天竜川
小島烏水
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一
山又山の上を、何日も偃松の中に寝て、カアキイ色の登山服には、松葉汁をなすり込んだ青い斑染が、消えずに残つてゐる、山を下りてから、飯田の町まで寂しい宿駅を、車の上で揺られて来たが、どこを見ても山が重なり合ひ、顔を出し、肩を寄せて、通せん坊をしてゐる、これから南の国まで歩くとすれば、高い峠、低い峠が、鋭角線を何本も併行させたり、乱れ打つたりして、疲れた足の邪魔をする。山越しに木曾路へ出て、汽車に乗るとすれば、トンネル又トンネルがあつて、この温気に、土竜のやうに、暗の窖を這ひ、石炭の粉の雨を浴びなければならない。
けれども、山の町から一直線に、傍目も触らず、広々とした南の国の、蜜柑が茂り、蘇鉄が丈高く生えてゐる海岸まで、突き抜ける天竜川といふ道路があることを私は知つてゐる、しかも日本アルプスで、最も美しい水の道路であり、水の敷石であることを知つてゐる、この道路はどんなことがあつても、酸化したり腐蝕したりすることは先づ無い、今まで頑なな、鉄糞のやうに、兀々した石の上で、寝起してゐた身が、濃青の水、情緒の輝やきに充ちてゐる自由な川波に乗つて、何千尺の高さから、大洋の水平線まで、一息に下り切るといふことが、「船さして雲のみを行く心地しぬ、名も恐ろしき天の中川」といふ、この川を詠んだ古歌の心を、味ふのに十分であらう、金剛杖の代りに櫂、馬車や汽車の代りに、亜米加利の印度人が、操つたやうな、原始的な、軽い、薄ッぺらの板舟で、五十里の峡谷、それもおそらく日本に類のない深谷を下られるといふ道路は、他のいかなるそれよりも、美しい幻影に富んでゐるに違ひない。
今でこそ衰滅の俤しか残さないが、覊旅の人たちに、古典的の壁画を見つめさせるやうに、すがれた色彩と、暗い陰影を味はせる東海道にあつても、この天竜川は、音に名高い大河であつた、小天竜大天竜は、川筋の変つた今では、その跡をたづねられないが、名だけは古い地理書に残つてゐる、
「十六夜日記」の女詩人は、河畔に立つて西行法師の昔をしのび、「光行紀行」の作者は、川が深く、流れがおそろしく、水がみなぎつて、水屑となる人の多いのにおびえてゐる。
日本の歴史の恐怖時代といふべき、平家の末路から、鎌倉の執権政治にかけて、悲壮なる運命劇は、何故か東海道の河畔で演ぜられたのが多い、承久の乱に鎌倉に囚はれて、東下りの路すがら、菊川の西岸に宿つて、末路の哀歌を障子に書きつけた中御門中納言宗行卿もさうである。「菊川に公卿衆泊りけり天の川」(蕪村)の光景は、川の面を冷いやりと吹きわたる無惨の秋風が、骨身に沁みるのをおぼえようではあるまいか、更にそのむかし、平家の公達、重衡朝臣が、西海の合戦にうち負け、囚はれて鎌倉へ下るときに、この天竜川の西岸、池田の宿に泊つて、宿の長者熊野が女、侍従の許に、露と消え行く生命の前に、春の夜寒の果敢ない分れを惜しんだことは、「平家物語」に物哀しくしるされてある。
かの近松の道行振りなどの、始祖をなしたかとおもはれる「太平記」の、俊基東下りは、私などが少年時代に、よく愛誦したものであるが「旅館の燈幽にして、鶏鳴暁を催せば、匹馬風に嘶いて、天竜川をうち渡り、小夜の中山越え行けば、白雲路を埋み来て、そことも知らぬ夕暮に……」といふ七五調の、メロヂアスな文句は、いかに大河を横切つて、死にに行く身の悲壮なる光景を、夢幻的に現はしてゐるであらうか、東海道の美しい歴史は、文化の京都から、野蛮の関東へと、廃頽して行く筋道となつて開展される、王朝時代のデカダン詩人、業平の東下りは、哀れにも華やかな序幕を明けた、さうしてそれから後に、多くの「東下り」なる悲劇が、殊に多く川の岸を舞台として、演ぜられてゐるのは、注意すべきことであらう、行きて返らぬ川の姿と、石にせゝらぐ水の啜り泣きと、荒涼として河原蓬の風にそよぎ、蘆花の衰残する川景色は、さなきだに寂滅為楽の虚無思想を、背景としてゐる当時の人たちに、いかにやるせない心の悶えを起させたであらう。されば大河を前に、うつろひ易い人生の姿を見てあれば、「水無月や人の淵瀬の大井川」(蓼太)といつたやうな感じに打たれないものはなかつたであらう。
かくの如きは、古くから日本の文学を裏付けてゐる無常観で、あまりに常套な、又あまりに感傷的な句ではあるが、しかも時の姿、流れの姿は、人の身の上ばかりでなく、川それ自身の栄華をすら、鼠色に暮れゆく川上の、遠山に沈む斜陽のうす黄色の中に、うすら寒い谷の影を、描き出されるやうになつた。
未だ木曾街道に、汽車の出来なかつた頃は、河舟の数二千五百艘、搭載量二万七千四百石と唄はれた、下り船上り船の往き交ふ繁昌も、今では火の消えたやうに寂びれ切つて、偶まに川下りをしようとして、河畔に立つ旅人があつても、船が出ないために、空しく失望して引き返さねばならなかつた、私も二度ばかりさうした憂き目を見て、心ならずも傍路へ外らされた。
しかもこの儘に、埋没させるには、あまりに華やかに、あまりに麗はしく、若々しい川の姿である、Rev. LO, Roke といふ日本へ来たことのある英国人は、五六年前、倫敦の王立地学協会で、講演して、「およそ全世界に見られ得るほどの川の純美は、凡て天竜川にあつまつてゐる。ライン河を下り、ダニューブ河を下つたが、到底天竜川に及ばない」とたゝへてゐる、私はライン河もダニューブ河も知らないが、天竜川の延長五十四里、その中の三十里は日本アルプスの屋棟ともいふべき信州を流れて、川幅が最も狭く、傾斜が最も急で、岩石の中でも、最も堅硬な花崗岩や、結晶片岩の中を流れてゐるといふ浸蝕谷であるから、この川の特色としては、かの欧洲アルプスから、地層の走向に沿つて流れ出るローンや、ラインのやうな、水平らかにして、幅濶く、流れの遅々とした谷に比べて、もつとフレッシュで、もつと純粋で、もつと深谷的なものであらうとおもはれる。
しかのみならず、私は憫れなほど、水に欠乏してゐる都市に住んでゐる、水も何米突若干銭と、秤量にかけるやうにして、高い租税を払はなければ飲めないばかりか、川水の姿を見ようとすれば、鉄橋の下の、鉄漿溝のやうに、どす黒く濁つた水を、夕暮の空に、両岸の燈火の幻影で、美しく粉飾して、眺めくらして、はかない欲望を充たすのである、さもなければ、偶に古城の御濠の水を、石垣の曲りくねつた黒松の行列や、埃だらけで、灰色に化けてゐる名ばかりの、青柳の樹影に、透かし見て、水藻や、バクテリアで、毒々しく淀んだ、沈滞腐敗した水のおもての青みどろの色に、淡い哀愁の情を寄せてゐなければならない。私たちの祖先は、森蔭に眠り、水辺に浴みしたであらう、水を追うて都市に出て来たであらう、もし私たちに水の都を慕ふ情緒を、許されるならば、日本アルプスの雪の山、氷の山で、閉された、厚ぼつたい、森厳にして冷酷な周囲の中から、きはめて繊細な、しかしながら尖鋭な、鎌の刃を閃かし、この鉄壁を突き通し、縫ひ通し、岩石の心臓から、谷間の狭い喉頭を通過して、深い深い、大きい大きい、太平洋へ出る銀色の川の姿に、見惚れないで何としよう、見惚れるばかりでなく、たとひ一日二日なりとも、絶えず動揺し、奔放する水の線の上に、住まつて見たい、一髪の間を隔てゝ、耳許に水音を聞くだけの、生活をして見なければならぬ。
私は飯田から二里ばかりある、時又といふ船の出るところまで、車を走らせた。
二
渚には空船が底を空に向けて、乾されてゐる、川岸には荷を積みかけた船が、纜つてゐる、私はこの荷船に乗るのである、どうせ積荷を主な目的とする船であるから、無理やりに、荷物の中へ割り込んで、坐るぐらゐの窮屈は、忍ばずばなるまい、何となれば時又から、一日で、天竜の下流、鹿島に達するまでの「通し船」を、傭ふには、非常に高い賃銀を払はせられるので、私のやうな日本アルプスの貧しい巡礼に、貴族的の豪奢を、要求することに当るからである、私は時又から満島まで、八里の間を、この荷船に便乗し、満島から西の渡まで、九里の間は、村落蕭条として、荷船さへ通はないだけ、それだけ、天竜川が怒吼激越の高調をして、深谷の怖ろしい姿が見られるのであるから、その距離だけを、別に船を仕立て、西の渡から鹿島までは、毎日客船が出るさうであるから、それに乗り換へることにしたのである。
時又は川添ひの間の宿で、一寸した料理屋が川端にある。浴衣を着た、白粉剥げのした女が、素足に草履を穿き、川縁に立つて、名古屋訛りの言葉で、船頭に言伝てを頼みながら、手紙を渡してゐる、船はその茶屋の側から出る、これが港であつたら、黒い船、赤い船が、檣や烟突を、林のやうに立たせ、重々しく鎖を引き擦り、錨を卸して、青い海の上と、焼けるやうな赤い雲の下に、装飾的に行列してゐるところであるが、この奇体な、みすぼらしい川船は、渚に繋がれてゐるのはいかにも迷惑さうに、航海者が慄気を震ふ風なんぞは、一向に平気だといふやうな顔をして、一寸した水のうねりにも、神経をピリリと動かせ、今にも水の底を潜りかねない気配をして、待ちくたびれてゐるげに見える。船体を白く塗つてゐないから、白鳥とは見えないが、又鰭を振る魚とも見えない、船の長さ七間半、幅四尺、深さ三尺ぐらゐで、両方の舷側には、小さな穴を明け、棕櫚繩で、長さ九尺ぐらゐもあらうかといふ樫製の櫂を、左右に二挺結びつけてある、櫂の折れ目に鉄環でツギをあてたのもある。
船の中には、竹棹が何本となく抛り出されてある、その棹の先には、鉄の環が二つ嵌り、尖端は木槍の身のやうに、細く削つてあるが、岩石を烈しく突き立てると見えて、サヽラか草楊枝のやうに裂けてゐる、荷物を見廻すと、菓子、酒、塩、饂飩、殻類、提灯などが積まれ、「濡れ物、御用心」など紙札を張つたのもある、荷物がなければ、一船に定員二十五人を詰め込むのだそうであるが、今は人の方が附けたりなので、四五人の乗客しかなかつた。
薄ツぺらの船板は、へなへなしなつて、コルクみたいに柔らかく、水をいなすから、板と言つても、帆布一枚で、漂流するやうな気もされる、一人の船頭は艫に立つて、櫓を操り、一人は舳先に立つて、水先案内の役を務める、外に船頭が二人で、両舷の櫂を、ボートのやうに水にピタピタ入れると、瀬の音がさらさらと鳴り始める、岸から水中へ辷り込んだとおもふと、物に魂でも入つたやうに、ツイと放れた。
船底がゴブゴブいふ、雨風に窶れた船の、心臓が喘ぎ喘ぎ波を打ち出した、もう水に流れ始めると、先刻感じたやうに、柔らかい帆布でもなく、水を泳ぐ魚でもなく、角度角度が前後両翼の櫂で決まつて、白い石の土堤、桑畑、荒壁の土蔵、屋根の上のゴロ石などが、引いて取られるやうに、すつと後へ退り、川上の伊那山脈は、紫陽花色の、もくもくした雲の下へ捻ぢこまれて、強烈な印度青の厚ぼつたい裾も、前なる草山のうしろへ、没してしまふ。
「筏の行つたあとを通るだなあ」「白い瀬の東下りるだよ」と、舳先からは艫の方へ声をかける、中の船頭は、鉄の環の入つた竹棹を、水にグイと入れる、眼に見えない強い力で、両手を引ツ張られ、グルグル引き廻されて、惰力のついたところで、抛り出されたやうに、船はいきほひづいて、滅入るやうに前に俯んで、又ひとうねりの大波を乗つ越すと、瀬の水は白い歯を剥き出して、船底をがりがり噛み始める、水球が飛び散つて、舷側は平手で、ぴちやぴちや叩かれる音がする、腰の廻りへ、袴のやうに蓆を着て、鮎を釣つてゐる人が、水沫の中で掻き消されて、又しよツぱい顔が浮ぶ。
「親殺し」といふ崖の下で、水は油を流したやうに、澄んで、今までのさわぎは忘れたやうに、けろりととぼけてゐる。
「磧へついて廻したぞ」と、艫の方から声がかゝつたが、夕立のやうに、水がざわついて、小さな水球が、霧雨となつて飛んで来たので、もう名高い天竜峡に入ツて来たと知つた、竜角峯とか、何々石とかいふ岩石が、水ですり磨され、覇王樹のやうに突ツ張つて簇がつてゐる、どの石もみんな深成岩と言はれてゐる花崗岩で、地殻の最下層の、岩骨が尖り出て、地下の神経を剥き出しにしてゐるのである、岸と岸との間は、おそらく十五米突ぐらゐな距離しかあるまいが、この並行線は、いつまでも一致しないで、喰ひ合はうとしては離れ、離れては又曲りくねつて、その間を玉虫のような、翡翠のやうな、青葡萄のやうな水が、すうい、すういと流れ、表をかへすと、雪のやうな白い裏地が見える、崖の骨に喰ひついて、萱草の花が火を燈したやうに、黄色く咲いてゐる、船はもうハムモツクのやうに、空と水の境を揺られる。
崖の出口の、寺が淵へ来ると、騒ぎくたびれた水は、しんとして、静まりかへる、それもしばしで、オハチへ来たころは、渦まく水が強い呼吸で、吹き分けられたやうに、落ち込みが出来て、浪の中に二三尺の穴が明く、船はその中へ吸ひ込まれさうになつて、大岩の曲り角へと突つかけて来ると、竹棹が崖へ飛びついて、弓のやうにしなふ、一人の船頭は櫂で舷をコトコト叩いて、上り船に信号をする、ざんざの水音と、コトコト叩く櫂の音が、入り乱れるが、その櫂の音は、力のない音響の一滴に過ぎなかつた、私はこの櫂で叩く音を、簡単な上り船への信号とのみ見たくない、チエンバレイン氏が「日本のアイノ」に描かれたやうに、水中の窪魔を、追ひ退けるため、水を追うて川を下りたといふおまじなひが、今でも無意識に伝はつてゐるのでは、あるまいかと考へた。
コアゼの大滝へ来たときは、どんどろの水が、沸り落ちて、船は麻痺した身体が、動かない手足を、じたばたさせながら、何とも仕方ないやうに、立ちすくんでしまふ、舳先の船頭が、手練で舞はす櫂は、蜻蛉の薄羽のやうに、鮮やかにキラリと光つて水を切つても、船は水底の、世にも怖ろしい執念の力で、引き留められるやうに、行き悩む、中なる船頭が、木彫の仁王のやうな、力瘤の入つた筋肉を隆くして、丁字櫂を握つたまゝ、踏ん反り返り、合掌に引いてゐるのが、千曳の大岩でも、水底から引き上げるやうに力瘤が入る、水と船との死物狂ひの闘ひを、小面の憎いほど知らん顔して、煙管を横銜へに、竹の網を張りながら、こつちを瞰下してゐる男がゐる。
竹棹で大きな白い岩を突かうとした船頭は、帽子を水の中に落して、あつと言ふ間もなく、塵芥のやうに、黒い点となつて、引ツたくられてしまつた。
この辺の川は、むかしは大岩だらけで、いく船を打ち割つたものださうだが、今でも俵石などいふ巨大な岩塊が、水の上へ背を露はしてゐる、朝に一本の歯を抜かれ、夕に一本の角を折られるやうに、岩石は切り開かれて、川路は作られても、洪水や風雨が、後から後から、大小の石を転ばして来ては、一水もやらじとやうに、邪魔をする。
大久保の長瀞へ来たときは、水は湖沼のやうに、穏やかな、円かな夢でも見るか、ひつそりして、やんわりと大様な亀甲紋が、プリズムの断面を見るやうに、青硝子色をしてのんびりとひろがつてゐる、乗客たちは、安心したやうに、濡れた袂を絞るやら、マツチへ火をつけるやらしてゐる、銜へ煙管に膝を抱いて、ポカンと青い空を見てゐるのもある、竹棹の先の鳶口を、岩に引つかけ、船を右舷に傾斜させて置いて、船底の片隅を、溝をなして流れる閼伽水を、短い汲桶で、酌み出しては、川へ抛りこむ。
大久保といふ村落のあるところを過ぎて、峡間がひらけたかと思ふと、あまり高くはないが、日本アルプス系の一峯が、遠い空に聳えてゐる、おもひ出せば、或時は夕暮の夏の、赫々たる入日に、鋼線が焼き切れるやうな、輝やきと光沢を帯びて、燃え栄つてゐたのも、是等の山々であつた、その山の白い頭を、いや白くして、白金の輝やきを帯びてゐた氷雪が、日の光と、生命の歓楽に、よどみを作つて、房々とした黒髪の長い処女の森を通り抜け、何千年となく無辜の生霊を葬つてゐる、陰惨たる洞窟から、滲み出て、異教徒のやうに、反抗の叫びを高くして、放浪児のやうに、刹那々々の短い歓楽を謳歌して、数千万の水球の群れが、山と山とに囲まれてゐる狭い喉を、我克ちに、先を争つて通過してゆくのである、一分一秒は、白く泡立つ波と、せゝらぐ水の音に、記録されてゐる、凡ての雰囲気が、みんな水に化けてしまふかとばかりに、一団の雲とも、水蒸気ともつかぬ精力になつて、吹つ飛んでゆく。
谷川の水であるから、海にあるやうな深い水の魔魅はないかも知れない、けれどもまた海の水のやうに、半死半生の病人が、痩せよろぼひて、渚をのたうち廻つたり、入江に注ぎ入る水に、追ひ退けられたりする甲斐性なしとは違つて、冷たい空の下でも、すゞし絹のやうに柔らかに、青色の火筒のやうに透明に、髪の毛までも透き通るまでに晶明に、地球上最も堅固な岩石の、花岡岩をすら、齲歯のやうにボロボロに欠きくづして、青色の光線を峡谷に放射し、反射して、心のまゝ、思のまゝに、進行する見事なる峡流の姿は、豪奢な羽を精一杯にひろげて、烈々たる日光の下で、王者の舞ひを舞ふ孔雀の威よりも、大きく見える、私は水の青色と、絶え間のない流動の姿とで、沈欝な気分を圧伏され、神経を静かに慰安されたやうになつて、一枚のハンケチを顔の上にかぶせ、仰向きになつて、暫らく青空を見つめてゐた、それも眩ゆくなつたので、崖へ視線を落すと、崖には山百合の花が、白く点々として、芳烈な香気が川風に送られて、鼻腔へ入る、秋は紅葉が赤くなると、どのくらゐ美しいかと、土地の人らしいのが、自慢話をしてゐるのを、聞くともなく聞いてゐるうちに、自分ながら眼晴が、あやしく散大するやうで、凡ての物が面帕を透して、遠く小くなり、感覧があるのか、ないのか解らぬほど鈍くなり、恍惚として、夢ともなくうつゝともなく、寝てしまつたが、ちらりと光つた青色の水の姿で、目が冴えて、起き上つた。
川はいま段落をして、船が引きずり卸されるやうに、下向きになつたかとおもふと、船頭たちは櫂の手を休めて、無抵抗主義に乗り越える、その時は爪先が立つて、前へ俯めるやうな気がして、人々は思はず、荷の上の油紙を引き寄せ、腰から下へ、前垂代りにかけながら、水面の恐ろしい傾斜を、まざまざと正面に見せつけられた、「唐傘谷といつて、難所でさあ」と船頭は平気である。
つゞいて茶々淵の大難所が来る、水の多いところを避けて、船は右へ左へと、一個の肉体を、自由自在に運動の継続で、調節させるやうにして、Zの線を描いたり、蛇の舌をぺろぺろさせるやうに、突進して、鋭く迅く速力を出したりして、水の音楽と、姿態と、拍子とに、合奏させてゐたが、八間岩といふ大屏風を引き廻して、峡流も横ざまに線を引いたやうに、一頓して落下する、もう峡流といふより、飛瀑と言つた方がいゝ、船頭はこゝで一人残らず、客を陸に上げてしまつた。ビシヨ濡れになつても、かまはぬと最後まで、残つてゐた私をも、追つ立てるやうにして、陸上の人としてしまつた。
空に引き渡した鋼線に縋つて通ふ渡し舟を、見ながら、私たちは、河原の石コロ路を、二三町も歩いた、傘も下駄も、船の中へ置き去りにして、尻ッ端折になつて、炎天の焼石の上を、腫れ物に障るやうに足袋裸足で歩いてゐる乗客もある、河原には埃を浴びて白くなつた萱草の花の蔭から、蜥蜴の爬ひ出す影が、暑くるしく石に映る、今夜の泊りの「満島まではまだ四里半もありやす」と、道伴れになつた同船の客から聞いて、傘をさしかけ、磧にしやがんで、下つて来る船を待つ、河原に焚火をした痕と見えて、焦げた薪や、灰が散らばつてゐる、溺死人でも、あつたんぢやないか知らんと思ふ。
暫らく停まつて呼吸を入れてゐた船は、こつちを目がけて、走つて来る、難所中の難所といふ、やぐらの瀑へかゝつて来たときは、波から三尺ばかり船体が乗り出したと思ふと、水煙が噴水の柱のやうに立つて、船頭の黒い立像が、水沫の中から二体浮び出た、火影に映る消防夫の姿のやうに。
乗客一同は又迎へられて、船中の人となつた、榎の渡しを横に見て、川田温田の二村のあるところで、乗客は大体どつちかの村へ下りた、饂飩五函、塩一俵が岸に揚がつた、村近くなつて、峡流も静かになり、米を舂く水車船も、どうやら呑気らしい、御供といふ荒村にしばらく船をとゞめて、胡桃の大木の陰になつてゐる川添ひの、茶屋で、私たちは昼飯を食べた、下条村の遠州街道が、埃で白い路を一筋、村の中を通つてゐる、ここで、又残りの荷があらかた卸された。
今まで峡流には珍らしいほど、屈曲の少なかつた天竜川は、こゝで急な瀬と、深い淵を挟んで、大屈曲をしてゐる、崖は漆喰で固めたように、石を揷みつけ、それに根を下した紅葉の一枝が、紅を潮してゐる、日は少し西へ廻つたと見えて、崖の影、峯巒の影を、深潭に涵してゐる、和知川が西の方からてら〳〵と河原を蜒つて、天竜川へ落ち合ふ。
両岸が円い石を束ねて、水はその中に狭められて流れてゐる、白壁の土蔵が、柳の樹の間から、ちらほら見える、船からは、酒樽を渚のほとりへ揚げ、船頭が口へ手を当てゝ、オーイと呼ぶ、岸の上から人が覗いて、何か言つてゐる、船頭は今朝の女から、言伝つた手紙を、樽の上へそつと置き、小石を重石代りに乗つけて、又船を川中へ押しやろうとすると、河原について、瀬が浅いので、がりがり言ふばかりで、動かない、二条の細引を舳先に括りつけ、二人して水の中へ入りながら、深いところまで船をおびき出して、動き調子がついたときに、手繰りながら船に躍り込む。
川はS字状に屈曲して、浅瀬と深淵と落ち合つて「捨粟の大曲り」を行く、左岸の峯は雲つくばかりに立ち上り、日の光も森にかくれて、燻んだやうに暗く、森の中には、枯木が巨大な動物の骨のやうに、散乱してゐる、崖から庇のやうに突き出た大石の上には、大木が根ぐるみ乗りかけてゐる、冷たい風が、川水を吹いて、裾から腋の下、背から襟へと、駈けめぐつて、そこら中をくすぐつて、振り返る姿を川波に残して、通りぬける。石から石の上を飛びめぐる鶺鴒と筋交ひに、舟は両崖の迫つた間の急湍を、櫂を休めて悠々と乗つ切る、川には筏に組む材木が漂ひながら岩に堰かれてゐる、王子製紙会社の紙の原料で、中部の支社で、製するのだといふ。
右岸から和田川を併せて、船はこよひの泊りの満島の土堤を仰ぎ、高い岸には屏風に張り交ぜた色紙のやうな畑を見るやうになつた、ふと眼の前にそゝり立つ大きな岩に、吸ひつけられさうになつて、櫂を斜に構へ、岩の根をコヂリ上げるやうにして、やつと放れたが、岩石が目まぐるしく多くなり、灘が急になつて、村とはいへ、船着きがよくない、やうやく船を纜つて、私は船頭におぶはれて、岸に着いた。
白い土蔵が、山腹に見えて、水車がゴト〳〵舂づいてゐる、鶏が餌を捜してクッ〳〵啼いてゐる、傾斜のゆるい坂路の村の中には、荒物屋があつて、夾竹桃の花が、その庭に真ツ赤に咲いてゐる、導かれたのは村長で、旅宿屋を兼ねた田村為輔といふ人の宅で、離れ二階の広い座敷へ通された、良材を惜しげなく使つた建築で、畳も新しく、床の間には、七宝焼の瓶に、美しい草花が投げ込まれ、鹿の角の飾物や、金蒔絵の硯箱が置かれてある、静かな庭には、杉や、棕櫚や、柳のしなやかな枝振りなどが、今までの動揺した気分を鎮めてくれる、それに天竜川は深く落ち込んでゐるので、もう二階からは見えない、浴衣に着換へ、欄に倚つてると、屋の背には、峯を負ひ、眼の下には石を載せた板葺家根が、階段のやうに重なつて、空地には唐もろこしを縁に取つた桑畑が見える、苗代田が青く光つて、水はその間を、縦横に流れてゐる。
谷の中が、黄な臭いやうに、ボーッと明るくなつたとおもふと、高い空を浮ぶ雲が、夕日を受けて、鈍い朱に染まつた、蜩が、時間を一秒一秒刻み込んで、谷の中へ追ひ込んでゆくやうに、キ、キ、キと啼き落す、杉林の一本々々の樹が、どちらから寄るともなく、塊まつて、黒い法師のやうになつて、囁き合つてゐる。
夜になると、こつちの岸と、向うの岸の半腹に、燈火が螢火のやうについて、神寂びた寺院の廻廊か、大森林の秘奥にともす法燈でもあるかのやうに、ひつそり閑となつて、その間に薬研のやうな天竜の大峡谷があるともおもはれない。
三
朝霧が山村を罩めて、鶏の声が、霧の底から聞える、黄色い南瓜の花に、まだ夢が残つてゐるかして、寝惚けた姿をしだらなく大地に投げ出してゐる、ぼツと白壁が明るくなる、森がうつすらと、烟つぽい緑を、向うの山の懐に、だんだら、染めに浮かせる、起き上つて支度をする頃は、方々の家から、軽い炊煙が立ちはじめた。
昨日は時又から、この村まで八里の間を、荷船に便乗したのであるが、その船はもう南へは下らないので、特別に一艘仕立てさせ、西の渡まで、九里の間を下すことにした、高価を払つて買ひ切りにしたのであつたが、船へ来て見ると、旅商人が二人、ちやんと乗つてゐる、のみならず人の行李、鍋、釜、白樺の皮(薪材)まで、幅を利かせて積み込んである、山間の船頭には、昔の雲助のやうな、押の強い風が残つてゐて、買ひ切りであらうが、何であらうが、一人でも余計に乗せて、賃銭を取れゝば取り得としてゐる、併し先を急ぐ旅であるのと、重荷をしよつた旅商人に、苦労をさせるでもなからうと思つて、強ひて咎め立てもしなかつた。
満島を放れるころ、朝日が東山の端を放れ、水の光が艶をもつて、石の傍を白くちよろ〳〵走るのが、魚のやうである、ふと見ると、西岸は日光を浴びて、樹の影が水に落ち、とろりと澄んだ濃藍の長瀞に、樹の梢は、すくすくと延び上つて、水鏡をしてゐる、川はひつそりと音もなく、蒸々と立ちのぼる峡谷の朝霧の底を、櫓の音が、ギイギイと静かにひゞく、森の下蔭を通りぬけ、浅瀬の上を乗越して、信州から遠州境へ近くなつて来た。
ふり仰げば、北方の緑に包まれた山々は、遠山川が深く侵蝕してゐるために、谷の通路に当るところだけが切り靡けたやうに低く開けて、北東に日本南アルプスの大主系赤石山脈の、そゝり立つ鋼鉄の大壁、夏を下界に封じて、天上の高寒は、はや冬のやうに、透明凛烈の青みどろに澄みわたり、乾きわたつてゐる虚無の中に、鋭角線を引き飛ばして、強い鋼筆で、透明な硝子板に傷をつけたやうに、劃然と大波を打つてゐる。
左岸に鶯巣の山村を眺めながら、いつしかこの地方特有の領家片岩の露出区域に、峡流を南へ南へと導いて、水神の大滝にかゝる、渦と渦とが、ぐるぐるめぐりに噛み合ひ、大気を含んだ透明の泡が花弁のやうに、むらむらと水底から湧きあがり、白く尖つた波が、ざわざわと鱗光りに光る中を、櫂を休めた船は、爬虫類のやうに、濡れ色になつて、するりと乗り上げては、ついと下る、一方は石で、一方は水、急潮と静流が、衝き当り、波頂と波底との両方の点の間に、凹み谷が出来て、平坦の波紋が、網を打つたやうに、のんびりとひろがり、それを中心にして、周囲から白い尖波が、爪立つやうに小刻みに擦り寄つて、二三尺の高さの、小さい夕立となつて、水柱がザアと音して、頽れ落ちる、その中を蹴立てる船の姿は、沙漠を走る駝鳥のやうで、乗つてゐる私の頭の中では、せゝらぐ水につれて千本の小さい針が、さらさらと揉み合つてゐる。
えいえい声に切り抜けると、小沢の急灘が待ち設けてゐる、白い旋波が、上下運動を起して、岩石を乗り越え、二三尺も裳裾を引いて、跳舞する中を、船は舳を垂れるやうにして乗り入れると、遁さじものと、船に添つて大浪の走ること、一反二反と、液体の自由の蜿りが、白蛇のやうに執念くも纒ひつき、逆流する波の速度と、正航する船の速度とが、一つに触れて、船は波頂の間に動揺するところを、黄蝶がふはりと舞ひ出で、波頭を掠めるばかりに低く水に影を映して、又ひらりと飛んでゆく。
眼の前を走りゆく両岸の光景は、川楊が押し流されて、河原へ仆れてゐる……葛の二ツ葉の細い蔓が、大石の上を捲いて、一端が川に垂れかゝつて、又反曲して空を握まうとしてゐる……崖の庇石には、ツツジが生えてゐる、川へ転げた石には、青苔がべツたりこびりついて、蘭科植物が、うつすらと生えてゐる……と見る間に、天竜川第一の難所と呼ばれた新滝の荒瀬にかゝると、川とは言へない大波が、むつくり起き上つて、鞺鞳たる海潮音のやうに鳴りはためき、船は石と石との間に挟みつけられ、右巻左巻の大波小波の中で、押進の力を失ひ、漏斗の形をした中央の滅り込んだ波の底に落ちて、胴中から両断されるかと、冷いやりさせたが、さすがに海底と違つて、吸引力の無い浅瀬だから、又吐き出され、浮び上つて、ほつと一息吐いたかとおもふと、二三反するすると押し流された。それからしばらくは水の静けさ!
こゝなる東岸は、福島といつて、さしも日本のパミ-ル高原、本州を横断する日本アルプスの雪山があるために、日本の屋棟の中心となつてゐる信州の、最南点であり、最低地点でもある、海面からは僅かに二百米突の高さで、西岸は三河との、東岸は遠江との境界になつてゐる、船頭どもは、こゝまで来て、大役を済ませたやうに、帯締め直し、身を舷側にはみ出して、身体の重量で、船を一方に傾斜させ、閼伽水を酌み出して、船を軽くさせる。
福島からは略ぼ直流して来た川も、佐太と粟代とで、二回の屈曲をする、その間の高瀬では、川浪が白馬の鬣を振ひながら、船の中へ闖入して来た。水球が散弾のやうに炸裂し、霧だらけになつたが、舟は身を反らして、辷るやうに乗り越える、山国の信州を出たといふことが、直ぐにも平地か、海岸へ到着するやうに、思はせたが、そゝり立つ崖は、次第に高くなつて、水面との距離が遠くなり、石は海豚のやうに、丸い背を出し、重なり合つて水にひたつてゐる、峡谷が大きくふくれて、崖の上には、杉林がこんもりと茂つてゐるかとおもへば、赤松が直射する烈日の下で、熱病でも煩つたやうに、皮膚が焦げてひよろ〳〵と立つてゐる。平原の地平線も見えず、海の水平線も見えないから、体力にも魂にも休養のないやうに、水と船とは、同一の方向に連続運動をつゞけてゐる、空を見上げると、鋼線が両方の岸に張りわたして「もつこ」に入れた荷物が、揺られながら宙乗りをしてゐる、片肌を脱いで渡舟に腰をかけてゐる渡し守の老人がゐる、あの人はああやつて、川添ひの柳のやうに、一日水ばかり見て暮らしてゐるのだらうか。
大谷、河内などいふ山村を、西岸に見たが、未だ人の町へは遠い、川水は肩で呼吸をするやうに、ゴホゴホと咳きあげて、大泊門の急灘にかゝる、峡谷は一層に狭くなり、波の山が紫陽花のやうに、むらむらと塊まつて、頭を白く尖らして、側から側から隆起する、船は馬の背を分けるやうにその間を通行して、ふりかへれば、雲のくづれるやうな水の爆声を聞く、長灘だの、大瀬だのを、乱濤の間に通り抜けて、イオリが滝へかゝると、峡谷は蹙まつて、水は大振動を起した、遠くの空には高い峯々が、天を衝いて、ぐるぐると眼の前を回転する、崖の上からは、石が覗いて、峯の上へは白銀の雲が、鶏冠立ちに突つ立ち上つて、澄みわたつた深淵の空を掻き乱してゐる、長い峡流に、村落もなければ、人家もない、時々色の黒い土人が、裸で鳶口をかつぎながら、胸まで水にひたつて、漂流する材木を、掻き寄せてゐるのを見るばかりである。
上り船が一隻、三人の船頭が、崖の下をしがみつくやうにして、綱を肩にして引き上げ、一人が棹を弓のように撓はせて、遅々として水に逆つて来たが、私の乗つてる船と、行き違はうとして、ひどい波におつかぶせられ、向うもこつちも、ヅブ濡れになつて、両方の船が、急な角度で傾斜した、向うの船頭がポツリと黒い点になつて、乱濤の間に小さく立つてゐる、振り返ると、もう船も人も、影も形も見えずに打捨てられた、波は白い生毛のやうに、微かに彫刻した象牙のやうに、柔らかく泡立つて、大石の下の窪みに、逆さに落ちて、渦を巻き、反流を起したかとおもふと、波浪の特質の前進運動を沮められて、船はあふりを喰ひ、一二度振り廻される、「何しろ山室の滝せえつて、遠州一の難所だあね」と船頭は後で話した。
灘をこえて、水が静かになると、両方の岸を見廻すだけの余裕が出てくる、河原には材木を伐り出す小舎がある、岩石は上流の花崗岩と違つて、小さな褶曲や白や褐色の岩脈が、横に帯をしめたやうな、筋を入れたのが、美しく見える。
湯島大屈曲をしてからは、松島から中部まで、直下といつてもよかつた、東岸には中部の大村があつて、水楊は河原に、青々と茂つてゐる、裸体に炎天よけの絲楯を衣た人足が、筏を結んでゐる、白壁の土蔵が見える、紺の香のするばかりに、新らしく染め抜いた暖簾をかけた荒物屋が、町に見える、積荷はみんなこゝで揚げてしまつて、水洩れの出来た船底には、棕櫚繩をちぎつて、当てがひ、石で叩きこんで修繕をする。
川は中部の村を、包囲するやうに、北の一角だけを残して、三方を絎け、もう大分開けた河原の中を流れる、「豆こぼし」といふ灘は、水が急なので、二挺の櫂を一つに合せ、船頭二人の力をこめて取り縋るやうにして、漕いだが、それでも東岸には、一髪の道が通じて、旅人が通つてゐるのが、ふり仰がれる、その上に青緑の山は高くそびえ、川は勾配を急に、杉の培養林のある山を匝る、久根の銅山が見えて、その銅山を中心に生活してゐる人たちの家が、重なり合つて、崖腹に巣を喰つてゐる。
西の渡の簇々とした人家を崖の上に仰いで、船を着けた、満島からこゝまで九里の間を、三時間半。
糀屋といふ旅籠屋に、草鞋を釈いて中食を済ました、天竜川もこゝからは、先づ下流の姿になるので、交通もしげくなり、下り船も、毎日便宜がある、船を乗り替へるため、暫らく川に臨んだ茶屋で、時間を待つてゐると、八反帆を南風に孕ませた上り船が、白地に赤く目じるしを縫ひつけて、二帆三帆と、追つかけ追つかけ、上つて来る、久根銅山から、銅を積み出すために、来るのだといふ、さうしてその帆には、太平洋の海気と塩分が、一杯に含まれてゐる、南へ来たのだ、太平洋が近くなつたのだ、桔梗色の黒汐が走る八重の海路が、川の出口に横たはつてゐるのも、もう遠くはあるまい、日本アルプスおろしの北風は、冬でももう、この地までは来ない、私は山から遁れた、たしかに遁れた、しかしながら私は、恋々として悲壮の谷なる天竜川の上流を、振り返り、振り返り見ることなくして、次ぎに出る客船には乗れなかつた。
底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「現代日本文学全集 第36巻」改造社
1929(昭和4)年8月
※巻末に「1914(大正3年7月)記」の記載あり。
※「ツ」と「ッ」の混在は底本通りとしました。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2003年5月18日作成
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