日記
一九四八年(昭和二十三年)
宮本百合子



一月二十九日(木)

 午前七時四十分急行で、宮、京都、河上肇記念。すぐ信州にまわる一週間のヨテイ。

 多賀子帰ることにきまる。


一月三十日(金)

 豊島与志雄と対談

 酒をのむ人の話しかた、旧い知性の腰のぬけたするどさ、しみじみそれを感じ、一つのタイプを見た。

 アプリオリーにたよりすぎている。


一月三十一日(土)

 所得税申告十万円にして二万幾千を。昨夜計算したら十一万円以上未払い。

 宇佐美上京。

「道標」四まで終る 6

 ○こんどの宮の旅行は、家じゅうのもののためによかった。彼のためにも気が変ってよかったことを祈る。自分おちついて仕事したしうちのもの気分もまとまった、淋しくなかった。


二月一日(日)

 咲江、体にシッ疹が出来て春から秋までこまる由、尾崎さん、それは先天梅毒のケッカクということで我々は恐慌を生じた。咲江は可哀そうと思う。


二月二日(月)

 咲江、結核ヨボー会へやる。

 ○体の手入れをしてずっといさせることにする。一時大森さんにあずけるにしても。


二月三日(火)

 ○久しぶりで永見一家夕飯。

 ○山根印税全部もって来た

 ○仕事いよいよレーニングラードまで来た。94

 粉雪やみぞれ降る。


二月四日(水)立春

 ○江井芳三、病気キトク、紀さんに見マイ 1,000 タノム

 ○仕事八枚半(一〇二枚)

 百舌鳥もずのような鳥の声もした、きょうは初めてやぶ鶯の声がした、いつもの竹やぶで。


二月六日(金)

 江井死去

 ムシに殺されたとはおそろしい


二月八日(日)

 多賀子

 江井の葬式

 宮かえる。


二月九日(月)

 小説、いい気持になってしまいすぎていることが発見され、大童でこね直しに着手。


二月十二日(木)

 小説67枚わたす。


二月十四日(土)

 太平洋問題研究会のレポート、大森さんに手つだって貰って口述はじめる。


二月十五日(日)

  〃


二月十六日(月)

  〃

 お茶の水のキカン誌に「歳月」八枚かく。


二月十七日(火)

  〃


二月十八日(水)

  〃


二月十九日(木)

  〃


二月二十日(金)

  〃


二月二十五日(水)

 コマゴメ

 午後六─八


二月二十六日(木)
三月三日の「女の仕事」対談の吹きこみ。

 北海開発とかいう軽薄な男


二月二十八日(土)

 井草会出席


三月五日(金)

 太平洋問題研究会のレポート 130 大体出来上ってわたす。冒頭まだあとから十枚ぐらいつく。


三月六日(土)

 早朝7時40の汽車で宮、太田、岡山をはじめ山陰から山口の旅行に出発。

 午後図書館へ行ったら、間ちがって新聞を出し失敗。


三月七日(日)

 けさ、なかなか疲れておきられず。やっとひる近く行って、列に立って、三・一五のときの『朝日』を見た。


三月八日(月)

 出版協会文化委員会、かえりサンヤンへよろうとしてお茶の水の橋の上を歩いていたら卯女に会った、一人で歩いている、びっくりした。

 河出第一回の一万分もって来た。


三月九日(火)

 小説のつづきはじめる。


三月十日(水)

 三・一五記念のためのアカハタ文化口述。


三月十二日(金)

 午後三時半ハトの間、放送委員会出席。


三月十三日(土)

 多賀子がかえってあんまりさっぱりしたのにおどろく。


三月十五日(月)

 出版委員会 午後。


三月十六日(火)

 中日文化の話でリーさんと会う午後七時。


三月十八日(木)

 出版文化委。


三月二十二日(月)

 宮帰京、きのうの夜は十二時まで待ったが。太田さん電報うった由、ついたの見たらツゴウニヨリ二十二日かえる。


三月三十一日(水)

 友子が輝をつれて来た。

 ○友子がアキラにものをいう調子。ちっとも手を動かさず眼のよこから輝を見る。

 ○あの目つき。

 ○隆治のことをお母さんが河村に云わせた、というあのこと。

 ○隆治さんは信用のできる男と云ったらあの顔。

 ○Tは石のような女


四月一日(木)

 日本太平洋問題研究会への報告 250 枚わたす。


四月三日(土)

 すっかりおくれて三月はとんだ。


四月四日(日)

 宮、民主民族戦線の提唱者として各組合との懇談会を組織的に歩きはじめた。


四月五日(月)

 人民の作家ということはどういうことであるか、政治家とどうちがうか。人民の作家は政治家よりも人民の惨苦の中での激レイ者であり慰安者でなければならない。


四月六日(火)

 仕事


四月七日(水)

 仕事

 人民の作家としての自覚、責任感と義ム感の重さ。重さ

 心臓亢進して苦しくなった。


四月八日(木)

 新日本 中央委員会 欠席

 注射


四月九日(金)

 仕事

 注射


四月十日(土)

 仕事

 注射


四月十一日(日)

 仕事。

 宮珍しく在宅。

 注射


四月十二日(月)

 井草会欠席

 尾崎さんに井草会へ報告をもってゆかせる。

 ○仕事

  注射ヤスミ


四月十三日(火)

『毎日』の十一日のマッカーサーの祝辞に対しての感想をのべる、『毎日』。

 仕事。

 注射

 仕事がすんだらすぐ湯河原へゆくことにする。


四月十四日(水)

 注射

 仕事終り


四月十五日(木)

 すこしかき直し

 注射

 友子をかえらせるということをユリ一人が云っている、というので自分おこり出し宮、あの例のケイベツ。怒るよりもいやになる、という宮のあの表現、十二日、十三日と苦しくすぎて十四日にサラリ。


四月十六日(金)

 またかき直し41枚。

 昨日寿江子東大上野さんに診て貰い、糖がわるいと泣いた。

 注射


四月十七日(土)

 寿江子、すっかりうちで食事をすることにする。彼女としてはそうするしか仕方がないのだから。

 自分にムシがいることがわかってサントニンを貰った。


四月十八日(日)

 よくわからないがきいたらしい。体の中がぐたぐたになるような疲れかた、なおった。


四月十九日(月)

 放送委員会のあと、湯河原へもってゆくひもと思って銀座裏を歩き、こう云うところを歩いている人の心もちにおどろいた。

 放送委員会 加藤しづ枝の顔は閉口だ、キタナクなった。


四月二十日(火)

 寿江子に布地二反分 2300 にバタ代 1000 をやる。キホン食事のほかのバタ、チーズはこうして買うべし。


四月二十二日(木)

 議会文化委員会を中心に東宝の問題を懇談する会、宮、自分、野坂その他、衣笠、五所、木村その他、これを文化擁護の会とすることになる。酔いどれの天使を見る。


四月二十三日(金)

 きょう、湯河原へ立つ筈のところくたびれて駄目。荷物もしてなかったし。m、ひる飯をたべられず、かえるや否や『文学前衛』の速記さがし、大ぼやきにぼやき、風呂にも入らず。しかし、二階へ上ったらすこし気分がましになったらしい。


四月二十四日(土)

 快い朝、尾崎さんに送られて湯河原に来る。八時四十分にのれた。一不二、約束の室ふさがった由で二階の小さい室、下痢はじまる。


四月二十五日(日)

 ここは土曜日が大やかましらしい。三流温泉旅館のさわぎかた。昨夜苦しく、一日中床についている。すっかりなおる。疲労のせい也。

 夜となりへ来た若いもの二人。陽気にしゃべっているのに、声も出さず。日本──


四月二十六日(月)

 朝、はなれにうつる。やっとやっと吻っとする。これで仕事をする気になれる。時計さえあれば。こういう風に場所がかわっての一日のながさ。

 この室ならm来ても二人でいられる、三室のコンパートメントだから。


四月二十七日(火)雨

 昨夜電話をかける。六時。二時間かかると云っていたら四十分位。丁度宮かえったところ。菓子あるか云々というらしいのに、宴会のガヤガヤでちっともきこえず。スタンダールよむ。まだ夜よく眠れないし、ほんとになれない。こういうところは夜がわるい、まじめでないから。


四月二十八日(水)

 ゆうべ早く眠り、きょうは馴れた。

『関西学院新聞』に「生きつつある自意識」十枚書き終ったところへ寿江子が来た。東京へ電話。

 宿の主人飯田初子、勝江(娘6歳)


四月二十九日(木)

 いい天気。寿と奥湯ヶ原まで歩いた。上り下り三時間半もかかって。新緑美しく、歩いてよかった。これで何となし体かるくなった。


四月三十日(金)

 きのう歩いたからきょうは一寸散歩。昨夜、Sに二時頃まで談義した。実に度しがたく俗っぽくなっていて空虚だ。バカな妾の如し。自分の気に入ることだけ気に入る、利己主義とは別。

 国会文化委員長福田(民主)黒モーニング、ぶた首。ぐりぐり苅にてっぺんだけのこして左右にわけている。「国会として」「いかんのう」的。みんな威張っている。羽仁五郎の口のききかたの横柄さ

 ○休ミ旅行には自分が二日ぐらい先に来て、宮が来て、五日ぐらい何にもしないで本よんでかえるぐらいがいい、仕事はうちがいい。空気がゆるい。旅館では。


五月一日(土)

 きょう、午後一時七分で帰京。湯河原、熱海でかける小説でないということについて十分知らなかった自分を痛烈に批判した。自分の家庭の純潔さ、すじのとおった明るさ。それでやっとかける小説だということについて。


五月二日(日)晴

 宮がオスシたべたいというので桜井さん夫妻がこしらえに来てくれる、宮、八時頃帰って来て二十五ヶ以上たべた。午前、林さん来。お父さんの□□ひどくなった由。可哀そうに。おふくろさんうちへ通ってひるたべて縫物して貰うことにする。


五月三日(月)風雨

 林さん注射にゆく。

 仕事にとりかかる、九枚

 四時すぎ散歩。

 ○女が男よりもやさしくない理由がわかったようなところがある。受けみでないということにある意味。うけみであるということからおこるエゴイズム。


五月四日(火)

 ○仕事12

 きょうは散歩せず、あつい。ひとえでよい。


五月五日(水)

 仕事。

 三度御飯をたべること。一時間ずつ散歩すること。これを守ることに力を入れて、間で仕事をするぐらいに考えないとやってゆけないと知った。


五月六日(木)

 仕事。

 散歩

 夜になってからの散歩は散歩にならない。足もとに気をとられ歩くということばかり意しきする。


五月七日(金)

 仕事。

 散歩。動坂から道カン山下まで歩く。この辺の人々の生活のこわされかたのひどさ。まだ原っぱばかりが多い。

 注射、370 円はらう。


五月八日(土)雨

 仕事。

 毎日五枚ぐらいずついそがず書くこと。一ヵ月 150、そうすれば九月までに「道標」がおしまいになれる。

 宮このごろ明るく柔かい。自分の健康と宮のこころもちとの関係。


五月九日(日)

 仕事


五月十日(月)

 仕事


五月十一日(火)

 79

「道標」上巻の終りまでわたす。二回にのせる由。


五月十二日(水)

 きょうのホッとしかたは久しぶり。

 放送委員会 世論委員会 放送討論会研究、徳田、大野、氏家等来る。


五月十三日(木)

 宮、ひるごろ岡山からかえる。


五月十五日(土)

 働く者の文化を守る会 共立、二回


五月十六日(日)

「道標」を直す 戸じまりのこと

 藤井久子来

 吉田洋子の母(ゴンドウ来)

 佐藤氏来


五月十七日(月)

 井草会欠席


五月十九日(水)

 放送委員会常任

『読書新聞』へ宮本の文芸評論について。四枚


五月二十五日(火)

『婦人公論』平和について、「平和のための荷役」28枚。


五月二十六日

「世紀の『分別』」=『改造』文化反動とインテリゲンツィア


六月三日

 日本婦人の国際性について。『女性線』21枚。「それらの国々でも」──新しい国際性を求めて


六月五日(土)

『思想と科学』座談会「民主文化の達成」


六月六日(日)

 ワンダ・ワシレーフスカヤの伝記 アカハタ「平和のために働いた女性」

『真実に生きた女性』三版、くらい表紙。


六月七日(月)

『芸苑』の巻頭言、道標を□れ。『芸苑』の写真が来た。いい写真。私たちの写真には恋がある。家庭がない。そのうれしさ。


六月八日(火)

 放送委員会。

 土橋来、事業法案 6.20日 上程というので至急闘いのことにする、浜田気をぬいている。


六月九日(水)原稿紙代 25,000、寿 3,000

 太郎不意に来た。そしてOが開成山に暮していることがわかる、「たすけてよ」と云って話しだしたことから咲の金のことになり、宮、内緒でそんなことをするとおこる。K、S、Sをあまやかしていたこと痛感する。あの人たちをおそろしく思う、その偽善を。


六月十日(木)

 林さん 50×2000


六月十一日(金)

 K曰ク人はケンキョなところがなくてはいけないよ、と宮についてお説法する。犬が人間に文句をつける如し、びっくりしてものが云えない。


六月十二日(土)

 三島庶民大学の講演会へ行く代りに「いま私たちは何を希望しているか」十五枚をわたす。


六月十三日(日)

 この頃梅雨になった。

 毎日雨。


六月十四日(月)

 ○出版文化委員会、午前だけのわけだがかえると四時。


六月十五日(火)

 ○同


六月十六日(水)

 ○同


六月十七日(木)

 ○放送委員会 浜田がビュロクラティズムを発揮して政府案の修正程度で行こうとしているのにハラを立てた。放送委員会案の押し出しの方向決定。


六月十八日(金)

 きょうは久しぶりでうちにいる。グロッキーなり。指圧来る、手ちゃん来る、文春来る、夜宮、『前衛』のいい原稿が出来。

 くちがはなれなくて、とけてしまった、おもしろさ。


六月十九日(土)

 国、太郎、やっとかえった。国は20日滞在。

 ○出版綱領実践委員会の第三回リストを警視庁に出すのはあとにして先ず公表ときめた。

 Sにいろいろ話すが、しんがくさっていてあっちからもこっちからも云われるという工合にしか理解しない。そして健康で働けばいいんだが、という点にしか。弱くても病気でも人の心にふれる必要ということについては分らず。


六月二十一日(月)

 ○書籍文化委員会。


六月二十四日(木)

 放送委員会。


六月二十五日(金)

 文芸春秋座談会。


六月二十六日(土)

 ○フェミナ座談会。


六月二十七日(日)

 近代文学同人懇談会。


六月二十九日(火)

 十二時

 ソヴェト文化の夕


七月三日(土)

 午後一時 飛行館


七月五日(月)

 ラジオ公聴会全国ネンリョー会館 一時半 安田銀行となり


七月十日(土)

 母、隆治、着


七月十三日(火)

 放送委員会。

「道標」下巻、第一章一、二まで。


七月十五日(木)

 上野へ母のカサ買い、友子の分しかなし 1,300

 宮のカバンを見つけた。すこし品がわるいけれども。


七月十六日(金)

 夕方よりひどい夕立。母、ひるやすくに神社。迫口が来る。


七月十七日(土)

 夜七時にて母、隆治かえる、宮おくる、又夕立。田端から 200 とられた由。俥。

 母上カサ 1,500 宮クツ下 330 くし 60 ハミガキ 44 チーズ 300 紅茶 320 小林 2,000


七月十八日(日)

 きょうは77° すばらしい

 宮、本部。自分仕事「便乗の図絵」(『光』へ)


七月十九日(月)

 仕事終る

 夜、太平洋問題研究レポート手入れ。

 夜十一時スギ亀山ヨリ電話徳田九州でバクダンを投げられた由。


七月二十日(火)

 宮、六時ごろ自動車が来て出かけ、午後四時帰。

「日本の文化を守る」のヴァリエーション『女性改造』へ 何となくつば□□□□わるし

 小林 10,000


七月二十一日(水)

 ひどくむし暑くなって来た。


七月二十二日(木)

『女性改造』の「偽りのない文化を」23 やっときょうわたした。


七月二十三日(金)

 宮どうしても手があかず、平田さんと 9.30 の汽車で小野へ立つ。

 五時十六分着。小さい田舎の村の中にゴテとした一軒。ふしぎな心持がした。涼しい。臼井氏待っていてくれた。


七月二十四日(土)

 涼しいこと。75°ぐらい。とし夫人。長男徹、次男剛、薫ちゃん。みんなでいろいろやってくれる。こんな田舎でホットケークをやき、ともかく別天地。

 太平洋問題のレポートの追補ヲ書いてわたす。


七月二十五日(日)

 宮きのう来なかった。二十六日来るという電報。平田さんきょう二時三十五分でかえる。いよいよ涼しい。宮から又電報、シゴトノタメオクレル、と。シブヤ、ヨヨハタ発を見て、納得した。面白い心持ヤキモチ。

 道標という字をかいて平田さんにわたす。


七月二十六日(月)

 74°、余り涼しいから、ユカタを着る。洋服の方がよいとのことに決定。平田さんもその意見、大いにエンカレージされた。

 きのうからマルロオの「侮蔑の時代」をよむ。宮が来るまで落付かず。


七月二十七日(火)

 午後一時 放送委員会、エスカルゴ

 仕事をはじめた、「道標」下巻 三。


七月二十八日(水)

 仕事。

 ウォーレス第三党、進歩党と名をきめ、綱領も採択した。

 アメリカにある希望の一点。


七月二十九日(木)

 仕事、よく進む。22枚まで。

 ゲルツェンの「過去と思索」。面白い。チビチビよむのに大変よい。

 夕方一時間ほど雨の中を歩いた。心持よい。


七月三十日(金)

 朝飯のとき細君に社会主義の話をしてすこし時間をつぶした。きょうは金曜日だから宮来ないかしら。仕事。


七月三十一日(土)

 仕事。

 古田氏だけ帰る。宮は五日に来る由、シカゴ新報大統領選挙についてウォーレス支持らしい。しかしいくらか疑問もある、藤井という人はボスだときいていたが。──

 八島太郎アメリカに永久滞在権を得た由。平林たい子、みつ子、亭主にひかれた牝牛。


七月三十一日
長野県東筑摩郡筑摩地村古田氏方

 ここへは七月二十三日に平田さんと来た。臼井氏がまっていてくれてたすかった。──一寸なじみにくい部屋の様子だったりしたから。

 ロスアンジェルスで、東洋美術品などを商売していた先代の老人は、陳列棚のように床の間をかざり、非常に複雑な床の間とちがいだなと床わきの小床をこしらえて、すべてそれらの場所へものを飾っているから。

 立派な土蔵の上

 わたり廊下

 伊那の山並に向って高くそびえているとんがった檜葉の梢。


 ゲルツェンの「過去と思索」をよみはじめた。一八一二年に生れたゲルツェンの回想はモスクヷの大火から描き出されている。上巻はゲルツェンがサン・シモニズムに同感してニコライの反動期の中で「感受性がつよくて、誠実で若々しかった私たちは、サン・シモニズムの強力な波濤によって容易にとらえられた。そしてきわめて多くの人々が立ちどまり、腕をくんであとへ引きかえすか或は海を越えてゆける浅瀬を附近にさがし求めているとき、私たちはその境界を早く泳ぎ渡った」ときまでを物語っている。

 十九世紀前半のロシアの大地主とその環境が何とよく描かれているだろう。それからあとにはモスクヷ大学の学生たちの愛すべき生活が。

 当時のロシアはあんまり野バンでニコライの灰色の石のような目ににらみすえられていて、悲惨がすべての屋根の下にあった。だからゲルツェンが、彼の生涯にとって忘られない潔白な仲間たちやその家族についてかくとき、彼の筆致がほとんどドストイェフスキーを思い出させるほど明暗をつよくてらし出す。愛が痛ましく鼓動する。丁度、死ぬ前の鼓動の一つ一つが、それまでの数千万の鼓動に感じられなかった価値を感じさせるように。

 ロシアの魂の柔かさ愛の感じやすさは、ある意味では、その社会の野ばんさの反面でさえある。──打算ぬきの、全く献身的な愛は。それなしには正直で正気な人間の生命がたもてなかったほどの残虐があった。ゲルツェンはそれを思い出させる。「デカブリストの妻たち」を。

 十九世紀のその頃のロシアでどんなに未来ある才能、天質が失われて行ったかということは、この思い出の中に、おそろしいほど生々と描かれている。父が流刑されていたシベリアで生れ、貧困の中で「シベリアをおそれない人間」として育ったヷジム・パッセクと、その母、三人の姉妹、ワジムをふくむ三人の息子の生活と最後まで惨憺たるものであったその人々の運命。p. 247

 また、モスクヷ大学生のとき、社会諷刺詩「サーシカ」をかいたためにニコライから兵士にされてカフカスへ送られ一番しまいには「安酒に」という詩をかき兵卒病院の地下室で死骸になった片脚を鼠にかじりちらされて生涯を終ったポレジャーエフについて。

 こういう全く理由のない残虐に対して、ロシアの人間らしいすべての人が「応用性とか事の難易とかが問題なのでない──そのものは真理をさがし求めて(中略)公正無私に原則を実行する」p. 288 気になったのは当然すぎる。

 ○ゲルツェンは、気むずかしくて、一生無為にすごし決してひとを信じなかった父親の生涯を、三十歳ごろになって深い同情をもって理解している。「彼が不幸にして侮辱を感ずるほどによく人間を知りぬいていたのだということを」p. 189

 しかし、十八世紀から十九世紀前半のロシアの地主の生活は、ゲルツェンの父I・A・ヤコヴレフのような人物の辛辣な性格をすべての気まぐれ、気むずかしさ、意地わるさに表現させるしかなかった。人民にニコライがあり、家々の多くに、父、がいた。


「国民のなかの若い世代が青年時代をもっていないような場合には、その国民の立場は非常に不幸である」p. 268

 ゲルツェンのこの言葉は 1948 年の日本の読者であるわたしに、キリキリとした同感をもって迫って来る。120 年近くの時をへだてながら。

 この国民の青年時代についてゲルツェンは、フランス、イギリス、アメリカに鋭いほこさきを向けている。

「フランスには(中略)輝かしい青春があった。革命は若い人たちによって成就された。ナポレオンの出現と共に青年たちは伝令兵になる。王政復古──老年の復活」すべてのものが町人的(いまの言葉で小市民的)になる。p. 269

「フランスの青年は、芸術家時代(この訳語はどうも不適当に思える)によって青春時代をすごす。

 ドコック時代である。この時代の間にすみやかにそしてかなりみじめに、力やエネルギーやすべての若々しいものが消費され(スタンダールの小説を思い出す。『緑の猟騎兵』にしろ。少年はその父親によって何とせっかちに世馴れさせられるだろう。そして少年は世馴れないことについて何と早熟な自尊心を傷つけられるだろう。バルザックの小説にしろ。)そして芸術家的時代は心の奥底に一つの欲情──金銭への渇望をのこす。そして将来の全生活がそのギセイになる」。p. 269(パリの山高帽をかぶってチョッキに鎖を下げている連中!『アミ・ド・ピューピル』しかよまない連中! マズレールの版画)

 そして、ゲルツェンは、フランスの俗人ゾクジンが「征服されることを職業としている者を多数征服した結果として婦人を軽蔑する」ことまで見ぬいている。p. 270 十八世紀から十九世紀のイギリスの俗人、常識的生活の皮をひきむしりながら、ゲルツェンは、ディケンズのような才能さえ、ひきとどめて中途半端にした社会的原因が、アワ・グローリアス・キングとの分別ある妥協による度しがたい中流性であることは洞察しなかった。ツワイクが試みたように。(そして、ツワイクのディッケンズ論には彼の最も鋭い歴史伝記家としての切っさきがあらわれている。)

 夏目漱石が二十世紀のはじまりに英文学を研究して、十八世紀のイギリス文学をテーマとしたところは面白い。漱石は諷刺画家ホガースの絵のことにもふれ、当時の乱脈生活をも風俗史としてとりあげている。が、しかしやっぱり God save our glorious King の歌がどういう作用を営んでいるかにはふれ得なかった。

 ロビンソン・クルソーその他どっさりの漂流物語のかげに、大英国殖民地のひろがる地域についての考えはなかった。

 イギリス人民の当人としては今も(1948 年代にも)誇られているこの社会的特徴は、同じ世界古典文庫の出版されているロバート・オーエンの自叙伝に、まざまざとあらわれている。

 手許に下巻しかないが、一八一七年ゲルツェンが五歳だったとき、ロンドンのロンドン、シティ、タヷーンで行った宗教的偏見打破の公開集会からのち(1830 年)オーエンは(事実上無産階級の運動者となったのである)と本位田祥男の解説にかかれている。この「気高い単純さと偉大な実行力をもった」ロバート・オーエンが、エンゲルスが「空想より科学へ」の中で云っているように空想的であったのは何故だろう。

 自叙伝にざっと目をとおしてみると、現代のわたしたちには、「彼にとって社会主義は主観によって全く現実とはなれて存在してい」た理由が生活的にのみこめるように思われる。何故オーエンが、理想社会を性格形成の過程によってだけ考え、慈善によって考えたかということが、わかるように思う。それはロバート・オーエンは、ニウナアック工場の主人だったということである。産業革命から間もないイギリスは興隆する資本主義時代にふみこんで居り、ゆたかな平安な日々をすごし得る人々は、「あれら」の生活に目を向ける時代だったから。(オーエンの細君が、労働者をさしてあれらと云っていた)王も貴族も学者も、オーエンの所謂秀れた人々は、無意識的に働かせて上品なものと働かせられて黒いものとの間に生れつつあるすき間をおそれた。そして、オーエンの所謂「あやまって支配されつつある者」の無智と荒々しさを、正しく美しく従順な性格にかえてゆこうとする「新見解」に重大な関心と魅力を発見した。

 ロシアのデカブリストの事件は(一八二五年十二月十四日)、オーエンのニューナアックの仕事へ全ヨーロッパの支配者の目をひきつけた。彼等はイギリスの優れた人々がそこにプロレタリアートと資本家の階級の永久の妥協を発見したがったように、フランスにおいて、ドイツにおいて、ロシアのニコライ大公さえも心をひかれたのだった。

 この事情を考えるとローバート・オーエンという、偉大な一人の良心にしたがって行動した人物の立場が実につきない興味をもって浮び上って来る。

 イギリスが社会革命史の中にささげることの出来た二人の卓抜な歴史的存在、ロバート・オーエンもフリードリヒ・エンゲルスも、二人とも商人であったということ、しかも、繊維産業関係の富裕な商人であったということは、実にイギリス的である。(そして日本の繊維業は「女工哀史」と民主主義時代の冒頭における宝塚会談と一九四八年において中国香港からプロテストの提出されている日本綿布ダンピングに代表されている。総同盟の男が□□□□の女の子をストライキするなら殺すぞ、とおどかした)

 オーエンは、自伝の中で常に自分を一紡績業者として語っている。また、民衆の信頼を得てはじめて自分の事業の達成することを信じ、或る外国の王がよこした黄金の勲章のことをかくしておくぐらい本気であった。にもかかわらず、彼は、労働者が、正しく支配されたときに彼等の人間生活があると信じて、生産場面における労働者と雇主の関係に思いおよばず、賃銀について思いおよばず、資本の魔力について知らなかった。その歴史的限界は、オーエンの場合更にイギリス的限界を加えている。自叙伝の各頁にあふれている各国の王、貴族、学者、顕官の名はおどろくばかりだ。

 しかし彼は、自分が労働者に「直接つながっていない」ことを知っている。

 イギリス人の胸のわるくなるような Sir や Lord や Duke of 何々ずきが、オーエンの無私な性格をとおしてさえもきょうの我々読者をおどろかせる。オースティンが「Pride & Prejudice」でかいたようなイギリスのすべての社会感覚をにぶらせる中流性。

 ニューナアックを見学に来たすべての大公、殿下、学者は、オーエンが、北米のラッパイトの村で共産村 New Harmony をつくって失敗したとき、誰が何の力でオーエンを激励したろう。高貴な失敗について、その勇気を賞讚したろう。「政府、中流人、上流階級のたのむべからざることを知った彼は、直接その害悪に最も悩んでいる労働大衆によびかけた」繁栄する紡績工場主であり、利潤の蓄積者であり支配するものであって、同時に、あれの解放者であることの不可能を、オーエンはその誠実と潔白、勇気ユーキとで証明したのだった。ロバート・オーエンの名誉ある悲劇のこの全過程にオーエンは、イギリスの社会的性格の特色を発見していない。オーエンの偉大さは、この、平民にして貴族であるイギリスの資本家たちの発展の必然にほんろうされた。

 彼の献身のかちを知っているのは、オーエンの自叙伝にあらわれている何々大公、殿下、博士たちではない。彼らの或ものは、自分のメモアルの一頁に、オーエンと彼のニューナアックに熱中した頃の自分を皮肉に回想していないと、誰が云えよう。リープクネヒトがオーエン伝の終りに「プロレタリアはしかしながらその勝利の道程において、その目的を自分たちに示してくれた人々を忘れはしない。たとえ彼等がその手段においては誤っていたとしても。」と云っているのは全く正しい。

 もし 1948 年において、日本の経済学者ケイザイガクシャの誰かがオーエン伝と彼の思想とを芦田の外資保護法案と結びつけるために「国内の労働事情の急速な安定」の必要のために利用しようとするなら、そのものは自身の舌とペンとをおそれよ。世界には二千数百万の共産主義者のいる時代である。チトーに効果をあらわしたプランXは、すべての人間にきく薬ではない。


八月一日(日)

 仕事。

 午後、古田氏と話す。下でみんなと夕飯。もし女に俗物性があるというなら、ハウスキーピングのこの俗趣味を自分でこわせばいい。そう思った。


八月二日(月)

 仕事。

「道標」下三、四、57 一まずまとまった。つづけて五。こんどは少くとも五日までグイグイやる。


八月三日(火)

 つづけて仕事、8枚。


八月四日(水)

 公聴会午後一時半 蔵前工業会館

 仕事八枚

 けさ四時古田氏帰京。


八月四日 ちくまち村にて

 神西清訳

 プーシュキン荘園ものがたり中

「ヌーリン伯」

 これはシェクスピアの「ルクレチア」(一五九四年刊行)をプーシュキンが、もじったパロディーである。「一八二五年、田舎にいたプーシュキンがルクレチアをよみかえして、この『あまり上出来』ならぬ史詩が『例の小さな原因から重大な結果が生じる云々という月並なお説教が』万一あのときにルクレチアの脳裡にタルクィニウスの頬ぺたに平手うちをくらわせるという考えが浮んだらどうなるだろう?」

「ルクレチア」は自殺しないですみ、ルクレチアの良人もいきりたたず「共和国だの執政官だのカトーだのカエザルだのの出現は、ついこの間も僕のとなり村でおこったような痴情沙汰のおかげを蒙っているわけになる。で、歴史もシェークスピアも一緒くたに一つもじってやれという気になって」ふた朝でかいたのが「ヌーリン伯」である。

 このヌーリン伯制作の動機は、非常に愉快である。プーシュキンよ。おんみもなかなか生きのよい人間であったことだ。

 リーア王にしろ、オセロにしろ、シェイクスピアは実に「些細な原因」を重大な悲劇にしている。デスデモーナにしろコネリアにしろ、全く頭のきかない、愚鈍な良心をもっている。人間的でない。

 ルクレチアについてプーシュキンが考えた考えかたは神西氏のいう「才気煥発なパロディー」以上に人間的である──つまりそこにプーシュキンをとおして閃く理性がある。ルネッサンス時代になかった十九世紀の精神がある。


 ○「伸子」の漢字を仮名に直すためにところどころよんでいる。佃という人物におどろく。

 偽善とはどういうものだろう? 佃は偽善者だったのだろうか。そうは思えない。佃は偽善という悪徳をいやしむことを知っていながら、人間的真率さと聰明の欠如から、処世上の彌縫の習慣から、たまらない人間になっている。

 伸子が偽善者だという評言をそのままには信じなかったのは彼女の直感の正しさだった。しかし偽善とはちがって我慢ならない暗さ、強情──石頭があることを洞察しなかったところに、彼女の苦悩の原因がある。

 当時の作者はそれらのことをまるで理解していない。現象を追っている。

 ときには全く理解しないままに。


八月五日(木)

 仕事、五終る。

 きょう宮ほんとうに来るのかしら。本当に来ないとダメになってしまうのに。

 寿江子と尾崎さんのちがい。尾、宮の腹痛をかかずにいられなくてかけず、寿しらんぷりで二日にかいている。


八月五日

 オルダス・ハックスリーの『ジョコンダの微笑』短篇集をよむ。

 ジョコンダの微笑

 緑のトンネル

 半ドン

 親切な名づけ親。

 どれも手軽なつまらない作品だ。ヨーロッパ・ブルジョア文学という古びた大きな籠にもられたその一種の果物にすぎない。文学そのものの本質におけるエピゴーネンだ。(彼に自覚されていず、またその愛読者に理解されていない事実)

 ○ハックスリーのこういう短篇にしろローレンスにしろイギリスの中流的偽善には立腹しつづけている。だのに、かれらが偽善の枠内でばかり腹を立てて、偽善を怒る作者を歓迎しつつ偽善であるような社会とコンプロマイズしているのだろう。

 彼等は決して自分の憎むギゼンを、根本からなくさない。なくそうとしない。

 だから遂にエピゴーネン的本質からぬけられない。(人類史において)


八月六日(金)

 尾崎の手紙にもきょうあたり来たいと云っているとあったので大いに期待して 7.40 には自分も出た。しかし来ず。


八月七日(土)

 仕事、97まで。

 けさ電報をうった。イツコラレルカヘンマツユリコ一〇ヒカヘル。

 ちくまちの青年の文学愛好者会


八月八日(日)

 八ヒアサユクツモリ ケ、という返事だったが、夜座談会がすんだら尾崎さん来。とまる。そしてけさかえる食事しているところへ宮、来マア、マア、マア。


八月九日(月)

 八時、小のの先生の座談会

 けさ八、五五分で宮帰る、あしたにと思ったがダメ。

 仕事、さすがにきょうはやすみ、午前中毛布をしいて眠る。大荒れすぎだった。


八月十日(火)

 二時四十五分で帰る。

 清水一夫という東大歴史の学生と一緒。新宿へ誰も来ていず、閉口。田端から、俥でかえる。動坂を歩いてのぼるから何にもならず。


八月二十日(金)

 九時三十分ので小野に来る。平田敏子と。へばった。

 いそがしそうにしているので出直そうかと思ったがいいというからいいことにした。

 秋草が道にさいていた。十日間の季節のうつり。


八月二十日

『新潮』(七月)にモンテルランの「癩を病む女たち」という小説が出ている。

 ヨーロッパのブルジョア社会の習俗のなかで、女と男の関係が、いつも誇張や緊張をともなっている習俗のなかで──礼儀という言葉のかげに女の動物性として実利性が跳梁する社会でモンテルランのような感覚が生れるのは理解される。ニーチェ、ストリンドベリーの女に対する心理がわかるように。これらの人々の女に対するなだめようのない怒りは、彼らの人間らしい高貴性にもとづくものだ。が、彼等は自分たちの憤りに自分をまかせすぎて、一つの間違いをおかしている。それは、漱石がもっていた間違いに似ている。──女がそんなに度しがたくいとわしく、しかも男の生活にとってさけがたい存在だということで、一層腹がたつのは、ほんとは、「女」がそういうものなのではないのに。

 女をそういう風に存在させている男の権力、社会が、うしろからかみつかれた関係であるのに。ニーチェもストリンドベリーもモンテルランも、それぞれの才能と時代にしたがった表現で「女」でない「男」の自分の優越を意識しているように「女」を目のかたきにしていることである。その実、「女」がいとわしい存在であるような社会で「男」がどうしていとわしくなく存在出来るだろう。「女」にそんな仇敵を発見しているという一事だけでも、同じ時代に「男」が幸福であり得ないことを示しているのに。

 ○「癩を病む女」は、石川淳の「通い小町」を思い出させた。何と似ているだろう。こんなにその筋が似ている小説というものが偶然であり得るものだろうか。

 しかもモティーヴはまるきりちがっている。モンテルランの癩をやむ女たちには、「若い娘たち」にあらわれている彼の一貫した女性への感じかた、態度があり、石川淳の「通い小町」には偶然とわけのわからない突然の感激がある。同じ『新潮』に「癩を病む女たち」と石川淳の「太宰昇天」が出ている。石川淳は作家としてどんな気がするだろう。「太宰昇天」のなかに「われわれのことを自虐なんていうやつがあるけれども、自虐ってなんだね。自分を虐待するなんてかんがえてみたこともない。われわれはずいぶん自分を甘やかしてるほうだろう、きみなんか、そうじゃないかね」と太宰に云ったら太宰はふむ、ふむと笑っていた、ということが書かれている。一冊の雑誌にあらわれているこの三つのポイントについて、読者は無感覚であり得ない。石川淳のこのお喋りは少くとも批評家に対してヒントを与えている──自虐だ何だとむずかしく云ってくれるが、わたしは自分をいためつけようとなんか思ってもいませんよ、と。

 石川淳は、この三つのポイントにおいて、批評外の批評──所謂、批評よりもっときびしくて、もっと人間と文学との問題にいきなり結びついている精神によっての質問の前に自分を立たせている。


 長与善郎が「文壇近況の一展望」という、この人らしい題の文章(『改造文芸』2)を書いている。

 どうして日本の知性は、大家になるにつれて主観的な放言をするようになるのだろう。


八月二十一日(土)

 平田氏よく喋る。

 きょうは顔も手もはれた。

 夜古田氏来。


八月二十二日(日)

 平田氏松本へゆく。

 宮へ手紙ことづける。

 シュー


八月二十三日(月)

 きょうは、ほんとに初秋の空気日光の工合、実にいい。信州というところの魅力が少しずつわかる、これで開成山のような歩くところさえあれば。仕事はじめ


八月二十四日(火)

 仕事。

 古田氏夜あけかえる。

 きのう北側の辺地に一杯つゆ草が咲いていた。きょう(六時)見たら、もう一輪も咲いていない。


八月二十五日(水)

 昨夜、くるしく少しはいて、下痢した。きょうは一日床。薬もらう。冷えたらしい。

 仕事せず、モンテルランの「若き娘たち」をよむ。つまり下らなかった。女のイリュージョン、愛というもののゲキ□□た。


八月二十六日(木)

 七°

 きょうはおきる。薬をつづけて。いいあんばいに下痢ましになる。

 こんど来てからすこし工合がわるかった、夏のつかれ。

 仕事ホンの少し。雨。引こしトラック来ず。


八月二十七日(金)

 六°八しかなかった。

 昨夜八時半停電。床をしきじき眠って、けさ七時までぐっすりだった。体に力が出て皮膚もよくなった。昨夜大雨。ああ夏の疲れやすませるための夏の終の雨と思った。仕事。


八月二十八日(土)

 宮、夜十一時で来る。古田さん東京へゆく晩で夜どおし。私たち玄関へ送りに出るため三時におきた。


八月二十九日(日)

 宮逗留

 プリントをよんで


八月三十日(月)

 宮がいる。

 きょうも一日よんでわたしもわきにくっついていてよんで


八月三十一日(火)

 こうして宮がいる。何とめずらしいだろう。

 割合に涼しい日がつづく。きょうは東京はむすよ、そう云っては障子襖をしめてまわる。


九月一日(水)

 散歩に出て上の社のよこからずっと上り、細道をとおってこの間の川原の上から一廻りしてかえる。散歩は一人で出来ることでなし。


九月二日(木)

 あした宮かえる、そのために『展望』へわたす原稿をすっかり手入れする一日かかる。


九月三日(金)

 宮、八・五五分でかえる。送ってゆく、あっちの道から鳥居のすこし上まで。帰って来たらぐったりしてしまった。そして眠った。夕方しっかりした。


九月四日(土)

 仕事。


九月五日(日)

 仕事。

 十一時すぎの汽車でおひささんが来た。四時五十分とかのレンラクまで休んで行く。十八日に上スワで一緒に遊ぼうということになった。


九月六日(月)

 仕事。

 亀屋へゆく途中ころびひざ小僧をすりむいた。

 亀屋の先生あれで気分やで或る気むずかしさをもっている、田舎の生活とインテリゲンツィアのむずかしさ。


九月七日(火)

 仕事。足がいたくて、昨夜巣鴨の夢ばっかり見た、仕事にとらわれすぎる頭になったので午後ポスト、婆さんと話しピアノをひいた。

 ハガキ宮へ咲江へも


九月七日
反吐へど

 丹羽文雄の「告白」「洗濯や」などをよむ。この作者の「社会小説」というものは、何という薄情さだろう。テーマそのものに対して。そして書かれるモティーブにおいて。どこにも人間の問題に作者としてふれてゆく心の傾斜がない。自然主義リアリズムから田山花袋の熱をぬいて正宗白鳥が現代式ボス化するとこうなる。

 まるで立ちながら口のはたも拭かずへどをはいているか、さもなければ三度目のオクビでもどって来たものを反芻してでもいるようだ。この無感動と憎たらしさがこの作者の昨今の文学的はったりのようだ。人生と読者とに対するふんというところがなければ、こういう露店的こわもては出来ないものだ。


女言葉

 日本語に女言葉が特別に多い。私の生活にもどっさり女言葉がはいってしまっている。

 日本の社会での女の歴史、それにつれて考えられる男の地位は、女言葉の多いだけ、差別があり、きゅうくつであり、感情表現が率直でないことを意味する。

 自分が小説をかいていて外国の女のひとたちが話す言葉を日本語にしてその会話のニュアンスを出そうとする場合、どうしても女言葉になってしまうことが少くない。そしてそのたびに拘泥する。

 きょう。『婦人公論』で呉茂一氏の「ギリシアの歌妓うたひめ」という文章をよんで深く感じた。呉茂一氏は古典専門家としてギリシアのヘタイラ(女友いまの娼婦)のことをかき西紀前三〇〇年有名だった歌妓ラミアーが武勇並びなかったデーメートリオスにおくる手紙を(恋文)紹介していられる。

 そのラミアーの手紙というのが、おそろしく曲線的な身をよじる現代女言葉でかかれている。ここから二つの疑問が出る。

 ギリシア語に、こんな「わたくしとしたことが」という風な、また「お手許から多分におつかわしいただけましたらば、と申しますのも」という云いまわしがあったのだろうか。そしてギリシア語にも女言葉があったのだろうか。あんなに字を少ししかつかわなかったギリシア時代に?

 もう一つは、ギリシア語にはそれほど著しくない女言葉の身をもむ風情を、呉氏は釈訳の文章で使っていられるのだろうか。という疑問である。

 そして、もっとおどろいたことは、この『婦人公論』にのっている太田静子という若い女のひとの「斜陽の子を抱きて」という文章の曲線と、呉氏のギリシア歌妓の恋文の曲線とがよく似ていることである。

 そして更に、こうして見ると太宰という作家がもっていた魅力は、女言葉的魅力であったことがうなずけるのだった。何ということだろう 女言葉! 云おうとすることをいうというよりも、その半分の表現或はヒント、或は云おうとすることの身ぶりによって想像を刺激し、それを導き、自分にとって云わない部分を都合よい色どりで描かせてゆく女言葉!


九月八日(水)

 仕事


九月八日

 このごろ一時間ぐらいずつピアノの練習をする。大変心もちがいい。頭が楽になる。この上は、思い切って発声の練習をしたらどんなにいい心持だろう。小説をかいている人が仕事のほかの時間人に会って喋ってしまうというのはほんとに惜しい。とくに年をとった作家が、集中した仕事をするとき、一定の時間の執筆、それからちょいちょいの読書、音楽、それで十分だ。そして長い小説をかき上げるうちにピアノがいくらかひけるようになり声が出たらどんなにうれしかろう。

 ピアノがぜいたく品となっているのは何と残念だろう。十数万円するというのは。そして折角うちにあるのに何だか楽にひけない気分におかれているというのは(林町)、いまピアノをひかない寿江子の念がつきまとい、批評や憎悪がからまっていて。


カンタビーレ

 柳田謙十郎氏「無抵抗の倫理」

「ルネッサンスにおける人間の自覚 特にその理性の自由の自覚は かくして生れざるを得ない歴史的必然の下に生れたのであるが、この時この運動の先駆者として新たな時代の光りのために身をさゝげた人たちが ローマ法王のけん力に対してとった態度は かつてキリスト教の殉教者たちがローマ帝国の支配階級に対してとったところの無抵抗主義をそのまゝうけついだものにほかならなかった、ジオルダノ・ブルノーもコペルニカスもガリレイも。」そして「いかなる法王の権力もこの真理の光をくらますことはできなかった」と。

 筆者はまるでこれらの科学者の無抵抗そのものが、遂に法王の権力にうちかった真理の光のように云っているのは何とはげしい自己撞着だろう。「地球は動いていない」と誓文かかされて「しかし地球は動いている」とつぶやいたその真理が、生きたのであって、無抵抗な態度そのものではない。その真理のために、ガリレイはころされかかったのだ。

 ジョルダノ・ブルノーは彼の〔数字分空白〕によって。コペルニカスは彼の〔約十字分空白〕によって。みんな権力にとってこのましからざる真実の発見者であり、その発見を人類の所有とさせようとしたから、権力は自己防衛として、彼等を苦しめ圧した。大切なのは苦しめられるときの無抵抗より先に彼がどんな真理を発見し、それを人類のものとしようとしたかということこそ問題だ。

 たしかに人間の理性は暴力についてもっと恥と嫌悪とを知るべきである。ウォーレスの演説にトマトやタマゴをなげつけて口をあかせないで、トルーマン大統領から言論の自由について発言をうけるというようなデモクラシーに恥あれ。

 こういう筆者が「日本を二つの全体主義から守るものでなければならない」として、「一つを特権支配力を中心とする独裁主義であり、他を、プロレタリア階級をみなぎる暴力的革命主義から来るであろうフラク的支配力の中心としての独裁主義」と云っている。何とジャーナリズムはこの頃、教師たちの処世態度にしみこんでいるだろう。しかも──ずみの新聞用語とその内容のとりあつかいの角度が。

 高校生は「荒野と化した焼野をして再び人類の楽園たらしめるものは」「己れに石を投げるもののためにも祈る如き無抵抗の愛であることを忘れてはならない」と云われて、青春の感傷を快くあやされるのだろうか。何に何と云って祈るのだろう。高校ではその文句も課目のうちに入っているのだろうか。

 己れに石をなげる者があやまっているなら、そういう人間のなくなる社会が来ることを願い、そのために奮闘するこそ人類的美だと思わないだろうか。少くとも不能者でない一ヶの男として。

 一方、共産主義者は日本の共産党が知性の低いストライキモンガアのように印象づけている欠点について真から真面目に考え発展してゆかなければならない。理性は強固である。がそれは緻密であり、合則的である。だからこそ共産主義者の理性的承認は情熱と一致し得るのだし、より人間らしい美に鼓動するのだ。人間性というと人情がかったものの肯定だけ知っているのでは低い。手軽な、ときには封建的であり、偏奇的である人間らしささえみとめるのは。愛される共産党などという言葉に愧あれ。きらいでもにくらしくても、実力でその存在と能力を肯定せざるを得ない合理性に立ってこそ共産党と呼ばれるにふさわしい。真理を愛しその実現を徹て期する人々の集団の名誉にふさわしいのである。共産党の窮局の星は共産党代議士にもなければ共産党総理大臣にもないのだから。


九月九日(木)

 仕事


九月十日(金)

 うちから使として咲江ちゃんどっさりしょって来た。

 仕事

 清水一夫の母おスシをもって来る、おひささんスタンドもってくれる。


九月十一日(土)

 仕事

 咲九時でかえった、古田さんのところのトウモロコシを背負って。


九月十二日(日)

 岡谷の先生たちの集り。二十五人


九月十二日

 張〔数字分空白〕の日本に対する声明は最近面白いものの一つだ。日本の経済復興は東洋全体の平和的復興と無関係にあり得ない、という点。日本の軍事的復興を、出来るだけ可能にしようとしている国内勢力に対して、張〔数字分空白〕の発言は、民主的要点へ関心をよびさまそうとしている。更に面白いことは、張〔数字分空白〕氏の発言が日本の新聞にこれだけのキボで発表されたという点だ。なぜなら日本の新聞は世界的に自主性のないことで知られているのだから。これだけの記事に扱われたことはつまり、張氏の発言は、記事以前に、一定の効果をもったことを証明しているのだから。中国はかくて、東洋においてはっきり一つの任務を演じつつある。よしんば、その本質が、純粋に人民的民主主義に立つものでないにしろ。それでもなお、日本における政策に対しては、一つの声たり得ている。

 ○世界民主革命年表についての感想。(これは『文化タイムズ』にかく。)


九月十三日(月)

 仕事


九月十三日

 この頃大新聞ではメモアールをのせる競争がはじまっている。十三日から『毎日』は前駐日米大使ジョゼフ・グルーの記録「滞日十年」をのせはじめた。これは日本の読者の真面目な興味をめざまし実感をとおして多くのことを学ばせる。

 何故なら一九三二年五月ごろからあとの十三年間日本の暗黒は年ごとに深く濃くなって、わたしたちは誰一人として当時の日本政府が何をしていたかという風なことは知らないのだから。このメモアールの第一回をよんだだけで、一九三二年に既に日本にどんな憲兵権力がはびこっていたかということがわかり、白鳥敏夫のような外務省の役人が、日本の運命にマイナスを加えつつあったかということがわかる。そして今日の読者はこのメモアールの凸凹を一ぺんひっくりかえして、今日を照りかえしつつよむことによって実にどっさりの収穫を得る。


九月十四日(火)

 仕事


九月十四日

 わたしの手のなかに百五十頁ばかりの小さい本がある。『生活のためのたたかい』ドストイェフスキーの「罪と罰」について、ピサーレフ著、金子幸彦訳

「この啓蒙主義的批評家は、ドブロリューボフとおなじように、若くして死んだ、彼は一八四〇年に生れ一八六八年に死んだ。」「ピサーレフはベリンスキー、ゲルツェン、チェルヌイシェフスキー、ドブロリューボフの事業のケイ承者であり六〇年代の庶民階級人(ラズノチニツィ)の最も輝やかしい代表者のひとりである」(訳者のあとがきより)

 啓蒙という仕事はどういう性質の仕事だろう。世界の理性にとって、日本の現代にとって、啓蒙はもうすぎ去った必要のないことだろうか。啓蒙的ということについて今日重大ないくつかの誤りが行われていると思う。

 啓蒙ということは、何でもやさしく書き、話すことであるという考えかた。これは最も民主的である筈の人々の間にもはびこっている考えかた。やさしく話すということよりさきに大切なのは、その人がどんなに真心から一つの真実を人々につたえたいとねがい、そのために努力しているかという問題がある。民主主義者の啓蒙的文筆活動が、一定の角度からの現実照明はあっても、心をうつ高貴性も、もゆる焔にもかけている理由は、その人々が啓蒙的にかく、ということを技術の問題だと思っているからだ。これは腹立たしく、そして、現代の可能性の浪費だと思う。

 啓蒙的な文芸批評というものの真実の意義をわたしたちはもっともっと知らなければならない。ブルジョア文学批評が、過去のわくから自由になり、自身を発展させるためには、第一歩として文学における啓蒙批評の真価を会得する能力をもつことにある──人生と人類の社会の発展にとって、文学一般及び個々の作品はどういう関係をもっているかという事実に、生きた熱情こもった注目を向け得る精神が要求される。

 ○いまの民主的文芸批評家は、民主的立場において社会性をもっているが、その批評活動の感覚において古い文壇的、または個性的枠をつけている、働くための短いスカートにフープをいれたような矛盾した形で。だからこれらの人々は民主的基盤の上で、些末主義になり、卓尺をさがし、人の云わなかった点を見出そうとし、しかも或る作品を全体として、それを日本の民主化のおかれている段階の現実との諸関係で、読者に啓蒙する任務からはいつの間にかそれてしまっている。

 ピサーレフはドストイェフスキーの一つの作品について、これだけ根気のいい啓蒙批評をしている。現代の日本の末期的なブルジョア文学精神とその模倣者に対して、今日の日本におけるドストイェフスキー追随の意味を、誰かかかなければいけない。その情熱が民主的批評家の心魂をつかんでゆすらなければならない筈だ。


九月十五日(水)

 仕事


九月十六日(木)

 仕事

 宮田校の藤沢先生という女のひと夜相談


九月十七日(金)

 仕事。


九月十八日(土)

 仕事やっと一段落、モスクヷ生活の前期終り。

 午後お久さんと伊那中の社会科の男女生十五人ばかり一時間四十分はなし。


九月十九日(日)

 キョウ五シツクミヤという電報がひるごろ来た、小野の先生と話していたとき。入って来て、また本をおかりしますとズケズケよって行ってより出して見せもせず。

 迎えにゆく。笑いつつショゲル


九月二十日(月)

 夜中宮不安、下痢、たべずに床にいる。日ごろくたびれ。

 小説をよんでくれる。夏だけのほかは家でコンディションをととのえるしかないという話。


九月二十一日(火)

 宮かえる。自分もいっしょにかえってしまいたい。が、あさって古田夫人かえる。それと一緒の方がプリリーチノだからということで辛棒。


九月二十三日(木)

 古田夫人と一緒にかえる。新宿に男がだれも来ていない。娘と剛ちゃんだけ。どっさりの荷物で可哀そう。太田さん来てくれた。咲江病気の由。尾崎さんはいず、かえったら熱血先生手つだっていた。


九月二十四日(金)

 きょうから月一杯手つだってくれることになって、大いにたすかる。昨夜咲江さん病気ですよときいたときはヤレヤレと思った。


九月二十五日(土)

 ドタバタ


九月二十六日(日)

 ドタバタ


九月二十七日(月)

 ドタバタ


九月二十八日(火)

 ドタバタ


九月二十九日(水)

 ドタバタ


九月三十日(木)

 ドタバタ


十月一日(金)

 きょうは小野の祭日で、きょうかあしたかえると云っていたがそれどころでなし。宮盲腸の手術を早くすることにきまった。


十月三日(日)

 駒込病院へ、宮川氏に会う。宮、自分、太田。きるときまる。一人の室をとってもらうことになる。宮、木曜日にゆくときめる。


十月四日(月)

 風邪ぎみ宮。入院までに癒そうと吸入をかけ、しっぷをして、手当おこたりなし。自分二階の上り下りでへばる。


十月五日(火)

 それでも信州はよくきいているね、これだけ働けるんだもの。ほんとうにそうなり。あれでもっと散歩できたらもっといいのに。


十月七日(木)

 午前中駒込病院に行ったらこんや来てあした切るということになり。急に大さわぎ。『前衛』の人たち太田さんに荷はこびして貰う。ふとんを包んでいたカーテンをかける。


十月八日(金)

 午後一時半執刀。ひどい盲腸になっていてまるでサンゴの枝のような結節になっていた。正味二十分ぐらい。あといたくて注射した。宮川さん夜泊ってくれた。


十月九日(土)

 身動きができないので大分体が苦しい。


十月十日(日)

 駒込は、水が出ない。その他設備はわるい、宮川さんがいて安心という丈である。


十月十一日(月)

 傷がまだ痛くてセキ出来ないのにタンがのどにからまって、まるでそれを出すのに宮涙を出した。全く肉体的な苦しみ、目も当てられず、わたしの目も涙が出てしまった。

 鼻洗い三度、吸入二度


十月十五日(金)

 この数日ひどかった。気カン支カタルを併発して。ひどくタンがたまって。宮くるしいのと不安なのとで神経質になった。自分過労してギクシャクになり。大もめ。これから午後から八時まで休むということになる。医専の松本さん手つだいに来てくれる。試験休み中。


十月二十日(水)

 昨夜、便通がつまって苦しく大さわぎした。けさカン腸してやっと解決。かたまってしまっていた。


十月二十一日(木)

 宮と二人での結論。わたし一人ではやっぱりひどい無理だった。看護婦がいて私がいるべきであった、と。看護は事務であるとわかった。特に宮の場合。


十月二十二日(金)

 もう待ちきれず、夜ステッキをついて、やっと廊下を歩くれん習している。夜、松本さんたちかえるとき大分荷もつを運ぶ。


十月二十三日(土)

 退院。ステッキついて、スリッパのまま千駄木の坂道をぬけてかえる。ベースボールしているのを眺めて、折タタミ椅子で一休み、かえってすぐ横になる、やっとかえった。


十月二十九日(金)

 K、家賃請求する。月四千円よこせ、と。書いて出してくれと云ったら、額損料 800、デスク 80、椅子 800 で、デンワの損料月 1,200、冷ゾー月 800、これはとって、百三四坪の内ひとのつかう分をさしひいてあとすっかり我々との計算。便所から我々にはらわせるのはひどいし、何しろブローカー並の損料算出にはあきれはてた。殆どショックした。電話レイゾーを入れて五〇〇〇。日本間、ホール半々につかえば五三〇〇と。こんな家賃で住む人があろうか。誰のたてた家だろう。

 借家人組合をつくろうとともかくみんなに電話のこと相談してつかわず。


十一月一日(月)

 はり紙をしてきょうから電話こっちからはつかわず。


十一月五日(金)

 あれほどデューイ当選確実と宣伝したのに、トルーマンがアメリカ大統領30代当選した。ウォーレスがかちとった千百票の意味の大きさ。

 こんどの大統領選挙には冷淡でいられなかった。トルーマンがデューイの極右をきらう人によって選ばれ、タフト・ハートレー法を廃止すると云って労働組合員の票を得ていることは面白い。日本では吉田、見こみちがいでさぞがっかりだろう。正にそれ見よ也。

 吉田再開議会でつめよられているのに施政方針演説をせず、やたら公務員法案を通そうとばかりしている。


十一月九日(火)

 この頃、宮大分普通になって来た。傷の不安も去って。

 宮立候補しないでよいときまった。よかった。


十一月十日(水)

『ニッポン・タイムズ』が、夏ごろ『婦人公論』にかいた「平和のための荷役」を時下適切なるものとしてホンヤク再録する由。デューイが当選すれば適切でなかったろう。


十一月十一日(木)

 松方から『サタデー・イブニング・ポスト』の寄稿家の老婦人会いたいと云って来る。かえってからにする。


十一月十二日(金)

『日本評論』をかきはじめた。

 平田さんのくれた地図をたよって宮も一緒に千駄木の家を見た。ものにならず。いやな家だった。


十一月十三日(土)

『日本評論』の「現代史の蝶つがい」(23)かき終ってわたす。

 中国の新聞「蒋先生渡米のつつがなからんことを祈る」


十一月十四日(日)

 大森さんと一日かかって、新日本文学の大会「討論に即しての感想」35枚かき終った。

 中共徐州に迫った。


十一月十五日(月)

 きょう、『女性改造』のをかきはじめた。きのうつかれすぎ能率低下

「妻よねむれ」の題字をわたす

 宮、放送地方版ロク音

 きょう、戦犯二十五名判決


十一月十六日(火)

 きょう、立つところどうしても仕事終らず。(『女性改造』「新しい潮」)ひるすぎにやっとわたす(十七枚)

 百坪の地面をかって家を30坪たてると百万円以上! あきれた。


十一月十七日(水)

 きょう、平田さんと山辺温泉丸中というのに来る。裏山に近くてまあ落付いた部屋。但風呂はひどい。五軒の湯と云った由。ぬるい。


十一月十八日(木)

 小野へ仕事の道具をとりにゆく。小野の駅についたら、しーんと肌にとおる冷気。たしかに小野は松本よりさむい。


十一月十九日(金)

 きょうは雨。きのう小野に行ってよかった。『レポート』の原稿をかいて平田さんにたのむ。小さいコーリもチッキにたのむ。午後四時風呂に入ったらボロボロで人気なくいくらかまし。


十一月二十日(土)

 きょうは実に暖い。

 ゆうべは二十五人かの団体で、家がゆれる。わしをゴリラというんだ、思っても居らなんだ云々。けさ五時ごろから又さわぐ。いやになって散歩に出て御母家温泉というのを見つけた。あっちがずっといい。


十一月二十一日(日)

 きょうは思ったよりしずかでたすかった。仕事をはじめる。

 宮へハガキ


十一月二十二日(月)

 きょうもしずかでよい。

 仕事。

 ゆうべおそくまでファシズムに関する文献よんでいて過敏になって眠れずフラフラでおきた。起きると気もちがしゃんとする。それがここのよさ


十一月二十三日(火)

 仕事。

 昨夜八時ごろから横になってウツラウツラしていたので、工合よし。足の拇指のしびれていたのがなおった。ゆうべ気がついた。

 十四枚まで


十一月二十四日(水)雨

 仕事。

 宮から二十一日二十二の手紙二つ。同盟通信の『レポート』の身の上相談についてこわ意見。ほんとにそうだ。速達で返事を出す。


十一月二十五日(木)

 仕事。27枚まで

 ワルシャワ終り。やっとベルリンの宿を見当つけた。ルドウックという家だった。しかしヴェデカのところとはちがう。マアそれはよし。


十一月二十六日(金)

 仕事。33枚まで。

 古田さんへハガキ


十一月二十七日(土)

 仕事


十一月二十八日(日)

 仕事。午後民科の人13人来た。


十一月二十九日(月)

 仕事、52枚、一段落。


十一月三十日(火)

 さむい。四十度ぐらい。きょうは午前中、『選集』あとがきをかき、松本まで出しにゆく。宮手紙もよこさず。


十二月一日(火)

 宮から電報「サキエト九時半タツケンジ」

 びっくりしてしまった。本当にびっくりした。うれしい。自動車をもって迎えにゆく。

 宮の話に、S本式に行方不明になっている由。K大荒れしのち、宮のところへ来てあやまったとのこと。宮にあやまる。よっぽどせっぱつまったのだ。その話をきいたとき本当に出来ず、幾度もくりかえしてきいた。


十二月二日(木)

 宮逗留、咲江つれて来たのはごく都合がよい。

 宮つかれ一日室でフラフラ。


十二月三日(金)

 宮、日曜日の午後民科総会に出ると云っている。けれどいてほしい。午後散歩。

 咲江、コタツ板買ってくる。

 小説よんで貰う。落第


十二月四日(土)

「こっち、何時の汽車があるかい?」「サア、あしたでなけりゃわからない」「こいつめ!」

 咲火ビツを送り出させる。チッキと。


十二月五日(日)

 月曜日から代々木出勤というので、けさ十時十五分で宮かえる。

 午後小説なおしをつづける。ほんとにどうしてこうなったか、とびっくり。


十二月六日(月)

 小説かき直し。夕方風呂にいたら臼井さん来。臼井さんに51枚わたす。夕方。食後臼井さんうちへかえった。一泊して帰京の由。うんと仕事しクタクタ。


十二月八日(水)

 詩をかくハセガワ尚来る。

 疲れが出て胃がくるしい。一日フラフラ。参考書をよむ。夜、竹内先生夫妻。

(一日ずってしまった。これは七日のこと。)


十二月九日(木)

 仕事

 電報うちに出てミカン買っていたら、小さい店先に真黒にかたまった。〝オイ、柿の方がどっさり来るぜ〟

 松高の細、十六人来た。


十二月十一日(土)

 咲江が迎えに来た。

 婦人たちの集り、「富士」のサークル員四人


十二月十二日(日)

 荷もつをつくって送り出す。


十二月十三日(月)

 出発、帰京、6.30 新宿についたら思いがけず宮、太田さん来てくれた、寿と紀と。


十二月十四日(火)

 ソヴェトに関して書いたもの、すっかり集められている。その多様なことにおどろきうれしかった。やっぱり全力的に生きて来た、と。


十二月十五日(水)

 十一月はとんだ。夜中より


十二月十六日(木)

 法務委員会出席、風つよい

 寿江子、国男、開成山にゆく。

 家賃、月千円ときめる。


十二月十七日(金)

 きょうは、きのうあんまり歩きその他の理由でケイオーゆき中止。岩上さん来。

 一月四日婦人の時間声のごあいさつ。


十二月二十日(月)

 午後一時、ろく音、十二月三十一日のために。


十二月二十三日(木)

 宮、太田さんと一緒に四国、岡山その他へ


 東條、今暁、処刑

 家族の話、東條は生きている。


十二月二十四日(金)

 ケイオーの北沢さんに見て貰いにゆく。

 かえり、NHKで、ろく音し直しして貰う。

 血圧 120 と 130(左)


十二月二十五日(土)

 文芸大講演会、五十分、ファシズムは生きているについて。


十二月二十六日(日)

 工合わるく床につく。


十二月二十九日(水)

 尾崎さんケイオーにゆき診断もらって来る。心臓と腎臓一ヵ月は安静。便所におきるだけで運動禁止。


十二月三十日(木)

 左室刺戟反応障害、心臓キノー不全、蛋白が出ている由。十七年のおかげ


十二月三十一日(金)

 北沢さんのところ。蛋白すこしへった由。

 クツ下三足。


〔メモ〕
英国におけるファシスト

 ○モズレーの追随者が釈放。モズレーは戦争中連立政府の労働党内ム大臣ハーバート・モリソンによって釈放。「英国復員軍人連盟」

 ○モズレーの一人の仲間ウィリアム・ジョイス─ホーホー卿は一九四五年反逆罪で絞首。ゲッベルスのために放送

 ドイツ人捕虜とレンラク、収容所の壁にスワスチカ〔鉤十字〕やスローガンをかく。(イースト・エンドで反ユダヤ反ソ反共をさわぎ新聞ダネに。)労働組合は内ム大臣イード Ede にヤルタ、ポツダム会談の決定でせまる。彼曰ク「言論の自由は神聖である」。組合の自主的闘争。集会をハックネーからおっぱらい。社会主義者Edeイードがファシストの第一の保護者。毎日曜日に何百人ものポリスがひとにぎりのファシストを守っているのが 1947 年に見られた。反ファシズムの群衆を獄へおくる。イードの「ファシストの諸活動を処置する最善の方法」は一九四六年から二年間にファシストを保護するということが明かになった、労働党政府に大衆はあいそをつかしている。一月十五日

パレスタインの状態

 国際連合がパレスタインに二つの国家──ユダヤ国とアラブ国を作る決定してから、英帝国主義者はパレスティンにさわぎをおこしユダヤ人に対してアラビア人をけしかけ、植民地統治が必要であるということを示そうと努力した。英民政当局+軍当局+ファシストがカタネーの兵営で調練している。アラビア人もユダヤ人も生産低下。英の原料食料輸入サギ。アトレーとベヴィンの支配下のパレスタイン。アメリカは近東の石油生産四割を支配している。近東におけるアメリカの英市場の侵略。軍事基点を得ようとしている。アラブ、ユダヤ両国をつくらせたくないイギリス、同じアメリカ。そのために二つの側の大ブルジョアジーとの結合、右翼労働組合。ユダヤ人の大実業家サークル、諸輸出入会社、オレンジ植林地の所有者。彼等の私兵たるテロ団「アーガン」「スターン」。二つの民族の協力友交、独立。

香港における日本綿布

 香港商工会人員の二百十五人の反対署名

 香港における日本の綿布、紙、印刷用インク、磁器、□甃、ガラス、味の素、化学製品、オモチャ水産物は米英品及国産の⅓か½の価格。

 シンガポールから入る英国、インド産綿布は香港で一ヤール一円五十銭ヤスになった。日本のダンピング用綿布四億ヤール。

 日本工業水準はポーレーの日本「バイ償計画」からストライクの修正、ドレーパーの復興案となり、日本経済侵略の第一の紡績は現在の三〇〇万ツムを戦前の一千万ツムにもどそうとしている。紡績品の輸出額二億ドル(現在から)一五億ドルに増そうとしている。中国香港の日貨ダンピングから蒙る被害。

底本:「宮本百合子全集 第二十五巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年730日初版

   1986(昭和61)年320日第4

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※「ヷジム」と「ワジム」、「ニウナアック」と「ニューナアック」、「ロバート・オーエン」と「ローバート・オーエン」、「Ede」と「Ede」、「パレスタイン」と「パレスティン」の混在は、底本通りです。

入力:柴田卓治

校正:富田晶子

2020年17日作成

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