自己を中心に
三木清



 まだ迷いはなかなか無くならないが、迷いながらもやや安心していられる年齢に私も達したように思う。

 人生の上でも、仕事の上でも、私はすでに多くのことを経験してきた。そして翻って考えるとき、私はやはり自分自身に還り、その上に腰を据えてやってゆくのほかないと思う。自分を中心にして仕事をしてゆくこと、それがけっきょく社会のために尽くすことになるのだと考える。自分というものを抽象して社会はないはずである。

 わが長期建設策はと問われて、私の答えていいたいのは、この自分自身に還って仕事をするということである。まず主体を確立するということが、長期建設の要件でなければならぬ。四囲の事情にただ引摺られていては長期建設はできない。自分で自分の仕事の設計をするという自主性を取り戻すことが今の私には特に必要である。

 しかし事実としては、外部からの強制がないと仕事はなかなかできないものだ。そこで私は雑誌連載という形式を選んでみたのである。『思想』に連載中の「構想力の論理」、『文学界』に書いている「人生論ノート」、それから新たに『知性』に書き始めた「哲学ノート」。今年はこれら三つの連載物をなるべく休まないで書き続けてゆくということがまず私の仕事である。わが長期建設策はさしあたりそこらにある。『構想力の論理』第一巻は、これまで書いた分を訂正増補して近々出版することになっている。全部で三巻になる予定であるが、これが完成すれば私の仕事にも多少基礎ができることになると思う。

 ドイツで下宿していたとき、当時ドクトル論文を書いていた宿の主人が私に向って、貴方は幾センチ本を書くつもりかと尋ねたことがある。それは分厚な本を嘲笑した冗談であったが、しかし分量も大切であると思う。ゲーテの全集など、いったい幾センチあるであろうか。大きな本を持ったときのどっしりした重み、あれはなかなか軽蔑することができないものだ。はやい話が、本屋の店頭にいろいろな雑誌が並んでいる場合、その積んだ高さが我々に対して大いに物を言うのである。自分の能力を小出しにしないようにすることが長期建設の要件でなければならぬ。同じ百円でも、これを小銭にくずして使っていては何ひとつまとまった物を買わないで浪費してしまうことになる。自分の才能を浪費しないようにすることが大切である。

 この数年来私はほとんど単行本を出していない。今年は単行本中心に仕事をしていって、せめて約束してあるものだけでも片づけねばならないと思っている。昨年は書き卸し長篇小説がだいぶん出たようであるが、長篇評論とか書き卸し評論とかということも年来いわれていることであって、しかもこの方はあまり実行されないのは何故であろうか。長篇に固有な滲透性について評論家も思想家も考えねばならぬ。

 わが長期建設策としてひとつの希望を述べるならば、それは民間アカデミズムというべきものを形成発展させることである。それはもちろん官学的ないし講壇的アカデミズムのようなものではない。わが国の文化史を見れば、民間アカデミズムは、たとえば徳川時代の儒者の間にも国学者の間にも存在したもので、それがかえってその時代の真のアカデミズムであった。今日官学や講壇のアカデミズムの頽廃が見られるとき、民間アカデミズムの擡頭こそわが国の文化の発達にとって重要な意義を有するものではなかろうか。

(『都新聞』一九三九年一月九日)

底本:「現代日本思想大系 33」筑摩書房

   1966(昭和41)年530日初版発行

   1975(昭和50)年530日初版第14

初出:「都新聞」

   1939(昭和14)年19

入力:文子

校正:川山隆

2007年13日作成

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