政治の論理と人間の論理
三木清



 トハチェフスキー元帥らの銃殺および最近ソヴェートにおける清党工作は世界を驚かせた。元来この事件についてはいまだ正確な事実を知り得ず、伝えられることの多くは臆測の要素を含み、あるいは何らかの為めにする宣伝ですらあるようである。したがってこの事件に対する我々の批評も、単なる感想にとどまらざるを得ない。

 この事件によってソヴェート政権および赤軍が脆弱ぜいじゃくになったとは考えられないであろう。もちろん、かような事件が起ったということは、そこに何らかの弱点が存在していたことを証しているに違いない。しかし他方その弱点がこの事件によって救治され、かの国の政治上ならびに軍事上の体制はかえって強化されたという推測も成り立ち得るのである。かような荒療治をともかく強行し得るということ自体がすでにスターリン政権とソヴェートの統一との鞏固きょうこさを示しているといい得る。スターリンが徹底的な現実家であることは衆評の一致するところである。彼は決して夢想や空想によってこの大弾圧を行なったのでなかろうし、そしてこれを行なう以上、十分に自信があって行なったに相違ないと考えられるから、今度の事件の結果スターリン政権は強化したとも想像し得るのである。しかし同時に現実家のスターリンがかように思い切った弾圧を行なわねばならなかった限り、従来の体制に弱点ないし欠陥が含まれていたということも蔽い難い事実であるように思われる。

 ところで我々はこの弱点ないし欠陥が単にソヴェートの国内的関係に存したと考えることができない。そこには対外的に重要な事情があったはずである。すなわち現在ソヴェートをめぐる国際関係の緊張によってソヴェート自身も余儀なくされているいわゆる準戦時体制の強化の必要から、今度のような粛軍および清党工作が行なわれねばならなかったと見ることができる。したがってそれは国内的必要からというよりも対外的必要から行なわれたのであり、言い換えれば、その犠牲者は直接には社会主義建設に対する裏切りのためにというよりも、ファシスト諸国によってソヴェート自身が強要された準戦時体制の強化に対する障碍として犠牲にされたものである。もちろん、ソヴェートにおいてはこの準戦時体制の強化も間接には社会主義擁護の目的をもっているのであるが、しかし直接には準戦時体制と社会主義とは一致するものではなかろう。政治の固い論理が犠牲を要求したのである。しかも、もしこの犠牲の責任を問うとすれば、間接には世界のファシスト諸国にも責任があるといい得るであろう。

 我々が知りたいのは、ソヴェート民衆が今度のような事件をいかに考えているかということであるが、それも言論の統制が完全に行なわれている国においては不可能なことである。革命以後すでに多くの歳月を経ているのであるから、教育の力によって、我々にはそのまま受取ることのできぬ政府の説明をもそのまま受取って安心しているように見える。どのような制度でも、一定の期間以上存続すると、その間にすべての人間をその制度に適したように作りかえることによって、維持力をいわば加速度的に増して来るものである。この点からいっても、今度の事件のためにソヴェート政権に大きな動揺が生ずるとは想像されない。

 右は政治の論理である。しかしいずれにしても、革命の功労者の多数が次から次へ倒されてゆくのを見ては、我々は政治の論理の非情性を思わずにはいられない。我々のヒューマニスティックな感情はそこになにか忍び難いもの、反発するものを感じるのである。個人は社会のために存在するというだけでは済まされない。ヒューマニズムの論理は政治の論理に一致し難いものがあり、そこに歴史の悲劇というものが考えられる。この悲劇はもとより単にソヴェートにおいてのみでなく、世界の到るところにおいて、過去および現在にわたって、見られることである。オプティミスティックな政治主義が考えるように、簡単にこの悲劇がなくなるとは想像され得ず、かえって悲劇は歴史の本質であるように思われる。政治の論理と人間の論理との一致を理想として歴史は限りなく悲劇を繰り返しつつ進んでゆく。ジードの『ソヴェート旅行記』のごとき、まさにそのことを示している。

 今日の世界の不幸は独裁政治であるというよりも政治の独裁である。独裁政治はむしろ政治の独裁の一つの形態である。戦争の危機を前にして政治の独裁は強化されるばかりである。かような政治の独裁が制御されねばならぬ、政治の独裁に対する批判的な力が強化されなければならない。言い換えれば、人間の論理、ヒューマニズムの論理が政治に対する批判的な力とし強化されて現われることが大切である。人間存在の政治的性格のみが力説されて来たのに対してその超政治的性格が力説されねばならぬ。一つの政治を他の政治によって批判するのみでは政治の論理の独裁はやまない。政治の論理に対する人間の論理の批判がなくなる場合、政治は狂気になるであろう。

(『セルパン』一九三七年八月号)

底本:「現代日本思想大系 33」筑摩書房

   1966(昭和41)年530日初版発行

   1975(昭和50)年530日初版第14

初出:「セルパン」

   1937(昭和12)年8月号

入力:文子

校正:川山隆

2007年218日作成

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