日記
一九四五年(昭和二十年)
宮本百合子



一月二日(火曜)

 寿江子と二人。第一信。


一月三日

 小川さんの家へ午後から。坂西という人。「アメリカ発達史」以後一九二九─一九三五以後、ニューディールから今回大戦までの大略の話をきき面白く思った。自分の力で何ものかをなして其を又すっかり失い又つくり直そうとする位の女の据ったところがある。大宜味にしろ。Jさんは、自分の弱さを知らなすぎる。


一月十一日

 ユリ子さーんと二階へ上って来た声は房子なり、まさか、と思う、が、本当だった。いつ来たのさ! いまついたところよ


一月十四日

 馬崎をよんで奥を片づけているところへ菅谷来。人がないとのこと。じゃあ、この人を、と馬崎をやり、早速ワードローヴ・タンスなどもちこんだ。なかなか決断がよくてっとり早い。


一月十五日

 朝から荷を運び、義父も来て手伝っている。夕刻終る。

「もう今夜からこちらでねさせて貰います」

 実にあっさりしている。カレーライスをこしらえて皆でたべる。


一月十八日

 ふさ子が朝九時で立つというので皆で朝飯をたべ、寿送ってゆく。自分巣鴨へゆく時間が中途になったので、やめて、寿の家を見かたがた一緒に鷺の宮へ行く。そして、十二月二十八日以来風呂に入る。三度も四度も出入りしてゆっくり入る。実にいいこころもち、そして夕飯をたべ。九時頃気をもむのに寿いうことをきかず。駒込で下りたらもう市電なし(十時で終り)又日暮里まで。歩いて帰る。


 S千葉の物価と危険とのために東京暮しを思い立って来ている。ぐらぐらしているので菅谷が来ても帰ろうとせず、時々疳が立つ。早く帰ってほしいと。しかし哀れでもあって辛棒する。どうしてそう疳にさわるところのある性質なのか。大成しにくい。大成に必要な一筋さがない。


一月十九日

 巣鴨、


一月二十日

 山崎へ速達

 開成山へ速達

 くすり送ってくれと来る。当分帰らぬつもりとよめた。


一月二十一日

 この数日来夜警報が出ない。大阪、高知、その他へ八十位来てはいるが。不親切ものの親切のようであとのこわいことお話にならず。きょうから一週間月番。

 Jさん、はかったり金をしらべたりすること上手で大助り、自分は相変らずの鳴動だから。千種孝の葬式。親身の心配をする者が一人もいない。ひどい病院寝台車の改造したものに襦袢一つにして白布もかけない棺をのっけて、そこへ定男という海軍の人と嫁の母が同乗(!)して出かけた。わたし丙ばかりよ、と云った娘さんは房と云って、太田という老軍人の妻となって大阪にいる由。

『風車小舎だより』、スガンさんの山羊、法王の騾馬、キュキュニャンの牧師、ゴーシェー神父の保命酒等面白い。ドーデーのこんなものは今よむと、こってりとした丸い露の一しずくのような味がある。

〔欄外に〕

 巣鴨へ

  北方の風

  絹の道

  外蒙共和国

 開成山へ

  タバコ

  太郎の本


九月五日

 朝のうち〔三字分空白〕が切符を買っておくから其を国とりに行く。いいあんばいに通しで島田まで買えた。二等百一円也。十五円心配賃をやる。

 午後についでがあったら荷物をとりに来ると云ったが来ず。枝豆のたべ頃を逃すというので大いにゆでてくれる。


六日

 出発前に市の特高へまわって行こうとしたのに、車夫が行李が八貫目もあるという。びっくりして、わいわい云って繩を解いてなかの本類をみんな出してしまう。そして前へのせて行く。郡山まで五円。二円荷造り賃をやる。チッキ島田迄三円也

 この前東京に帰った頃よりは(六月下旬)ずっと閑散になっている。そして汽車の中の気分がまるで違っている。七月の初旬小牛田行の十時五十分で荷物の上に腰かけて来た頃は、小山で空襲に会うか宇都宮の先で会うか、マア無事でよかったと郡山に降りた。ひどい混雑で乱暴ながら、何か皆を一まとめにしている共通の感情があった。空襲の不安、その共通の被害、明日は我身の上という寛大さ。そういうものが貫いていて、何となし火事のあとのような一種の和気があった。

 六日の汽車は、二等だったせいもあろうが、みんなてんでばらばらの表情で、復員の若い水兵とその部下。中尉ぐらいの陸軍の男と何とか研究所の人間の非常に所謂練れた五十男。真白いフランネルの半ズボン、白靴、ネクタイをしめたシャツ、一寸した上被り。そういう「南方」の服装をした男、どれもつまらなそうな、其癖くよついた顔をして自分の中にとじこもっている。

 そのこわれた、バラバラの、熱のさめた感じは、先夜の汽車の印象と著しい対照である。(八月十五日以来はじめて汽車にのったから)間もなく検札が来る。随分不正乗車があるらしくて気が立っている。やせて、楔形の顔に不精髭が生えゲートルをまいているのが、自分の切符入れに省線切符の使わないのが入っているのを見て「使用ずみのですか、頂きます」という。突嗟に一寸分らなくてボンヤリしていたら「回数券ですか、みんな頂きます」ととって行った。これは喧嘩の間に行われた。というのは、一人の白チヂミのシャツにゲートル巻の男が三等切符で入って来ていて「こんなめちゃくちゃな世の中になったのに、汽車ばっかりやかましいこと云ったって仕様がないじゃないか」と大声で悪体をついた。「めちゃめちゃな世の中だから、ああやって天皇陛下が勅語をお出しになったんじゃありませんか。鉄道の規則はどこまでも守って貰わにゃなりません」まだその男ブツブツ云っている。も一人の男は、車掌のわきにすりよって「どうぞお願いします、知ってすることじゃないんですから、どうぞお願いします」とやっている。何処から何処へ行くのか「二百円ばかりかかります」とやられている。二百円は迚も出ぬ風体である。

 一応すんだと思うととなりの列のところにいた若い水兵(学生上りの男で下士官)のところへ来て「あなたは車掌を何と思っているんですか。三等の切符で二等へ乗って、精算して上げます、とおだやかに云っているのに何の文句があるんです」若い下士官小生意気ないやな顔をした男、陰性にブツクサ云っている。「文句がある? どこに文句があります、一言でもこの方を侮辱したことがありますか。商売だから辛棒して下手に出ているのに。そういう心掛だから我が国はこういう有様になったんです」やがて、その下士官は七十円請求された。紙入れから十円札をつかむように出して払った。

 雰囲気は沈鬱で息苦しい。自分の坐席の前には背広を着た五十がらみの男と陸軍の肥った満州がえりという鈍感そうな中尉か何か。

 小山から通路もめちゃめちゃ、等級もめちゃめちゃになって久喜ではやっと窓から降りた。

 久喜で。

 伊藤書店から出る雑誌やパンフの話。新日本新聞の話。木原が例によって動いている由。国際経済研究所を木原がやっているとは知らなかった。俺もケレンスキー位にはなれるだろうと云っているとのこと。

 杉君、編輯者になってゆく傾向をつよく感じた。そして、抑揚のとぼしい常識的であることも。発育に大切なポイントが精神に欠けている。


八日

 てっちゃんに会いたいと思ったがマッカーサー東京進駐というのでやめ。高垣松雄のアメリカ文学史をちょいちょいよんで学ぶところあり。しかしこの本はスタインベック以前 Dark Smile の著者の辺までしかふれていない。

 自分は伊藤から出る三十二頁本の一つとして最近数年間に翻訳された「アメリカ文学」について社会批評もかねて書くことにする。これは極めて有益だと思う、原稿で七八十枚の由。


九日

 杉さん、渋谷までリュックを背負ってくれて、自分てっちゃんのところへ行く。電報は六日に埼玉とここと二ところに出したのにどっちにもついていない。恐るべきウナ也。幸在宅。二階で何かの巣のように暮している。下の判事という人、顔を洗っていたら「御高名はかねがね伺って居りました。高等学校時代からお作は拝見していて」とあいさつされた。細い、フルフル浴衣を着て貧血になやんでいる人。支那の法律を研究させられていた、資料みんなやいてしまった由。

 てっちゃんといろいろ話す。大体自分の考えているとおり。自分の判断に従ってよいとわかった。たかの御亭主には山口から帰ってから会うことにする。卯女の父さんについても感想をきいた。方針ともいうべきものとして、十五年以後の文芸批評をして「十四年」とまとめて本に出すことにきめた。網走行は中止して、こちらで仕事の用意、生活の用意をしておいた方がよいことになる。自分もそう思う。

〔欄外に〕

 東京へ二ヵ月ぶりで入ったら巡査が C. P. とかいた腕章をつけてしおたれている、憲兵が M. P.、そして各省線の駅に Entrance Exit と。

 日本社会党、結成に向う。


十日

 鷺の宮へ行く。主人公畑で働いている。細君、少女ものを書いている。ここの感じは久喜とちがって、いろいろの話は広汎に流入して来ているのにかかわらず、それによって何か一つの方向が決定されるというのでなく、単なる日常性の変化のようにうけとられているのが特徴である。自分たちの生活の中にうけ入れるのであって、自分達の生活で其を創って行こうとする切先がやはり欠けている。丸くなってしまっている。

 話していると午後、家政先生来る。この人はさすが、そうそう丸くなってはいない、感じが。勉強するものとしないものとの差。気質の差。その他。

 稲子おなかをわるくして臥ている由。自分どうも行きかねる。何だか話しがしにくい。フランクになれない。(先方がふれさせない面)


十一日

 朝五時におきて急行切符を買いにゆく。百人位の列で買った。かえり三越にまわり土産を買う。色のついていない積木一組 6.23、アメリカ兵のために古い綴織つづれおりの単衣帯を並べている、一本 785 800─900─。いくらアメリカ兵でも兵は兵だ。七十弗位の帯を一本買えはしまい。鉛筆、ノポピンを買う。

 銀座三越にゆく、ポンジーの紙箱入白粉二つ、ストロベリー口唇棒だけパラフィンに包んだの二つ、12.75。アメリカ兵あちこち一杯。Jap is bankrupt 日本は破産した、と云っているのを聞く。その声は真面目でおどろきを含んでいる。午ごろ鷺の宮へかえる。


十二日

 壺井さんが小豆島行の切符急行券買いかたがた送って来てくれる。五時半出発。六時半から並んで七時半ごろ乗車。坐れた。が、あとになって、そこのガラスがこわれて、ないことが分ったが仕方なし。

 ○前に、土木の親方から時局的キカ屋になり満州辺で儲けた反歯のがさつだが頭はうごく五十男。

 ○そのとなり教育総監部の課長をしているという大佐、自決覚悟の由。小心な軍人魂のこりかたまり、小さい口、武骨な横柄さ、しかしそのわれめから見える人間らしさ。はにかんだ顔をしてちょいと教訓的なことをいう、自分の隣席の傷痍軍人に。

 ○京帝大農学部出身三十五歳、北支で負傷、陸軍病院に一ヵ年半。看護兵のことは「ヨーチンヨーチン」と気合をかける。片脚大腿より切断、子供一人五歳男の子、鉱山統制会社につとめている。World Curent News をもっている。いろいろに動揺して故国に向っている感情。

「どういうもんでしょう、国体論というような本は、かくしておかんけりゃいけないものでしょうか」

 やがて下車駅の京都近くになって前の大佐殿にきく。「われわれはあくまで国体護持に終始する」答は一本棒の如し。つまり答えになっていない。自分解説する。

「そんなことしなくていいでしょう、どういう本はよんではいけないという狭さがあったから、国体論までいかがわしい本が出たんです。これ迄主観的によまれていたのなら、客観的に世界的な眼でよみ直さなくちゃいけないでしょう」この卑屈さがこれ迄の日本の戦時教育の姿だ。

 京都が近づくにつれて、胸一杯という風で段々陽気さを失い深くうなだれている。

 この列車は下関行の只一本の急行だが、電燈の工合わるくてパッとついて消えパッパッとついて消える。そして遂に暗闇で(大阪以西)走る。

 止るどの駅も破壊されている。東海道全線そして山陽線も。広島、岩国ひどい。岩国の駅はなくて板で踏場をこしらえてある。(ロシアの田舎駅のように)そこへ人糞がところどころ落ちている。窓から旅客が夜にまぎれてして行くものらしい。

 三等は帰国する半島人でギューギュー。岡山よりこちらでは二等の通路にも半島の人来てねている。復員が結局大多数ということになってしまい出入りも大不自由。

 広島実にひどい(雨)地下道丈のこって、片腕のない少年駅員が冷笑的な意地わるさで戸惑っている旅客につんけんものを云っている。


十三日

 朝八時頃、岩国のりかえ。島田十時ごろ着、八時半東京出発。二十六時間の上かかった。パラパラ雨の中をうちへ歩いてゆく。

 店ガランとして人気なし、御免なさい、と云っても人けなし。ずっと台所の方へ行ったらば、そして、もう一遍こんにちはと云ったら、マアと友子が出て来た。こういうものが参りましたよ、マア、ように! おばあちゃん、おばあちゃん、東京から見えてですよ。お母さん、裏の室からかけ出て来てマアマア、今ついて! とびっくり。えらいのにほんに、マア。着換えしてから達治の話いろいろきく。

 母、気の張りが失われている。友子相変らずグタグタ。母をよくつかう。夜八時すぎもうねてしまう。文子という女の子が先生だのにドシドシ手伝わされていてびっくりした。


十四日

 おそるべき小鬼なり輝というのは。勝の方が普通。エクセントリックな男の子なり「じら」がえろうて、と。


十五日

 多賀子、来る。達治が三ヨシというところにいる夢を見た、と。さがしに行こうと。自分二階で手紙かいている、お母さんしずかに上って来て小声で「多賀子が見えましたで」何故そんなに小さい声で告げられたのか分らず妙。すぐ下りてみたら多賀子三十分も前に来ていた由。ねていると思った由。もしかしたら多賀子と達治さがしに出かけようと思い、泊りよ、ねお泊りよ、泊らせる。お母さん広島までの切符たのんで手に入れる二枚、夕方より雨となる。


十六日

 一日相当の雨。多賀子縫物。自分のしまお召の着物、絹セルの袖をつめてくれる。モンペの型をとってくれる。


十七日

 きょうも亦一日雨。夕飯電燈が消えそうだ消えそうだと云ううちに終り早ねしかけていると、浸水の危険があると友ちゃん云い出して、下の衣裳箱類を高いところあげる。畳をめくる。そのうち裏から先ず前坐の方へ浸水、はアもう水が入りよったで! 十時頃一二寸引いて床下で止りそうだったのでみんなが二階でコーセンをたべたが、河村さん夫妻、水がおごりよります、というので下の箱をみんな二階にあげて貰う。その間に、ハアここまでついちょる、と裸体の河村さん股を示す。「こりゃ早う避難せますじゃ、家がこけよる」「どうなろうかいの、こん丈水がおごっちょるのに、どうでわたれよう」恐慌的になる。西をあけてみたら、河村の軒下一尺五寸ばかりのところを濁水がどんどん走っている。背が立たない。東をみると、高い道路の上は風と雨の間に白く見えている。「出るなら裏しかない、階子ないかしら。何とかしたら裏から出られましょう」多賀子「この二階の階子つかったらよい」正一裸で水に入り、森サキの畑へ向って台所の屋根から階子かける。「さあみんなの着換と子供の一組ずつここへ入れなさい」リュックに入れて河村に負って貰い、母、友子、文子(一人ずつ子供)わたし、多賀子の順で屋根から出る、畑のところ水は膝の上までズブズブもぐる。路へ出たら五六寸ばかり。足の裏裸足なので痛い。とんだ事をしたと思う。寺の本堂で夜を明す(眠る)

 寺で握飯をたいて(うちからもって行って)たべ、午ごろリュックを背負って下りる。ひどい。ひどい。「水の引いたあと」と惨めさをいうが全くひどい。薪がうんと流れた。塩も味噌もながれ、土蔵にもついている。タンスひっくりかえっている。森サキの便所をかりて、二階で食事もねもする。

底本:「宮本百合子全集 第二十五巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年730日初版

   1986(昭和61)年320日第4

入力:柴田卓治

校正:富田晶子

2019年730日作成

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