してゐたのであるから、当時に於ける自由民権運動の騒ぎは、藩閥政府の強権に対して、不平分子が国会開設の名を利しての抗争とも見るべきであらう。

 憲法の調査起草に率先して当つたのは、伊藤博文であるが、その主旨とするところは、英仏流の憲法ではなく、わが国体を基礎とする「日本の憲法」であつた。伊藤は、憲法調査のために外遊し、憲法学者、独逸ドイツのグナイスト、墺国のシュタインに教へを聞き、仏蘭西フランス英吉利イギリスを歴訪して、参考資料をあつめて帰つた。

 当時の最高知識たる井上こはしは、金子堅太郎、伊東巳代治を率ゐて、その起草に惨憺たる苦心をしたのである。

 元来、憲法は、欧洲に発達したもので、民主的色彩の強いものである。それを日本に採用するについて、伊藤は渾身の努力を傾け、日本精神の根柢をなす、皇室中心の忠君思想を盛つて、日本独得の憲法を起草したのである。

 明治二十一年四月、憲法草案は、明治天皇の御前に奉呈された。天皇は、その草稿を御嘉納あそばされ、新たに枢密院を設けられ、国家の元勲と練達の士とを集めて、逐条御諮詢、その審議を聞召きこしめさるゝこと八箇月に及んだ。その間の御励精は、かしこき極みであつた。

 かくて、明治二十二年二月十一日、紀元の佳節を期して、わが万世不磨の大典は全国に発布されたのである。


日露戦争以後


 明治六年に、その時を得ずして、開花しなかつた征韓論の精神が、その時を得て花を開き、実を結んだのが、日清戦争であり、東洋に於ける日本の位置を確立した戦争である。しかも、戦勝日本の実力を築いたものは、大久保利通に依つて指導された殖産興業に依る富国強兵政策であつた。それと同時に、民意に基づく国民戦争を行ふについて、立憲政治がいかに有力であるかを示したのである。

 当時、官民朝野の反目甚だしく、国会開設以来、議会は闘争場の観があつたが、一旦開戦となると、国民はひとしく起つて、渾然たる一体となり、広島で開かれた臨時議会は、僅かに五分間で、当時としては厖大なる臨時軍事費一億五千万円を可決したのである。

 当時の新聞雑誌を見ても、国民の一致団結は、涙ぐましいくらゐであり、純粋素朴な愛国的感情が随処に、ほとばしつてゐるのである。精動運動を必要とするやうな現代の国民は、愧死きししてもいゝくらゐである。

 日清戦争に依つて、東洋に於ける位置を確立した日本は、その発展途上の宿命として、露西亜ロシアと、衝突せねばならなかつた。

 これは、当時としては、喰ふか喰はれるかの一大抗争であつた。

 日清戦争の終局に於て、三国干渉の首謀者として日本の遼東半島領有を放棄せしめた露西亜ロシアは、逆に旅順、大連を獲得し、まさに満洲を軍事的に占領し、更に朝鮮へも南下しようとしてゐるのである。もし、この形勢を甘受せんか、日本もやがて、彼の勢力下に蹂躙されたかも知れないのだ。

 これより先、日本は、日清戦争の苦き経験に教へられて、日英同盟を締結し、専心露西亜ロシアに備へてゐたのである。

 果然、明治三十七年二月八日、旅順に於て、第一戦の砲火が交へられた。開戦当初は、作戦当局にも確固たる勝算はなく、国家自衛のための決戦であつたが、戦争の結果は、海陸共に戦勝を重ね、遂に敵の戦意を挫折せしめたのである。

 媾和談判の結果は、国民の期待通りではなかつたが、結局露国は満洲を断念し、その東方政策を放棄し、日本は代つて満洲に大陸発展の第一歩を踏み入れたのであるから、実に満足すべき大成功と云つてよいので、一に大陸及び黄海、日本海に血を流した同胞の犠牲のおかげである。

 日清、日露両役を通じて、明治天皇が、軍国の御政務に御精励遊ばされた御様子は、畏れ多き極みで、幾多の御製を拝してもその一端を拝察することが出来るが、二箇年の歳月を経た日露戦争後には、戦前まで、漆黒であらせられた御頭髪が、半白にならせ給うたとの事で、恐れ多くも、六年後の御大患は、この戦争中の御過労に起因するとも云はれてゐるのである。

 国家の如何なる大事変に際しても、何人なんぴとよりも先に御軫念ごしんねん遊ばされるのが、上御一人であることを思ふとき、我々は三思して日本国民たる多幸を思ひ、奉公の誠を尽くすべきだと思ふ。

 日露戦争に依つて、世界に於ける日本の位置は、確立せられたが、第一次欧洲大戦に際しては、聯合国側に参戦して、東亜の安定勢力たる実力を十二分に発揮した。

 この辺から、日本は世界史の舞台に登場したわけで、ロンドン及びワシントンの軍縮会議などは、日本のかぎりなき発展に対する欧米列強の嫉視的工作であると云つてもいゝと思ふ。

 昭和六年の満洲事変は、日本が世界歴史をリードしようとしはじめたことを意味してゐる。満洲の一角に上つた現状打破の波紋は、旧勢力に依る国際聯盟を無力化し、伊太利イタリー独逸ドイツ等の活躍となり、世界新秩序形成の口火となつたとさへ思はれるのである。

 今や、わが日本は、世界新秩序の一角たる東亜新秩序建設に従事してゐる。「無賠償、無割譲」といふ道義的和平条件を正面に立てて、東亜諸民族の恒久平和の楽土を建設するために戦つてゐるのである。

 その目的は宏遠であると共に、日本始まつて以来の難事業である。しかし、この大業が達成せられるかどうかは、日本の国運をも、左右しかねないのである。

 我々は、先祖以来二千六百年来の皇恩を思ひ、現在日本国民たるの多幸を思はば、一致団結、今次の大業のために、身命を捧げ、以て二千六百年肇国てうこく以来の皇謨くわうぼを扶翼し奉るべきであると思ふ。

底本:「菊池寛全集 第十八巻」高松市菊池寛記念館、文藝春秋

   1995(平成7)年415日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:kamille

校正:成宮佐知子

2013年12日作成

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